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今年は、桜の花の持ちがいいです。開花宣言から日にちが過ぎても見ごろが続いています。<br />満開の桜を見に、小石川界隈へ。今までに散策したことのなかった場所を選びました。<br /><br />小石川の桜②☆小石川植物園・播磨坂☆紀庵・一幸庵☆2019/04/02<br />https://4travel.jp/travelogue/11476887<br />

小石川の桜①☆源覚寺・傳通院・小石川植物園☆2019/04/02

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2019/04/02 - 2019/04/02

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杏仁豆腐

杏仁豆腐さん

今年は、桜の花の持ちがいいです。開花宣言から日にちが過ぎても見ごろが続いています。
満開の桜を見に、小石川界隈へ。今までに散策したことのなかった場所を選びました。

小石川の桜②☆小石川植物園・播磨坂☆紀庵・一幸庵☆2019/04/02
https://4travel.jp/travelogue/11476887

同行者
一人旅
交通手段
私鉄
  • 大江戸線春日駅から歩きます。<br />まずは源覚寺。江戸時代から続く庶民の信仰の寺です。

    大江戸線春日駅から歩きます。
    まずは源覚寺。江戸時代から続く庶民の信仰の寺です。

  • 閻魔堂には、こんにゃくのお供えが。参詣者が眼病治癒を願うお供え物です。<br />江戸時代中期の宝暦年代(1751年~1764年)頃、閻魔大王に眼病治癒を祈願した老婆が、閻魔大王の片目をもらい眼病治癒、それ以降閻魔大王の右目が盲目になったという言い伝えによるものです。<br />老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを供えました。<br />このことから、今日に至るまで眼病治癒の「こんにゃくえんま」として信仰され続けています。

    閻魔堂には、こんにゃくのお供えが。参詣者が眼病治癒を願うお供え物です。
    江戸時代中期の宝暦年代(1751年~1764年)頃、閻魔大王に眼病治癒を祈願した老婆が、閻魔大王の片目をもらい眼病治癒、それ以降閻魔大王の右目が盲目になったという言い伝えによるものです。
    老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを供えました。
    このことから、今日に至るまで眼病治癒の「こんにゃくえんま」として信仰され続けています。

  • 塩地蔵。お地蔵さまの体に、塩を自分の病気のある部分につけると、病気治癒にご利益があるそうです。2体で1組のお地蔵様ですが、真っ白です。

    塩地蔵。お地蔵さまの体に、塩を自分の病気のある部分につけると、病気治癒にご利益があるそうです。2体で1組のお地蔵様ですが、真っ白です。

  • 毘沙門天。小石川七福神のひとつです。

    毘沙門天。小石川七福神のひとつです。

  • 汎太平洋の鐘。<br />この鐘は元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものであったが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていました。しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明に。しかし戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見されました。その後、1974年になって当寺院に返還されたそうです。

    汎太平洋の鐘。
    この鐘は元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものであったが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていました。しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明に。しかし戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見されました。その後、1974年になって当寺院に返還されたそうです。

  • 南洋群島物故者慰霊像。第二次世界大戦でサイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像です。

    南洋群島物故者慰霊像。第二次世界大戦でサイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像です。

  • 源覚寺脇の桜もきれいに咲いています。

    源覚寺脇の桜もきれいに咲いています。

  • 御百度石

    御百度石

  • 源覚寺を出て、善光寺坂を上ります。<br />

    源覚寺を出て、善光寺坂を上ります。

  • 坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。<br />  “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)<br /> また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

    坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
      “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
     また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

  • 善光寺です。

    善光寺です。

  • 善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になったそうです。

    善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になったそうです。

  • 花らしい風景です。

    花らしい風景です。

  • 澤蔵司稲荷(たくぞうす いなり)です。

    澤蔵司稲荷(たくぞうす いなり)です。

  • 元和4年(1618年)、傳通院の学寮に澤蔵司と名乗る僧が、浄土宗を学びたいと言って入寮してきました。澤蔵司は非常に秀才で、わずか3年ほどで浄土宗の奥義を学び取ります。<br />そして元和6年(1620年)5月7日、学寮長の極山和尚と傳通院住職の郭山和尚の夢枕に澤蔵司が立った。澤蔵司が言うには「私は、太田道灌が江戸城築城の折に勧請された稲荷神であるが、浄土宗の奥義を学びたくこの地に現れ、その願いは達せられました。これからは神に戻り、当山を守護し、所願を満足させよう。早く一社を建てて欲しい」とのこと。郭山和尚は早速稲荷社を建立し、澤蔵司稲荷としました。

    元和4年(1618年)、傳通院の学寮に澤蔵司と名乗る僧が、浄土宗を学びたいと言って入寮してきました。澤蔵司は非常に秀才で、わずか3年ほどで浄土宗の奥義を学び取ります。
    そして元和6年(1620年)5月7日、学寮長の極山和尚と傳通院住職の郭山和尚の夢枕に澤蔵司が立った。澤蔵司が言うには「私は、太田道灌が江戸城築城の折に勧請された稲荷神であるが、浄土宗の奥義を学びたくこの地に現れ、その願いは達せられました。これからは神に戻り、当山を守護し、所願を満足させよう。早く一社を建てて欲しい」とのこと。郭山和尚は早速稲荷社を建立し、澤蔵司稲荷としました。

  • 空に枝が伸びています。

    空に枝が伸びています。

  • 沢蔵司稲荷

    沢蔵司稲荷

  • きれいに咲いています。

    きれいに咲いています。

  • 善光寺坂のムクノキ<br />当該樹木は、現在「善光寺坂」と通称されている区道817号とそれに沿う歩道との間に設けられたポケットパーク内に所在しています。<br />当該樹木が位置する場所は、江戸時代は伝通院境内でした。廓山(かくざん)上人(伝通院中興第一世、寛永2年〔1625〕没)によって植栽されたものと伝承されるが、確かな記録はなくその真偽は定かではありません。その後、伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至っています。<br />明治維新後、伝通院の塔頭寺院が独立するなどしてその境内が縮小され、伝通院からは切り離されました。また、大正時代にはムクノキの両側が道路となりました。第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月25日には空襲で樹木上部が焼けてしまいました。

    善光寺坂のムクノキ
    当該樹木は、現在「善光寺坂」と通称されている区道817号とそれに沿う歩道との間に設けられたポケットパーク内に所在しています。
    当該樹木が位置する場所は、江戸時代は伝通院境内でした。廓山(かくざん)上人(伝通院中興第一世、寛永2年〔1625〕没)によって植栽されたものと伝承されるが、確かな記録はなくその真偽は定かではありません。その後、伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至っています。
    明治維新後、伝通院の塔頭寺院が独立するなどしてその境内が縮小され、伝通院からは切り離されました。また、大正時代にはムクノキの両側が道路となりました。第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月25日には空襲で樹木上部が焼けてしまいました。

  • 傳通院に着きました。<br />見事な桜がお出迎えです。

    傳通院に着きました。
    見事な桜がお出迎えです。

  • 傳通院は浄土宗の寺です。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家の菩提寺です。<br />山門です。

    傳通院は浄土宗の寺です。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家の菩提寺です。
    山門です。

  • 山門の脇には、処静院(しょじょういん)跡の石柱があります。<br /><br />この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に建っていたものである。<br />石柱の文字は、修行と戒律の厳しさを伝えている。<br />処静院は、その後、廃寺となった。<br />文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。<br />山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人、その後浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。<br />一行は文久3年2月8日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことだった。

    山門の脇には、処静院(しょじょういん)跡の石柱があります。

    この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に建っていたものである。
    石柱の文字は、修行と戒律の厳しさを伝えている。
    処静院は、その後、廃寺となった。
    文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。
    山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人、その後浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。
    一行は文久3年2月8日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことだった。

  • 山門からの景色。

    山門からの景色。

  • お見事!!

    お見事!!

  • 墓地に入りました。

    墓地に入りました。

  • 墓地の桜もきれいに咲いています。

    墓地の桜もきれいに咲いています。

  • 千姫(2代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻)の墓

    千姫(2代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻)の墓

  • 孝子の方(3代将軍徳川家光の正室)墓

    孝子の方(3代将軍徳川家光の正室)墓

  • 於大の方(松平広忠の正室で、徳川家康の母)の墓

    於大の方(松平広忠の正室で、徳川家康の母)の墓

  • 澤宣嘉(幕末の公卿(七卿落ち・生野の変)、明治期の政治家)の墓

    澤宣嘉(幕末の公卿(七卿落ち・生野の変)、明治期の政治家)の墓

  • 大正から昭和にかけて活躍した歌人、橋本徳壽が詠んだ歌 <br />「春いまだ さわがしからぬ 空のいろに 辛夷(こぶし)の花は白く咲きたり」が刻まれています。

    大正から昭和にかけて活躍した歌人、橋本徳壽が詠んだ歌 
    「春いまだ さわがしからぬ 空のいろに 辛夷(こぶし)の花は白く咲きたり」が刻まれています。

  • 正門を入って境内左側にある金仏様。中央のご本尊は法蔵地蔵尊、脇待は、向って右が観世音菩薩、左が勢至菩薩です。

    正門を入って境内左側にある金仏様。中央のご本尊は法蔵地蔵尊、脇待は、向って右が観世音菩薩、左が勢至菩薩です。

  • 戦火を免れた大梵鐘<br />天保10年(1839)第五十六代梵誉上人代

    戦火を免れた大梵鐘
    天保10年(1839)第五十六代梵誉上人代

  • 敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、浪越が寄贈した指塚があります。

    敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、浪越が寄贈した指塚があります。

  • お隣は、淑徳SC中等部・高等部。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部[1])を創立しました。

    お隣は、淑徳SC中等部・高等部。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部[1])を創立しました。

  • 広々とした境内に桜もきれいに咲いていました。<br />人も少なく、ゆっくりできましたこと。

    広々とした境内に桜もきれいに咲いていました。
    人も少なく、ゆっくりできましたこと。

  • 『浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内」(くんしゅもんないにいるをゆるさず)の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。<br /> 文久3年(1863)2月4日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもとで活躍した新選組の前進である。隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(鳩翁)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職に就いた。<br /> 鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、結成の場所として本院を提供した。後に新選組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃された。享年34歳であった。現在墓は伝通院にある。また、住職琳瑞も慶応3年(1867)小石川三百坂で刺殺された。享年38歳であった。 

    『浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内」(くんしゅもんないにいるをゆるさず)の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。
     文久3年(1863)2月4日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもとで活躍した新選組の前進である。隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(鳩翁)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職に就いた。
     鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、結成の場所として本院を提供した。後に新選組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃された。享年34歳であった。現在墓は伝通院にある。また、住職琳瑞も慶応3年(1867)小石川三百坂で刺殺された。享年38歳であった。 

  • 三百坂 (さんびゃくざか)<br />都立竹早高校脇の坂。

    三百坂 (さんびゃくざか)
    都立竹早高校脇の坂。

  • 吹上坂に出ました。

    吹上坂に出ました。

  • 宗慶寺です。浄土宗のお寺です。

    宗慶寺です。浄土宗のお寺です。

  • 阿茶局墓碑<br />この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。<br />阿茶局は、駿河(現静岡県)の人で、家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。<br />法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。

    阿茶局墓碑
    この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
    阿茶局は、駿河(現静岡県)の人で、家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。
    法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。

  • 御殿坂です。<br />小石川植物園の脇の坂。<br />「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)<br /> 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」(『江戸志』)<br /> 白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。<br /> 綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。<br /> 明治になってからは東京大学の付属植物園となった。<br />    植物園の松の花さへさくものを<br />     離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928))

    御殿坂です。
    小石川植物園の脇の坂。
    「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)
     「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」(『江戸志』)
     白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。
     綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。
     明治になってからは東京大学の付属植物園となった。
        植物園の松の花さへさくものを
         離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928))

  • 小石川植物園に到着しました。ここから桜が見えます。<br />後半に続きます。<br /><br />小石川の桜②☆小石川植物園・播磨坂☆紀庵・一幸庵☆2019/04/02<br />https://4travel.jp/travelogue/11476887

    小石川植物園に到着しました。ここから桜が見えます。
    後半に続きます。

    小石川の桜②☆小石川植物園・播磨坂☆紀庵・一幸庵☆2019/04/02
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