2019/04/29 - 2019/04/29
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2019/4/26~4/29に行ってきた、四国旅行の記録です。
今回は四国の現存天守全踏破をテーマに回ってきました。
松山(通過)→伊予大洲(大洲城、臥龍山荘)→宇和島(天赦園、宇和島城)→松山(松山城、湯築城、道後温泉)→今治(今治城)→高松(栗林公園、高松城)→丸亀(丸亀城、中津万象園)→高知(高知城)。
列車で四国を縦横断し、鳥のように余裕なく飛び回っていましたが、無事全ての天守を踏破してきました。
では4日目(丸亀、高知)。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- JALグループ ANAグループ JR特急 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
最終日も例に漏れずとても忙しいのです。8時台の特急に乗って次の場所へ向かう必要があります。
こういう時に駅前のホテルを押さえておくと非常に融通が利きます。
(私の宿はこの図にも書いてあるJRホテルクレメント高松) -
特急に乗るまでに時間があったので、駅から歩いて数分のフェリー乗り場を見ていました。これは乗降場上の歩道橋から。
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遥か瀬戸内の海を臨みつつ。曇天だったのが残念。
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目と鼻の先に島が。女木島ですかね。
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こんな感じで離島行の船がたくさん出ています。
瀬戸内の島めぐり、というのも乙かもしれない。 -
私は海路ではなく陸路で行きます。
次の目的地は普通列車でもいいかなぁ、と思っていたのですが、時間のひっ迫を考えたのと、予定に加えてもう一つ寄る場所ができたので、前日のうちに『四国グリーン紀行』の特権である、『現地特急券発行』をみどりの窓口で行使し、翌日の特急券を押さえていました。
というわけでこれに乗ります。
特急しまんと。 -
車窓から。
もう次の目的地が見えています。
見えますかね? 中央に小さく。 -
2,30分電車に揺られて到着したのは、言わずと知れたここです。
丸亀。 -
丸亀駅からはレンタサイクルでママチャリを借りて、えっちらおっちら漕いでいきます。
こっちの目的地には歩いても行けるといえば行けるのですが、もう一つの目的地に丸亀駅から行くのであれば、レンタサイクルはおそらく必須です。 -
道路を渡りつつ正面から。
石垣が整備された平山城の威が良く出ています。 -
というわけで、通称 亀山公園。
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史跡 丸亀城跡です。
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大手門前の橋を渡りながら左右の堀を見ると、
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もうすぐこどもの日、こいのぼりが泳いでいました。
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正面には大手ニノ門。高麗門形式ですね。
ん?
これはひょっとして、昨日の今治と同じパターン? -
果たして。
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高麗門の先は枡形になっていて、内側にも門が。
枡形虎口ですね。 -
書いてありました。
京極氏が移築したとありますね。
寛文10年(1670年)はすでに江戸期で泰平の世ですが、割とガッツリ作っています。
しかし、枡形が大きい、というのは、防御効果としてどうなんでしょうね。
泰平の世に四国に大軍が攻め寄せてくる、とも考えづらく、威を示す以上の実効性があったのか、いささか疑問ではあります。 -
今治の鉄御門ほどではありませんが、石垣の精密さもあって見事な一ノ門。
枡形の外壁は切り込みハギなんですが、門の左右は打ち込みハギ気味。 -
太鼓を打っていたらしく、太鼓門の別名があります。
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門を抜けると広場に出ます。
振り返るとこんな感じ。 -
丸亀城の全体はこんな感じ。
登城するならここから見返り坂をまっすぐですが、『野面積み石垣』が気になりましてね。となると1周回った後に上るしかないかなぁと。 -
というわけで外周の道路をぐるっと回っていきます。
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近々お城まつりがあるらしく、いろいろ設営をしていました。
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左手には堀と面した石垣が。打ち込みハギ。
あの土台の形はおそらく櫓があったんでしょうね。 -
亀山動物園跡、という標識が。
栗林公園にも動物園があったそうですし、城跡に動物園という組み合わせは割とあちこちで見かけるんですが、城巡りをしている人としては、用地の確保以外に相性がいいとはあまり思えなくて。両者は異質なんですよね。
ただまぁ、名所旧跡だから行ってみよう、という観光客(特に家族連れ)からすると、史跡ばかりでは退屈してしまうという側面もあって、分からなくもないのですが、バブリーだった当時はともかく、今となっては採算的にも…ってことでしょうね。 -
しばし歩くと、お目当ての野面積み石垣に。
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なにやら切り株が生えていましたが、後代に石垣から出てきたんですかね。あまりメンテナンスされてなかったのかしら。
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それなりの幅がありますが、石垣としての練度はそれほどではなく、傾斜も大したことはありません。
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しばらく行くと、左手に搦手門跡に出くわしましたが、
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今はアサヒスーパードライ門になっていました。
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搦手を後にし、さらに一周しようとしていた私の行く手を、唐突に工事標識が阻みました。
実は城巡りをしていながら、この事実を知らなくてですね。
昨年(平成30年)、帯郭と三の丸坤櫓の石垣が崩落しているのです。
現在立ち入りが禁止されています。 -
奥を見ると、ブルーシートと大量の石が。
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確かに崩れています。
石垣の傾斜が傾いていて、地肌がむき出しになっています。 -
一応迂回路は用意されているので、道なりに進みます。
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しばらく進むとグラウンドと、その広場に対面する形で石のベンチが据えられています。
芝生広場には石垣の石が整理されて並べられていました。 -
崩落現場を正面から見ると、まぁ見事に崩れています。
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重機を入れて修復工事をしているようでした。
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柵に工事の今後の予定が。前例がなく、難易度が極めて高い石垣修復工事なのだとか。
といってもこれ、平成28年度の記載ですね。
こういう工事をしていたが崩落してしまった、ということか…。
これを見て、文化財工事というのは現在も続く、時の浸食との戦いなんだなぁ、と実感しました。
ちなみに現在の状況は丸亀城のWebページに出ています。
https://www.marugame-castle.jp/mending/ -
道なりに進むといかめしい岩が。
かぶと岩といって、ここに庭園があったそうです。
確かに力のある岩で、庭園の石組には格好の素材です。 -
大手門に向かって進んでいきます。
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資料館もあったんですが、あいにくこの日はお休みでした。
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資料館を通り過ぎて歩いていくと、門構えが。
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通り抜けるとこんな感じ。
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御殿表門。
確かに立派な門ですね。 -
近くには堀に面して塀を開けてある場所が。
往時は舟遊びができたのかしら。 -
さて、これで外周をぐるっと回ったので、そろそろ天守に登城していきます。
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ここから上りが続いていくんですが、左右を見ると高石垣が。
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確かに、この曲線は見事。
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端もしっかり固めてあります。
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しばらく進むと右に折れて上り坂。
大したことはありません。 -
打ち込みハギ。
上層の石垣の色が違うのは、修築でもしたのかしら。 -
見返り坂を上がりきると、三の丸跡です。
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石垣の上は展望台になっていて、
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ここからでもそこそこの眺望が。
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月見櫓跡辺りから見るとこんな感じ。
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三の丸を歩いていると邸宅を見つけたので、何かと思って近づいていくと。
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延寿閣別館。京極家江戸藩邸を移築したものだとか。
中に入ることはできません。 -
三の丸からさらに上がっていきます。
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すると井戸が。
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二の丸井戸。
羽坂重三郎が殺された、という話はパンフレットに書いてあって。
『裸重三』と呼ばれた働き者で、この美しい石垣を築き上げた功労者でした。
石垣を見た殿様は、『飛ぶ鳥以外にこの石垣は越えられまい』と重三を褒めたのですが、重三は『いや、棒一本あれば簡単に登れますよ』って言って、よせばいいのに上ってしまったのだそうです。
これを見て、重三が寝返っては一大事と、殿様がこの井戸の底を探らせるよう重三に命じ、上から石を落として殺してしまった、という話です。
嘘か真か定かではないですが、重三は技を披露した後の殿様の反応を見なかったのかしら、と。フォローの一つもあってよさそうな気もしましたが。城の弱点が人に付いている、というのは実に恐ろしいことです。 -
二の丸の外周をぐるりと回っていくと、天守の真下に出られます。
表から狭間が見えますね。 -
振り返るとこんな感じで、大分高いところまで来ているのが分かります。
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大手門を見下ろして。
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ここの石垣も整然。
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もう一段上っていきます。
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うん、見えてきました。
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上りきると本丸広場に出ます。
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広場の一角には目当ての建物が。
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というわけで重文にして現存天守、丸亀城天守。
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広場側から見た天守を、石垣側から見たそれと比較すると、確かに見え方が違います。こっちからは割とのっぺりしているように見えるんですが、先ほど二の丸から見上げた天守には威を感じました。
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そしてこの日は大混雑でして。
入場制限のせいで列ができていました。 -
しばし待った後で中に入ると出迎えてくれたのは可愛いお姫様。
丸亀城は秋葉原の某書店と『丸亀城と12人のお姫様』というコラボをしているのだそうです。
https://marugame-12ohimesama.jp/
名前通り各月に対応するお姫様がいて、毎月パネルが変わるそうですよ。 -
お姫様の出迎えを受けた後で、内部を見て回ることにします。
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さっき見た狭間ですね。石落としもあったのか。
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窓もあるので、ここから鉄砲を射かけることもできます。
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さすが石垣の丸亀だけあって、すべての石組がそろっています。
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そして崩落の空中写真。
こうしてみると、東の角が丸ごと取れたような感じで、大分派手に崩れたものです。単なる積みなおしだけではなくて、土砂が崩れた地盤の整備もいるでしょうから、一大事業になりそうですね。
今年のふるさと納税は丸亀市への寄付を考えましょうか。
https://www.city.marugame.lg.jp/hometown_tax/gift.html -
燧梁。
角ではなくあえてその傍に2本柱を立てるという工法。 -
太鼓壁。
長押まで塗り込めている…? -
あぁ、確かに。結構分厚そうです。
天守の堅牢性について、ここまで配慮されている城はあまり見たことがないような気もします。 -
で、これを見て合点がいきました。大筒狭間。
大筒は戦国末期、というか江戸初期にかけて、大阪城攻めとかで効果が出ているので、逆に大筒で攻められることを考えると、確かに壁も厚く梁も多くして、壊されないようにしようというものです。 -
階段はこんな感じでした。現存天守としてはまぁ平均的かなと。
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天守の窓から見下ろすとこんな感じ。
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海が見えてよい眺望です。
現在ビルが立ち並ぶ区画の多くは平屋だったでしょうから、丸亀一円を見通すことができたのでしょう。 -
天井の梁はさすが現存天守だけあって年季が入っていました。
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丸亀城の復元図。
こうして見ると、堀に面した曲輪と三の丸の落差が激しすぎて、丘の上に築かれた石垣の存在感が圧倒的な感じですね。
外周は兵で守り、三の丸以上は石垣で守る、という印象で、両者の守り方についても断絶を感じます。
これまで見てきた他の城と違って、城郭の構造に連続性がない、という珍しい城です。 -
一通り見終わったので表に出て1枚。
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二の丸の搦手から下層に降りていきます。
この段階でも石垣の存在が強い強い。 -
やはり二の丸から天守を見上げた時、石垣の高さと天守の意匠が相まって、敵に対する威圧を感じます。
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おそらく天守の左右には塀や櫓があったのだろうと思うので、往時の威圧感は今日の比ではなかっただろうな、と。
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三の丸に降りた後、先ほどの延寿閣別館の横を通り過ぎ、搦手口から下城。
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左右の石垣は多少余裕をもって配されているものの、道は曲がりくねっていて、両側から攻撃可能な地形ではあります。
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まぁしかし、どこにいても石垣の美しいことよ。
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この辺には門があったはず。となるとなかなか抜き辛い構えといえます。
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下城し終わったので帰ろうと思ったら、大手一の門に入れるのを見つけたので入ってみました。
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中はこんな感じ。
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窓からは枡形虎口を一通り見通せます。
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この通り石落しもありました。
石垣の城といっても枡形虎口の備えは全く手を抜いていませんでした。 -
さて、丸亀城を後にした私は、レンタサイクルに乗って線路の下をくぐり、城とは反対の方向に走っていきます。
この金倉川を渡ると、もう少しで目的地。 -
自転車で15分ぐらいだったかしら。
中津万象園。丸亀には庭園があって、レンタサイクルで来ると割引になると聞いたので、来てみました。
実際、丸亀駅からここに来るには徒歩だとおそらく30分以上かかってしまうので、レンタサイクルは必須です。 -
中津万象園は丸亀京極家の別館として、二代藩主高豊が整備したとされる庭園。
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回遊式大名庭園でしたが、一時期荒廃しており、後に整備されて今日に至るとか。
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ここには美術館も併設されているんですが、見ている余裕がなかったので庭園の方へ。
こんな細い道をまっすぐ進むと、 -
少し開けた場所に出ます。
庭園全体はそこそこ広いです。 -
左手の方に目を引く赤い橋があったので行ってみると。
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美しい眺望があるのだとか。
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というわけで渡ってみることに。
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橋上から撮るとこんな感じなんですが、つくづくこの日が曇天であったのが残念でした。晴天だともう少し映えるんじゃないかな、という気がするのですが。
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ただ、見通しは良くて、池を一望することができます。
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こんな飛び石があったので、
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飛び石の上から橋を撮るとこんな感じ。
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個人的には特に瞠目するところのない作庭でしたが、散歩するには悪くない所です。
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ここにはちょっとおもしろい松があって。
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千代の傘松。
樹齢600年にも及び、刈込の手間も相当だそうです。 -
近江の景勝になぞらえた作庭なのだとか。
伊達家といい、江戸初期の大名たちは、自分たちのルーツを自らの封地に再現していたりします。
この傾向、何となく四国以外であまり意識したことがないように思うのですが、江戸幕府の好き勝手で古郷から遠く封じられた身として、郷愁を強く感じたのでしょうか。 -
近くにこんな建物が。
観潮楼という茶室で、 -
現存する最古の煎茶席なのだとか。
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散策に疲れたら休憩することもできます。
丸亀名物の団扇とかが大量に展示してありましたね。 -
最後に橋上からもう1枚撮影。
あまり見栄えのする写真がなかったので少な目なんですが、つくづく曇天だったのが残念。晴天の時に来たかったですね。
天気が良くて時間があれば、一見の価値があろうかと思います。 -
中津万象園から戻り、レンタサイクルを返して、最後の目的地へ行くために電車を待っていたら、なんかまたファンシーな列車がやってきまして。
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アンパンマンやばいきんまんと一緒に私の目に入ってきたのはグリーン車のマーク。
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調べてみたら、この列車、全席グリーン指定席なんだそうで。
子供向けと見せかけて、実はかなりのブルジョワ列車です。 -
楽しそうな親子連れをたくさん乗せて去っていきました。
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そのあとに乗ってきたこれが私の乗るべき車両。
特急南風。 -
私が陣取ったのは先頭車両の一番前でした。
座っているとロマンスカーのような前方展望は望めないのですが、撮り鉄にとってはこの席は魅力的なようで、運転席かぶりつきで撮影している人もいました。 -
しばらくすると山に囲まれ始めました。
ここから四国山地を縦断していきます。 -
峡谷がなかなかフォトジェニックな。
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この辺は大歩危(おおぼけ)と呼ばれる有名な渓谷で、国の名勝らしいですね。
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ラフティングで川下りしている人もいました。
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その後しばし眠ってしまったらしく。
気づいたら南風は大きな地方都市に到着していました。 -
ホームを降りると。
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アンパンマンが出迎えてくれます。
というわけで最後の目的地、高知に到着です。 -
改札を出ると外はあいにくの雨。
昨年の旅でも最終目的地では雨に逢いましたが、今回もかとがっかりしつつ、路面電車に乗ってがっかり名所で有名なここを見ておくことにしました。 -
はりまや橋。
札幌の時計塔と並んで、日本三大がっかり名所と呼ばれている橋です。
確かに、『あぁ、赤い橋があるね』で終わってしまいましたね。 -
はりまや橋から目的地の方向へ向かう間に、ひろめ市場の前を通ったんですが、時間がないので立ち寄るわけにもいかず、今回は素通りでした。
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この辺で結構雨脚が強かったのですが、行く先に緑に覆われた一角が。
どうやら到着したようです。 -
堀と思しき場所を左右に見ながら橋を渡っていきます。
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しばし歩くと御馬場跡。
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そして水路跡。
ここにあるように、この城は水害に備えるため排水に力を入れていた城なのだそうです。 -
さらに歩いていくと広場に出ました。
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低めの石垣と櫓。
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打ち込みハギですかね。
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大分立派な門があります。
ここが表門に当たる追手門です。 -
門の前には案内図が。
というわけで、ここが今回の旅最後の目的地、現存天守にして重文の高知城です。
土佐というと長宗我部元親という印象もありますが、この高知城は関ヶ原の後で山内一豊が築城した城です。 -
追手門の前がもう登城口なので、じゃあ上るか、と思ったんですが、この日は雨天にもかかわらず結構な混雑ぶりでした。
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登城口のそばに銅像があったので近寄ってみると。
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自由民権運動の人が。
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板垣退助。そういえばこの人は土佐藩士でした。
確か岐阜城でも銅像を見た気がします。 -
階段こそコンクリートで整備されていますが、左右にはそれっぽい石垣が増えてきました。
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苔むし、武骨な石組。
野面積みですね、ここは。 -
野面積みで、しかも苔むしている理由はこの辺に書いてあります。
高知県は多雨地帯。
雨樋を作ってまで石垣からの排水をするほど、水に備えています。
野面積みは石の間に隙間がある分排水しやすく、水はけがよいのです。 -
どこあなぁと思って探してみると、果たして石垣の中腹にありました。
確かに石垣途中の雨樋、というのは私も見たことがありませんでした。 -
階段を上りきると三の丸。
ここにもまた銅像が。 -
これまた有名な話ですね。
山内一豊の妻(見性院)と名馬の話。
結婚のときの持参金で一豊に名馬を買わせて夫の面目を施した話は、内助の功を物語る逸話としてあまりにも有名です。
ただ、この辺の話は今日の夫と妻の関係というより、山内家という事業を夫と共に切り盛りする、共同経営者としての振る舞いのようにも見えます。家の盛衰を自分事として捉えた場合の投資、というのが実情に近いのかもしれません。
そういう意味では遅咲きながら大当たりしたことには違いありません。 -
三の丸まで来ると、石垣の向こうに天守が見えます。
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しかしこの切り立ちぶりが、また鑑賞に相応しい良い石垣。
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三の丸石垣の解説。
穴太衆が野面積みで積んだ、という気の使いようです。
なるほど良い石垣なわけだ。
平成になって崩落の危険性に備えて積みなおしているそうです。
丸岡城もそうですが、建築物だけでなく石垣の景観にも大きな労力が必要なんですね。 -
三の丸自体は結構広い広場になっています。
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こんな具合。
元から広場だったわけではなく、ここに大書院という大きな建物があって、後に維新後に執政府として用いられたこともあったのだとか。 -
あと、こんな機構が。
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水路の遺構だそうです。いたるところに排水の設備が。
メンテナンスを考えて作っている点、なかなかやりますね。 -
あと、長宗我部時代の石垣もありました。
長宗我部元親もここに城を築こうとしたものの、水害に阻まれてうまくいかなかったそうです。 -
こんな感じで残していました。
何となく石が小ぶりで、城の石垣と比すると技術水準に差があるようにも思います。 -
振り返ると、『まだ来ないのか?』と言わんばかりに天守が見つめてきます。
そろそろ上がっていきましょうか。 -
階段を上っていくと、突如秩序だった石垣に左右を扼され、ちょっと身構えます。
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鉄門跡。ここが守備の要の一つのようです。
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ここだけ切り込みハギになっていて、石垣そのものの造りもタイト。
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奥へ抜けようとすると左へ折れます。
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つまりここも枡形。
周辺三方に塀か櫓があるパターンでしょうね。 -
ここまで来るとだいぶ天守が近づいてきます。
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鉄門跡のそばから天守の真下に出ることができます。
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狭間と石落としがきれいに見えています。
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石垣は白黒二層に分かれているのが印象的でしたね。積んだタイミングが違うのかしら。
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振り返ると、順路の左側に門らしき構造物が。
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二階建ての…門ですかね。
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果たして。詰門というそうです。
二階建てで、二回は本丸への廊下になっているとか。 -
階段を上りきると二の丸。
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こんな感じで、ここも結構広いです。
-
で、二の丸広場の先に、人でごった返している入口があって。
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懐徳館入口。
本丸へはここを通っていきます。 -
屋内をしばし歩くと詰門の立て札が。
先ほど見た詰門の2階部分を通っているというわけです。 -
で、詰門を通り過ぎると、ご覧の通り本丸広場は人でごった返していました。
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雨にもかかわらず行列が凄くてですね…2,30分ぐらいは待ちましたかね。
正直なところ、高知城訪問に使える時間は全部で2時間ぐらいしかなく、帰りの飛行機の時間に直結するので、若干気が気ではありませんでした。 -
ようやく入城を許されました。
天守へは本丸御殿を経由して行くことになります。
御殿が往時のまま残っている城はここぐらいなものだそうで。 -
大河ドラマでやってましたね、功名が辻。
-
欄間が飾ってありました。
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これは三の丸に使われていたもの。
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こっちは二の丸で使われていたもの。
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当時の名工が手掛けたものが多いようです。
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庭に面した縁側を歩いていると、壁に狭間を見つけました。
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御殿とは言え、ここにも籠城の備えがあります。
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大分立派な部屋が。
上座がありますね。
あそこは上段の間といって、藩主の座所だったようです。 -
こんなものもありました。
物見窓。 -
庭を見てみると、確かに壁に横一文字に窓が開いています。
よく考えてみると、御殿は平屋なので、外の様子は伺いにくいわけで。
この御殿、単なる平時の座所というわけではないですね。 -
しばらく歩くと天守に入ります。
天守はこんな感じで展示館も兼ねています。 -
先ほど見ましたね。
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石落としです。
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こっちも先ほど見た狭間。
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あえて伏せて撃てるようになっているそうで。
スナイピングポイントのようです。 -
築城と石垣の話が。
高知城に来る前は全く意識していませんでしたが、丸亀とは別の意味で、この城も石垣の名城でした。
築城を担当した百々綱家は、関ヶ原で西軍に属して敗北し、蟄居を命じられていたところ、築城に苦労していた山内一豊が家康に願い出て家臣とした伝えられている人物。特に石垣に強い築城名手です。
百々綱家を奉行にして穴太衆を連れてきて築城、というのは、石垣に関しては当代最も贅沢なスタッフで築城したわけで、確かにこの城の石垣の力の由来が分かろうというものです。 -
高知城は4層もあるので、階段は結構上り下りします。
とはいえ、それほどきつくはありません。 -
高知城の絵図面。
こうしてみると、防御を高さで補っている方角(南)と広さで補っている方角(北)があって、元の地勢を意識しながら防御力を計算に入れて築城した跡がうかがえます。
ただ、この図だと版図そのものはそれほど広くないようにも見えます。
もう一つ外堀があったのかしら。 -
ジオラマも飾ってありました。
伊予松山城のような徹底的な防備と違って、どことなく城下との連続性を持っていて、戦時というより平時に配慮した平山城、という印象を受けます。 -
もう一つありました。
なかなか面白い形状の縄張りです。 -
鯱。
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看板から窓の外に目を転じると、今でもありました。
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さて、では天守からの眺め。
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時間がなかったのもあって、ちょっと急ぎ足で脱出します。
もう少しゆとりを持って見たかったかなぁ、と。 -
東多聞櫓にも入ることができます。
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ここにもいろいろ展示がありましたね。
やはり土佐と言えば長宗我部。もっとも有名な元親の話です。
織田信長からは『鳥なき島の蝙蝠』と酷評されましたが、何だかんだ言って国人領主の身から四国平定までこぎつけたのは大したものです。
最終的に長宗我部氏は次代の盛親が西軍に加担して取り潰された上、当の盛親は大坂の陣で大阪方に加担して家名断絶となってしまいましたが…戸次川の合戦で戦死し、最後まで惜しまれ続けた嫡子、信親が存命だったら、長宗我部家の未来はどうなっていたんでしょうね。
信長にも嘱望された麒麟児、きっと関が原でも舵を取って家名を残すことができたかもしれませんね。この興亡は、確かに土佐人ならずとも浪漫を感じるものがあります。 -
長宗我部軍の特徴は一領具足、とよく言われます。
普段は農民だが、ひとたび戦となれば、家に一領だけある甲冑をまとって領主と共に戦う、という半農半兵の制度です。
戦国後期に信長、秀吉が進めた兵農分離の対極であり、最終的に長宗我部軍は兵農分離された秀吉の大部隊に降伏を余儀なくされるわけですが、ここに書いてあるように欲求不満の解消(そしておそらくは新領地の切り取り)を目的として編成されたとなると、四国統治に限っては極めて合理的な政策と言えるわけです。
一方でこの一領具足の荒々しさには、関ヶ原の後でこの地に封じられた山内一豊が手を焼かされることになります。(後でもっと穏便な懐柔がされるようになるとは言え、)一領具足が起こした一揆を武力鎮圧するところまでエスカレートします。
自らが認めない領主の統治は受けない、という独立独歩の気風がよく伝わってきます。 -
ここにも石落としとか、
-
狭間がありました。埋められてましたが。
-
鯨漁の展示もありましたね。
諸外国ではどうこう言われているようですが、この国は昔から鯨を海の恵みとして頂いてきた歴史があるわけです。
英語の展示もあったので、ぜひ外国の方にも見識を深めていただければ、と思いながら眺めていました。 -
表に出ると、大分人出が減ったものの、それでも結構混雑していたので、早々に下城することにしました。本当は全ての重文をカメラに収めたかったところでしたが。
-
矢狭間塀を左手に見ながら、ゆっくりと下城していったのですが。
-
降りて石垣の周囲を歩いていると、野面積みの石垣が、またいい味を出していてですね。
-
こういう高石垣とか。
-
無骨な野面積みでありながら、丈が高く、しかも美しいアーチを描いていて。
戦国初期から中期の石垣、あるいは江戸初期の石垣と比較しても、非常に練度の高い出来だなと。 -
ここにも雨樋があります。
-
この辺とかは…まぁ何というか…一言で言うと『たまらなく良い』ですね。
古城の石垣が醸し出せる美しさをすべて備えているというか。
荒々しさを保ちながら整然としていて、しかも時を感じる。
城に興味のない人には全く共感してもらえないような気もしますが。 -
今回雨に逢ったのは残念だったなぁ、と思っていたんですが、この辺りでふと思いなおしました。
高知城はおそらく雨天時に来ることによって、ある意味で本来の味が出る城なのだろう、と。
この城そのものが水や大雨に備えた城であり、排水力がその本領を発揮すると同時に、石垣が雨に濡れることで、乾燥時とは異なる石の味が出てくるのかな、と。 -
緑の季節に来たのも良かったですね。
苔と新緑が城と石垣を美しくしてくれます。 -
本当は搦手門も見たかったんですが、時間がないのでせめて石垣を回るか、と、この城の最大の見せ場であるところの石垣を堪能していました。
-
この辺とかはあまり積みなおしてないんでしょうね。
-
と、一通り石垣を回ったところで時間切れ。
以上、高知城でした。
ちなみに国宝って書いてあるのは、戦前の文化財保護法によるものです(かつては国宝だった)。 -
堀から天守を臨みつつ。
ちょっと名残惜しかったですね。 -
じゃあそろそろ帰るかーと踵を返しかけたところで、私の視線に入ったのはこの銅像でした。
いやいや、これは失敬。
築城者に挨拶せずに帰るところでした。 -
山内一豊。
流浪の身から秀吉に仕え、徐々に武功を上げ、秀吉在世時に遠江掛川5万石まで上り詰めます。
この掛川5万石は関ヶ原の戦いの時の逸話が有名です。
家康が上杉征伐のために小山に布陣しているときに、石田三成が挙兵。豊臣恩顧の諸将が去就を決めかねている中、一豊は軍議の席で、家康に掛川城を提供する、と、真っ先に申し出ました。これによって迷っていた豊臣恩顧の諸将の態度が雪崩のように変わり、我先に家康に協力を申し出るようになった、という話。
これは、堀尾忠氏がうっかり話してしまった秘策を一豊が横取りしたとも言われています。後日忠氏は『日頃篤実なあなたらしくない行為だ』と笑ったそうですが、この話や身代の伸びも含めて、おそらく彼の第一属性は『篤実』であり、他者の目を引く武勇や才幹には乏しく、十人並みだったのだろうなぁ、私は思っています。
本当に天下第一等の優秀さならば、秀吉ほどの人物の目利きが5万石程度の領地で済ませるとも思えないもので。
ただ、彼の篤実があったればこそ、秀吉は家康の西進を阻むべき東海道の要地に彼を封じ、家康もまた土佐一国を与えて報いたのでしょう。
その一方で、家康が土佐を与えて報いた関ヶ原の功績は、彼の篤実という属性から見ていかなる意味があったのか、という点は非常に興趣をそそるものがあります。
秀吉から見れば、家康を押さえるべき要石として置いたにもかかわらず裏切られた形ですし、一方で家康から見れば、天下を安泰にすべく、ファーストペンギン(最初の勇敢な挑戦者)を買って出た、平和に対する功労者なわけです。
己の篤実から見てどうだったのか、実のところを一豊に聞いてみたいですね。 -
帰りは路面電車を待たずに歩いて帰ってきました。
駅前の横断歩道まで来て、あぁ、この人らに挨拶してなかったな、と。 -
土佐から出でて維新を支え、新時代を築いた三傑がいました。
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すなわち、中岡慎太郎。
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武市半平太。
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そして、坂本龍馬。
今回は幕末がテーマではないので、あまり深くは語りませんが、桂浜にも行けなかったので、いずれ幕末の風を浴びに再訪したいものです。 -
高知駅からはバスで空港へ。
高知の空港は高知竜馬空港と言うだけあって、再び竜馬先生に会いました。 -
あと、高知は3時間ぐらいしか滞在しておらず、まったく堪能できていなかったので、四国最後の食事はカツオのたたきを頂きました。
これがまた美味しくて。
日頃あまりカツオを食べていなかったのでひとしおでした。 -
お土産でも売っていたので、買って帰ろうかと思ったぐらいでした。
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雨の降りしきる空港から、飛行機に乗って四国ともお別れ。
(写真とは裏腹に乗ったのはJALでしたが)
というわけで、長年の願望だった四国現存天守全踏破を果たした上、これまで知らなかった四国の奥深さを新たに見聞きすることができました。
非常に欲張りで、時間に追われる旅でしたが、自分のステレオタイプよりもはるかに豊潤な四国の実情を見聞きし感じることができ、大変興味深い旅になりました。
一方で四国という地は3日4日程度で堪能しきれるような、底の浅い場所ではないことも痛感しました。歴史の視点だけ見ても、幕末や源平といった、戦国以外の側面は全く触れられておらず、良い意味で四国に心を残しています。
現存天守を全踏破したのち、今度は別のテーマ(源平、幕末、自転車)で改めて歩き通してみたいものです。
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