2018/10/16 - 2018/10/19
2551位(同エリア11698件中)
明石DSさん
今日が旅のメーンの日、幸い雨ではない
日本人の街だった虹口(ホンキュウ)を歩き回る
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2日目:10月17日(水):晴れ
外灘から虹口を歩く
2018.平成30年10月17日(水)
■今日が上海旅行のメーンになる!
窓のカーテンを開けたら薄雲があるが天気晴朗なり!来る10日ほど前から上海の天気予報を時々チェックして一喜一憂だった。最初は雨が多かったが、その日が近づくにつれて晴れの可能性が高くなり、直前は当日が「一時雨」の天気予報で、その通り昨日は雨が少し降った。
しかし今日は予報通りの晴れで、明日からも晴れが続くはずだ。今回は「歩きまわる」覚悟の上海なので天気が大きく左右する。バスタブはないので熱めのシャワーで目を覚まし、服を着替えて朝食へ向かう。
部屋を出る時、ハワイでの失敗をまたやらかしてしまった。「掃除お願い」の紙札を「部屋に入るな」を表向けてドアノブに掛けてしまっていた。戻って来てガックリだったけど直ぐに綺麗にしてくれた。バスタオルも当たり前だろうが新しく二枚、サービスの水も新たに一本。歯ブラシの類も二人分。
6時半からの朝食バイキングは一階。カードキーでチェックをされる。まだ二、三人だけだった。三泊したが白人客が多かった。一回¥68元≒¥1,224円の朝食は私の感覚では値段相応だった。「お粥」と「焼きそば」ベーコンその他を食べる。
食べ終わり部屋に戻って準備を整え、さあ出発と気合を入れる。今日は相当歩くつもりだが・・・歩く距離想像できず。最後魯迅公園そばの地下鉄「虹口足球場站」からは電車で帰るつもりで出発だ。
- 旅行の満足度
- 5.0
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見た目もオシャレな朝食バイキング
白人客が多いホテルだからなのか? -
お粥で腹ごしらえ
お粥は二杯食べる -
ホテル前の延安東路に架かる歩道橋を越えて北へ
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■まずは外灘を目指して
午前7時45分ホテル出発、ホテル前の路上駐車場?にいつもそこそこの高級車が止まっている。日本車の有無がいつも気になる。そこそこある。
ホテル北側に延安東路の広い幹線が東西に延びている。それに歩道橋が架かっておりその歩道橋を上って北へと歩く。福建中路から右折で広東路、山東中路から昭通路へと歩いた。こういった路地を歩けば古めかしい建物が並び、昔は花街だったというこの辺りの雰囲気も朝だったがなんとなく感じた。
朝の8時前、学生はもう学校に行っているのか見掛けず。通勤だろう人が多く歩いていた。朝飯なのか弁当なのか?所々で人気の「包子(豚饅)」店前(昭通路)に行列が。路地を巡りながら福州路に出た。昨日の夕方に歩いた道で「工部局」の前を通る。
福州路から四川中路に入り東に歩く。この辺には「上海優秀歴史建築」の銘板が貼られた建物がアチコチにある。1900年代前半に竣工のビルが当時のままの姿で使われている。この時間道路には通勤の電動バイクが三、四列縦隊くらいで道路を占拠し走っている。
上海のバイクは日本の原付バイクではなく、電動バイクのようだ。免許も不要、税金もなし、自転車と同じとのこと。見た目も大きさも日本の原付と変わらず。ほとんどがノーヘルで走っている。
?筏池路(Di?・nch?・ l?・ ディエンチィルゥ)の角に写真を撮りたくなる赤レンガで凝った造りの建物があった。上海開港当初からの商会「仁記洋行」、1908年竣工の建物。110年が経った今、外観こそあまり変わってないようだが激動の時代を越えて中味は激変だろう。
?筏池路から外灘隊道(中山東一路)に出た。今日は一体どれだけ歩くのか?“オジン”の足は持つのか?と。外灘隊道を渡って公衆トイレに入る。
習近平が2015年「トイレ革命」を掲げたのは聞いていたので入ってみた。さすが代表的観光地なので問題なかった。地方もこうであるとは思えないが。 -
福建中路から右折で広東路から山東中路へ
上海の昔名残を感じる街並みを歩く -
朝食なのか?弁当なのか?
朝から行列の出来る「包子(豚饅)」店 -
「包子(パオズ)と「饅頭(マントウ)」の違い
中に具を包んでいるものを「包子」といい
中に具のないものを「饅頭」と言う -
今では「工部局」も目立たない建物だけど
その昔、租界時代上海を牛耳る
外国人の権威の象徴だった -
上海「朝の通勤風景」
日本では原付だが 上海では電動バイク
免許不要、ノーヘル、日本の電動自転車と同じ感覚のようだ
「電動バイク(中国の電動車/2016年~)」
http://shannon-wakky.hatenablog.com/entry/2016/05/25/002144 -
租界時代を経て、今の上海にまだまだ残る古き洋館
「優秀歴史建築」の銘板が貼られた建物がアチコチに -
1908年竣工の英国式建築
1905/明治38年日露戦争勝利の3年後にこの地に建った
「仁?洋行」
https://www65.atwiki.jp/youxiujianzhu/pages/112.html -
午前8時16分 外灘に到着
すでに観光客であろう「赤い帽子の一団」がいた
大陸の各所からお上りさんの如く上海詣で
昔も今も将来も変わらぬは人の心と行動なり -
外灘隊道から北を見る
正面に茶色のビル:上海大厦がある
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■黄浦公園から外白渡橋へ
外灘の「①黄浦公園」に租界時代「犬と支那人は入るべからず」との注意書きがあったかのように言われているが、それはずっと後からの作り話のようだ。
『1917年の公園の注意書きは、1番目「この公園は外国人が利用するためのものである」、4番目「犬と自転車は禁止する」というものだった』・・・どっちにしろ中味は同じだが。
近年に何度も起きた反日騒動では「犬と日本人は入るな」という看板や横断幕が中国各地の店や車に掲げられた。支○○鮮人はいつの世も日本と日本人を貶めることで自らを慰める哀れな民族だ。
そして「②外白渡橋(がいはくときょう)」
「ウィルズ橋 (1856年-1871年)」「2代目ウィルズ橋 (1871年-1873年)」
「蘇州河橋 (初代・外白渡橋:Garden Bridge:1873年-1907年)」
「2代目・外白渡橋 (1907年-現在)」
1862年5月(文久二年)に千歳丸で高杉晋作たちが上海を来るより早く江戸幕府は、1862年(文久元年)に「文久遣欧使節」総勢36名(福沢諭吉も)を欧州に送っている。『ウィキペディア(Wikipedia)』にその時の写真が掲載されているが堂々たる羽織袴で太刀を持ち武士の本懐ここにありという姿だ。
『姿は奇異に見られたが態度振る舞いは感心された』ようだが、さもありなん。欧州人たちが初めて見る武士達は、丁髷姿で例え背は低かろうが凛々しい立ち居振る舞いに驚いたと思う。
上海に来た武士たちも同じだったろう。高杉が来た時は、この呉淞江に架かる橋は外白渡橋ではなく「初代ウィルズ橋」だった。
1907/明治40年に架けられ現在に至る「外白渡橋」は、上海の歴史の変遷を目の当たりにして来た。第一次、二次上海事変では多くの避難民が外国租界に逃げ込もうとこの橋に殺到している。その後1945/昭和20年日本の敗戦まで日本軍の管理下に置かれていた。
「ウィキペディア・外白渡橋」には橋を管轄下に置く当時の日本軍哨兵たちの横暴さが列挙されているが、そんなもの白人列強の横暴さに比較すれば可愛い物であり、今と同じではない常識・価値観の下での振るまいだ。
私に我ら先人たちの悪行非道を幾ら羅列しようが先人達への敬意はいささかも減じない。戦火に見舞われる度にこの橋上で多くの群衆が右往左往した。その橋をゆっくり歩いて渡る。
対岸には鉄橋越しに茶色いデッカイビルが聳えている。1934/昭和9年竣工の「④ブロードウェイ・マンション(上海大厦)」
22階建て、昭和14年には日本の金融機関の物となり「児玉機関」も入居していた。1951/昭和26年からホテル上海大厦となっている。 -
1937年の外灘、上海大厦は1934年竣工
竣工3年後の写真、その存在感は今とは違う
上海下町写真館2010
https://blog.goo.ne.jp/haichaolu2010/e/9861fefea9771ca40dafd2319cc77673 -
「上海市人民英雄紀念塔」と「電視塔」
どっちが長くこの世に存在しているのだろうか? -
足跡巡りの軌跡 ①~?まで
①黄浦江公園:午前8時39分
↓
?虹口足球場站:午後3時42分 -
「支那人と犬は入るべからず」・・・ではなかった
黄浦公園の注意書き
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%A6%E5%85%AC%E5%9C%92
1番目「この公園は外国人が利用するためのものである」
4番目「犬と自転車は禁止する」 -
上海租界時代の象徴の一つ「ガーデェン・ブリッジ(外白渡橋)」
橋向うにブロードウェイ・マンション(上海大厦)が聳える -
ウィルズ橋 (1856年-1871年)
高杉上海来訪は1862年だから
当時この橋だったのだろう -
蘇州河橋 (Garden Bridge:初代・外白渡橋:1873年-1907年)
公園の傍だから「ガーデェンブリッジ」と呼ぶ -
1930年代 2代目・外白渡橋 (1907年-現在)
日露戦争勝利(1905)の二年後に架かる -
高杉上海来訪と同じ1862年(文久元年)
江戸幕府は「文久遣欧使節」総勢36名(福沢諭吉も)を欧州に送る。
その写真を見て私も驚いた・・・さぞかし欧州人も驚愕したであろう
日本の武士の晴れ姿に・・・威厳と気骨と知性に溢れる堂々とした姿
使節団の主要メンバー 左から
松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B9%85%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80 -
第一次 二次の上海事変時は避難民が殺到した橋
2018年の今年、この橋は111才の齢を数える -
外白渡(ワイバイドゥ Wàibáidù)は上海語で「無料で渡る」を意味する
橋向こう白い建物が「ロシア領事館」1917年竣工、現在も使用
領事館の後ろが「アスター・ハウス・ホテル(現:浦江飯店)」
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■外白渡橋を渡って日本領事館跡へ
橋上から右前方には「③ロシア領事館」、その後ろには1858年からこの地に建つ「⑤アスター・ハウス・ホテル(現:浦江飯店)」が見える。欧州からの帰途1873/明治6年9月2日朝上海に到着した岩倉使節団の一行が宿泊している。 アインシュタインやチャップリンも投宿した。
左手斜め前方に1922大正11年竣工、鐘楼塔屋の特徴ある上海郵政局の建物が確認できた。昭和20年以降の物は興味がないが、それ以前の建物は何でも気になる。
日本人は明治維新後(1872/明治5年領事館開設)、上海で列強の白人たちと競い合うかのように暮らし、真珠湾攻撃後は上海の共同租界を含む全域を日本の占領下に置いた。 昭和20年8月までの70年間くらい上海は日本人の暮らす街であった。その足跡を訪ねての旅だから、新しい物には興味はない。
世界の列強の中で有色人種国家の大日本帝国臣民が各地で華々しく活躍した。当時の世界の価値観、世界常識の下に頑張った。しかしキリスト教を布教しながら次々と侵略、植民地化し現地人を奴隷扱いで搾取一辺倒に励んだ白人列強国の植民地統治と日本は違う。
日本も行った先々で神社を創建し日本文化を広めようとした。しかし日本が統治支配したのは全て同じ有色人種国であり、そこで日本人は厳然と奴隷扱い出来ず、同化しようとする統治しか出来なかった。
植民地経営はそんな甘いやり方では成り立たず。日本人は過去も今も未来も他民族を冷徹に差別できない。奴隷扱いも出来ない。だから今現在進めている人口減による外国人労働者の受け入れ移民導入は「庇を貸して母屋を取られる」未来に取り返しの付かない禍根を残す。
『上海語で「ワイバイドゥ」は無料で橋を渡ることを意味する。橋の通行料が無料になったことから、橋は「ワイバイドゥ」と呼ばれるようになった』
その外白渡橋をボチボチと歩き、渡り切ってデッカイ茶色の上海大厦(ブロードウェイ マンションズ ホテル)に入った。一階フロアー奥に「日本料理」と案内表記が目についた。外国人向けマンションとして竣工、今は四つ星ホテル。
ロシア領事館→ドイツ領事館(今はない)→米国領事館旧址(現:海鴎飯店)と並ぶ前を通って1911/明治44年竣工の二代目「⑥日本総領事館新館旧址(灰楼)」に午前8時58分到着。
出発から1時間13分経過。「優秀歴史建築:原為(もともと)日本領事館」の銘板が貼ってあった。
残念ながら軍事管理区でゲートで閉ざされ「赤レンガの日本国総領事館(紅楼)」は東側面しか見れず。 -
1922大正11年竣工、鐘楼塔屋の特徴ある上海郵政局
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1922大正11年竣工、鐘楼塔屋の特徴ある上海郵政局
呉淞江(蘇州河)の中央遠くに見える -
ブロードウェイ マンションズ ホテル(上海大厦)
1939/昭和14年 日本の金融機関が購入
児玉機関がフロアを占めていた時代もある -
上海大厦 一階ロビー
一泊¥706元(12600円)から -
「アスター・ハウス・ホテル(現:浦江飯店)」
1873年岩倉使節団の一行が宿泊している
アインシュタインやチャップリンも投宿 -
米国領事館旧址(現:海鴎飯店)
その手前の空き地にドイツ領事館があった
ロシア ドイツ アメリカと領事館が並んでいた -
元アメリカ領事館のすぐ向こうに日本領事館があった
真中の建物が日本総領事館新館旧址
茶色に見えるけど「灰楼」 -
優秀歴史建築に指定されている
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新館の向こう側に旧館(紅楼)がある
1911/明治44年竣工の二代目 -
10月19日 電視塔よりズームで撮影
黄浦江沿いに建つ上海日本領事館旧址
手前が紅楼 灰楼と背中合わせで建つ -
日本領事館旧址
手前灰楼 向こう 紅楼
激動の時代を上海で過ごした日本人
夢あり興奮あり危険あり濃密な人生だったろう -
当時の上海で一流旅館だった「萬歳館」
遠目では今もレンガ造りの洋館だが
なんかゴチャゴチャしてる
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■日本人が暮らした虹口を歩く
武昌路を北へ、大長治路を東に歩いて閔行路との角に1904/明治37年建立「⑦萬歳館」があった。芥川龍之介が逗留し佐藤春夫も宿泊した日本旅館。当時他に「豊陽館」「東和洋行」「常盤館」が一流旅館だった。戦前この地(虹口)は10万人の日本人が暮す実質の日本租界だった。
今の萬歳館は遠目での外観はそのままのようだが、近づけば洗濯干しの竿が窓から無数に突き出し古びた集合住居(分譲アパート)。昔は綺麗な旅館だったろう。エアコン室外機の取り付け工事をやっていた。萬歳館の対面に萬歳館の新館という建物が今も残っている。
閔行路(Mǐnxíng lù)を北西に歩くと呉淞路に出る。ちょっと南に下がって武昌路を西に歩き乍浦路との角にあったはずの「⑧東本願寺別院跡」へ向かった。説明書には『1908年建立、1900年代壊されレストランチェーンの支店が建っている』とあり、その角地の一階店舗跡らしきは閉鎖されたビルが建っていた。西隣は広い更地で建築準備中だった。
武昌路を更に西に歩いて昔は「南京路」「福州路」に次いで賑やかだった四川北路(旧:北四川路)に出たところに1935/昭和10年竣工「⑨日本憲兵隊本部旧址(現:大橋大楼)」が今も堂々たる姿で建っていた。
一階角はファミマ。外壁塗装などメンテナンスはしているのだろうが83年後の今も十分美しい。憲兵隊か・・・今の自衛隊は軍隊にあらず。軍事法廷もない。軍隊軍人なき国など国家ではない。情けない限りだ。
四川北路を北に歩き塘沽路(タングゥルウ:Tánggū lù)を東へ、1931/昭和6年建立の高級アパート。戦中は入居者全員が日本人だった「⑩ピアス・アパート(浦西公寓)」が今もある。最初は7階建てだったが、今は上に二階を増築9階建てになっている。この辺りは、まさに日本だったというのが良く分かる。
ちょっと東に歩くと北側に1886/明治19年フリーメーソンによって開校し、1893/明治26年に工部局に移管されて「⑪工部局女学校中央分校:パブリック・スクール」となった学校の校舎がある。現在の校舎は1895/明治28年竣工の建物、日本占領時代は憲兵隊の派遣隊が置かれた。今は「上海市安装工程有限公司」だが赤レンガ造りの美しい建物はそのままだった。
そしてそのすぐ東に「⑫六・三亭」がある。『日本料亭 月廼屋と並ぶ虹口日本人街の老舗』とあるネット検索すれば沢山の歴史逸話が出てくる。「創業者:白石六三郎」「阿片王:里美甫」等々興味はあるし面白いが切りがない。それくらい逸話が満載だから。
上海の歴史情報満載:詳しい
『秘境 上海情報』:『四川北路の戦い 六三花園のいま』:『ありがとう白石六三郎さん』
日本を飛び出しアジア他世界の各所に日本街を作り、強国と競い抗日とも戦い大活躍していた日本人がいた。満洲でも上海でもフィリピン・インドネシア・グアム・サイパン・パラオ・南洋諸島・ウラジオストクでも・・・。
今は米国の保護を受ける太鼓持ち日本人にも、こんな心躍る躍動的な時代があった。世界の強国が皆覇権を競いあっていた。さもなくば白人世界に隷属するかだった。
何が過去の反省だ!反省も後悔もない。負けて残念なだけだ。真の敗者とは!「戦うべき時に戦わない者」・・・すなわち負け犬根性から抜け出せない今の日本人だ。
戦争を生き残った日本人も団塊の世代も早く消え伏せろ!と叫びながら私は健康に留意している(泣)。
四川北路と呉淞路を挟んでの路地を北へジグザク歩行、また呉淞路を北へちょっと上がって昆山路(クンシャンルゥ:Kūnshān lù)を西へ。上海の日本居留民団旧址を探す。
昆山路を西へ入ると左側に1923/大正12年建立の教会「⑬景林堂」がある。
この教会は宋慶齢(孫文の妻、美麗の妹)の父が一時期牧師を務め宗一族が礼拝に来ていた。この教会の建立は第一上海事変1932年の9年前。
この虹口に暮らす日本人は1930年頃から増え『1936 年(昭11)の統計では、2万3,672 人のうち、商業が7,729 人、公務・自由業が1,495 人だった。』
景林堂の向かいを少し奥に入ったら旧址らしき白壁に1915/大正4年成立「?吴大学法学院旧址」の銘板が貼ってあった。
ガイドブックには「⑭日本居留民団」は1907/明治40年設立、上海歴史ガイドブック(木乃内誠 編集)には「中西書院」→「東呉大学法学院」→「日本居留民団」との変遷が記載されている。たぶんこの建物ではと思う。
日本居留民団 -
窓から突き出した物干し竿が中国の象徴か?
ようわからんけどなんでこうなるの?
日本に中国人が増えてこうなればうんざりだ -
左側「萬歳館」 右側「萬歳館の新館」
正面遠くに上海中心大厦 超高層ビルが見える -
乍浦路との角にあったはずの「東本願寺別院跡」
ここが場所的にそうだと思うけど・・・ -
東本願寺別院跡の横は大きく更地になり
また何かを建てる建設工事の始まりだった -
憲兵隊本部を探していたら
その向こうに特徴ある郵政局の建物があった -
四川北路に残る
1935/昭和10年竣工「日本憲兵隊本部旧址(現:大橋大楼)」
築83年、今も綺麗なビルとして建っていた -
塘沽路(タングゥルウ:Tánggū lù)を東へ歩く
931/昭和6年建立の高級アパート
「ピアス・アパート(浦西公寓)」 -
ピアス・アパート 戦中は入居者全員が日本人
最初は7階建てだったが、今は上に二階を増築9階建て
当時この辺りは、まさに日本人の町だったんだろう -
1886/明治19年フリーメーソンによって開校
1893/明治26年に「工部局女学校中央分校:パブリック・スクール」
今は「上海市安装工程有限公司」 -
「六三亭」跡 1900年開業
『日本料亭 月廼屋と並ぶ虹口日本人街の老舗』
今は高級料亭の面影はなく集合住宅のようだった -
「上海東亜同文書院」の書院生たちは学校のある徐家匯(ジカウエ)から
電車やバスで虹口まで来て三竹と言う食堂で当時20銭くらいの丼物を食べたり
贅沢をして六三亭や月廼屋、東家といった高級料亭で舌鼓を打つこともあった -
塘沽路の一つ北の昆山路(クンシャンルゥ:Kūnshān lù)を西へ
日本居留民団旧址を探しに・・・ -
1923/大正12年建立:教会「景林堂」
この教会は宋三姉妹の父が一時期牧師を務め
宗一族が礼拝に来ていた -
景林堂教会の前に日本居留民団の旧址がある
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日本居留民団は1907/明治40年設立
「中西書院」→「東呉大学法学院」→「日本居留民団」
たぶんこの建物ではと思う? -
呉淞路と武進路との交差点の北東角
『1915/大正4年工部局が建てた「虹口救火会」』
今、虹口消防中隊
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■早目の昼食を食べる
また呉淞路に戻って北進、海寧路に架かる大きな歩道橋から周囲を眺め北に降りそのまま直進。武進路との交差点の北東角に『1915/大正4年工部局が建てた「⑮虹口救火会」』が今もそのままの姿で虹口消防中隊として使われている。写真で見ていた建物に出会えば「あっ、これや」とその都度テンション上がる。
その消防隊の東隣が「中部日本小学校:第四国民学校(現:虹口中学)」だったのを今これを記しながら知る。しかし『サヨナラ、上海中部日本小学校 』によればもう今は解体されているのかも?
http://www.ima-earth.com/contents/entry.php?id=201321711408
消防隊の向かいには、「海軍陸戦隊租界部隊本部」その裏手には「工部局病院」「看護婦宿舎」等々の旧址があったようだ。その他気付かず通り過ぎている日本人に関係する旧跡も山ほどあるに違いない。
当時虹口は日本人の街だったのだから・・・。ガイドブックに記載ある旧跡のごく一部しか確認できないのは仕方がない。
1939/昭和15年頃から虹口の北北東の「五角場」「平昌街」の新市街が日本の「上海恒産株式会社」の「大上海都市計画」によって街づくりが行われている。『建設中の上海新市街』に紹介されている。
http://www.mrfujii.jp/history/02child/shanghai2.htm
ここまで来てまだ11時少し前だったが、休憩を兼ね昼食タイムとする。
武進路を西方向に曲がってすぐに赤レンガ造りの時代を感じる建物があった。「⑯滬北会堂」1924/大正13年建設の教会跡。後に日本のYMCAが借り1933/昭和8年魯迅と内山完造が「ロシア・フランス書籍挿絵展覧会」を開催している。
今は建物左に柵がありそこに「?海??司令部上海招待所」と表記あり。この建物一階の小吃店で昼飯を食べることにした。
一応1998/平成10年長男の上海に留学を機に私も中国語勉強しだして早くも20年今も継続してるが、使える単語も増えず進歩はない。写真なくメニューの漢字表記では未だほとんど分からず。
この店に入った時も、食べていた人の物を指さして「一様的東西・同じ物」と頼んだ。通じなくてもゼスチャーで分かる。
料理が出て来たので「これはどれ?」とメニュー表示を指さしたら「最上的・一番上の」と教えてくれた。「招牌香菇滑鶏?仔飯」という名前の料理。「?仔飯」は土鍋の炊き込みご飯、「香菇」はキノコ。
熱々で味もそれなりに満足。食べ終わって¥20元を払った時に店主の“おっちゃん”が私に「韓国人?日本人?」と聞いて来た。
「日本、リーベン」と答えるとニコッとした。今までの経験で大概聞かれる時は「韓国」が先だ。そして不愛想だった“おっちゃん”の私へのその瞬間の表情で日本に対しての想いが悪くないことを感じる。
中国人も韓国人が嫌いだ。私が行った海外では中国人・韓国人は基本的に皆に嫌われている。無論個々人の間では国は関係なくそれぞれに対しての感情がある。
私の高校社会人を通じてのサッカー部の先輩後輩で長く付き合っている在日韓国朝鮮人は何人もいる。私の中国語老師も在日中国人や留学生ばかり、支○○鮮をこれだけボロカスに書いているが個々人の付き合いは別だ。
反日日本人や性根の腐った日本人など付き合えないが、常識良識ある中国人・南北朝鮮人とは人と人として普通に付き合える。
でも相手には「嘘捏造を世界に吹聴し日本を貶めている反日国家やその国民が好きな訳がない。でも日本人の足跡を訪ねたり面白いから行く」と知り合いの中国人には言っている。
韓国には一度行ったけど二度と行く気はしない。私が南北朝鮮を大嫌いなのも友人知人の在日も了解している。しかし歴史問題や政治問題は向こうから話題にしない限りあえてこちらから話さない。真実はこちらにあるから。
何故?帰化しないのか?と思うが、やはりいろな事情と日本政府の特別永住制度のような悪法が彼らをしていつまでも覚悟無き中途半端な立場に置いているのだ。
乍浦路(ジャアプゥルウ:Zhàpǔ lù)を南に進むと左手に「⑰常盤館」がある。当時の写真が見つからず、どの程度メンテナンスしているのか分からないが、ホテル「?嘉?店」として使われているようだ。
鴻嘉飯店(常盤館)に宿泊した「日本人のブログ」がある。
http://be1be2be3.blog.fc2.com/?cat=5 -
武進路:赤レンガ造り「滬北会堂」1924/大正13年建設の教会跡
1933/昭和8年魯迅と内山完造が「ロシア・フランス書籍挿絵展覧会」を開催
一階左端「面?仔飯(Miàn bāo zǐ fàn)」の小吃店で昼食 -
建物左に柵あり「?海??司令部上海招待所」と表記
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メニューの漢字表記を見ても料理が想像できない
頼んだのは「最上的・一番上の」
招牌香菇滑鶏?仔飯:20元 -
横にいた人が食べてるのを指さして
同じものを頼む
「招牌香菇滑鶏?仔飯」20元(360円)・・・だった
「?仔飯」は土鍋の炊き込みご飯、「香菇」はキノコ -
小さな店
味はまずくはない、うまくもない
日本で食べる食べ物が美味い -
この“おっちゃん”が聞いて来た
「韓国?or日本?」
日本(リーベン)と言うとニッコリした -
乍浦路(ジャアプゥルウ:Zhàpǔ lù)を南に歩く
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「常盤館」
当時上海の一流旅館
「常盤館」「豊陽館」「東和洋行」「萬歳館」
この時は写真を撮っただけで常盤館とは知らず
帰国後 この建物が常盤館と分かった -
乍浦路から北海寧路を東に歩く
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■乍浦路と北海寧路
そして北海寧路へと左折し「⑱豊陽館」を探す。
『乍浦路、北海寧路一帯は、豊陽館、常磐館、山崎ホテル、新田旅館、井上旅館などの日本旅館が軒を連ねる、日本旅館街』
豊陽館らしきはあったが、今は雑居ビルなので当時一流旅館だったという面影はない。「常盤館」「豊陽館」「東和洋行」「萬歳館」が当時上海の一流旅館。
日本人の足跡(15)旧豊陽館(旧豊陽ホテル)
http://shanghaiimayou.blog.fc2.com/blog-entry-103.html
通称日本租界時代、この辺りは旅館・映画館・妓楼・ダンスホール等々何でもある繁華街で日本人街だったのだろう。豊陽館の中に入っていったが奥にも建物が縦横にあり集合住宅のように使われている。当時の写真と比較しても「えっ、ホンマにこれ?」という感じで全体像も分からなかった。
豊陽館跡からまた乍浦路に戻り北へ、左手に1922/大正11年現在地に建立した日蓮宗の寺院「⑲本圀寺」がある。今は建物の外観そのままで住居として使っているようだった。
中庭は入れば「一体何家族くらいがここで暮らしているのだろう?」と生活感溢れる雑居住宅である。日蓮(1222~1282年享年60)は何思う?入口のコンクリート門柱に「優秀歴史建築」(1922、原日本教堂 本圀寺)との銘板あり。
日本人の足跡(9)旧本圀寺上海別院
http://shanghaiimayou.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
その直ぐ北側に1931/昭和6年現在地に竣工、築地本願寺を模したインド風建築の「⑳西本願寺旧址」がある。敗戦後→「和平博物館」→「和平図書館」→「虹口体育倶楽部」となり、その後ディスコに改造。
今は玄関扉横に『THE PEARL(乍浦路店)』との看板あり。レストランとして使われているようだ -
これが「豊陽館」らしいが今ではこの有様なり
「米内光政、島崎藤村、松岡洋右、山田五十鈴、渡辺はま子」など投宿
一流旅館も住む者変われば様子も様変わり -
一階は店舗で他は上海庶民の集合住宅のよう
蜘蛛の巣電線と洗濯干し竿でどこともこうなる -
世界の経済大国順位2位の国がこれか?
それも大都市上海なのに、文化の違いはオモロイけど -
北海寧路の豊陽館
かっては著名人が利用する一流旅館だったそうだ -
乍浦路に戻り北へ
左手に1922/大正11年建立
日蓮宗の寺院「本圀寺」
寺そのまま住居に・・・か -
本圀寺の中庭で写す
四合院?一体何所帯が暮らすのか? -
中国人女性も観光なのかなんなのか?
「本圀寺」に入り写真を撮っていた
本圀寺の前に常盤館がある -
本圀寺の直ぐ北側に「西本願寺旧址」がある
1931/昭和6年現在地に竣工
日本のお寺や旅館が建ち並ぶ界隈
上海の日本がここにあった
一体当時はこの辺りの雰囲気はどうだったのだろう
きっと日本の一地方っていう感じだったのでは -
築地本願寺を模したインド風建築の「西本願寺旧址」
敗戦後→「和平博物館」→「和平図書館」→「虹口体育倶楽部」 -
今は玄関扉横に『THE PEARL(乍浦路店)』との看板あり
台湾・朝鮮・満洲・上海等々外地で日本人が日本人として暮らした -
武進路から四川北路に出て北へ向かう
四川北路公園を右側に歩く
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■秋瑾(しゅうきん)の上海拠点へ
また武進路を西に向かい四川北路に出て北進、四川北公園横を歩き軌道4号線の高架を越えて、すぐ左側にある1920頃出来た「?永豊坊(厚徳里)」に入って行った。
ガイドブックに、この長屋住居群の一軒が『清朝末期の女性革命家「秋瑾(チュージン:Qiū jǐn)」の拠点だった。』と書いてあった。
秋瑾を私が初めて知ったのは、2015/平成27年2月5日、台湾高雄の「高雄神社跡」を訪ねた時。現在は「忠烈祠」となっているが、その回廊の展示の中に秋瑾の写真があり一瞬釘付けになった。美しい若き日本女性かと思う姿で右手に小刀を握った写真だった。
https://4travel.jp/travelogue/11002291
高雄旅行から帰国後『「秋風秋雨人を愁殺す」武田泰淳(著)』を読んだ。たった3年前なのに内容はほぼ忘れたが名前と顔は覚えていた。その秋瑾と上海で偶然出会えたかのような喜びで永豊坊に入って行った。
秋瑾は明治38年12月留学先の日本から帰国、故郷「紹興(しょうこう)」で活動を始める。翌1907/明治39年上海で『中国女報』を創刊している。その時の拠点がここだったのだろう。赤レンガ造りの長屋が細い道を挟んで突き当りまで並ぶ。
ガイドブックの記しは左三列目の奥だった。ここも路地風景は同じで家から家に竿がズラーっと架かり、アチコチ洗濯物が干されている。記しの場所に行ってみたが表記はなくどことも同じなので特定は出来ず。
「ふ~ん、こんなところに秋瑾はいたのか・・・」と。日本にも救国の大和撫子の出現を祈る!女性の方が肝が据わっている。
今私が期待している女性は「杉田水脈・有本香・葛城奈海・我那覇真子」等々彼女たちの躍進と世に出てくれることを願う。
杉田水脈議員は「生産性がない」という言葉に非難が集中したが、野党・マスコミ・左翼の言葉狩りであり杉田女史には日本初の女性宰相になってもらいたい。
今の世は障害者・LGBT等少数者が弱者であるかのように言われ、なにがしかの特別の権利を得る。人間誰しも完全なる健常者などいない。
見た目五体満足でもどこかに故障を抱えたり、精神を病んだり、立場も置かれている状況も千差万別だ。例え手足なくとも一般的健常者と言われる人間より恵まれた者もいる。
特に生まれた時からの身体的障害は障害にあらず。自らは何ら不便はないはずだ。それは比較しての不便である。
互いの助け合いは人間としての務めだが、どんな立場にあろうと自らを弱者とするな。弱者だからとして特別な権利を自ら要求するな!それは周囲の他が比較の上で考慮し助ける。
今時のテレビを付ければ「ハーフ」「オカマ」「ニューハーフ」「在日」「在日外国人」「ゲイ」「歌舞伎の女形」・・・そんな連中ばかりが出てくる。世の中の少数派こそがまともで知性ある人間であるかのように・・・。
祭りのお化け屋敷ではあるまいに、ふざけるな!見たくもない、そんな奴らの能書きなど聞きたくもない。まして外人や在日やオカマの評論など糞くらえだ!
永豊坊の住居レベルは分からないが、狭い長屋内の道にホンダの高級車も停まっていた。この長屋の北側にも同じような長屋の一画がある。
1927/昭和2年建造の「大徳里」、昔はこの長屋に誰が住んでいたのだろうか? -
四川北路、交通軌道4号線の高架を潜ると
すぐに左側に1920頃出来た「永豊坊(厚徳里)」があるはず -
上海での秋瑾(チュージン:Qiū jǐn)」の拠点だった「永豊坊(厚徳里)」
3年前の台湾旅行「高雄神社跡(忠烈祠)」で秋瑾の写真が印象に残っていた -
ガイドブックを見てこの辺りだと思ったけど
何も表示は見つけることが出来なかった
このどこかに秋瑾はいた -
この秋瑾の写真を高雄神社跡で見た
「えっ?日本女性」と思った
着物姿のようで右手に短刀 -
日本車を見掛ければ嬉しい
反日騒動はまたいずれあるだろうが -
優秀歴史建築
永豊坊 大徳里 恒安坊・・・と表記あり
道に突き出す物干し竿と洗濯物が美感を壊す -
1931/昭和6年開場の「広東大戯院(群衆影劇院)」
この南側に当時の一流映画館オデオン(奥迪安大戯院)
他にアイシス(上海大戯院)などの映画館があった
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■日本人の足跡だらけの四川北路
その長屋と四川北路の道を挟んで正面に1931/昭和6年開場の「?広東大戯院(群衆影劇院)」がある。オープン時は広東人が多く住み「粤劇(えつげき 広東オペラ)」の劇場だった。
1943/昭和18年日本人が接収し「虹口中華大戯院」と改名:上海市の「優秀歴史建築」として認定されている。大東亜戦争真っ只中の時期でもこの上海で生きる日本人にはほぼ変わらぬ日常があったのだろう。
午後12時22分、兪涇浦(イュジンプゥ Yú jīng pǔ)に架かる橋、横浜いう名前だが日本とは関係ない「横浜橋」に辿り着く。
横浜橋の北、東側には『谷垣禎一(第24代自由民主党総裁、第47代党幹事長)の祖父にあたる影佐禎昭大佐率いる梅機関』があった永楽坊
東側沿いに「上海歌舞伎座」「ブリューバード・青い鳥(クラブ)」等々が・・・。その横には今は実験中学となっている「?上海日本尋常高等小学校」がある。
向かい側(西)には「上海に最初に住んだ場所」とか「父が生まれた集合住宅」という当時虹口で暮らした日本人には懐かしい『麥拿里の集合住宅(マグノリア・テレス)』があった。知らずに通り過ぎ現状は確認できず。
http://d.hatena.ne.jp/ekobiiki888/20170111/1484062160
同じく四川北路西側沿いにはのちに魯迅の主治医となり1936/昭和11年10月魯迅危篤の際に駆け付けた石井政吉の石井病院があった。
今は一階店舗の「?榮欣大厦(分譲マンション)」。石井病院の北数軒隣に1917/大正6年に内山完造が北四川戯盛里内に開いた書店があった。
分厚い「上海歴史ガイドブック」を手にして歩いたが、あまりに旧跡が多いのでその場では分かっていないものも多い。デジカメなのでシャッターをやたらに押しながら、帰国後の今「あっ、これやった。写していた・・・」というのがある。
虹口の日本人の足跡は、どこもかしこだ。この辺りは当時日本人の街だったというのを改めて実感している。
東側にある長屋住居群「?余慶坊」に入って行った。詩人金子が夫妻で大正終わりから昭和初期に上海に来た際にこの余慶坊で下宿した。その「金子光晴寓所」があったようだ。
どこの長屋も同じような道幅、建物作りで洗濯干しの竿が何本も頭上を横切る。洗濯物を干してすぐなら“しずく”が落ちて来るのだろう。
それと電線の蜘蛛の巣が、その国のレベルを示す。国家の経済力だけではなく民度も含む。トイレも同じくそうだ。
日本時代の虹口には電線の蜘蛛の巣状はあったのか?どの程度だったのか?トイレの様子は?こういったのが一番国民性を表す。こんな風景を見て「何じゃ、こりゃあ~何とかしろよ?」と思うのも旅の楽しみだ。 -
横浜橋
日本人には馴染の横浜だが日本と無関係らしい
最初気付かず通り過ぎ後戻りして写す -
兪涇浦(イュジンプゥ Yú jīng pǔ)
横浜橋の架かる河 -
四川北路を横浜橋を渡って北へ
-
「上海日本尋常高等小学校」→「北部第一小学」跡
現在は上海市虹口区の実験中学 -
こんなんに並んで何を買うのだろう
-
栗だった
上海人は栗が好きなんだ・・・と -
栗店の斜め向かいくらいに昔、石井病院があった
魯迅危篤の時に駆け付けた石井政吉の病院
今は「榮欣大厦」一階店舗の分譲マンション
石井病院の北数軒隣に1917/大正6年
内山完造が北四川戯盛里内に開いた書店があった。 -
四川北路の東側にある長屋住居群「余慶坊」に入る
詩人金子光晴が夫妻で大正終わりから昭和初期
上海に来た際にこの余慶坊で下宿したそうだ
金子と言うの名を始めて知った -
この長屋住居にも当時は多くの日本人が暮らしていたのだろう
どこの長屋も同じような道幅、建物作り -
余慶坊の蜘蛛の巣配線
電気屋も大変ちゃうの? -
多倫路文化名人街は観光路
テーマパークの如し
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■多倫路(ドゥルンルゥ Duō lún lù)文化名人街を抜け「旧日本海軍特別陸戦隊本部跡」へ
余慶坊を出て四川北路を西に渡り「多倫路文化名人街」を散策する。1999/平成11年整備された550mの観光路。ゲートを潜ればテーマパーク。あっちでもこっちでもウェディングドレスとスーツ姿で撮影会をやっていた。三年前に行った厦門(あもい)の鼓浪嶼(ころうしょ)でもそうだった。
当然の如く「可愛い」「綺麗」「ブス」「きつそう」「優しそう」と花嫁を見比べるのも楽しや。男も女も人は子供を作り子を育ててこそ人となる。医学的に無理以外はどんな理由も認めず。
魯迅像は当然の如くあったが、鴻徳書房前に建つ内山完造像が目に入った瞬間“ふざけるなシナ野郎が”と心の中で罵った。何故かと言えば、その内山像は「腰を屈め卑屈な姿の像になっている」
シナ人曰く「いやいやそうではありませんよ、日本人の謙虚さを表しているのです」と言いたいのだろうが「我一看就明白了、私は見てすぐ分かった」、支那人の稚拙な狡猾さだろうが日本人を甘く見るなよ!性根は未来永劫だ。
多倫路を出てところの交差点、北に向かって左側に「方舟大厦」「中国人民解放軍病院」(昔は陸戦隊病舎、海軍クラブ)、左斜め北が「日本海軍陸戦隊本部」。交差点手前右側にラモスアパート(北川公寓)、右斜め前「天興百貨」の奥に「パブリックスクール」がある。
多倫路の北ゲートを出て、この時は視界の中に入ってたはずの陸戦隊本部に気が付かず交差点を右に曲がった。
「?ラモスアパート」
魯迅は(1930/昭和5年5月~1933/昭和8年4月までの3年間内山完造名義でこの3階に住んでいた。第一次上海事変(1932年)のさいは銃弾がこの付近を飛び交い魯迅は避難している。
今も十分綺麗なマンション、一階店舗で中国工商銀行も入っている。「拉摩斯公寓」と書かれた紹介銘板に「魯迅が2093号居住」と書かれていた。
ラモス公寓を確認して次は内山書店旧址に行くために四川北路を北側に渡った。そこで1916/大正5年、工部局が開校した「?パブリック・スクール」を見つけた。
『1925/大正14年当時生徒の国籍24ヶ国、310名、英国流教育でケンブリッジ大学への進学の途も開かれていた』とある。その頃はこの辺りも日本人だけの居住区ではなかったのだろう。
日本占領下には学校ではなく工作機関である興亜院華中連絡部が占有していた。現在は「上海市民?新??初?中学(復興中学)」
そこで改めて多倫路から出て来た交差点を振り返り写真を撮っていたら・・・「えっ、あの建物がそうとちゃうか・・・そうや!」と、それこそが上海日本人足跡巡りの最優先目標でもある「?上海海軍特別陸戦隊本部」だった。一階車庫で四階建てが五階建てになっていたが、今も静かに堂々と建っていた。
海軍陸戦隊は元々常設部隊ではなかったが1930年代には常設部隊も出来たようだ。
陸戦隊本部は例えこの時見逃しても、探しに戻り必ず見つけた。今も軍関係の機関や銀行、商店等雑居ビルとして使われている。確かに使われているようだが写真にあった銀行の看板もなくひっそりと佇んでいた。
しかし今思っても不思議なのは私がこの中に入ろうとしなかったことだ。一階が閉ざされているように見えたからだと思うが勝手に入れないビルと思い込んだ。挑戦もしなかった。今となっては残念だが仕方がない。
帰国後『 日本人の足跡(1)旧日本海軍特別陸戦隊本部①』 をネットで見つけて陸戦隊本部ビルがひっそりと目立たなかった理由が分かった。もうすぐ解体の憂き目なのかも?そうだとすればまだ健在な時に現地で確認出来て良かった。
http://shanghaiimayou.blog.fc2.com/blog-entry-8.html# -
ウェディングドレスとスーツ姿
撮影会が多倫路のアチコチで -
鴻徳書房前に建つ内田完造像
ふざけやがって!
日本人の謙虚さ?ちゃうやろ
支那人に頭を垂れる卑屈さか -
こんなことで優越感を感じたいのか?
性根は死んでも治らんわ -
多倫路文化名人街 北側出口
その前に日本海軍特別陸戦隊本部跡が
この時気付かず右折する -
ラモスアパート(拉摩斯公寓)
魯迅が1930/昭和5年5月~1933/昭和8年4月
3年間内山完造名義でこの3階に住んでいた -
第一次上海事変(1932年)では
銃弾がこの付近を飛び交い魯迅は避難している。 -
陸戦隊本部とラモスアパートは斜め向かい
パブリックスクールがある
スクールの左側空き地に今「天興百貨」 -
ラモスアパート(拉摩斯公寓) 今も十分綺麗なマンション
一階店舗で中国工商銀行も入っている -
上海市民?新??初?中学(復興中学)
ここが「1916/大正5年、工部局が開校したパブリック・スクール」
ここまで来て「あれっ、海軍陸戦隊本部跡は?」と気づく -
屋上に旭日旗はためく陸戦隊本部
当時の圧倒的存在感のある
この写真のイメージが強かったので
気付かず通り過ぎた -
今も堂々たる姿で残っていた「海軍陸戦隊本部」
もうすぐ解体の憂き目なのかも?
『 日本人の足跡(1)旧日本海軍特別陸戦隊本部①』
http://shanghaiimayou.blog.fc2.com/blog-entry-8.html# -
四川北路から山?路に入ってすぐ内山書店旧址がある
内山・魯迅の肖像レリーフが貼ってあった
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■内山書店旧址と魯迅故居
陸戦隊本部跡を確認し、内山書店旧址に向かう。四川北路を東に歩き山?路に入ったところにある中国工商銀行が「?内山書店旧址」だ。内山完造と魯迅の二人の肖像入りレリーフが壁に貼ってある。「一階が銀行、2階に資料館がある」と思っていたが、今は一階左側の部屋が資料館になっている。右が銀行でATMが並んでいた。
魯迅の小説は『狂人日記(処女作)』や代表作である『阿Q正伝』は、読んだが支那人なら感じ入る内容なのかもだが私には異文化を感じはすれど心に響くものではなかった。
魯迅は医者を目指しながら『「病気で死ぬ不幸より、愚かなことこそが不幸だ。その為の精神の改造には文芸が役立つ」と文芸運動を起こす気になった。』・・・これはその通り。三島由紀夫しかり。一人の医者が救える数は限界があるが、生き方・思想信条・精神性を世に問わば未来永劫無限の多数を導くことが出来る。
三島由紀夫も小説家として数多くの作品を残し、最後はその死に様と「檄」によって今と未来の数知れぬ日本人に影響を与え続ける。愚かより不幸なことはない。死に様は生き様だ!終活をボチボチしてるけどホンマ心したいなァ~・・・。
『「阿Q正伝」を毛沢東が気に入り・・・』とあるので小説家としての実力と政治的にも利用され脚光を浴びた要素もあるだろう。
この内山書店で魯迅と国民党に処刑(1931年、龍華事件:24名処刑)された左翼系文人活動家との交流。他にも「アグネス・スメドレー」「尾崎秀美」「ゾルゲ」などの日本の昭和史に深く関わる人物も、この上海そして内山書店が舞台になっている。
魯迅も孫文率いる国民党から「堕落文人」としてマークされ逮捕処刑の恐れもあったようだ。その為ラモス・アパートから内山書店二階に家族と共に避難している。しかしラモス・アパートは内山書店まで徒歩3分ほどの距離。子供のカクレンボ遊びではあるまいし国民党が本気で魯迅逮捕を考えていたと思えない。
1932/昭和7年第一次上海事変(一・二八上海事件)勃発時、ラモスアパートから陸戦隊本部に向けての発砲がありアパートに捜索に来て魯迅宅に来たが「男は老人の魯迅だけであとは女子供ばかりだったからすぐに引き上げた」と魯迅の妻が回想録に記している。
1931年、時に魯迅51才・・・老人か?我今68才老人とは露も思わず。まあでも写真を見れば“オジン”だが。
虹口は各所で戦場となっていた。当時在住の日本人が語る『ボクは北四川路と東宝興路の角で見ていたんだが、日本の砲兵部隊が、七階建てのビルを吹っ飛ばす光景は生々しかったな。しかし相手は地の利を知り尽くしているからクリークを上手く利用するし、たしか日本側も750人以上の死者を出しているはずだ』
1月28日から3月3日(停戦協定は5月5日)までの間、当初2千人足らずの日本軍は3万人の敵軍相手に戦った。日本軍の戦死者769名、中国軍戦死者:4086名。支那兵の射撃から火蓋が切られた。敵は「支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」 そのことから考えても日本軍からの先制攻撃などあり得ない。
日本の敗戦によって内山書店は閉鎖、敗戦2年後の1947/昭和22年内山は日本に帰国、その後も中国との交流が続き『1959年(昭和34年)、病気療養のため中国にわたり、北京で脳溢血のため死去した。・・・現在も東京神保町に内山書店がある』
午後1時40分、内山書店旧址を出て山?路にある魯迅が生涯最後の三年半を過ごした故居(こきょ)に行った。近づくと大勢の人だかりがあり「何?」と思って近づくとそこが「?魯迅故居」の路地入口で人だかりは見学者の集まりだった。
「大陸新邨」と言われた赤レンガ3階建ての高級テラスハウス。内山書店職員の名義で1933/昭和9年4月から暮らしていた。故居に通じる道に門扉があり右壁に漢語・日本語・英語で書かれた案内版があった。
魯迅の故居は大陸新邨9号、3階建ての棟続きが並ぶ奥から二軒目。高級ハウスだったテラスも今は上海人仕様、各戸の窓から洗濯干し竿が道向かって何本も突き出し女性の下着も平気で干されている。そして魯迅故居の前で数人が写真を撮っていた。
4元の入場券を購入し入る。一階で待たされた。そこには警備員の“おっさん”二人と券売員の女性一人。最初訳が分からなかったが案内時間があるようで、時間が来れば専属ガイドが内部を案内してくれる。その時見学者は私一人だったが案内してくれた。
中国語の説明なので「我是日本人」と言うと40代くらいの女性ガイドが流暢とは言えないが日本語で説明してくれた。内部は撮影ダメなので見て回るだけ。魯迅が息子夫婦と暮らしていたようだ。魯迅は文芸活動を通じ今の中国人にどんな影響を与えているのだろう?
3階まで部屋を案内してもらい見て回った。所用時間は約5分、魯迅に思い入れがないので「ふ~ん、なるほどこんなんか」だった。日本語で一生懸命説明してくれたガイドさんに感謝。出てきたら玄関前で20数名の中国人見学者の一団が大きな中国国旗を広げて記念写真を撮っていた。
・・・と、思っていたが帰国後写真を見れば中国の国旗ではなくソ連国旗かと?いや違った「中国共産党の党旗」だった。さすが毛沢東が利用した魯迅は今も中国共産党に利用され続けているのだろう。文芸で思想改造を目指した魯迅の本心はどうなのだろう?
「愚かなことが不幸」と、より多くの人の精神改造に役立つよう医者から文芸の道を選択した魯迅は黄泉の世界で今の中国をどう見ているのだろう?私が思うには人間の資質は、あらゆる要素が長期に渡り微妙に複雑に影響し合って出来上がるので資質を変えるのは難しい。支○○鮮人の今の様を見れば分かる。
しかし日本人の資質を変える手段は一つある。万世一系男系継承の天皇陛下の存在を無くせば確実に変わる。唯一無二の特別な人(天皇陛下)の存在を失えば、悪しき独裁者の出現や平等を謳いながら階級社会を形成する共産主義が台頭する可能性が出てくる。
125代今上天皇と1億2千数百万人は血で繋がっている。皇族と血統で繋がっていない日本人は帰化人以外皆無だ。帰化人も日本人と結婚し子供が出来れば、その子供は皇室と血で繋がる。こうやって日本人は一つの家族国家となっている。
その繋がりが絶たれれば家族国家は霧消し、その先はどうなるのか不明だ。「日本以外の全ての国と同じになるのだからそれで良いのでは・・・」「そうなりたい」と願う日本人もいるだろうが大いなる間違いだ。
こんな素晴らしい国の形はない。日本人として生を受け、この仕組みのありがたさを分からない者は不幸だ。よくよく考えてその価値を真に理解してもらいたい。そうすれば「天皇陛下万歳!」は「日本万歳!」と同じであり、死に直面した兵士が「天皇陛下万歳!」と叫んだことが素直に理解できる。
日本の未来の為に「天皇陛下の万世一系男系継承」は未来永劫堅持すべきなり。 -
ここに来る前は「一階が銀行、二階が資料館」
そう思って入ったらいきなり資料館だった
そして右側が銀行でATMが並んでいた -
魯迅の葬儀
『1936年10月22日魯迅の埋葬時には、上海の労働者、学生
5000人以上が魯迅のために霊を送った。』
当時の小説家・魯迅人気は今の小説家の人気とは違う -
魯迅がこれだけ今も中国で高く評価されているのか?
『毛沢東が魯迅の死後、中国共産党統治の正統性
を宣伝するために徹底的に魯迅を利用していった』
そのことも大きな要因だと思う -
当時の内山書店
ここに魯迅をはじめ日中多くの文芸人が集った
内山は終生日中友好に尽力した
しかし今の日中関係が現実であり
隣国とは真の友好関係は有り得ず
互いに自国第一とし、それなりに付き合うべし
それでこそ争い少なく、上手く付き合える -
内山書店内から外を撮る
時代の変遷とともに風景は変わる
風景服装は変わっても人は変わらず -
内山書店旧址
二階建てが三階建てになってるようだ
地震の心配がない場所は上に平気で積み上げる -
山?路をそのまま北方向に歩いたら
人だかりが?
魯迅人気は今も凄いようでここが入り口だった -
魯迅故居
説明版にも「偉大な文学者魯迅先生の旧居」と
しっかりと日本語表記がある -
赤レンガ3階建ての高級テラスハウス
窓から突き出し洗濯干し風景は当時は如何に?
奥から二軒目が魯迅旧居 -
一番奥は資料館 門票売り場
二軒目に魯迅旧居の看板あり -
一番奥で4元の門票を買って待機
男性二人(警備員)、女性一人(切符売り)
しばし待って女性ガイドが案内してくれた -
この時は中国の国旗とばかり思っていた
これは中国共産党の党旗だった
魯迅よ、共産主義を推奨するのか?
そうでなくば黄泉の世界で怒れ -
見てすぐ分かる日本租界時代の高級住宅街
ここら一帯がそうだった
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■魯迅公園
魯迅故居から山?路を歩いて魯迅公園に向かった。道沿いには日本租界時代の高級住宅を伺わせる建物が今も建ち並んでいるく。山?路を歩き「?魯迅記念館」から公園に入ることになった。
私の初上海は1998/平成10年12月、魯迅記念館、現在の建物は1998年8月オープンとあるので私の初上海の時からあったようだが、入るのは今回初めて。今までは公園の北側部分しか入っていなかった。
「へぇ~、こんな立派な建物か・・・」と中に入る。入場無料、手荷物検査あり。日本時代の昔の上海の写真展示があったのので一見の価値あり。一通り見て公園内を久しぶりに歩く。どこにもある公園風景があった。四人で賭けトランプに興じるグループとそれを囲んで見ている集団が、あちこちに。
しかし今回は「そうか・・・これは今の中国の現状を象徴するなァ~」と思う公園内の風景が目に付いた。今までもあったと思うけど、ここまで沢山はいなかった。それは何か?青空結婚紹介所、公園内の一画に傘をさかさまにして広げ、そこに写真と履歴を書いた「A4」用紙を並べている。
こそっと写真を撮ったが、他にもスマホで写真を撮ろうとしていた人が、主の“オバチャン”に「撮るな!」と喚かれていた。一人っ子政策で適齢期の男性数が女性数を上回ってるし、嫁を貰う為の条件が厳しいので結婚難の中国、ここ上海でも切実な問題だろう。それがこの青空紹介所の数の多さに表れている。
魯迅墓も初めて見た。「?魯迅先生の墓」は毛沢東揮毫。文字はシャープで癖のある字、毛沢東はこんな字を書くのか。「字は体を表す」「書は体を表す」等々あるが人が何かをすれば、すべてのことにおいて、その人の全てが出る。毛沢東の字に好感持つ人はまずいまい。見れば分かる。
そして公園内に「?抗日爆弾事件現場」というのがある。ここも今回初めて知った。今までの上海の旅はそんなことに興味を持っていなかったから。この虹口公園(魯迅公園)内で第一次上海事変末期の1932/昭和7年4月29日、 「大観兵式と天長節祝賀会」の折に尹奉吉が式台に爆弾を投げつけた。
「白川義則陸軍大将」は重傷を負い一ヶ月後に死亡。「重光葵」後の外務大臣、片足切断。「野村吉三郎」後の駐米大使、右目失明。他死者重傷者多数をだした。尹奉吉は軍法会議を経て金沢刑務所で銃殺刑となっている。今この地は韓国の上海観光スポットとなっている。
魯迅公園入場は無料だが、この現場への入場は有料。私が前を通りがかった時に韓国人若者の集団が出て来た。朝鮮半島併合は例え止む終えぬ情勢下であったとしても日本史上痛恨の極みなり。朝鮮半島と朝鮮人とは一切関わらぬことこそが日本と日本人にとって最善策であり、それ以外にない。 -
上海での日本人 豊かな生活があったのだろう
当時の世界の常識がそうであったのだから
長くは続かなかったが日本人には良き時代だった -
1998年8月オープン「魯迅記念館」
私が初めて上海に来たのは1998年12月
その後も何度かここに来たが
今回が初めての魯迅記念館 -
さすが共産党肝いりの魯迅だ
この豪華さをみれば分かる -
1904/明治37年、日露戦争勃発の年
仙台医学専門学校の最初の中国人留学生
左端が魯迅 -
魯迅公園内の変わらぬ風景
賭けトランプで遊ぶ上海の人たち
あちこちで開帳だ -
以前もあったような気がするが
今回はびっくりするくらい多かった
写真と履歴書を傘に広げた青空結婚紹介所
中国の結婚事情が深刻なのが良く分かる -
魯迅の墓
見掛けぽっちゃりの毛沢東揮毫
字のシャープさに冷酷無比の性根が出てる -
「大観兵式と天長節祝賀会」の現場
尹奉吉が式台に爆弾を投げつけた
今この地は韓国の上海観光スポットとなっている。 -
「大観兵式と天長節祝賀会」の現場
尹奉吉が式台に爆弾を投げつけた
今この地は韓国の上海観光スポットとなっている。 -
魯迅公園から上海外大方向を写す
長男が留学して上海に縁が出来た
そして今私がここに来ている
人生とは不思議なのものだ
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■上海外大からホテルへ戻る
午後3時魯迅公園を出て「?上海外大」に向かう。長男がここに留学し、それが私が中国語を学ぶ切っ掛けになり、その後満州、騰越、重慶、満洲里、新疆維吾爾等々この大陸との関りの原点でもある場所。
上海へ来るのは、今回が12年ぶり6回目。この上海外大は2001/平成13年が前回だから17年ぶりの再訪となる。私の脳裏の記憶と、公園出口から見る風景も大学の入り口も建物も同じようだった。中に入って国際交流文化学院の外観も同じだったが、内部は見違えるほど綺麗になっていた。
留学した年(1998年)、家内と初めてここに来た時、長男の教室の扉に出席簿があり、そこに名前を見つけたが欠席が多いのに驚いた?というより「やっぱりなァ・・・」と思ったことを昨日のことのように覚えている。それでも中退せず四年学び、卒業後は中国語を生かして今も月に一、二回は中国出張で家族を養っている。
長男曰く『やっぱり留学四年間の友人関係が今も一番やわ』、その同窓生たちの多くも語学を生かして活躍している。中国拠点で仕事をしたり、中国人の嫁をもらってこっちで居を構えている友人もあり、時々上海で出会うこともあるようだ。当時ここの国際文化交流学院も白人留学生もいたが少なかった。しかし今回白人男女の留学生が沢山いたので驚いた。
外大を出てガイドブックに載っている2階建て洋館、重光堂「土肥原堅二邸」を探しに行ったが確認できず。これで今日の虹口足跡巡りは全て完了、足は棒になり気力も限界となって8号線「?虹口足球場站」へ向かう。電車に乗ったのは午後4時。正直歩き疲れていた。
大世界で降りホテルに戻る。宁海(寧海)東路を歩いて「康?上海外?酒店」に戻ったら部屋が私の札のかけ違いでルームメイクがされていなくフロントで頼んでとりあえず足を引き摺りながら夕食を食べに出掛けた。
さっき降りた大世界の方まで歩き日本食店を探したが見つけること叶わず。地下のマクドの店に入ってハンバーグとポテトとコーラの夕食となった。ホテルに戻ってスマホの歩数計を見たら「33348歩:24.6キロ」だった。
もう数年歩いていないが西明石の家からJR三ノ宮駅まで歩いて約5時間27キロくらいを数回歩いている。スマホの歩数計の信頼度は知らないが、それに近い距離を実感として歩いた。外灘から呉淞路と四川北路を行ったり来たり、虹口(魯迅)公園まで歩いた。
日本人がこの上海虹口で暮らしていた面影を追って・・・。午後7時部屋に戻って明日に備えてベッドで横たわる。
テレビを付けても多チャンネルだが日本の放送は入らない。
明日は高杉晋作たちの歩いたであろうところを辿る。豫園が中心だけど・・・・。今日が上海旅行のメーンだった -
上海外国語大学校門
1998年から20年目の2018年
当時48才、必死で毎日仕事をしていた
20年後の今、年金+“ゆっくり”仕事
何とか子供も家庭を持ち孫七人 -
上海外大:国際交流文化学院校舎
白人留学生の多いのに驚いた -
魯迅公園から8号線「虹口足球場站」に辿り着く
朝7時45分にホテルを出て午後3時42分
昼食休憩を省けば7時間半歩き通し -
虹口足球場站プラットホームの光景
同じ時代をこの地球上で生きる仲間
100年後この場の誰も存在していない -
大世界で降り宁海東路を歩いてホテルに戻る
私のミスでルームメイクが出来ていなく
夕食を食べに足を引き摺りまた出て行く -
また大世界に戻ってマクドの店に入った
ハンバーガーセット18元+3個の唐揚げ10元
28元(504円)の夕食だった -
こんな店で食べたのか?
写真見ても記憶にない
疲れていた -
部屋に戻ってひたすら休憩
スマホの歩数計「33348歩:24.6キロ」
これだけの距離を歩いたのは何年振りか?
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