糸満・ひめゆり旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 我が家の行きたい旅行先リストに沖縄は入っていなかったが、昨年の4travelの旅行記フォトコンテストで、思いがけず、グランプリを受賞し、リッツ・カールトン沖縄無料宿泊券を頂いた。交通費は自腹で一泊だけなので使わないでおこうかとも思ったが、せっかくなので急遽、沖縄旅行を敢行!<br /> 今回の旅の一番の目的は、自腹では絶対泊まることはしないであろう高級リゾートホテルステイを楽しむことだが、旅のテーマは大きく2つ。第1に西表島の大自然を楽しむこと、第2に沖縄戦跡を巡ることである。4月末で天皇を退位された明仁上皇が折に触れて、忘れてはならない4つの日の一つに沖縄戦終結の日を挙げ、平和への強い想いと共に歴史に学ばねばならないと述べられ、戦争犠牲者への慰霊を全力で実行なさってきた。一方、悲惨な戦争を経て主権在民・平和主義の民主国家の道を歩んできたはずの現代日本が、戦前の国家主義に戻ろうとする政治勢力が勢いを増している今日、沖縄戦でどんなことがあったのか調べ、自分の目で確かめ、改めて戦争の罪悪について考えてみたいという想いがあったからである。<br /><br /> 本旅行記は、第2のテーマ、沖縄戦跡巡りである。この旅行記は、楽しかった、きれいだった、おいしかったという、読んで写真を見て楽しくなるような旅行記ではない。また、個人的信条も述べており、異なる立場の人にとっては、不愉快と思われるようなことも記述していることを、お断りしておきたい。

40年ぶりに沖縄へ(7) 沖縄戦跡を巡る

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2019/04/06 - 2019/04/11

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2

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玄白

玄白さん

 我が家の行きたい旅行先リストに沖縄は入っていなかったが、昨年の4travelの旅行記フォトコンテストで、思いがけず、グランプリを受賞し、リッツ・カールトン沖縄無料宿泊券を頂いた。交通費は自腹で一泊だけなので使わないでおこうかとも思ったが、せっかくなので急遽、沖縄旅行を敢行!
 今回の旅の一番の目的は、自腹では絶対泊まることはしないであろう高級リゾートホテルステイを楽しむことだが、旅のテーマは大きく2つ。第1に西表島の大自然を楽しむこと、第2に沖縄戦跡を巡ることである。4月末で天皇を退位された明仁上皇が折に触れて、忘れてはならない4つの日の一つに沖縄戦終結の日を挙げ、平和への強い想いと共に歴史に学ばねばならないと述べられ、戦争犠牲者への慰霊を全力で実行なさってきた。一方、悲惨な戦争を経て主権在民・平和主義の民主国家の道を歩んできたはずの現代日本が、戦前の国家主義に戻ろうとする政治勢力が勢いを増している今日、沖縄戦でどんなことがあったのか調べ、自分の目で確かめ、改めて戦争の罪悪について考えてみたいという想いがあったからである。

 本旅行記は、第2のテーマ、沖縄戦跡巡りである。この旅行記は、楽しかった、きれいだった、おいしかったという、読んで写真を見て楽しくなるような旅行記ではない。また、個人的信条も述べており、異なる立場の人にとっては、不愉快と思われるようなことも記述していることを、お断りしておきたい。

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー バニラエア
旅行の手配内容
個別手配

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  •  時を遡り、一旦旅行2日目の西表島に戻る。仲間川クルーズを終えたあと、旅行記(2)で、少し触れた忘勿石へいった。西表島唯一の幹線道路、県道215号を西に向かい、県道が途切れて一般道になって、しばらく少し進むと、小さな案内標識がある。<br />標識に従って進むと、意外にもよく整備された広い駐車場がある。

     時を遡り、一旦旅行2日目の西表島に戻る。仲間川クルーズを終えたあと、旅行記(2)で、少し触れた忘勿石へいった。西表島唯一の幹線道路、県道215号を西に向かい、県道が途切れて一般道になって、しばらく少し進むと、小さな案内標識がある。
    標識に従って進むと、意外にもよく整備された広い駐車場がある。

  • そこから、木道の階段を降りていくと、きれいなビーチに出る。

    そこから、木道の階段を降りていくと、きれいなビーチに出る。

  • 岩場をはさんで右手に、長大なビーチがのびている。南風見田(はえみた)の浜というビーチだ。

    岩場をはさんで右手に、長大なビーチがのびている。南風見田(はえみた)の浜というビーチだ。

  •  岩場と砂地が混在した浜に、こんな記念碑が建っている。最上部右側に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれた碑文が置かれ、左側には識名信升先生之像という銘とともに、銅像が置かれている。事前に調べた資料によると、碑文はレプリカで、本物は、この立派な碑の裏側の岩盤に直接「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれているというのだが、どれなのかよくわからなかった。残念なことに碑の裏側、横には、ペットボトルなどのゴミが散乱していた。ゴミの下になっていたのだろうか。<br /> この碑がある場所は、太平洋戦争末期1945年3月に波照間島全島民が、軍の命令によって西表島のこの地に強制疎開させられた所である。当時、ここはマラリアが蔓延している場所であり、疎開中、あるいは6月の沖縄戦終結後、波照間島に戻った島民も含め1590名中1587名がマラリアに感染、477名が死亡したという「戦争マラリア」の悲劇の場所なのである。

     岩場と砂地が混在した浜に、こんな記念碑が建っている。最上部右側に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれた碑文が置かれ、左側には識名信升先生之像という銘とともに、銅像が置かれている。事前に調べた資料によると、碑文はレプリカで、本物は、この立派な碑の裏側の岩盤に直接「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれているというのだが、どれなのかよくわからなかった。残念なことに碑の裏側、横には、ペットボトルなどのゴミが散乱していた。ゴミの下になっていたのだろうか。
     この碑がある場所は、太平洋戦争末期1945年3月に波照間島全島民が、軍の命令によって西表島のこの地に強制疎開させられた所である。当時、ここはマラリアが蔓延している場所であり、疎開中、あるいは6月の沖縄戦終結後、波照間島に戻った島民も含め1590名中1587名がマラリアに感染、477名が死亡したという「戦争マラリア」の悲劇の場所なのである。

  • <波照間島戦争マラリアについて><br /> これについては多くの文献があるものの、沖縄本島の激烈な戦闘による惨禍については知られているが、地上戦はなく空爆も比較的軽微だった八重山の間接的な戦争被害についてはあまり知られていない。今回の沖縄旅行を計画したことで、自分も初めて知ったことなのだが、旅のテーマ「沖縄戦跡を巡る」の中で見ておかねばならない所の一つだと思った次第である。<br />

    <波照間島戦争マラリアについて>
     これについては多くの文献があるものの、沖縄本島の激烈な戦闘による惨禍については知られているが、地上戦はなく空爆も比較的軽微だった八重山の間接的な戦争被害についてはあまり知られていない。今回の沖縄旅行を計画したことで、自分も初めて知ったことなのだが、旅のテーマ「沖縄戦跡を巡る」の中で見ておかねばならない所の一つだと思った次第である。

  • 波照間島民強制疎開・マラリアの惨禍の経緯は以下の通り。<br />1945年1~2月 米軍機による波照間島攻撃により、民家1軒、鰹節工場3軒焼失<br /> 2月頃 山下虎雄と名乗る人物が青年学校教師として派遣されてきた。のちに、陸軍中野学校(軍のスパイ養成学校)で教育され、本名酒井清という離島残地工作員だったということが判明、なお、波照間島には日本軍の駐留はなかった。<br /> 3月26日 米軍、初めて沖縄本島近くの慶良間諸島上陸、地上戦が始まる<br /> 3月下旬 米軍の波照間島上陸の恐れありとして、全島民に西表島への強制疎開を命令。米軍上陸のリスクは低い、疎開先はマラリアが蔓延していることを理由に反対する島民に対して山下は軍刀を抜き反対すれば切ると脅して、有無を言わさず暴力で疎開を強制した。<br /> また、疎開の際、米軍が上陸すると食料にされるという理由で、島の多数の家畜(牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、鶏5000羽)を屠殺するよう命じた。処分した肉は燻製、塩漬けにして石垣島の独立混成第45旅団本部に輸送された。また、疎開先の西表島はマラリア汚染地であることを軍は承知していた。このことから軍の本当の狙いは、島民を米軍の攻撃から守ることではなく、島民を犠牲にして食料を調達することだったとも言われている。<br /> 4月 1日に米軍は本島に上陸。結果的に八重山諸島に上陸することはなかった。<br />  一か月かけて全島民は西表島へ疎開。ほとんどの島民が南風見田浜で共同生活開始。山下は、恫喝と暴力で島民を支配。この間、西表炭鉱から逃げてきた台湾人を惨殺。また教師を脅して生徒一人に暴行を加えさせ、死亡させている。<br />5月 蚊の発生が始まりマラリアが蔓延。体力がない子供、老人から次々に罹患していったが、薬はなく、ただ隔離するしか手立てはなかった。山下だけは抗マラリア薬キニーネを持っていたという。<br />国民学校校長、識名信升氏は、疎開先でも子供達の教育を始めようとしたが、山下はそれも許さなかった。<br />6月23日 摩文仁の丘で沖縄軍総司令官牛島中将自決し、日本軍の組織的戦闘終了。<br />7月2日 米軍は沖縄戦終了を宣言<br />このころ、マラリアの罹患者激増、死者70名に及ぶ。日本軍の組織的抗戦が終わったにも関わらず、山下は島民の帰島をゆるさず、横暴を極めていた。<br />7月30日 堪りかねた島民たちは識名校長を代表にして山下の目を盗んで石垣島に渡り、八重山守備隊の旅団長に直訴し、帰島の許可を得て、8月から帰島開始。<br />8月末までに帰島完了。しかし、疎開中に作物の植え付けがされなかったこと、家畜を失っていたため、極度の栄養不足で、ほとんどの島民がマラリアに罹患。戦後間もなくの八重山民政府の調査では、全島民1590人中1587人がマラリアに感染、477名が死亡したという記録がある。<br /><br />忘勿石之碑の中段には、ここに疎開している間に亡くなった島民の名前が刻まれている。「忘勿石 ハテルマ シキナ」という10文字は帰島の際、識名校長が岩の上にひっそりと刻んだもので、当時だれもそれを知らなかった。識名校長は、軍の命令とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですら知らなかった。9年後に波照間出身の人にようやく発見された。1982年になって、ようやく沖縄国際大学の石原昌家教授らの島民へのヒアリングなどの調査と、それをまとめた「もうひとつの沖縄戦」出版により世に知られるようになった。

    波照間島民強制疎開・マラリアの惨禍の経緯は以下の通り。
    1945年1~2月 米軍機による波照間島攻撃により、民家1軒、鰹節工場3軒焼失
     2月頃 山下虎雄と名乗る人物が青年学校教師として派遣されてきた。のちに、陸軍中野学校(軍のスパイ養成学校)で教育され、本名酒井清という離島残地工作員だったということが判明、なお、波照間島には日本軍の駐留はなかった。
     3月26日 米軍、初めて沖縄本島近くの慶良間諸島上陸、地上戦が始まる
     3月下旬 米軍の波照間島上陸の恐れありとして、全島民に西表島への強制疎開を命令。米軍上陸のリスクは低い、疎開先はマラリアが蔓延していることを理由に反対する島民に対して山下は軍刀を抜き反対すれば切ると脅して、有無を言わさず暴力で疎開を強制した。
     また、疎開の際、米軍が上陸すると食料にされるという理由で、島の多数の家畜(牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、鶏5000羽)を屠殺するよう命じた。処分した肉は燻製、塩漬けにして石垣島の独立混成第45旅団本部に輸送された。また、疎開先の西表島はマラリア汚染地であることを軍は承知していた。このことから軍の本当の狙いは、島民を米軍の攻撃から守ることではなく、島民を犠牲にして食料を調達することだったとも言われている。
     4月 1日に米軍は本島に上陸。結果的に八重山諸島に上陸することはなかった。
      一か月かけて全島民は西表島へ疎開。ほとんどの島民が南風見田浜で共同生活開始。山下は、恫喝と暴力で島民を支配。この間、西表炭鉱から逃げてきた台湾人を惨殺。また教師を脅して生徒一人に暴行を加えさせ、死亡させている。
    5月 蚊の発生が始まりマラリアが蔓延。体力がない子供、老人から次々に罹患していったが、薬はなく、ただ隔離するしか手立てはなかった。山下だけは抗マラリア薬キニーネを持っていたという。
    国民学校校長、識名信升氏は、疎開先でも子供達の教育を始めようとしたが、山下はそれも許さなかった。
    6月23日 摩文仁の丘で沖縄軍総司令官牛島中将自決し、日本軍の組織的戦闘終了。
    7月2日 米軍は沖縄戦終了を宣言
    このころ、マラリアの罹患者激増、死者70名に及ぶ。日本軍の組織的抗戦が終わったにも関わらず、山下は島民の帰島をゆるさず、横暴を極めていた。
    7月30日 堪りかねた島民たちは識名校長を代表にして山下の目を盗んで石垣島に渡り、八重山守備隊の旅団長に直訴し、帰島の許可を得て、8月から帰島開始。
    8月末までに帰島完了。しかし、疎開中に作物の植え付けがされなかったこと、家畜を失っていたため、極度の栄養不足で、ほとんどの島民がマラリアに罹患。戦後間もなくの八重山民政府の調査では、全島民1590人中1587人がマラリアに感染、477名が死亡したという記録がある。

    忘勿石之碑の中段には、ここに疎開している間に亡くなった島民の名前が刻まれている。「忘勿石 ハテルマ シキナ」という10文字は帰島の際、識名校長が岩の上にひっそりと刻んだもので、当時だれもそれを知らなかった。識名校長は、軍の命令とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですら知らなかった。9年後に波照間出身の人にようやく発見された。1982年になって、ようやく沖縄国際大学の石原昌家教授らの島民へのヒアリングなどの調査と、それをまとめた「もうひとつの沖縄戦」出版により世に知られるようになった。

  • 忘勿石之碑の隣に広がる砂浜に一筋の小川が海に流れ込んでいる。疎開した島民にとっては、大切な生活の水であると同時に、マラリア蚊の発生源のひとつだったかもしれない。<br /><br />一時期、司馬遼太郎が好きで、ほとんどの著作を読んだ。司馬自身、戦時中はモンゴルの戦車部隊に配属され、当時の日本軍を身を以て体験している。どの作品だったかは覚えていないが、「戦況が悪化し本土防衛のため足利に移動していた戦車隊の作戦会議で、首都防衛のため部隊移動中、避難してくる民間日本人の列が進行方向にいた場合どうすればよいか上官に聞いたところ、轢き殺しても構わないから、そのまま進め」と言われたということが書かれていた。そんな体験から司馬は、折にふれて「軍隊は軍という組織を守ることが一義的に大切で、非戦闘員の生命・財産を守る存在ではない」と言い切っている。<br /> 日本軍の振る舞いを記録した戦記に、司馬遼太郎の言葉を例示する事例は、事欠かない。波照間強制疎開事件もまさしくその一例なのである。波照間島の島民は、米軍の機銃掃射による犠牲より、日本軍の犯罪的ともいえる冷酷な軍命の犠牲の方がはるかに多かったのである。これもまた、「もうひとつの沖縄戦」だった。

    忘勿石之碑の隣に広がる砂浜に一筋の小川が海に流れ込んでいる。疎開した島民にとっては、大切な生活の水であると同時に、マラリア蚊の発生源のひとつだったかもしれない。

    一時期、司馬遼太郎が好きで、ほとんどの著作を読んだ。司馬自身、戦時中はモンゴルの戦車部隊に配属され、当時の日本軍を身を以て体験している。どの作品だったかは覚えていないが、「戦況が悪化し本土防衛のため足利に移動していた戦車隊の作戦会議で、首都防衛のため部隊移動中、避難してくる民間日本人の列が進行方向にいた場合どうすればよいか上官に聞いたところ、轢き殺しても構わないから、そのまま進め」と言われたということが書かれていた。そんな体験から司馬は、折にふれて「軍隊は軍という組織を守ることが一義的に大切で、非戦闘員の生命・財産を守る存在ではない」と言い切っている。
     日本軍の振る舞いを記録した戦記に、司馬遼太郎の言葉を例示する事例は、事欠かない。波照間強制疎開事件もまさしくその一例なのである。波照間島の島民は、米軍の機銃掃射による犠牲より、日本軍の犯罪的ともいえる冷酷な軍命の犠牲の方がはるかに多かったのである。これもまた、「もうひとつの沖縄戦」だった。

  •  なぜ、戦前の昭和時代に、軍国主義に傾き無謀な戦争に突入し亡国の崖っぷちまで追い詰められ、国民に塗炭の苦しみを味わわせてしまったのか、多くの近代日本史の研究、論評がされていて、これについては後段で述べたい。<br /> ここでは、なぜ山下軍曹(酒井清)のような軍人が生まれてしまったのかということを考えてみたい。社会学、歴史学、心理学の研究者ではなく、多数の文献を調べ尽くしたわけでもなく、一市民の個人的見方であるが・・・<br /> 明治維新により近代日本はスタートした。江戸期の不平等条約を解消し、欧米列強に伍して行くための国家戦略は富国強兵だった。世界は帝国主義時代であり、富国は列強による植民地化を防ぐ国防のための強兵の手段と言う見方もできた。国家運営を担うエリート層すなわち政治家、官僚、高級軍人たちの中でも、とくにエリート軍人について焦点を当てて、敗戦にいたるまでの彼らの群像としての人物像をみてみる。<br /> 明治初期のエリートといえば、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文などに代表される武士の時代に生まれ成長した人間である。彼らは倒幕、維新新政府樹立という事を、自ら考え実践するなかで、国家のありようといった大局を構想する力を自然と身に着けていた、武士出身のゼネラリストだった。第1世代エリートたちである。<br /> 明治後半になると近代化が進み、富国強兵を深化させる上で必要な科学、工学、軍学などの知識を身に着け、西欧から移入し日本で定着させる専門性を持ったテクノクラート、スペシャリストが大量に必要となった。そのために選ばれた優秀な人材が海外に出かけ学んだ西欧の専門知識・制度を国内に定着させる役割を担ってきた。彼らの親世代は、かつての武士階級であり、家庭教育で統治者としての心構え、責任感も養成されていて、ゼネラリスト的センスも兼ね備えていた。軍事でいえば、秋山好古、真之兄弟のような、「坂の上の雲」に登場する人物たちである。まだ江戸期の空気が残る日本からいきなり近代欧米社会に放り込まれた彼らは、強烈な体験から大きく成長し、第1世代エリートたちとのコンビで日本という国を飛躍させる原動力となった。象徴的な出来事が日露戦争であったろう。大山巌、児玉源太郎ー秋山好古、東郷平八郎ー秋山真之といった第1、第2世代エリートの連携で強国ロシアに勝利したというのは、欧米列強からすれば奇跡に見えたかもしれない。<br /> 明治後半から昭和初期に生まれた第3世代のエリート職業軍人たちは、陸軍士官学校、陸軍大学校、海軍兵学校、海軍大学校などの専門教育機関で育てられた受験エリートである。東条英機、近衛秀麿、重光葵などなど。社会のあらゆる部門のトップは大局観を持ち、総合知に長け、周囲の状況変化に柔軟に対応できる能力と直観力があるゼネラリストでなければならない。軍事部門も例外ではない。だが、陸海軍とも、トップの人材にゼネラリストではなくスペシャリストばかりを育成してしまった。高度に分化した軍学だけを専門に教育したため、日本を取り巻く状況の変化、すなわち国際情勢や科学技術の変遷に機敏に順応するセンス、能力が養われることがなかった。イデオロギー的には天皇制中央集権体制維持のための現人神、国体護持、国家神道など、あらゆることを犠牲にしても天皇に絶対的忠誠を求めるオカルト的な思想が叩き込まれた。天皇とお国のために死ねということである<br /> また、社会的には、日露戦争勝利により、明治時代の列強の植民地化を防ごうという緊張感が失われ、特に軍人はエリートとしてもてはやされて慢心と驕りで威張り散らし民衆を下に見るという時代の空気が蔓延していた。このような状況の中からは、上は東条英機のような戦争犯罪人、下は山下軍曹のような民衆を思いやることができない非道な人物が現れたのは、ある意味で歴史の必然だったともいえる。<br /> 

     なぜ、戦前の昭和時代に、軍国主義に傾き無謀な戦争に突入し亡国の崖っぷちまで追い詰められ、国民に塗炭の苦しみを味わわせてしまったのか、多くの近代日本史の研究、論評がされていて、これについては後段で述べたい。
     ここでは、なぜ山下軍曹(酒井清)のような軍人が生まれてしまったのかということを考えてみたい。社会学、歴史学、心理学の研究者ではなく、多数の文献を調べ尽くしたわけでもなく、一市民の個人的見方であるが・・・
     明治維新により近代日本はスタートした。江戸期の不平等条約を解消し、欧米列強に伍して行くための国家戦略は富国強兵だった。世界は帝国主義時代であり、富国は列強による植民地化を防ぐ国防のための強兵の手段と言う見方もできた。国家運営を担うエリート層すなわち政治家、官僚、高級軍人たちの中でも、とくにエリート軍人について焦点を当てて、敗戦にいたるまでの彼らの群像としての人物像をみてみる。
     明治初期のエリートといえば、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文などに代表される武士の時代に生まれ成長した人間である。彼らは倒幕、維新新政府樹立という事を、自ら考え実践するなかで、国家のありようといった大局を構想する力を自然と身に着けていた、武士出身のゼネラリストだった。第1世代エリートたちである。
     明治後半になると近代化が進み、富国強兵を深化させる上で必要な科学、工学、軍学などの知識を身に着け、西欧から移入し日本で定着させる専門性を持ったテクノクラート、スペシャリストが大量に必要となった。そのために選ばれた優秀な人材が海外に出かけ学んだ西欧の専門知識・制度を国内に定着させる役割を担ってきた。彼らの親世代は、かつての武士階級であり、家庭教育で統治者としての心構え、責任感も養成されていて、ゼネラリスト的センスも兼ね備えていた。軍事でいえば、秋山好古、真之兄弟のような、「坂の上の雲」に登場する人物たちである。まだ江戸期の空気が残る日本からいきなり近代欧米社会に放り込まれた彼らは、強烈な体験から大きく成長し、第1世代エリートたちとのコンビで日本という国を飛躍させる原動力となった。象徴的な出来事が日露戦争であったろう。大山巌、児玉源太郎ー秋山好古、東郷平八郎ー秋山真之といった第1、第2世代エリートの連携で強国ロシアに勝利したというのは、欧米列強からすれば奇跡に見えたかもしれない。
     明治後半から昭和初期に生まれた第3世代のエリート職業軍人たちは、陸軍士官学校、陸軍大学校、海軍兵学校、海軍大学校などの専門教育機関で育てられた受験エリートである。東条英機、近衛秀麿、重光葵などなど。社会のあらゆる部門のトップは大局観を持ち、総合知に長け、周囲の状況変化に柔軟に対応できる能力と直観力があるゼネラリストでなければならない。軍事部門も例外ではない。だが、陸海軍とも、トップの人材にゼネラリストではなくスペシャリストばかりを育成してしまった。高度に分化した軍学だけを専門に教育したため、日本を取り巻く状況の変化、すなわち国際情勢や科学技術の変遷に機敏に順応するセンス、能力が養われることがなかった。イデオロギー的には天皇制中央集権体制維持のための現人神、国体護持、国家神道など、あらゆることを犠牲にしても天皇に絶対的忠誠を求めるオカルト的な思想が叩き込まれた。天皇とお国のために死ねということである
     また、社会的には、日露戦争勝利により、明治時代の列強の植民地化を防ごうという緊張感が失われ、特に軍人はエリートとしてもてはやされて慢心と驕りで威張り散らし民衆を下に見るという時代の空気が蔓延していた。このような状況の中からは、上は東条英機のような戦争犯罪人、下は山下軍曹のような民衆を思いやることができない非道な人物が現れたのは、ある意味で歴史の必然だったともいえる。
     

  • 4月9日、沖縄本島2日目に戻ろう。<br />昨晩投宿したロワジールホテル那覇の部屋からの那覇港の夜景。<br /><br />この日は沖縄本島南部の戦跡(ひめゆりの塔、白梅の塔、平和祈念公園)とガンガラーの谷を巡った。ガンガラーの谷については、後続の旅行記で紹介する。

    4月9日、沖縄本島2日目に戻ろう。
    昨晩投宿したロワジールホテル那覇の部屋からの那覇港の夜景。

    この日は沖縄本島南部の戦跡(ひめゆりの塔、白梅の塔、平和祈念公園)とガンガラーの谷を巡った。ガンガラーの谷については、後続の旅行記で紹介する。

  • 最初に訪れたのは、糸満市米須の海岸。ここはサーフィンのメッカであり、大波に乗って波乗りを楽しむサーファーのカッコよい写真を撮影するという目的だったのだが、ここも沖縄戦跡である。激しい地上戦が繰り広げられた沖縄本島は、どこも戦跡と言えるのだが・・・<br />沖縄在住のプロ写真家具志堅一彦さんとFacebookで繋がっており、サーフィンの撮影ポイントとしてここを勧められた。

    最初に訪れたのは、糸満市米須の海岸。ここはサーフィンのメッカであり、大波に乗って波乗りを楽しむサーファーのカッコよい写真を撮影するという目的だったのだが、ここも沖縄戦跡である。激しい地上戦が繰り広げられた沖縄本島は、どこも戦跡と言えるのだが・・・
    沖縄在住のプロ写真家具志堅一彦さんとFacebookで繋がっており、サーフィンの撮影ポイントとしてここを勧められた。

  • 海岸に降りる入り口には、こんな警告板が設置されていた。実際に3年半前に、ここから500mほど西の大度浜海岸で、サメに襲われるという事件があったという。襲われたとき、素手でサメを殴り返し、幸い軽傷で済んだという猛者だったそうだ。

    海岸に降りる入り口には、こんな警告板が設置されていた。実際に3年半前に、ここから500mほど西の大度浜海岸で、サメに襲われるという事件があったという。襲われたとき、素手でサメを殴り返し、幸い軽傷で済んだという猛者だったそうだ。

  • サーファーのメッカというだけあって、海岸へのアクセスはよく整備されている。

    サーファーのメッカというだけあって、海岸へのアクセスはよく整備されている。

  • 浜はごつごつした岩場で歩きにくいが、こんなアザミのような花が咲いていた。

    浜はごつごつした岩場で歩きにくいが、こんなアザミのような花が咲いていた。

  • この日は残念ながら大波は来ず、狙っていたカッコよいサーフィンの写真は撮れずに終わった。

    この日は残念ながら大波は来ず、狙っていたカッコよいサーフィンの写真は撮れずに終わった。

  • このあたり一帯は、海岸が琉球石灰岩の崖になっていて、別名スーサイドクリフと呼ばれている。戦後、米兵がここでサーフィンを始めたときに付けた名前である。<br />今はのどかなサーフィンのスポットだが、かのひめゆり学徒隊のつらく悲しい終焉の地のひとつなのである。1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。ひめゆり学徒隊は、194名が戦死したというが、18日の解散命令後の死者が128名にもなっている。 死の恐怖におののきながら三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は、小さなグループに別れ、米軍の艦砲射撃、戦車砲、迫撃砲が飛び交う糸満各地の戦場をさまよい、一グループはこの海岸付近に追い詰められてきた。そして同21日、米兵の銃撃を受ける中、第一高等女学校の教師1人と生徒7人、卒業生1人、白梅学徒隊の県立第二高等女学校の生徒1人がこの海岸で手りゅう弾により自ら命を絶ったのである。<br /> 無邪気にサーフィンを楽しんでいる若者のうち、どれぐらいの人が、このことを知っているのだろうか?

    このあたり一帯は、海岸が琉球石灰岩の崖になっていて、別名スーサイドクリフと呼ばれている。戦後、米兵がここでサーフィンを始めたときに付けた名前である。
    今はのどかなサーフィンのスポットだが、かのひめゆり学徒隊のつらく悲しい終焉の地のひとつなのである。1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。ひめゆり学徒隊は、194名が戦死したというが、18日の解散命令後の死者が128名にもなっている。 死の恐怖におののきながら三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は、小さなグループに別れ、米軍の艦砲射撃、戦車砲、迫撃砲が飛び交う糸満各地の戦場をさまよい、一グループはこの海岸付近に追い詰められてきた。そして同21日、米兵の銃撃を受ける中、第一高等女学校の教師1人と生徒7人、卒業生1人、白梅学徒隊の県立第二高等女学校の生徒1人がこの海岸で手りゅう弾により自ら命を絶ったのである。
     無邪気にサーフィンを楽しんでいる若者のうち、どれぐらいの人が、このことを知っているのだろうか?

  •  次に向かったのが、米須海岸から車で10分足らずのところにある白梅の塔である。交通の便が悪く、レンタカーかタクシー以外には訪れるのが難しい場所である。<br /><br /> 太平洋戦争末期の1945年3月になると、米軍の沖縄上陸が間近に迫り、沖縄の21の中等学校の男女生徒ほぼ全員が学徒動員をかけられ、男子は「鉄血勤皇隊」、「通信隊」として軍の物資輸送、爆撃で破壊された道路網の補修、通信網の補修、電報配達に従事し、女子生徒は9校から500名以上が学徒看護隊として、陸軍病院の看護補助の任務についた。女子学徒隊は出身校別に、それぞれ「ひめゆり」、「白梅」、「なごらん」、「瑞泉」、「積徳」、「梯梧」などの校名や校章にちなんだ名前を冠して呼ばれている。<br /> 中でも、ひめゆり学徒隊は、もっとも犠牲者数が多く、慰霊碑のそばには資料館があり、大勢の人が訪れ、映画化もされたりして、知名度が高いが、それ以外の学徒隊については、あまり知られていないのが現状である。<br />

     次に向かったのが、米須海岸から車で10分足らずのところにある白梅の塔である。交通の便が悪く、レンタカーかタクシー以外には訪れるのが難しい場所である。

     太平洋戦争末期の1945年3月になると、米軍の沖縄上陸が間近に迫り、沖縄の21の中等学校の男女生徒ほぼ全員が学徒動員をかけられ、男子は「鉄血勤皇隊」、「通信隊」として軍の物資輸送、爆撃で破壊された道路網の補修、通信網の補修、電報配達に従事し、女子生徒は9校から500名以上が学徒看護隊として、陸軍病院の看護補助の任務についた。女子学徒隊は出身校別に、それぞれ「ひめゆり」、「白梅」、「なごらん」、「瑞泉」、「積徳」、「梯梧」などの校名や校章にちなんだ名前を冠して呼ばれている。
     中でも、ひめゆり学徒隊は、もっとも犠牲者数が多く、慰霊碑のそばには資料館があり、大勢の人が訪れ、映画化もされたりして、知名度が高いが、それ以外の学徒隊については、あまり知られていないのが現状である。

  •  白梅の塔は、県立第2高等女学校の4年生56名(のちにやむをえぬ事情で除隊した生徒がいたので、最終的には46名)からなる従軍補助看護隊、「白梅学徒隊」の犠牲者、第2高女の教師、同窓生の沖縄戦犠牲者を慰霊するために建立された。当初は、生存者たちによって建てられたのは高さ数十cmの小さな自然石の碑だったが、1992年6月に現在の立派な慰霊塔に建て替えられている。

     白梅の塔は、県立第2高等女学校の4年生56名(のちにやむをえぬ事情で除隊した生徒がいたので、最終的には46名)からなる従軍補助看護隊、「白梅学徒隊」の犠牲者、第2高女の教師、同窓生の沖縄戦犠牲者を慰霊するために建立された。当初は、生存者たちによって建てられたのは高さ数十cmの小さな自然石の碑だったが、1992年6月に現在の立派な慰霊塔に建て替えられている。

  • 塔の左側の階段を登ると納骨堂がある。白梅学徒隊と同窓生の戦闘に巻きこまれ犠牲となった人たちの遺骨が納められている。

    塔の左側の階段を登ると納骨堂がある。白梅学徒隊と同窓生の戦闘に巻きこまれ犠牲となった人たちの遺骨が納められている。

  • 納骨堂の隣にある質素な自然石に「白梅の塔」と書かれたものが元々の白梅の塔である。<br />戦況が益々悪化した1945年6月4日、白梅学徒隊に解散命令が下され、米軍の銃弾が飛び交う中を放り出された彼女たちは、散り散りになって戦場をさまよい、米軍の攻撃の犠牲になっていったが、この辺りがもっとも多くの犠牲者が出た場所なのである。

    納骨堂の隣にある質素な自然石に「白梅の塔」と書かれたものが元々の白梅の塔である。
    戦況が益々悪化した1945年6月4日、白梅学徒隊に解散命令が下され、米軍の銃弾が飛び交う中を放り出された彼女たちは、散り散りになって戦場をさまよい、米軍の攻撃の犠牲になっていったが、この辺りがもっとも多くの犠牲者が出た場所なのである。

  • この後、訪れたひめゆりの塔の夥しい千羽鶴に比べると、圧倒的に少ないが、ここにも千羽鶴が供えられていた。<br />白梅の塔とその敷地一帯は、現在では白梅同窓会の方々が維持管理されている。

    この後、訪れたひめゆりの塔の夥しい千羽鶴に比べると、圧倒的に少ないが、ここにも千羽鶴が供えられていた。
    白梅の塔とその敷地一帯は、現在では白梅同窓会の方々が維持管理されている。

  • 墓碑には、白梅学徒隊の犠牲者、第2高等女学校同窓生および教師149名の沖縄戦犠牲者の名前が刻銘されている。<br /><br />塔のそばには白梅の塔について説明してある石板があり、以下のように書かれている。<br />「沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。<br />米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した<br />戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。<br />その場所は殆ど不明である。<br />また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。<br />この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。<br />塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。<br /><br />平成十年六月二十三日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会」

    墓碑には、白梅学徒隊の犠牲者、第2高等女学校同窓生および教師149名の沖縄戦犠牲者の名前が刻銘されている。

    塔のそばには白梅の塔について説明してある石板があり、以下のように書かれている。
    「沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
    米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した
    戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。
    その場所は殆ど不明である。
    また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。
    この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
    塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。

    平成十年六月二十三日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会」

  •  白梅の塔に向かって左側に萬魂之塔が建てられている。この地(糸満市国吉)の住民の方たちが、この付近一帯で戦死した無名兵士の遺骨を集め台座の納骨堂に納められている。小さな納骨堂だが、4000柱もの遺骨が納められている。

     白梅の塔に向かって左側に萬魂之塔が建てられている。この地(糸満市国吉)の住民の方たちが、この付近一帯で戦死した無名兵士の遺骨を集め台座の納骨堂に納められている。小さな納骨堂だが、4000柱もの遺骨が納められている。

  • 萬魂之塔の向かいには子抱き地蔵。青春真っただ中で、若くして命を絶たれた乙女たちが、せめて来世では、よき伴侶と子供に恵まれ平和で幸福な日々が送れるようにという思いで、建立されたのだろうか。

    萬魂之塔の向かいには子抱き地蔵。青春真っただ中で、若くして命を絶たれた乙女たちが、せめて来世では、よき伴侶と子供に恵まれ平和で幸福な日々が送れるようにという思いで、建立されたのだろうか。

  • 白梅の塔の右手に南禅廣寺という小さなお堂がある。この寺は直接、白梅学徒隊の犠牲とは関係はなさそうだが・・・

    白梅の塔の右手に南禅廣寺という小さなお堂がある。この寺は直接、白梅学徒隊の犠牲とは関係はなさそうだが・・・

  • すぐ横にはガマと呼ばれている琉球石灰岩の鍾乳洞がある。右側の方は、今では狭くなって入ることはできないが・・・

    すぐ横にはガマと呼ばれている琉球石灰岩の鍾乳洞がある。右側の方は、今では狭くなって入ることはできないが・・・

  • 左側の入り口は、手すりが設置されて内部に入ることができる。<br /><br />白梅学徒隊が6月4日に軍の命令で解散され、戦場に放り出されてさまよった挙句、16人の女生徒が、このガマにたどり着いた。すでにここは傷病兵であふれていたため、彼女らは、再び看護補助の重労働につくことになった。仕事は、食事の準備,負傷兵の汚物処理、傷口に巻く包帯の交換や、傷口に沸いた蛆虫の除去、麻酔なしの負傷した手足の切断手術の際、暴れる患者を抑えたり、切断した手足や、死亡した兵の死体を砲弾が止む夜間に捨てに行くなど、15,16歳の少女にはあまりにむごい仕事だった。

    左側の入り口は、手すりが設置されて内部に入ることができる。

    白梅学徒隊が6月4日に軍の命令で解散され、戦場に放り出されてさまよった挙句、16人の女生徒が、このガマにたどり着いた。すでにここは傷病兵であふれていたため、彼女らは、再び看護補助の重労働につくことになった。仕事は、食事の準備,負傷兵の汚物処理、傷口に巻く包帯の交換や、傷口に沸いた蛆虫の除去、麻酔なしの負傷した手足の切断手術の際、暴れる患者を抑えたり、切断した手足や、死亡した兵の死体を砲弾が止む夜間に捨てに行くなど、15,16歳の少女にはあまりにむごい仕事だった。

  • ガマの中に入ってみた。<br /><br />ガマの中に台所やトイレがあるわけではないので、負傷兵の汚物は、一旦瓶にためておき、いっぱいになると、外に捨てに行くのである。汚物と血と膿の匂いが充満していて、気を失うほどの悪臭が立ち込めていたという。<br />

    ガマの中に入ってみた。

    ガマの中に台所やトイレがあるわけではないので、負傷兵の汚物は、一旦瓶にためておき、いっぱいになると、外に捨てに行くのである。汚物と血と膿の匂いが充満していて、気を失うほどの悪臭が立ち込めていたという。

  •  だが、運命の6月21日、そうした地獄のような壕の中での看護補助業務も終わりとなる。この日、米軍の馬乗り攻撃によって、白梅学徒6名が死亡し、壕の病院機能は壊滅、翌日には、上の壕という近くのもう一つの壕も馬乗り攻撃で2名死亡、1名は米軍に収容されたものの、重度のやけどで、死亡、解散後に戦場をさまよっている間に命を落とした8名を加え、17名が犠牲となった。<br /> なお、馬乗り攻撃とは、ガマの入り口を火炎放射器でふさぎ、壕の上から穴を穿ちガソリンを流し込んで火をつけるというなんとも凄惨な攻撃である。米軍は沖縄の各地のガマでこの攻撃を行った。明らかに戦時国際法(ハーグ陸戦条約)で禁止されている医療施設への攻撃だが、戦後、米軍の違法行為が裁かれることはなかった。アメリカは、太平洋戦争に限らず、のちのベトナム戦争、イラク戦争でも様々な違法な戦闘行為を繰り広げた常習犯なのである。

     だが、運命の6月21日、そうした地獄のような壕の中での看護補助業務も終わりとなる。この日、米軍の馬乗り攻撃によって、白梅学徒6名が死亡し、壕の病院機能は壊滅、翌日には、上の壕という近くのもう一つの壕も馬乗り攻撃で2名死亡、1名は米軍に収容されたものの、重度のやけどで、死亡、解散後に戦場をさまよっている間に命を落とした8名を加え、17名が犠牲となった。
     なお、馬乗り攻撃とは、ガマの入り口を火炎放射器でふさぎ、壕の上から穴を穿ちガソリンを流し込んで火をつけるというなんとも凄惨な攻撃である。米軍は沖縄の各地のガマでこの攻撃を行った。明らかに戦時国際法(ハーグ陸戦条約)で禁止されている医療施設への攻撃だが、戦後、米軍の違法行為が裁かれることはなかった。アメリカは、太平洋戦争に限らず、のちのベトナム戦争、イラク戦争でも様々な違法な戦闘行為を繰り広げた常習犯なのである。

  •  ガマの底に小さな祭壇が設けられている。うら若き乙女たちの慰霊らしく、小さな雛人形が供えられている。

     ガマの底に小さな祭壇が設けられている。うら若き乙女たちの慰霊らしく、小さな雛人形が供えられている。

  •  ここで、15,16歳の少女たちが、米軍の攻撃の恐怖にさらされながら、過酷な従軍看護補助業務を担い、ついには命を落としたことを思い、かわいらしい雛人形を見ると、ことさらに胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、涙がこぼれそうになった。

     ここで、15,16歳の少女たちが、米軍の攻撃の恐怖にさらされながら、過酷な従軍看護補助業務を担い、ついには命を落としたことを思い、かわいらしい雛人形を見ると、ことさらに胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、涙がこぼれそうになった。

  • 小さな祭壇の右手には、腰をかがめないと通れないような岩壁をはさんで、すこし広く平らな場所があった。おそらく、ここで麻酔なしの手術が行われていたのだろうか。

    小さな祭壇の右手には、腰をかがめないと通れないような岩壁をはさんで、すこし広く平らな場所があった。おそらく、ここで麻酔なしの手術が行われていたのだろうか。

  • 地上の南禅廣寺の右側の入り口に通じる出口をガマの中から見上げたところ。手すりが設けられているが、もちろんこれは戦後の一時期に見学用に造られたものであろう。当時は、このごつごつした岩場を這いあがって少女たちは、切り落とした手足や汚物を捨てに行ったのだろう。

    地上の南禅廣寺の右側の入り口に通じる出口をガマの中から見上げたところ。手すりが設けられているが、もちろんこれは戦後の一時期に見学用に造られたものであろう。当時は、このごつごつした岩場を這いあがって少女たちは、切り落とした手足や汚物を捨てに行ったのだろう。

  • 沖縄独特の6本がつながったヒラウコウという線香が備えられていた。新しくはないので、久しくここで線香をあげた人はいないようだ。<br /><br />

    沖縄独特の6本がつながったヒラウコウという線香が備えられていた。新しくはないので、久しくここで線香をあげた人はいないようだ。

  •  ひめゆりの塔は知名度が高く観光地化してしまっているので、大勢の人が訪れているが、ここは閑散としている。たまたま白梅同窓会関係者と思われる人がどこかの学校の教員二人を案内していた。平和教育の一環で、ここに来る予定で下見にきたようだ。2人が帰ったあとで、案内していた方と少し話をした。それほど多くはないが、中学校、高校の平和教育で、ひめゆりの塔と併せて白梅の塔にくるケースもあるという。ひめゆりの塔では物見遊山の気分だった生徒たちも、こちらに来ると神妙な顔つきになるという。白梅学徒隊の生存者の話では、ひめゆりの女生徒たちは、まだ恵まれていた方だった、なぜならひめゆりには引率の教師がついていたが、白梅は生徒だけで、とても心細かったという証言もあるという。<br /> 沖縄戦で犠牲となった学徒たちを慰霊し、戦争の何たるかを身をもって考えるのには、観光地化していないこういう場所の方が、一層厳粛な気持ちになれる。<br /><br />ただ、白梅学徒隊の悲劇を語り継ぐ活動をしている白梅同窓会には、ちょっと気になることがある。極右政治家、元ジャーナリストで、極右の親玉、安倍晋三の取り巻きの一人である青山繁晴参議院議員が、議員になる前から白梅同窓会と数十年来、関係を持っていることである。以下は彼の白梅の生存者に接したときの言葉の引用。<br />「みなさんは軍国主義に騙されたんじゃない。アイヌの方々も、琉球の方々も、ヤマトの人々も、みんな同じ日本国民として人のために生きるという生き方をまさしく実行なさった。15歳16歳で亡くなった同級生は決して無駄死にではない、みなさんのおかげで生き残った方も、命を奪われた方々も、自決なさった方々も、そのおかげで今日の私たちがいる」<br /> なんとむなしく、空々しい言葉であろうか。非合理な狂信的皇国史観により天皇への絶対的忠誠を求める教育をたたき込み、瞬く間に純真な乙女たちを軍国少女に仕立て上げた軍国主義にこそ真摯に向き合い深く反省をすべきところなのに、この男は微塵もその考えは持ち合わせていないようだ。アイヌの方々も琉球の方々も云々という言葉には、その裏に逆に差別意識がにじみ出ている。5月末に首里の沖縄軍司令部が陥落した時点で、実質的に組織的軍事作戦は終了しているのである。にも拘わらず本土上陸を遅らせるためだけに絶望的な戦闘を続けさせ、沖縄を捨て石にしたのである。学徒隊の犠牲者の大半は6月後半に集中している。沖縄捨て石作戦がなければ、多くの学徒隊の命は救われたのである。亡くなった方々には申し訳ないが無駄死としか言いようがない。「みなさんのおかげで・・・今日の私たちがいる」とは抽象的、感傷的なごまかし以外の何物でもない。二度と悲惨な戦争は繰り返さないという思いを強くし愚直に平和を希求することこそが現代に生きる我々の責務であり、沖縄戦で犠牲になった人々への弔いであるべきなのだ。<br />戦争体験者さえ自分の極右思想の道具に利用し、講演のネタにするような、こんな人物がネトウヨたちに一定の影響力を持ち、政治が復古的国家主義に回帰しようとしている現状に空恐ろしさを覚える。<br />白梅学徒隊の生存者であり白梅同窓会会長の中山きくさんが、「青山さんのお話は聞きますが、考え方は随分違います」とおっしゃっているのがせめてもの救いである。中山さんは左右の政治勢力に与せず、淡々と戦争の悲惨さ、平和の大切さを説く活動をされている。<br /><br />

     ひめゆりの塔は知名度が高く観光地化してしまっているので、大勢の人が訪れているが、ここは閑散としている。たまたま白梅同窓会関係者と思われる人がどこかの学校の教員二人を案内していた。平和教育の一環で、ここに来る予定で下見にきたようだ。2人が帰ったあとで、案内していた方と少し話をした。それほど多くはないが、中学校、高校の平和教育で、ひめゆりの塔と併せて白梅の塔にくるケースもあるという。ひめゆりの塔では物見遊山の気分だった生徒たちも、こちらに来ると神妙な顔つきになるという。白梅学徒隊の生存者の話では、ひめゆりの女生徒たちは、まだ恵まれていた方だった、なぜならひめゆりには引率の教師がついていたが、白梅は生徒だけで、とても心細かったという証言もあるという。
     沖縄戦で犠牲となった学徒たちを慰霊し、戦争の何たるかを身をもって考えるのには、観光地化していないこういう場所の方が、一層厳粛な気持ちになれる。

    ただ、白梅学徒隊の悲劇を語り継ぐ活動をしている白梅同窓会には、ちょっと気になることがある。極右政治家、元ジャーナリストで、極右の親玉、安倍晋三の取り巻きの一人である青山繁晴参議院議員が、議員になる前から白梅同窓会と数十年来、関係を持っていることである。以下は彼の白梅の生存者に接したときの言葉の引用。
    「みなさんは軍国主義に騙されたんじゃない。アイヌの方々も、琉球の方々も、ヤマトの人々も、みんな同じ日本国民として人のために生きるという生き方をまさしく実行なさった。15歳16歳で亡くなった同級生は決して無駄死にではない、みなさんのおかげで生き残った方も、命を奪われた方々も、自決なさった方々も、そのおかげで今日の私たちがいる」
     なんとむなしく、空々しい言葉であろうか。非合理な狂信的皇国史観により天皇への絶対的忠誠を求める教育をたたき込み、瞬く間に純真な乙女たちを軍国少女に仕立て上げた軍国主義にこそ真摯に向き合い深く反省をすべきところなのに、この男は微塵もその考えは持ち合わせていないようだ。アイヌの方々も琉球の方々も云々という言葉には、その裏に逆に差別意識がにじみ出ている。5月末に首里の沖縄軍司令部が陥落した時点で、実質的に組織的軍事作戦は終了しているのである。にも拘わらず本土上陸を遅らせるためだけに絶望的な戦闘を続けさせ、沖縄を捨て石にしたのである。学徒隊の犠牲者の大半は6月後半に集中している。沖縄捨て石作戦がなければ、多くの学徒隊の命は救われたのである。亡くなった方々には申し訳ないが無駄死としか言いようがない。「みなさんのおかげで・・・今日の私たちがいる」とは抽象的、感傷的なごまかし以外の何物でもない。二度と悲惨な戦争は繰り返さないという思いを強くし愚直に平和を希求することこそが現代に生きる我々の責務であり、沖縄戦で犠牲になった人々への弔いであるべきなのだ。
    戦争体験者さえ自分の極右思想の道具に利用し、講演のネタにするような、こんな人物がネトウヨたちに一定の影響力を持ち、政治が復古的国家主義に回帰しようとしている現状に空恐ろしさを覚える。
    白梅学徒隊の生存者であり白梅同窓会会長の中山きくさんが、「青山さんのお話は聞きますが、考え方は随分違います」とおっしゃっているのがせめてもの救いである。中山さんは左右の政治勢力に与せず、淡々と戦争の悲惨さ、平和の大切さを説く活動をされている。

  •  白梅の塔の近くには山形県出身の戦没者40,834名が合祀されている山形の塔がある。県別の出身者の慰霊塔は平和記念公園に隣接する摩文仁の丘に集中しているが、いくつかの県の慰霊塔は、糸満市の各地に散在している。

     白梅の塔の近くには山形県出身の戦没者40,834名が合祀されている山形の塔がある。県別の出身者の慰霊塔は平和記念公園に隣接する摩文仁の丘に集中しているが、いくつかの県の慰霊塔は、糸満市の各地に散在している。

  •  首里の守備任務についていた歩兵第32連隊は、大部分が山形県出身の兵士で一部北海道、沖縄出身の人も含まれていた。<br /> 5月末に沖縄守備軍司令部が米軍の攻撃で壊滅、ほとんど軍としての機能は失われていたが、本土への米軍上陸を遅らせるために、南部地域に撤退(当時の軍の用語では転進)して戦闘を継続させるという決定が下された。増々戦況は悪化の一途をたどり、6月23日に総司令官牛島中将は自決し、組織的な軍の抵抗は終了した。<br /> しかし、歩兵第32連隊が沖縄に投入されたのは、そのあとの7月だった。生存した元兵士の証言がある。<br />「陸軍兵士は全員真鍮の認識票を持たされていました。戦死したとき、身元確認に使うためです。でも歩兵第32連隊は軍上層部の指示で認識票を回収された。全員が死ぬのだから、認識票は必要ないという理由です」<br />また、別の元兵士の証言<br />「第32連隊は切り込み攻撃という戦法をやりました。切り込み攻撃というと銃剣で突撃する白兵戦と思いがちですが、6Kgもある爆雷や手榴弾を持って敵陣に飛び込み自爆するのです。天皇陛下万歳と叫ぶ者やお母さんという叫びは耳にしませんでした。皆、大本営に対する恨みや悪口を口にして死んでいきました」<br /> 海軍航空隊の神風特攻隊、回天による人間魚雷と同じく、兵士の命を犠牲にした無謀な戦術を陸軍もしていたのである。<br />

     首里の守備任務についていた歩兵第32連隊は、大部分が山形県出身の兵士で一部北海道、沖縄出身の人も含まれていた。
     5月末に沖縄守備軍司令部が米軍の攻撃で壊滅、ほとんど軍としての機能は失われていたが、本土への米軍上陸を遅らせるために、南部地域に撤退(当時の軍の用語では転進)して戦闘を継続させるという決定が下された。増々戦況は悪化の一途をたどり、6月23日に総司令官牛島中将は自決し、組織的な軍の抵抗は終了した。
     しかし、歩兵第32連隊が沖縄に投入されたのは、そのあとの7月だった。生存した元兵士の証言がある。
    「陸軍兵士は全員真鍮の認識票を持たされていました。戦死したとき、身元確認に使うためです。でも歩兵第32連隊は軍上層部の指示で認識票を回収された。全員が死ぬのだから、認識票は必要ないという理由です」
    また、別の元兵士の証言
    「第32連隊は切り込み攻撃という戦法をやりました。切り込み攻撃というと銃剣で突撃する白兵戦と思いがちですが、6Kgもある爆雷や手榴弾を持って敵陣に飛び込み自爆するのです。天皇陛下万歳と叫ぶ者やお母さんという叫びは耳にしませんでした。皆、大本営に対する恨みや悪口を口にして死んでいきました」
     海軍航空隊の神風特攻隊、回天による人間魚雷と同じく、兵士の命を犠牲にした無謀な戦術を陸軍もしていたのである。

  •  だが、裏の碑文には、こうした非道で悲惨な戦闘であったことをうかがわせる言葉はなく、勇ましく国のために戦ったというような礼賛する言葉しかない。こうした戦没者の慰霊碑の多くは、このような類の文言が多い。想像するに、おそらく碑を建立する費用の出所は日本遺族会が関係しており、その遺族会は国家神道の亡霊である靖国神社と繋がっているためなのであろう。<br /> 戦前の大きな過ちを徹底して反省し同じ過ちを繰り返さないという決意が希薄で、今なお戦前の国家主義、皇国史観を礼賛するゾンビのような輩が跋扈している日本は、ナチスの戦争犯罪を徹底的に暴き、ナチの思想を法律で禁止し、被害を与えた諸国に真摯に謝罪をして国際舞台に復帰を果たしたドイツとは、敗戦国の有り様があまりにも違うと思わざるを得ない。

     だが、裏の碑文には、こうした非道で悲惨な戦闘であったことをうかがわせる言葉はなく、勇ましく国のために戦ったというような礼賛する言葉しかない。こうした戦没者の慰霊碑の多くは、このような類の文言が多い。想像するに、おそらく碑を建立する費用の出所は日本遺族会が関係しており、その遺族会は国家神道の亡霊である靖国神社と繋がっているためなのであろう。
     戦前の大きな過ちを徹底して反省し同じ過ちを繰り返さないという決意が希薄で、今なお戦前の国家主義、皇国史観を礼賛するゾンビのような輩が跋扈している日本は、ナチスの戦争犯罪を徹底的に暴き、ナチの思想を法律で禁止し、被害を与えた諸国に真摯に謝罪をして国際舞台に復帰を果たしたドイツとは、敗戦国の有り様があまりにも違うと思わざるを得ない。

  •  白梅の塔を後にして、ひめゆりの塔に向かう。<br /> ひめゆり学徒隊は、うら若き乙女たちが沖縄戦で多くの犠牲者が出たということで、話題性が高く、繰り返し映画化されたり、1975年7月に戦後、皇族として初めて皇太子ご夫妻(現明仁上皇、美智子上皇后)が慰霊・献花のために訪れ、新左翼ゲリラに火炎瓶を投げ付けられるという事件があったということで、その知名度は抜群である。<br /> 有名であるがゆえに、現在では、すっかり観光地化しており、ひめゆりの塔公園の周囲には、観光客相手の土産物屋や食べ物屋が林立している。

     白梅の塔を後にして、ひめゆりの塔に向かう。
     ひめゆり学徒隊は、うら若き乙女たちが沖縄戦で多くの犠牲者が出たということで、話題性が高く、繰り返し映画化されたり、1975年7月に戦後、皇族として初めて皇太子ご夫妻(現明仁上皇、美智子上皇后)が慰霊・献花のために訪れ、新左翼ゲリラに火炎瓶を投げ付けられるという事件があったということで、その知名度は抜群である。
     有名であるがゆえに、現在では、すっかり観光地化しており、ひめゆりの塔公園の周囲には、観光客相手の土産物屋や食べ物屋が林立している。

  •  ちゃっかり「ひめゆり」を冠した土産物まで売られている。ひめゆり学徒隊のことを知り、戦争の悲惨さを考えてもらう場として、大勢の人が訪れることは歓迎すべきだが、中には観光地の一つとして物見遊山気分で訪れる人もいなくはないと思われる。やはり、厳粛な慰霊と戦争の悲惨さに思いを致す場にふさわしい環境であってほしいと思うのだが、はたして、亡くなられたひめゆり学徒の皆さん、どう思われますか?

     ちゃっかり「ひめゆり」を冠した土産物まで売られている。ひめゆり学徒隊のことを知り、戦争の悲惨さを考えてもらう場として、大勢の人が訪れることは歓迎すべきだが、中には観光地の一つとして物見遊山気分で訪れる人もいなくはないと思われる。やはり、厳粛な慰霊と戦争の悲惨さに思いを致す場にふさわしい環境であってほしいと思うのだが、はたして、亡くなられたひめゆり学徒の皆さん、どう思われますか?

  • ひめゆりの塔の入り口には献花用の花束を売っている売店がある。

    ひめゆりの塔の入り口には献花用の花束を売っている売店がある。

  • さっそく買い求め、献花する。

    さっそく買い求め、献花する。

  •  ひめゆりの塔がある場所は、立派な公園として整備され、塔の左手奥には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、ひめゆり学徒の戦争体験を通じて、戦争の悲惨さを学べる場となっている。<br /> 大勢の人が訪れて賑わっている様は、訪れる人が少なく静寂の中にある白梅の塔と対照的である。白梅の塔で話をした白梅同窓会関係者の「ひめゆりでは物見遊山気分の学生も、白梅の塔に来ると神妙な顔つきになる」という言葉に納得できるところもある。

     ひめゆりの塔がある場所は、立派な公園として整備され、塔の左手奥には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、ひめゆり学徒の戦争体験を通じて、戦争の悲惨さを学べる場となっている。
     大勢の人が訪れて賑わっている様は、訪れる人が少なく静寂の中にある白梅の塔と対照的である。白梅の塔で話をした白梅同窓会関係者の「ひめゆりでは物見遊山気分の学生も、白梅の塔に来ると神妙な顔つきになる」という言葉に納得できるところもある。

  • ひめゆり学徒隊慰霊碑<br /><br />ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部157名、県立第一高等女学校65名の15~19歳の女生徒からなり、わずか1,2か月の看護基礎教育を受けただけで、沖縄陸軍病院の各地分院に配属になった。<br />第一高女の交友会誌が「乙姫」、師範学校女子部の交友会誌が「白百合」だったが、両校は1916年に併置校となり、校友会誌も「姫百合」と名前を変えて統一された。戦後に「ひめゆり」とひらがなで表記し、ひめゆり看護隊と呼ぶようになった。

    ひめゆり学徒隊慰霊碑

    ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部157名、県立第一高等女学校65名の15~19歳の女生徒からなり、わずか1,2か月の看護基礎教育を受けただけで、沖縄陸軍病院の各地分院に配属になった。
    第一高女の交友会誌が「乙姫」、師範学校女子部の交友会誌が「白百合」だったが、両校は1916年に併置校となり、校友会誌も「姫百合」と名前を変えて統一された。戦後に「ひめゆり」とひらがなで表記し、ひめゆり看護隊と呼ぶようになった。

  •  献花する連れ合いの奥にある小さな石塔が、ひめゆりの塔である。終戦直後の1946年1月、当時の真和志村長だった金城和信氏が、村民と協力して、野ざらしになっていた戦争犠牲者の遺骨収集を始め、ひめゆり学徒隊終焉の壕が、ここであることを突き止め、質素なひめゆりの塔を建てた。金城氏自身、2人の娘をひめゆり学徒隊で亡くしている。

     献花する連れ合いの奥にある小さな石塔が、ひめゆりの塔である。終戦直後の1946年1月、当時の真和志村長だった金城和信氏が、村民と協力して、野ざらしになっていた戦争犠牲者の遺骨収集を始め、ひめゆり学徒隊終焉の壕が、ここであることを突き止め、質素なひめゆりの塔を建てた。金城氏自身、2人の娘をひめゆり学徒隊で亡くしている。

  • 慰霊碑に刻まれた犠牲者の名前。師範学校女子部生徒157名中81名、引率教師18名中13名、第1高女生徒65名中42名が犠牲になっている。<br />ちなみに他の学徒隊の人数、犠牲者数は以下の通り<br /> 白梅   46名中17名<br /> 瑞泉   61名中33名<br /> なごらん 10名中1名<br /> 積徳   25名中4名<br /> でいご  17名中9名<br /> 宮古   48名中1名<br /> 八重山  60名中1名<br />やはり、ひめゆり学徒隊が人数、犠牲者数ともダントツに多い。知名度が高いのも頷ける。また、引率教員の犠牲者がいたことも特徴的である。他の学徒隊には教師はついていなかった。<br />もちろん、彼女らの戦場における地獄のような看護補助業務は、人数の多寡によらず、ひとしく悲惨な体験だったことはいうまでもない。米軍が迫り、壕を撤退するときに、歩けない負傷兵に青酸カリを飲ませることまでやらされたのである。ひめゆりに限らず、他の看護隊についても、もっと知られてもよい。

    慰霊碑に刻まれた犠牲者の名前。師範学校女子部生徒157名中81名、引率教師18名中13名、第1高女生徒65名中42名が犠牲になっている。
    ちなみに他の学徒隊の人数、犠牲者数は以下の通り
     白梅   46名中17名
     瑞泉   61名中33名
     なごらん 10名中1名
     積徳   25名中4名
     でいご  17名中9名
     宮古   48名中1名
     八重山  60名中1名
    やはり、ひめゆり学徒隊が人数、犠牲者数ともダントツに多い。知名度が高いのも頷ける。また、引率教員の犠牲者がいたことも特徴的である。他の学徒隊には教師はついていなかった。
    もちろん、彼女らの戦場における地獄のような看護補助業務は、人数の多寡によらず、ひとしく悲惨な体験だったことはいうまでもない。米軍が迫り、壕を撤退するときに、歩けない負傷兵に青酸カリを飲ませることまでやらされたのである。ひめゆりに限らず、他の看護隊についても、もっと知られてもよい。

  •  慰霊碑の前にぽっかり空いているガマが伊原第三外科壕だった。ここであふれんばかりの負傷兵の過酷な看護補助業務についていた。もともとは陸軍病院は南風原にあったのだが、米軍に押され、ここ伊原集落にひめゆり学徒23人を連れて移って来た。本来、集落の住民の避難壕だったのだが、大半の住民を追い出し、応急の病院壕にしたのである。これも司馬遼太郎の言葉の一例であろう。<br /> だが、6月19日、米軍は、この壕にガス弾を打ち込み、96名中87名が犠牲となった。そのうちひめゆり学徒38名と教師4名が命を落としている。

     慰霊碑の前にぽっかり空いているガマが伊原第三外科壕だった。ここであふれんばかりの負傷兵の過酷な看護補助業務についていた。もともとは陸軍病院は南風原にあったのだが、米軍に押され、ここ伊原集落にひめゆり学徒23人を連れて移って来た。本来、集落の住民の避難壕だったのだが、大半の住民を追い出し、応急の病院壕にしたのである。これも司馬遼太郎の言葉の一例であろう。
     だが、6月19日、米軍は、この壕にガス弾を打ち込み、96名中87名が犠牲となった。そのうちひめゆり学徒38名と教師4名が命を落としている。

  • 慰霊碑の隣にささげられた千羽鶴<br /><br /> 6月18日、軍は学徒隊に解散命令を出し、壕から砲弾飛び交う戦場に追い出したのである。前に記したとおり、ひめゆり学徒隊223名中123名がなくなっているが、実に119名が解散命令を受けたあとに亡くなっている。

    慰霊碑の隣にささげられた千羽鶴

     6月18日、軍は学徒隊に解散命令を出し、壕から砲弾飛び交う戦場に追い出したのである。前に記したとおり、ひめゆり学徒隊223名中123名がなくなっているが、実に119名が解散命令を受けたあとに亡くなっている。

  •  慰霊碑の横だけでなく資料館の入り口にも夥しい千羽鶴がささげられている。見ると、ほとんどすべてが中学校、高校の生徒たちが折って、ここにささげたものである。<br />平和教育の一環で、沖縄戦の現地を訪れ、その惨い戦場の様子を知ることは、とても意義深いことである。<br /> しかし、一過的に、この地で沖縄戦のことを知るだけでは不十分である。学校での歴史教育は、自分の時がそうであったように、現代でも縄文時代から年代順に記述するやり方で、時間不足で、最も大事な現代史はおざなりになっている。第2次大戦についても、経過だけを羅列的に記述しているだけである。<br /> 翻って、ドイツの歴史教育を見ると、ナチスという負の過去に向き合い、ユダヤ人迫害の事実をもしっかりと教え、その上にたって、ユダヤ人強制収容所の課外授業が行われている。沖縄戦とは何だったのかという歴史的背景をしっかり教えずに、一時的に沖縄戦跡を生徒たちに見せても不十分でしかない。<br /> やはり、戦前の亡霊のような輩が権力を握っている日本と、徹底して国をあげてナチスの悪行を追求しているドイツとの違いと思わざるを得ない。

     慰霊碑の横だけでなく資料館の入り口にも夥しい千羽鶴がささげられている。見ると、ほとんどすべてが中学校、高校の生徒たちが折って、ここにささげたものである。
    平和教育の一環で、沖縄戦の現地を訪れ、その惨い戦場の様子を知ることは、とても意義深いことである。
     しかし、一過的に、この地で沖縄戦のことを知るだけでは不十分である。学校での歴史教育は、自分の時がそうであったように、現代でも縄文時代から年代順に記述するやり方で、時間不足で、最も大事な現代史はおざなりになっている。第2次大戦についても、経過だけを羅列的に記述しているだけである。
     翻って、ドイツの歴史教育を見ると、ナチスという負の過去に向き合い、ユダヤ人迫害の事実をもしっかりと教え、その上にたって、ユダヤ人強制収容所の課外授業が行われている。沖縄戦とは何だったのかという歴史的背景をしっかり教えずに、一時的に沖縄戦跡を生徒たちに見せても不十分でしかない。
     やはり、戦前の亡霊のような輩が権力を握っている日本と、徹底して国をあげてナチスの悪行を追求しているドイツとの違いと思わざるを得ない。

  • ひめゆり学徒隊慰霊碑のそばには、沖縄陸軍第三外科に勤務していて犠牲となった軍医、従軍看護婦の慰霊塔も建てられている。

    ひめゆり学徒隊慰霊碑のそばには、沖縄陸軍第三外科に勤務していて犠牲となった軍医、従軍看護婦の慰霊塔も建てられている。

  • この後、資料館を見学したのだが、残念ながら館内は写真撮影禁止なので、写真を使っての説明はできない。<br />館内は6つの展示ゾーンに分かれている。第1展示室 ~ひめゆりの青春~ 、第2展示室 ~ひめゆりの戦場~、 第3展示室 ~解散命令と死の彷徨~ は、青春を謳歌していた、ひめゆり学徒が、いかにして軍国少女に仕立て上げられ、悲惨な戦場で彼女たちは、どのような従軍看護の仕事につき、ガマの中の病院の実態はどのようなものだったか、そして解散命令後に戦場をさまよい、そこで起きた悲劇を、数々の遺品、実物そっくりのガマのジオラマ、生存者の証言、米軍側の資料によって、その実態が赤裸々に展示されている。慰霊のため、ひめゆりの塔を訪れた人には、この3つのゾーンだけは、はぜひとも見てほしい。<br /> この資料館はひめゆり学徒隊の生存者を中心に結成したひめゆり同窓会の人たちが、みずから集めた浄財で建てた資料館である。国家神道の亡霊のような靖国神社と、それにつながる日本遺族会のような団体の資金は全く入っていないので、軍国主義を礼賛するような雰囲気は全くない。<br /> <br />慰霊碑のそばに自然石を歌が刻まれた「いわまくら碑」がある。ひめゆり学徒隊の引率教師であり、ひめゆり同窓会の初代会長だった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑である。<br /> 「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」  <br />固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かっただろう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っているという哀悼の歌である。

    この後、資料館を見学したのだが、残念ながら館内は写真撮影禁止なので、写真を使っての説明はできない。
    館内は6つの展示ゾーンに分かれている。第1展示室 ~ひめゆりの青春~ 、第2展示室 ~ひめゆりの戦場~、 第3展示室 ~解散命令と死の彷徨~ は、青春を謳歌していた、ひめゆり学徒が、いかにして軍国少女に仕立て上げられ、悲惨な戦場で彼女たちは、どのような従軍看護の仕事につき、ガマの中の病院の実態はどのようなものだったか、そして解散命令後に戦場をさまよい、そこで起きた悲劇を、数々の遺品、実物そっくりのガマのジオラマ、生存者の証言、米軍側の資料によって、その実態が赤裸々に展示されている。慰霊のため、ひめゆりの塔を訪れた人には、この3つのゾーンだけは、はぜひとも見てほしい。
     この資料館はひめゆり学徒隊の生存者を中心に結成したひめゆり同窓会の人たちが、みずから集めた浄財で建てた資料館である。国家神道の亡霊のような靖国神社と、それにつながる日本遺族会のような団体の資金は全く入っていないので、軍国主義を礼賛するような雰囲気は全くない。
     
    慰霊碑のそばに自然石を歌が刻まれた「いわまくら碑」がある。ひめゆり学徒隊の引率教師であり、ひめゆり同窓会の初代会長だった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑である。
     「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」  
    固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かっただろう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っているという哀悼の歌である。

  • 次に向かったのは平和祈念公園。<br />このあとの行動予定としては2時からガンガラーの谷探検ツアーを予約してあったのだが、ひめゆり平和祈念資料館で大幅に時間を費やしてしまったので、平和祈念公園に滞在する時間がほとんど無くなってしまった。

    次に向かったのは平和祈念公園。
    このあとの行動予定としては2時からガンガラーの谷探検ツアーを予約してあったのだが、ひめゆり平和祈念資料館で大幅に時間を費やしてしまったので、平和祈念公園に滞在する時間がほとんど無くなってしまった。

  •  そのため、平和の火が灯る平和の礎ゾーンや平和祈念堂を巡る時間がなくなってしまったのだが、摩文仁の丘の県別の慰霊碑ゾーンの2つの慰霊碑だけは参拝しておこうということで、急ぎ足で回った。<br /> まずは、今住んでいる栃木県の慰霊碑へ。栃木県民となってまだ10数年なので、戦災と親戚縁者なども含めた自分との関わりは全くないのだが、栃木県出身で沖縄戦と関わりが深い人物がいるので、慰霊しておきたかったのである。<br /> その人物とは「荒井退造」という人。残念ながら栃木県民ですら、知らない人の方が圧倒的に多いのだが、2015年の戦後70周年特集として地方紙「下野新聞」で彼の特集記事が載っていたことで知ったのである。<br /> 荒井は栃木県清原村(現宇都宮市清原)出身の内務官僚で警察畑の仕事を歴任した。1943年7月に沖縄県警察部長として沖縄に赴任した。沖縄が戦場になる危機が迫る中、情勢を楽観していた当時の県知事の消極姿勢に異論を唱え、住民の疎開活動を始めた。1944年10月の沖縄大空襲、12月の県知事転任と混乱が続いたが、1945年1月に新任の島田叡知事と二人三脚で、疎開を進め3月までに7万人の住民の疎開を完了させた。4月に米軍がついに上陸し、本島南部での戦闘が激しくなる中、南部から北部に15万人以上の住民を逃がした。米軍に追い詰められ、荒井と県知事島田はともに最後は摩文仁の丘で姿を消した。<br /> 荒井退造が毅然たる疎開計画を進めたことで、沖縄県民20万人以上が命を救われたのである。栃木県人にとっては、郷土の誇りともいうべき人物である。摩文仁の丘に荒井と島田を顕彰する碑が、この栃木県慰霊碑とは別にあるのだが、そちらにまでいく時間がなかったのは、心残りであった。

     そのため、平和の火が灯る平和の礎ゾーンや平和祈念堂を巡る時間がなくなってしまったのだが、摩文仁の丘の県別の慰霊碑ゾーンの2つの慰霊碑だけは参拝しておこうということで、急ぎ足で回った。
     まずは、今住んでいる栃木県の慰霊碑へ。栃木県民となってまだ10数年なので、戦災と親戚縁者なども含めた自分との関わりは全くないのだが、栃木県出身で沖縄戦と関わりが深い人物がいるので、慰霊しておきたかったのである。
     その人物とは「荒井退造」という人。残念ながら栃木県民ですら、知らない人の方が圧倒的に多いのだが、2015年の戦後70周年特集として地方紙「下野新聞」で彼の特集記事が載っていたことで知ったのである。
     荒井は栃木県清原村(現宇都宮市清原)出身の内務官僚で警察畑の仕事を歴任した。1943年7月に沖縄県警察部長として沖縄に赴任した。沖縄が戦場になる危機が迫る中、情勢を楽観していた当時の県知事の消極姿勢に異論を唱え、住民の疎開活動を始めた。1944年10月の沖縄大空襲、12月の県知事転任と混乱が続いたが、1945年1月に新任の島田叡知事と二人三脚で、疎開を進め3月までに7万人の住民の疎開を完了させた。4月に米軍がついに上陸し、本島南部での戦闘が激しくなる中、南部から北部に15万人以上の住民を逃がした。米軍に追い詰められ、荒井と県知事島田はともに最後は摩文仁の丘で姿を消した。
     荒井退造が毅然たる疎開計画を進めたことで、沖縄県民20万人以上が命を救われたのである。栃木県人にとっては、郷土の誇りともいうべき人物である。摩文仁の丘に荒井と島田を顕彰する碑が、この栃木県慰霊碑とは別にあるのだが、そちらにまでいく時間がなかったのは、心残りであった。

  • 次に慰霊園路のほぼ中央にある静岡県慰霊碑へ。

    次に慰霊園路のほぼ中央にある静岡県慰霊碑へ。

  •  玄白は静岡県で生まれ育った。父より5歳年上の叔父が、陸軍に徴兵され、1944年、すでに東シナ海の制海権を米軍に握られている中で、台湾に派遣される途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死している。生前、祖父は、叔父のことについて、聞いてもあまり語らなかったので、詳しいことはわからずじまいである。祖父にとっては、つらく悲しいことだったので思い出したくなかったのかもしれない。遺影でしか、叔父の顔を見たことはないが、父よりもハンサムで聡明な顔立ちをしている。<br /> 静岡の塔は沖縄戦関係者だけでなく、太平洋戦争、南方戦線で戦死した40409人の慰霊が合祀されている。我が叔父もその中の一人である。

     玄白は静岡県で生まれ育った。父より5歳年上の叔父が、陸軍に徴兵され、1944年、すでに東シナ海の制海権を米軍に握られている中で、台湾に派遣される途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死している。生前、祖父は、叔父のことについて、聞いてもあまり語らなかったので、詳しいことはわからずじまいである。祖父にとっては、つらく悲しいことだったので思い出したくなかったのかもしれない。遺影でしか、叔父の顔を見たことはないが、父よりもハンサムで聡明な顔立ちをしている。
     静岡の塔は沖縄戦関係者だけでなく、太平洋戦争、南方戦線で戦死した40409人の慰霊が合祀されている。我が叔父もその中の一人である。

  • 静岡県らしく、慰霊碑には富士山の姿が刻まれている。<br /><br />慰霊園路をさらに先に行くと、沖縄第32軍総司令官牛島満中将と参謀長勇中将を祀る慰霊塔「黎明の塔」があるが、そちらまで行く時間もその気もなかった。牛島満という人物は個人的には温厚な人格者で周囲から尊敬され慕われていたという評価が定着している。だが、軍隊という組織のなかの組織人としての振る舞いには同情すべきものはない。絶望的な戦局のなかで、米軍司令官パックナー中将から降伏勧告文を受け取っていたにも関わらず、それを無視して、次のような遺言ともいえる最後の軍命を残して自決した。<br />「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」<br />この命令、特に最後の一文のせいで、実に多くの兵士、住民の多大な犠牲を生んでしまったのである。これについては芸術家岡本太郎が、的確な評価を下しており、全く同感である。<br />「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自らのおかしたる惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまで虚栄のなかに反省もなく“帝国軍人らしく”自刃した。私は嫌悪に戦慄する。旧日本軍の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンス(凝縮)されている。」<br />(岡本太郎 「忘れられた日本ー沖縄文化論」より)

    静岡県らしく、慰霊碑には富士山の姿が刻まれている。

    慰霊園路をさらに先に行くと、沖縄第32軍総司令官牛島満中将と参謀長勇中将を祀る慰霊塔「黎明の塔」があるが、そちらまで行く時間もその気もなかった。牛島満という人物は個人的には温厚な人格者で周囲から尊敬され慕われていたという評価が定着している。だが、軍隊という組織のなかの組織人としての振る舞いには同情すべきものはない。絶望的な戦局のなかで、米軍司令官パックナー中将から降伏勧告文を受け取っていたにも関わらず、それを無視して、次のような遺言ともいえる最後の軍命を残して自決した。
    「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」
    この命令、特に最後の一文のせいで、実に多くの兵士、住民の多大な犠牲を生んでしまったのである。これについては芸術家岡本太郎が、的確な評価を下しており、全く同感である。
    「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自らのおかしたる惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまで虚栄のなかに反省もなく“帝国軍人らしく”自刃した。私は嫌悪に戦慄する。旧日本軍の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンス(凝縮)されている。」
    (岡本太郎 「忘れられた日本ー沖縄文化論」より)

  • 摩文仁の丘から平和記念公園を一望。<br /><br />この後、沖縄戦跡から離れ、ガンガラーの谷へ向かう。これは後続の旅行記にて紹介したい。

    摩文仁の丘から平和記念公園を一望。

    この後、沖縄戦跡から離れ、ガンガラーの谷へ向かう。これは後続の旅行記にて紹介したい。

  • 4月11日 沖縄旅行最終日<br />那覇空港に戻る途中の沖縄旅行最後の行動は、普天間飛行場視察である。住宅密集地の中にあり、その危険性が久しく言われていて、辺野古への移設問題で、国と沖縄県が激しく対立している、そのいわくつきの米軍基地である。<br />宜野湾市普天間飛行場の南西の端に嘉数高台公園があり、地球儀を模した展望台がある。ここから普天間飛行場が一望できる。

    4月11日 沖縄旅行最終日
    那覇空港に戻る途中の沖縄旅行最後の行動は、普天間飛行場視察である。住宅密集地の中にあり、その危険性が久しく言われていて、辺野古への移設問題で、国と沖縄県が激しく対立している、そのいわくつきの米軍基地である。
    宜野湾市普天間飛行場の南西の端に嘉数高台公園があり、地球儀を模した展望台がある。ここから普天間飛行場が一望できる。

  • 展望台からはこんな風景が広がっている。広大な基地の周りを民家、学校、ビル群がびっしりとり囲んでいる。世界一危険な飛行場と言われているのがよくわかる。駐機場には、夥しいオスプレイが並んでいる。

    展望台からはこんな風景が広がっている。広大な基地の周りを民家、学校、ビル群がびっしりとり囲んでいる。世界一危険な飛行場と言われているのがよくわかる。駐機場には、夥しいオスプレイが並んでいる。

  • 展望台には普天間飛行場の解説パネルが展示されている。<br /><br />普天間飛行場移設は1995年の米兵による少女暴行事件を発端に米軍基地返還、日米地位協定見直し運動の高まりのなかで、当時の橋本内閣とクリントン政権の間で普天間基地全面返還が合意された。だが、移転先候補地選定に手間取ったり、辺野古移設を決めた後も、基地建設の工法で揉めたりと、遅々として計画は進まなかった。2009年民主党政権が誕生すると、アホな鳩山由紀夫が「移設は最低でも県外」と沖縄県民の歓心を買うために、展望がないままに従来の計画を白紙に戻して混乱に拍車をかけた。結果的には代替案を作ることができず辺野古移設案に戻ってしまったのだが、そのため沖縄県民の政府への不信は一層高まってしまった。<br /> 沖縄県民の中にある日本政府に対する不信の本質は、国土のわずか0.6%しかない沖縄に在日米軍基地の75%が集中している現実、米兵の犯罪や、米軍の事故に対して日本の司法権が適用できないという屈辱的な日米地位協定の見直しを求める県民の声に歴代政権が耳を傾けようとしない点である。<br /> とりわけ、第2次安倍政権は、国政選挙補選、県知事選、辺野古移設を巡る県民投票と3度も辺野古移設反対の意思が示されているにも関わらず、その声を聞こうともせず、ひたすらアメリカに盲従するばかりの無能、無策な政権なのである。こんな政権が続く限り、沖縄の米軍植民地という実態は、これからも続くと思うと暗澹たる思いがする。

    展望台には普天間飛行場の解説パネルが展示されている。

    普天間飛行場移設は1995年の米兵による少女暴行事件を発端に米軍基地返還、日米地位協定見直し運動の高まりのなかで、当時の橋本内閣とクリントン政権の間で普天間基地全面返還が合意された。だが、移転先候補地選定に手間取ったり、辺野古移設を決めた後も、基地建設の工法で揉めたりと、遅々として計画は進まなかった。2009年民主党政権が誕生すると、アホな鳩山由紀夫が「移設は最低でも県外」と沖縄県民の歓心を買うために、展望がないままに従来の計画を白紙に戻して混乱に拍車をかけた。結果的には代替案を作ることができず辺野古移設案に戻ってしまったのだが、そのため沖縄県民の政府への不信は一層高まってしまった。
     沖縄県民の中にある日本政府に対する不信の本質は、国土のわずか0.6%しかない沖縄に在日米軍基地の75%が集中している現実、米兵の犯罪や、米軍の事故に対して日本の司法権が適用できないという屈辱的な日米地位協定の見直しを求める県民の声に歴代政権が耳を傾けようとしない点である。
     とりわけ、第2次安倍政権は、国政選挙補選、県知事選、辺野古移設を巡る県民投票と3度も辺野古移設反対の意思が示されているにも関わらず、その声を聞こうともせず、ひたすらアメリカに盲従するばかりの無能、無策な政権なのである。こんな政権が続く限り、沖縄の米軍植民地という実態は、これからも続くと思うと暗澹たる思いがする。

  • そんなことに思いを巡らせながら、基地を眺めていると飛行訓練から戻ったオスプレイが戻って来た。

    そんなことに思いを巡らせながら、基地を眺めていると飛行訓練から戻ったオスプレイが戻って来た。

  • オスプレイがもっとも事故を起こしやすいという垂直着陸モードに映る瞬間。

    オスプレイがもっとも事故を起こしやすいという垂直着陸モードに映る瞬間。

  • そんなオスプレイを撮影しようと超望遠レンズを付けたカメラを三脚にセットして撮影しているミリオタらしい男性二人が、陣取っていた。

    そんなオスプレイを撮影しようと超望遠レンズを付けたカメラを三脚にセットして撮影しているミリオタらしい男性二人が、陣取っていた。

  • 宜野湾市も、また沖縄戦の戦場となったところで、日本軍のトーチカの跡が遺跡として残されている。レンタカーの返却や帰りの飛行機の時間が迫っていたので、そこまでは行けなかった。

    宜野湾市も、また沖縄戦の戦場となったところで、日本軍のトーチカの跡が遺跡として残されている。レンタカーの返却や帰りの飛行機の時間が迫っていたので、そこまでは行けなかった。

  • だが、展望台に登る階段脇の壁には、沖縄戦当時の戦闘による銃弾の跡が生々しく残っている。

    だが、展望台に登る階段脇の壁には、沖縄戦当時の戦闘による銃弾の跡が生々しく残っている。

  • 宜野湾市嘉数地区も沖縄戦の悲惨な戦場になったことから、昭和60年3月18日に「反核・軍縮平和宣言都市宣言」<br /> 1.我が国は、非核三原則を国是としており、今後ともその基本理念である<br />        反核を全国民が連帯して推進しなければならない。<br />   1.宜野湾市民は、宜野湾市を永久に反核、軍縮を求める平和都市にする<br />        ことを決意し、人類の滅亡につながる核兵器の廃絶と軍備の縮小を核<br />        保有国に強く求める。<br />   1.我が宜野湾市民は、子孫の繁栄を願い、世界平和を希求する諸国民と<br />        連帯して、米ソ両国に反核、軍縮を強く求め、恒久平和を築くため、全力<br />        を尽くすことを誓う。<br />を制定している。<br /> だが、安倍政権は、こうした宣言に反し、唯一の被爆国であるにも関わらず、核兵器禁止条約に背を向け、憲法を勝手に拡大解釈して集団的自衛権を認め、海外派兵に道を開く準備を進め、日本国憲法の平和主義を骨抜きにするような憲法改正に前のめりになっている。<br /> 沖縄戦で20万人近い犠牲を払って、戦後、平和を希求してきた沖縄の人々に共感し、安倍晋三の危険な動きをなんとしても封じ込めねばなるまいという思いを強くして、沖縄から帰って来た。<br />

    宜野湾市嘉数地区も沖縄戦の悲惨な戦場になったことから、昭和60年3月18日に「反核・軍縮平和宣言都市宣言」
    1.我が国は、非核三原則を国是としており、今後ともその基本理念である
    反核を全国民が連帯して推進しなければならない。
    1.宜野湾市民は、宜野湾市を永久に反核、軍縮を求める平和都市にする
    ことを決意し、人類の滅亡につながる核兵器の廃絶と軍備の縮小を核
    保有国に強く求める。
    1.我が宜野湾市民は、子孫の繁栄を願い、世界平和を希求する諸国民と
    連帯して、米ソ両国に反核、軍縮を強く求め、恒久平和を築くため、全力
    を尽くすことを誓う。
    を制定している。
     だが、安倍政権は、こうした宣言に反し、唯一の被爆国であるにも関わらず、核兵器禁止条約に背を向け、憲法を勝手に拡大解釈して集団的自衛権を認め、海外派兵に道を開く準備を進め、日本国憲法の平和主義を骨抜きにするような憲法改正に前のめりになっている。
     沖縄戦で20万人近い犠牲を払って、戦後、平和を希求してきた沖縄の人々に共感し、安倍晋三の危険な動きをなんとしても封じ込めねばなるまいという思いを強くして、沖縄から帰って来た。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 琉球熱さん 2019/06/03 19:07:02
    白梅之塔
    玄白さん、こんにちは

    渾身のレポート、襟を正して拝読いたしました。
    ひめゆりの塔は過度に観光資源化されて、碑を見ただけで帰ってしまう人が多いのがとても残念です。資料館を観覧すれば、安直な観光気分は吹っ飛ぶはずなのですが・・・。
    同じことが平和祈念公園にも言え、摩文仁の丘という断崖絶壁の景勝地でもあることが物見遊山に拍車をかけているようです。資料館を見れば、その断崖絶壁が沖縄戦終盤にどのような舞台になったか、想像できるはずです。

    白梅之塔は私が最も好きな場所です。何度訪れてもとても厳粛な気持ちにさせられ、非業の死を遂げた女学生と教師たちと対極にあるような穏やかな表情の地蔵群に涙が出ます。
    この場所こそ、真摯な気持ちで訪問してもらいたいものです。
    白梅之塔から丘を上がる小路沿いには、「上の壕」をはじめ、非常に多くの戦跡が集中しています。白梅が馬乗り攻撃に遭うきっかけとなったバックナー中将の慰霊碑もあります。
    山形の塔に隣接した『眞山の塔』や丘の上に『栄里の塔』など、そのあり様は手放しで伊禮だけで済まされないキナ臭いものも混ざっています。
    玄白さんのご指摘の通り、ここにも「南方同胞援護会」と称する国策の団体が資金源となっている例もあります。

    結局、沖縄の想いは70年経っても何も変わっていない。むしろ“あの時代”に逆戻りしている危うさを感じますね。

    ------琉球熱-------

    玄白

    玄白さん からの返信 2019/06/04 00:01:22
    Re: 白梅之塔
    琉球熱さん、こんばんは

     沖縄戦跡を巡る旅は、出かける前に一通り調べて出かけたのですが、帰ってから旅行記にまとめるにあたって、まだまだ調べ尽くしていないことが次から次へと出てきて、投稿が遅れてしまいました。もう少し、事前にきっちり準備していれば、もっと様々な戦跡を訪ねることができたのにと、計画の甘さをいささか後悔しています。
     ここまで踏み込んで書いても良いのだろうかという躊躇もありましたが、沖縄戦の実態を自分の目で見て、今の日本の状況を鑑みると、書かずにはいられないという思いの方が強く、筆を走らせた次第です。SNSに同じようなことを書き込めば炎上するかもしれない?(^ ^);
    そんな中で、少なくとも琉球熱さんは、期待通りのコメントを下さいました。ありがとうございました。

    玄白
     

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