2019/05/27 - 2019/05/29
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deracineさん
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東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
石川啄木は大好きな歌人のひとりです
あることから彼の生きざまに興味を抱き、函館では是非彼の足跡を辿りたいと思いました
幸い「函館市公式観光情報 はこぶら」の「街歩きコースマップ」*に (17) 歌人石川啄木が魅せられた函館・・・というのがあり、この pdf をダウンロード、印刷して道歩きのガイドマップとしました
*https://www.hakobura.jp/course/
なお自分はどちらかというと理系人間で文学については造詣が深くありません
「一握の砂」の解釈も私の独断と偏見で書いたものです
東京一極集中が加速している現代、彼の味わった挫折感や苦悩は今の時代に生きる人々にとって益々共感を覚えるところが多いのではないでしょうか?
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函館山と立待岬に近いので選んだホテル、WBF函館グランデ
観光バスを利用して隣国の御一行様が大挙して押し寄せていたホテルWBFグランデ函館 宿・ホテル
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ホテルの近くにあった銅像。知らない人だったので調べてみた
高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ)・・・明和6年1月1日(1769年2月7日)生まれで江戸時代後期の廻船業者、海商。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する
国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する
ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた・・・以上Wikipedia より抜粋
今生きていたら安倍さんの強力な助っ人になりそうだ -
旧入村質店(現:茶房ひし伊)
函館でも貧しい生活を送っていた啄木一家。節子夫人は行李ごと呉服を入村質店に質入れ
流れそうになった行李を義弟(=啄木の妻の妹の夫)宮崎郁雨が請けた
啄木は借金もすることが多く(女遊びにも使っていたらしい)夫人も苦労が絶えなかったようだひし伊 グルメ・レストラン
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現在茶房(=喫茶店)となっているが本業だった質屋も時代に合わせて経営しているようだ
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一見、蔵のような古風な建物が今も並んでいた
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見慣れない人相の悪いヤツがうろうろしているな、、と飼い猫ににらまれた
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函館公園近くにあった石川啄木居住地跡
なお函館公園内には啄木の歌碑「函館の 青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」があるらしいが見逃した
How I miss Green Willow Street in Hakodate !
The love-letters of my friends,
The blue of cornflowers. (ドナルド・キーン訳詞)
最近亡くなられた日本文学のよき理解者ドナルド・キーンさんは「悲しけれ」を「懐かしい」の意味に捉えており、こちらの方が分かりやすい
函館で啄木は文芸結社「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)の同人たちと幸せな時を過ごし、故郷から家族も呼び寄せた。啄木の短い人生の中でおそらく最も幸せだった時期だったのだろう
しかし不運にも1907年(=明治40年)に函館を襲った大火により勤め先の尋常小学校や函館日日新聞が罹災、新たな職を求めて札幌に旅立った石川啄木居住地跡 名所・史跡
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居住地跡から函館山を見上げた。紫色のリラの花が北国の春を演出していた
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市電青柳町電停から海に向かった進むと新善光寺が現れた
件のガイドブックによると「苜蓿社」の同人雑誌に「乞食と語る」という
タイトルのコラムを執筆するにあたり、乞食に会えると思ってこの寺を訪ねたという。特に何の変哲もない寺だった -
せっかく海に近づいたので浜辺まで出てきた
石川啄木一族の墓がある立待岬が見えた -
岩場の上で海猫(ゴメ)が羽根を休めていた
カモメとウミネコは違うらしいがこの写真ではよく分からない -
市電を利用して啄木一族の墓及び立待岬を訪れる場合は谷地頭電停で下車する
一日目はこれを利用した -
「立待岬」や「石川啄木一族の墓」などの道標が見えてきた
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なお市電車内見かけた白人の外国人男性3人連れが道に迷っていたので声をかけたところ立待岬や啄木の墓ではなく谷地頭温泉に行きたいとのこと
「目的地を行き過ぎている。谷地頭はもっと手前だよ」と教えてあげた
日本人の私たち夫婦が知らない温泉を外国人が知っているとは、、、SNS恐るべし! -
ここが「東海山地蔵堂」。山号の東海山は啄木の「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」に因んだもの
毎年啄木の命日である4月13日には啄木忌が行われる
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ここにはゲートがあり、一方通行・夜間及び冬季は通行止めなどの規制がある
また上り坂は更にきつくなるので通行人は私たち夫婦以外は誰もいなかった
時々タクシーが多分立待岬を目指しているのだろう、走り過ぎていった -
しかし神はタクシーにも乗れないビンボーな二人にご慈悲を与え給うた
どこからともなく愛をささやくウグイスの美しいさえずりが山にこだましていた
函館山のふもとにあたるこの辺りにはほかにも墓がいっぱいあった -
やがて啄木一族の墓に着いた
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啄木一族の墓の全景
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墓碑には彼の多分一番有名な詩が刻まれている
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石段を上がると狭い墓地の中から海が見えた
彼が愛した大森浜を遠くに見下ろす素晴らしい眺望の場所だった
明治40年5月5日から9月13日の132日間しか函館には住まなかった彼だがここで過ごした幸せな日々が忘れられず、遺言でここを永眠の地に希望したという
途中出会ったこの近くの住民と思しきご婦人が啄木のことをいろいろ説明してくれた。地元の人も啄木を誇りにしてるようだった石川啄木一族の墓 名所・史跡
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隣には宮崎家一族之奥城(墓)がある
宮崎郁雨とは啄木のスポンサーになった人で啄木の義弟(=夫人の妹の夫)
1885年新潟県に生まれ、1907年に啄木が函館に来たのちは 物心にわたり彼を支え続けた、いわば恩人 -
見つけるのに苦労した「与謝野寛・晶子の歌碑」
立待岬駐車場の手前にあった与謝野寛 晶子の歌碑 名所・史跡
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歌碑が建てられた場所からは津軽海峡の水平線が見えた
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函館の町外れにある立待岬。津軽海峡挟んで向こうは青森だ
数多くの夢追い人が新天地の北海道を目指してこの海を渡ったことだろう
そしてその夢追い人の帰りを待ち続けた多くの女たちがいた
そのような悲しい女を歌った名曲「立待岬」がある
昨年末突如芸能界を引退した森昌子さんが涙まじりに歌うのを聞こう
https://youtu.be/5RRIidcYLkY -
立待岬の花壇には愛する人を待ち続けた悲しい女の化身だろうか 紅色の一重のハマナスがひっそりと咲いていた
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立待岬帰り道から見た街の風景
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翌日の宿、湯川温泉プリンスホテルに移動した。
湯の川温泉 湯の川プリンスホテル渚亭 宿・ホテル
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函館駅に行くバスは海沿いの道路、その名も漁火(いさりび)街道を通る
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ここにも啄木記念館があった
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啄木小公園は立待岬が遠くに見える大森浜のそばにあった
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どういうわけか土方歳三の記念館もあった
五稜郭のある函館にはイケメンの彼のファンが多いのだろうか -
啄木小公園に建てられた啄木の像
手前の先端にテーブルがある鉄塔は啄木の横に立ってセルフィーするため -
深く考え込んでいるような啄木の像
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朝の渚にはカップルと思われる2人の足跡が残っていた
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公園内にはハマナスの花が咲いていた。ハマナスとはバラの原種のひとつで、一重の可憐なピンクの花をつける
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ハマナスの花のアップ
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ここ大森浜海岸からは啄木一族の墓がある立待岬が一望できる
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命なき砂の悲しさよ さらさらと 握れれば
指の間より落つ
ためしに一握の砂を作ってみたが水分が多かったようで指の間からさらさらと落ちなかった
水分を全く含まない砂は握っても固まりにならず指の間からさらさらと落ちてしまう
「東京砂漠」と言う全くうるおいのない環境に置かれた啄木もこの砂のように人々の間からこぼれ落ちてしまったのだろう
東京一極集中が進む現代においては、さらに多くの夢追い人「啄木」がいるとおもわれる
そして彼らが人生に行き詰まった時、啄木の歌や生き様が共感を呼ぶに違いない。
以上、独断と偏見の混じった私の「一握の砂」の解釈です。
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