2019/04/27 - 2019/04/27
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2019/4/26~4/29に行ってきた、四国旅行の記録です。
今回は四国の現存天守全踏破をテーマに回ってきました。
松山(通過)→伊予大洲(大洲城、臥龍山荘)→宇和島(天赦園、宇和島城)→松山(松山城、湯築城、道後温泉)→今治(今治城)→高松(栗林公園、高松城)→丸亀(丸亀城、中津万象園)→高知(高知城)。
列車で四国を縦横断し、鳥のように余裕なく飛び回っていましたが、無事全ての天守を踏破してきました。
では1日目(伊予大洲、宇和島)。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- ANAグループ JR特急 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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早めに起き、手早く朝食を摂って、私はすぐに表に出ました。
2日目は10時ごろまでに宇和島観光を終え、すぐに特急に乗って次の目的地へ行く必要があります。
宇和島駅からは天赦園にも、ここにも多少距離があるので、タクシーに乗って行くことにしました。 -
登城口の門を通り過ぎると、それっぽい階段が続いていました。
登り切った後で標識が出ていて、それを見ていると、旅行中とみられる中年の夫婦の方から、『結構上るんですかねぇ?』って聞かれたんですが、私も机上の知識しかないので、『15分から20分ぐらい登りらしいですよ』と返しました。
『じゃあ上るのやめようかしら』って言ってましたが、登山とはいかないまでも多少歩くことになります。
私は直接天守に行かず、あっちこっち廻ったので30分ぐらいかけて登っているはずです。
アップダウンは多少ありますが、かつて行った安土とか、後ほど行く予定のあの城よりはだいぶ楽です。 -
丘の外周を回りながら、上層へ上がっていきます。
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途中で石垣らしきものを見かけましたが、
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ちょっと不思議な光景というか。
端の石は打ち込みハギ然としていて整っているんですが、中央が野面積みっぽい、混成的な石垣になっていて。
ひょっとすると後代に手を入れているのかな、という印象でした。 -
多少歩くとこんな広場に出ます。
長門丸と呼ばれた広場が公園になっているようです。 -
公園を過ぎるとさらに中枢へ進む坂道があります。
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そしてそのそばに碑が。
四国の現存天守を有する城の一つ、宇和島城です。
築城名手と名高い藤堂高虎が縄張り、分家となった伊達宇和島藩が領した城。 -
本丸に向かう道とは別に、もう一つの登城口へいたる道があったので、先へ進んでみます。
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しばらく行くと道が分かれていて。
橋が架かっているようですが入れないようです。 -
もう一つの下り道を進みます。
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しばらく行くと、こんな構えの場所に出ました。
大分峻厳な入口に見えます。
搦手っぽい雰囲気です。 -
ここは式部丸跡。
櫓も門もない郭だそうで。 -
確かに、櫓があるなら土台の一つもありそうですが、建物が建っていた気配をあまり感じません。
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が、振り返ると結構峻厳な石垣が立ちはだかっている、と。
伊達家の瓦が出土している辺り、単なる広場として使ったようにも思えませんが、林のように描かれていたこの空間がどう活用されていたのか、興味深いですね。 -
式部丸跡からさらに降りていくと、苔むした味のある石垣が。
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さらに進むともう一つの登城口に出ます。
実はあそこに見える門が上り立ち門といって、現存建造物の一つだったんですが、私はここで踵を返してしまって。
このまま降りて見てから上ったほうが良かったんですが、後で上り立ち門の存在に気づいたので、下城してから再度見に行くという無駄な動きをしていました。 -
再登城するために振り返ると、2段の石垣が城らしい構えで出迎えてくれます。
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長門丸跡まで戻り、本丸を目指し坂を上っていきます。
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上りきると城山郷土館が。
実はこの時点でまだ8時台で開館しておらず、しかも急ぎの旅だったので、今回は見送って先へ進みます。 -
道なりに進み、さらに上りが続きます。
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まっすぐ上ると右手に階段が折れるので、そちらを見ると。
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うっ、これは狙い撃ちされる類の地形だ。
しかも門か何かがありそうな構え。 -
果たして。三之門跡。
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門の右側には広場。
櫓か詰め所を立てて兵を籠めれば、上ってくる敵を門で足止めしつつ狙撃可能ですね。 -
さらに奥にも行けそうな雰囲気でしたが、柵があって立ち入り禁止のようでした。
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振り返ると全面の城壁を右に折れて登れ、ということのようです。
これ、当然城壁の上からも攻撃しますよね。
築城者のことを考えると、まぁ当然と言えば当然の備え。 -
というわけで上っていきます。
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過半上って振り返ると。
ついに見えてきました。 -
この辺の石垣は大分整っていて。
少なくとも角の石は見事な方形で。打ち込みハギと言っていいでしょう。 -
本丸に上がる通路の右手が広場になっているのですが、網で封鎖されていて、基本的には入ることができません。
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ここは二の丸跡です。
いろいろ修築中のようで、ナンバリングした石などが転がっていました。
見つけても触らないようにしましょう。 -
では、そろそろ本丸へ登っていきます。
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階段を上りきって、ふと背後を見ると。
青空の下、宇和島港と停泊する船、宇和島市街が一望できます。
いい眺めです。 -
正面に向き直ると、小ぶりながら均整の取れた天守が。
これが現存天守の一つ、宇和島城天守です。
何というか、巨城にあるような他を圧倒する威ではなく、均整の取れた美しさを感じます。 -
石垣から最上層まで、何とも言葉にできない美しさです。
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近くの碑に、宇和島城の天守と伊達家の沿革が書かれていました。
かつて藤堂高虎が作ったのは望楼式だったものの、後日の改修時に層塔式天守に建て替えられているそうで。
天守台の打ち込みハギ含め、確かに戦国というより江戸期の影響を感じます。
宇和島藩の初代藩主となった宇和島伊達家の経緯については、長男でありながらも伊達本家を継承できなかった秀宗の不思議さがあるのですが、先日福井で見かけた結城秀康のように、豊臣秀吉という前の天下人に深く縁付きすぎたということが、かえって悪い縁になってしまった、という、巡り合わせの悪さも感じます。
親の都合で養子に出された挙句、長男なのに宗家を継げなかったということで、一時期政宗を相当恨んでいたそうです。
それが巡り巡って幕末四賢侯を生み、最終的には宗家をも上回る待遇を明治期に得ることになるわけで、時代とはわからないものです。 -
もう一つ案内板があって。
ここには面白いことが2つ書いてあります。
1つは、宇和島城はかつて海に直接面した水城であったということ。
もちろん、私は海などわたっておらず、現在の宇和島城は完全に陸上に存在する城になっていますが、これは市街地の大半が埋め立て地である故です。
これを聞いて宇和島城に対する印象が180度変わりました。
この城が水城、海城であるとなると、後ほど回る予定の、藤堂高虎が築いたあの水城と同じように、海による防備、水軍との連携、海運といった、海に対して非常に縁の強い城ということになるわけで、単なる陸続きの城とは全く違う戦略的価値を持つことになります。
もう1つはこの城の形。五角形という変わった構成になっています。
これは「空角の経始(あきかくのなわ)」と呼ばれる藤堂高虎一流の縄張りで、空から見るとまぎれもない五角形なんですが、地上から観測すると四角形と誤認させる効果があるのだそうです。
単なる現存天守の小城だと思っていましたが、なかなかどうしてこの城は侮れない秘密を持っていました。 -
本丸から進路を見下ろすとこんな感じ。
しっかり狙い撃ちできます。 -
天守台から見た本丸。
一定の広さのスペースがありますが、中央には建物の土台が残っています(御台所跡)。
では、そろそろ入ってみましょう。 -
入口に家紋が。伊達家の家紋の一つ、堅三つ引両です。
やはり現存天守、年季が入っています。 -
1層目の廊下。
歩いていて狭間がないなぁ、と思ったんですが、代わりに何か長いものを引っ掛ける金具が据え付けられています。
どうやらこれは鉄砲掛けのようで、狭間ではなく窓から鉄砲を撃つための備えらしいです。 -
天守台の上にあるせいか、1層目からでも宇和島市街が一望できます。
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VRゴーグルが置いてあって、アプリで宇和島城のVRを見られる仕組みがありました。
充電中だったのと、時間がなかったので見送りましたが、VRやARと城郭展示を組み合わせるやり方は、これからメジャーになっていくような気がします。
特にARはうまく使うと、存在しない櫓や城壁を見ながら城跡を歩けるようになるんじゃないだろうか、と。 -
鎧が三領もあってなかなか迫力が。
中央と右は伊達家の家紋ですが、左は五七桐で、太閤仕立ての甲冑ですね。秀宗の縁かしら。 -
甲冑の上には2枚の肖像画が。
幕末四賢候の一人、伊達宗城。 -
そして天赦園を開いた伊達宗紀です。
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天守の骨組模型。
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階段は現存天守にしては相当上りやすい方です。
やはり戦国期の城郭と比して、大分ゆとりのある造りになっている気がします。 -
2層目には迫力のある屏風が飾られていました。
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2層目の外周にも狭間はなく、長物を掛ける木組みだけがあります。
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2層目でもこの見晴らし。
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3層目にも屏風が。
おそらく往時の宇和島城の絵図ですね。 -
では天守からの眺め。
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当時はもっと海が近かったんでしょうね。
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さてそろそろ時間もあるので下城するか、と歩いていくと、こんな遺構が。
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井戸ですね。これも城郭における重要施設。
そういえばこの城が海城だとなると、井戸は何にもまして貴重ですね。 -
中は良く見えませんでした。
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で、先述の通り私は元来た門に戻ってしまったので、これを見忘れていたのです。
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国内最大級の薬医門とされている、上り立ち門。
これで見終わった、と、私は速足で宇和島駅へ戻りました。 -
再び宇和海に飛び乗り、1日目の道程を戻ります。
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海側の席に座っていたので、青空と海が美しい車窓でした。
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さて、松山に到着して路面電車で松山城付近まで。
ここからほど近いところが今日の宿だったので、いったん荷物を預けた後、街に繰り出します。
まぁそれにしても、結構でかい都市ですね松山は。
城一つ内包しているとは思えない近代都市っぷりです。 -
松山城をどう廻ろうかと考えていたんですが、まずは二の丸庭園方面を回って天守に登ったのち、逆側のロープウェイから下城して次の目的地を目指す、という流れで進むことにしました。
で、二の丸庭園へ向かう途上で、こんなところを見かけました。 -
重文、萬翠荘。
見る予定はなかったんですが、重文と聞いては見るだけ見ておこうかと。
時間も限られているので、速足で坂を上ります。 -
坂を上りきると、フランス風の白亜の建物が、青空の下にそびえていました。
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なるほど、当時としてはなかなか立派な。
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当時最高の社交の場であり、皇族も必ず立ち寄っていたのだとか。
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あと、この辺は夏目漱石とか、
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正岡子規との縁も深い地のようでした。
本当は坂の上の雲ミュージアム含め、時間を取って見ていきたかったところですが、もっと優先で見たいものがあるので先を急ぎます。 -
二の丸庭園の入り口を目指して歩いていくと、ものすごく高い石垣の城壁が見えてきました。
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ここが二の丸史跡庭園のようです。
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看板の左を見ると坂道が。上がって行けということか…。
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石垣は大分新しく見えましたね。
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右手に折れるとまっすぐ道が続いていて。
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しばらく行くと庭園入り口の門があります。
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中に入ると二の丸に建てられていた御殿の見取り図が。
結構広大な御殿です。 -
庭に入っていくと、『恋人の聖地』という看板と共にこんな光景が。
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あぁ、なるほど。
御殿の間取りに合わせて噴水や木々を配している、庭園というより公園の造り。 -
二の丸の中央には大井戸があったそうですが、その以降はこんな感じで残されていました。
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それっぽい石組もあるんですが、あまり興をそそられませんでした。
というのも、この日は至る所からギターの演奏やらなにやら、庭園とは関係のない音が結構やかましくてですね。あまり気分に浸れなかったというか。
先ほどの『恋人の聖地』といい、史跡庭園とは明らかに違う運営の仕方をしているみたいでしたね。史跡を巡る人としては、これじゃない感を感じていました。 -
だったらさっさと城を見に行くか、ということで、二の丸付近の登城口から上っていきます。
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欅門跡。場内最大の門が置かれていたそうです。
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しかし、先ほど登城前に見た石垣の壁といい、人工的に作ったにしてはこの斜度は相当なもので。上るのは相当骨が折れそうです。
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ここも石垣の中を曲がりくねりながら進んでいきます。
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坂を上ると林に出ます。
ここからは木々に囲まれながら本丸を目指すことになります。 -
ちょっとした森林浴というか登山というか。
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石垣は随所にあるものの、整備された城郭ではなく林の中を進んでいきます。
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15分ぐらい歩いていくと、光と共にそびえたつ城壁が。
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櫓が見えてきました。そろそろ登山も終わりのようです。
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両側に石垣。
門か櫓があったような雰囲気ですね。 -
右側の石垣に登って進路を見下ろすとこんな感じ。
櫓や石壁、門こそないものの、ここも堅牢な造りです。 -
ようやく本丸の外周に来たようです。
しかし相変わらずの斜度。 -
門を見つけたので潜っていきます。
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重文 戸無門。
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門そのもののは小さいですが、よく見ると結構年季が入っています。
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門を通り抜けた先の石垣の上から。
この階層でもそこそこ見通せます。 -
そして振り返るとさらに門が。
この時は気づいていませんでしたが、この城、防御に関しては結構容赦のない造りです。 -
筒井門。
ここは再建ですね。 -
抜けるとこんな感じ。
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進んでいくと、松山城の別名の由来についての説明がありました。
金亀城というそうです。
築城者は加藤嘉明。
賤ケ岳七本槍の一人で、清正じゃない方の加藤です。
慶長7年ですから、すでに家康の天下が定まったタイミングの築城です。
26年がかりの建設というのは、この規模を考えると納得がいきます。
よく見ると、当初、天守は五層だったんですね。
すると、当初は昨日行った大洲城よりも大きかった可能性もありますね。 -
さらに門があるので潜っていきます。
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太鼓門。
本丸大手正面の門です。 -
で、ここで門に掛かっている家紋を見て、あれ?となるわけです。
先ほど築城者は加藤嘉明と言いつつ、三つ葉葵が飾られている…ということは、移封の後親藩が来たのだな、と。 -
この門をくぐると本丸広場に出ます。
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やはり本丸にはつきものの。
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井戸もあります。
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天守が遠望できます。
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天守は本壇と言われるもう1段上の石垣に据えられていて、ここから先は入場料が必要になります。
本壇内部に入る前に周囲をぐるっと回ってみることにしました。 -
この長石垣はなかなか圧巻。
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打ち込みハギの石垣がかなり整っています。
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しばらく行くと下りの門が。
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艮門と東続櫓。
復元ですね。 -
降りていくと下城道につながっていますが、
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現在通行止めでした。
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引き返して再び本壇をぐるりと回っていきます。
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高い城壁の上に櫓、というのはここまで天を圧するものなのか、と。
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振り返るともう一つ下城できそうな門がありました。
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表に出るとこんな感じ。
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乾門。
かつて国宝でしたが戦災で焼失した、搦手門だったそうです。 -
もうすぐ一周、というところで城壁を見ると。
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狭間が並んでいました。
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あとは目の前の紫竹門をくぐると、再び本壇入り口の前に出ます。
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というわけで本壇を一周。
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じゃぁそろそろ天守へ攻めあがりましょうか。
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こんな感じで、松山城は本丸に直接天守が立っているというより、本丸の上にもう1段石垣があって、その石垣を取り囲むように櫓と天守が連結されているという、連立天守と呼ばれる構成になっています。
本丸まで到達しても、天守に至るにはなお頑強な防衛を突破しなければならないという、防衛に対して全く容赦のない造りになっています。 -
本壇への入り口はこの正面のルートしかないので、先ほどの城壁と櫓の高さを考えても、まっとうに考えるとここを通るしかありません。
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まっすぐ進んだ突き当りの壁が重文でした。
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紫竹門東塀。
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この地形もパッと見ヤバい地形です。
前方の壁に狭間も石落としも見受けられます。 -
右手に折れて進むと門。
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一ノ門。重文です。
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一ノ門をくぐって右に折れてさらに門。
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ニノ門。重文。
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ニノ門を抜けたあたりで本壇の構成図がありました。
本丸の内部にもう一つ城郭持ってるのか、というぐらいの厳重な防備です。 -
隅の方には天神櫓という櫓があって、
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菅原道真を祭っていました。
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天守に行くにはまだ門をくぐらないといけません。
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三ノ門。重文。
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この辺の城壁は石に加工が行き届いています。
切り込みハギですね。 -
その背後には櫓があって。
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三ノ門南櫓。重文。
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近くに狭間があったのでのぞいてみたら、
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一ノ門からニノ門までの通路が丸見え。狙撃可能です。
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しかも門はもう一つあります。
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筋鉄門。これは復元です。
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この門のそばの塀も重文でした。
筋鉄門東塀。 -
筋鉄門を抜けると、ようやく天守入り口のある広場に出ます。
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広場は天守や各櫓、それらを連結する廊下によって
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完全に包囲されています。
一兵卒の立場からすると、おそらくこの場所が最も危険な場所と言えるでしょう。
完全に四方を囲まれていて逃げ場がなく、どこに行っても狙撃を免れられません。
死地の中の死地と言えます。 -
じゃあ、そろそろ天守へ。
五重天守として作られ、三重に改装された後、雷火で焼失し安政期に再建。
現存天守としては比較的新しい方ですかね。 -
大混雑とはいかないまでも、見ての通り結構な人出でした。
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ところどころに窓があるのですが、基本的にこれまで通ってきたところを見下ろす形になっていて、寄せ手の動きは手に取るように分かります。
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松山城ではAR使われてたんですね。
気づかなかった。 -
石落としと狭間は、ARを使うまでもなく、こんな感じで明示されていました。
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まぁしかし、どこから見ても、
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寄せ手を狙い放題で、つくづく堅固な城です。
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この城の防御力をいやというほど理解した後で、天守からの眺めを。
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-
四国を列車で旅していて、『山ばっかりだなぁ』と思った節もあったのですが、この松山城から見下ろすと、伊予の平野の果てと、その先の海まで見渡すことができて。
限られた平野しかない四国の地において、相対的には肥沃な地だったのだろう、と思いました。 -
-
-
天守から降りた後、天守広場から内門を通って出ます。
-
その先の壁も重文でした。
仕切門内壁。
天守広場には三ノ門→筋鉄門ルートと、仕切門→内門ルートの2つがあって、後者の方が門の間の距離が短いように見えますが、仕切門はそもそも本壇入り口からの距離が長く、ずっと天守からの狙撃を受け続けなければならないので、正直どっちも攻め上るのは辛いルートでしょうね。 -
そろそろ下城。
本丸から降りて外周の石垣を歩いていきます。
人出の多い松山城や、後日訪問する城でも、この辺の外周を歩く人は少なめです。 -
石垣を鑑賞しながら歩いていきます。
-
-
無骨な野面積みではなく、打ち込みハギ、切り込みハギで、傾斜のある整った丈の高い長石垣を構成しているのがこの城の特徴のようです。
行儀のよい優等生的な石垣とでも言いましょうか。 -
ロープウェイで降りてみました。
ただ、乗った直後に隣のリフトに乗ればよかったなぁと思いました。
あっちの方が楽しそうでしたから。 -
ロープウェイから降りて、乗り場から表に出ると、築城者の銅像が。
-
加藤嘉明。
前述の通り賤ケ岳の七本槍で有名な人ですが、実は四国平定にも出陣していて、小早川隆景に従って伊予平定に参加していたそうで。藩主になる前から縁があったらしく。
松山藩主となった後、会津へ移封となり43万石の大名として身代を全うした辺り、同じ七本槍で、改易時に彼が城受け取りを行った福島正則などとは違う生き方ができたということのようです。
沈勇の士と呼ばれることが多いようですが、伊予松山城の徹底的な防備を見る限り、眉一つ動かさずに相手が嫌がる手を打ち、容赦なくせん滅するような、冷静ながら凄まじい覚悟を内包した人だったのかな、という印象でした。 -
さて、ロープウェイで降りてきたのは、単に疲れたからというわけではなく、ロープウェイ降り口が次の目的地に一番近い場所だからなのです。
レンタサイクルを使おうかと思ったら時間切れ(~17:00まで)で、歩いていくのはちょっと遠いので、路面電車で行きます。 -
と思ったら、なんかSL然とした電車が…。
坊っちゃん電車でした。
残念ながらこの乗り場からは乗車できないので見送って次に。 -
で、道後公園駅で降りて向かったのはここです。
松山のもう一つの城址、湯築城跡。 -
ここは室町期から戦国にかけての城跡でした。
当初この地の守護だった河野氏が、ここを根拠として伊予を治めていましたが、秀吉の四国征伐により降伏。
以降、何度か伊予の国主は変わりますが、どういうわけかこの城を誰も根拠にしようとしなかったのです。
最終的に加藤嘉明がほど近い松山に城を築くと、もはやここに価値はなく。ここは廃城として、後に公園となり今に至る、というわけです。 -
入っていくわけですが、一見すると、なりは普通の公園です。
ただ、公園に入る前に濠を超えていく必要があるのと、濠の周りに土塁が張り巡らしてあって、石垣や石壁ほどではありませんが、軽く備えられていた跡が見受けられます。 -
そしてこの入り口は実は搦手門。
-
左手に折れていくと、再現された壁と武家屋敷があって。
-
中では何やら談じておいででした。
-
こんな感じで、堀の内側の土塁に沿って道が伸びているので、ぐるっと歩いてみることに。
-
どうもこの道路と、隣に流れている排水溝自体が遺構らしく。
-
こんな感じで掘り切られています。
-
そして排水溝を基準に居住区が分けられている、と。
-
池で子供たちが遊んでいるのを見かけたのですが、
-
この池は庭園の名残だそうで。
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あと、土塁の様子を再現した模型が土塁の中に彫られていて。
-
この土塁は堀を掘った土を盛り上げて作ったのだそうです。
確かに、石垣という概念を導入しないのであれば、天然の要害たる山城に依るか、土で傾斜を作るしかないでしょうね。
それにしても結構な工数。 -
城の内側に目を転じると、こんな感じで広場が広がっていますが、
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視線の奥には岩壁が。
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水に阻まれていますが、これ、内堀です。
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ここは石垣も土塁もなく、防備が成立している場所でした。
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岸壁を取り囲むように内堀が続いていて、
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堀を超えたとしても、石垣以上に上るのに難儀しそうです。
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内堀は途中で切れていて、奥には階段が。
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全体図はこんな感じで、神社へと続く階段の奥をさらに進んでいくと、一番高い展望台に上れる、という構成のようでした。
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ちょっと上ってみるとこんな感じで、広場を一望できます。
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以降も木立の中を多少上っていきますが、松山城よりずっと短い道のりです。
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ほどなく、展望台のある広場へたどり着きました。
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木立に阻まれていますが、そこそこの高台になっています。
-
で、おそらくここが城の中枢とみられる場所っぽいのですが、出土品が出なかったというのは不思議と言えば不思議。
ここを取り囲むように土塁を築いておいて、何も建てなかったんですかね。 -
展望台に上がるとこんな見晴らしです。
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なぜかここにアルミンが。
進撃の巨人と愛媛がコラボ中でした。 -
そう悪くない長めです。
-
-
松山城も見えます。
確かに、相対的には松山城の方が標高が高く、睨むことはできても見降ろされる形にはなります。
城郭建築の技術力と、大城を作る国力を持っているなら、あえてこの湯築ではなく松山に、というのはうなづける気がしました。 -
本壇を降りて内堀に沿って進むと、
-
湯釜なるものが置いてありました。
-
奈良時代に作られたと伝えられているとか。
愛媛県指定文化財。 -
子規と漱石の歌碑もありました。
俳句の里松山。
今回は文学的観点では全然見て回れませんでしたね。 -
で、ここまで来ると温泉まで徒歩圏内という。
愛媛の温泉と言えば。 -
道後温泉本館。
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重文らしいですね。
-
今保存修理工事中で、運営はしているものの工事の囲いに覆われていました。
-
足を延ばしてここに来たのは、物見高く道後温泉を見に来たという以上に、宇和島、松山、湯築と城歩き詰めて疲れたので、そろそろ風呂に入りながら足を休めたいという思いがあったからだったんですが、本館には待ち行列が1時間分ほどあって、すぐにゆっくり出来そうもありませんでした。
そこで、本館から2,3分ほど歩いた場所にある、道後温泉別館 飛鳥乃湯泉に。 -
入浴だけ、入浴+大部屋休憩、入浴+個室休憩と、選ぶことができるんですが、個室に入るほどでもなかったので大部屋を選択。
最初に大部屋に通されて、こんな感じで浴衣を渡されてお風呂に入ることになります。
タオルは受付で貸し出しを受けることができるんですが、タオル1枚だと十分拭けそうになかったので、後でバスタオルを追加で借りました。
お風呂から上がったらお茶とお菓子を頂くことができます。 -
2階の大部屋のベランダから。
湯涼みにはちょうど良かったです。 -
ついでに夕食も取ってからホテルに戻ろうと思ったので、食事処を探していたら、また鯛めしが食べたくなりましたね。
ちょっと贅沢に御膳にしてみましたが、昨日食ったにもかかわらず美味しかったです。 -
最後は道後温泉駅から路面電車でホテルの最寄へ。
宇和島、松山と城を駆け回ったこの日、現存天守を2つ踏破し、目的の半分を達したところで眠りにつきました。
以下、次号。
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