下仁田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
下仁田もかなり変わった地層が見られるところです。所々に岩山が突出している光景は異様です。火山や地殻隆起による山ではなく、浸食によってできた山だということです。根無し山(クリッペ)を形成していて、クリッペとは、地層が別の場所から移動し、河川によって削られてできる地形のことですが、下仁田のクリッペがいつ、どのように動いてきたかなどは不明だそうです。<br />中小坂鉄山は、上信電鉄下仁田駅周辺から西へ流れる森澤川流域、東の南蛇井駅周辺まで広がる南蛇井層とその北部に貫入した平滑花崗岩とが接する辺りに位置します。南蛇井層と平滑花崗岩は、領家帯に属していて、南蛇井層は、ジュラ紀後期の海生層由来で、日本列島に蒸した付加体で、平滑花崗岩は約6400万年前に南蛇井層に貫入したマグマが固まったものと考えられているそうです。<br />表紙の写真は、鉄山跡へ行く前に立ち寄った虻田の福寿草の里に咲く福寿草です。初めて見たので、蕾から咲きそろったところまで見ることができました。

下仁田・中小坂鉄山跡を見る

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2019/02/20 - 2019/02/20

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belledune

belleduneさん

下仁田もかなり変わった地層が見られるところです。所々に岩山が突出している光景は異様です。火山や地殻隆起による山ではなく、浸食によってできた山だということです。根無し山(クリッペ)を形成していて、クリッペとは、地層が別の場所から移動し、河川によって削られてできる地形のことですが、下仁田のクリッペがいつ、どのように動いてきたかなどは不明だそうです。
中小坂鉄山は、上信電鉄下仁田駅周辺から西へ流れる森澤川流域、東の南蛇井駅周辺まで広がる南蛇井層とその北部に貫入した平滑花崗岩とが接する辺りに位置します。南蛇井層と平滑花崗岩は、領家帯に属していて、南蛇井層は、ジュラ紀後期の海生層由来で、日本列島に蒸した付加体で、平滑花崗岩は約6400万年前に南蛇井層に貫入したマグマが固まったものと考えられているそうです。
表紙の写真は、鉄山跡へ行く前に立ち寄った虻田の福寿草の里に咲く福寿草です。初めて見たので、蕾から咲きそろったところまで見ることができました。

旅行の満足度
4.5

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  • 福寿草はキンポウゲ科の多年草ですが、毒草だそうです。元日草とも呼ばれて、幸福を招くことから、昔からお正月に飾られてきました。

    福寿草はキンポウゲ科の多年草ですが、毒草だそうです。元日草とも呼ばれて、幸福を招くことから、昔からお正月に飾られてきました。

  • しかし、手のかかる植物で、4月頃から種蒔をし、夏は休眠させ、秋に植え付けをするということです。

    しかし、手のかかる植物で、4月頃から種蒔をし、夏は休眠させ、秋に植え付けをするということです。

  • 以前、皇居の蝋梅を見たことがありますが、昨夜の雨に濡れて、とても綺麗でした。

    以前、皇居の蝋梅を見たことがありますが、昨夜の雨に濡れて、とても綺麗でした。

  • 福寿草のアップです。

    福寿草のアップです。

  • 蕾から次第に茎が伸びて行くのが分かります。

    蕾から次第に茎が伸びて行くのが分かります。

  • 紅梅、白梅がこれから次第に開花が始まり、今が盛りの蝋梅の香り漂う中を散策しました。

    紅梅、白梅がこれから次第に開花が始まり、今が盛りの蝋梅の香り漂う中を散策しました。

  • オオイヌノフグリは、朝開いて、夕方までには散るそうですね。

    オオイヌノフグリは、朝開いて、夕方までには散るそうですね。

  • この西牧川(さいもくがわ)の両岸にも断層を見ることができます。西牧川上流域は、本宿層の凝灰角礫岩が広く分布しているそうです。本宿層は、900万年前後の堆積物で、約950万年前に本宿層の地域が小屋場付近の内山層を残して、大きく陥没しました。その凹地に火山活動による火山角礫が堆積し、凹地を埋め他のが、本宿層ということだそうです。1800万年前の地層と考えられる内山層は、泥岩、砂岩からなり、塊状で、層は発達していないとのことです。内山層の周囲は高い崖となり、崖下に内山層の礫が崩れ落ちて、堆積していき、その礫が本宿層の泥岩の礫になりました。こうして約1800年前の地層と900万年前の地層が隣り合っています。この地下には、西南日本を分けている「中央構造線」の一部とされている「大北野ー岩山断層」が通っているとのこと。下仁田の基盤岩は青岩(三波川結晶片岩)です。

    この西牧川(さいもくがわ)の両岸にも断層を見ることができます。西牧川上流域は、本宿層の凝灰角礫岩が広く分布しているそうです。本宿層は、900万年前後の堆積物で、約950万年前に本宿層の地域が小屋場付近の内山層を残して、大きく陥没しました。その凹地に火山活動による火山角礫が堆積し、凹地を埋め他のが、本宿層ということだそうです。1800万年前の地層と考えられる内山層は、泥岩、砂岩からなり、塊状で、層は発達していないとのことです。内山層の周囲は高い崖となり、崖下に内山層の礫が崩れ落ちて、堆積していき、その礫が本宿層の泥岩の礫になりました。こうして約1800年前の地層と900万年前の地層が隣り合っています。この地下には、西南日本を分けている「中央構造線」の一部とされている「大北野ー岩山断層」が通っているとのこと。下仁田の基盤岩は青岩(三波川結晶片岩)です。

  • 明治11年頃の中小坂鉄山の風景。現在は一番上の位置する焙炒炉の煉瓦積みの壁が残っています。<br />日本では初めてたたら製鉄ではなくて、西洋式の製鉄所として操業しました。

    明治11年頃の中小坂鉄山の風景。現在は一番上の位置する焙炒炉の煉瓦積みの壁が残っています。
    日本では初めてたたら製鉄ではなくて、西洋式の製鉄所として操業しました。

  • これから鉱山跡を見に行きます。春からは木の葉が繁り、山へ入ると多くの虫が多くいるので、春前のこの時期が最適とのことでした。<br /><br />* 江戸末期の嘉永年間に鉄山が発見されたと考えれらていて、幕末に水戸藩が造った反射炉で使用される鉄を供給したり、江戸幕府の溶鉱炉建設予定地になっていたそうです。明治7年(1874)に英国人技師、スエーデン人技師の指導により本格的な近代製鉄を操業し、民間経営の下、良質な鉄を他より安価で生産できたということです。

    これから鉱山跡を見に行きます。春からは木の葉が繁り、山へ入ると多くの虫が多くいるので、春前のこの時期が最適とのことでした。

    * 江戸末期の嘉永年間に鉄山が発見されたと考えれらていて、幕末に水戸藩が造った反射炉で使用される鉄を供給したり、江戸幕府の溶鉱炉建設予定地になっていたそうです。明治7年(1874)に英国人技師、スエーデン人技師の指導により本格的な近代製鉄を操業し、民間経営の下、良質な鉄を他より安価で生産できたということです。

  • 山道の土には磁鉄鉱が多くあり、磁石で擦ると沢山付いてきます。<br /><br />* 江戸末期に鉄山が発見された頃は、近郊でたたら製鉄を行なっていたと考えられていますが、鉱山経営に慣れていないため、設備や交通の弁などが悪く、数年で止めたらしい。

    山道の土には磁鉄鉱が多くあり、磁石で擦ると沢山付いてきます。

    * 江戸末期に鉄山が発見された頃は、近郊でたたら製鉄を行なっていたと考えられていますが、鉱山経営に慣れていないため、設備や交通の弁などが悪く、数年で止めたらしい。

  • 坑道入り口が見えます。現在全ての坑道内部は安全のため、入口の扉が閉じられています。<br /><br />* ペリー来航以来、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組み、高島秋帆や江川英龍らが鉄製の大砲製造を進言し、各地で反射炉を造理、大砲鋳造が行われたが、当時の原料である砂鉄が大鳳の砲身材として不向きだと分かった。その結果、鉄鉱石が必要視されました。

    坑道入り口が見えます。現在全ての坑道内部は安全のため、入口の扉が閉じられています。

    * ペリー来航以来、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組み、高島秋帆や江川英龍らが鉄製の大砲製造を進言し、各地で反射炉を造理、大砲鋳造が行われたが、当時の原料である砂鉄が大鳳の砲身材として不向きだと分かった。その結果、鉄鉱石が必要視されました。

  • 扉の間から見た坑道内部。横穴と縦穴があります。<br /><br />* この中小坂製鉄所が操業するまでには、色々と問題があり、なかなか実現しませんでしたが、安政5年(1858)から文久年間(1961~1864)にかけて、中小坂鉄山は試掘を続けていたという文書が残されています。

    扉の間から見た坑道内部。横穴と縦穴があります。

    * この中小坂製鉄所が操業するまでには、色々と問題があり、なかなか実現しませんでしたが、安政5年(1858)から文久年間(1961~1864)にかけて、中小坂鉄山は試掘を続けていたという文書が残されています。

  • 入口上部の岩石ですが、下の方は青く見え、閃緑岩のようです。<br /><br />* 慶応元年(1865)に小栗忠順たが中小坂鉄山の開発と溶鉱炉の建設を提案した結果、予算の都合で、まず半鉱炉1基が造られることになったそうです。しかし、慶応3年(1867)10月14日に大政奉還を迎えることになり、江戸幕府による中小坂鉱山の溶鉱炉建設も無くなりました。

    入口上部の岩石ですが、下の方は青く見え、閃緑岩のようです。

    * 慶応元年(1865)に小栗忠順たが中小坂鉄山の開発と溶鉱炉の建設を提案した結果、予算の都合で、まず半鉱炉1基が造られることになったそうです。しかし、慶応3年(1867)10月14日に大政奉還を迎えることになり、江戸幕府による中小坂鉱山の溶鉱炉建設も無くなりました。

  • 入口上部の岩<br /><br />* 明治維新後、当地の小幡藩に鉱山開発願を行い、民部省から開発許可が出ましたが、ここでも色々な問題が起こり、なかなか実現しませんでしたが、明治4年(1871)になり、ついに洋式の溶鉱炉が完成しました。基本的には、たたら炉であったらしいのですが、詳細は分かっていません。

    入口上部の岩

    * 明治維新後、当地の小幡藩に鉱山開発願を行い、民部省から開発許可が出ましたが、ここでも色々な問題が起こり、なかなか実現しませんでしたが、明治4年(1871)になり、ついに洋式の溶鉱炉が完成しました。基本的には、たたら炉であったらしいのですが、詳細は分かっていません。

  • 別の坑道入口です。<br /><br />* 製鉄を開始し、250貫目の銑鉄を生産することに成功しました。経営陣が数回代わりましたが、明治5年にはかなりの鉄を生産し、多い時には170名もの人が働いていたと記録されています。しかし、溶鉱炉建設費用、諸経費が膨れ、経営は赤字続木でした。

    別の坑道入口です。

    * 製鉄を開始し、250貫目の銑鉄を生産することに成功しました。経営陣が数回代わりましたが、明治5年にはかなりの鉄を生産し、多い時には170名もの人が働いていたと記録されています。しかし、溶鉱炉建設費用、諸経費が膨れ、経営は赤字続木でした。

  • 横にある岩に多くの穴が開けられていました。これは、ドリルで試した穴だそうです。約20cm位の深さでした。<br /><br />* 明治6年に赤字の中小坂鉱山は、丹羽正庸に譲渡され、新たな発展を遂げることになります。まずイギリス人鉱山技師・エラスムス・ガールを招聘し、高さ約16m、炉の基部直径約5,5mの溶鉱炉と蒸気機関を建設しました。また、イギリス人鉱山技師・ジョセフ・ウォートルスを雇い入れ、輸入による資材で、イギリス式溶鉱炉、蒸気機関、熱風炉など全ての製鉄設備を完成させました。

    横にある岩に多くの穴が開けられていました。これは、ドリルで試した穴だそうです。約20cm位の深さでした。

    * 明治6年に赤字の中小坂鉱山は、丹羽正庸に譲渡され、新たな発展を遂げることになります。まずイギリス人鉱山技師・エラスムス・ガールを招聘し、高さ約16m、炉の基部直径約5,5mの溶鉱炉と蒸気機関を建設しました。また、イギリス人鉱山技師・ジョセフ・ウォートルスを雇い入れ、輸入による資材で、イギリス式溶鉱炉、蒸気機関、熱風炉など全ての製鉄設備を完成させました。

  • 坑道上の山をもう少し登って行きます。<br /><br />* 明治8年にスエーデン人高炉技師のアドルフ・ベルギレンを雇い、外国人技術指導の下、当時の日本最先端の設備を備えた鉄山として稼働するようになりました。<br />中小坂鉱山の標高約440mの山の尾根にある露頭から3本の鉱脈が山体内を下降して、約500万トンの鉄鉱石が埋蔵されていると推定しました。

    坑道上の山をもう少し登って行きます。

    * 明治8年にスエーデン人高炉技師のアドルフ・ベルギレンを雇い、外国人技術指導の下、当時の日本最先端の設備を備えた鉄山として稼働するようになりました。
    中小坂鉱山の標高約440mの山の尾根にある露頭から3本の鉱脈が山体内を下降して、約500万トンの鉄鉱石が埋蔵されていると推定しました。

  • 向こうに、多くの坑道入り口が見えています。<br /><br />* 中小坂鉄山の鉄鉱石の採掘は、山の尾根にある露頭から坑道掘りで、採掘が行われ、採掘された鉄鉱石は、坑道内の立杭に設けられたシュートで標高約320mのところに掘削された運搬用の坑道に落とされ、下のトロッコで搬出されるという仕組みでした。<br />

    向こうに、多くの坑道入り口が見えています。

    * 中小坂鉄山の鉄鉱石の採掘は、山の尾根にある露頭から坑道掘りで、採掘が行われ、採掘された鉄鉱石は、坑道内の立杭に設けられたシュートで標高約320mのところに掘削された運搬用の坑道に落とされ、下のトロッコで搬出されるという仕組みでした。

  • 坑道入り口から続くトロッコ道跡です。<br /><br />* 採掘された鉄鉱石は、軌道幅約60cmのトロッコで、約668mの距離を運ばれて、シュートを通り、製鉄所上の焙炒炉に届けられます。石灰石と共に焙炒処理がなされて、鉱石はクラッシャーへと送られました。

    坑道入り口から続くトロッコ道跡です。

    * 採掘された鉄鉱石は、軌道幅約60cmのトロッコで、約668mの距離を運ばれて、シュートを通り、製鉄所上の焙炒炉に届けられます。石灰石と共に焙炒処理がなされて、鉱石はクラッシャーへと送られました。

  • そして、この崖から下へ投げ下ろしたそうです。<br /><br />* 高炉で使われる木炭も鉱山と反対側の沢筋に作られた炭焼き小屋から等高線に敷設されたトロッコ軌道で、運搬されていました。<br /><br /><br /><br /><br />

    そして、この崖から下へ投げ下ろしたそうです。

    * 高炉で使われる木炭も鉱山と反対側の沢筋に作られた炭焼き小屋から等高線に敷設されたトロッコ軌道で、運搬されていました。




  • 眼下の様子です。<br /><br />* 焙炒処理が終わり、高炉装入用に粒度を整えられた鉄鉱石と木炭は、トロッコで高炉上部の装入口から高炉に入れるというシステムになっていました。空のトロッコは。高炉上部を一周して、元の場所へ戻るようになっていました。自然の地形を巧みに利用して運搬する効率化、省力化が図られており、他では見られない製鉄コストの削減が可能になっていました。

    眼下の様子です。

    * 焙炒処理が終わり、高炉装入用に粒度を整えられた鉄鉱石と木炭は、トロッコで高炉上部の装入口から高炉に入れるというシステムになっていました。空のトロッコは。高炉上部を一周して、元の場所へ戻るようになっていました。自然の地形を巧みに利用して運搬する効率化、省力化が図られており、他では見られない製鉄コストの削減が可能になっていました。

  • トロッコ道脇は岩石で抑えてあります。<br /><br />* 民間資本による丹羽正庸経営の中小坂鉄山の建設費は、鉄鉱山と製鉄所の合計が約7万円であったという。因みに、官営の釜石製鉄所の建設費用が総額約237万円だったことからも、その安価だったことが分かります。<br />

    トロッコ道脇は岩石で抑えてあります。

    * 民間資本による丹羽正庸経営の中小坂鉄山の建設費は、鉄鉱山と製鉄所の合計が約7万円であったという。因みに、官営の釜石製鉄所の建設費用が総額約237万円だったことからも、その安価だったことが分かります。

  • この坑道は2つ並んでいるので、眼鏡坑道と言われています。<br /><br />* 明治6年(1873)の世界恐慌の影響で、鉄の価格が大暴落し、鉄輸入業者のダンピングなどもあり、外国からの安価な鉄の流入により、丹羽は経営から手を引いた。その後、明治11年に官営となり、鉱山局中小坂分局となりました。

    この坑道は2つ並んでいるので、眼鏡坑道と言われています。

    * 明治6年(1873)の世界恐慌の影響で、鉄の価格が大暴落し、鉄輸入業者のダンピングなどもあり、外国からの安価な鉄の流入により、丹羽は経営から手を引いた。その後、明治11年に官営となり、鉱山局中小坂分局となりました。

  • その上の山肌<br /><br />* その後の官営の中小坂鉱山の経営が不振を極めた理由として、高炉の国産品の耐火煉瓦の耐火性の不足、そのため操業の度に耐火煉瓦の溶解や破損が起こったことでした。ついに明治15年に官営は廃業隣、民間払い下げが決定されました。<br />

    その上の山肌

    * その後の官営の中小坂鉱山の経営が不振を極めた理由として、高炉の国産品の耐火煉瓦の耐火性の不足、そのため操業の度に耐火煉瓦の溶解や破損が起こったことでした。ついに明治15年に官営は廃業隣、民間払い下げが決定されました。

  • 岩肌に磁石が付いていて、岩脈を印しています。<br /><br />* 明治17年に中小坂鉄山は坂本弥八に払い下げられました。坂本は長野の大日向鉱山と共に鉄鉱山経営に乗り出したが、上手く行かず、数年後に製鉄業は休止され、採鉱のみが行われていました。明治26年(1893)に上信電鉄の創始者である小沢武雄が引継ぎ、製鉄所の経営は再開されました。しかし、2年後には再び中止となり、鉱山も明治42年に廃業となりました。大正7年(1918)に中小坂鉄山の殆どの製鉄所設備は撤去されました。

    岩肌に磁石が付いていて、岩脈を印しています。

    * 明治17年に中小坂鉄山は坂本弥八に払い下げられました。坂本は長野の大日向鉱山と共に鉄鉱山経営に乗り出したが、上手く行かず、数年後に製鉄業は休止され、採鉱のみが行われていました。明治26年(1893)に上信電鉄の創始者である小沢武雄が引継ぎ、製鉄所の経営は再開されました。しかし、2年後には再び中止となり、鉱山も明治42年に廃業となりました。大正7年(1918)に中小坂鉄山の殆どの製鉄所設備は撤去されました。

  • もうすぐ頂上のようです。<br /><br />* 昭和10年になり、戦時体制が強化され、この鉄山の採鉱が再開されることになりました。当時の新鋭機械が使われ、採掘された鉄鉱石は明治時代に使用されたトロッコ道を再利用して、運搬されました。この当時、90名ほどの従業員が働いていたそうです。その後、落盤事故や第二次大戦末期の空襲で、京浜地区の製鉄所が失われたこともあり、鉄鉱石の採掘も中止となりました。

    もうすぐ頂上のようです。

    * 昭和10年になり、戦時体制が強化され、この鉄山の採鉱が再開されることになりました。当時の新鋭機械が使われ、採掘された鉄鉱石は明治時代に使用されたトロッコ道を再利用して、運搬されました。この当時、90名ほどの従業員が働いていたそうです。その後、落盤事故や第二次大戦末期の空襲で、京浜地区の製鉄所が失われたこともあり、鉄鉱石の採掘も中止となりました。

  • 緑の線で記したところが磁鉄鉱の岩脈です。<br /><br />* 戦後、数人の経営者が代わり、小規模の鉄鉱石採掘が続けられていましたが、ついに昭和36年(1961)、閉山することとなりました。

    緑の線で記したところが磁鉄鉱の岩脈です。

    * 戦後、数人の経営者が代わり、小規模の鉄鉱石採掘が続けられていましたが、ついに昭和36年(1961)、閉山することとなりました。

  • 中央が岩脈です。<br /><br />

    中央が岩脈です。

  • よく見れば見るほど面白いです。

    よく見れば見るほど面白いです。

  • この周辺の岩石は特に面白かったです。

    この周辺の岩石は特に面白かったです。

  • 下部は花崗岩のようです。

    下部は花崗岩のようです。

  • 次第に花崗班岩や石英班岩

    次第に花崗班岩や石英班岩

  • 奥は崩落していて危険です。

    奥は崩落していて危険です。

  • 洞穴上部の岩石

    洞穴上部の岩石

  • 今回は山頂まで行きませんでしたが、石宮があります。

    今回は山頂まで行きませんでしたが、石宮があります。

  • そろそろ山を下りて製鉄所跡へ向かいます。奥に見える手積みの石垣も当時のものです。

    そろそろ山を下りて製鉄所跡へ向かいます。奥に見える手積みの石垣も当時のものです。

  • 大石垣の上に当時の製鉄所がありました。

    大石垣の上に当時の製鉄所がありました。

  • 現在は製鉄所跡となっていて、民家が立っています。

    現在は製鉄所跡となっていて、民家が立っています。

  • 一番上の焙炒炉です。

    一番上の焙炒炉です。

  • 焙炒炉の上からトロッコが運んできた鉄鉱石が、シュートでここへ落とされます。右手からは木炭が運搬軌道によって運ばれてきました。

    焙炒炉の上からトロッコが運んできた鉄鉱石が、シュートでここへ落とされます。右手からは木炭が運搬軌道によって運ばれてきました。

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