松江・松江しんじ湖温泉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
松江のシンボル「松江城」は、松江市殿町にあり、築城主は堀尾吉晴、築城年は1611(慶長16)年、天守構造を複合式望楼型 (4重5階地下1階)とした輪郭連郭平山城です。天守の大部分を実践に備えた黒塗りの下見板張りとし、精悍な黒いボディがクールです。その反面、入母屋破風が羽を広げた鳥のように優美に映ることから、別名「千鳥城」とも呼ばれています。この入母屋破風の建築様式は、織田信長が築いた安土桃山時代の安土城に始まり、豊臣秀吉の大坂城へと続く正統な天守の形式とされ、現存の天守でこれを受け継ぐのは松江城だけです。こうしたことから「唯一の正統天守閣」と称されています。また、現存12天守のうち、国宝5天守のひとつでもあります(犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。 <br />松江城は、2018年12月29日に放映されたNHK総合TV『あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城スペシャル第2弾』で、敵を欺く仕掛けなどが高く評価され「日本最強の城」に選ばれました。関ヶ原の合戦後、権力が豊臣家から徳川家へ移る過度期に築城された故、敵に攻め込まれた場合を想定したトラップが天守の随所に配されています。松江城天守の最大の魅力は、繊細でバランスのよい外観の裏に隠された執拗なまでの臨戦態勢にあります。<br />松江城のHPです。<br />https://www.matsue-castle.jp/index.html<br />城下町マップです。<br />https://www.matsue-castle.jp/download/pdf/c_joukamachimap.pdf<br />

萬福笑來 山陽・山陰紀行⑧松江城・茶房「喫茶 きはる」

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2019/01/30 - 2019/02/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

松江のシンボル「松江城」は、松江市殿町にあり、築城主は堀尾吉晴、築城年は1611(慶長16)年、天守構造を複合式望楼型 (4重5階地下1階)とした輪郭連郭平山城です。天守の大部分を実践に備えた黒塗りの下見板張りとし、精悍な黒いボディがクールです。その反面、入母屋破風が羽を広げた鳥のように優美に映ることから、別名「千鳥城」とも呼ばれています。この入母屋破風の建築様式は、織田信長が築いた安土桃山時代の安土城に始まり、豊臣秀吉の大坂城へと続く正統な天守の形式とされ、現存の天守でこれを受け継ぐのは松江城だけです。こうしたことから「唯一の正統天守閣」と称されています。また、現存12天守のうち、国宝5天守のひとつでもあります(犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。
松江城は、2018年12月29日に放映されたNHK総合TV『あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城スペシャル第2弾』で、敵を欺く仕掛けなどが高く評価され「日本最強の城」に選ばれました。関ヶ原の合戦後、権力が豊臣家から徳川家へ移る過度期に築城された故、敵に攻め込まれた場合を想定したトラップが天守の随所に配されています。松江城天守の最大の魅力は、繊細でバランスのよい外観の裏に隠された執拗なまでの臨戦態勢にあります。
松江城のHPです。
https://www.matsue-castle.jp/index.html
城下町マップです。
https://www.matsue-castle.jp/download/pdf/c_joukamachimap.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム
  • 小泉八雲記念館<br />左手にある建物が小泉八雲記念館です。<br />しかし注目は、そこの交差点にある信号機です。<br />ポールを1本立て、そこから延びた長いアームに4方向分の信号機を1つにまとめて取り付けています。「集約式」や「懸垂式」と言われる形式のようですが、初めて見ました。初めてここを通るドライバーは、信号機の場所を探してしまうかもしれません。<br />また、合理的ではありますが、アームやポールの強度が充分でないと風雪による落下が心配されます。<br />因みに、ポールにある標識も4方向から判るように1箇所に集約しています。この徹底ぶりには雲州の気概が宿っているように思いました。

    小泉八雲記念館
    左手にある建物が小泉八雲記念館です。
    しかし注目は、そこの交差点にある信号機です。
    ポールを1本立て、そこから延びた長いアームに4方向分の信号機を1つにまとめて取り付けています。「集約式」や「懸垂式」と言われる形式のようですが、初めて見ました。初めてここを通るドライバーは、信号機の場所を探してしまうかもしれません。
    また、合理的ではありますが、アームやポールの強度が充分でないと風雪による落下が心配されます。
    因みに、ポールにある標識も4方向から判るように1箇所に集約しています。この徹底ぶりには雲州の気概が宿っているように思いました。

  • 新橋<br />松江でのバス降車地点は想定外の「松江堀川地ビール館」でしたので、松江城までは急ぎ足でも10分強掛ります。大手門周辺のパーキングが一般的だと思いますが、旅行会社での予算削減の煽りが無料駐車場の選択に繫がったと思われます。一方、堀川遊覧船を愉しんだり、小泉八雲館や武家屋敷を見学される方には、距離的に近くて至便だったかもしれません。<br />外堀方面へ分岐する新橋を渡ると、その先に城の搦手に当たる稲荷橋が架けられています。その奥に搦手口門跡が構えます。

    新橋
    松江でのバス降車地点は想定外の「松江堀川地ビール館」でしたので、松江城までは急ぎ足でも10分強掛ります。大手門周辺のパーキングが一般的だと思いますが、旅行会社での予算削減の煽りが無料駐車場の選択に繫がったと思われます。一方、堀川遊覧船を愉しんだり、小泉八雲館や武家屋敷を見学される方には、距離的に近くて至便だったかもしれません。
    外堀方面へ分岐する新橋を渡ると、その先に城の搦手に当たる稲荷橋が架けられています。その奥に搦手口門跡が構えます。

  • 松江城 西ノ門ルート<br />今回は西側から登城するルートを辿って攻めます。<br />椿谷と呼ばれる広場を横切り、かつては鉄砲櫓や弓櫓が聳えていた西ノ門から二の丸へ入るルートです。<br />石段の右脇も石垣でしっかり固められています。お城の見学の時だけは雨が止んで欲しかったのですが、石段からは滝のように雨水が流れており、NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像を思い出しました。<br />この下の堀の畔には舟着門跡の表示があり、このルートは堀を利用した舟運ルートでもあり、いざという時の城主の逃走ルートだったかもしれません。

    松江城 西ノ門ルート
    今回は西側から登城するルートを辿って攻めます。
    椿谷と呼ばれる広場を横切り、かつては鉄砲櫓や弓櫓が聳えていた西ノ門から二の丸へ入るルートです。
    石段の右脇も石垣でしっかり固められています。お城の見学の時だけは雨が止んで欲しかったのですが、石段からは滝のように雨水が流れており、NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像を思い出しました。
    この下の堀の畔には舟着門跡の表示があり、このルートは堀を利用した舟運ルートでもあり、いざという時の城主の逃走ルートだったかもしれません。

  • 松江城 西ノ門ルート<br />一般ルートから外れている模様で、誰一人として出会うことはない、マニアックな登城ルートです。<br />本丸方面にはクランクを伴い数段にわたる石垣が聳え、戦国時代であればこのルートでは無事に本丸に辿り着ける気がしません。

    松江城 西ノ門ルート
    一般ルートから外れている模様で、誰一人として出会うことはない、マニアックな登城ルートです。
    本丸方面にはクランクを伴い数段にわたる石垣が聳え、戦国時代であればこのルートでは無事に本丸に辿り着ける気がしません。

  • 松江城 西ノ門跡<br />石段を上がってクランクを右に折れれば、冠木門が付けられた西ノ門跡に辿り着きます。<br />門跡近くの石垣は「野面積み」工法ですが、自然石ではなく割石を積み上げた「割石積み」という珍しい石積み工法です。つまり、「野面積み」よりも崩れ難い石積と言えます。<br />この先から本丸へ登城できるのですが、一般ルートの大手門まで下り、そこからレポを再開いたします。

    松江城 西ノ門跡
    石段を上がってクランクを右に折れれば、冠木門が付けられた西ノ門跡に辿り着きます。
    門跡近くの石垣は「野面積み」工法ですが、自然石ではなく割石を積み上げた「割石積み」という珍しい石積み工法です。つまり、「野面積み」よりも崩れ難い石積と言えます。
    この先から本丸へ登城できるのですが、一般ルートの大手門まで下り、そこからレポを再開いたします。

  • 松江城 大手門跡<br />往時の石垣が残されています。絵図によると、かつてここには長さ14.5m、幅6.4mの楼門型式の木戸門があり、鯱を揚げていたそうです。その先は巨大な枡形となっており、眼前の石垣の上から見下ろされる形です。例え木戸門を攻め破ったとしても、石垣の上から集中砲火を浴びる運命です。

    松江城 大手門跡
    往時の石垣が残されています。絵図によると、かつてここには長さ14.5m、幅6.4mの楼門型式の木戸門があり、鯱を揚げていたそうです。その先は巨大な枡形となっており、眼前の石垣の上から見下ろされる形です。例え木戸門を攻め破ったとしても、石垣の上から集中砲火を浴びる運命です。

  • 松江城 太鼓櫓の石垣<br />端正に組まれた石垣は壮観で見応え充分です。<br />これだけ高く積まれていると迫力が桁違いです。<br />太鼓櫓には「石落し」が見られます。<br />

    松江城 太鼓櫓の石垣
    端正に組まれた石垣は壮観で見応え充分です。
    これだけ高く積まれていると迫力が桁違いです。
    太鼓櫓には「石落し」が見られます。

  • 松江城 本丸東側腰曲輪<br />大手門の奥は東西100m、南北210mの広大な二の丸下の段になります。ここには米蔵や御破損方、寺社修理方が置かれていました。この曲輪の西側には、横矢掛かりを設けた本丸東側腰曲輪の勇壮な高石垣が延々と続いています。 <br />石垣の下段の石には、刻印石が見られます。この「分銅」の形をした記号は、松江城を築いた堀尾家の家紋です。その他、「星」や「扇」、「輪違紋」など様々な刻印が城内で確認されています。

    松江城 本丸東側腰曲輪
    大手門の奥は東西100m、南北210mの広大な二の丸下の段になります。ここには米蔵や御破損方、寺社修理方が置かれていました。この曲輪の西側には、横矢掛かりを設けた本丸東側腰曲輪の勇壮な高石垣が延々と続いています。
    石垣の下段の石には、刻印石が見られます。この「分銅」の形をした記号は、松江城を築いた堀尾家の家紋です。その他、「星」や「扇」、「輪違紋」など様々な刻印が城内で確認されています。

  • 松江城 太鼓櫓の石垣<br />松江城の城郭の中心部には262面の石垣が残されています。これらの石垣を比べると、石材の色に違いがあり、複数の種類の石材が採用されているのが判ります。こうしたことから、松江城は「生きた石垣博物館」とも称されます。(金沢城も似たキャッチフレーズだったような・・・。)<br />17世紀初頭の築城時の石垣は、松江市東部にある嵩山(だけさん)産の大海崎石(和久羅山デイサイト溶岩)と矢田石(松江層玄武岩)、忌部石(大森層安山岩)が主たる石材です。<br />天守を支える石垣の97%は矢田石、二の丸南東で12~14mの高さを誇る「高石垣」の77%は忌部石です。矢田石は3種類の石材のうち最も硬く割れ難いのに対し、忌部石は強度は矢田石ほどないものの、大きく切り出し易い特性を持ちます。こうしたことから、往時の石工たちは、石材の特性を理解し、適材適所を心得て使い分けていたと考えられています。<br />矢田石が黒っぽく堅固なイメージを与えるのに対し、城下に面する外曲輪の石垣には赤褐色で明るい印象を与える大海崎石を多く使っています。

    松江城 太鼓櫓の石垣
    松江城の城郭の中心部には262面の石垣が残されています。これらの石垣を比べると、石材の色に違いがあり、複数の種類の石材が採用されているのが判ります。こうしたことから、松江城は「生きた石垣博物館」とも称されます。(金沢城も似たキャッチフレーズだったような・・・。)
    17世紀初頭の築城時の石垣は、松江市東部にある嵩山(だけさん)産の大海崎石(和久羅山デイサイト溶岩)と矢田石(松江層玄武岩)、忌部石(大森層安山岩)が主たる石材です。
    天守を支える石垣の97%は矢田石、二の丸南東で12~14mの高さを誇る「高石垣」の77%は忌部石です。矢田石は3種類の石材のうち最も硬く割れ難いのに対し、忌部石は強度は矢田石ほどないものの、大きく切り出し易い特性を持ちます。こうしたことから、往時の石工たちは、石材の特性を理解し、適材適所を心得て使い分けていたと考えられています。
    矢田石が黒っぽく堅固なイメージを与えるのに対し、城下に面する外曲輪の石垣には赤褐色で明るい印象を与える大海崎石を多く使っています。

  • 松江城 太鼓櫓の石垣<br />松江城の築城には5年を要しましたが、その内の3年を石垣に費やしたことから、軟弱地盤に城郭を建てることの難しさが窺えます。江戸時代初期に現代まで残る石垣を積み上げたのが、穴太衆(あのうしゅう:大津市坂本町)という石垣築成集団です。穴太衆が積んだ石垣の評価は非常に高く、熊本地震で被害した熊本城においても、崩れた石垣よりも古い時代の穴太衆が積んだ石垣は無事だったとの話もあります。<br />石積手法は、野面積みと打ち込みハギの他、陵角は長辺と短辺を角の両面に交互に配置して強度を高めた算木積になっています。<br />では何故、松江城の石垣はこのようにダイバーシティなのでしょうか?<br />これは、築城後の崩壊などに伴い、修復を繰り返してきたからと考えられています。千鳥橋東側や中櫓下など、同じ並びの石垣の中に石の種類や積み方が異なる個所が複数あり、この推測を裏付けています。

    松江城 太鼓櫓の石垣
    松江城の築城には5年を要しましたが、その内の3年を石垣に費やしたことから、軟弱地盤に城郭を建てることの難しさが窺えます。江戸時代初期に現代まで残る石垣を積み上げたのが、穴太衆(あのうしゅう:大津市坂本町)という石垣築成集団です。穴太衆が積んだ石垣の評価は非常に高く、熊本地震で被害した熊本城においても、崩れた石垣よりも古い時代の穴太衆が積んだ石垣は無事だったとの話もあります。
    石積手法は、野面積みと打ち込みハギの他、陵角は長辺と短辺を角の両面に交互に配置して強度を高めた算木積になっています。
    では何故、松江城の石垣はこのようにダイバーシティなのでしょうか?
    これは、築城後の崩壊などに伴い、修復を繰り返してきたからと考えられています。千鳥橋東側や中櫓下など、同じ並びの石垣の中に石の種類や積み方が異なる個所が複数あり、この推測を裏付けています。

  • 松江城 太鼓櫓の石垣 ハート石<br />天守方面に続く三の丸本坂の階段の石垣に「ハート石」が隠されています。大きな階段を13段上がって左手の石垣を見ると、目線の高さ程の所にあります。これは加工されていない自然石だそうで、「ハート石」を見つけると幸せが訪れると言われています。<br />前の写真のほぼ中心にあり、比較的小さな石です。

    松江城 太鼓櫓の石垣 ハート石
    天守方面に続く三の丸本坂の階段の石垣に「ハート石」が隠されています。大きな階段を13段上がって左手の石垣を見ると、目線の高さ程の所にあります。これは加工されていない自然石だそうで、「ハート石」を見つけると幸せが訪れると言われています。
    前の写真のほぼ中心にあり、比較的小さな石です。

  • 松江城 太鼓櫓<br />右端にあるのが三の門の石垣です。<br />松江城の石垣には、約1000個に「刻印石」が確認されています。特に三の門の石垣に多く見られます。<br />石垣は「割普請」という手法で組み上げられており、工区を複数に分けて石工の各組が分担して請負いました。仕事の速さを互いに競わせることで工期短縮を図ったと考えられ、秀吉が築城した大坂城でも採用されたようです。<br />刻印は工事の分担や石切場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号です。

    松江城 太鼓櫓
    右端にあるのが三の門の石垣です。
    松江城の石垣には、約1000個に「刻印石」が確認されています。特に三の門の石垣に多く見られます。
    石垣は「割普請」という手法で組み上げられており、工区を複数に分けて石工の各組が分担して請負いました。仕事の速さを互いに競わせることで工期短縮を図ったと考えられ、秀吉が築城した大坂城でも採用されたようです。
    刻印は工事の分担や石切場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号です。

  • 松江城 二の丸 太鼓櫓<br />かつて二の丸上の段の中央には御書院があり、松平家2代藩主 綱隆の時代まで藩主が居住していました。また、二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見櫓がありました。この内、南櫓、中櫓、太鼓櫓は1875年(明治8)取り壊されて以来、松江藩大工頭竹内右兵衛の『松江城縄張図』などを基に2001年に約125年ぶりに復元されました。<br />太鼓櫓は、二の丸の北東に建てられた入母屋造、本瓦葺の一重櫓です。中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付けられているのが特徴です。<br />江戸時代前期から幕末までの文献にはどれも「太鼓櫓」と記されており、城内に時や号令を告げる太鼓が置かれた櫓と考えられています。<br />江戸時代の時刻は、日の出~日没を昼、日没~日の出を夜とし、それぞれを6等分する不定時法で決められ、1933(昭和8)年発行の『郷土資料島根叢書』には、「太鼓櫓の巨大なる兵鼓を時打の番人が打ち鳴らし、城下に時を知らせていた」とあります。

    松江城 二の丸 太鼓櫓
    かつて二の丸上の段の中央には御書院があり、松平家2代藩主 綱隆の時代まで藩主が居住していました。また、二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見櫓がありました。この内、南櫓、中櫓、太鼓櫓は1875年(明治8)取り壊されて以来、松江藩大工頭竹内右兵衛の『松江城縄張図』などを基に2001年に約125年ぶりに復元されました。
    太鼓櫓は、二の丸の北東に建てられた入母屋造、本瓦葺の一重櫓です。中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇が付けられているのが特徴です。
    江戸時代前期から幕末までの文献にはどれも「太鼓櫓」と記されており、城内に時や号令を告げる太鼓が置かれた櫓と考えられています。
    江戸時代の時刻は、日の出~日没を昼、日没~日の出を夜とし、それぞれを6等分する不定時法で決められ、1933(昭和8)年発行の『郷土資料島根叢書』には、「太鼓櫓の巨大なる兵鼓を時打の番人が打ち鳴らし、城下に時を知らせていた」とあります。

  • 松江城 二の丸 中櫓<br />二の丸東側に建てられた入母屋造、本瓦葺の一重櫓です。<br />中櫓の用途は明らかになっていませんが、幕末には「御具足倉」と呼ばれていたことから武具などを保管した倉庫と考えられています。

    松江城 二の丸 中櫓
    二の丸東側に建てられた入母屋造、本瓦葺の一重櫓です。
    中櫓の用途は明らかになっていませんが、幕末には「御具足倉」と呼ばれていたことから武具などを保管した倉庫と考えられています。

  • 松江城 二の丸 南櫓<br />二の丸の南東角に建てられた入母屋造、本瓦葺の2重櫓です。<br />3つの櫓のうち唯一の2重櫓です。南櫓も用途が明らかではありませんが、城下町を監視するための櫓と考えられています。幕末には「御召蔵」と呼ばれていました。<br />

    松江城 二の丸 南櫓
    二の丸の南東角に建てられた入母屋造、本瓦葺の2重櫓です。
    3つの櫓のうち唯一の2重櫓です。南櫓も用途が明らかではありませんが、城下町を監視するための櫓と考えられています。幕末には「御召蔵」と呼ばれていました。

  • 興雲閣 県指定建造物<br />興雲閣は、松江城内の二の丸 月見櫓跡付近にあり、松江市工芸品陳列所として建てられた建物です。1902(明治35)年に着工し、翌年に完成しました。 当初、明治天皇の行在所に使用する目的で設計されたため、装飾や彫刻を多く用いた洋風で華麗なデザインとなっており、往時は「ロシア宮殿風」と近隣に喧伝されたそうです。<br />日露戦争勃発などにより天皇の山陰行幸は実現しませんでしたが、 1907(明治40)年、皇太子 嘉仁親王(大正天皇)の山陰行啓に当たっては御旅館となり、待望の迎賓館としての役割を果たしました。

    興雲閣 県指定建造物
    興雲閣は、松江城内の二の丸 月見櫓跡付近にあり、松江市工芸品陳列所として建てられた建物です。1902(明治35)年に着工し、翌年に完成しました。 当初、明治天皇の行在所に使用する目的で設計されたため、装飾や彫刻を多く用いた洋風で華麗なデザインとなっており、往時は「ロシア宮殿風」と近隣に喧伝されたそうです。
    日露戦争勃発などにより天皇の山陰行幸は実現しませんでしたが、 1907(明治40)年、皇太子 嘉仁親王(大正天皇)の山陰行啓に当たっては御旅館となり、待望の迎賓館としての役割を果たしました。

  • 興雲閣<br />2階建で長方形の母屋のやや北側に玄関ポーチを設けた、美しいベランダが印象的な下見板擬洋風建築です。淡緑色の下見板を張り、外周にべランダを巡らせた洋風の外観を持ち、屋根は入母屋、桟瓦葺で純和風です。<br />因みに、擬洋風建築とは明治時代の大工が西洋館を真似て建てた洋館を言い、よく見ると和の要素を散り嵌めた和洋折衷様式になっています。この建物は地元の大工棟梁が設計・施工したものと考えられており、現在のところ設計者は不詳とされています。

    興雲閣
    2階建で長方形の母屋のやや北側に玄関ポーチを設けた、美しいベランダが印象的な下見板擬洋風建築です。淡緑色の下見板を張り、外周にべランダを巡らせた洋風の外観を持ち、屋根は入母屋、桟瓦葺で純和風です。
    因みに、擬洋風建築とは明治時代の大工が西洋館を真似て建てた洋館を言い、よく見ると和の要素を散り嵌めた和洋折衷様式になっています。この建物は地元の大工棟梁が設計・施工したものと考えられており、現在のところ設計者は不詳とされています。

  • 興雲閣<br />1903(明治36)年の竣工から暫くは「工芸品陳列所」や「松江御旅館」等と呼ばれていましたが、1909(明治42)年に松平直亮氏により「興雲閣」と命名されました。正面の扁額は、その際に同氏の揮毫を彫刻したものです。 <br />雲州の「八雲立つ・・・」から「「雲興る・・・」としたのでしょう。

    興雲閣
    1903(明治36)年の竣工から暫くは「工芸品陳列所」や「松江御旅館」等と呼ばれていましたが、1909(明治42)年に松平直亮氏により「興雲閣」と命名されました。正面の扁額は、その際に同氏の揮毫を彫刻したものです。
    雲州の「八雲立つ・・・」から「「雲興る・・・」としたのでしょう。

  • 興雲閣<br />一般的な認識では擬洋風建築は明治20年頃には廃れたのですが、興雲閣はその15年後に建築されています。すでに時代遅れだった建築様式が天皇を迎えるための建物に何故採用されたのかは、最大の謎とされます。

    興雲閣
    一般的な認識では擬洋風建築は明治20年頃には廃れたのですが、興雲閣はその15年後に建築されています。すでに時代遅れだった建築様式が天皇を迎えるための建物に何故採用されたのかは、最大の謎とされます。

  • 興雲閣<br />興雲閣は1907(明治40)年に建てられた「仁風閣」と比較されることが多いのですが、仁風閣が英国人建築家ジョサイア・コンドルの薫陶を受けた片山東熊博士の設計による優等生的建築なのに対し、興雲閣は設計者不明のアノニマス(無名)建築です。アノニマス建築特有の判り難さと謎がマニアには好評ともされているのですが・・・。<br />竣工年の差は僅か4年ですが、日露戦争を挟んで西欧に関する情報量は格段に増え、この情報量の多さが災いして内外建築家の招聘を躊躇させ、県庁営繕に託す結果を招いたとも考えられます。また、県民に親しまれる建物にするため、人気のあった2代目県庁舎に外観を似せたとも考えられます。<br />右端にチラリと見えるのが松江神社です。

    興雲閣
    興雲閣は1907(明治40)年に建てられた「仁風閣」と比較されることが多いのですが、仁風閣が英国人建築家ジョサイア・コンドルの薫陶を受けた片山東熊博士の設計による優等生的建築なのに対し、興雲閣は設計者不明のアノニマス(無名)建築です。アノニマス建築特有の判り難さと謎がマニアには好評ともされているのですが・・・。
    竣工年の差は僅か4年ですが、日露戦争を挟んで西欧に関する情報量は格段に増え、この情報量の多さが災いして内外建築家の招聘を躊躇させ、県庁営繕に託す結果を招いたとも考えられます。また、県民に親しまれる建物にするため、人気のあった2代目県庁舎に外観を似せたとも考えられます。
    右端にチラリと見えるのが松江神社です。

  • 松江城 二の丸 <br />松江城を築城した堀尾吉晴とその子 忠氏は、関ヶ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城しました。しかし、富田城は山々に囲まれた中世山城のため近代戦に不利であり、また家臣を住まわせる城下町を造営するには土地も狭く交通も不便でした。そのため宍道湖畔の標高28mの亀田山の末次城跡に築城を計画し、1607(慶長12)年に着工し、1611年正月に落成させました。吉晴は完成目前で急死した悲劇の城主とするのが通説でしたが、この年の6月に亡くなっているため通説は誤りだそうです(『Wikipedia』)。<br />末次城については、築城年代等の記録は残されていませんが、鎌倉~室町時代にかけて存在した城とされます。

    松江城 二の丸
    松江城を築城した堀尾吉晴とその子 忠氏は、関ヶ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城しました。しかし、富田城は山々に囲まれた中世山城のため近代戦に不利であり、また家臣を住まわせる城下町を造営するには土地も狭く交通も不便でした。そのため宍道湖畔の標高28mの亀田山の末次城跡に築城を計画し、1607(慶長12)年に着工し、1611年正月に落成させました。吉晴は完成目前で急死した悲劇の城主とするのが通説でしたが、この年の6月に亡くなっているため通説は誤りだそうです(『Wikipedia』)。
    末次城については、築城年代等の記録は残されていませんが、鎌倉~室町時代にかけて存在した城とされます。

  • 松江城 二の門跡<br />堀尾吉晴は、尾張国生まれの武将で、信長、秀吉、家康の天下人に仕えた人物です。豊臣政権下では三中老のひとりとして功績を残しています。<br />松江藩の初代藩主と思われがちな吉晴ですが、藩主との記録は残されていません。関ヶ原の合戦で武勲を上げ、出雲国を賜ったのは息子 忠氏であり、月山富田城に入城した時、吉晴はすでに隠居の身でした。隠居生活を送っていた吉晴でしたが、不幸にも忠氏が若くして逝去したことで再び表舞台へ戻されました。忠氏の息子 忠晴がまだ幼く、政治を執り仕切れないとの理由で吉晴が代行したのです。こうして城郭普請の名人として忠晴を支えながら松江城と城下町を造営し、現在の松江市の礎を築きました。 <br />しかし、1633年、2代藩主 忠晴の死去で家督を継ぐ男子がいなくり、堀尾家は断絶しました。お家断絶を避けようと養子縁組もしたのですが、「養子の禁制を破った」と難癖を付けられて滅ぼされました。

    松江城 二の門跡
    堀尾吉晴は、尾張国生まれの武将で、信長、秀吉、家康の天下人に仕えた人物です。豊臣政権下では三中老のひとりとして功績を残しています。
    松江藩の初代藩主と思われがちな吉晴ですが、藩主との記録は残されていません。関ヶ原の合戦で武勲を上げ、出雲国を賜ったのは息子 忠氏であり、月山富田城に入城した時、吉晴はすでに隠居の身でした。隠居生活を送っていた吉晴でしたが、不幸にも忠氏が若くして逝去したことで再び表舞台へ戻されました。忠氏の息子 忠晴がまだ幼く、政治を執り仕切れないとの理由で吉晴が代行したのです。こうして城郭普請の名人として忠晴を支えながら松江城と城下町を造営し、現在の松江市の礎を築きました。
    しかし、1633年、2代藩主 忠晴の死去で家督を継ぐ男子がいなくり、堀尾家は断絶しました。お家断絶を避けようと養子縁組もしたのですが、「養子の禁制を破った」と難癖を付けられて滅ぼされました。

  • 松江城 中曲輪<br />1634(寛永11)年、堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜から出雲に転封したのが京極忠高です。徳川2代将軍 秀忠の四女が忠高の正妻 初でした。しかし、忠高が病死したため京極氏は1代きりで途絶えました。忠高も男子に恵まれず、1637年に断絶しました。<br />3年余りの短い統治でしたが、忠高は度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修しており、現在も京極若狭守忠高に因んだ「若狭土手」の名を残しています。また、幕府直轄領の石見銀山の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主の中で最大の領地を治めました。

    松江城 中曲輪
    1634(寛永11)年、堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜から出雲に転封したのが京極忠高です。徳川2代将軍 秀忠の四女が忠高の正妻 初でした。しかし、忠高が病死したため京極氏は1代きりで途絶えました。忠高も男子に恵まれず、1637年に断絶しました。
    3年余りの短い統治でしたが、忠高は度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修しており、現在も京極若狭守忠高に因んだ「若狭土手」の名を残しています。また、幕府直轄領の石見銀山の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主の中で最大の領地を治めました。

  • 松江城 二の丸 <br />京極家の跡を継ぎ、信濃国松本から18万6千石で出雲に転封したのが松平直政です。直政は、徳川秀忠の兄に当たる結城秀康の三男です。以後、松江城は松平家10代の居城として明治維新を迎えます。<br />1614(慶長19)年、直政は14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも敵方の武将 真田幸村が守る真田丸を攻める戦いで力戦奮闘しました。その功績は大将 家康に認められただけでなく敵将 幸村も認め、幸村はその武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたと伝わります。<br />その後の松平家では、7代藩主 治郷は、政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でも松江の人々に不昧公の名で親しまれています。

    松江城 二の丸
    京極家の跡を継ぎ、信濃国松本から18万6千石で出雲に転封したのが松平直政です。直政は、徳川秀忠の兄に当たる結城秀康の三男です。以後、松江城は松平家10代の居城として明治維新を迎えます。
    1614(慶長19)年、直政は14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも敵方の武将 真田幸村が守る真田丸を攻める戦いで力戦奮闘しました。その功績は大将 家康に認められただけでなく敵将 幸村も認め、幸村はその武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたと伝わります。
    その後の松平家では、7代藩主 治郷は、政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でも松江の人々に不昧公の名で親しまれています。

  • 松江城 本丸 一の門<br />一の門と南多門櫓です。一の門は本丸への正門に当たり、1960(昭和35)年に復元されました。一の門を潜った先に料金所があり、そこから有料となります。南多門櫓の石垣には、一部に巨石が用いられています。<br />本丸には、天守を囲むように武具櫓、鉄砲櫓、祈祷櫓など6つの櫓があり、それらは細長い多門塀で繋がっていました。<br /><br />明治時代の廃城令により松平家は松江城を手放し、明治8年に広島鎮台は松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げ、天守は取り壊される寸前でした。天守は180円(現在の120万円相当)で落札されたのですが、松江藩時代から続く豪農 勝部本右衛門と高城権八らが資金を調達して買い戻し、取り壊しを免れました。現在は松江市に寄付されています。<br />その後、1935(昭和10)年に「国宝保存法」により国宝に指定。<br />1950(昭和25)年、文化財保護法制定により、「重要文化財」に格下げ。<br />2015年7月8日、正式に国宝に再指定されました。

    松江城 本丸 一の門
    一の門と南多門櫓です。一の門は本丸への正門に当たり、1960(昭和35)年に復元されました。一の門を潜った先に料金所があり、そこから有料となります。南多門櫓の石垣には、一部に巨石が用いられています。
    本丸には、天守を囲むように武具櫓、鉄砲櫓、祈祷櫓など6つの櫓があり、それらは細長い多門塀で繋がっていました。

    明治時代の廃城令により松平家は松江城を手放し、明治8年に広島鎮台は松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げ、天守は取り壊される寸前でした。天守は180円(現在の120万円相当)で落札されたのですが、松江藩時代から続く豪農 勝部本右衛門と高城権八らが資金を調達して買い戻し、取り壊しを免れました。現在は松江市に寄付されています。
    その後、1935(昭和10)年に「国宝保存法」により国宝に指定。
    1950(昭和25)年、文化財保護法制定により、「重要文化財」に格下げ。
    2015年7月8日、正式に国宝に再指定されました。

  • 松江城 天守<br />標高28mの亀田山に建つ松江城は、天守台を含めて地上高30m(天守の高さ22.4m)の4重5階の天守を持ち、桃山時代初期の様式を今に留めています。現存する12天守の中では姫路城に次いで2番目に広く、姫路城・松本城に次いで3番目に高く、丸岡城・松本城・犬山城・彦根城・姫路城に次ぐ歴史を誇ります。<br />大部分を黒塗りの下見板張りとした黒い精悍なボディがクールであり、華やかな造りを排除した実戦本意の天守として知られる複合式望楼型天守です。<br />天守のフォルムは縦長ではなく、どちらかというと横に広くどっしりとした安定感が特徴です。

    松江城 天守
    標高28mの亀田山に建つ松江城は、天守台を含めて地上高30m(天守の高さ22.4m)の4重5階の天守を持ち、桃山時代初期の様式を今に留めています。現存する12天守の中では姫路城に次いで2番目に広く、姫路城・松本城に次いで3番目に高く、丸岡城・松本城・犬山城・彦根城・姫路城に次ぐ歴史を誇ります。
    大部分を黒塗りの下見板張りとした黒い精悍なボディがクールであり、華やかな造りを排除した実戦本意の天守として知られる複合式望楼型天守です。
    天守のフォルムは縦長ではなく、どちらかというと横に広くどっしりとした安定感が特徴です。

  • 松江城 天守<br />天守は外観4重、内部5階、地下1階で、天守の南に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属しています。形式上は望楼型天守に分類され、2重の櫓の上に2重(3階建)の望楼を載せた形式です。2重目と4重目は東西棟の入母屋造とし、2重目の南北面に入母屋破風の出窓を設け、附櫓も入母屋造です。壁面は初重・2重目は黒塗の下見板張り、3・4重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下方を黒塗下見板張りとしています。屋根は本瓦葺、窓は突上窓と火灯窓があります。

    松江城 天守
    天守は外観4重、内部5階、地下1階で、天守の南に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属しています。形式上は望楼型天守に分類され、2重の櫓の上に2重(3階建)の望楼を載せた形式です。2重目と4重目は東西棟の入母屋造とし、2重目の南北面に入母屋破風の出窓を設け、附櫓も入母屋造です。壁面は初重・2重目は黒塗の下見板張り、3・4重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下方を黒塗下見板張りとしています。屋根は本瓦葺、窓は突上窓と火灯窓があります。

  • 松江城 天守<br />最古の天守のひとつとされる安土城の天主(天守)が築かれた1576(天正4)年から関ヶ原の合戦(慶長5年)までを城郭の「Ⅰ期」と言います。この時代の天守は絶対的支配の象徴であり、また居住空間でもありました。安土城や大坂城、岡山城などが匹敵しますが、いずれの天守も現存していません。<br />「Ⅱ期」は、慶長5年から「一国一城令」発令の1615(元和元)年までの慶長の築城ラッシュ期を指します。「関ヶ原の合戦以降、日本は泰平な世になった」と思われている方も多いようですが、合戦後には徳川家と豊臣家の確執が深まり、最終戦争がカウントダウンされるなど戦国時代以来最大の緊迫感に包まれた時期だったはずです。それに加えて各大名は一揆なども警戒せねばならず、この時期に造られた天守は飾りではなく「実戦用の城」として軍事施設の性質を帯びていました。現存例は、犬山城や丸岡城、松江城、彦根城、姫路城です。<br />そして、元和元年以降が「Ⅲ期」です。戦国時代が終焉した天下泰平の時代に造られた天守は、藩主の威厳を誇示するシンボリックなものとなりました。12の現存天守のうち、残りの天守は全てこれに相当します。ただし、犬山城や丸岡城をⅢ期とする説もあります。

    松江城 天守
    最古の天守のひとつとされる安土城の天主(天守)が築かれた1576(天正4)年から関ヶ原の合戦(慶長5年)までを城郭の「Ⅰ期」と言います。この時代の天守は絶対的支配の象徴であり、また居住空間でもありました。安土城や大坂城、岡山城などが匹敵しますが、いずれの天守も現存していません。
    「Ⅱ期」は、慶長5年から「一国一城令」発令の1615(元和元)年までの慶長の築城ラッシュ期を指します。「関ヶ原の合戦以降、日本は泰平な世になった」と思われている方も多いようですが、合戦後には徳川家と豊臣家の確執が深まり、最終戦争がカウントダウンされるなど戦国時代以来最大の緊迫感に包まれた時期だったはずです。それに加えて各大名は一揆なども警戒せねばならず、この時期に造られた天守は飾りではなく「実戦用の城」として軍事施設の性質を帯びていました。現存例は、犬山城や丸岡城、松江城、彦根城、姫路城です。
    そして、元和元年以降が「Ⅲ期」です。戦国時代が終焉した天下泰平の時代に造られた天守は、藩主の威厳を誇示するシンボリックなものとなりました。12の現存天守のうち、残りの天守は全てこれに相当します。ただし、犬山城や丸岡城をⅢ期とする説もあります。

  • 松江城 天守<br />入母屋破風が羽を広げた鳥を彷彿とさせることから「千鳥城」と呼ばれたと記しましたが、異説もあります。宍道湖には千鳥が沢山棲息しており、それに因んだとの説もあります。また、入母屋破風を「千鳥(千鳥破風)」と称するのは難があり、現存天守は創建後に改装されたものであり、創建時には比翼の千鳥破風があったとの説もあります。<br />実は、『正保城絵図(1644年)』にある松江城の2重目には、比翼の千鳥破風が付いています。また、4重目には、これも現存しない唐破風が付いています。2016年の調査では、千鳥破風が描かれた部位の内側に三角屋根を構成した痕跡が発見されています。同様に、唐破風の場所にも貫跡が存在します。<br />また、1738(元文3)~43(寛保3)年、築城後100余年の時期に大修理がなされたことが判っています。更には、修理に先立ち御大工 斎田彦四郎が『正保城絵図』 と同じ姿の「天守小形(小型模型)」を制作したと『松江藩列士録』にあります。<br />一方、現天守と同じ姿の「松江城天守雛型」は「1638(寛永15)年に御大工頭が「天守が1m程傾いている」と松平直政に伝えて修理を命じられた際に制作した」と幕末に家臣が『藩租御事蹟』に記しています。しかし、落成30年後の寛永期に修理された史実はなく、この天守雛型は1740年頃の制作との見方もあります。もしそうであれば、全ての断片が繋がってきます。松江城天守の落成から100余年後、大改修によって現在の姿になったと解釈する方が無理がないように思えます。

    松江城 天守
    入母屋破風が羽を広げた鳥を彷彿とさせることから「千鳥城」と呼ばれたと記しましたが、異説もあります。宍道湖には千鳥が沢山棲息しており、それに因んだとの説もあります。また、入母屋破風を「千鳥(千鳥破風)」と称するのは難があり、現存天守は創建後に改装されたものであり、創建時には比翼の千鳥破風があったとの説もあります。
    実は、『正保城絵図(1644年)』にある松江城の2重目には、比翼の千鳥破風が付いています。また、4重目には、これも現存しない唐破風が付いています。2016年の調査では、千鳥破風が描かれた部位の内側に三角屋根を構成した痕跡が発見されています。同様に、唐破風の場所にも貫跡が存在します。
    また、1738(元文3)~43(寛保3)年、築城後100余年の時期に大修理がなされたことが判っています。更には、修理に先立ち御大工 斎田彦四郎が『正保城絵図』 と同じ姿の「天守小形(小型模型)」を制作したと『松江藩列士録』にあります。
    一方、現天守と同じ姿の「松江城天守雛型」は「1638(寛永15)年に御大工頭が「天守が1m程傾いている」と松平直政に伝えて修理を命じられた際に制作した」と幕末に家臣が『藩租御事蹟』に記しています。しかし、落成30年後の寛永期に修理された史実はなく、この天守雛型は1740年頃の制作との見方もあります。もしそうであれば、全ての断片が繋がってきます。松江城天守の落成から100余年後、大改修によって現在の姿になったと解釈する方が無理がないように思えます。

  • 松江城 天守<br />江戸時代、松江は松江藩の藩庁として出雲地方の政治経済の中心を担いました。その地に聳える松江城は、南に流れる京橋川を外堀とする平山城であり、宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、「日本3大湖城」(膳所城、高島城)のひとつにも数えられています。<br />松江城の築城には、『太閤記』の作者としても知られる軍学者・儒学者の小瀬甫庵や土木職人の稲葉覚之丞らが設計に携わったと伝えられています。亀田山の地形を巧みに利用した平山城で、亀田山の山頂に本丸を配置し、南に二の丸、堀を挟んで三の丸を配置した輪郭連郭複合式の縄張りとなっており、これは小瀬甫庵が考案したものです。二の丸の櫓群は廃城令により取り壊されましたが、2001年に3棟の櫓が復元され、往時を偲ぶよすがとなっています。

    松江城 天守
    江戸時代、松江は松江藩の藩庁として出雲地方の政治経済の中心を担いました。その地に聳える松江城は、南に流れる京橋川を外堀とする平山城であり、宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、「日本3大湖城」(膳所城、高島城)のひとつにも数えられています。
    松江城の築城には、『太閤記』の作者としても知られる軍学者・儒学者の小瀬甫庵や土木職人の稲葉覚之丞らが設計に携わったと伝えられています。亀田山の地形を巧みに利用した平山城で、亀田山の山頂に本丸を配置し、南に二の丸、堀を挟んで三の丸を配置した輪郭連郭複合式の縄張りとなっており、これは小瀬甫庵が考案したものです。二の丸の櫓群は廃城令により取り壊されましたが、2001年に3棟の櫓が復元され、往時を偲ぶよすがとなっています。

  • 松江城 天守<br />松江城が築かれたのは、関ヶ原の合戦後、権力が豊臣家から徳川家へ移る過度期のことであり、そのため縄張には櫓が少なく防備が手薄だったと言われますが、城の核心となる天守だけは戦時に備えたトラップが随所に施されており、ギャップのあるお城です。松江城天守の最大の魅力は、繊細でバランスのよい外観の裏に隠された執拗なまでの臨戦態勢にあります。<br />大手門の前は枡形になっており、L字に曲がらなければ通れず、四方の塀を高く囲んで上方から攻撃できる仕掛けです。本丸を守る一の門も枡形、天守入口の附櫓も枡形とし、判っているだけで6ヶ所の枡形があります。<br />前置きはこれくらいにして、それでは天守内部へ「いざ出陣!」。

    松江城 天守
    松江城が築かれたのは、関ヶ原の合戦後、権力が豊臣家から徳川家へ移る過度期のことであり、そのため縄張には櫓が少なく防備が手薄だったと言われますが、城の核心となる天守だけは戦時に備えたトラップが随所に施されており、ギャップのあるお城です。松江城天守の最大の魅力は、繊細でバランスのよい外観の裏に隠された執拗なまでの臨戦態勢にあります。
    大手門の前は枡形になっており、L字に曲がらなければ通れず、四方の塀を高く囲んで上方から攻撃できる仕掛けです。本丸を守る一の門も枡形、天守入口の附櫓も枡形とし、判っているだけで6ヶ所の枡形があります。
    前置きはこれくらいにして、それでは天守内部へ「いざ出陣!」。

  • 天守 附櫓<br />実戦仕様の天守であることを実感できるのが、天守入口に附属した附櫓です。<br />天守入口の防備を堅くするために設けられた櫓で、入口の重厚な鉄板張りの大戸から入城するとその先には枡形の小広場が2段あります。また、頭上の床板を外すことで鉄砲を撃ったり槍で突くことができる仕掛けになっています。<br />正方形の狭間は鉄砲用、縦長の長方形は矢用です突上戸(つきあげど)は、戸を格子の外で上から吊り、外側に跳ね上げて開きます。

    天守 附櫓
    実戦仕様の天守であることを実感できるのが、天守入口に附属した附櫓です。
    天守入口の防備を堅くするために設けられた櫓で、入口の重厚な鉄板張りの大戸から入城するとその先には枡形の小広場が2段あります。また、頭上の床板を外すことで鉄砲を撃ったり槍で突くことができる仕掛けになっています。
    正方形の狭間は鉄砲用、縦長の長方形は矢用です突上戸(つきあげど)は、戸を格子の外で上から吊り、外側に跳ね上げて開きます。

  • 天守 附櫓(地階)<br />階段を登った先に受付があり、ここでの見所は、白壁に開けられた銃眼です。<br />正面を見上げると、天守と附櫓の連結部分には多数の鉄砲狭間が待ち構えています。通常、狭間は城外の敵に向けて壁面に設置されるものであり、まさか天守と附櫓の間に設けられているとは誰も予測しません。附櫓が敵に破られた時、次善の策として天守から附櫓に侵入した敵を集中攻撃するための仕掛けです。

    天守 附櫓(地階)
    階段を登った先に受付があり、ここでの見所は、白壁に開けられた銃眼です。
    正面を見上げると、天守と附櫓の連結部分には多数の鉄砲狭間が待ち構えています。通常、狭間は城外の敵に向けて壁面に設置されるものであり、まさか天守と附櫓の間に設けられているとは誰も予測しません。附櫓が敵に破られた時、次善の策として天守から附櫓に侵入した敵を集中攻撃するための仕掛けです。

  • 天守 地階<br />「穴蔵の間」と呼ばれ、堀尾吉晴が鳥取城を兵糧攻めにした経験から、万一の長期戦にも耐えられる籠城用生活物資の貯蔵庫として利用されました。また、中央には深さ24mの井戸があり、北方にある池の底とほぼ同底のため常時飲料水が得られました。<br />このように天守の中に井戸がある例は他に類を見ず、流石は実戦経験豊富な武将が築いた城と唸らせるものがあります。最期は天守に籠城して討ち死にするという武士の覚悟がひしひしと伝わってきます。因みに、吉晴は、秀吉の家臣団の中でも最古参の重臣であり、一度戦場に立てば勇敢に敵に立ち向かい武功を上げた人物でもあります。

    天守 地階
    「穴蔵の間」と呼ばれ、堀尾吉晴が鳥取城を兵糧攻めにした経験から、万一の長期戦にも耐えられる籠城用生活物資の貯蔵庫として利用されました。また、中央には深さ24mの井戸があり、北方にある池の底とほぼ同底のため常時飲料水が得られました。
    このように天守の中に井戸がある例は他に類を見ず、流石は実戦経験豊富な武将が築いた城と唸らせるものがあります。最期は天守に籠城して討ち死にするという武士の覚悟がひしひしと伝わってきます。因みに、吉晴は、秀吉の家臣団の中でも最古参の重臣であり、一度戦場に立てば勇敢に敵に立ち向かい武功を上げた人物でもあります。

  • 天守 地階<br />2015年7月8日、松江城は国宝に指定されました。<br />国宝指定の決定打となった「慶長拾六年正月吉祥日」と書かれた祈祷札にも注目です。築城年が書かれた札が松江神社で発見され、天守地階の柱にあった釘跡と一致したのです。これにより天守が築かれた年代が特定され、国宝に返り咲きました。掲げられている祈祷札はレプリカですが、「歴史の生証人」は一見の価値があります。

    天守 地階
    2015年7月8日、松江城は国宝に指定されました。
    国宝指定の決定打となった「慶長拾六年正月吉祥日」と書かれた祈祷札にも注目です。築城年が書かれた札が松江神社で発見され、天守地階の柱にあった釘跡と一致したのです。これにより天守が築かれた年代が特定され、国宝に返り咲きました。掲げられている祈祷札はレプリカですが、「歴史の生証人」は一見の価値があります。

  • 天守 地階<br />通常、築城の際は「祈祷札」を貼りますが、松江城はこれが外されており、完成年が特定できなかったのです。様々な場所を探した結果、2012年に市職員が松江神社で発見しました。<br />しかし、祈祷札の発見だけで国宝に至った訳ではありません。発見場所が天守でなかったため、松江城に貼られていたことを証明する必要がありました。何故なら、祈祷札には「松江城」の文字がなかったのです。<br />そこで城内の祈祷札が貼れそうな柱を一本ずつ地道に調べ、釘穴の位置やシミの形、札の痕跡などを照合していきました。そして3年の歳月を経て、ついに祈祷札が貼られていた場所が特定できました。奇しくもその場所は、地階にある井戸の傍らの2箇所の柱でした。<br />官民一体のチームプレーがもたらした国宝指定だったと言えます。

    天守 地階
    通常、築城の際は「祈祷札」を貼りますが、松江城はこれが外されており、完成年が特定できなかったのです。様々な場所を探した結果、2012年に市職員が松江神社で発見しました。
    しかし、祈祷札の発見だけで国宝に至った訳ではありません。発見場所が天守でなかったため、松江城に貼られていたことを証明する必要がありました。何故なら、祈祷札には「松江城」の文字がなかったのです。
    そこで城内の祈祷札が貼れそうな柱を一本ずつ地道に調べ、釘穴の位置やシミの形、札の痕跡などを照合していきました。そして3年の歳月を経て、ついに祈祷札が貼られていた場所が特定できました。奇しくもその場所は、地階にある井戸の傍らの2箇所の柱でした。
    官民一体のチームプレーがもたらした国宝指定だったと言えます。

  • 天守 地階<br />近年の研究により、天守2階以下に堀尾吉晴が一時期居城とした月山富田城の部材を転用したこと、2階分に通し柱を複数配置することで構造を安定させた技法など、独自の工法が明らかになりました。これらの希少性も国宝指定の一要因となったそうです。<br />そして現在、松江市は松江城天守の世界文化遺産登録を目指しています。市長が、同じく国宝天守を誇る松本市、犬山市長と共に文化庁を訪れ、支援を求めました。姫路城の世界遺産登録を拡大し、彦根城を加えた国宝5城を含む「近世城郭の天守群」としての登録が狙いです。<br />しかし、道程は平坦ではありません。世界遺産に登録されるには、まず国内の暫定リストに入らなくてはなりません。すでにリスト入りしている彦根城は単独での世界遺産登録を目指しており、足並みが揃っていないのが現状です。<br />国宝指定はゴールではなく、更なる世界遺産登録への通過点に過ぎなかったとは・・・。苦労を重ねて獲得した国宝指定以上の試練が待っていると思いますが、城ファンとしては応援したい気持ちとそうでない気持ちが錯綜しています。

    天守 地階
    近年の研究により、天守2階以下に堀尾吉晴が一時期居城とした月山富田城の部材を転用したこと、2階分に通し柱を複数配置することで構造を安定させた技法など、独自の工法が明らかになりました。これらの希少性も国宝指定の一要因となったそうです。
    そして現在、松江市は松江城天守の世界文化遺産登録を目指しています。市長が、同じく国宝天守を誇る松本市、犬山市長と共に文化庁を訪れ、支援を求めました。姫路城の世界遺産登録を拡大し、彦根城を加えた国宝5城を含む「近世城郭の天守群」としての登録が狙いです。
    しかし、道程は平坦ではありません。世界遺産に登録されるには、まず国内の暫定リストに入らなくてはなりません。すでにリスト入りしている彦根城は単独での世界遺産登録を目指しており、足並みが揃っていないのが現状です。
    国宝指定はゴールではなく、更なる世界遺産登録への通過点に過ぎなかったとは・・・。苦労を重ねて獲得した国宝指定以上の試練が待っていると思いますが、城ファンとしては応援したい気持ちとそうでない気持ちが錯綜しています。

  • 天守 地階<br />自然石積みの円形井戸は、床上の木枠の直径は2m程、地下部分の直径は1.4m程あり、かつては深さ24mありましたが、現在は一部埋められて水はなく、深さは12m程に浅くなっています。<br />城に井戸と言えば、姫路城同様に「抜け穴」用としての井戸の用途が勘ぐられます。「抜け穴」か否かは、1950年代の昭和の解体修理時に調査されたようです。その結果、飲料水用の掘り井戸であり、籠城を想定してここに備えたものであることが明らかとなっています。

    天守 地階
    自然石積みの円形井戸は、床上の木枠の直径は2m程、地下部分の直径は1.4m程あり、かつては深さ24mありましたが、現在は一部埋められて水はなく、深さは12m程に浅くなっています。
    城に井戸と言えば、姫路城同様に「抜け穴」用としての井戸の用途が勘ぐられます。「抜け穴」か否かは、1950年代の昭和の解体修理時に調査されたようです。その結果、飲料水用の掘り井戸であり、籠城を想定してここに備えたものであることが明らかとなっています。

  • 天守 地階 鯱<br />高さ2.08mあり、現存する全国12の天守に取り付けられた木造の鯱では日本最大です。木造の本体に銅板が張られたもので、1950年代の昭和の解体修理時に新調されています。<br />正面に向かって左側が雄、右側が雌です。いずれも細かい装飾は施されておらず、おおまかなつくりになっています。雌雄の造形には微妙に違いがあり、雄の方が鱗が粗くなっています。<br />因みに、現在の天守に載せられた鯱は、厚さ4寸(約12cm)のアスナロ材が使われているそうです。

    天守 地階 鯱
    高さ2.08mあり、現存する全国12の天守に取り付けられた木造の鯱では日本最大です。木造の本体に銅板が張られたもので、1950年代の昭和の解体修理時に新調されています。
    正面に向かって左側が雄、右側が雌です。いずれも細かい装飾は施されておらず、おおまかなつくりになっています。雌雄の造形には微妙に違いがあり、雄の方が鱗が粗くなっています。
    因みに、現在の天守に載せられた鯱は、厚さ4寸(約12cm)のアスナロ材が使われているそうです。

  • 天守 地階<br />地階に保存されている「堀尾家の家紋『分銅紋』とその中に『富』の字」の刻印をもつ部材は、年代測定の結果、月山富田城から転用された可能性が高いことが判明しています。また、この部材は地階~2階の部材と同じ特色を持ち、地階~2階の部材も富田城から移築された可能性があります。

    天守 地階
    地階に保存されている「堀尾家の家紋『分銅紋』とその中に『富』の字」の刻印をもつ部材は、年代測定の結果、月山富田城から転用された可能性が高いことが判明しています。また、この部材は地階~2階の部材と同じ特色を持ち、地階~2階の部材も富田城から移築された可能性があります。

  • 天守 地階 階段<br />階段は、古い天守特有の急勾配です。急な階段は、敵を蹴り飛ばしたり、突き落としたりするのに有効です。階段は、板厚10cm程、幅1.6mで各階に設けてあります。通常、城の階段には檜などが使われることが多いのですが、ここの階段は、敵が攻めてきた際に引き上げるため、軽い素材の桐を採用しているのが特徴です。また、桐は防火や防腐にも効能があり、他の城では見られない異質の材質です。

    天守 地階 階段
    階段は、古い天守特有の急勾配です。急な階段は、敵を蹴り飛ばしたり、突き落としたりするのに有効です。階段は、板厚10cm程、幅1.6mで各階に設けてあります。通常、城の階段には檜などが使われることが多いのですが、ここの階段は、敵が攻めてきた際に引き上げるため、軽い素材の桐を採用しているのが特徴です。また、桐は防火や防腐にも効能があり、他の城では見られない異質の材質です。

  • 天守 1階<br />この階段は敵の侵入を防ぐため、階段を引き上げた後、上がり口に厚板をスライドさせて閉じてしまうことのできる構造です。

    天守 1階
    この階段は敵の侵入を防ぐため、階段を引き上げた後、上がり口に厚板をスライドさせて閉じてしまうことのできる構造です。

  • 天守 1階<br />松江城の天守の特徴は、大きく分けて3つあります。<br />1.寄木柱(包板(つつみいた))<br />2.桐製の階段<br />3.石落し(袋狭間)<br />寄木柱は、130本あります。細い心柱材に四方から厚板を寄せて包み、鎹(かすがい)と鉄輪で縛締めしたものです。築城とほぼ同時期の出雲大社の社殿(高さ48m)では、3本の柱材と補助材を金輪締めにした宮大工の手法が駆使されており、これを築城にも取り入れたと考えられています。<br />桐製の階段は、足触りや防音に優れ、火災や腐食を防ぎ、軽いことから有事の際には引き上げ易くなっています。これは、松江城唯一のもので天下の絶品とされています。<br />石落し(袋狭間)は、2層(3階)には東西南北の四隅と南側を除く三面中央の床に合計11ヶ所を配置しています。側壁より床面が張り出しており、腑射装置になっています。銃撃や弓矢、そして石などで攻撃できます。こうした実戦的な装備が充実しているのも松江城の特徴です。

    天守 1階
    松江城の天守の特徴は、大きく分けて3つあります。
    1.寄木柱(包板(つつみいた))
    2.桐製の階段
    3.石落し(袋狭間)
    寄木柱は、130本あります。細い心柱材に四方から厚板を寄せて包み、鎹(かすがい)と鉄輪で縛締めしたものです。築城とほぼ同時期の出雲大社の社殿(高さ48m)では、3本の柱材と補助材を金輪締めにした宮大工の手法が駆使されており、これを築城にも取り入れたと考えられています。
    桐製の階段は、足触りや防音に優れ、火災や腐食を防ぎ、軽いことから有事の際には引き上げ易くなっています。これは、松江城唯一のもので天下の絶品とされています。
    石落し(袋狭間)は、2層(3階)には東西南北の四隅と南側を除く三面中央の床に合計11ヶ所を配置しています。側壁より床面が張り出しており、腑射装置になっています。銃撃や弓矢、そして石などで攻撃できます。こうした実戦的な装備が充実しているのも松江城の特徴です。

  • 天守 1階 包板(つつみいた)<br />天守の大きな特徴が、心柱がなく、2階分の柱を随所に立てて天守を支える「通し柱」を用いていることです。これらは寄木柱になっており、芯になる松木(21cm角)の各面に板材を張り、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で締めて束ねています。これは「包板」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施され、補強や割れ隠しなど不良材の体裁を整えたと考えられています。 寄木柱は、天守としては松江城でしか見られません。<br />松江城が築城された 慶長年間は築城ラッシュの真っ最中であり、全国規模で城が造られたことから、木材が不足して神社の御神木を切ったり、他の城の木材を転用したりしました。それでも木材が不足し、知恵を絞ったのが包板です。 

    天守 1階 包板(つつみいた)
    天守の大きな特徴が、心柱がなく、2階分の柱を随所に立てて天守を支える「通し柱」を用いていることです。これらは寄木柱になっており、芯になる松木(21cm角)の各面に板材を張り、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で締めて束ねています。これは「包板」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施され、補強や割れ隠しなど不良材の体裁を整えたと考えられています。 寄木柱は、天守としては松江城でしか見られません。
    松江城が築城された 慶長年間は築城ラッシュの真っ最中であり、全国規模で城が造られたことから、木材が不足して神社の御神木を切ったり、他の城の木材を転用したりしました。それでも木材が不足し、知恵を絞ったのが包板です。 

  • 天守 1階 包板<br />「包板」が日本で初めて導入されたのは1609年造営の出雲大社です。豊臣秀頼が施主となり、堀尾吉晴は担当奉行を務めました。ほぼ同時期に松江城が築城されており、いずれも柱の材料になる大木が乏しかったための創意工夫です。<br />また、秀頼が京都で再建していた方広寺大仏殿にも「包板」技法が導入されました。それを模倣して寄木柱で再建したのが、1709年に完成した世界最大の木造建築 東大寺大仏殿です。

    天守 1階 包板
    「包板」が日本で初めて導入されたのは1609年造営の出雲大社です。豊臣秀頼が施主となり、堀尾吉晴は担当奉行を務めました。ほぼ同時期に松江城が築城されており、いずれも柱の材料になる大木が乏しかったための創意工夫です。
    また、秀頼が京都で再建していた方広寺大仏殿にも「包板」技法が導入されました。それを模倣して寄木柱で再建したのが、1709年に完成した世界最大の木造建築 東大寺大仏殿です。

  • 天守 1階 武者走り<br />白壁は狭間だらけです。<br />構造的な特徴は、2つの階を貫く「通し柱」を多用している点です。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれ繋ぐ通し柱があり、側柱など外周部分には1階と2階、3階と4階を繋ぐ通し柱といった具合に、階毎に交互に通し柱を配しています。こうすることで、荷重を分散させて下層に伝えています。この構造においては、現存天守の中では最も早い事例になります。<br />創建時は1階にはトイレと人質を閉じ込めておくための「人質蔵」があったそうですが、現在はその名残はありません。

    天守 1階 武者走り
    白壁は狭間だらけです。
    構造的な特徴は、2つの階を貫く「通し柱」を多用している点です。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれ繋ぐ通し柱があり、側柱など外周部分には1階と2階、3階と4階を繋ぐ通し柱といった具合に、階毎に交互に通し柱を配しています。こうすることで、荷重を分散させて下層に伝えています。この構造においては、現存天守の中では最も早い事例になります。
    創建時は1階にはトイレと人質を閉じ込めておくための「人質蔵」があったそうですが、現在はその名残はありません。

  • 天守 1階 鬼瓦<br />鬼瓦は各層や附櫓の屋根の突端に合計22枚あります。その半数以上が1950年代に行われた昭和の解体修理工事の際にも取り換えられることなく、今でも城を守り続けています。<br />鬼瓦は厄除けと装飾という2の意味を持ちますが、松江城の鬼瓦は恐ろしい鬼の顔をしたものは少ないとされます。つり上がった目に広がった鼻、裂けた口など、鬼の条件を満たしてはいますが、すっとぼけたようなユーモラスな表情に見えるのは鬼に付き物の「角」がないからかもしれません。また、22枚ある鬼瓦の全てが違った顔をしているのもユニークです。

    天守 1階 鬼瓦
    鬼瓦は各層や附櫓の屋根の突端に合計22枚あります。その半数以上が1950年代に行われた昭和の解体修理工事の際にも取り換えられることなく、今でも城を守り続けています。
    鬼瓦は厄除けと装飾という2の意味を持ちますが、松江城の鬼瓦は恐ろしい鬼の顔をしたものは少ないとされます。つり上がった目に広がった鼻、裂けた口など、鬼の条件を満たしてはいますが、すっとぼけたようなユーモラスな表情に見えるのは鬼に付き物の「角」がないからかもしれません。また、22枚ある鬼瓦の全てが違った顔をしているのもユニークです。

  • 天守 2階 石落とし<br />2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落としです。石垣に近づく敵に鉄砲の弾を浴びせる仕掛けです。壁が外部に迫り出している部位に設けられており、丁度石垣をよじ登ってくる敵の真上に位置します。また、外部からは発見され難いように、1層と2層の屋根の間を巧みに利用しています。

    天守 2階 石落とし
    2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落としです。石垣に近づく敵に鉄砲の弾を浴びせる仕掛けです。壁が外部に迫り出している部位に設けられており、丁度石垣をよじ登ってくる敵の真上に位置します。また、外部からは発見され難いように、1層と2層の屋根の間を巧みに利用しています。

  • 天守 2階 松平直政初陣図銅像<br />「松平直政初陣図銅像」と名付けられた像が展示されています。松平家松江藩の初代藩主 直政14歳の凛々しい初陣の騎馬像で、大坂冬の陣で真田丸に対峙する姿を表しています。<br />安来出身の彫刻家 米原雲海の大正時代の作品で、高さ90cm程、幅1m程あります。手綱を引いて馬を操る一見静的な造形が、直政の秘めた闘志を伝えます。<br />この雲海の像は、かつて松江城本丸にあった直政銅像の基になった小型の原型です。雲海は、銅像制作に向けてこの原型を創りましたが55歳で死去。門人が遺志を継いで銅像を完成させ、2年後の1927(昭和2)年に本丸に建立されました。しかし、戦時中の金属供出で失われるという憂き目に遭っています。その後、原型に基づいて復元され、現在は島根県庁前に置かれています。<br />

    天守 2階 松平直政初陣図銅像
    「松平直政初陣図銅像」と名付けられた像が展示されています。松平家松江藩の初代藩主 直政14歳の凛々しい初陣の騎馬像で、大坂冬の陣で真田丸に対峙する姿を表しています。
    安来出身の彫刻家 米原雲海の大正時代の作品で、高さ90cm程、幅1m程あります。手綱を引いて馬を操る一見静的な造形が、直政の秘めた闘志を伝えます。
    この雲海の像は、かつて松江城本丸にあった直政銅像の基になった小型の原型です。雲海は、銅像制作に向けてこの原型を創りましたが55歳で死去。門人が遺志を継いで銅像を完成させ、2年後の1927(昭和2)年に本丸に建立されました。しかし、戦時中の金属供出で失われるという憂き目に遭っています。その後、原型に基づいて復元され、現在は島根県庁前に置かれています。

  • 天守 2階 <br />天守の基本的構造としては、上層の荷重を下層の柱が直接受けず、外側へずらしながら荷重を下に伝えている点が注目されます。丸亀城や宇和島城天守にも見られる方式で、上層になるほど平面積が縮小するという天守の宿命を解決する工夫です。<br />この外側へずらしながら荷重を支える方式と通し柱方式を駆使し、天守という独特な建築を可能にしています。天守建築史上その価値は絶大なものと言えます。

    天守 2階
    天守の基本的構造としては、上層の荷重を下層の柱が直接受けず、外側へずらしながら荷重を下に伝えている点が注目されます。丸亀城や宇和島城天守にも見られる方式で、上層になるほど平面積が縮小するという天守の宿命を解決する工夫です。
    この外側へずらしながら荷重を支える方式と通し柱方式を駆使し、天守という独特な建築を可能にしています。天守建築史上その価値は絶大なものと言えます。

  • 天守3階<br />火灯窓を内側から撮影しています。<br />天守正面(南面)を向いており、無骨で装飾性をことごとく省いた松江城の天守にあって、目立つ存在になっています。

    天守3階
    火灯窓を内側から撮影しています。
    天守正面(南面)を向いており、無骨で装飾性をことごとく省いた松江城の天守にあって、目立つ存在になっています。

  • 天守3階 潜戸(くぐらど)<br />3階には、窓際の板壁に架けられた小さな階段があります。武者隠しのようですが、内部から屋根に通じているそうです。何故、屋根に通じているのかは松江城の7不思議だそうです。<br />

    天守3階 潜戸(くぐらど)
    3階には、窓際の板壁に架けられた小さな階段があります。武者隠しのようですが、内部から屋根に通じているそうです。何故、屋根に通じているのかは松江城の7不思議だそうです。

  • 天守 3階 潜戸<br />壁に鉄砲狭間があるのため、武者隠しの用途があったのは間違いありません。<br />壁の突起は、槍や鉄砲などの武器を掛けるための棚のようです。

    天守 3階 潜戸
    壁に鉄砲狭間があるのため、武者隠しの用途があったのは間違いありません。
    壁の突起は、槍や鉄砲などの武器を掛けるための棚のようです。

  • 天守 4階 破風の間<br />入母屋の屋根裏になります。<br />ここも絶好の射撃ポイントだったようで、鉄砲狭間が開けられています。<br />床の上に伏せながら射撃できます。

    天守 4階 破風の間
    入母屋の屋根裏になります。
    ここも絶好の射撃ポイントだったようで、鉄砲狭間が開けられています。
    床の上に伏せながら射撃できます。

  • 天守 4階 破風の間<br />謎の一つが、入母屋破風に通じる扉があることです。敵を欺いて足止めするため、「武者隠し」があるかのように見せかけたのではないかとの推測もありますが、用途は不明だそうです。<br />また、西側の入母屋破風の間には小部屋が外に突き出しています。これは箱便所、文字通りお殿様専用のトイレです。

    天守 4階 破風の間
    謎の一つが、入母屋破風に通じる扉があることです。敵を欺いて足止めするため、「武者隠し」があるかのように見せかけたのではないかとの推測もありますが、用途は不明だそうです。
    また、西側の入母屋破風の間には小部屋が外に突き出しています。これは箱便所、文字通りお殿様専用のトイレです。

  • 天守 4階 箱便所<br />吃驚するのはトイレにも鉄砲狭間が開けられていることです。ここは、本丸に侵攻した敵兵に向けた銃撃に最も有効な場所であったと考えられます。<br />また、敵が切りつけてくる方向が右側になるように座る便座配置です。左側に刀を置いておき、刀を抜いてすぐに切りかかれる体勢になります。<br />天守上部だけになっても籠城して戦おうとする、戦国武将の生き様がひしひしと感じられる場所です。

    天守 4階 箱便所
    吃驚するのはトイレにも鉄砲狭間が開けられていることです。ここは、本丸に侵攻した敵兵に向けた銃撃に最も有効な場所であったと考えられます。
    また、敵が切りつけてくる方向が右側になるように座る便座配置です。左側に刀を置いておき、刀を抜いてすぐに切りかかれる体勢になります。
    天守上部だけになっても籠城して戦おうとする、戦国武将の生き様がひしひしと感じられる場所です。

  • 天守 4階 通し柱<br />太い梁の上に立てられたコーナーにある通し柱ですが、この梁の下には貫通していません。これは通し柱の説明にもってこいの柱です。<br />松江城の5階は、4階に設置された四角形状に組まれた太い梁に立てられた柱が支えています。こうして5階の重荷を4階の柱が直接受けないよう、上下階で梁に固定する柱の位置をずらすことで、5階の重荷を分散させて受ける構造にしています。

    天守 4階 通し柱
    太い梁の上に立てられたコーナーにある通し柱ですが、この梁の下には貫通していません。これは通し柱の説明にもってこいの柱です。
    松江城の5階は、4階に設置された四角形状に組まれた太い梁に立てられた柱が支えています。こうして5階の重荷を4階の柱が直接受けないよう、上下階で梁に固定する柱の位置をずらすことで、5階の重荷を分散させて受ける構造にしています。

  • 天守 4階 <br />ここには正三角形をした「鎬狭間(しのぎさま)」があります。<br />これも鉄砲狭間です。<br />こうした正三角形の狭間は、松江城ではあまり見かけませんでした。

    天守 4階
    ここには正三角形をした「鎬狭間(しのぎさま)」があります。
    これも鉄砲狭間です。
    こうした正三角形の狭間は、松江城ではあまり見かけませんでした。

  • 天守 4階 階段<br />階段は途中で直角に折れ、すんなりとは登れない構造です。クランクが連続する天守入口の附櫓だけでなく、ロフトのような踊り場や直進できないようにずらした階段からも、死角をなくして攻撃する機会を可能な限り増やそうと工夫しているのが窺えます。

    天守 4階 階段
    階段は途中で直角に折れ、すんなりとは登れない構造です。クランクが連続する天守入口の附櫓だけでなく、ロフトのような踊り場や直進できないようにずらした階段からも、死角をなくして攻撃する機会を可能な限り増やそうと工夫しているのが窺えます。

  • 天守 4階<br />階段の踊り場から見下ろした4階の様子です。<br />

    天守 4階
    階段の踊り場から見下ろした4階の様子です。

  • 最上階への階段<br />全ての階段が桐でできている訳ではありません。昭和の解体修理工事の報告書によると、中4階の踊り場から5階に通ずるこの階段だけは松材を用いているようです。また、3階以下の階段がある場所は、築城後に変更されたと推測されています。

    最上階への階段
    全ての階段が桐でできている訳ではありません。昭和の解体修理工事の報告書によると、中4階の踊り場から5階に通ずるこの階段だけは松材を用いているようです。また、3階以下の階段がある場所は、築城後に変更されたと推測されています。

  • 天守 最上階<br />高さ22.4mの天守最上階は「天狗の間」と呼ばれ、東西約9m、南北約8mあり、戦になった時に城主が全軍の指揮を執るための「望楼」でした。<br />最上階の内側には、内室を取り囲むように廻縁高欄(手摺)があり、雨戸を取り付けています。また、壁がなく総窓で四方視界が開け、こうした最上階を「望楼式」と呼び、現存天守の中では珍しい様式です。

    天守 最上階
    高さ22.4mの天守最上階は「天狗の間」と呼ばれ、東西約9m、南北約8mあり、戦になった時に城主が全軍の指揮を執るための「望楼」でした。
    最上階の内側には、内室を取り囲むように廻縁高欄(手摺)があり、雨戸を取り付けています。また、壁がなく総窓で四方視界が開け、こうした最上階を「望楼式」と呼び、現存天守の中では珍しい様式です。

  • 天守 最上階<br />階段の手摺も巧妙な造りです。<br />松江城は本丸・二の丸・三の丸・出丸の4郭に大別できますが、これは徳川家康の浜松城の影響を受けています。本丸には祈祷櫓・武具櫓・弓櫓・坤櫓・鉄砲櫓・乾櫓の6つの櫓と太門が12、門が3つありました。櫓には武器や武具が、太門の外側は武者走とし、内側は武器や食糧などの倉庫になっていました。<br />しかし、1615(元和元)年の武家諸法度により築城工事を中断したと思われ、北側は天守の戦闘仕様とは一変して無防備に感じられます。

    天守 最上階
    階段の手摺も巧妙な造りです。
    松江城は本丸・二の丸・三の丸・出丸の4郭に大別できますが、これは徳川家康の浜松城の影響を受けています。本丸には祈祷櫓・武具櫓・弓櫓・坤櫓・鉄砲櫓・乾櫓の6つの櫓と太門が12、門が3つありました。櫓には武器や武具が、太門の外側は武者走とし、内側は武器や食糧などの倉庫になっていました。
    しかし、1615(元和元)年の武家諸法度により築城工事を中断したと思われ、北側は天守の戦闘仕様とは一変して無防備に感じられます。

  • 天守 最上階<br />4階からの通し柱は、5階部分だけ意図的に細く削っています。4階は1尺角、5階は7寸角です。その理由は不明のようですが、考えられる理由を挙げると、ひとつは住宅風の意匠にするため、もうひとつは眺望を確保するためです。<br />因みに、姫路城大天守の最上階も窓の部分のみ柱を細くしており、これは眺望のためだと考えられています。<br />この城にはまだ謎の部分が多く、調査は緒に着いたところかもしれません。

    天守 最上階
    4階からの通し柱は、5階部分だけ意図的に細く削っています。4階は1尺角、5階は7寸角です。その理由は不明のようですが、考えられる理由を挙げると、ひとつは住宅風の意匠にするため、もうひとつは眺望を確保するためです。
    因みに、姫路城大天守の最上階も窓の部分のみ柱を細くしており、これは眺望のためだと考えられています。
    この城にはまだ謎の部分が多く、調査は緒に着いたところかもしれません。

  • 天守 最上階<br />天守最上階天井を見上げると棟札があります。<br />因みに、現存天守で棟札や祈祷札の年号によって天守の完成時期が特定されているのは、松江城1611(慶長16)年、丸亀城1660(万治3)年、弘前城1810(文化7)年の3城だけです。

    天守 最上階
    天守最上階天井を見上げると棟札があります。
    因みに、現存天守で棟札や祈祷札の年号によって天守の完成時期が特定されているのは、松江城1611(慶長16)年、丸亀城1660(万治3)年、弘前城1810(文化7)年の3城だけです。

  • 天守 最上階 北側<br />尼子氏が出雲経営の拠点とした、白鹿城の方向が望めます。<br /><br />盆踊りは日本の夏の夜の風物詩ですが、松江市内の一部では「ある事情」により今でも催されていません。城の落成後、相次いで城主が亡くなり、盆踊りが中止となったのは「盆踊りの最中にさらわれて生き埋めとなった娘の呪いだった」という、松江城にまつわる悲しい伝説を紹介します。小泉八雲も『人柱にされた娘』に認めています。<br />松江城築城の際、軟弱な地盤だったことから本丸や天守台の石垣が崩れ落ち、工事が難航しました。そこで工事の成功を祈願して人柱を立てることにしました。折しも盆踊りの時季でもあり、吉晴の家臣たちは「盆踊りで一番踊りがうまく、美しい娘を連れてきて人柱にしよう」と相談し、何の罪もない城下の若い娘「小鶴」をさらい、生贄にしてしまいました。<br />石垣は見事に積み上がり城も無事落成しましたが、犠牲になった娘の無念はいかばかりか。娘の怨みは怨霊となり、城主たちを苦しめはじめます。まず吉晴とその子 忠氏に祟ります。そのため、2人は城の落成前後に相次いで死去してしまいました。3代目の忠晴も跡継ぎがいないまま早逝し、堀尾家は断絶の憂き目に遭いました。その後、城下の人々が娘の祟りと恐れたため天守は荒れて放置され、天守からはすすり泣きが聞こえたとも伝わります。続いて城主になった京極忠高も僅か3年で急逝し、こちらは1代でお家断絶となりました。<br />また、京極氏の後に松平直政が城主になると、今度は天守の最上階に娘の亡霊が現われるようになり、直政を悩ませました。これが、「コノシロ櫓の伝説」です。<br />娘の呪いとされる怪奇現象はこれだけに留まらず、城下で盆踊りが行なわれると必ず城が大地震のように鳴動するようになったそうです。そこで盆踊りを禁止するお触れが出され、それが現代でも一部の地域で守られています。

    天守 最上階 北側
    尼子氏が出雲経営の拠点とした、白鹿城の方向が望めます。

    盆踊りは日本の夏の夜の風物詩ですが、松江市内の一部では「ある事情」により今でも催されていません。城の落成後、相次いで城主が亡くなり、盆踊りが中止となったのは「盆踊りの最中にさらわれて生き埋めとなった娘の呪いだった」という、松江城にまつわる悲しい伝説を紹介します。小泉八雲も『人柱にされた娘』に認めています。
    松江城築城の際、軟弱な地盤だったことから本丸や天守台の石垣が崩れ落ち、工事が難航しました。そこで工事の成功を祈願して人柱を立てることにしました。折しも盆踊りの時季でもあり、吉晴の家臣たちは「盆踊りで一番踊りがうまく、美しい娘を連れてきて人柱にしよう」と相談し、何の罪もない城下の若い娘「小鶴」をさらい、生贄にしてしまいました。
    石垣は見事に積み上がり城も無事落成しましたが、犠牲になった娘の無念はいかばかりか。娘の怨みは怨霊となり、城主たちを苦しめはじめます。まず吉晴とその子 忠氏に祟ります。そのため、2人は城の落成前後に相次いで死去してしまいました。3代目の忠晴も跡継ぎがいないまま早逝し、堀尾家は断絶の憂き目に遭いました。その後、城下の人々が娘の祟りと恐れたため天守は荒れて放置され、天守からはすすり泣きが聞こえたとも伝わります。続いて城主になった京極忠高も僅か3年で急逝し、こちらは1代でお家断絶となりました。
    また、京極氏の後に松平直政が城主になると、今度は天守の最上階に娘の亡霊が現われるようになり、直政を悩ませました。これが、「コノシロ櫓の伝説」です。
    娘の呪いとされる怪奇現象はこれだけに留まらず、城下で盆踊りが行なわれると必ず城が大地震のように鳴動するようになったそうです。そこで盆踊りを禁止するお触れが出され、それが現代でも一部の地域で守られています。

  • 天守 最上階 南側<br />宍道湖が見えます。フォトジェニックなのはこちらの方角になりますが、同時に敵が攻めてくるのもこちらからになります。<br />かつて天守の東南隅には「祈祷櫓」がありました。元々この土地には荒神を祀る祠があり、それを移して櫓を建てました。しかし、櫓直下の石垣が度々崩れるなど怪奇現象が続き、毎年この櫓で荒神を鎮める祈祷を行いました。「祈祷櫓」の名はこれに因みます。別名「コノシロ櫓」とも呼ばれ、その由来は次の幽霊伝説に因みます。<br />城主 松平直政が初めて天守最上階の「天狗の間」に入った時、直政の前に白い人影が現れました。それは美しい女でしたが、鬼のような形相で「この城は私のものだ!」と攻寄ったため、即座に「明日にでも『このしろ』をそなたに与えよう」と答えました。すると、女はス~ッと消え去りました。宍道湖産の「コノシロ」という魚を三宝に乗せて「天狗の間」に供えた所、翌日祈祷櫓で三宝が見つかり、その後、怪奇現象は起こらなくなりました。<br />早い話が、「この城」と「コノシロ(魚の名)」をかけた、今の時代なら「さむ~」と顰蹙を買うようなオヤジギャクで幽霊を成仏させたという逸話です。この幽霊は、人柱にされた美女の幽霊だったのかもしれません。<br />この逸話は直政の機転を表わすエピソードとして語り継がれたそうで、直政が松江を治める正当性を広めるためのプロパガンダという見方が有力です。

    天守 最上階 南側
    宍道湖が見えます。フォトジェニックなのはこちらの方角になりますが、同時に敵が攻めてくるのもこちらからになります。
    かつて天守の東南隅には「祈祷櫓」がありました。元々この土地には荒神を祀る祠があり、それを移して櫓を建てました。しかし、櫓直下の石垣が度々崩れるなど怪奇現象が続き、毎年この櫓で荒神を鎮める祈祷を行いました。「祈祷櫓」の名はこれに因みます。別名「コノシロ櫓」とも呼ばれ、その由来は次の幽霊伝説に因みます。
    城主 松平直政が初めて天守最上階の「天狗の間」に入った時、直政の前に白い人影が現れました。それは美しい女でしたが、鬼のような形相で「この城は私のものだ!」と攻寄ったため、即座に「明日にでも『このしろ』をそなたに与えよう」と答えました。すると、女はス~ッと消え去りました。 宍道湖産の「コノシロ」という魚を三宝に乗せて「天狗の間」に供えた所、翌日祈祷櫓で三宝が見つかり、その後、怪奇現象は起こらなくなりました。
    早い話が、「この城」と「コノシロ(魚の名)」をかけた、今の時代なら「さむ~」と顰蹙を買うようなオヤジギャクで幽霊を成仏させたという逸話です。この幽霊は、人柱にされた美女の幽霊だったのかもしれません。
    この逸話は直政の機転を表わすエピソードとして語り継がれたそうで、直政が松江を治める正当性を広めるためのプロパガンダという見方が有力です。

  • 天守 最上階 宍道湖<br />堀尾吉晴の子 忠氏は、1604年7月に意宇郡の大庭大宮(神魂神社)を参拝した折、神主の静止を聞かず、権力を笠に着て禁足地の小成池をひとりで巡ったそうです。池から戻ってきた忠氏の顔色は青ざめており、月山富田城に戻ると直ぐに病床に臥せ、禁足地を侵したことを繰り返し後悔しながら10日も経ずに急逝しました。享年27歳。<br />これは松江城築城前の話ですので人柱の祟り話ではありませんが、聖域へ足を踏み入れたことへの祟りなのかもしれません。一説にはマムシに噛まれたとも伝わります。

    天守 最上階 宍道湖
    堀尾吉晴の子 忠氏は、1604年7月に意宇郡の大庭大宮(神魂神社)を参拝した折、神主の静止を聞かず、権力を笠に着て禁足地の小成池をひとりで巡ったそうです。池から戻ってきた忠氏の顔色は青ざめており、月山富田城に戻ると直ぐに病床に臥せ、禁足地を侵したことを繰り返し後悔しながら10日も経ずに急逝しました。享年27歳。
    これは松江城築城前の話ですので人柱の祟り話ではありませんが、聖域へ足を踏み入れたことへの祟りなのかもしれません。一説にはマムシに噛まれたとも伝わります。

  • 水の手門跡<br />野面積(牛蒡(ごぼう)積)は、石の大きな面を内側、小さな面を表に出して積み上げ、一見粗雑に見えても石組では最も頑丈な積み方とされます。実際に400年を経ても崩れず現存しているのがその証左です。

    水の手門跡
    野面積(牛蒡(ごぼう)積)は、石の大きな面を内側、小さな面を表に出して積み上げ、一見粗雑に見えても石組では最も頑丈な積み方とされます。実際に400年を経ても崩れず現存しているのがその証左です。

  • 水の手門跡<br />馬洗池の正面にある大きな石垣が、天守の北東に位置する搦手道(裏道)に当たる水の手門跡です。復元石垣ですが、門跡にしては複雑に配置された高石垣に驚かされます。この水の手門は堅牢に造営されており、通路もクランク状にしており、2回曲がらないと上段の腰曲輪まで辿りつけません。往時は、幾つかの堅固な櫓門が石垣の間の通路を塞ぎ、そこから敵を目掛けて射撃できる仕掛けでした<br />堀尾吉晴の頃の古絵図には水の手門は一直線の道として描かれていますが、その100年後の図は現在と同じ複雑な形になっています。このことから、水の手門は江戸時代中期に大改築されたことが判ります。

    水の手門跡
    馬洗池の正面にある大きな石垣が、天守の北東に位置する搦手道(裏道)に当たる水の手門跡です。復元石垣ですが、門跡にしては複雑に配置された高石垣に驚かされます。この水の手門は堅牢に造営されており、通路もクランク状にしており、2回曲がらないと上段の腰曲輪まで辿りつけません。往時は、幾つかの堅固な櫓門が石垣の間の通路を塞ぎ、そこから敵を目掛けて射撃できる仕掛けでした
    堀尾吉晴の頃の古絵図には水の手門は一直線の道として描かれていますが、その100年後の図は現在と同じ複雑な形になっています。このことから、水の手門は江戸時代中期に大改築されたことが判ります。

  • ギリギリ井戸跡<br />松江城にはいくつものホラースポットがあります。場所は水の手門跡に向かって左側、馬洗池の反対側になります。写真左端のこんもりした所ですが、現在は井戸はなく、碑が立てられているだけです。<br />伝承によると、築城時、何度石垣を組んでも崩れてしまう箇所がありました。そこを掘ってみると、錆びた槍に貫かれた頭蓋骨が見つかり、往時の城主が霊を鎮めるために手厚く供養しました。<br />すると石垣が崩れることがなくなっただけでなく、掘った所から澄んだ水が豊富に湧き出したので、これを「ギリギリ井戸」と名付けたそうです。ギリギリとは頭のつむじを指す方言であり、頭のように盛り上がった頂点に井戸を掘ったことに因むそうです。

    ギリギリ井戸跡
    松江城にはいくつものホラースポットがあります。場所は水の手門跡に向かって左側、馬洗池の反対側になります。写真左端のこんもりした所ですが、現在は井戸はなく、碑が立てられているだけです。
    伝承によると、築城時、何度石垣を組んでも崩れてしまう箇所がありました。そこを掘ってみると、錆びた槍に貫かれた頭蓋骨が見つかり、往時の城主が霊を鎮めるために手厚く供養しました。
    すると石垣が崩れることがなくなっただけでなく、掘った所から澄んだ水が豊富に湧き出したので、これを「ギリギリ井戸」と名付けたそうです。ギリギリとは頭のつむじを指す方言であり、頭のように盛り上がった頂点に井戸を掘ったことに因むそうです。

  • 馬洗池(まわらいけ)<br />天守の北東、丑寅の方にあるため、少々薄暗い感じの池です。天守地階の井戸に繫がっており、籠城の際には飲料水とすることを想定していたとも伝わります。雲州松江藩の時代、馬の体をこの池で洗ったことに由来する名前と伝わりますが、この場所にまつわる怪異談が残されています。<br />城内警護役が夜半に見回りをしていると、背後にふと気配を感じてその方に目を向けると、馬の蹄のような音が暗闇の中から聞こえてきました。何事かと不審に思って目を凝らすと、そこには首のない馬の姿がありました。<br />肝を潰して立ち尽くした隙に、その馬は城の裏手へ駆けてゆき、暗闇の中へ姿を消してしまった。暫くして正気に戻って馬が去った方向へ行ってみると、先ほどの馬が小さな池の中でバシャバシャと足踏みをしていました。すると突然、池の水の中から馬の首だけがゆっくりと浮かび上がってきて男の方へ目を向け、「ケタケタケタ」と人のように笑い出したという。<br />この伝承以外にも、馬洗池周辺では「馬の首が宙を飛び回る」とか、「馬のような面をした異形の者が出て笑い声をあげる」という話もあります。そのため、この池を「馬笑池(まわらいけ)」とか「魔笑池(まわらいけ)」と呼ぶようになったといい、馬洗池の名の由来ともされます。<br />池に出没した妖怪は「マワラ(馬笑・魔笑)」と呼ばれ、その正体は不明ですが、恐らくその地で死んだ馬の霊だとされています。一説には、日本刀の試し切りに使われた馬の霊とも言われますが、日本には動物を試し切りに使ったとする正式な記録は残されていません。<br />余談ですが、江戸時代以前は人体を用いた試し切りの記録があり、また江戸時代にも罪人の死体を用いていたとの記録があります。ヨーロッパでは動物を試し切りに用いていた歴史がありますが、日本でも古代にはあったのかもしれません。

    馬洗池(まわらいけ)
    天守の北東、丑寅の方にあるため、少々薄暗い感じの池です。天守地階の井戸に繫がっており、籠城の際には飲料水とすることを想定していたとも伝わります。雲州松江藩の時代、馬の体をこの池で洗ったことに由来する名前と伝わりますが、この場所にまつわる怪異談が残されています。
    城内警護役が夜半に見回りをしていると、背後にふと気配を感じてその方に目を向けると、馬の蹄のような音が暗闇の中から聞こえてきました。何事かと不審に思って目を凝らすと、そこには首のない馬の姿がありました。
    肝を潰して立ち尽くした隙に、その馬は城の裏手へ駆けてゆき、暗闇の中へ姿を消してしまった。暫くして正気に戻って馬が去った方向へ行ってみると、先ほどの馬が小さな池の中でバシャバシャと足踏みをしていました。すると突然、池の水の中から馬の首だけがゆっくりと浮かび上がってきて男の方へ目を向け、「ケタケタケタ」と人のように笑い出したという。
    この伝承以外にも、馬洗池周辺では「馬の首が宙を飛び回る」とか、「馬のような面をした異形の者が出て笑い声をあげる」という話もあります。そのため、この池を「馬笑池(まわらいけ)」とか「魔笑池(まわらいけ)」と呼ぶようになったといい、馬洗池の名の由来ともされます。
    池に出没した妖怪は「マワラ(馬笑・魔笑)」と呼ばれ、その正体は不明ですが、恐らくその地で死んだ馬の霊だとされています。一説には、日本刀の試し切りに使われた馬の霊とも言われますが、日本には動物を試し切りに使ったとする正式な記録は残されていません。
    余談ですが、江戸時代以前は人体を用いた試し切りの記録があり、また江戸時代にも罪人の死体を用いていたとの記録があります。ヨーロッパでは動物を試し切りに用いていた歴史がありますが、日本でも古代にはあったのかもしれません。

  • 城山稲荷神社<br />明治時代の文豪 小泉八雲は松江を「神々の国の首都」と命名しました。八雲が書いた「松江の七不思議」には松江城にまつわる話もあります。松江城内にある城山稲荷神社に伝わる話ですが、城主 松平直政の枕元に一人の美しい少年が現れました。少年は「私は全ての災厄からお守りする稲荷真左衛門と申します。もし城内に私が住む所を作ってもらえるならば、城内にある建物は勿論、江戸のお屋敷まで火事からお守りします」と告げて消えました。それにあやかって直政が城内に建てたのが稲荷神社でした。<br />こうした伝承から稲荷神社の神札は火難除けとしてどの家にも貼られていたようで、八雲もこの神札を「松江の唯一の防火設備」と紹介しています。一枚の紙きれが魔除けになる。そんな日本人の信仰心は、八雲には衝撃的だったようです。<br />松江では今でも、枕元に立った美少年が城や城下町を守っているに違いないと信じられているようです。

    城山稲荷神社
    明治時代の文豪 小泉八雲は松江を「神々の国の首都」と命名しました。八雲が書いた「松江の七不思議」には松江城にまつわる話もあります。 松江城内にある城山稲荷神社に伝わる話ですが、城主 松平直政の枕元に一人の美しい少年が現れました。少年は「私は全ての災厄からお守りする稲荷真左衛門と申します。もし城内に私が住む所を作ってもらえるならば、城内にある建物は勿論、江戸のお屋敷まで火事からお守りします」と告げて消えました。それにあやかって直政が城内に建てたのが稲荷神社でした。
    こうした伝承から稲荷神社の神札は火難除けとしてどの家にも貼られていたようで、八雲もこの神札を「松江の唯一の防火設備」と紹介しています。一枚の紙きれが魔除けになる。そんな日本人の信仰心は、八雲には衝撃的だったようです。
    松江では今でも、枕元に立った美少年が城や城下町を守っているに違いないと信じられているようです。

  • 城山稲荷神社<br />松平直政が松江藩出雲隠岐両国の守護神として祀ったのが城山稲荷神社です。小泉八雲は、通勤途中に通りかかる城山稲荷神社をいたく気に入り、しばしば訪れたそうです。往時は2千体以上もあった石狐に興味を持ち、特に隋神門前の一対の耳が欠けたキツネがお気に入りだったようです。八雲が愛したキツネは、傷みが激しいため場所を移され、2代目の石狐が出迎えてくれます。こちらも耳が欠けています。

    城山稲荷神社
    松平直政が松江藩出雲隠岐両国の守護神として祀ったのが城山稲荷神社です。 小泉八雲は、通勤途中に通りかかる城山稲荷神社をいたく気に入り、しばしば訪れたそうです。 往時は2千体以上もあった石狐に興味を持ち、特に隋神門前の一対の耳が欠けたキツネがお気に入りだったようです。八雲が愛したキツネは、傷みが激しいため場所を移され、2代目の石狐が出迎えてくれます。こちらも耳が欠けています。

  • 城山稲荷神社<br />2月3日は節分でしたが、節分と言えば売れ残りの廃棄処分が問題となっている「恵方巻」です。<br />恵方巻は大阪の海苔問屋が広めた風習ですが、海苔問屋では堀尾吉晴を恵方巻の元祖としています。「恵方巻は、戦国時代の武将 堀尾吉晴が、節分の日に丸かぶりをして出陣したら戦に勝ったので、以後瑞祥としたことに端を発す」とあります。実は、吉晴は賤ヶ岳の戦いの際、秀吉に命じられて握り飯などの兵糧を支度しており、その後独断で戦線を離脱して出陣し大勝利をおさめています。吉晴は大阪では『太閤記』の講談にも登場しており、講釈師が吉晴と恵方巻を広めたのかもしれません。

    城山稲荷神社
    2月3日は節分でしたが、節分と言えば売れ残りの廃棄処分が問題となっている「恵方巻」です。
    恵方巻は大阪の海苔問屋が広めた風習ですが、海苔問屋では堀尾吉晴を恵方巻の元祖としています。「恵方巻は、戦国時代の武将 堀尾吉晴が、節分の日に丸かぶりをして出陣したら戦に勝ったので、以後瑞祥としたことに端を発す」とあります。実は、吉晴は賤ヶ岳の戦いの際、秀吉に命じられて握り飯などの兵糧を支度しており、その後独断で戦線を離脱して出陣し大勝利をおさめています。吉晴は大阪では『太閤記』の講談にも登場しており、講釈師が吉晴と恵方巻を広めたのかもしれません。

  • 城山稲荷神社<br />恵方巻は安倍晴明が陰陽道で定めた「恵方」を向いて食べることから、吉晴は呪術に造詣が深そうです。また、吉晴は、松江城築城の際も鬼門封じの寺社として千手院・華蔵寺・普門院を建て、荒神を鎮めるための「祈祷櫓」も建てていました。<br />吉晴のルーツを調べてみると、奈良時代の左大臣であり陰陽道の呪術に長けた長屋王の末裔です。長屋王は「長屋王の変」で知られ、密告により邸宅を囲まれ、聖武天皇の命により妻子と共に自刃した高市皇子の第1皇子です。藤原氏陰謀の犠牲となったとするのが定説であり、その罪状は「陰陽道を駆使して時の天皇とその近臣を呪った」というものでした。

    城山稲荷神社
    恵方巻は安倍晴明が陰陽道で定めた「恵方」を向いて食べることから、吉晴は呪術に造詣が深そうです。また、吉晴は、松江城築城の際も鬼門封じの寺社として千手院・華蔵寺・普門院を建て、荒神を鎮めるための「祈祷櫓」も建てていました。
    吉晴のルーツを調べてみると、奈良時代の左大臣であり陰陽道の呪術に長けた長屋王の末裔です。長屋王は「長屋王の変」で知られ、密告により邸宅を囲まれ、聖武天皇の命により妻子と共に自刃した高市皇子の第1皇子です。藤原氏陰謀の犠牲となったとするのが定説であり、その罪状は「陰陽道を駆使して時の天皇とその近臣を呪った」というものでした。

  • 松江歴史館<br />ここからは、「もうひとつの松江城下町」のレポをお届けいたします。<br />松江城も魅了的なのですが、それにも増して思いを寄せている所がありました。そんな訳で主人とは別行動にし、「松江堀川地ビール館」からタクシーを飛ばして向かったのが松江歴史館です。<br />松江城の畔、武家屋敷風の構えで建つのが松江歴史館です。松江の歴史と文化を判り易く紹介しています。更に、各種の歴史体験イベントを開催する他、天守を借景にした日本庭園や伝利休茶室、家老長屋を備えています。今回は、時間の都合で歴史館の見学は叶いませんでした。

    松江歴史館
    ここからは、「もうひとつの松江城下町」のレポをお届けいたします。
    松江城も魅了的なのですが、それにも増して思いを寄せている所がありました。そんな訳で主人とは別行動にし、「松江堀川地ビール館」からタクシーを飛ばして向かったのが松江歴史館です。
    松江城の畔、武家屋敷風の構えで建つのが松江歴史館です。松江の歴史と文化を判り易く紹介しています。更に、各種の歴史体験イベントを開催する他、天守を借景にした日本庭園や伝利休茶室、家老長屋を備えています。今回は、時間の都合で歴史館の見学は叶いませんでした。

  • 松江歴史館 鼕宮(どうみや)<br />長屋門に足を踏み入れると、毎年10月の第3日曜日に行われる松江の伝統行事「鼕行列」に使用される太鼓と参加者が着る法被が展示されています。出雲地方では太鼓のことを鼕と呼び、鼕宮(鼕台)は、歳徳神の宮の仮宮として白木社造りの宮宿を模して造られ、その正面には歳徳神額を掲げます。1607年に堀尾吉晴により松江が開府されたのを祝う秋の風物詩として親しまれています。<br />平安時代から京都で行われていた正月行事「左義長(さぎちょう)」を起源とし、松江では江戸時代を通して「左義長」「とんど」と称して行われていました。「鼕行列」では、松江城大手前に直径4尺(1.2m)~6尺(1.8m)の鼕太鼓を 2~3台載せた鼕山車屋台が15~6台集合し、その後、市中に繰り出して勇壮な鼕の音を轟かせます。

    松江歴史館 鼕宮(どうみや)
    長屋門に足を踏み入れると、毎年10月の第3日曜日に行われる松江の伝統行事「鼕行列」に使用される太鼓と参加者が着る法被が展示されています。出雲地方では太鼓のことを鼕と呼び、鼕宮(鼕台)は、歳徳神の宮の仮宮として白木社造りの宮宿を模して造られ、その正面には歳徳神額を掲げます。1607年に堀尾吉晴により松江が開府されたのを祝う秋の風物詩として親しまれています。
    平安時代から京都で行われていた正月行事「左義長(さぎちょう)」を起源とし、松江では江戸時代を通して「左義長」「とんど」と称して行われていました。「鼕行列」では、松江城大手前に直径4尺(1.2m)~6尺(1.8m)の鼕太鼓を 2~3台載せた鼕山車屋台が15~6台集合し、その後、市中に繰り出して勇壮な鼕の音を轟かせます。

  • 松江歴史館 歳徳神(としとくのかみ)の宮(神輿)<br />天保年間(1830~44年)に制作されたものです。<br />歳徳神とは、集落毎に祀られる歳神です。家毎に迎える歳神と共に、集落 でも歳徳神が祀られ、正月にその祭りが行われることが出雲地方から伯耆西部地方の特徴とされます。正月の間、鼕(どう)を叩き、正月の終わりには歳徳神の宮を担いで練り歩き、歌い、踊り、仮装まで登場する賑わいの後、「とんど焼き」で締め括ります。記録上、歳徳神祭は、1730 年代頃には何らかの形で始まっていたと考えられています。<br />歳神とは、<br />1.正月になると日の出と共に各家庭へやってくる来訪神 。<br />2.収穫や実りをもたらし五穀豊穣を司る田の神、稲の神とも言われる穀物神 。<br />3.家を守る守り神であり先祖の霊である祖霊 。<br />4.その年に歳神がいるとされる方角を縁起の良い「恵方」といい、毎年の福や徳を司る恵方神です 。日本神話では素戔嗚尊と神大市比売(カムオオイチヒメ) の間に生まれた大年神 (オオトシノカミ) とされます 。<br />5.陰陽道では娑謁羅竜王 (シャカラリュウオウ) の娘であり、牛頭天王の妻 頗梨采女(ハリサイジョ)が毎年元旦に来訪する歳神とされます。 <br />これらを一柱の神として信仰し、その年の幸運、五穀豊穣を祈願するためお正月の飾り付けをして迎えます。

    松江歴史館 歳徳神(としとくのかみ)の宮(神輿)
    天保年間(1830~44年)に制作されたものです。
    歳徳神とは、集落毎に祀られる歳神です。家毎に迎える歳神と共に、集落 でも歳徳神が祀られ、正月にその祭りが行われることが出雲地方から伯耆西部地方の特徴とされます。正月の間、鼕(どう)を叩き、正月の終わりには歳徳神の宮を担いで練り歩き、歌い、踊り、仮装まで登場する賑わいの後、「とんど焼き」で締め括ります。記録上、歳徳神祭は、1730 年代頃には何らかの形で始まっていたと考えられています。
    歳神とは、
    1.正月になると日の出と共に各家庭へやってくる来訪神 。
    2.収穫や実りをもたらし五穀豊穣を司る田の神、稲の神とも言われる穀物神 。
    3.家を守る守り神であり先祖の霊である祖霊 。
    4.その年に歳神がいるとされる方角を縁起の良い「恵方」といい、毎年の福や徳を司る恵方神です 。日本神話では素戔嗚尊と神大市比売(カムオオイチヒメ) の間に生まれた大年神 (オオトシノカミ) とされます 。
    5.陰陽道では娑謁羅竜王 (シャカラリュウオウ) の娘であり、牛頭天王の妻 頗梨采女(ハリサイジョ)が毎年元旦に来訪する歳神とされます。
    これらを一柱の神として信仰し、その年の幸運、五穀豊穣を祈願するためお正月の飾り付けをして迎えます。

  • 茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「はさみ菊」(伊丹二夫作)<br />上生菓子の中でも高度な技術を要するものの一つに「はさみ菊」があり、「練り切り餡」という和菓子の素材で作ります。<br />和菓子専用の先の細く尖った細工鋏を使って花びらを一枚ずつ刻んで仕上げます。<br />食べてしまうことに躊躇してしまうほど、繊細な技術が凝縮された和菓子です。

    茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「はさみ菊」(伊丹二夫作)
    上生菓子の中でも高度な技術を要するものの一つに「はさみ菊」があり、「練り切り餡」という和菓子の素材で作ります。
    和菓子専用の先の細く尖った細工鋏を使って花びらを一枚ずつ刻んで仕上げます。
    食べてしまうことに躊躇してしまうほど、繊細な技術が凝縮された和菓子です。

  • 茶房「喫茶 きはる」雲州庭園<br />松江歴史館の無料スペース内にある、創作松江和菓子の菓子バーを備えた茶房です。<br />水の都 松江は、京都や金沢と並ぶ「和菓子処」であり、街中を散策すると随所に和菓子屋さんを目にします。松江 風流堂の「山川」は新潟長岡 大和屋の「越乃雪」や金沢 森八の「長生殿」と並んで日本三大銘菓に数えられ、その他にも大名茶人 松平治郷(はるさと)好みの伝統和菓子などが今に伝わります。なかでも上生菓子は、職人の技と美意識、感性が注ぎ込まれた目と舌で味わえるアートです。

    茶房「喫茶 きはる」雲州庭園
    松江歴史館の無料スペース内にある、創作松江和菓子の菓子バーを備えた茶房です。
    水の都 松江は、京都や金沢と並ぶ「和菓子処」であり、街中を散策すると随所に和菓子屋さんを目にします。松江 風流堂の「山川」は新潟長岡 大和屋の「越乃雪」や金沢 森八の「長生殿」と並んで日本三大銘菓に数えられ、その他にも大名茶人 松平治郷(はるさと)好みの伝統和菓子などが今に伝わります。なかでも上生菓子は、職人の技と美意識、感性が注ぎ込まれた目と舌で味わえるアートです。

  • 茶房「喫茶 きはる」雲州庭園<br />復原長屋の甍越しに聳える天守を借景とした、約百坪の枯山水による日本庭園です。<br />雲州(出雲国)様式に従い、景色の中心となる正真木に黒松を据え、その周囲に飛び石や板を2枚並べたような形の短冊石を配しています。黒松は幹がどっしりとしたものを据え、葉を短く端正な姿に剪定しているのが特徴です。また、飛び石は、地面からの高さを6~9cm高くしています。これは、出雲の風土に合わせ、雨や雪の時にも歩き易くするための知恵とされます。<br />右手にある珠光型燈籠は、松平治郷の正妻として仙台藩6代藩主 伊達宗村の娘 静姫(静楽院)が輿入れの際、婚礼品のひとつとして仙台から運ばれた燈籠を模したものです。その手前にある手水鉢は、祝儀品を運ぶ船の重り石から造られたと伝わります。また、中央奥の濡鷺型燈籠と左手の太平型燈籠は、出雲独特の形をしており、松江特産の来待石で造られています。<br />雲州庭園にはこのように石燈籠が沢山据えられているのが特徴ですが、それには理由があります。江戸時代、松江では武士から庶民まで茶会を愉しんでおりました。そのために多くの茶室が建てられ、その周りに茶庭が造営され、そこには「夜会」用の照明や添景として、出雲特産の来待石や波多御影石を加工した石燈籠が配されたと考えられています。

    茶房「喫茶 きはる」雲州庭園
    復原長屋の甍越しに聳える天守を借景とした、約百坪の枯山水による日本庭園です。
    雲州(出雲国)様式に従い、景色の中心となる正真木に黒松を据え、その周囲に飛び石や板を2枚並べたような形の短冊石を配しています。黒松は幹がどっしりとしたものを据え、葉を短く端正な姿に剪定しているのが特徴です。また、飛び石は、地面からの高さを6~9cm高くしています。これは、出雲の風土に合わせ、雨や雪の時にも歩き易くするための知恵とされます。
    右手にある珠光型燈籠は、松平治郷の正妻として仙台藩6代藩主 伊達宗村の娘 静姫(静楽院)が輿入れの際、婚礼品のひとつとして仙台から運ばれた燈籠を模したものです。その手前にある手水鉢は、祝儀品を運ぶ船の重り石から造られたと伝わります。また、中央奥の濡鷺型燈籠と左手の太平型燈籠は、出雲独特の形をしており、松江特産の来待石で造られています。
    雲州庭園にはこのように石燈籠が沢山据えられているのが特徴ですが、それには理由があります。江戸時代、松江では武士から庶民まで茶会を愉しんでおりました。そのために多くの茶室が建てられ、その周りに茶庭が造営され、そこには「夜会」用の照明や添景として、出雲特産の来待石や波多御影石を加工した石燈籠が配されたと考えられています。

  • 茶房「喫茶 きはる」雲州庭園<br />松江は古くから茶の湯文化が根付いた町であり、作法に拘らずにお抹茶を日常的にたしなむ風習が定着しています。この風習は、江戸時代の松江藩松平家7代藩主 松平治郷(不昧)が広めたと言われています。不昧は江戸後期を代表する大名茶人で、「不昧流」と呼ばれる茶道観を確立しました。

    茶房「喫茶 きはる」雲州庭園
    松江は古くから茶の湯文化が根付いた町であり、作法に拘らずにお抹茶を日常的にたしなむ風習が定着しています。この風習は、江戸時代の松江藩松平家7代藩主 松平治郷(不昧)が広めたと言われています。不昧は江戸後期を代表する大名茶人で、「不昧流」と呼ばれる茶道観を確立しました。

  • 茶房「喫茶 きはる」雲州庭園<br />菓子処松江の和菓子文化は、松平不昧が茶の湯文化を広めたのと共に和菓子処としても名を馳せるようになりました。その技能を伝承しているのが、「現代の名工」と称される伊丹二夫氏(松江和菓子研究家)です。「喫茶 きはる」では、伊丹氏が目の前で創る季節の和菓子をいただくことができます。<br />伊丹氏は、16歳から和菓子づくりを始めて60余年の名匠です。出雲国三栄堂で和菓子職人の人生をスタートさせた後、彩雲堂に入社。彩雲堂では、数々の独創的な創作和菓子を発表して人気を博しました。そして彩雲堂の相談役を経て、2011年に独立されました。現在は和菓子づくりの後継者を養成するため、全国の同業者から招聘されて講師を務める傍ら、茶房「喫茶 きはる」にて、高度な手業による芸術品と評される創作和菓子の実演販売を行っています。<br />・黄綬褒章受章<br />・厚生労働大臣賞「現代の名工」受賞<br />・フードマスター<br />・農林水産大臣賞受賞

    茶房「喫茶 きはる」雲州庭園
    菓子処松江の和菓子文化は、松平不昧が茶の湯文化を広めたのと共に和菓子処としても名を馳せるようになりました。その技能を伝承しているのが、「現代の名工」と称される伊丹二夫氏(松江和菓子研究家)です。「喫茶 きはる」では、伊丹氏が目の前で創る季節の和菓子をいただくことができます。
    伊丹氏は、16歳から和菓子づくりを始めて60余年の名匠です。出雲国三栄堂で和菓子職人の人生をスタートさせた後、彩雲堂に入社。彩雲堂では、数々の独創的な創作和菓子を発表して人気を博しました。そして彩雲堂の相談役を経て、2011年に独立されました。現在は和菓子づくりの後継者を養成するため、全国の同業者から招聘されて講師を務める傍ら、茶房「喫茶 きはる」にて、高度な手業による芸術品と評される創作和菓子の実演販売を行っています。
    ・黄綬褒章受章
    ・厚生労働大臣賞「現代の名工」受賞
    ・フードマスター
    ・農林水産大臣賞受賞

  • 茶房「喫茶 きはる」雲州庭園<br />18世紀の松江を治めた松平治郷は、18歳で茶道、19歳で禅の道に入門し、この時に授かった名前が「不昧」です。この頃、松江藩はすでに破綻し、潰れかけていました。そこで不昧は家老と共に倹約と藩政改革に乗り出し、高い商品価値のある高麗人参や楮(こうぞ=和紙の原料)の栽培で収入を得ることで松江藩の財政を立て直しました。<br />類い希なる美的センスも持ち、多くの茶道具を購入しては自ら査定し、研究成果を残す程茶道にのめり込みました。茶人として名声を残した不昧は、隠居後も茶の湯三昧の日々を送り、「不昧流」を大成させました。これにより、不昧の文化人としての多様な功績を目の当りにした松江に、茶の湯文化が深く根付いたのです。

    茶房「喫茶 きはる」雲州庭園
    18世紀の松江を治めた松平治郷は、18歳で茶道、19歳で禅の道に入門し、この時に授かった名前が「不昧」です。この頃、松江藩はすでに破綻し、潰れかけていました。そこで不昧は家老と共に倹約と藩政改革に乗り出し、高い商品価値のある高麗人参や楮(こうぞ=和紙の原料)の栽培で収入を得ることで松江藩の財政を立て直しました。
    類い希なる美的センスも持ち、多くの茶道具を購入しては自ら査定し、研究成果を残す程茶道にのめり込みました。茶人として名声を残した不昧は、隠居後も茶の湯三昧の日々を送り、「不昧流」を大成させました。これにより、不昧の文化人としての多様な功績を目の当りにした松江に、茶の湯文化が深く根付いたのです。

  • 茶房「喫茶 きはる」<br />雲州庭園に臨む茶房の一角に身を置き、一服のお茶と名匠がつくった和菓子を堪能しました。<br />和菓子は五感で愉しむものとされますが、「季節の和菓子」はその季節が訪れる少し前にいただくものだそうです。つまり「季節の和菓子」は、密かに忍び寄る季節をそれとなく知らせる役目を果たしています。<br />五感を研ぎ澄まして深く感じ入ることは、日常では得られない体験です。旧き佳き日本文化が希薄になりつつある現代社会において、茶の湯の世界は、日本人本来の心得を育み、また時には癒しともなる貴重な文化であることをこの旅を通じて学べました。

    茶房「喫茶 きはる」
    雲州庭園に臨む茶房の一角に身を置き、一服のお茶と名匠がつくった和菓子を堪能しました。
    和菓子は五感で愉しむものとされますが、「季節の和菓子」はその季節が訪れる少し前にいただくものだそうです。つまり「季節の和菓子」は、密かに忍び寄る季節をそれとなく知らせる役目を果たしています。
    五感を研ぎ澄まして深く感じ入ることは、日常では得られない体験です。旧き佳き日本文化が希薄になりつつある現代社会において、茶の湯の世界は、日本人本来の心得を育み、また時には癒しともなる貴重な文化であることをこの旅を通じて学べました。

  • 茶房「喫茶 きはる」<br />季節限定の「バレンタイン」と名付けられた和菓子をオーダーしました。<br />とてもハートフルなお味でした。<br />お抹茶とセットで800円です。場所代と名匠のハンドメイドを考えれば、超お得です!

    茶房「喫茶 きはる」
    季節限定の「バレンタイン」と名付けられた和菓子をオーダーしました。
    とてもハートフルなお味でした。
    お抹茶とセットで800円です。場所代と名匠のハンドメイドを考えれば、超お得です!

  • 茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「万紫千紅」(伊丹二夫作)<br />「万紫千紅」とは、多彩な色の花が咲いている様子や多彩な色合いを表現する言葉です。<br />牡丹も椿の花も、お菓子でできているとは思えない見事なでき栄えです。<br />

    茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「万紫千紅」(伊丹二夫作)
    「万紫千紅」とは、多彩な色の花が咲いている様子や多彩な色合いを表現する言葉です。
    牡丹も椿の花も、お菓子でできているとは思えない見事なでき栄えです。

  • 茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「瑞翔」(伊丹二夫作)<br />松江は、お茶の消費量は全国平均の5倍あり、茶の産地以外では異例の消費量です。また、松江の特徴として、家庭でお抹茶を愉しむ習慣があり、朝や3時のお茶にもカジュアルにお抹茶を愉しみます。また、会社ではお抹茶を出すところも珍しくありません。毎年10月に開催される「松江城大茶会」は、松江市 の一大イベントで、京都市「二条市民大茶会」や金沢市「兼六園大茶会」と共に、日本三大茶会のひとつに数えられています。<br />学校教育においても茶の湯が実践され、日本茶と和菓子の伝統文化を育もうという姿勢が見受けられます。子どもたちが茶の湯に親しむことは、文化や故郷愛へと繋がるだけでなく、世界に誇る日本人としての心得を学ぶ場にもなり、これからの教育のあり方の一つの方向性として注目すべき点と思います。

    茶房「喫茶 きはる」工芸菓子「瑞翔」(伊丹二夫作)
    松江は、お茶の消費量は全国平均の5倍あり、茶の産地以外では異例の消費量です。また、松江の特徴として、家庭でお抹茶を愉しむ習慣があり、朝や3時のお茶にもカジュアルにお抹茶を愉しみます。また、会社ではお抹茶を出すところも珍しくありません。毎年10月に開催される「松江城大茶会」は、松江市 の一大イベントで、京都市「二条市民大茶会」や金沢市「兼六園大茶会」と共に、日本三大茶会のひとつに数えられています。
    学校教育においても茶の湯が実践され、日本茶と和菓子の伝統文化を育もうという姿勢が見受けられます。子どもたちが茶の湯に親しむことは、文化や故郷愛へと繋がるだけでなく、世界に誇る日本人としての心得を学ぶ場にもなり、これからの教育のあり方の一つの方向性として注目すべき点と思います。

  • 松江歴史館 松江城<br />こちらはお菓子ではなく、3万個弱のレゴブロックで精巧に作られた松江城です。<br />高さ約1m、幅約90cm、実物の30分の1のスケールです。<br />松江市「松江開府400年祭推進協議会」と、同市の一般参加イベント「レゴ(R)ブロックで創る、50年後の城下町松江」の企画の一環として2011年に制作されました。レゴ社が認定するアジア唯一の「レゴ・モデルビルダー」の直江和由氏が2ヶ月掛けて制作した力作です。<br />天守閣の最上部が少々小振りに感じられるのは、本物の城を下から見上げた時のイメージを再現しているからだそうです。<br /><br />この続きは、萬福笑來 山陽・山陰紀行⑨大根島 由志園でお届けします。

    松江歴史館 松江城
    こちらはお菓子ではなく、3万個弱のレゴブロックで精巧に作られた松江城です。
    高さ約1m、幅約90cm、実物の30分の1のスケールです。
    松江市「松江開府400年祭推進協議会」と、同市の一般参加イベント「レゴ(R)ブロックで創る、50年後の城下町松江」の企画の一環として2011年に制作されました。レゴ社が認定するアジア唯一の「レゴ・モデルビルダー」の直江和由氏が2ヶ月掛けて制作した力作です。
    天守閣の最上部が少々小振りに感じられるのは、本物の城を下から見上げた時のイメージを再現しているからだそうです。

    この続きは、萬福笑來 山陽・山陰紀行⑨大根島 由志園でお届けします。

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