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金沢城(かなざわじょう、石川県金沢市丸の内)の前身は加賀一向一揆の拠点となった尾山御坊で、天文15年(1546)本丸一帯に大坂本願寺の支防として創建されたといわれています。<br /><br />織田信長時代に入ると北陸方面軍司令官である宿老柴田勝家(しばた・かついえ、1522~1583)の加賀攻略の一環により勝家甥の佐久間盛政(さくま・もりまさ、1554~1583)が当該御坊を攻撃し陥落させ、その跡地に築城し初代金沢城主となります。<br /><br />天正10年(1582)、本能寺の変にて信長横死。その後は明智光秀を倒した羽柴秀吉と勝家の後継者争いが激化、遂に勝家を北ノ庄にて自決に追い込んだ秀吉の勝利となり、勝家与力ながら秀吉側についた前田利家(まえだ・としいえ、1539~1599)が当地を支配することになり、越中・能登を加えた120万石を象徴する城塞として前田家の発展を背景に以降城域の拡大充実を重ねることになります。<br /><br /><br /><br />2023年2月15日追記<br /><br />金沢公園と題する説明書には下記の通り紹介されています。<br /><br />『 金 沢 城 公 園<br /><br />天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。<br /><br />キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導を仰いだと伝えられています。<br /><br />西丁口から尾坂口へと大手が変更されたのもこの頃です。<br /><br />しかし、当時は城内に重臣たちの屋敷があり、決して広い城ではありませんでした。<br /><br />慶長7(1602)年、落雷により天守が焼失した後、天守は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられました。<br /><br />寛永8(1631)年の火災の後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化するなかで、武家屋敷も城外へと出されました。<br /><br />内堀を掘り、土をかき上げて各曲輪が区画されていきました。<br /><br />宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失しました。<br />その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。<br /><br />細工所が新丸から堂形へ移されたのもこの時期です。現存する石川門は、この後天明8(1788)年に再建されたものです。<br /><br />平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災後の後再建され、明治14(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。』

加賀金沢 一泊二日のあわただしい北陸城郭散策 16世紀中葉に創建の金沢御堂が起源で佐久間盛政が基礎を固め前田利家が発展させた『金沢城』訪問

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2019/11/02 - 2019/11/02

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滝山氏照

滝山氏照さん

金沢城(かなざわじょう、石川県金沢市丸の内)の前身は加賀一向一揆の拠点となった尾山御坊で、天文15年(1546)本丸一帯に大坂本願寺の支防として創建されたといわれています。

織田信長時代に入ると北陸方面軍司令官である宿老柴田勝家(しばた・かついえ、1522~1583)の加賀攻略の一環により勝家甥の佐久間盛政(さくま・もりまさ、1554~1583)が当該御坊を攻撃し陥落させ、その跡地に築城し初代金沢城主となります。

天正10年(1582)、本能寺の変にて信長横死。その後は明智光秀を倒した羽柴秀吉と勝家の後継者争いが激化、遂に勝家を北ノ庄にて自決に追い込んだ秀吉の勝利となり、勝家与力ながら秀吉側についた前田利家(まえだ・としいえ、1539~1599)が当地を支配することになり、越中・能登を加えた120万石を象徴する城塞として前田家の発展を背景に以降城域の拡大充実を重ねることになります。



2023年2月15日追記

金沢公園と題する説明書には下記の通り紹介されています。

『 金 沢 城 公 園

天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。

キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導を仰いだと伝えられています。

西丁口から尾坂口へと大手が変更されたのもこの頃です。

しかし、当時は城内に重臣たちの屋敷があり、決して広い城ではありませんでした。

慶長7(1602)年、落雷により天守が焼失した後、天守は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられました。

寛永8(1631)年の火災の後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化するなかで、武家屋敷も城外へと出されました。

内堀を掘り、土をかき上げて各曲輪が区画されていきました。

宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失しました。
その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。

細工所が新丸から堂形へ移されたのもこの時期です。現存する石川門は、この後天明8(1788)年に再建されたものです。

平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災後の後再建され、明治14(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。』

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
観光バス JALグループ ANAグループ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 金沢城跡(遠景)<br /><br />バス駐車場を出て兼六園下手前より夕刻の金沢城跡を見上げます。<br />

    金沢城跡(遠景)

    バス駐車場を出て兼六園下手前より夕刻の金沢城跡を見上げます。

  • 石川門・入口<br /><br />兼六園に接する橋手前より石川門を窺います。

    石川門・入口

    兼六園に接する橋手前より石川門を窺います。

  • 「金沢城公園」説明板<br /><br /><br /><br />「 金 沢 城 公 園<br /><br />金沢城は、加賀一向一揆の本拠地、金沢御堂としての時代や佐久間盛政の居城した時代を経て、天正11年(1583)の前田利家入城後は加賀藩主前田家の居城として本格的に建造が行われた。<br /><br />天守閣は慶長7年(1602)の落雷による焼失後は再建されなかったが、櫓の数は多い時では二十棟を数えたといわれ、鉛瓦や海鼠塀が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の威容を誇ったと伝えられている。<br /><br />明治期には兵部省、昭和期には金沢大学が置かれ、現在は金沢城公園として整備されている。」

    「金沢城公園」説明板



    「 金 沢 城 公 園

    金沢城は、加賀一向一揆の本拠地、金沢御堂としての時代や佐久間盛政の居城した時代を経て、天正11年(1583)の前田利家入城後は加賀藩主前田家の居城として本格的に建造が行われた。

    天守閣は慶長7年(1602)の落雷による焼失後は再建されなかったが、櫓の数は多い時では二十棟を数えたといわれ、鉛瓦や海鼠塀が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の威容を誇ったと伝えられている。

    明治期には兵部省、昭和期には金沢大学が置かれ、現在は金沢城公園として整備されている。」

  • お城通り<br /><br />石川橋より眼下のお城通りを見下ろします。

    お城通り

    石川橋より眼下のお城通りを見下ろします。

  • 石川橋<br /><br />隣接する兼六公園に近いとあって見学者の混雑ぶりは夕方でも絶えません。

    石川橋

    隣接する兼六公園に近いとあって見学者の混雑ぶりは夕方でも絶えません。

  • お城通り

    お城通り

  • 石川門石垣

    石川門石垣

  • 石川櫓<br /><br />石川門の脇には石川櫓が配されています。

    石川櫓

    石川門の脇には石川櫓が配されています。

  • 「石川門」説明板<br /><br />橋爪門及び河北門と共に「金沢城三御門」と称される重要文化財となっています。

    「石川門」説明板

    橋爪門及び河北門と共に「金沢城三御門」と称される重要文化財となっています。

  • 石川門・枡形<br /><br />同一場所において石積み方法が異なって珍しい光景です。画面右側が「切石積み」(切込はぎ)で左側が「粗加工石積」(打込はぎ)と紹介され、明和2年(1756)の改修時のものと考えられています。<br />

    石川門・枡形

    同一場所において石積み方法が異なって珍しい光景です。画面右側が「切石積み」(切込はぎ)で左側が「粗加工石積」(打込はぎ)と紹介され、明和2年(1756)の改修時のものと考えられています。

  • 石川門(重要文化財)<br /><br />金沢城の搦手(裏口)門になり、金沢城三御門のひとつになっています。

    石川門(重要文化財)

    金沢城の搦手(裏口)門になり、金沢城三御門のひとつになっています。

  • 「金沢城・兼六園」説明板

    「金沢城・兼六園」説明板

  • 五十間長屋(全景)

    五十間長屋(全景)

  • 五十間長屋

    五十間長屋

  • 「菱櫓・五十間長屋・橋爪門統櫓」説明板

    「菱櫓・五十間長屋・橋爪門統櫓」説明板

  • 橋爪門・入口

    橋爪門・入口

  • 橋爪門入口(近景)

    橋爪門入口(近景)

  • 「橋爪門」説明板<br /><br /><br /><br />「 橋 爪 門 <br /><br />橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備されたニの丸の正門です。高麗門形式の[一の門]、石垣と二重塀で囲まれた[枡形]、櫓門形式のの[ニの門]からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。[石川門]、[河北櫓]とともに[三御門]と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化5年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809)に再建された姿を復元しています。」

    「橋爪門」説明板



    「 橋 爪 門 

    橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備されたニの丸の正門です。高麗門形式の[一の門]、石垣と二重塀で囲まれた[枡形]、櫓門形式のの[ニの門]からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。[石川門]、[河北櫓]とともに[三御門]と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化5年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809)に再建された姿を復元しています。」

  • 桝形

    桝形

  • 桝形

    桝形

  • 「桝形」説明板

    「桝形」説明板

  • 橋爪門

    橋爪門

  • 橋爪門(近景)<br /><br />

    橋爪門(近景)

  • 「橋爪門」説明板

    「橋爪門」説明板

  • 三十間長屋

    三十間長屋

  • 三十間長屋(近景)

    三十間長屋(近景)

  • 「本丸付段~薪ノ丸」説明板<br />

    「本丸付段~薪ノ丸」説明板

  • 鉄(くろがね)門石垣

    鉄(くろがね)門石垣

  • 鉄(くろがね)門石垣説明板

    鉄(くろがね)門石垣説明板

  • 「鉄(くろがね)門」説明板

    「鉄(くろがね)門」説明板

  • 空堀

    空堀

  • 戍亥櫓跡

    戍亥櫓跡

  • 「戍亥櫓跡」説明板

    「戍亥櫓跡」説明板

  • 金沢城跡風景

    金沢城跡風景

  • 金沢城跡風景

    金沢城跡風景

  • 「金沢城の歴史」説明板

    「金沢城の歴史」説明板

  • 「加州金沢之城図」(抜粋)

    「加州金沢之城図」(抜粋)

  • 「金沢城三十間長屋」説明板

    「金沢城三十間長屋」説明板

  • 「二ノ丸~金沢城の中枢~」説明板

    「二ノ丸~金沢城の中枢~」説明板

  • 「二ノ丸御殿」説明板

    「二ノ丸御殿」説明板

  • 三十間長屋・左側

    三十間長屋・左側

  • 三十間長屋・左側

    三十間長屋・左側

  • 河北門<br /><br />石川門並びに橋爪門と共に金沢城三御門と称せられる門となっています。

    河北門

    石川門並びに橋爪門と共に金沢城三御門と称せられる門となっています。

  • 枡形

    枡形

  • 河北門

    河北門

  • 河北門

    河北門

  • 「金沢城跡」説明板

    「金沢城跡」説明板

  • 「金沢城跡」説明板(近景)

    「金沢城跡」説明板(近景)

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