2019/10/23 - 2019/10/23
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旅人のくまさんさん
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掛川城と掛川花鳥園の紹介です。今日の静岡訪問の目的は、すでに見学したことがある日本百名城の掛川城と、続日本百名城の高天神城の名城スタンプ押印と、初めてとなる掛川花鳥園の見学です。
- 交通手段
- 新幹線 徒歩
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名古屋から新幹線で掛川まで移動し、掛川駅から掛川城までは歩いての移動です。以前にも何度かやって来ましたので、方角と距離感は分かっていました。掛川城は、1994年(平成6年)4月、天守が再建されました。再建された天守は木造であり、日本初の木造による復元天守です。
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町中にあった、案内標識です。『城下町掛川・古今東西」のタイトルがありました。戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となりました。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は、安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものです。(以降も、ウィキペディアを参照しました)
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こんもりとした林の先に掛川城が見えてきました、左側が再建された天守、右が太鼓櫓です。本丸を中心に、西に搦手(からめて)、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城でした。明治の廃条例により、建物の大部分は廃棄されました。
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戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城しました。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地とされ、戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城しました。関ヶ原の戦功で、慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となりました。
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掛川の語源となった、『逆川(さかさがわ)』に架かる『緑橋』の袂の光景です。蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川です。堤が欠ける(決壊する)ことから『欠川(かけがわ』と呼ばれ、現在の『掛川(かけがわ)』と呼ばれるようになったとされます。掛川城のすぐ南を流れていることから、天然の濠としても使われました。
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イチオシ
『緑橋』の上から眺めた『逆川』の下流光景です。逆川は、掛川市東山の粟ヶ岳に源を発し、掛川市中心部を激しく蛇行しながら西進、流路の一部では周辺の他河川とはほぼ逆向きの、南東から北西の方向へと流れる針路をとりながら、袋井市愛野付近で二級河川の太田川の支流の『原野谷川(はらのやがわ)』に合流します。
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掛川市の名所案内の看板光景です。左の図面は、現在地の掛川城の近くの地図で、左側が、掛川城二の丸美術館と掛川市ステンドグラス美術館の紹介、右がこの場所からは少し離れた高天神城と横須賀城の観光案内でした。どちらのお城も見学したことがありますが、今回は、続日本百名城の高天神城は、名城巡りのスタンプ押しの目的がありました。
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掛川城に向かう途中、何度か目にした休憩所です。右端に『懸河旧趾』の石標が建っていました。『懸河(けんが)』は、勢いよく流れる川のことです。『逆川』のことのようでした。ベンチの右背後の案内図には、『掛川城周辺案内』のタイトルで20箇所が紹介され、左側の案内図には、『掛川城公園整備』の写真紹介がありました。天守閣などの復元工事の写真です。
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休憩所の中央に設置してあった大きな案内図の光景です。かつての掛川城の縄張りと、城下町が記されていました。戦国時代に戻ります。1560年の桶狭間の戦い後も、今川氏の重臣の朝比奈氏が城を守りました。1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐国の武田信玄と、三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地の駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びました。
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掛川城の城門の光景です。両側を塀に守られた、幅広い石段が続いていました。戦国時代に戻ります。今川氏当主の氏真が掛川城に頼ったことで、徳川勢に包囲されました。しかし、朝比奈泰朝が守り、なかなか落城しませんでした。この時、徳川勢はかつて掛川城があった子角山を拠点としたとする説があります。所詮、多勢に無勢、和議で氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断しました。
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『掛川城近隣・歴史・文化・文化ゾーン施設』のタイトルがあった説明パネルです。五つのタイトルと、10枚の写真で紹介してありました。五つのサブ・タイトルは、掛川城、二の丸茶室、竹の丸、二の丸美術館とステンドグラス美術館でした。氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入りました。
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写真は、『四足門(よつあしもん)』の説明パネルです。戦国時代の話しに戻ります。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、更に掛川城の南方にある高天神城は、武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となりました。しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。
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写真は、『四足門(よつあしもん)』の出入口光景です。その後も掛川城は徳川勢の石川氏が城代を務めましたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣の山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入りました。先に少し紹介しましたが、一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守などを近世城郭としての体裁を整えた城郭としました。
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写真は、城内にあった掛川城の立体模型です。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転しました。その後、掛川城には徳川家の多くの譜代大名が入りました。最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われました。
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写真は、『掛川城主要部模型』のタイトルがあった図面と説明文です。先程の立体模型に関するものです。江戸時代の出来事です。幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲いました。『安政東海地震』の発生です。現在の研究によれば、南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間後に発生した安政南海地震とともに『安政地震』、あるいは『安政大地震』とも総称されています。
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写真は、『掛川城太鼓櫓』の標柱と、その脇に置かれていた太鼓櫓の説明図です。この『安政大地震』は嘉永年間に起きましたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれます。当時は『寅の大変(とらのたいへん)』とも呼ばれました。繰り返し起きるプレート型の地震ですから、現代でも同じ危機は続いています。
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写真は、近くから見上げた掛川城天守の光景です。『安政大地震』地震の話しに戻ります。安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4程度の豊予海峡地震が発生、また翌年には安政江戸地震(M 6.9~7.1)が起きました。本地震や安政南海地震は安政江戸地震と合わせて『安政三大地震』とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年の飛越地震までの安政年間に多発した一連の大地震を『安政の大地震』とも呼びます。
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写真は、縄張り図に『本丸』と記されていました。石垣遺構の部分には、『本丸門』があったようです。本丸跡の受付で確認しましたら、日本百名城スタンプは、二の丸御殿の受付で押印できるとのことでした。江戸時代には、南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、宝永4年(1707年)の『宝永地震』があります。日本の歴史に残る最大級の地震です。
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写真は、『十露盤堀(そろばんぼり)』の説明パネルの光景です。1707年の『宝永地震』は、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大とされる地震です。宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)』、『宝永大地震(ほうえいおおじしん)』、『亥の大変(いのたいへん)』とも呼ばれます。
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写真は、掛川城二の丸御殿付近になる、東南側から眺めた天守光景です。掛川城の百名城スタンプも押印できました。『宝永大地震』の話しに戻ります。地震の49日後に富士山大噴火が起きました。この『宝永大噴火』は、『亥の砂降り(いのすなふり)』と呼ばれています。現在でも、富士山の噴火としては最も新しいものであり、記録が残されている10回の噴火の中でも最大規模とされます。
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イチオシ
写真は、麓から見上げた掛川城の光景です。『宝永大地震』の話しに戻ります。震度6以上と推定される地域は、駿河より西の東海地方沿岸部から、大阪平野、奈良盆地、紀伊半島、四国、九州東部の豊後、日向まで及び、さらに甲斐、信濃など内陸部、出雲杵築地方など日本海側にも、一部震度6と推定される地域が分布しました。江戸、京都でも震度4~ 5と推定されますが、被害は比較的軽度でした。
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写真は、上空を飛んでいたドローンの光景です。掛川城の工事に関しているようでした。約300年前の1707年に起きた『宝永大噴火』は、歴史時代の富士山三大噴火の一つです。他の二つは平安時代に発生した『延暦の大噴火(800年~802年)』と『貞観の大噴火(864年~866年)』です。宝永大噴火以後、現在に至る約300年間、富士山は噴火していません。
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イチオシ
写真は、東南側から見上げた掛川城の天守光景です。『宝永大地震』は、津波による被害が主であり、津波は房総半島、伊豆、八丈島から九州、種子島にわたる太平洋海岸沿いに加えて、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、および、大阪湾まで入り込みました。下田では5~ 7m、紀伊半島で5~17m、阿波で5~9m、土佐で5~26mと推定され、被害は特に土佐湾沿いで甚大でした。
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写真は、手前が手前が四足門、左奥が太鼓櫓になるようです。これで、掛川城の紹介はおしまいです。現在の日本では、地震・津波問題や噴火の問題は、原子力発電所をはじめ、社会インフラ全般に関して、古くて新しい課題として再浮上しました。2011年3月11日に起きた東日本大震災や、切迫してきた南海トラフ地震の発生などの懸念のためです。
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掛川城を見学した後、掛川駅まで歩いて戻り、更に、掛川花鳥園まで歩いて向かいました。掛川駅は、静岡県掛川市南一丁目および南西郷にある東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線、東海道本線および天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線の駅です。天竜浜名湖線は、日本国有鉄道(国鉄)二俣線を転換したもので、この駅が起点です。
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『合体』のタイトルがあったモニュメントの光景です。
作品名:『合体(がったい)』
作者:ジュン・スズキ
制作年:1988年 -
『合体』のタイトルがあったモニュメントの説明パネルの光景です。新幹線の駅南に新しい街が形成されたのを記念して建てられたモニュメントです。駅を挟んだ北側の古い町と、南側の新しい街が『合体』することをを祈念したものと紹介されていました。
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掛川駅より、少し南に歩いた付近の掛川市街の光景です。掛川は、江戸時代には掛川宿が東海道の主要宿場町となり、また掛川城を核とした城下町でもありました。市域は佐野郡および小笠郡に含まれ、牧之原台地のすぐ西に位置しています。牧之原台地は、布引原とも呼ばれる、大井川下流域と菊川に挟まれた洪積台地です。
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東海道新幹線か、東海道本線のガード下の光景です。現在の掛川市は、江戸時代には掛川藩、横須賀藩の城下町となり、東海道掛川宿、日坂宿の宿場町でもありました。2005年(平成17年)4月1日に、旧掛川市、大東町、大須賀町の1市2町が合併して、現在の掛川市となりました。
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掛川花鳥園に向かう途中の光景です。駅近くの駐車場のような光景でした。高知市には山内一豊が建立した『掛川神社』も存在します。この神社は、一豊が高知に入城した際、掛川城の北東(鬼門)にある龍尾神社を高知城の北東に勧請したもので、掛川に因んで命名されました。
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