2019/11/02 - 2019/11/02
768位(同エリア1670件中)
滝山氏照さん
富山城(とやまじょう、富山県富山市本丸)は天文元年(1532)に神保氏の家臣である水越勝重(みずこし・かつしげ)が築城したとされ、その後天文12年(1543)越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼ・ながもと)が入城し自らの本拠とし、他方越中東部影響下に置いた越後の雄上杉謙信が越中西部進出のため富山城攻略を計り、双方で激しい戦いを展開します。
天正9年(1581)、織田信長が当地を侵出後は重臣の佐々成政(さっさ・なりまさ、1536~1588)が入城し城郭を大改修して上杉氏を越後に追いやり越中を平定します。しかしながら羽柴秀吉の北陸進出に伴い成政は臣下となります。
天正15年(1587)成政は九州征伐で戦功挙げ秀吉より肥後国を与えられますが、性急な検地実施に反発した国人らの蜂起を自力で制圧できず周辺の大名の支援を仰がざるを得なくなります。
ようやく反乱国人ら抑えたものの秀吉より統治責任を問われ、これに対し謝罪のため大坂に赴きますが面会を拒否、そして尼崎に幽閉され、後に切腹の命を受け天正16年(1588)同地にて自刃に至ります。
滞在時間短く模擬天守閣に登ることができませんでしたが窓口で入手したパンフレットには次の通り説明がありました。
富山城ものがたり
「中世 天文12年(1543)、神保長職によって築かれた富山城。そして、富山城をめぐり繰り広げられる一向一揆政勢や、上杉謙信、武田信玄ら戦国武将たちの攻防。織田信長の家臣として入城した佐々成政。天正13年(1585)、豊臣秀吉の討伐をうけ、破却された富山城。中世の富山城は、築城以来、様々な勢力の争奪の場でした。
近世 近世富山城を整備した前田利長。大火で焼失した後、元和元年(1615)の一国一城令により一旦廃城。寛永16年(1639)の富山藩分藩に伴い、初代藩主前田利次が入城。その後、明治時代に至るまで、富山前田家13代の居城となった富山城。江戸時代後期に築造された千歳御前。近世の富山城は、藩政の中心として整備が進められました。
近現代 明治6年(1873)に廃城となった富山城。その後、解体と同時に新たな街並みへと変貌を遂げていった富山城。戦災復興のシンボルとして建設された天守閣。富山城跡の中心市街地への変化は、富山市の近代化を象徴するものです。」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス ANAグループ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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富山城(全景)
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富山城(近景)
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富山城・石垣
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富山城・堀と石垣
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「富山城址新旧比較図」説明板
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「富山の街に江戸時代を探す」説明板
「 富山の町に江戸時代を探す
富山市の中心市街地にある富山城は、富山藩前田家の居城でした。現在は、富山城址公園として整備され、城の遺構は、石垣や内堀の一部のほか移設された千歳御門が残っています。天守閣は戦後復興のシンボルとして建設されたもので、郷土博物館となっています。
城下は昭和20年の空襲でほぼ焼失しましたが、藩主が厚く崇敬した日枝神社、菅原道真や売薬の祖前田正甫を祀る於保多神社、梅沢町の寺院群、売薬資料などに当時を偲ぶことができます。
富山市教育委員会
とやまの文化遺産魅力発信事業実行委員会 」 -
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富山城
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富山城・枡形
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富山城・鏡石
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富山城・枡形
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「富山城の石垣について」説明板(全景)
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「富山城の石垣について」説明板(近景)
「 富山城の石垣について
富山城の石垣は、富山を隠居の地とした加賀藩第二代藩主前田利長が、慶長10年(1605)以降に整備した石垣がはじまりと考えられています。その後、江戸時代前期の寛文元年(1661)以降に、富山藩初代前田利次が改修し、現在見られる石垣となっています。
富山城は土塁主体の城郭であり、石垣は、城内中枢部を守る鉄門、搦手門、二階櫓門(現存せず)の三ケ所に築かれていました。現存する石垣は、富山県内の早月川や常願寺川産の玉石などを割って使用したり、あるいはそのままの形の石が、「野面積み」技法で積まれています。それらは、石の丸い面を表に向けていることが特徴です。また、石と石との隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。ただし、鉄門の内枡形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」技法の部分もみられています。また石垣の内部は、外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。
富山城に石垣の特徴として、鉄門内枡形の鏡石をあげることができます。鏡石とは、石垣の石材の中でも特に巨大な石を指し、設置目的については、城主の権力を見せつけるためなど、いくつかの理由があげられています。富山城の場合、慶長期の整備の際に供えられ、寛文期の改修の際、現状のように配置したと見られています。」 -
「城址公園」見取図
公園となった現在の富山城跡見取図が張り出されています。 -
富山城
内部は郷土博物館となっています。時間の都合で見学を見送りました。 -
「富山城石垣の石材を見てみよう」説明図
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千歳御門(埋門)
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千歳御門(埋門)説明板
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「野面積み」説明板
「 野 面 積 み
「野面積み」とは自然石を石垣とした積み方です。富山城では、河川の玉石の丸い面を残していることが特徴です。石と石の隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。
鉄門の内枡形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」の部分もみられ、巨石の雄大さを演出しています。石垣の内部は、外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。鉄門石垣の通路面以外は、明治初め頃大きく積み直されたことが発掘調査からわかりました。
富山市教育委員会 」
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「千歳御門(埋門)」説明板
「 市指定文化財(建造物)
千 歳 御 門 (埋 門)
富山藩十代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿(現、桜木町に所在)の正門で、嘉永2年(1849)に建築されました。当時は、下図(掲載略)に示すとおり城址大通りの東側に位置していました。
総欅造りの三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、桁行6メートル、梁間1.9メートルになります。同一建築様式の城門は「東大の赤門」として知られる旧加賀屋敷御守殿門(国重要文化財・東京都文京区)など数少ないことから、県内はもとより全国的にみても貴重な江戸時代の城門です。
この門は、明治時代初期に赤祖父家に移されました。その後、富山市が所有者から寄付をうけ、平成18年から20年にかけて城址公園内に移築しました。
富山城で唯一現存する千歳御殿の創建当初の建造物です。江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知るうえで価値が高く、平成20年10月29日に指定されました。
富山城や千歳御殿に関する展示は、郷土博物館で行っています。
平成24年12月
富山市教育委員会 」 -
千歳御門(埋門)拡大図
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千歳御門(埋門)
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庭園
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庭園
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富山城(郷土博物館)
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富山藩二代藩主前田正甫(まえだ・まさとし)銅像
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富山藩二代藩主前田正甫銅像(近景)
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前田正甫像・説明板
「 富山藩第二藩主 前田正甫像
ー 売薬を花開かせたお殿様 ー
前田正甫 1649生~1706没
[藩主在任: 1674~1706}
富山藩第二藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、反省の充実に力を注ぎました。正甫本人は小銭収集家という文化人としての性格も知られています。
正甫は富山売薬の基礎をを築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。元禄3(1690)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめとところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」としていまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は昭和29(1954)年に建てらました。原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ10mに及びます。
富山市 」 -
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城址公園・芝生広場
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城址公園・芝生広場
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堀
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堀
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