2019/11/16 - 2019/11/16
145位(同エリア166件中)
摂津の国のマーガトロイドさん
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- 98,992アクセス
- フォロワー9人
11月16日&17日は関西文化の日。関西地方の博物館の一部が無料で入れるという日。
それならばと朝から奈良、大阪の博物館を巡りついでにダムカードも兼ねて信貴山に行くというとんでもコース。
思ったより写真が多いので3回に分けて書くことにします。
今回はなぜか奈良県天理市で大阪市交通局についての特別展「大阪市営交通114年の軌跡」が行われていたのでそちらのレポ。
なので奈良の旅行記だが実際は大阪市営交通に関するものとなる。
今回は貴重な資料を多数紹介している。
使用した列車は以下の通り。
森ノ宮812→環状線外回り→816鶴橋
鶴橋818→快速急行奈良行→845大和西大寺
大和西大寺849→急行橿原神宮前行→859平端
平端904→普通天理行→910天理
天理1029→急行京都行→1035平端
平端1038→急行橿原神宮前行→1042田原本
西田原本1102→普通新王寺行→1122新王寺
王寺駅1125→奈良交通信貴山門行→1141信貴山
王寺1317→大和路快速大阪方面行→1335天王寺
天王寺1340→環状線内回り→1349森ノ宮
森ノ宮1352→コスモスクエア行→1353谷町四丁目
谷町四丁目1628→コスモスクエア行→1630堺筋本町
堺筋本町1633→普通高槻市行→1636南森町
南森町1639→大日行→1641東梅田
梅田1645→千里中央行→1651新大阪
新大阪1657→天王寺行→1702梅田
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
旅は森ノ宮から。なぜ森ノ宮スタートかといえば森ノ宮までは定期があるからという理由。
環状線323系にほんの少し揺られて鶴橋へ向かう。土曜日の朝でも通勤通学客は普通に多い。 -
鶴橋からは近鉄に乗り換える。快速急行で一気に大阪府内を飛ばす。
鶴橋駅のホームは大混雑だったが10両の輸送力で一気に運びきる。普通に座ることもできた。
進行方向右側に座ったので生駒山を望めるが大阪平野は望めない。
生駒でそれなりに客が入れ替わる。
西大寺で同じホームに着く橿原神宮前行きの急行に乗り換える。かなりの客が乗ってきた。奈良行きが10両に対してこちらは6両だ。当然立客もかなり出ており筆者も立って西大寺検車区を眺める。
ため池が増えてくる郡山で早速結構な客が降りる。 -
平端に到着。郡山と比べると降りる客は少ない。
平端からは天理線の4両編成に乗り込む。天理駅の構造上やはり先頭車が混み合う(笑)
まあそれでも普通に座れるレベルだが…
そして珍しく肉声放送だった。少し前の近鉄を思い出すがお決まりの「扉にご注意ください」や「この電車はこの駅まで」という言い回しはなく「次は、天理、天理、終点です」と一般的な言い回しだった。 -
天理駅に着いた。かつて来た時と比べて駅前広場が変わりまくっているので一瞬どうなっているんだと困惑しながらも商店街を目指す。
-
しばらくは普通の商店街だが進んでいくと雰囲気が変わり黒法被の人々が増えてくる。
そう、ここは天理。天理教の街なのだ。 -
天理教本部に近くなってきたからかだんだんと天理教色が濃くなっていく。
黒法被の人も相変わらず見受けられる。 -
ということでしばらく歩いて天理参考館に到着。
とはいっても今回の目的はポスターの通り特別展「大阪市営交通114年の軌跡」である。
この日は関西文化の日で無料で入ることができる。オープン間もないからなのか、それとも奈良の天理で大阪市営交通の展覧会というカオスさからか意外に人は少ない。
だがこの中は色々な意味で魔窟だった…ここの写真の多さこそが1日の出来事を3つもの旅行記に分割することになった要因である。
それではあなたを追憶の時代旅行にご案内しよう。 -
まずは「大大阪観光」が上映されていた。
以前大阪歴史博物館で全編見ているので改めて見ることはしないが、昭和前期の「大大阪」と呼ばれた時代の大阪を垣間見ることができる。
所々の言い回しなどに時代を感じるがそれも含めて歴史である。
ここからは館内の展示順ではなく概ね時代順に紹介することにする。
多少時代の前後はあるかもしれないがそこは紹介の都合ということでご容赦願いたい。 -
大正時代の市電の切符の裏面には広告があった。
今も存在するあみだ池大黒と心斎橋の大丸が広告を出している。
大正時代は御堂筋はまだ存在せず、心斎橋筋や堺筋がメインストリート。
ということで今の心斎橋大丸のイメージとは少しだけ異なる。 -
次は大阪市バスの前身のひとつ(直接の前身ではない)大阪バスの広告である。
梅田~天保山の系統など、今につながる路線もいくつか見受けられる。
空にツェッペリン陸に大阪バスというフレーズから大正時代~昭和初期と推測される。
なお大阪バスといってもニュースター号の大阪バスではない。この大阪バスと市バスが激しく争った時代があるのだ。
実際大阪市交通局(当時は電気局)による買収にあたっても大きく揉めている。
市電を昔の乗り物と断定している辺りに電気局に対する激しい対抗心が見える。
さらに広告下部には「大阪バス行進曲」という曲も存在する。
大阪市営地下鉄の「大大阪地下鉄行進曲」といいそういうものが流行した時代なのだ。 -
陸軍演習期間料金割引チラシ…陸軍演習が行われるから割引というのも現代人からすると考えにくいものかもしれない。
説明をよく見ると「早朝割引料金」というものも存在する。
隣には制度上今も続くバスと電車の乗継割引のチラシがあるがこの時の乗継割引設定の目的は大阪バスとの対抗の為であり翌年には中止されている。 -
1935年頃の大阪バスの大阪名所案内である。
四天王寺の五重塔、大阪城、難波橋のライオン像がデザインされている。 -
一方こちらも大阪バスの名所案内だが先程と異なり表紙を見ただけでは大阪の名所は描かれていない
-
そして時代は昭和前期、まさに地下鉄1号線(後の御堂筋線)建設の時代へと移る。
建設中の地下鉄の観覧券というのがあったのである。
今見ても豪華な仕様の地下駅、当時の人からすると度肝を抜かれたのではないだろうか。 -
そしていよいよ地下鉄が開通するポスターである。
ここからしばらくはポスターを中心に紹介することとなる。
ポスター記載の通り最初の開業区間は難波ではなく心斎橋までだった。 -
こちらはよりカラフルなポスター。梅田~心斎橋間を5分で結んでいた。
実は今の方が微妙にスピードダウンしているのだがそれは梅田駅の位置が異なったからである。
まだ現在の梅田駅は建設中。
その代わりに梅田駅の南側、ちょうど阪神百貨店の南東側辺りに梅田仮停留場というものが存在していたのである。
現在も地下鉄の車内から駅名標の痕跡を見ることができる。 -
地下鉄の試乗券と絵葉書も展示されている。
ここには大大阪地下鉄行進曲も紹介されていた。
ここに大阪はまさしく「称えよ地下鉄スピード時代」の幕開けを迎えることになる。 -
難波への開通を目前に控えた1935年10月6日、ようやく梅田駅が完成。
阪急百貨店、当時は暫定高架だった阪急電車(その後地上→JR北側で再高架化して現在に至る)そして大阪駅と直接連絡することになる。
阪神電車はどうしたと言われそうだがこの時はまだ阪神電車は現在の梅田への乗り入れは果たしておらずハービス辺りに暫定的に駅を設置していた。 -
その直後に難波まで延伸開業。
3分毎発車という文言がある。今の御堂筋線は4分ごとの発車なので今よりも微妙に頻発運転だったことが分かる。
もっとも輸送力は当時とは全く異なるが… -
戦前の東京地下鉄道同様に、各種増収策はたくさんある。
大阪劇場観覧券付往復乗車券。
大阪劇場ではこの年から松竹歌劇団の公演が始まっている。
大阪でも太正桜に浪漫の嵐(ry -
松竹座観覧券付往復乗車券もある。
この時は心斎橋から歩く必要があったが翌年の難波乗り入れでより便利になっている。 -
難波開通のポスターがもう一枚あった。
この頃はまだ大阪市交通局ではなく電気局である。 -
地下鉄からの各線連絡切符の発売も始まった。
阪神の連絡切符は途中下車不可能だが南海の連絡切符は途中下車が3回まで可能という違いがある。 -
こちらは硬券タイプ。阪和連絡、南海山手線連絡という切符もあるがこれらは天王寺延伸後のもの。
-
地下鉄と市電の連絡乗車券の発売も天王寺延伸を前にスタートしている。
下にある傷痍軍人向けの優待回数券がある辺りが時代を感じる。
この時代は大阪市の交通ネットワークが花開く頃でもあるが同時に日中戦争などもあり戦火の足音が徐々に聞こえ始める時期でもあった。 -
しかしそんな中でも地下鉄は南の交通の要衝、当時「大阪の新宿街」とも呼ばれた天王寺を目指す。
動物とともに先代の通天閣が描かれている。 -
こちらは別のポスター。
注目すべき点として、天王寺で連絡する路線として「阪和」「大鉄」「省線」ともう存在しない名前が並ぶ。南海に至ってはもう路線そのものが存在しない。
さらに天王寺には(アベノ)と注釈がついている。
また、阪神が現在地の梅田駅への乗り入れを果たしたので梅田で連絡する路線に「阪神」の文字も入っている。 -
地下鉄から私鉄各線への連絡乗車券が発売されたことは既に紹介したが少し遅れて市電でも連絡乗車券の発売がスタートした。
乗車券の発売範囲は後程詳しく紹介するが「基本的に」大阪市内である。
市電の無かった淀川以北や天王寺以南、新たに編入した平野周辺など市内郊外の市民の便宜を図ったものとみられる。 -
この図の外側は当時の大阪市の境界の駅(吹田市と門真市に例外はある、守口市は市電が乗り入れていたので大阪市内扱いだったのだろう)となっていて、基本的に大阪市内の駅が市電との連絡範囲になっていたのだが注目すべきは関西本線。
平野(省線平野となっているのは南海平野線の平野駅があったため)までしか連絡対象になっていないが、これは当時加美駅が大阪市ではなく中河内郡加美村であったことが理由である。
また、戦前までは阪堺線(新阪堺)は大阪市電の路線ではなかったので連絡対象となり、南加賀屋町までが連絡対象となっている。
新京阪(阪急千里線)の連絡範囲も西吹田までとなっている。この西吹田駅は現在の阪急吹田駅とほぼ同位置である(厳密には西吹田駅と現在の吹田駅は系譜としては異なる)が当時は別に東吹田駅という駅が存在した為、かなり吹田市側に食い込んでいる。
なお現在の阪急京都線側に吹田駅が存在するがこれは現在の相川駅であるためこちらは大阪市内で収まっている。
厳密には片町線の徳庵駅も東大阪市の駅だが、ここは西口がほぼ大阪市との市境(市境までわずか30mである)に位置し、大阪市民の利用客も相当数いるため連絡範囲になったと思われる。 -
翌年には太平洋戦争が始まる。
この頃から乗務員が徴兵で不足してきたため市電でいよいよ定期券の発売がスタートした。
分かりやすく路線図までついている。 -
「電」なのです
配電統制令により大阪市電気局は電力事業を関西配電(後の関西電力)に強制合併されることとなり、電気局は交通局に名を改めた。
ちなみに現在の関西電力の大株主に大阪市や神戸市が存在するのは各市の市営電力事業の統合という歴史的経緯である。
この経緯から大阪市交通局を引き継いだ大阪市高速電気軌道も関電の株主のひとつである。
電気局の局章は後の大阪市交通局に引き継がれ、さらに大阪市高速電気軌道の社章となった結果、現在も地下鉄車両の側面or連結部に記載されている。
少しだけ惜しいのは1942年時点ではまだ大阪市交通局ではなく大阪市電気局だったということだがまあ細かいことは気にしないw -
市電の定期券発売に先立って、地下鉄も定期券が発売されるようになっている。
ここに並んでいるもののうち私鉄連絡は基本的に戦後の物だが左上の阪急塚口~天王寺間の定期券はなんと終戦当日、1945年8月15日の発行となっている。
この終戦の日、梅田で定期券を購入した17歳の若者は焼け跡の大阪市街(とはいっても梅田はミナミに比べるとまだマシではあったが)に何を見て、これからの未来に何を思ったのであろうか… -
戦時中の大阪大空襲で大阪市交通局も甚大な被害を受けたが、その戦後の混乱も落ち着いた1950年にはこの天理に本部のある天理教への団体乗車券も発売されている。
なんば線はおろか西大阪線も西九条まで開通していなかった(当時は千鳥橋までしか開通しておらず路線名も伝法線であった)ので阪神電車で元町から梅田へ、梅田から上六までは市電、上六からは近鉄という行程である。 -
日本橋、でんでんタウンの最北端に現在高島屋東別館として残るかつての松坂屋大阪店から松坂屋創業340年記念として無料乗車券が配布されていた。
当然他の百貨店からの反発が激しくすぐに中止せざるを得なくなったがこういう乗車券が配布されるほど復活の兆しが見えていたのである。
なお松坂屋は後に天満橋に移転するが日本橋や天満橋という立地自体が良くない為(日本橋に関して言えば日本橋駅、いわゆる日本一からは離れており近鉄の難波開通は天満橋移転後、地下鉄の駅の準備工事もできていたが開通はやはり天満橋移転後で駅も開設されなかった。
移転した天満橋にしても移転した時点で京阪は淀屋橋へ延伸していて終点のターミナルではなかった)ずっと赤字経営で撤退、現在は京阪シティモールとなっている。 -
市バスの急行運転も行われるようになっている。
急行運転自体は現在も大正区内で行われているがその元祖ともいえる。
地下鉄の無かった当時、収容力の市電、機動力とスピードの市バスと使い分けられていた。(神戸市バスのwikiの記事がこの手の事情には詳しい、神戸市電の記事といい相当な市バス、市電愛のある人が書いたのではなかろうか) -
戦争で止まっていた地下鉄建設の槌音(正確には1942年に現在の四つ橋線大国町~花園町間が開通しているがとても記念乗車券を発売する余裕などなかったのであろう)も再び動き出した。
1951年12月、天王寺~昭和町間が開通した。
それにしても右下の記事は阿倍野駅とまだ当時影も形も無かった駅名を掲載している…地下鉄阿倍野駅が開通するのはそれから29年後の1980年のことである。 -
同じ頃、1950年には市バスによる定期観光バスが運転を再開した。
大大阪観光で戦前の定期観光バスの紹介がされていたがこれは戦後の物である。
USJや海遊館はもちろんまだないが、大阪城と住吉大社で下車タイムがある3時間半の観光コースだ。 -
こちらは別バージョン。シンプルな分観光名所がイラストつきでよく分かる。
大阪歌舞伎座があることから1958年以前のものであることが分かる。
堺筋本町の国際見本市会場(系譜でいえば現在のインテックス大阪だがその先代の朝潮橋よりもさらに前の初代である)馬場町時代のNHK、扇町の大阪プール(余談だがその大阪プールの移転先は2代目国際見本市会場のあった朝潮橋である)、四ツ橋の電気科学館、高麗橋の三越、心斎橋のSOGOなど今は無き大阪の名所も数多く記載されている。
現在地にある建物でも阪急百貨店は先代だ。あべの橋の近鉄百貨店も今はあべのハルカスとなっている。 -
夜バージョンの定期観光バスもあった。
こちらも大阪歌舞伎座があることから1958年以前のものである。
大阪歌舞伎座、大阪劇場のどちらかで観劇というコースだがどちらもいわゆる松竹→千土地系の劇場であった。
当時は吉本よりも松竹の方が強かったのである。
ちなみにこの後はキャバレー美人座というところに立ち寄っていたようだが、こちらはこの夜のコースとともに少なくとも1971年までは現役だったようで大阪歌舞伎座や大阪劇場よりも後まで生き残っていたことになる。 -
そんな大阪歌舞伎座がその歴史に幕を下ろした1958年は四つ橋線の岸里~玉出間が開通した年でもある。
この頃には延長記念の乗車券も再び出るようになっている。
なお、この間には御堂筋線は西田辺へ、四つ橋線は岸里へと延伸しているがその記念乗車券は展示されていなかった。
そして新車として1200形が登場している。
この車両は改番、改造を繰り返しつつ最後は谷町線の50系の中間車となって1980年代末期まで走っていた。 -
その頃の市バスはどうだったのかというとこういう路線になっていた。
堺東駅前行きや近鉄八尾駅前行きなどもうない路線もあるが、布施行きや榎木橋行き、当時は鶴見までだった36系統など現在もある長距離路線がこの頃から既に存在した。
逆に堺駅行きがないがこれは当時まだ市電の三宝線が現役だったため。
そしてトロリーバスの運行も開始している。
現在大阪駅前~加島間を走るバスも元々はトロリーバスだった。 -
ここで歴史の波に埋もれたトロリーバスに関する資料の展示を紹介しよう。
トロリーバス開通記念乗車券の隣に開通式が中止されたという記事がある。
運賃について地元と交通局の間で意見の相違があったと記載されている。
さらにこのエリアに路線を持っていた阪急バスとも揉めたようである。
紆余曲折ありトロリーバス(→市バス)が加島に乗り入れる代わりに阪急バスは梅田を経由して内本町バスセンターへ乗り入れるという協定が成立した。
トロリーバスが市バスに変わり、内本町バスセンターは廃止され、逆に阪急バスが加島から撤退し、豊中営業所の移転で阪北線が乗り入れなくなったなどの変化はあったが今も市バスは加島を走り、阪急バスは梅田を走っている。 -
その後トロリーバスの路線は広がり、守口~今里間にも開通することとなった。これはその記念の絵はがき。
今となってはトロリーバスの車内を記録したものもなかなか貴重である。
このトロリーバス路線が現在の35系統と今里筋線の原型となったのである。 -
(守口車庫前~)森小路~大阪駅前間(谷町線守口~東梅田間の原型となる区間である)、新深江~あべの橋間などトロリーバス路線は次々と広がっていった。
余談ながら筆者の祖母はかつてトロリーバスの車掌をしていた。そういう点でもある意味ゆかりのある乗り物である。
しかし後述するがトロリーバスの時代は長く続かなかったのである。
その紹介はまた後程。また昭和30年代の大阪に戻る。 -
当時は市バスのバス停は木製だった。これは昭和30年代末期の京橋北口バス停のもの。
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なので行先はこういう感じになる。36系統が茨田大宮から門真南へ延長された他は基本的に現在と同じ行き先である。
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その当時の市バスの方向幕が展示されている。行先の表示から守口営業所のものであると推測される。
あべの橋だけが現在の感覚でいうと異端に見えるが総合操車制の名残でかつての市バスの方向幕には大阪駅前、今里、なんば、あべの橋、上本町六丁目の5拠点はどの営業所の車両にも入っていた。この時代は行先番号は別の幕があった。 -
後の時代である1970年代の方向幕には行先番号も入っている。36系統は今は地下鉄門真南まで走っているがこの当時は茨田大宮まで。
安田行きも36系統だった。 -
こちらは1950年代の市バス定期券。
市電のように路線図が記載されているが、この時代は続々とバスの改廃があった時代。すぐにこのスタイルは取り止められたようである。
戦時中の市電定期券発売開始の時代は「電気局」だったが市バス定期券発売開始の時代には「交通局」となっているところにも注目。 -
昭和30年7月の文字が右上に記載されている。嵐山の鵜飼のクーポン券だ。
嵐山へは阪急も走っているが地下鉄が阪急と直通するのはここから14年も先の話。
この時はツアーバスとしての運行だったようだ。 -
その4年後の初詣乗車券。
豊国神社、住吉大社、生国魂神社、大阪天満宮と大阪を代表する神社が並ぶ。 -
一方、京阪は天満橋までの乗り入れであり延伸する地下鉄網の恩恵は受けられなかった。
そこで市電と京阪の連絡定期券の発売が1952年に開始される。 -
1970年代後半まで豊中まで市バスが乗り入れていた。
その豊中線の乗車券も展示されている。
豊中行きは整理券区間であり、車両も整理券箱を搭載した車両のみが乗り入れていたという。 -
1960年の大阪市電と地下鉄の路線図も展示されている。
御堂筋線はついにあびこまで開通した。
一方大阪市電も和製PCCカーの最高傑作である3001形の運行が開始され質、量ともに充実した時期であった。
また、市電の路線網には現在の地下鉄路線の面影も見える区間も多い。
しかし、港車庫前~大阪港間は市電の運行が休止され代行バスとなっていた。
また、路線図には表れていないが海水浴輸送で賑わった三宝線も大浜海水浴場が堺臨海工業地帯の造成で閉鎖されるなど時代の変化に徐々に直面し始めている。
左側の乗車券にも代行バスの乗車券がある。
そうなっていた理由が… -
これである。
なお「地下鉄」第4号線とあるがこれは詐欺である…なぜなら開通区間の弁天町~大阪港間に地下区間は一切存在しない…
しかしこの区間の建設が優先された事情として当時の大阪港への連絡が重要だったということが挙げられる。
この時は「東西線」と仮称されていた。
もしこのまま中央線が「東西線」として開通していたら今のJR東西線は「片福線」か「曽根崎線」となっていたのかもしれない。 -
その4号線は高架で開通。
この6000形もまた谷町線に後に転属し50系の中間車両となったw -
全線高架、そして当時まだ阪神高速が開通しておらず、高い建物も無かったので眺めも良く、「海の見える地下鉄」として話題になったという。
第三軌条で架線が無いので地上に上がるとよりすっきりした印象となる。 -
紹介の都合上多少前後しているが、先程の「東西線」のポスターの最下部には「高速鉄道(西田辺・長居・あびこ間開通記念)」とあるが実は御堂筋線(これも分かりやすく書いているだけで当時は1号線)西田辺~あびこ間が先に開通している。
この写真は長居駅南側から撮影したものと思われる。奥に阪和線の高架橋が見える。
ちなみにあびこ延伸が急がれたのは検車場の余裕がなくなったからだが、そのあびこ延伸で新設された我孫子検車場はなんと戦前から土地が確保されていたという。 -
あびこ開通記念の別のポスターも展示されている。
これは懐かしい雰囲気の心斎橋駅である。車両はともかく、天井はかなり最近までこんな感じだった。 -
東京オリンピックを前についに地下鉄が淀川を渡った。
1964年、新幹線の開通を契機として梅田~新大阪間が開通した。
記念乗車券も地下鉄と新幹線が描かれている。
この時の新大阪駅は仮設ホームだったが後に現在のホームへ延伸される。
副次的恩恵ではあるが、西中島南方で阪急と連絡するようになったこともあり、千里ニュータウンの造成開始などで乗客の増えてきた阪急京都線からのバイパスの役割も担うようになっていた。
淀川を渡る新淀川大橋は戦前から地下鉄の延伸に備えて準備工事はされていたものの戦争により建設は中断。なので橋脚だけは戦前からのものである。
計画当時は長柄橋や十三大橋の放射状バイパスとして江坂辺りまで計画されていたが、新幹線の開通と千里ニュータウンの造成により新大阪駅、そして発展著しい千里へのアクセス道路として姿を変え、箕面までの計画に変更される。 -
新大阪駅が仮駅である理由はこの通り。
これは北側から撮影したものだが、見れば分かる通り新幹線より北側のホームが無い。
ということで南端の本来のホーム端に木製の仮設ホームを設置して延長していたのである。
また、新御堂筋はまだ新淀川大橋を渡るバイパス道路としての位置付けでありまだ新大阪駅までたどり着いていない。
さらに、新御堂筋は西中島南方駅南方で向きが微妙に変わっており、現在の地図では新御堂筋東側では新御堂筋と並行に街路が整備されているがこの頃はまだ現在の新御堂筋西側同様新御堂筋から若干斜めになっている古くからの街路のままとなっている。 -
1967年の路線図が展示されている。この頃、地下鉄は小刻みかつ急ピッチで延伸を繰り返していたので特定も容易だw
本町~谷町四丁目間が開通していないが、その理由は中央大通が船場エリアで開通しておらず、地下鉄の建設ができなかったことによる。
さらに本町駅があるのに信濃橋駅が統合されず残っているのは中央線の本町駅がまだ仮駅状態で御堂筋線の本町駅とつながっていなかったからである。
中央大通の整備は御堂筋辺りでも用地買収の関係で遅れていて本町駅も完成とはいかなかったのだ。
この用地問題を解決させたのが船場センタービルの建設である。
代替地がない、船場から出て行きたくない、だけど道路は通したい、ならば船場の高架道路の下にビルを作ってしまえというとんでもなく奇抜なプランが実現し、現在の船場センタービルとなっている。
一方、ならば郊外に新しい船場を作ってしまえと船場から出て行きちょうど造成中だった千里ニュータウンの北方に「新船場」を造成してそこに移転した企業(SSOKの母体である萬栄が代表例)もある。
その横には見切れているが切り離し式の回数券が展示されている。
早くから回数カードに変わった理由が実はこれにあり、この回数券をバラ売りする立売人という人達がいたのである。
大半は戦争により夫を亡くした女性たちが生活の為に始めたという話がある。
この立売人を一掃すべく交通局は切り離し無効とするのだが、その際に立売人たちが猛反発。
交通局との話し合いが行われたが、わずかばかりだが解決金を交通局が支払うという形で決着。
立売人たちは姿を消した。この映像が、かつて関西テレビで深夜に単発企画として大阪市電があった時代の大阪の映像として放送されていたという。 -
地下鉄と新幹線を南側から写している。
江坂へ向けて急ピッチで地下鉄の建設が進み、新御堂筋も急ピッチで千里インターへ建設している。
これは交通局の広報紙だった「大阪のあし」の表紙である。
前後の大阪のあしのタイトルから1969年6月のものと思われる。
もうこの頃には新御堂筋の高架橋の建設は急ピッチ。緑地公園~桃山台間の下新田高架橋や千里インターの高架橋、千里中央エリアの新千里高架橋もちょうどこの頃に完成している。
この10月には新船場南橋、新船場北橋も完成しひとまず171号線までの開通の目途が立つ。 -
1965年頃の地下鉄の普通券は地図式。
だがこれでは急ピッチで進む地下鉄整備の度に作り直さなければならないのでは… -
1969年には迫り来る万博を前に万博アクセス路線として堺筋線が開通。
天六で阪急千里線と乗り入れて阪急と相互直通運転を果たしたのである。
もちろん万博だけでなく、造成エリアが大きく広がった千里ニュータウンや人口の増加した茨木、高槻方面からの通勤・通学アクセスにもバイパス路線となっていく。
阪急梅田駅も現在地に移転して拡張を続けていたがそちらも神戸線、宝塚線の客が押し寄せてくる。
特に宝塚線は並行路線である福知山線が非電化の時代で相手にならないことから三田方面の客も押し寄せてきていた。
一番下の補充券には「東向日町」の名も見える。この頃はまだ向日市が向日町だった時代である(向日市の市制施行は1972年) -
しかし、この華々しい地下鉄延伸の裏で徐々に市電は姿を消しつつあった。
市電廃止関係の掲示を見て行く。まずは阪堺線(阪堺電車ではなく大阪市電阪堺線)廃止の告知。
代替バスとなっている29系統は始終着点の微妙な変更(基本的に特29のルートを三宝車庫ではなく住之江公園止にしたもの)はあるが現在も同じ系統番号で運転している。
住之江公園以南は89系統となり行先は三宝から南海堺駅行きとなったが、市バスで唯一堺市に乗り入れる系統として阪堺線の名残を今に伝えている。 -
こちらは1969年3月末、市電で最後まで残った阪急東口~守口車庫間の代替バスの案内。
特34系統は34系統(こちらは健在)の亜種だが阪急東口~都島までは谷町線のルートを、都島から先は10系統のルートを走っている。
34系統は今と異なり難波発で扇橋(実質的に扇町)経由とあることから堺筋経由と推測され、堺筋線と谷町線の役割を担っていたと考えられる。 -
市電廃止時に行われたおなごり乗車会の乗車券も展示されていた。
大丸では市電展-つとめを終えた市電と伸びる地下鉄-というイベントもあったようだ。
それにしても大阪市交通局の記録映画「かくて200万の足は動く」にもあるようにこの時代の大阪の象徴は難波橋のライオン像だったのである。 -
ちなみに市電展の広告は緑木検車場に保存されている3001形の車内にも展示されている。こちらの方が内容が詳細に記載されている。
これは大阪市交通局としては最後の緑木検車場の公開の際に撮影したもの。
春咲く花の梅田より乗り出す電車心地よく…と大阪市街電車唱歌に謳われた市電はこうして歴史の彼方へと姿を消し、大阪市街は大大阪地下鉄行進曲以来の真の「スピード時代」を迎えることになる。 -
ただ、完全に大阪市電の系譜が死に絶えたのかといえばそうではない。
花電車で彩られた2601形はその後、ご覧の通り広電に移籍し900形となりつい5年ほど前まで広島市街を縦横無尽に走り抜け、大阪市電の面影を残し続けていた。
写真は2016年の撮影である。
だが急速に廃車が進み現在では残り1編成となってしまっている。
また、地下鉄の運賃制度も市電の面影をよく残すものがあり、市電の循環系統用に始められた迂回定期の制度や、折り返し乗車の容認、民営化前の運転士、車掌はそれぞれ「高速運転士」「高速車掌」であったことなどこれらは市電の時代からの伝統となっている。 -
スピード時代は花開き、ついに地下鉄は神崎川を越えた。そしてそれは同時に大阪市を越えたということになる。
地下鉄初の越境区間は御堂筋線。江坂までついに1970年2月、万博前月に開通した。 -
同時に北大阪急行も江坂~万国博中央口間が開通。
回数券には立売人対策に「切り離し無効」の文字がある。
ちなみに地下鉄の回数券は1998年に回数カードとなった代わりに運賃区数の制限がなくなり、回数カードを持っていれば初乗りから上限までが対象となるが、北急に関しては地下鉄連絡含めて現在も金額式の連絡回数カードが発売されている。
ただし、北急の改札機や精算機は地下鉄の回数カードに対応しているので地下鉄の回数カード+北急の普通運賃や北急の回数カードとの2枚通し精算が可能である。
万国博中央口行きの手売り券もある。
補充券も展示されているが見ての通り緑地公園駅はまだ存在しない。 -
記念乗車券も展示されていた。ちなみに当時の千里中央駅は現在と位置が異なり、中央環状線上に仮設ホームがあった。
また、開業日は2月14日となっているが正しくは2月24日である。 -
こちらも「大阪のあし」から。万博会場と地下鉄という組み合わせから一見北急の万国博中央口付近に見えるがこれは阪急千里線。
万国博西口駅のすぐ近く、現在の山田駅の北側の理化学研究所の施設がある辺りから撮影している。おそらく弘済院の敷地内から撮影したものと思われる。
弘済院は大阪市の車両が乗り入れてくるはるか前、戦前から現在地に存在する大阪市の施設である。 -
万国博連絡往復券のお知らせもある。
万博会場の混雑が予想されたため市内各地で往復券が発売されていた。
それだけでなく、国鉄、私鉄各駅からも万国博中央口、万国博西口行きの乗車券が発売されていた。 -
こちらの路線図に注目。緑地公園駅と山田駅(万国博西口駅と山田駅は距離は近いが別物)がなく、阪神北大阪線、阪神国道線がまだ存在している。
さらに、千日前線の桜川~谷町九丁目間が開通しておらず「なんば元町」(=現難波駅四つ橋線ホーム)が存在する。
前述の市電廃止の話で34系統が都島まで現在の谷町線のルートを走っていたということから分かるように谷町線はまだ東梅田までしか開通していない。 -
一方こちらは同時に北急が作成した英語版の路線図。まだ未開通のはずの千日前線桜川~谷町九丁目間が既に開通したものとされている。
もっとも、この路線図は万博開幕に間に合えばよいので結局のところこれで良いのだが…いかに大阪の地下鉄建設が万博の為に急ピッチで進んでいたかというのが分かる2枚だ。 -
こちらはその千日前線の開通告知ポスターだが、ここにも難波元町駅の統合の記載がある。
この時はまだ「なんば」ではなく普通に「難波」だった。
千日前線の開通と万博を契機に正式に「なんば」と表記されるようになっていく。
もっとも、難波駅に関しては戦前から駅には「ナンバ」と表記されることもあったというが…
ちなみにあびこ駅が「我孫子」と書かれているがこれはどうやらこのポスターだけのもののようで開通当初から「あびこ」である。
なお、なんば元町駅は開業当初からなんばはひらがなである。
背景に写る「外国人留学生は非人間か」という見出しの書体にも時代を感じる。 -
その頃の中央線&谷町線の方向幕は手動式だった。
手動方向幕ということだがうまく動かず、無理に動かして壊すのも怖かったので動かさないことにした。 -
行先幕の中身はご覧の通り。
開通前の守口や都島も入っているが「中央通谷町」という仮称で決めたのかというような行先も…
ただ、堺筋本町駅という駅名がある辺り「谷町中央」や「谷町本町」のような駅名になる可能性もなくはなかったのかもしれない。 -
地下鉄は万博を契機に完全に市民の足として定着していくのだが、それとは逆にトロリーバスはスピード時代にはついていけなくなってきてしまった。
少し時代は戻るが、1968年には大阪駅前~神崎橋間の1系統、守口車庫前~大阪駅前間の2系統を除いて終日ワンマン化される。
ちなみに長堀川の埋め立てられた長堀通を走っていたのも市電ではなくトロリーバスである。
かつては市電ももちろん走っていたのだがその頃は長堀川があり、長堀通は末吉橋通という名前だった。
長堀川埋め立ての関係もあり長堀川埋め立ての最中だった1961年にこの区間は市電からトロリーバスに代替、末吉橋通も長堀通へと姿を変えたのである。 -
そして1970年6月、大阪が万博に沸くその陰でひっそりとトロリーバスは姿を消したのである。
そのトロリーバスで最後まで残った守口車庫前~今里間の代替として運行されたのが現在も運行されている35系統である。
もっとも、この区間が今里筋線の開通で真の「スピード時代」となるのはこの36年後の話である。…ただし35系統も現役であるが -
万博を契機に御堂筋線の旧型車を置き換えるべく30系が大量新造されている。
その30系の車両番号プレートも展示されている。
もっとも、ご存知の方も多いだろうがほんの10年前まで30系は谷町線で現役だったのだが… -
基本的にこの時代の大阪市営地下鉄の車両増備は御堂筋線に新車30系を集中投入し、その御堂筋線から捻出した車両を各線に転属させる手法だったのだが、これができないのが第三軌条ではない堺筋線。
ということもあり堺筋線は60系の新造である。そのプレートも展示されているが…
それよりも奥にあるコマルマーク…ついに博物館入りか… -
この辺りで地下鉄の開通ラッシュが落ち着いたということもあり、資料は少なめになっていくがその代わりにカラフルなものが増えていく。
この路線図はいつのものか撮影を忘れていたが、谷町線が守口~天王寺間しか開通していないことから1977年~1980年の間のものと分かる。
こちらは北急が現在の千里中央までになっており、阪急山田駅も開業している。
この時には中心部の地下鉄網はほぼ完成していたが谷町線は前述の通り天王寺まで、中央線は深江橋まで、千日前線は新深江まで、御堂筋線はあびこまでなど郊外区間はまだまだ建設中だった。 -
1970年代は地下鉄の時代だったが、1980年代に入るとトロリーバス以来久々に新しい乗り物が登場するようになる。
それがニュートラムである。1981年3月、住之江公園~中ふ頭間が開通。
バックも南港の風景であり、港の乗り物であることが分かる。 -
ニュートラムは神戸のポートライナーに次ぐ世界で2番目の完全無人自動運転の新交通システム(AGT)である。
そのポートライナーとも開通時期はわずか1ヶ月差であり、古くから新しく先進的な技術に挑戦する傾向のある大阪市らしく相当に先進的な乗り物だったのである。
ということでパンフレットも気合が入っているw
ただし乗車券は基本的に地下鉄と共通。これは現在もそうである。
四つ橋線の延伸とならなかったのは四つ橋線が市電三宝線の代替路線であり、当時は堺方面への延伸構想があったことや単純に採算が取れないということもある。
また、この頃から計画だけはあったいわゆる9号線、敷津長吉線だがこれも技術的問題(一説には住之江公園駅の施設が延伸に対応できないとか…)でニュートラムとしての延伸はされないことになっている。 -
乗車券が地下鉄と共通なので券売機でもニュートラムだけでなく地下鉄への乗車券も当然買える。
2021年で開通40周年ということもあり、いつまでも「ニュー」トラムと呼び続けるのもということなのか最近は「南港ポートタウン線」と本来の路線名で案内されることも増えてきたがそれでも一般への浸透度は「ニュートラム」が圧倒的に上。
だがこれ昭和56年となっているがこの時は当然近鉄東大阪線は開通していないのでおそらく昭和61年、1986年の間違いではないだろうか…
また、阪急連絡がないのも意外。 -
1983年は地下鉄開通50周年。大大阪地下鉄行進曲以来の地下鉄ソング、地底のランナーが発表されたのもこの時である。
すっかりスピード時代を走るようになった「地底のランナー」は大日へと延伸を果たした。これで谷町線は全線開業となった。
ただし、大日にモノレールが来るのはそれから14年後のことである。「大日交差点」という記載なのはこれが理由である。
もっとも、既に線路自体は1977年の都島~守口間開通時に大日検車場を建設するついでとして大日まで建設されていた。 -
地下鉄開通50周年ということでここから50年前、御堂筋線建設時の写真を使用したポスターもある。
淀屋橋付近の建設工事だが、市電が仮設軌道を使用している姿が興味深い。 -
初開業区間が完全地下の御堂筋線、どうやって車両を搬入したかというとなんと牛に引っ張らせて搬入したのである。
車両搬入口のある南御堂前までの珍道中はこうして記録に残され後世まで語り継がれることとなった… -
1985年、長く深江橋までだった中央線も市境の壁を越えて長田へと延伸。
記念乗車券も凝った仕様で飛び出すようになっている。 -
それにあわせて20系も新登場。地下鉄の「顔」も現代のものに近くなっている。
20系は当初谷町線にも投入されたが現在は中央線に集約されている。
そして地下鉄バスニュートラムの1日乗車券も発売がスタート。
1990年にはノーマイカーデーに合わせたノーマイカーバージョンの乗車券の発売も始まっている。
これは、土日用エンジョイエコカードの発売まで続けられた。 -
阪急、北急に続いて近鉄とも直通開始。
1986年近鉄東大阪線が開通して生駒山を越えて生駒まで直通が開始された。
堺筋線から阪急河原町乗り入れは阪急車限定、しかも朝夕のみだったので地下鉄車両としては初めて府県境を越えた路線となる。
それにしても中央線、地下鉄車の方が近鉄車より多いはずなのになぜか近鉄車に当たる確率の方が高い…
隣にはレインボーカードの前身になるタウンカードも展示されている。 -
1989年には回数券から回数券カードへ。
当時はまだ区数によって分けられるスタイルだった。
現在の区数制限なし回数カードになったのは1998年になってからである。 -
ニュートラムは惜しくも国内2番目だったがこちらは日本初の鉄輪式リニア地下鉄、長堀鶴見緑地線が1990年に開通する。
長い間南港で試験が行われていたがその成果がようやく実現するのである。
リニアとはいってもあくまでも車輪で走るので宙は浮かない。
日本初なのでパンフレットも複数発行され気合が入っている。 -
そしてその新しい地下鉄で目指すのは花博。
1990年、鶴見緑地で行われた花博へのアクセス路線として開業している。
地下鉄の車内放送も「鶴見緑地、花の万博会場前行きです」と案内されていたという。 -
1995年、阪神間に甚大な被害をもたらした阪神大震災。
大阪市内において阪神大震災の影響は比較的小さいものだったが、十三大橋に亀裂が入っていることが判明し、通行止めとなった。
その間、阪急電車での振り替え輸送が行われることになり、その振替乗車券も発行されていた。
通行止めは約1週間程度だったが、貴重な資料である。 -
1996年にはレインボーカードの発売がスタート。
スルッとKANSAIが広がり始めた頃で、この他に阪急、北急、阪神、能勢電と共通利用が可能だった。
一時期まではレインボーカードも柄がたくさんあったが末期には基本的に路線図タイプのみとなっていた。 -
レインボーカードの特別バージョンとして地下鉄開通時の100形(緑木検車場で保存中)バージョンも発売されていた。
この頃はレインボーカードの新柄でもポスターが出るほど気合が入っていたのである。 -
ニュートラムと中央線が1997年に延伸し、諸事情あって大阪市交通局ではなくOTSとして開業した。
その影響で、運賃計算が色々とややこしくなったためその案内もある。
それにしても左上の大阪オリンピック招致マークが懐かしい。
筆者の地下鉄に関する初期の記憶はこの招致マークが車両のドア横に貼られていたことである。
色々とややこしい事情があり利用客が伸びなかったためOTSは2005年に大阪市交通局に移管(第三種鉄道事業者としては現存)されている。
そのパンフレットも存在する。
コスモスクエア駅だけ他の駅と比べて色々異質なのはこの事情による。
こちらも懐かしいのがレインボーファミリー…
2005年頃といえば車内にもレインボーファミリーが多数いたのだが… -
レインボーファミリーで唯一「栄養失調で死んだ赤ちゃん」とか「赤いのに黒歴史」とか呼ばれてしまった赤バスの試乗券とレインボーカードも展示されている。
筆者も赤バスは末期に一度乗っただけだ。確か住之江区だったような気がする… -
ここまで長々と書いてきた歴史旅行の最後の締めは2006年今里筋線の開業である。
試乗券の券面がOSAKAPitapa風なのが時代を感じさせる。
隣には私鉄との連絡定期券もある。
なぜ神崎橋なのかと思ったらこれ全部同一人物の寄贈である。
この2019年時点では本数はわずかながら阪急バスの神崎橋バス停は存在したが、翌年に廃止され神崎橋も近鉄バスの安田ももう存在しない。 -
最後は展示室の前に置かれていた地下鉄車両のプラレールを紹介するが…大阪市営地下鉄のプラレールは21系と30000系と派生商品として66系しか発売されていない。
ではここにある車両たちはというとどうやら手作りの改造品の模様。
奥の30000系は製品版だが手作りの10系の屋根が丸いw
30系なども紙で改造されている。 -
鉄道模型の展示もあったがこちらはさすがというか近鉄や阪和線の113系などが並んでいる。
近鉄特急が多数を占める辺りはさすが奈良。 -
106枚にも渡った歴史旅行(本当はもう少し枚数が多かった、これでもある程度抜粋している)もこれで終わり。
天理参考館を出てみるとそこは天理教の街。
歩いて天理教の本部前を通り抜けて天理駅へ戻る。
天理から先はまた別の旅行記で紹介する。
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旅行記グループ
2019年関西文化の日
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