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富山県第2の都市「高岡市」は、1609(慶長14)年に加賀藩主2代 前田利長が高岡城を築き、その城下町として歩みを始めました。しかし、その5年後に利長が急死し、また、一国一城令で廃城となりました。そんな中、利長を継いだ利常は、次々と殖産興業の政策を打ち出し、城下町から商工業の町へと変革させました。<br />高岡の見所には国宝 瑞龍寺や高岡城跡が挙げられますが、悠久の歴史を体感できる古い町並みも魅力です。今回は訪れる機会には恵まれませんでしたが、高岡を語るに不可欠なのが、土蔵造りの重厚な商家が並ぶ「山町筋」と格子窓の町家が軒を連ねる高岡銅器を生んだ鋳物師の町「金屋町」という趣の異なる2の町並みです。<br />そして、もう一つの歴史スポットが勝興寺が佇む伏木エリアです。現在は「令和」を体感できる万葉スポットとしても脚光を浴びており、古代には越中国府が置かれるなど政治・経済の中心として栄え、また、日本海に面した港町や交易の要衝としても発展してきました。近世には北前船で財をなした廻船問屋が多く現れ、往時の繁栄ぶりを偲ばせる町屋や有形文化財に登録された高岡商工会議所伏木支所などの洋風建築が残されています。<br />現在でも伏木港は富山港や富山新港と合わせた「伏木富山港」として環日本海交易の拠点として賑わいを見せています。2011年には、日本海側の「総合的拠点港」に選定された他、「国際会場コンテナ」や「国際フェリー・国際RORO船」及び「外航クルーズ(背後観光地クルーズ)」の3つの機能別拠点港にも選定されています。<br />雲龍山 勝興寺のHPです。<br />https://www.shoukouji.jp/

情緒纏綿 越中富山紀行⑧勝興寺(エピローグ)

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2019/11/10 - 2019/11/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

富山県第2の都市「高岡市」は、1609(慶長14)年に加賀藩主2代 前田利長が高岡城を築き、その城下町として歩みを始めました。しかし、その5年後に利長が急死し、また、一国一城令で廃城となりました。そんな中、利長を継いだ利常は、次々と殖産興業の政策を打ち出し、城下町から商工業の町へと変革させました。
高岡の見所には国宝 瑞龍寺や高岡城跡が挙げられますが、悠久の歴史を体感できる古い町並みも魅力です。今回は訪れる機会には恵まれませんでしたが、高岡を語るに不可欠なのが、土蔵造りの重厚な商家が並ぶ「山町筋」と格子窓の町家が軒を連ねる高岡銅器を生んだ鋳物師の町「金屋町」という趣の異なる2の町並みです。
そして、もう一つの歴史スポットが勝興寺が佇む伏木エリアです。現在は「令和」を体感できる万葉スポットとしても脚光を浴びており、古代には越中国府が置かれるなど政治・経済の中心として栄え、また、日本海に面した港町や交易の要衝としても発展してきました。近世には北前船で財をなした廻船問屋が多く現れ、往時の繁栄ぶりを偲ばせる町屋や有形文化財に登録された高岡商工会議所伏木支所などの洋風建築が残されています。
現在でも伏木港は富山港や富山新港と合わせた「伏木富山港」として環日本海交易の拠点として賑わいを見せています。2011年には、日本海側の「総合的拠点港」に選定された他、「国際会場コンテナ」や「国際フェリー・国際RORO船」及び「外航クルーズ(背後観光地クルーズ)」の3つの機能別拠点港にも選定されています。
雲龍山 勝興寺のHPです。
https://www.shoukouji.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 JR特急
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行
  • 高岡市の日本海側にある伏木古国府城跡の高台に巨大な寺院が悠然と佇みます。地方都市としては破格の規模と格式を誇る歴史都市高岡の至宝「浄土真宗本願寺派 雲龍山 勝興寺」です。京都 本願寺8世 蓮如が、1471(文明3)年に越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現 南砺市福光土山)に結んだ「土山御坊」を縁起とする古刹です。その後、1517(永正14)年に佐渡にあった順徳天皇御願の寺院を再興、相続して「勝興寺」と改称しました。戦国時代には瑞泉寺と並び越中一向一揆の拠点となり、それに乗じて大寺となって中世城郭寺院の威勢を示し、国指定文化財としては8番目の規模を誇ります。<br />戦国時代の複雑な政治情勢の中、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や本願寺、公家などと関係を深めると共に2度の移転後、1584(天正12)年に現地に移りました。藩政時代には加賀藩主 前田氏と関係を深め、越中における浄土真宗の触頭として繁栄しました。<br />約3万㎡の広大な境内にある本堂はじめ12棟の江戸時代中~後期の建造物が重文に指定されています。また、境内は奈良時代の越中国府の所在地であり、国守として5年間赴任した万葉歌人 大伴家持が越中の自然と風土を詠んだ多くの秀歌を『万葉集』に収載しています。<br />現在「平成の大修理」が粛々と行われており、23年間を要する保存修理は2020年秋頃まで続きます。<br />因みに、大修復の終了の暁には、「国宝指定」を目指されています。<br /><br />七不思議の場所を含めた境内マップです。<br />今回は、総門が改修工事中のため、いきなり鼓堂からのスタートです。<br />①実らずの銀杏<br />②天から降った石<br />③水の涸れない池<br />④魔除けの柱<br />⑤雲龍の硯<br />⑥三葉の松(工事のため移動中?)<br />本堂北側の中庭にあるそうですが見当たりませんでした。葉を3枚付ける珍しい松の木です。西洋松は3葉のものが多いのですが、日本の在来種は2葉のため珍しいとされます。今では探しても見つけるのは至難の業で、見つけると極楽浄土に行けると言われています。因みに、高野山の壇上伽藍の「三鈷の松」も3葉の松葉です。<br />⑦屋根を支える猿<br />このマップは、勝興寺のHPにある伽藍配置図に七不思議の場所を追加したものです。<br />https://www.shoukouji.jp/garan.html

    高岡市の日本海側にある伏木古国府城跡の高台に巨大な寺院が悠然と佇みます。地方都市としては破格の規模と格式を誇る歴史都市高岡の至宝「浄土真宗本願寺派 雲龍山 勝興寺」です。京都 本願寺8世 蓮如が、1471(文明3)年に越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現 南砺市福光土山)に結んだ「土山御坊」を縁起とする古刹です。その後、1517(永正14)年に佐渡にあった順徳天皇御願の寺院を再興、相続して「勝興寺」と改称しました。戦国時代には瑞泉寺と並び越中一向一揆の拠点となり、それに乗じて大寺となって中世城郭寺院の威勢を示し、国指定文化財としては8番目の規模を誇ります。
    戦国時代の複雑な政治情勢の中、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や本願寺、公家などと関係を深めると共に2度の移転後、1584(天正12)年に現地に移りました。藩政時代には加賀藩主 前田氏と関係を深め、越中における浄土真宗の触頭として繁栄しました。
    約3万㎡の広大な境内にある本堂はじめ12棟の江戸時代中~後期の建造物が重文に指定されています。また、境内は奈良時代の越中国府の所在地であり、国守として5年間赴任した万葉歌人 大伴家持が越中の自然と風土を詠んだ多くの秀歌を『万葉集』に収載しています。
    現在「平成の大修理」が粛々と行われており、23年間を要する保存修理は2020年秋頃まで続きます。
    因みに、大修復の終了の暁には、「国宝指定」を目指されています。

    七不思議の場所を含めた境内マップです。
    今回は、総門が改修工事中のため、いきなり鼓堂からのスタートです。
    ①実らずの銀杏
    ②天から降った石
    ③水の涸れない池
    ④魔除けの柱
    ⑤雲龍の硯
    ⑥三葉の松(工事のため移動中?)
    本堂北側の中庭にあるそうですが見当たりませんでした。葉を3枚付ける珍しい松の木です。西洋松は3葉のものが多いのですが、日本の在来種は2葉のため珍しいとされます。今では探しても見つけるのは至難の業で、見つけると極楽浄土に行けると言われています。因みに、高野山の壇上伽藍の「三鈷の松」も3葉の松葉です。
    ⑦屋根を支える猿
    このマップは、勝興寺のHPにある伽藍配置図に七不思議の場所を追加したものです。
    https://www.shoukouji.jp/garan.html

  • 鼓堂(重文) <br />総門の先に佇み、掘割に面して建つ、高さ11.1m、7.5m四方、2重2階、入母屋造こけら葺の建物です。1733(享保18)年に宝蔵辺りに建立され、1859(安政6)年に現在地に移築され、その際に桟瓦及び本瓦葺に改修されました。2019年9月末に2年3ヶ月掛かりの保存修理が完了し、創建時のこけら葺で復元されています。<br />太鼓堂とも呼ばれますが、時刻や祭事の合図に鳴らす太鼓は現在は吊るされていません(外構工事などを終える12月頃に2階に上げられる予定だそうです)。<br />また、城郭の櫓に似た外観を持ち、実際に物見櫓として使われたとの伝承もあることから、城郭寺院としての片鱗が窺える興味深い建物です。<br />これで23年掛かりの保存修理は余すところ総門だけとなり、来年(2020年)の秋に完了予定です。

    鼓堂(重文)
    総門の先に佇み、掘割に面して建つ、高さ11.1m、7.5m四方、2重2階、入母屋造こけら葺の建物です。1733(享保18)年に宝蔵辺りに建立され、1859(安政6)年に現在地に移築され、その際に桟瓦及び本瓦葺に改修されました。2019年9月末に2年3ヶ月掛かりの保存修理が完了し、創建時のこけら葺で復元されています。
    太鼓堂とも呼ばれますが、時刻や祭事の合図に鳴らす太鼓は現在は吊るされていません(外構工事などを終える12月頃に2階に上げられる予定だそうです)。
    また、城郭の櫓に似た外観を持ち、実際に物見櫓として使われたとの伝承もあることから、城郭寺院としての片鱗が窺える興味深い建物です。
    これで23年掛かりの保存修理は余すところ総門だけとなり、来年(2020年)の秋に完了予定です。

  • 勝興寺<br />地元では親しみと畏敬の念をもって「ふるこはん」と呼ばれる、浄土真宗本願寺派の県内きっての古刹です。寺基のある地名「古国府(ふるこくふ)」から、「ふるこくふさん→ふるこふさん→ふるこはん」と転訛したと伝わります。 <br />その広大な敷地や門構えは城郭を彷彿とさせます。それは、古代には越中国府が置かれ、戦略上の重要拠点であった越中 古国府城(別名:如意城)跡地を譲り受けて寺院を建立したためであり、中世城郭寺院と呼ばれる由縁でもあります。<br />それ故、境内には城郭を偲ばせる空堀や土塁が残されています。ほぼ方形の境内の周囲には分厚い土塁が巡らされ、特に南と西面の土塁の外側には空堀がよく残されています。

    勝興寺
    地元では親しみと畏敬の念をもって「ふるこはん」と呼ばれる、浄土真宗本願寺派の県内きっての古刹です。寺基のある地名「古国府(ふるこくふ)」から、「ふるこくふさん→ふるこふさん→ふるこはん」と転訛したと伝わります。
    その広大な敷地や門構えは城郭を彷彿とさせます。それは、古代には越中国府が置かれ、戦略上の重要拠点であった越中 古国府城(別名:如意城)跡地を譲り受けて寺院を建立したためであり、中世城郭寺院と呼ばれる由縁でもあります。
    それ故、境内には城郭を偲ばせる空堀や土塁が残されています。ほぼ方形の境内の周囲には分厚い土塁が巡らされ、特に南と西面の土塁の外側には空堀がよく残されています。

  • 唐門(重文)<br />地方寺院としては別格の大きさと壮麗な装飾で存在感を顕わにした、切妻造檜皮葺、前後唐破風造の威風堂々とした四脚門です。<br />2014年まで行われた修復工事により、銅板葺から当初の檜皮葺に復元されています。

    唐門(重文)
    地方寺院としては別格の大きさと壮麗な装飾で存在感を顕わにした、切妻造檜皮葺、前後唐破風造の威風堂々とした四脚門です。
    2014年まで行われた修復工事により、銅板葺から当初の檜皮葺に復元されています。

  • 唐門<br />寺務所から発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子口の箆書きにより、1769(明和6)年に建立された京都堀川 興正寺の唐門の移築と確認されました。因みに、興正寺は西本願寺の末社でした。<br />これにより、興正寺から唐門を買い受け、1893(明治26)年に北前船2艘で運んで現地に基壇獅子口と共に移築したという伝説が裏付けられました。

    唐門
    寺務所から発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子口の箆書きにより、1769(明和6)年に建立された京都堀川 興正寺の唐門の移築と確認されました。因みに、興正寺は西本願寺の末社でした。
    これにより、興正寺から唐門を買い受け、1893(明治26)年に北前船2艘で運んで現地に基壇獅子口と共に移築したという伝説が裏付けられました。

  • 唐門<br />兎の毛通しには華麗な鳳凰が羽ばたきます。<br />金色を呈した飾り金具の修復を請け負ったのは、全国シェア8割を占める地場伝統産業「高岡銅器」の技を有し、創業120年の歴史を誇る鋳造メーカ「㈱平和合金」と地元の職人さんたちです。<br />中央には牡丹紋を擁しています。

    唐門
    兎の毛通しには華麗な鳳凰が羽ばたきます。
    金色を呈した飾り金具の修復を請け負ったのは、全国シェア8割を占める地場伝統産業「高岡銅器」の技を有し、創業120年の歴史を誇る鋳造メーカ「㈱平和合金」と地元の職人さんたちです。
    中央には牡丹紋を擁しています。

  • 唐門<br />扁額には山号「雲龍山」とあります。<br />扁額の下に施された欄間彫刻は迫力に満ちた「雲波龍」です。<br />落款がありますが、読み取れません。<br />

    唐門
    扁額には山号「雲龍山」とあります。
    扁額の下に施された欄間彫刻は迫力に満ちた「雲波龍」です。
    落款がありますが、読み取れません。

  • 唐門<br />西本願寺唐門を代表に、真宗寺院には孔雀の彫刻が多いのが特徴です。<br />孔雀は、コブラなどの毒蛇すらも食す悪食とされ、人の煩悩も食べ尽くして悟りの境地に導いてくれる瑞鳥とされるからです。

    唐門
    西本願寺唐門を代表に、真宗寺院には孔雀の彫刻が多いのが特徴です。
    孔雀は、コブラなどの毒蛇すらも食す悪食とされ、人の煩悩も食べ尽くして悟りの境地に導いてくれる瑞鳥とされるからです。

  • 唐門<br />唐門の彫刻は寛政年間の作品です。勝興寺の本堂の装飾彫刻はほとんどが明治時代末期の作品ですので、江戸時代を偲ぶ貴重な遺構と言えます。<br />

    唐門
    唐門の彫刻は寛政年間の作品です。勝興寺の本堂の装飾彫刻はほとんどが明治時代末期の作品ですので、江戸時代を偲ぶ貴重な遺構と言えます。

  • 唐門 牡丹唐草の腰欄間<br />伏木港を見下ろす高台に築かれた古国府城は、天正年間に越中守山城の出城として神保氏張が築きました。築城年代は不詳ですが、それ以前から城砦があったとも伝わります。氏張は能登の温井氏や長氏との繋がりが強く、反上杉派でもあり、織田軍が越中に侵攻するとそれに味方しました。<br />1583(天正11)年、富山城主 佐々成政が上杉氏や一向宗徒を撃退して越中を制圧すると、氏張は成政に臣従しました。やがて成政が信長の横死後に台頭してきた羽柴秀吉と敵対すると、成政の命により一向宗徒を味方に付ける政略として古国府城を廃城にしてその跡地を勝興寺へ寺基として寄進し、焼き討ちされた末友安養坊から現在地へ寺を移しました。<br />その後、富山の役で成政が秀吉に降伏したことで、越中の戦国時代は幕を下ろしました。その後は越中3郡を拝領した守山城主 前田利長の所領となるも、利長は勝興寺の寺領を安堵しました。かくして、越中における一向一揆勢力の中核であった勝興寺と前田氏との和睦がここに始まった訳です。

    唐門 牡丹唐草の腰欄間
    伏木港を見下ろす高台に築かれた古国府城は、天正年間に越中守山城の出城として神保氏張が築きました。築城年代は不詳ですが、それ以前から城砦があったとも伝わります。氏張は能登の温井氏や長氏との繋がりが強く、反上杉派でもあり、織田軍が越中に侵攻するとそれに味方しました。
    1583(天正11)年、富山城主 佐々成政が上杉氏や一向宗徒を撃退して越中を制圧すると、氏張は成政に臣従しました。やがて成政が信長の横死後に台頭してきた羽柴秀吉と敵対すると、成政の命により一向宗徒を味方に付ける政略として古国府城を廃城にしてその跡地を勝興寺へ寺基として寄進し、焼き討ちされた末友安養坊から現在地へ寺を移しました。
    その後、富山の役で成政が秀吉に降伏したことで、越中の戦国時代は幕を下ろしました。その後は越中3郡を拝領した守山城主 前田利長の所領となるも、利長は勝興寺の寺領を安堵しました。かくして、越中における一向一揆勢力の中核であった勝興寺と前田氏との和睦がここに始まった訳です。

  • 唐門 <br />全体的に木材が太く、どっしりとした安定感があり、牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間、妻飾りの大瓶束の両脇にある笈形等に施された絵様操形や彫刻は江戸時代中期の特徴を残しています。<br />

    唐門
    全体的に木材が太く、どっしりとした安定感があり、牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間、妻飾りの大瓶束の両脇にある笈形等に施された絵様操形や彫刻は江戸時代中期の特徴を残しています。

  • 唐門 <br />扉に施されたのは、「抱牡丹紋(近衛牡丹)」と称される家紋です。「牡丹」を家紋として用いたのは、摂関家の中でも筆頭の近衛家・鷹司家に限られ、鎌倉時代には天皇家の紋章である「菊・桐」に次いで権威ある家紋でした。また、これらの家と縁のある大名家や寺院は、牡丹紋を使うことを許されたそうです。こうした背景から、華園家が京都 興正寺の門主であったことを踏まえると、唐門に施されているのは華園家「抱牡丹紋」と思われます。

    唐門
    扉に施されたのは、「抱牡丹紋(近衛牡丹)」と称される家紋です。「牡丹」を家紋として用いたのは、摂関家の中でも筆頭の近衛家・鷹司家に限られ、鎌倉時代には天皇家の紋章である「菊・桐」に次いで権威ある家紋でした。また、これらの家と縁のある大名家や寺院は、牡丹紋を使うことを許されたそうです。こうした背景から、華園家が京都 興正寺の門主であったことを踏まえると、唐門に施されているのは華園家「抱牡丹紋」と思われます。

  • 唐門 <br />欄間彫刻の裏側にも「雲波龍」です。

    唐門
    欄間彫刻の裏側にも「雲波龍」です。

  • 唐門 <br />孔雀の蟇股の裏側は、唐松です。

    唐門
    孔雀の蟇股の裏側は、唐松です。

  • 唐門 <br />寺の由緒によると、本願寺8世 蓮如が1471(文明3)年に北陸へ向かい、加賀二俣御坊に滞在した後、越中国砺波郡蟹谷庄土山にて一坊を建立した。これが「土山御坊」、後の勝興寺の縁起だとしています。 <br />しかし、蓮如の孫 顕誓の記した『反古裏書』に基づく歴史考証の結果、次のように考えるのが有力です。<br />本願寺6世 巧如の次男 如乗が室町時代に瑞泉寺に下って北陸布教の拠点とし、その如乗が土山に寺院「土山御坊」を建立したのが始まりである。如乗没後、土山御坊は内室 勝如尼の自坊となるも、後に如乗の娘婿で加賀本泉寺を継承した蓮如3男 蓮乗が土山御坊に実弟 蓮誓を迎え、更に瑞泉寺以外の坊主衆を土山御坊の与力とさせた。

    唐門
    寺の由緒によると、本願寺8世 蓮如が1471(文明3)年に北陸へ向かい、加賀二俣御坊に滞在した後、越中国砺波郡蟹谷庄土山にて一坊を建立した。これが「土山御坊」、後の勝興寺の縁起だとしています。
    しかし、蓮如の孫 顕誓の記した『反古裏書』に基づく歴史考証の結果、次のように考えるのが有力です。
    本願寺6世 巧如の次男 如乗が室町時代に瑞泉寺に下って北陸布教の拠点とし、その如乗が土山に寺院「土山御坊」を建立したのが始まりである。如乗没後、土山御坊は内室 勝如尼の自坊となるも、後に如乗の娘婿で加賀本泉寺を継承した蓮如3男 蓮乗が土山御坊に実弟 蓮誓を迎え、更に瑞泉寺以外の坊主衆を土山御坊の与力とさせた。

  • 唐門 <br />鬼瓦には寺紋が輝きます。<br />勝興寺には更に古い歴史を伝える寺伝『雲龍山勝興寺系譜』があります。<br />1221年、承久の変で佐渡に配流された順徳上皇の第3皇子 成彦親王が親鸞に帰依し、法名「善空房信念」を名乗り、佐渡に一宇を建立したのが元祖 勝興寺(佐渡)の縁起とされます。<br />一方、安藤希章著『神殿大観』によると、佐渡勝興寺は親鸞が創建し、善空房信念が1世となったとあります。それは『雲龍山勝興寺系譜』に次のようにあるからです。「順徳上皇が佐渡に配流された折、親鸞は越後に赴いており、上皇は佐渡から勅使を越後に遣わして度々出離生死の要路について聴いた。親鸞は正全房を使わして法門を説き、ついに上皇は寺院建立を発願し、親鸞がこれに応じて建立。その際、上皇より『殊勝誓願興業寺』の寺号を賜り、これが『勝興寺』の名の由来になった。その後、信念は上皇が崩御したのを契機に親鸞の命により勝興寺を継承した」。<br />かくして勝興寺は、その起源となる佐渡勝興寺を相続し、再興した寺院という位置付けです。いずれにしても、このような天皇家と繋がる寺伝が存在すること自体、勝興寺の格付けと繁栄ぶりを示す証左と言えます。

    唐門
    鬼瓦には寺紋が輝きます。
    勝興寺には更に古い歴史を伝える寺伝『雲龍山勝興寺系譜』があります。
    1221年、承久の変で佐渡に配流された順徳上皇の第3皇子 成彦親王が親鸞に帰依し、法名「善空房信念」を名乗り、佐渡に一宇を建立したのが元祖 勝興寺(佐渡)の縁起とされます。
    一方、安藤希章著『神殿大観』によると、佐渡勝興寺は親鸞が創建し、善空房信念が1世となったとあります。それは『雲龍山勝興寺系譜』に次のようにあるからです。「順徳上皇が佐渡に配流された折、親鸞は越後に赴いており、上皇は佐渡から勅使を越後に遣わして度々出離生死の要路について聴いた。親鸞は正全房を使わして法門を説き、ついに上皇は寺院建立を発願し、親鸞がこれに応じて建立。その際、上皇より『殊勝誓願興業寺』の寺号を賜り、これが『勝興寺』の名の由来になった。その後、信念は上皇が崩御したのを契機に親鸞の命により勝興寺を継承した」。
    かくして勝興寺は、その起源となる佐渡勝興寺を相続し、再興した寺院という位置付けです。いずれにしても、このような天皇家と繋がる寺伝が存在すること自体、勝興寺の格付けと繁栄ぶりを示す証左と言えます。

  • 唐門 <br />「佐渡」と言えば、条件反射的に「金山」が浮かびます。佐渡市世界遺産推進課編『佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観(保存調査報告書2011年)』によると、西三川砂金山の中世における再開発は、今まで室町時代とされてきましたが、近年は鎌倉時代中期との説が有力です。その鎌倉時代のゴールドラッシュこそ、順徳上皇の第3皇子 彦成親王の功績だったといいます。<br />佐渡へ配流された上皇の崩御後、善空房信念(彦成親王)は佐渡勝興寺に入り、上皇の菩提を弔うと共に親鸞の教えを広めました。その後、砂金山移動の噂を聞いた信念は、阿弥陀堂を砂金山周辺に移し、全門徒を督励して産金活動を展開しました。農閑期には農民門徒も信念の元へ殺到し、産金活動の輪は徐々に拡大していったそうです。<br />室町時代、時の将軍 足利義満の逆鱗に触れて佐渡に配流された能楽の大成者 世阿弥は、小謡集『金島書』の中で「彼の海に こがねの島の あるなるを その名を問へば 佐渡というなり」と讃えています。

    唐門
    「佐渡」と言えば、条件反射的に「金山」が浮かびます。佐渡市世界遺産推進課編『佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観(保存調査報告書2011年)』によると、西三川砂金山の中世における再開発は、今まで室町時代とされてきましたが、近年は鎌倉時代中期との説が有力です。その鎌倉時代のゴールドラッシュこそ、順徳上皇の第3皇子 彦成親王の功績だったといいます。
    佐渡へ配流された上皇の崩御後、善空房信念(彦成親王)は佐渡勝興寺に入り、上皇の菩提を弔うと共に親鸞の教えを広めました。その後、砂金山移動の噂を聞いた信念は、阿弥陀堂を砂金山周辺に移し、全門徒を督励して産金活動を展開しました。農閑期には農民門徒も信念の元へ殺到し、産金活動の輪は徐々に拡大していったそうです。
    室町時代、時の将軍 足利義満の逆鱗に触れて佐渡に配流された能楽の大成者 世阿弥は、小謡集『金島書』の中で「彼の海に こがねの島の あるなるを その名を問へば 佐渡というなり」と讃えています。

  • 唐門 <br />切妻屋根の前後を唐破風造で貫通させた「前後唐破風造」という珍しい形式を採用しています。西本願寺唐門(国宝)も同じ形式ですので、西本願寺をお手本とした起用かもしれません。<br />

    唐門
    切妻屋根の前後を唐破風造で貫通させた「前後唐破風造」という珍しい形式を採用しています。西本願寺唐門(国宝)も同じ形式ですので、西本願寺をお手本とした起用かもしれません。

  • 唐門 <br />両脇にある黒い附袖壁がともすれば冗漫になりがちな巨大な唐門を引き締めています。

    唐門
    両脇にある黒い附袖壁がともすれば冗漫になりがちな巨大な唐門を引き締めています。

  • 天から降った石(七不思議)<br />例によって勝興寺にも定番の「七不思議」が伝わっています。<br />この石は200年程前に国分の浜へ天から落ちてきたと伝わります。<br />夜になると波が当たって泣いているような音がするため、勝興寺の本堂前に置いたところ、ピタリと音が止んだと伝わります。石を叩くとキーンと金属を叩いた時のような響きがします。<br />この石は安山岩(サヌカイト)との説が有力です。そうであれば火山岩ゆえ隕石ではなく、海底から荒波によって運ばれて来たものと推測するのが賢明です。<br />「天から降ってきた」と伝わるのは謎ですが、伏木の南西40kmにある戸室山が約30~40万年前に火山活動をしていた時の噴火に伴う噴石と考えれば、天から降ってきたと言えますが…。<br />奥に見えるのが宝蔵です。<br />江戸時代末期建立、土蔵造、桁行8m、梁間6m、2階建、入母屋造桟瓦葺、妻入。

    天から降った石(七不思議)
    例によって勝興寺にも定番の「七不思議」が伝わっています。
    この石は200年程前に国分の浜へ天から落ちてきたと伝わります。
    夜になると波が当たって泣いているような音がするため、勝興寺の本堂前に置いたところ、ピタリと音が止んだと伝わります。石を叩くとキーンと金属を叩いた時のような響きがします。
    この石は安山岩(サヌカイト)との説が有力です。そうであれば火山岩ゆえ隕石ではなく、海底から荒波によって運ばれて来たものと推測するのが賢明です。
    「天から降ってきた」と伝わるのは謎ですが、伏木の南西40kmにある戸室山が約30~40万年前に火山活動をしていた時の噴火に伴う噴石と考えれば、天から降ってきたと言えますが…。
    奥に見えるのが宝蔵です。
    江戸時代末期建立、土蔵造、桁行8m、梁間6m、2階建、入母屋造桟瓦葺、妻入。

  • 本堂(重文)<br />本堂は、1760(宝暦10)年造営の京都 西本願寺 阿弥陀堂を模して1795(寛政7)年に落成しました。勝興寺の住職を務めた後に還俗して加賀藩主11代となった前田治脩(はるなが)の寄進によります。前田氏と勝興寺の関係は藩政時代を通じて良好であり、それは住職に養女を入嫁したり、子息を入寺させたりの間柄だったからです。<br />治脩は、加賀藩5代藩主 前田吉徳の10男に生まれ、幼くして出家して1756(宝暦6)年に12歳で勝興寺の住職に就きました。10男ゆえ藩主など遠い存在でしたが、兄たちが相次いで亡くなり、奇跡的に藩主に就きました。<br />その際、治脩は藩主就任の条件として、老朽化した勝興寺の修復を挙げたと言います。財政難の中、本堂はじめ伽藍全体の整備に精力的に取り組んだそうです。

    本堂(重文)
    本堂は、1760(宝暦10)年造営の京都 西本願寺 阿弥陀堂を模して1795(寛政7)年に落成しました。勝興寺の住職を務めた後に還俗して加賀藩主11代となった前田治脩(はるなが)の寄進によります。前田氏と勝興寺の関係は藩政時代を通じて良好であり、それは住職に養女を入嫁したり、子息を入寺させたりの間柄だったからです。
    治脩は、加賀藩5代藩主 前田吉徳の10男に生まれ、幼くして出家して1756(宝暦6)年に12歳で勝興寺の住職に就きました。10男ゆえ藩主など遠い存在でしたが、兄たちが相次いで亡くなり、奇跡的に藩主に就きました。
    その際、治脩は藩主就任の条件として、老朽化した勝興寺の修復を挙げたと言います。財政難の中、本堂はじめ伽藍全体の整備に精力的に取り組んだそうです。

  • 本堂<br />治脩は幼名を時次郎といい、大の相撲好きとして知られ、境内で相撲大会を開いて村の若者に胸を貸したとの伝承があります。ある日、村の若者が相撲で時次郎を負かすと、時次郎は「明日の朝、矢田の御前山に登ってそこから見える田んぼを全部お前にやる」と言ったそうです。次の朝、山に登ると生憎その日は曇っており、少しの田んぼしかもらえなかったとの逸話があります。藩校 明倫堂や経武館を創設した名君の庶民的で村人に親しまれた人間像が今も語り継がれています。

    本堂
    治脩は幼名を時次郎といい、大の相撲好きとして知られ、境内で相撲大会を開いて村の若者に胸を貸したとの伝承があります。ある日、村の若者が相撲で時次郎を負かすと、時次郎は「明日の朝、矢田の御前山に登ってそこから見える田んぼを全部お前にやる」と言ったそうです。次の朝、山に登ると生憎その日は曇っており、少しの田んぼしかもらえなかったとの逸話があります。藩校 明倫堂や経武館を創設した名君の庶民的で村人に親しまれた人間像が今も語り継がれています。

  • 青銅製燈籠<br />1963(昭和38)年の親鸞聖人七百回忌法要に合わせ、本堂前に伝統産業「高岡銅器」を象徴する一対の青銅製燈籠が奉納されました。<br />6角形の基台の上に蓮弁状の台座を載せ、火袋には唐草紋様の透かし彫りと金色の寺紋、天には擬宝珠を冠しています。大勢の寄進者名が陰刻される中、草書体で「高岡鋳芸社 堺幸山作」と陽鋳されています。この幸山氏は、長野 善光寺の本堂前にある大香炉(昭和31年奉納)や山門前の六地蔵前の大香炉(昭和29年奉納)の制作者でもあり、芸術肌を持ち合わせた鋳物師であることが見て取れます。因みに、高岡鋳芸社 は慶応年間創業の老舗です。<br /><br />右手にあるのが、実ならずの銀杏(七不思議)です。<br />境内の前庭にある樹齢300年程の銀杏の木です。この銀杏は、ある時から急に実が成らなくなったと伝わります。<br />昔、子どもが銀杏の実を採ろうとして木から落ちて大怪我をしたり、実の取り合いなどで親を巻き込んだ騒動に発展したりしたため、住職が災いが生じないようにと読経したところ、翌年から一粒の実も着けなくなったと伝わります。<br />銀杏には雌雄があり、実が成るのが雌の木です。ひょっとすると実が成ったというのはそもそも誤りで、元々雄の木だったのかもしれません。それとも、性転換でもしたのでしょうか…。

    青銅製燈籠
    1963(昭和38)年の親鸞聖人七百回忌法要に合わせ、本堂前に伝統産業「高岡銅器」を象徴する一対の青銅製燈籠が奉納されました。
    6角形の基台の上に蓮弁状の台座を載せ、火袋には唐草紋様の透かし彫りと金色の寺紋、天には擬宝珠を冠しています。大勢の寄進者名が陰刻される中、草書体で「高岡鋳芸社 堺幸山作」と陽鋳されています。この幸山氏は、長野 善光寺の本堂前にある大香炉(昭和31年奉納)や山門前の六地蔵前の大香炉(昭和29年奉納)の制作者でもあり、芸術肌を持ち合わせた鋳物師であることが見て取れます。因みに、高岡鋳芸社 は慶応年間創業の老舗です。

    右手にあるのが、実ならずの銀杏(七不思議)です。
    境内の前庭にある樹齢300年程の銀杏の木です。この銀杏は、ある時から急に実が成らなくなったと伝わります。
    昔、子どもが銀杏の実を採ろうとして木から落ちて大怪我をしたり、実の取り合いなどで親を巻き込んだ騒動に発展したりしたため、住職が災いが生じないようにと読経したところ、翌年から一粒の実も着けなくなったと伝わります。
    銀杏には雌雄があり、実が成るのが雌の木です。ひょっとすると実が成ったというのはそもそも誤りで、元々雄の木だったのかもしれません。それとも、性転換でもしたのでしょうか…。

  • 本堂<br />一般的な社寺建築は南向きですが、ここの本堂は東に向けられています。これは西方浄土の仏教思想に拠るもので、真宗の本尊 阿弥陀如来が浄土より民衆を迎える「来迎」の教えを具現化したものとされます。そのため、浄土のある西を向いて参拝することになります。 <br />西本願寺の正面幅45mには及ばずも、39m X 37m、高さ24mの巨大な入母屋造、向拝三間、亜鉛合金板葺の建造物は、国宝・重文の建物の中では8番目に大きく、地方都市においては破格の規模、北陸地方最大の仏殿です。因みに、京都と奈良を除くと、三重県 専修寺、長野県 善光寺に次ぐ3番目の規模です。往時の真宗王国 北陸地方の真宗門徒の勢力が偲ばれます。<br />雪国ゆえか、屋根の勾配は心持ち急であり、その断面形状は合理的なカテナリー曲線 (懸垂線)になっているそうです。ロープの両端を持って垂らした時にできる曲線であり、ガウディ設計のサグラダ・ファミリアや岩国 錦帯橋にも応用されています。

    本堂
    一般的な社寺建築は南向きですが、ここの本堂は東に向けられています。これは西方浄土の仏教思想に拠るもので、真宗の本尊 阿弥陀如来が浄土より民衆を迎える「来迎」の教えを具現化したものとされます。そのため、浄土のある西を向いて参拝することになります。 
    西本願寺の正面幅45mには及ばずも、39m X 37m、高さ24mの巨大な入母屋造、向拝三間、亜鉛合金板葺の建造物は、国宝・重文の建物の中では8番目に大きく、地方都市においては破格の規模、北陸地方最大の仏殿です。因みに、京都と奈良を除くと、三重県 専修寺、長野県 善光寺に次ぐ3番目の規模です。往時の真宗王国 北陸地方の真宗門徒の勢力が偲ばれます。
    雪国ゆえか、屋根の勾配は心持ち急であり、その断面形状は合理的なカテナリー曲線 (懸垂線)になっているそうです。ロープの両端を持って垂らした時にできる曲線であり、ガウディ設計のサグラダ・ファミリアや岩国 錦帯橋にも応用されています。

  • 本堂 向拝<br />正面中央にある向拝には柱が4本ありますが、右側中央寄りの柱の正面に注目です。<br />複雑な木目模様を呈する箇所があり、目を凝らすと龍の顔が浮かび上がってきます。また、その少し上には楕円形の埋木があり、視点を変えると満月にも見えてきます。更には、龍の右下には杯の形をした埋木が踊ります。<br />これらを一連の造作と解釈すると、山号「雲龍山」に引っ掛け、「龍が月見酒」をする図と読み解けます。通常、こうした目立つ木目は人目を避けて配されるものですが、意図的に木目を龍の顔に見立て、そこから発想を飛ばした江戸時代の職人の粋な遊び心が窺えます。

    本堂 向拝
    正面中央にある向拝には柱が4本ありますが、右側中央寄りの柱の正面に注目です。
    複雑な木目模様を呈する箇所があり、目を凝らすと龍の顔が浮かび上がってきます。また、その少し上には楕円形の埋木があり、視点を変えると満月にも見えてきます。更には、龍の右下には杯の形をした埋木が踊ります。
    これらを一連の造作と解釈すると、山号「雲龍山」に引っ掛け、「龍が月見酒」をする図と読み解けます。通常、こうした目立つ木目は人目を避けて配されるものですが、意図的に木目を龍の顔に見立て、そこから発想を飛ばした江戸時代の職人の粋な遊び心が窺えます。

  • 本堂 向拝 拳鼻<br />向拝の彫刻は、中央に仏法の守護「龍」、その両脇に仁徳を具える「麒麟」を配しています。共に霊獣の双璧ですが、山号「雲龍山」に因み「龍」を中央に配しています。<br /><br />

    本堂 向拝 拳鼻
    向拝の彫刻は、中央に仏法の守護「龍」、その両脇に仁徳を具える「麒麟」を配しています。共に霊獣の双璧ですが、山号「雲龍山」に因み「龍」を中央に配しています。

  • 本堂 拳鼻本堂 向拝 拳鼻<br />龍の蟇股の脇にある麒麟の蟇股です。<br />内陣だけで225畳もあり、西本願寺 阿弥陀堂の図面に基づき、その最新の建築意匠と技術を導入して加賀藩お抱えの棟梁御大工 瀧川喜右衛門と脇棟梁大工 大指善右衛門が手掛けました。<br />創建時はこけら葺の上に鉛板を葺きましたが、その後桟瓦葺に替えられ、平成の半解体修理で当初の姿に復元されました。元々は金沢城や瑞龍寺のように鉄砲の弾の備蓄を目的にした鉛板葺でしたが、修理では環境に配慮し、鉛に色合い、質感、光沢が似た亜鉛合金で葺いています。鉛板葺が現存するのは全国で3棟(瑞龍寺仏殿、金沢城石川門・三十間長屋)しかなく、平成の修理で4棟目が発見された次第です。何れも加賀藩に属し、加賀文化の独自性を示す史料となりました。

    本堂 拳鼻本堂 向拝 拳鼻
    龍の蟇股の脇にある麒麟の蟇股です。
    内陣だけで225畳もあり、西本願寺 阿弥陀堂の図面に基づき、その最新の建築意匠と技術を導入して加賀藩お抱えの棟梁御大工 瀧川喜右衛門と脇棟梁大工 大指善右衛門が手掛けました。
    創建時はこけら葺の上に鉛板を葺きましたが、その後桟瓦葺に替えられ、平成の半解体修理で当初の姿に復元されました。元々は金沢城や瑞龍寺のように鉄砲の弾の備蓄を目的にした鉛板葺でしたが、修理では環境に配慮し、鉛に色合い、質感、光沢が似た亜鉛合金で葺いています。鉛板葺が現存するのは全国で3棟(瑞龍寺仏殿、金沢城石川門・三十間長屋)しかなく、平成の修理で4棟目が発見された次第です。何れも加賀藩に属し、加賀文化の独自性を示す史料となりました。

  • 本堂<br />木鼻には、平和の象徴「獏」を阿吽で配しています。

    本堂
    木鼻には、平和の象徴「獏」を阿吽で配しています。

  • 本堂 大香炉<br />本堂の手前には愛嬌たっぷりの獅子頭の大香炉が安置されています。<br />こちらも「高岡銅器」です。<br />十二弁の菊紋が施されています。

    本堂 大香炉
    本堂の手前には愛嬌たっぷりの獅子頭の大香炉が安置されています。
    こちらも「高岡銅器」です。
    十二弁の菊紋が施されています。

  • 本堂 <br />広大な外陣は大梁を用いて柱を少なくし、正面の桟唐戸および前面に広縁と落縁を設け、多数の信者を収容できるよう工夫しており、これも本願寺 阿弥陀堂に倣っています。<br />また、周囲にも広縁を巡らせると共に軒を深くするために屋根を控柱で支え、そこに二手先組物を配するのも同じです。

    本堂
    広大な外陣は大梁を用いて柱を少なくし、正面の桟唐戸および前面に広縁と落縁を設け、多数の信者を収容できるよう工夫しており、これも本願寺 阿弥陀堂に倣っています。
    また、周囲にも広縁を巡らせると共に軒を深くするために屋根を控柱で支え、そこに二手先組物を配するのも同じです。

  • 本堂<br />目を瞠る装飾的な木彫や江戸時代中期の建築技術が随所に見られ、加賀藩主の庇護の下にあった寺院の格式の高さに改めて感じ入ります。真宗寺院は江戸時代中期から建て替えに乗じて規模を拡大し、内部を荘厳化する傾向にありましたが、その特徴が顕著です。<br />内陣廻りは、極彩色を施すなど近世後期の特徴を表しています。近世の真宗仏堂様式に倣い、外陣を広くとり、結界(柵)、柱、矢来などで縦三列に仕切っています。また大規模建造物ゆえ、内陣にも組物を配した豪壮な構えです。

    本堂
    目を瞠る装飾的な木彫や江戸時代中期の建築技術が随所に見られ、加賀藩主の庇護の下にあった寺院の格式の高さに改めて感じ入ります。真宗寺院は江戸時代中期から建て替えに乗じて規模を拡大し、内部を荘厳化する傾向にありましたが、その特徴が顕著です。
    内陣廻りは、極彩色を施すなど近世後期の特徴を表しています。近世の真宗仏堂様式に倣い、外陣を広くとり、結界(柵)、柱、矢来などで縦三列に仕切っています。また大規模建造物ゆえ、内陣にも組物を配した豪壮な構えです。

  • 本堂<br />内外陣境正面には、1883(明治16)年に新調された勝興寺の名称のルーツを示す扁額『殊勝誓願興行教寺』が掲げられ、文字は西本願寺21代 宗主光尊(明如上人)の筆、落款は「龍谷貫主」「光尊印章」です。額縁にはす昇り龍と降り龍がすごみを利かせています。<br />「殊勝誓願興行教寺」は、順徳上皇から賜ったものとされます。

    本堂
    内外陣境正面には、1883(明治16)年に新調された勝興寺の名称のルーツを示す扁額『殊勝誓願興行教寺』が掲げられ、文字は西本願寺21代 宗主光尊(明如上人)の筆、落款は「龍谷貫主」「光尊印章」です。額縁にはす昇り龍と降り龍がすごみを利かせています。
    「殊勝誓願興行教寺」は、順徳上皇から賜ったものとされます。

  • 本堂<br />7年かけて大林組が修復した本堂内に安置された大蝋燭(通称:デカロウソク)は、吃驚する程の大きさです。漠然と眺めているとロウソクだとは気付きません。<br />浄土真宗の開祖 親鸞の遺徳を偲ぶ御正忌報恩講(1月16日)の法要の目玉が大蝋燭です。高町と下町の門徒が1年交代でロウソクの寄進を行う慣例から、そのサイズを競いだし、年を追う毎に巨大化してきたそうです。しかし物事には限度が肝心なため、現在の高さ1.8m(燭台を合わせ3m)で妥協させたと伝えられます。因みに、重量は150kgあるそうです。これが「七不思議」に入らないのが不思議なことです。<br />大蝋燭の形は棒型(円柱)ではなく、碇型という胴がくびれた形に分類されます。宗派によって碇型と棒型を使い分けるとの説もありますが、いずれにしても和蝋燭は蝋が垂れても美しく見えるのが最大の特徴です。

    本堂
    7年かけて大林組が修復した本堂内に安置された大蝋燭(通称:デカロウソク)は、吃驚する程の大きさです。漠然と眺めているとロウソクだとは気付きません。
    浄土真宗の開祖 親鸞の遺徳を偲ぶ御正忌報恩講(1月16日)の法要の目玉が大蝋燭です。高町と下町の門徒が1年交代でロウソクの寄進を行う慣例から、そのサイズを競いだし、年を追う毎に巨大化してきたそうです。しかし物事には限度が肝心なため、現在の高さ1.8m(燭台を合わせ3m)で妥協させたと伝えられます。因みに、重量は150kgあるそうです。これが「七不思議」に入らないのが不思議なことです。
    大蝋燭の形は棒型(円柱)ではなく、碇型という胴がくびれた形に分類されます。宗派によって碇型と棒型を使い分けるとの説もありますが、いずれにしても和蝋燭は蝋が垂れても美しく見えるのが最大の特徴です。

  • 本堂 魔除けの柱(七不思議)<br />本堂には結界の意味で柵が設けられており、その柵が交わる柱のもうひとつ奥の柱だけ材種が違います。本堂は総じて欅で造られていますが、この柱だけ表面に厚さ45mm程の桜木を張り付け、しかも逆柱となっています。逆柱は、日光東照宮 陽明門などにも見られ、一箇所だけ不完全な部分を意図的に造り、建物が崩壊しないようにする魔除けの一種とされる大工の秘伝です。<br />因みに、魔除け思想の歴史は古く、『徒然草(第八十二段)』(鎌倉時代)にあります。「物事が整っているのは悪い事である。未完成の物をそのまま放っておくと、面白く余韻がある。内裏を造る時にも、必ず未完成の場所を残す。…天高く昇り詰めた龍は、もはや昇る余地が無く、衰える恐れがある。月は満月になれば次には欠けてゆき、物事は盛りを極めれば後は衰える」と諭しています。<br />また、お寺の性格上、お互いの欠点を理解し合い、助け合うことの大切さを説法しているとも伝わります。その他、桜は欅に比べて耐用年数が短く、本堂の定期的な修理(100年毎)のきっかけにするため、意図的に材種を違えたとの説もあります。

    本堂 魔除けの柱(七不思議)
    本堂には結界の意味で柵が設けられており、その柵が交わる柱のもうひとつ奥の柱だけ材種が違います。本堂は総じて欅で造られていますが、この柱だけ表面に厚さ45mm程の桜木を張り付け、しかも逆柱となっています。逆柱は、日光東照宮 陽明門などにも見られ、一箇所だけ不完全な部分を意図的に造り、建物が崩壊しないようにする魔除けの一種とされる大工の秘伝です。
    因みに、魔除け思想の歴史は古く、『徒然草(第八十二段)』(鎌倉時代)にあります。「物事が整っているのは悪い事である。未完成の物をそのまま放っておくと、面白く余韻がある。内裏を造る時にも、必ず未完成の場所を残す。…天高く昇り詰めた龍は、もはや昇る余地が無く、衰える恐れがある。月は満月になれば次には欠けてゆき、物事は盛りを極めれば後は衰える」と諭しています。
    また、お寺の性格上、お互いの欠点を理解し合い、助け合うことの大切さを説法しているとも伝わります。その他、桜は欅に比べて耐用年数が短く、本堂の定期的な修理(100年毎)のきっかけにするため、意図的に材種を違えたとの説もあります。

  • 本堂 雲龍の硯(七不思議)<br />かつては宝物収蔵庫にあり、自由に鑑賞できなかったそうですが、現在は本堂に展示されています。見事な雲龍図がレリーフされています。<br />京都 本願寺8世 蓮如が愛用した硯とされ、別名「墨が涸れない硯」とも言われ、上人が使われる時にだけ自然に水が湧き出したと伝わる摩訶不思議な硯です。

    本堂 雲龍の硯(七不思議)
    かつては宝物収蔵庫にあり、自由に鑑賞できなかったそうですが、現在は本堂に展示されています。見事な雲龍図がレリーフされています。
    京都 本願寺8世 蓮如が愛用した硯とされ、別名「墨が涸れない硯」とも言われ、上人が使われる時にだけ自然に水が湧き出したと伝わる摩訶不思議な硯です。

  • 本堂 梅鉢蒔絵女乗物(県指定文化財)<br />1761(宝暦11)年、加賀藩5代藩主 前田吉徳の10男 治脩が12歳で勝興寺の住職として入寺した際に使用された大名駕籠「女乗り物」と伝わります。外寸は長さ115cm、幅79cm、高さ105cmですが、駕籠の中は更に狭くなります。尚、同種のものが石川県美術館に所蔵され、加賀藩御細工所製とされています。<br />輿の前後の上部には全面黒漆地に金高蒔絵の大きな梅鉢紋、長柄などには精巧な毛彫りや金平蒔絵で梅鉢紋や唐草文が施され、大名駕籠に相応しい荘厳さを添えています。<br />内部は、一部破損していますが、金紙を貼り巡らし、その上に極彩色で雪中松に鶴、牡丹花に鶴などの吉祥絵を描いています。天井格子には各区画に宝珠、珊瑚など宝尽くしを描き華麗です。

    本堂 梅鉢蒔絵女乗物(県指定文化財)
    1761(宝暦11)年、加賀藩5代藩主 前田吉徳の10男 治脩が12歳で勝興寺の住職として入寺した際に使用された大名駕籠「女乗り物」と伝わります。外寸は長さ115cm、幅79cm、高さ105cmですが、駕籠の中は更に狭くなります。尚、同種のものが石川県美術館に所蔵され、加賀藩御細工所製とされています。
    輿の前後の上部には全面黒漆地に金高蒔絵の大きな梅鉢紋、長柄などには精巧な毛彫りや金平蒔絵で梅鉢紋や唐草文が施され、大名駕籠に相応しい荘厳さを添えています。
    内部は、一部破損していますが、金紙を貼り巡らし、その上に極彩色で雪中松に鶴、牡丹花に鶴などの吉祥絵を描いています。天井格子には各区画に宝珠、珊瑚など宝尽くしを描き華麗です。

  • 本堂 紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風 <br />(17世紀初頭作:重文のレプリカ)<br />勝興寺本として知られる『洛中洛外図屏風』が寺に伝わります。狩野永徳の次男 孝信、あるいはその周辺の絵師が大坂の陣の頃の京の街の様子を描いた大作です。一双屏風として二条城が初めて描かれた作品として知られ、二条城と方広寺大仏殿を対比して描いています。因みに、狩野孝信夫人の養秀院は、富山城主 佐々成政の娘に当たるそうです。<br />寺伝では、江戸時代後期に京の公家 鷹司政熙の子女が勝興寺第20代住職 本成に輿入れした際の嫁入り道具と伝わります。一方、西本願寺の絵がクローズアップされ、かつ御影堂内には水墨画が描かれるなど、手の込んだ描写が窺えます。こうした観点から、勝興寺第13代住職 准教に嫁いだ本願寺12世 准如の子女の輿入れに持参したものとの説もあります。<br />いずれにしても、故郷の京の様子を事細かに描いているのは、嫁いだ娘が寂しい思いをしないようにとの親心とは言えまいか…。

    本堂 紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風
    (17世紀初頭作:重文のレプリカ)
    勝興寺本として知られる『洛中洛外図屏風』が寺に伝わります。狩野永徳の次男 孝信、あるいはその周辺の絵師が大坂の陣の頃の京の街の様子を描いた大作です。一双屏風として二条城が初めて描かれた作品として知られ、二条城と方広寺大仏殿を対比して描いています。因みに、狩野孝信夫人の養秀院は、富山城主 佐々成政の娘に当たるそうです。
    寺伝では、江戸時代後期に京の公家 鷹司政熙の子女が勝興寺第20代住職 本成に輿入れした際の嫁入り道具と伝わります。一方、西本願寺の絵がクローズアップされ、かつ御影堂内には水墨画が描かれるなど、手の込んだ描写が窺えます。こうした観点から、勝興寺第13代住職 准教に嫁いだ本願寺12世 准如の子女の輿入れに持参したものとの説もあります。
    いずれにしても、故郷の京の様子を事細かに描いているのは、嫁いだ娘が寂しい思いをしないようにとの親心とは言えまいか…。

  • 源氏物語絵巻<br />寺宝のひとつに源氏物語絵巻(2幅)があります。『若菜・上』の「蹴鞠」と『若菜・下』の「女楽」のシーンが各幅に描かれています。その他、源氏物語に因んだものとしては、全54帖の写本が6つの引き出しに分納されています。<br />「蹴鞠」では、弥生のうららかな日、柏木や夕霧たちが蹴鞠に興じるうち、2匹の猫が御簾を巻き上げ、その時に柏木が女三宮の姿を垣間見、運命の恋に堕ちるシーンを切り抜いています。「女楽」は、朱雀院の50の御賀のための試楽に、女三宮は琴、紫の上は和琴、明石の女御は筝の琴、明石の方は琵琶を奏でるシーンです。<br />『若菜』から、不倫に通じる「蹴鞠」や紫の上が病に倒れる前夜に催された「女楽」が選ばれている訳は、江戸時代にはこうした源氏絵が姫君の婚礼調度に多用されたためです。物語の内容よりも、梅や桜など王朝的なイメージを描くことに主眼が置かれたようです。<br />落款印章はありませんが、箱蓋表には源養福筆と記されており、江戸城障壁画の絵師としても知られる、木挽町第9代当主 狩野晴川院養信(おさのぶ)の弟子で阿波藩御抱絵師 源養福(おさよし=中山鍮次)の筆とされます。鷹司家出身の広悟や前田斉泰養女 清皎が勝興寺住職に入輿した際にもたらされたものと推定されています。<br />これらの画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.shoukouji.jp/pdf/jiho_ten.pdf<br />https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1620295100/1620295100200010/10_genji/

    源氏物語絵巻
    寺宝のひとつに源氏物語絵巻(2幅)があります。『若菜・上』の「蹴鞠」と『若菜・下』の「女楽」のシーンが各幅に描かれています。その他、源氏物語に因んだものとしては、全54帖の写本が6つの引き出しに分納されています。
    「蹴鞠」では、弥生のうららかな日、柏木や夕霧たちが蹴鞠に興じるうち、2匹の猫が御簾を巻き上げ、その時に柏木が女三宮の姿を垣間見、運命の恋に堕ちるシーンを切り抜いています。「女楽」は、朱雀院の50の御賀のための試楽に、女三宮は琴、紫の上は和琴、明石の女御は筝の琴、明石の方は琵琶を奏でるシーンです。
    『若菜』から、不倫に通じる「蹴鞠」や紫の上が病に倒れる前夜に催された「女楽」が選ばれている訳は、江戸時代にはこうした源氏絵が姫君の婚礼調度に多用されたためです。物語の内容よりも、梅や桜など王朝的なイメージを描くことに主眼が置かれたようです。
    落款印章はありませんが、箱蓋表には源養福筆と記されており、江戸城障壁画の絵師としても知られる、木挽町第9代当主 狩野晴川院養信(おさのぶ)の弟子で阿波藩御抱絵師 源養福(おさよし=中山鍮次)の筆とされます。鷹司家出身の広悟や前田斉泰養女 清皎が勝興寺住職に入輿した際にもたらされたものと推定されています。
    これらの画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.shoukouji.jp/pdf/jiho_ten.pdf
    https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1620295100/1620295100200010/10_genji/

  • 本堂 <br />正面向拝の庇下にある手挟みに施された一木造りの透かし彫りの彫刻は、春夏秋冬の4枚あります。<br /><br />勝興寺が所有する文化財は、重文の建造物12棟と美術品1点、県指定文化財の工芸品など236点、更に指定外の宝物を含めると500点を超えます。<br />何故、勝興寺は前田氏から特別に庇護されたのでしょうか?そもそも浄土真宗は庶民の宗教であり、一向一揆は武家と敵対する構図です。前田氏はじめ大半の武将たちは禅宗の信者だったはずです。<br />その理由は、勝興寺が武家や公家でさえ一目置く存在だったからです。勝興寺は、北陸の真宗の触頭であり、北陸一円の寺院の要望を吸い上げて本山に伝え、本山の指令を各寺に伝えるなどの取りまとめ役を担っていました。つまり、秀吉や前田氏も勝興寺に集まる民衆の力を恐れていたのです。往時、政治力や武力よりも恐れられていたのが民衆の結束力でした。それ故、特別な政治的忖度という意味合いから、勝興寺に宝物を贈り、特別な庇護を続けてきたと思われます。

    本堂
    正面向拝の庇下にある手挟みに施された一木造りの透かし彫りの彫刻は、春夏秋冬の4枚あります。

    勝興寺が所有する文化財は、重文の建造物12棟と美術品1点、県指定文化財の工芸品など236点、更に指定外の宝物を含めると500点を超えます。
    何故、勝興寺は前田氏から特別に庇護されたのでしょうか?そもそも浄土真宗は庶民の宗教であり、一向一揆は武家と敵対する構図です。前田氏はじめ大半の武将たちは禅宗の信者だったはずです。
    その理由は、勝興寺が武家や公家でさえ一目置く存在だったからです。勝興寺は、北陸の真宗の触頭であり、北陸一円の寺院の要望を吸い上げて本山に伝え、本山の指令を各寺に伝えるなどの取りまとめ役を担っていました。つまり、秀吉や前田氏も勝興寺に集まる民衆の力を恐れていたのです。往時、政治力や武力よりも恐れられていたのが民衆の結束力でした。それ故、特別な政治的忖度という意味合いから、勝興寺に宝物を贈り、特別な庇護を続けてきたと思われます。

  • 本堂 <br />もう一つの要因は、真宗は妻帯が許されていたことです。それ故、戦国時代にあって、公家や武家との婚姻をはじめ、細川、朝倉、武田氏からのお輿入れもあり、関係の強化に繋がりました。 <br />実際に勝興寺の寺宝には、秀吉や前田氏から拝領した工芸品もあれば、天皇家から授かった硯箱など、名家からのお輿入れに伴った婚礼道具が多々あります。秀吉から拝領した工芸品には、茶道具『烏帽子形南蕃水指』(桃山時代の作で金属製に見せかけた陶器という独自の意匠)があります。また、『秋草文蒔絵盥』は、加賀藩3代藩主 前田利常の養女で勝興寺第14代住職 良昌にお輿入れした「つる(家臣 神谷長治の娘)」の持参品です。その時は、鉄砲20丁、槍10本、弓矢20本に米750石と人まで付いたといいます。

    本堂
    もう一つの要因は、真宗は妻帯が許されていたことです。それ故、戦国時代にあって、公家や武家との婚姻をはじめ、細川、朝倉、武田氏からのお輿入れもあり、関係の強化に繋がりました。
    実際に勝興寺の寺宝には、秀吉や前田氏から拝領した工芸品もあれば、天皇家から授かった硯箱など、名家からのお輿入れに伴った婚礼道具が多々あります。秀吉から拝領した工芸品には、茶道具『烏帽子形南蕃水指』(桃山時代の作で金属製に見せかけた陶器という独自の意匠)があります。また、『秋草文蒔絵盥』は、加賀藩3代藩主 前田利常の養女で勝興寺第14代住職 良昌にお輿入れした「つる(家臣 神谷長治の娘)」の持参品です。その時は、鉄砲20丁、槍10本、弓矢20本に米750石と人まで付いたといいます。

  • 本堂 <br />本願寺の東西分裂を基軸に越中支配者の政略を読み解くと次のようになります。<br />勝興寺は、戦国時代には越中一向一揆の中心寺院として瑞泉寺と共に強大な勢力を誇りました。当初は南砺市にありましたが、上杉謙信の制圧後、住職が門徒と共に石山合戦に参戦している隙に、佐々成政についた木舟城主 石黒成綱に織田信長の命で伽藍を焼き払われました。<br />その後、越中を治めた織田方の佐々成政は、本能寺の変後に柴田勝家につき、秀吉と敵対しました。そのため、成政は、1584(天正12)年、信長横死後の不安定な情勢の中、越中の本願寺勢力を懐柔して味方に取り込む政略として勝興寺に現在地を寺基として与えました。<br />その頃、本願寺は石山本願寺退去による不和を発端に、穏健派の顕如と強硬派の教如の内部対立が抜き差しならぬ状態になっていました。秀吉は顕如を正統と裁定するも、両派は水面下で熾烈な傘下寺院の獲得合戦を行い、北陸では、加賀・能登は教如派、越中は顕如派と反目し合いました。<br />やがて成政が秀吉に屈した後、越中を治めた前田氏は秀吉に従い顕如派を擁護しました。領国の大半が教如派となる中、少数派の顕如派の中心寺院 勝興寺に着目したのです。教如派が徳川幕府寄りであることもあり、領国内での本願寺勢力の分断を画策したものと読めます。

    本堂
    本願寺の東西分裂を基軸に越中支配者の政略を読み解くと次のようになります。
    勝興寺は、戦国時代には越中一向一揆の中心寺院として瑞泉寺と共に強大な勢力を誇りました。当初は南砺市にありましたが、上杉謙信の制圧後、住職が門徒と共に石山合戦に参戦している隙に、佐々成政についた木舟城主 石黒成綱に織田信長の命で伽藍を焼き払われました。
    その後、越中を治めた織田方の佐々成政は、本能寺の変後に柴田勝家につき、秀吉と敵対しました。そのため、成政は、1584(天正12)年、信長横死後の不安定な情勢の中、越中の本願寺勢力を懐柔して味方に取り込む政略として勝興寺に現在地を寺基として与えました。
    その頃、本願寺は石山本願寺退去による不和を発端に、穏健派の顕如と強硬派の教如の内部対立が抜き差しならぬ状態になっていました。秀吉は顕如を正統と裁定するも、両派は水面下で熾烈な傘下寺院の獲得合戦を行い、北陸では、加賀・能登は教如派、越中は顕如派と反目し合いました。
    やがて成政が秀吉に屈した後、越中を治めた前田氏は秀吉に従い顕如派を擁護しました。領国の大半が教如派となる中、少数派の顕如派の中心寺院 勝興寺に着目したのです。教如派が徳川幕府寄りであることもあり、領国内での本願寺勢力の分断を画策したものと読めます。

  • 本堂 <br />勝興寺繁栄の歴史については、越中支配者や統一政権との係わりを省いては語れません。<br />その第一人者が富山城主 佐々成政です。成政は「厳冬の北アルプス越え」という興味深い伝説を残す武将です。本能寺の変で織田信長が横死し、後継を巡る賤ヶ岳の戦い、羽柴秀吉の台頭への反発から織田信雄&徳川家康が起こした小牧長久手の戦いと続き、後者の戦いで成政は信雄方につきました。そして末森の戦いで前田利家の攻撃を受けて後退を余儀なくされ、厳冬の立山を超えて浜松に赴き、すでに和議を結んでいた徳川家康に再起を迫りました。しかし、再起は果たせず、その後、越中に侵攻した秀吉に降伏し、新川郡を残して所領を没収されました。<br />勝興寺に残る成政の書状は、立山越えの直前に書かれ、越中真宗の中心寺院の勝興寺を取り込み、宗徒の支援により領国の支配体制を安定させようとした意図が読み取れます。一方、勝興寺にとっては、失われていた寺基を回復する絶好の機会であり、Win-Winの関係だったと思われます。実際に勝興寺の再興を支えたのは家臣の守山城主 神保氏張でしたが、所領内の古国府城跡に寺基を与えています。

    本堂
    勝興寺繁栄の歴史については、越中支配者や統一政権との係わりを省いては語れません。
    その第一人者が富山城主 佐々成政です。成政は「厳冬の北アルプス越え」という興味深い伝説を残す武将です。本能寺の変で織田信長が横死し、後継を巡る賤ヶ岳の戦い、羽柴秀吉の台頭への反発から織田信雄&徳川家康が起こした小牧長久手の戦いと続き、後者の戦いで成政は信雄方につきました。そして末森の戦いで前田利家の攻撃を受けて後退を余儀なくされ、厳冬の立山を超えて浜松に赴き、すでに和議を結んでいた徳川家康に再起を迫りました。しかし、再起は果たせず、その後、越中に侵攻した秀吉に降伏し、新川郡を残して所領を没収されました。
    勝興寺に残る成政の書状は、立山越えの直前に書かれ、越中真宗の中心寺院の勝興寺を取り込み、宗徒の支援により領国の支配体制を安定させようとした意図が読み取れます。一方、勝興寺にとっては、失われていた寺基を回復する絶好の機会であり、Win-Winの関係だったと思われます。実際に勝興寺の再興を支えたのは家臣の守山城主 神保氏張でしたが、所領内の古国府城跡に寺基を与えています。

  • 本堂 <br />向拝脇には懸魚鰭のような彫刻が見られます。<br /><br />佐々成政は、真宗門徒の支援を期待して勝興寺に寺基を与えました。しかし、意に反してその翌年の羽柴秀吉の越中侵攻(富山の役)の際、成政に越中から追われて大坂にいた勝興寺住職 顕幸と瑞泉寺住職 顕秀は、秀吉の供を命ぜられて越中に下っています。成政にとっては寺基を与えた恩を仇で返されたようなものでした。<br />一方、勝興寺にとってはこれが新機軸となりました。新たな領主となった前田利長は、勝興寺へ大名としての保護を示し、寺領50石を与えました。かつて一向一揆を結び領主に反抗した真宗寺院が寺領を与えられた例は希です。これが成立したのは、1560(永禄3)年に本願寺が准門跡に任ぜれ、それに伴い勝興寺が院家に任ぜられたからです。その後、住職 顕幸を法印に叙する正親町天皇の口宣案が下されたのも、院家となった勝興寺の格式に与するものでした。<br />つまり、秀吉の天下統一事業が 進展し、その一環として門跡寺院や院家への保護の恩恵に与ったと言えます。かくして勝興寺は統一政権と領国大名の双方から庇護されるようになりました。

    本堂
    向拝脇には懸魚鰭のような彫刻が見られます。

    佐々成政は、真宗門徒の支援を期待して勝興寺に寺基を与えました。しかし、意に反してその翌年の羽柴秀吉の越中侵攻(富山の役)の際、成政に越中から追われて大坂にいた勝興寺住職 顕幸と瑞泉寺住職 顕秀は、秀吉の供を命ぜられて越中に下っています。成政にとっては寺基を与えた恩を仇で返されたようなものでした。
    一方、勝興寺にとってはこれが新機軸となりました。新たな領主となった前田利長は、勝興寺へ大名としての保護を示し、寺領50石を与えました。かつて一向一揆を結び領主に反抗した真宗寺院が寺領を与えられた例は希です。これが成立したのは、1560(永禄3)年に本願寺が准門跡に任ぜれ、それに伴い勝興寺が院家に任ぜられたからです。その後、住職 顕幸を法印に叙する正親町天皇の口宣案が下されたのも、院家となった勝興寺の格式に与するものでした。
    つまり、秀吉の天下統一事業が 進展し、その一環として門跡寺院や院家への保護の恩恵に与ったと言えます。かくして勝興寺は統一政権と領国大名の双方から庇護されるようになりました。

  • 本堂 <br />隅尾垂木の部位には龍頭が彫られています。 <br /><br />前田利長が没すると、加賀藩主3代  利常は、利長に特別の恩義があり、その政策を踏襲しました。勝興寺に対し、改めて75石を寺領として寄進したのはその表れです。<br />また隠居後には、養女つる(家臣 神谷長治の娘)を勝興寺住職14代 良昌に入嫁させ、ここに勝興寺と前田氏の姻戚関係が始まったことも特筆されます。更に注目すべきは、利常が越中真宗寺院や門徒のキリシタン改めを勝興寺に申し渡し、勝興寺が瑞泉寺や聞名寺に命じて請書をとったことです。これは、勝興寺が越中真宗寺院の頂点に君臨し、加賀藩統治の一翼を担ったことを意味しています。

    本堂
    隅尾垂木の部位には龍頭が彫られています。 

    前田利長が没すると、加賀藩主3代 利常は、利長に特別の恩義があり、その政策を踏襲しました。勝興寺に対し、改めて75石を寺領として寄進したのはその表れです。
    また隠居後には、養女つる(家臣 神谷長治の娘)を勝興寺住職14代 良昌に入嫁させ、ここに勝興寺と前田氏の姻戚関係が始まったことも特筆されます。更に注目すべきは、利常が越中真宗寺院や門徒のキリシタン改めを勝興寺に申し渡し、勝興寺が瑞泉寺や聞名寺に命じて請書をとったことです。これは、勝興寺が越中真宗寺院の頂点に君臨し、加賀藩統治の一翼を担ったことを意味しています。

  • 本堂 屋根を支える猿(七不思議)<br />本堂大屋根の4隅に表情を違えた猿の彫刻が潜みます。「軒下の4隅で猿が屋根を支えている。正面向かって右隅の猿は、左腕がないため右腕と頭で屋根を支えているが、力が足りずその下の柱が弓なりに曲がった」と伝わります。

    本堂 屋根を支える猿(七不思議)
    本堂大屋根の4隅に表情を違えた猿の彫刻が潜みます。「軒下の4隅で猿が屋根を支えている。正面向かって右隅の猿は、左腕がないため右腕と頭で屋根を支えているが、力が足りずその下の柱が弓なりに曲がった」と伝わります。

  • 本堂 屋根を支える猿(七不思議)<br />これらの彫り物は長年「猿」と認識されてきましたが、平成の大修理により、猿ではなく、裸体にフンドシを付けた天邪鬼と判明しました。高さ15cm程の欅の一木造りだそうです。尚、左腕は健在で、後ろ手でフンドシを締めているそうです。<br />天邪鬼は人の言うことに反発したり、正反対のことを行うへそ曲がりゆえ、建物の屋根を頑丈に支えてくれるということです。

    本堂 屋根を支える猿(七不思議)
    これらの彫り物は長年「猿」と認識されてきましたが、平成の大修理により、猿ではなく、裸体にフンドシを付けた天邪鬼と判明しました。高さ15cm程の欅の一木造りだそうです。尚、左腕は健在で、後ろ手でフンドシを締めているそうです。
    天邪鬼は人の言うことに反発したり、正反対のことを行うへそ曲がりゆえ、建物の屋根を頑丈に支えてくれるということです。

  • 本堂 「波に神亀」<br />外陣の外周蟇股を飾る欅の一木造りの彫刻群も見所です。これは親子の玄武(神亀)と波を彫っています。<br />本堂は寛永年間に落成しましたが、この時点で今ある姿が完成していた訳ではなく、門徒の寄進により漸次仕上げられていった経緯から、江戸時代後期の彫刻は一部に限られ、大半は明治時代末期の作品です。明治期のものは、虎(朴木村の村田和吉氏の作品)を除いて井波職人 松波正行氏の作品です。<br />鳳凰や鶴、獏、孔雀、獅子、麒麟、鶴、象などの吉祥の彫刻に混じり、青だく(<br />(せいだく)や貌豸(かいち)といった他では見られない珍霊獣が彫られているのは特筆に値します。

    本堂 「波に神亀」
    外陣の外周蟇股を飾る欅の一木造りの彫刻群も見所です。これは親子の玄武(神亀)と波を彫っています。
    本堂は寛永年間に落成しましたが、この時点で今ある姿が完成していた訳ではなく、門徒の寄進により漸次仕上げられていった経緯から、江戸時代後期の彫刻は一部に限られ、大半は明治時代末期の作品です。明治期のものは、虎(朴木村の村田和吉氏の作品)を除いて井波職人 松波正行氏の作品です。
    鳳凰や鶴、獏、孔雀、獅子、麒麟、鶴、象などの吉祥の彫刻に混じり、青だく(
    (せいだく)や貌豸(かいち)といった他では見られない珍霊獣が彫られているのは特筆に値します。

  • 本堂 <br />左上から時計回りに、本堂正面中央に鎮座する「唐松に孔雀」、「竹に虎」、「蓮に鷺」、「波に天馬」です。<br />どれも蟇股に収まる感じではなく、自己アピールに余念がありません。

    本堂
    左上から時計回りに、本堂正面中央に鎮座する「唐松に孔雀」、「竹に虎」、「蓮に鷺」、「波に天馬」です。
    どれも蟇股に収まる感じではなく、自己アピールに余念がありません。

  • 本堂 <br />左上が「笹に貌豸」です。右隣の「雲に麒麟」と比べると違いが判ります。右下が「波に飛龍」、左下が「雲に龍」です。<br />貌豸は、正邪の判別に長けた聖獣であることから、法や公正、正義の象徴とされる中国の伝説の霊獣です。一説には、日本の狛犬の起源ともされます。<br />麒麟と獅子を合体させたような風貌をしており、こちらは麒麟形になります。江戸時代中期の寺島良安編纂『和漢三才図会』に「東望山に羊に似た一角四足」とあり、挿絵は一角に麒麟のような姿を呈し、足は麒麟のような蹄ではなく獅子を彷彿とさせます。<br />尚、獅子形は日光東照宮の拝殿杉戸に狩野探幽が描いています。<br />https://kknews.cc/history/yveprqn.html

    本堂
    左上が「笹に貌豸」です。右隣の「雲に麒麟」と比べると違いが判ります。右下が「波に飛龍」、左下が「雲に龍」です。
    貌豸は、正邪の判別に長けた聖獣であることから、法や公正、正義の象徴とされる中国の伝説の霊獣です。一説には、日本の狛犬の起源ともされます。
    麒麟と獅子を合体させたような風貌をしており、こちらは麒麟形になります。江戸時代中期の寺島良安編纂『和漢三才図会』に「東望山に羊に似た一角四足」とあり、挿絵は一角に麒麟のような姿を呈し、足は麒麟のような蹄ではなく獅子を彷彿とさせます。
    尚、獅子形は日光東照宮の拝殿杉戸に狩野探幽が描いています。
    https://kknews.cc/history/yveprqn.html

  • 本堂 「唐松に青だく」<br />よく観ると、普通の鳥には見られない長く細い角が2本生えています。また、羽は8枚、足は1本しかありません。<br />中国の伝説の霊鳥とされ、『和漢三才図会』には「人面に鳥の喙、八つの翼をもち一足、毛の色は雉に似ていて進行するにも土を踏まない」とあります。 顔は人面に近いとされますが、これは魚のようでもあります。<br />一説には、ヴィシュヌ神の乗り物であり、鳥族の王ともされる半人半鳥の神鳥とされるヒンドゥーの幻獣「ガルーダ 」ともされます。<br />http://www.cbaigui.com/?p=5109

    本堂 「唐松に青だく」
    よく観ると、普通の鳥には見られない長く細い角が2本生えています。また、羽は8枚、足は1本しかありません。
    中国の伝説の霊鳥とされ、『和漢三才図会』には「人面に鳥の喙、八つの翼をもち一足、毛の色は雉に似ていて進行するにも土を踏まない」とあります。 顔は人面に近いとされますが、これは魚のようでもあります。
    一説には、ヴィシュヌ神の乗り物であり、鳥族の王ともされる半人半鳥の神鳥とされるヒンドゥーの幻獣「ガルーダ 」ともされます。
    http://www.cbaigui.com/?p=5109

  • 本堂 「雲に永楽鳥」<br />一見、青だくによく似ています。<br />極楽鳥ならぼんやりとイメージできますが、永楽鳥というのはよく判りません。<br />こちらも架空の動物かもしれません。

    本堂 「雲に永楽鳥」
    一見、青だくによく似ています。
    極楽鳥ならぼんやりとイメージできますが、永楽鳥というのはよく判りません。
    こちらも架空の動物かもしれません。

  • 本堂 <br />妻側は、三ツ花懸魚です。三ツ花懸魚とは、下向きだけでなく、左右にも同様の形が突き出し、3つの花が咲いたように見えるデザインを指します。<br />

    本堂
    妻側は、三ツ花懸魚です。三ツ花懸魚とは、下向きだけでなく、左右にも同様の形が突き出し、3つの花が咲いたように見えるデザインを指します。

  • 本堂 <br />妻飾りの彫刻は唐獅子牡丹です。<br />

    本堂
    妻飾りの彫刻は唐獅子牡丹です。

  • 本堂 <br />縁の下には亀腹、柱を支える基石にも装飾的な意匠が施されています。<br />

    本堂
    縁の下には亀腹、柱を支える基石にも装飾的な意匠が施されています。

  • 経堂<br />1805(文化2)年に建立された経典を収蔵する経堂は、一重裳階付、9.4m四方の宝形造で高さ15.2mあります。このほど平成の修復工事が完了し、桟瓦屋根は、創建当初の杉板を積み重ね、竹の釘で打ち付ける「こけら葺」に葺き替えられました。工事に伴う調査により、明治時代の修理で桟瓦葺に変更されたことが判明したためです。<br />文化財建造物保存技術協会(東京)が設計監理、田中社寺(岐阜)が施工を担当。耐震補強も施しています。

    経堂
    1805(文化2)年に建立された経典を収蔵する経堂は、一重裳階付、9.4m四方の宝形造で高さ15.2mあります。このほど平成の修復工事が完了し、桟瓦屋根は、創建当初の杉板を積み重ね、竹の釘で打ち付ける「こけら葺」に葺き替えられました。工事に伴う調査により、明治時代の修理で桟瓦葺に変更されたことが判明したためです。
    文化財建造物保存技術協会(東京)が設計監理、田中社寺(岐阜)が施工を担当。耐震補強も施しています。

  • 経堂<br />内部にある大形八角輪蔵は、形式、細部共に本格的なもので、極彩色に彩られています。また、箪笥式の桐箱が各面に縦9列、横4列の計36個あり、全288個の引き出しの中には教典が保管されています。輪蔵を1回転すれば、千を超える教典を読んだのと同じ功徳を授かれるとされ、転輪蔵を考案した中国南北朝時代の居士「傅大士」の像が守っています。

    経堂
    内部にある大形八角輪蔵は、形式、細部共に本格的なもので、極彩色に彩られています。また、箪笥式の桐箱が各面に縦9列、横4列の計36個あり、全288個の引き出しの中には教典が保管されています。輪蔵を1回転すれば、千を超える教典を読んだのと同じ功徳を授かれるとされ、転輪蔵を考案した中国南北朝時代の居士「傅大士」の像が守っています。

  • 経堂<br />本堂に向いた外壁に飾られている龍の彫刻は、伝説の名工 左甚五郎作とも伝わります。<br />

    経堂
    本堂に向いた外壁に飾られている龍の彫刻は、伝説の名工 左甚五郎作とも伝わります。

  • 水の涸れない池(七不思議)<br />経堂の西面に隣接して池があり、勝興寺の火災の折、経堂の重層屋根に彫られた龍がこの池の水を口に含んで消火したと伝わります。 それ以来、この池は大干ばつの時でも龍が雲を呼んで雨を降らせ、涸れたことはないと伝わります。<br />解釈によっては風水説話ともとれます。「彫刻の龍は夜になると池に水を飲みに来る。また、その龍は水に姿を映して雲を呼ぶという。池の水が涸れたことがないのは、龍が水を守っているからであり、その池は『涸れずの池』と呼ばれた」。この伝説は、勝興寺の山号「雲龍山」の由来譚とされるものだそうです。<br />龍の彫刻は名工 左甚五郎の作とも伝えられ、名工の作品を讃えるために彫り物が夜毎動き回るなどの伝承は枚挙に暇がありません。

    水の涸れない池(七不思議)
    経堂の西面に隣接して池があり、勝興寺の火災の折、経堂の重層屋根に彫られた龍がこの池の水を口に含んで消火したと伝わります。 それ以来、この池は大干ばつの時でも龍が雲を呼んで雨を降らせ、涸れたことはないと伝わります。
    解釈によっては風水説話ともとれます。「彫刻の龍は夜になると池に水を飲みに来る。また、その龍は水に姿を映して雲を呼ぶという。池の水が涸れたことがないのは、龍が水を守っているからであり、その池は『涸れずの池』と呼ばれた」。この伝説は、勝興寺の山号「雲龍山」の由来譚とされるものだそうです。
    龍の彫刻は名工 左甚五郎の作とも伝えられ、名工の作品を讃えるために彫り物が夜毎動き回るなどの伝承は枚挙に暇がありません。

  • 越中国府碑<br />本堂の左横に鎮座しています。境内は天平~平安時代には令制国の国司が政務を執る国府が置かれた越中古国府跡です。碑の文字は、富山県内近代書道の草分けと称される書道家 上原欣堂(富山大学名誉教授) の筆になります。<br />万葉歌人 大伴家持は、29歳だった746(天平18)年から5年間、少納言に出世して帰京するまでこの地に国守として赴任しました。国守とは、現在で言えば県知事に裁判長と警察署長、消防署長を合わせた最高権力者でした。赴任の前年は、聖武天皇の発願で東大寺の大仏造立が国家事業となり造立が始まりました。赴任した家持の任務のひとつは、東大寺の寺領を占定して開墾を進めることでした。『万葉集』によると、家持は、東大寺領の占定と開墾の様子を視察しに訪れた東大寺の僧 平栄を丁重に迎え、歌を贈り宴を催したとあります。宴会で歌を詠むのは、現代で言えば会議で議事録を記すのと同じ意味合いであり、更には旅行記や日誌と似た要素もありました。<br />因みに、この碑の裏手には「かたかご」の群落があるそうです。「かたかご」とは家持がこよなく愛した「カタクリ」のことで、高岡市の市花にもなっています。

    越中国府碑
    本堂の左横に鎮座しています。境内は天平~平安時代には令制国の国司が政務を執る国府が置かれた越中古国府跡です。碑の文字は、富山県内近代書道の草分けと称される書道家 上原欣堂(富山大学名誉教授) の筆になります。
    万葉歌人 大伴家持は、29歳だった746(天平18)年から5年間、少納言に出世して帰京するまでこの地に国守として赴任しました。国守とは、現在で言えば県知事に裁判長と警察署長、消防署長を合わせた最高権力者でした。赴任の前年は、聖武天皇の発願で東大寺の大仏造立が国家事業となり造立が始まりました。赴任した家持の任務のひとつは、東大寺の寺領を占定して開墾を進めることでした。『万葉集』によると、家持は、東大寺領の占定と開墾の様子を視察しに訪れた東大寺の僧 平栄を丁重に迎え、歌を贈り宴を催したとあります。宴会で歌を詠むのは、現代で言えば会議で議事録を記すのと同じ意味合いであり、更には旅行記や日誌と似た要素もありました。
    因みに、この碑の裏手には「かたかご」の群落があるそうです。「かたかご」とは家持がこよなく愛した「カタクリ」のことで、高岡市の市花にもなっています。

  • 越中国府碑<br />碑の裏面には、家持の歌が原文で刻まれています。<br />「安之比奇能夜麻能許奴礼能保与等理天可射之都良久波知等世保久等曽」<br />(あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて 插頭(かざ)しつらくは 千年寿(ちとせほ)くとぞ)<br />木の梢に寄生する宿り木を採って頭にかざすのは、その生命力に千年の命を祈ってのことだ。<br />『万葉集』には「天平勝宝二年の正月二日、国庁にして饗を諸郡司等に給ふ宴の歌一首」とあり、千年以上も前のことながら、年初のはなやぎを感じさせる歌です。<br />家持は、従3位、中納言で三十六歌仙にも選ばれ、『万葉集』に473首もの歌を残し、赴任中のアラサー時代には223首もの歌を詠みました。また、家持が『万葉集』の編纂に関わったことから、高岡は「万葉の里」としても知られています。因みに、家持の父親は、新元号「令和」の出典となった歌『梅の花』を詠んだ歌人グループの中心メンバーであった大伴旅人です。

    越中国府碑
    碑の裏面には、家持の歌が原文で刻まれています。
    「安之比奇能夜麻能許奴礼能保与等理天可射之都良久波知等世保久等曽」
    (あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて 插頭(かざ)しつらくは 千年寿(ちとせほ)くとぞ)
    木の梢に寄生する宿り木を採って頭にかざすのは、その生命力に千年の命を祈ってのことだ。
    『万葉集』には「天平勝宝二年の正月二日、国庁にして饗を諸郡司等に給ふ宴の歌一首」とあり、千年以上も前のことながら、年初のはなやぎを感じさせる歌です。
    家持は、従3位、中納言で三十六歌仙にも選ばれ、『万葉集』に473首もの歌を残し、赴任中のアラサー時代には223首もの歌を詠みました。また、家持が『万葉集』の編纂に関わったことから、高岡は「万葉の里」としても知られています。因みに、家持の父親は、新元号「令和」の出典となった歌『梅の花』を詠んだ歌人グループの中心メンバーであった大伴旅人です。

  • 越中国府碑<br />歌は、このように岩の地肌に刻まれています。<br />751(天平勝宝3)年、家持は越中国守を退任し帰京しました。その際、餞別の宴で詠んだ歌があります。着任時は都から遠い鄙びた田舎に来たと嘆いていたものの、帰京が叶った喜びと5年間の生活を振り返り、気心知れた仲間と別れる複雑な気持ちを詠んでいます。<br />「しなざかる 越に五年 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも 」

    越中国府碑
    歌は、このように岩の地肌に刻まれています。
    751(天平勝宝3)年、家持は越中国守を退任し帰京しました。その際、餞別の宴で詠んだ歌があります。着任時は都から遠い鄙びた田舎に来たと嘆いていたものの、帰京が叶った喜びと5年間の生活を振り返り、気心知れた仲間と別れる複雑な気持ちを詠んでいます。
    「しなざかる 越に五年 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも 」

  • ツワブキ<br />大伴家持は帰京して安泰な生活を送ったかと言えば、そうではありません。越中の5年間で都の政治情勢が大きく変動し、その後の中央政界での出世コースからは外されました。それどころか親しかった左大臣 橘諸兄とその政敵 藤原仲麻呂との抗争に巻き込まれ、更には藤原氏から迫害まで受けました。そこで家持は政争の激しい社会を嘆き、一族の存続を賭して抗争の外に身を置く決意をするのですが、それが災いして一族の信用を失いかけました。一族の長として正統派の名に恥じぬようにとの責務と諦観の間を彷徨っていたことが『万葉集』の2首(長歌「族(うがら)を喩す歌」と仏道を求める歌「うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道をたづねな」) からも窺えます。<br />長歌については次のサイトを参照してください。<br />https://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.ukara.html

    ツワブキ
    大伴家持は帰京して安泰な生活を送ったかと言えば、そうではありません。越中の5年間で都の政治情勢が大きく変動し、その後の中央政界での出世コースからは外されました。それどころか親しかった左大臣 橘諸兄とその政敵 藤原仲麻呂との抗争に巻き込まれ、更には藤原氏から迫害まで受けました。そこで家持は政争の激しい社会を嘆き、一族の存続を賭して抗争の外に身を置く決意をするのですが、それが災いして一族の信用を失いかけました。一族の長として正統派の名に恥じぬようにとの責務と諦観の間を彷徨っていたことが『万葉集』の2首(長歌「族(うがら)を喩す歌」と仏道を求める歌「うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道をたづねな」) からも窺えます。
    長歌については次のサイトを参照してください。
    https://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.ukara.html

  • 納骨堂<br />こんもりした土饅頭のようなところは納骨堂です。代々の住職の遺骨を納めているそうです。<br /><br />帰京後、大伴家持は因幡、薩摩、大宰府、相模へ赴任した後、東北地方平定のために陸奥按察使(あぜち)鎮守将軍(持節征東将軍)に任じられ、785(延暦4)年に多賀城(宮城県)にて68歳で没しました。その晩年は「歌わぬ歌人」として過ごしたといいます。 <br />しかし、薨去の直後、長岡京遷都の責任者 藤原種継を暗殺した首謀者として名を挙げられ、生前に遡って官籍から除名され、領地没収の上、遺骨が実子 永主と共に隠岐に配流されました。理不尽ながら家持が反桓武天皇勢力の早良親王に仕えていたことがその理由でした。<br />やがて無罪として官位に復したのは、806(大同元)年のことでした。無罪は立証されても、それは一族にとっては後の祭りでした。このように冤罪や武将として没するなど、万葉歌人にとっては何とも悲劇的な晩年でしたが、『万葉集』から新元号「令和」が選ばれたことで、少しは報われたかもしれません。 

    納骨堂
    こんもりした土饅頭のようなところは納骨堂です。代々の住職の遺骨を納めているそうです。

    帰京後、大伴家持は因幡、薩摩、大宰府、相模へ赴任した後、東北地方平定のために陸奥按察使(あぜち)鎮守将軍(持節征東将軍)に任じられ、785(延暦4)年に多賀城(宮城県)にて68歳で没しました。その晩年は「歌わぬ歌人」として過ごしたといいます。
    しかし、薨去の直後、長岡京遷都の責任者 藤原種継を暗殺した首謀者として名を挙げられ、生前に遡って官籍から除名され、領地没収の上、遺骨が実子 永主と共に隠岐に配流されました。理不尽ながら家持が反桓武天皇勢力の早良親王に仕えていたことがその理由でした。
    やがて無罪として官位に復したのは、806(大同元)年のことでした。無罪は立証されても、それは一族にとっては後の祭りでした。このように冤罪や武将として没するなど、万葉歌人にとっては何とも悲劇的な晩年でしたが、『万葉集』から新元号「令和」が選ばれたことで、少しは報われたかもしれません。 

  • 道の駅「万葉の里 高岡」富山ブラックラーメン<br />「万葉の里 高岡」は、万葉集にも詠まれた二上山を遠くに望み、能越自動車道の高岡ICへの分岐点に近接する国道8号沿いにあり、交通の要衝に位置しています。ここから北陸新幹線「新高岡駅」へは自動車で10分程の距離です。<br />交通情報・観光情報はもちろん、工芸品・特産品の展示販売、高岡グルメが食べられるフードコートも完備されています。特に、ご当地カラーラーメンを9種類取り揃えています。<br />通称「富山ブラック」は富山B級グルメの代表格としてテレビや雑誌で紹介されていますが、本家本元の富山県民の間でも「塩辛過ぎる」と物議を醸しています。ビジュアルは濃口醤油をベースにした真っ黒のスープで、薄口醤油に馴染んだ関西人はそれだけでガツンと面食らいます。東京のスープの黒さにも驚きましたが、その比ではありません。<br />ブラックラーメンの発祥店とされるのが「西町大喜」で、メニューにある中華そばが「ブラックラーメン」と命名されたのは10数年前に遡ります。県外から訪れたお客さんが見た目の黒さからブラックラーメンと呼びはじめ、富山B級グルメとして全国にその名を馳せました。<br />この中華そばのルーツは、大空襲に見舞われた富山市内の復興事業の一環として汗水流して働く労働者の塩分補給のために考案された「ご飯に合うおかずとしてのラーメン」だったそうです。ですから、普通のラーメンより塩辛いのはごもっともです。カメラを担いで奔走した後でしたので、丁度良い塩梅でしたが…。しかし、癖になる旨みがなければリピーターは期待できません。それを担うのが、自慢の鶏ガラスープのようです。

    道の駅「万葉の里 高岡」富山ブラックラーメン
    「万葉の里 高岡」は、万葉集にも詠まれた二上山を遠くに望み、能越自動車道の高岡ICへの分岐点に近接する国道8号沿いにあり、交通の要衝に位置しています。ここから北陸新幹線「新高岡駅」へは自動車で10分程の距離です。
    交通情報・観光情報はもちろん、工芸品・特産品の展示販売、高岡グルメが食べられるフードコートも完備されています。特に、ご当地カラーラーメンを9種類取り揃えています。
    通称「富山ブラック」は富山B級グルメの代表格としてテレビや雑誌で紹介されていますが、本家本元の富山県民の間でも「塩辛過ぎる」と物議を醸しています。ビジュアルは濃口醤油をベースにした真っ黒のスープで、薄口醤油に馴染んだ関西人はそれだけでガツンと面食らいます。東京のスープの黒さにも驚きましたが、その比ではありません。
    ブラックラーメンの発祥店とされるのが「西町大喜」で、メニューにある中華そばが「ブラックラーメン」と命名されたのは10数年前に遡ります。県外から訪れたお客さんが見た目の黒さからブラックラーメンと呼びはじめ、富山B級グルメとして全国にその名を馳せました。
    この中華そばのルーツは、大空襲に見舞われた富山市内の復興事業の一環として汗水流して働く労働者の塩分補給のために考案された「ご飯に合うおかずとしてのラーメン」だったそうです。ですから、普通のラーメンより塩辛いのはごもっともです。カメラを担いで奔走した後でしたので、丁度良い塩梅でしたが…。しかし、癖になる旨みがなければリピーターは期待できません。それを担うのが、自慢の鶏ガラスープのようです。

  • 道の駅「万葉の里 高岡」入善ブラウンラーメン<br />富山ブラックやホワイトと並ぶ、富山県のご当地ラーメンです。<br />富山県東部に位置する入善町で作られた深層水使用を練りこんだシコシコの中太麺と、入善町で作られた海老のエキスを配合した秘伝の味噌をベースとした味噌ラーメンです。トッピングされた「白エビの天ぷら」が海老味噌に追い打ちをかけ、まさしく濃厚な海老三昧のラーメンです。まったりとした海老エキスの旨味の後から追いかけてくるピリ辛が病み付きになります。<br />日本海に面した入膳町は、ミネラルが豊富で良質な海洋深層水に恵まれています。また、味噌は県産の米・大豆、黒部川扇状地の名水で作られています。こうした背景から、2010年に商工会青年部の有志が町興しとして考案したものです。

    道の駅「万葉の里 高岡」入善ブラウンラーメン
    富山ブラックやホワイトと並ぶ、富山県のご当地ラーメンです。
    富山県東部に位置する入善町で作られた深層水使用を練りこんだシコシコの中太麺と、入善町で作られた海老のエキスを配合した秘伝の味噌をベースとした味噌ラーメンです。トッピングされた「白エビの天ぷら」が海老味噌に追い打ちをかけ、まさしく濃厚な海老三昧のラーメンです。まったりとした海老エキスの旨味の後から追いかけてくるピリ辛が病み付きになります。
    日本海に面した入膳町は、ミネラルが豊富で良質な海洋深層水に恵まれています。また、味噌は県産の米・大豆、黒部川扇状地の名水で作られています。こうした背景から、2010年に商工会青年部の有志が町興しとして考案したものです。

  • 丸龍庵「特選ます一重桶」<br />「きっときと市場」にあるお土産処「丸徳」で購入した、丸龍庵の「ますの寿司」を夕食にいただきます。<br />鱒寿司の歴史は、『越中史料』に江戸時代中期の享保年間に富山藩士で料理人でもあった吉村新八が富山藩主3代  前田利興に「鮎寿司」を献上した時の製法が現在の鱒寿司と同じ「早ずし」であった旨が記されています。これを藩主が気に入り、富山名物として将軍に献上したところ、時の将軍 吉宗が絶賛したそうです。その後、晩春から初夏に神通川で獲れるサクラマスを用いて「鱒寿司」を作るようになり、その後鱒寿司が富山藩の献上品となったと伝わります。

    丸龍庵「特選ます一重桶」
    「きっときと市場」にあるお土産処「丸徳」で購入した、丸龍庵の「ますの寿司」を夕食にいただきます。
    鱒寿司の歴史は、『越中史料』に江戸時代中期の享保年間に富山藩士で料理人でもあった吉村新八が富山藩主3代 前田利興に「鮎寿司」を献上した時の製法が現在の鱒寿司と同じ「早ずし」であった旨が記されています。これを藩主が気に入り、富山名物として将軍に献上したところ、時の将軍 吉宗が絶賛したそうです。その後、晩春から初夏に神通川で獲れるサクラマスを用いて「鱒寿司」を作るようになり、その後鱒寿司が富山藩の献上品となったと伝わります。

  • 丸龍庵「特選ます一重桶」<br />美味しい酢飯作りに欠かせないのが「寿司桶」です。木材の寿司桶には「調湿作用」があり、ご飯の水分を必要に応じて放出させて一定量を保持する作用があります。これにより、適度な硬さの酢飯に仕上がり、美味しくいただけます。<br />その他、木桶を使うことで酢飯に木の香りが移り、酢の匂いを和らげて風味良く仕上げることができます。<br />https://ganryuan.co.jp/

    丸龍庵「特選ます一重桶」
    美味しい酢飯作りに欠かせないのが「寿司桶」です。木材の寿司桶には「調湿作用」があり、ご飯の水分を必要に応じて放出させて一定量を保持する作用があります。これにより、適度な硬さの酢飯に仕上がり、美味しくいただけます。
    その他、木桶を使うことで酢飯に木の香りが移り、酢の匂いを和らげて風味良く仕上げることができます。
    https://ganryuan.co.jp/

  • 丸龍庵「特選ます一重桶」<br />隈笹の葉を広げると目にも鮮やかな鱒色の押し寿司が姿を現します。<br />丸龍庵のものは、ほどよく脂ののった分厚い鱒に仄かに甘い酢飯の相性が抜群であり、旨味と色彩の調和が見事です。また、鱒と酢メシの間に甘酢漬けの千切生姜を挟んで味にアクセントを付けています。<br />丸龍庵のますの寿司は、2015年に紫綬褒章を受けられた立川志の輔師匠のお勧めでもあります。因みに、新湊は師匠の故郷でもあります。<br />隈笹には防腐・殺菌効果があり、昔から包装に使われていました。笹の葉に含まれる揮発性の物質「フィトンチド」や「サリチル酸」に抗菌・殺菌作用があり、生活の知恵として食中毒予防に使われていました。こうした殺菌作用からか、古来笹には精霊が宿ると信じられており、寺社で行われる「すす払い」にも笹ほうきが使われます。また、宮崎県高千穂の岩戸神楽では、天の岩戸に姿を隠した天照大神を誘い出す際に笹の葉を用います。<br />それに加え鱒の寿司の場合は、色彩のコントラストの面からも外せません。<br />お腹いっぱいになった後は、心地よい列車の揺れに誘われて何時の間にか夢の中でした。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    丸龍庵「特選ます一重桶」
    隈笹の葉を広げると目にも鮮やかな鱒色の押し寿司が姿を現します。
    丸龍庵のものは、ほどよく脂ののった分厚い鱒に仄かに甘い酢飯の相性が抜群であり、旨味と色彩の調和が見事です。また、鱒と酢メシの間に甘酢漬けの千切生姜を挟んで味にアクセントを付けています。
    丸龍庵のますの寿司は、2015年に紫綬褒章を受けられた立川志の輔師匠のお勧めでもあります。因みに、新湊は師匠の故郷でもあります。
    隈笹には防腐・殺菌効果があり、昔から包装に使われていました。笹の葉に含まれる揮発性の物質「フィトンチド」や「サリチル酸」に抗菌・殺菌作用があり、生活の知恵として食中毒予防に使われていました。こうした殺菌作用からか、古来笹には精霊が宿ると信じられており、寺社で行われる「すす払い」にも笹ほうきが使われます。また、宮崎県高千穂の岩戸神楽では、天の岩戸に姿を隠した天照大神を誘い出す際に笹の葉を用います。
    それに加え鱒の寿司の場合は、色彩のコントラストの面からも外せません。
    お腹いっぱいになった後は、心地よい列車の揺れに誘われて何時の間にか夢の中でした。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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