2017/07/27 - 2017/07/27
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夏休みを利用して、以下の都市を車で周遊。総走行距離1904.9km
7/25 ①ノイシュヴァンシュタイン城 ザルツブルグ泊
7/26 ②ザルツブルグ ウィーン泊
7/27 ③ウィーン 前編 ウィーン泊
7/28 ④ウィーン 後編 プラハ泊
7/29 ⑤プラハ プラハ泊
7/30 ⑥ローテンブルグ ヒルシュホルン城泊
7/31 ⑦ハイデルブルグ
この旅行記は、3日目、ドイツ・オーストリア・チェコ周遊③ウィーン 前編。ウィーンは仕事できたことはあるが、観光では初めて。2回目。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ウィーンに到着。市街地に車で入ると一方通行などあり面倒なので、シェーンブルン宮殿近くのホテルを予約。そこから、地下鉄Uバーンで中央までいき、まずは、ウィーンの町の中心、シュテファン大聖堂(Domkirche St. Stephan)に。
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、ヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都。19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨したが、大戦で敗戦し、ハプスブルグ家の帝国は解体、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立する。新しいクラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。
英語ではVienna、ドイツ語ではWien。いずれも「V」の発音なのだが、ドイツ語表記の英語読みで、日本語では何故かウィーン。シュテファン大聖堂 寺院・教会
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シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan
シュテファン大聖堂は、オーストリアの首都ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。
ウィーンのシンボルで、その観光名所のひとつである。この聖堂を含むリング (Ring) と呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られている。
オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。136.7メートルの高さをもち、教会の塔としてはウルム大聖堂(161メートル)、ケルン大聖堂(157メートル)についで世界で3番目の高さがある。
外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。12世紀から建造が始まったこの聖堂で最古のものは13世紀の後期ロマネスク正面入口の門である。第二次世界大戦では直接の爆撃は受けることはなかったが、延焼により南塔にあったプムメリンという大きな鐘が落下するなど大きなダメージを受け、戦後寄付などにより再建修復が行われている。(Wikiより) -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan
屋根瓦の紋章。市章(プラス)と国章(マイナス)。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の国章でハプスブルク家の紋章でもあった双頭の鷲は、頭ひとつの普通の鷲に置き換えられている。 -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan
こちら側の屋根には、双頭の鷲。 -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
シュテファン大聖堂
Domkirche St. Stephan -
レオポルトの泉
Leopoldsbrunnen
さて、シュテファン寺院から王宮の方へ歩きます。Graben、メインストリートです。 -
ペスト記念柱
Wiener Pestsäuleペスト記念柱 建造物
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ペスト記念柱
Wiener Pestsäuleペスト記念柱 建造物
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聖ペーター教会
Katholische Kirche St. Peter
右手に見える聖ペーター教会。メインストリートから少しだけ離れている為か、結構すいている。ウィーンで2番目に古い教会で、外観は写真のようにこじんまりとしていて質素ですが、内装は煌びやかで豪華です。この教会の前の道路は車が通る車道ですので写真撮影の際は後ろに気を付けてください。聖ペーター教会 寺院・教会
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聖ペーター教会
Katholische Kirche St. Peter -
聖ペーター教会
Katholische Kirche St. Peter -
聖ペーター教会
Katholische Kirche St. Peter
絵の服がはみ出ている。 -
聖ペーター教会
Katholische Kirche St. Peter -
教会をでて王宮の方へ。見えてきました。
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とその前に、右手にあるカフェ、デメルでお茶することに。
デメル カフェ
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2階に上がる階段からケーキを作る作業場が見える。
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デメルといえば、ザッハトルテ(独:Sachertorte,ウィーンではサハトルテかサッハートルテ)。本当の本家(発明元)はザッハーであるが、ザッハトルテは、オーストリアのホテル・ザッハーおよび洋菓子店・デメルで提供されている菓子(トルテ)である。古典的なチョコレートケーキの一種。ザッハートルテとも呼ばれる。
1832年に、クレメンス・メッテルニヒに仕える料理人の一人だったフランツ・ザッハーが考案した。飽食した貴族たちのために新しいデザートを作れというメッテルニヒの要望に応えたものであった。ザッハトルテは大変に好評で、翌日にはウィーン中の話題になったという。当時はザッハーはまだ16歳で下級の料理人にすぎなかったが、ザッハトルテの成功から頭角を現した。ザッハトルテはフランツのスペシャリテ(特製料理)として好評を博しつづけた。後に次男のエドゥアルトがホテル・ザッハーを開業すると、ザッハトルテはそのレストランとカフェで提供された。
レシピは門外不出とされたが、3代目のエドマンド・ザッハーのときにホテル・ザッハーが財政難に陥ったのをきっかけに、資金援助をしたウィーンの王室ご用達のケーキ店「デメル」が、代償にザッハトルテの販売権を得た。この際に「元祖ザッハトルテ」の文字をケーキの上にホワイトチョコレートで描く権利も譲渡したとも言われる。
その後、ハンス・スクラッチ『ウィーンの菓子店』という本にまで、秘密のレシピは掲載されてしまった。ついにはホテル・ザッハー側が、デメルを相手取って商標使用と販売の差し止めを求めて裁判を起こしたが、7年に及ぶ裁判の結果、ホテル・ザッハーにもデメルにも双方にザッハトルテの販売を認める判決が下った。その結果、デメルのものはデメルのザッハトルテ(Demel's Sachertorte)として、ホテル・ザッハーのものはオリジナルザッハトルテ(Original Sacher-Torte)として売ることになった。(Wikiより)
今ではどこの店でもザッハトルテを注文できるが、単なるチョコレートケーキのケースが多い。デメル カフェ
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ホーフブルク王宮
Hofburg Wienホーフブルク宮殿 (王宮) 城・宮殿
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ホーフブルク王宮
Hofburg Wien
門の右手にチケットがあり、銀食器コレクション、シシィミュージアム、皇帝の部屋やシシィの部屋を見ることができます。チケット代に含まれている日本語の音声ガイドあり。彼女の人生を知るにはもってこいの場所です。以下Wikiより。
本名、エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(ドイツ語: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837年12月24日 - 1898年9月10日)。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られる。ドイツ語表記ではエリーザベトが正しいが、日本では長らく慣例でエリザベートと表記されている。
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。
そんな生活は1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット伯爵は、彼女が最初に出会ったマジャル人だった。伯爵は共和制の素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、彼女に多大な影響を与えた。1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。
しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けたエリーザベトがハンガリーや当時独立を求めていた北イタリアに同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響でフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になることを嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした。徐々にエリーザベトは人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、大西洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に渡りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた。
特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、帝国外相となる。
エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺であった。夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはなかった。1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。
エリーザベトの通常の愛称は「Lisa」(リーザ)ですが、南ドイツのバイエルンやオーストリアでは、可愛らしく「-i」をつけて、「Lisi」「リシー」と呼ぶことがあるそうです。ところが、大文字のSの筆記体は続けて描くと、Lと似ており、いつの間にかか意図してかはわかりませんが、頭の文字はSに変わったと。標準ドイツ語のSは濁ってしまうので、濁らない「Siβi」、「Sissi」(ssはドイツ語ではβ、エスツェット、ダブルエスとして表現する)と愛称の表記が変わったのではとされています。(どこかのWEBで読みました。) -
中庭にある皇帝フランツヨーゼフ一世の像。
Emperor Franz I
Kaiser Franz l. Denkmal
フランツ2世(ドイツ語: Franz II.、1768年2月12日 - 1835年3月2日)は、神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)。最初のオーストリア皇帝フランツ1世(ドイツ語: Franz I.、在位:1804年 - 1835年)でもある。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世(ハンガリー語: I. Ferenc、在位:1792年 - 1835年)、ベーメン国王としてはフランティシェク2世(チェコ語: František II.、在位:1792年 - 1835年)である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の君主で、全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。
フランツ・ジョセフ・カールは、フランツ2世として、1792年から1806年にかけて、ドイツ国家の神聖ローマ帝国の最後の皇帝であり、 1804年、彼はフランツ1世として、オーストリアの帝国を創設しました。ナポレオン戦争に巻き込まれ、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗し、フランツ2世は「ローマ皇帝」の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編し、オーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した。
国家運営をすべてメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位もローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。(Wikiより) -
ホーフブルク王宮
Hofburg Wien -
ホーフブルク王宮
Hofburg Wien -
ホーフブルク王宮
Hofburg Wien -
さらに中庭の外に出るとヘルデンプラッツ(Heldenplatz、訳すると英雄広場)、歴史的にも重要な場所で、1938年3月15日、アドルフ・ヒトラーがオーストリアのナチス・ドイツ併合を発表したところ。
ここには左右対称に2つの銅像が立っており、写真は外に向かって右側の騎馬像。カール フォン エスターライヒ像 モニュメント・記念碑
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カール・フォン・エスターライヒ(Erzherzog Karl von Österreich, Herzog von Teschen, 1771年9月5日 - 1847年4月30日)は、フランス革命戦争、ナポレオン戦争期に活躍したオーストリア帝国の軍人、皇族。テシェン(チェシン)公。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト2世とその皇后マリア・ルドヴィカの第3子。神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の弟。カール大公として知られ、長きにわたりナポレオンの好敵手として活躍。(それほど、結果は残していないような気もしますが。)
カール フォン エスターライヒ像 モニュメント・記念碑
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新王宮を背にして、立つオイゲン公の騎馬像。
Prince Eugene Statue
Prinz Eugen Statue
(Wikiより)
オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(独: Eugen Franz von Savoyen-Carignan, 1663年10月16日 - 1736年4月24日)は、オーストリアに仕えた軍人・政治家。プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)の呼び名で知られる。
サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
長男ではなかったため伯爵を継げなかったオイゲンは軍人となる道を選んだが(伯位は兄のルイ・トマが継承)、ルイ14世のフランス軍では用いられるところがなかったので、1683年にオーストリアへ渡ってフランス王の宿敵であるハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕え、オーストリア軍の将校となった。この時代には軍人が所属を移動することは珍しいことではないが、オイゲンはその生涯を出身国フランスとの戦いに費やす。
オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。
生涯をオーストリア軍の将軍として生き続け、かつての功績により政治的にも大きな発言力を有していた。カール6世の長女であるマリア・テレジア大公女の結婚相手にバイエルンや、プロイセンのフリードリヒ王太子を推挙していた。しかし、大公女の結婚相手には、皇帝も息子同然に好意を持ち、大公女とも相思相愛のロレーヌ公フランツ・シュテファンとなった。オイゲンは2人の結婚式には見え透いた口実で欠席した。
1736年に72歳でウィーンで没し、遺骸はシュテファン大聖堂に埋葬された。オイゲンは相続人となる子をもうけなかったので、ウィーンの夏の別邸として足かけ10年をかけて建設し1723年に完成したベルヴェデーレ宮殿をはじめとする莫大な財産はすべてハプスブルク家の所有となった。 -
新王宮を背にして、立つオイゲン公の騎馬像。
Prince Eugene Statue
Prinz Eugen Statueオイゲン フランツ フォン ザヴォイエン像 モニュメント・記念碑
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新王宮を背にして、立つオイゲン公の騎馬像。
Prince Eugene Statue
Prinz Eugen Statueオイゲン フランツ フォン ザヴォイエン像 モニュメント・記念碑
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新王宮を背にして、立つオイゲン公の騎馬像。
Prince Eugene Statue
Prinz Eugen Statue
確かに何となくフランス人っぽい。オイゲン フランツ フォン ザヴォイエン像 モニュメント・記念碑
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新王宮
ノイエ・ブルク
Neue Burg新王宮 城・宮殿
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オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothekに行くため、再び、中庭に引き返し、右手方向にある門をくぐり、向かいます。オーストリア国立図書館 建造物
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オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
1723年に神聖ローマ皇帝カール6世(女帝マリア・テレジアの父)の命により建設された、書籍数約260万冊を誇る豪華絢爛な図書館。バロック様式の大広間(プルンクザール)は大理石の円柱とレリーフが並び豪華絢爛、美しい天井画は必見。高さ約30m、奥行き80mもの広さ。宮廷建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ氏が設計し、その息子ヨーゼフ・エマヌエル・フィッシャー・フォン・エルラッハが建築を手がけた。1920年には現在のオーストリア国立図書館となり、ウィーンの一般市民にも公開されるようになりました。
世界で最も美しい図書館ホールとして知られています。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
世界で最も美しい図書館ホールと聞いて、、、、すでに2か所、世界で最も美しい図書館を訪ねており、これで3つ目です。どれが本当にそうかは、置いておいて。
スイスのザンクトガレンの修道院図書館
https://4travel.jp/travelogue/11468689
チェコのプラハのストラホフ修道院
https://4travel.jp/travelogue/11477992 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
だまし絵の効果で、上から飛び降りているように見えません? -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
ディオスコリデスの薬物誌
ディオスコリデスは古代ギリシアの医者、薬理学者、植物学者である。薬理学と薬草学の父と言われる。小アジアのキリキアのアナザルブス(Anazarbus)の出身で、ローマ皇帝ネロの治世下の古代ローマで活動した。ギリシア・ローマ世界の至るところで産する薬物を求めて、おそらく軍医として方々を旅する機会があり、その経験を活かして本草書『薬物誌』をまとめた。ディオスコリデス自身が「理論より事実を、書物より自分の観察を重視して編集した」と記している通り、非常に明快で実用的な本草書であり、ガレノス医学と並び、1,500年以上の長きにわたり西洋の薬学・医学の基本文献だった。
ここで展示されている本自体は、500年頃に、コンスタンティノープルで作成されたもので、そのディオスコリデスの薬物誌をもとに、アルファベット順に薬草を383の挿絵とともに効用や調合方法がまとめられている。
開いて紹介されているページは、Physalis alkekengi。
日本語でいうと鬼灯(何て読むか分かるかな?)。日本の仏教習俗であるお盆では、ガクに包まれた果実を死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾る。ほおずきに「鬼灯」の字を当てるのは、盆に先祖が帰ってくるとき目印となる提灯の代わりとして飾られたことに由来する。ナス科植物の例に漏れず、全草に微量のアルカロイドが含まれている。特に酸漿根の部分には子宮の緊縮作用があるヒストニンが含まれており、妊娠中の女性が服用した場合、流産の恐れがある。平安時代より鎮静剤として利用されており、江戸時代には堕胎剤として利用されていた。現在も咳や痰、解熱、冷え性などに効果がある民間薬として、全草を干して煎じて飲む風習がある地方が存在する。(後半はWikiより)
正解は、鬼灯=ホオズキ。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
何ともカラフルな本。上は東方三博士の礼拝、下はイエスの洗礼かな。
魚が昇っている不思議な表現。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
地球儀。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
中央の丸天井は、宮廷画家ダニエル・グランの華麗なフレスコ画で飾られています。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
中央部に立っているのが、神聖ローマ皇帝カール6世の像。マントを翻して堂々としている姿がとても勇ましい。その周りには1階から2階まで本棚がずらりと並んでおり、オスマン・トルコ戦争で活躍したオイゲン公の蔵書が約15000冊、また宗教改革者で知られるマルティン・ルターの膨大な蔵書も収められています。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
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オーストリア国立図書館(プルンクザール)
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オーストリア国立図書館(プルンクザール)
Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek
蔵書数は約20万冊ほどで、壁面の本棚に大量の本が収まっている様子は壮観。 -
オーストリア国立図書館(プルンクザール)
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新王宮を後にします。リングと呼ばれる昔の城壁が今は大通りになっており、道の反対側にわたります。
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Maria-Theresien-Platz
マリアテレジア広場。
最後に忘れてはならないこの人。Wikiより。
マリア・テレジア (独: Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ、夫婦生活は非常に円満だった。フランツは時折、他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらを把握した上で容認した。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送った。
多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。末娘マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は、ルイ16世と結婚し、フランス王妃となり、そして、フランス革命でギロチンにかけられる。マリア テレジア広場 広場・公園
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マリアテレジアの銅像を挟んで2つ似たような建物が立っているが、
向かって左側が美術史美術館(Kunsthistorisches Museum Wien)。
2017年、2019年と2回訪問していますので、展示物は別の旅行記で紹介したいと思います。美術史美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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右側が、ウィーン自然史博物館(Naturhistorisches Museum Wien)。
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国立オペラ座
Wiener Staatsoper
ミッションインポッシブル ローグネイションの舞台。 -
ウィーン楽友協会
Musikverein Wien
大ホールは、通称「黄金のホール」と呼ばれ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られる演奏会場。
中世の衣装を着てのオーケストラのコンサート(オペラもあり)を聴きにいく。まあ、内容は観光客向けかな。
上演中は、写真撮影や録画は禁止です。そもそも録音、録画してどうする気なのか。多分、2度と聞かないよ。ウィーン楽友協会 劇場・ホール・ショー
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ウィーン楽友協会
Musikverein Wien
さて、明日はホテル前のシェーンブルン宮殿に行きます。ウィーン楽友協会 劇場・ホール・ショー
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