2012/09/18 - 2012/09/27
29位(同エリア36件中)
明石DSさん
宣化賓館にて
昨日一人客の席はないと断られたレストラン
最初で最後の朝食を食べる
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8日目:9月25日(火):雨時々曇り
宣化から鶏鳴驛、そして北京に戻る
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2012/平成24年9月25日(火)
■宣化から下花園へ出発
旅行中は毎朝6時頃起床、窓を開けて天気を確かめる。今日は旅たち前の計画では、鶏鳴山に登ってから鶏鳴駅へ行くつもりだった。でもこっちに来てから反日騒動の渦中で、山登りの気力も萎えてきていた。そして今朝起きて雨が降っていたのに何故か?ホッとし、鶏鳴山登山は迷うことなく中止となる。
天気は雨、昨日の果物の差入れで、宣化の印象も良くなり気分も持ち直していた。そんなことで私も感傷的になって、いろいろ心配してくれた女性マネージャーに部屋に置いてある便箋を使ってお礼状を書いた。
その後、外に出てみたら相当の雨降りだった。そして朝食へ、昨日、夕食時はお客で一杯で一人席はなかったレストランも、今朝はお客もまばらだった。
軽く朝食を食べて、部屋に戻ってテレビを付けたら、CCTVはいつもの尖閣騒動放送ばかり。見たくもないけどエスカレートしていないのか気になって情報収集のつもりで見てしまう。それくらいこっちの放送は過激な論調が多いように感じた。
もし旅行中に、尖閣の攻防で日中火蓋を切れば、出国できず人質にされる恐れもある。そんな時は、「どのルートを使って国境を越えてやろうか・・・。」そんなことすら考えていた私である。おめおめとこんなところに拘束されてたまるものかと。ロシアに、それとも北朝鮮に、それともモンゴルに、それともミャンマー、ベトナムに。必ず国境を越えてやるぞと。ルートに方法。もっともそれがもし現実になれば、身動き一つとれずしょげかえっている自分かも知れないが。
午前8時半ホテル前で、昨日の女性タクシー運転手と待ち合わせなので8時15分部屋を出て一階ロビーに行く。そして退房(チェックアウト)し、フロントで名詞の女性を聞いたら、「あそこにいる彼女だ」と教えてくれた。一階ロビーに事務机を置いて座っていたのが、その女性だった。近づいて御礼を言い、礼状を渡そうとしたらお金と間違えたのか一旦拒絶されたが、「お金ではない、礼状です」と言うと受け取ってくれた。
そして彼女と二人の写真を撮ってもらう。ショートカットで眼鏡をかけ知性的な女性だった。この張さんがこのホテルの接遇を指導しているのだろう。旅先での親切は本当に嬉しいものだし、こんな状況の時、気持ちも明るくなる。
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こんなのを食べた
普段は朝食を食べない
旅は非日常の世界ゆえ -
CCTVをつければ尖閣問題ばかり
一応戦争になっていないか心配で見る -
宣化賓館「3205号室」
さらば -
一階ロビー
左奥の机に名詞の主が座っている -
宣化賓館から出発
土砂降りに近い雨
天気だけは、しゃあない
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■下花園(しもかえん)に出発
約束の8時半になったがタクシーが来ない。35分になっても来ないので、もう来ないだろうと思って、このホテル玄関で客を降ろしたタクシーに声を掛けた。「下花園まで幾ら?」「70元」というので乗った。今日待っていた女性タクシーより10元安いと思いながらホテルを車が出た時、道路左側に一台のタクシーが停車しており、女性運転手の姿が見えた。
「あっ、こんなとこで待っていたのか・・・」と、思ったが「停まって」ともいえず後の祭り、そのまま下花園方向に向かった。いくらなんでもホテル前といったらホテル玄関前に入って来るのが普通だろう。その上、今日は雨が降っているのに、そんな見えない道路の路肩に停まって待つほうがどうかしてる。
申し訳なかったけど仕方がない。きっと彼女もタクシーで出て行く私の姿が確認できたと思う。「ホテル玄関前は、駐車場になっており十分広いのに、なんぼなんでもそんなところで待つなよう・・・であった。
私が乗ったタクシーの“おっちゃん”は56歳、二人の子供の父親。長女31歳は北京で仕事、独身。長男25歳はマレーシアに出稼ぎ。温厚誠実そうな運転手だった。最初は下花園まで70元ということで乗ったが、途中で「下花園の駅で写真を撮り、次に鶏鳴駅で2時間、そこから最後に懐来賓館で降りたい」と値段の交渉をしたら「200元」というので、その料金で頼んだ。
予定では今日は「下花園聚仙楼」で宿泊予定で、日本で電話予約していた。一泊¥136元(¥1768円)也。いつも満洲旅行ではこれくらいのホテルばかりだったが、今回は、いつもの安いホテルはここだけだった。予約したといっても名前も聞かれず、無論、国籍もなにも聞かれていない。
ただ「9月25日(火)一泊OK」というだけなので、予約とはいえないけど、ようするに「いつでも泊まれる」ということを確認したようなものだ。
雨降りだし、鶏鳴山にも登らないので急遽予定を変更して、より北京に近い懐来(かいらい)で宿泊することに変更した。雨の中、どこをどう走っているのか景色を楽しむ余裕もなく1時間足らずで下花園駅前に到着。ちょうど駅到着前に「下花園聚仙楼」の前を通った。
当たり前だけど駅方向にカーブして行く道で、グーグルアースで確認した場所に紛れもなくあったので「ホゥ〜、やっぱりあるやんか」と感激する。 -
車窓の景色も楽しめず
ひたすら下花園に
今は八路軍の襲撃もなく
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張家口から列車での避難行
証言60
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html
宣化駅で停車、線路際のスイカを食べかけたらゲリラの奇襲、弾丸が飛んできた。列車に同乗していた日本軍が応戦して撃退。
下花園駅付近では、線路が爆破され停車、ゲリラの敵襲、弾丸が貨車に当たり、敵の動いている姿が見えた。駅を守備していた日本の兵隊が応援、撃退した。その時、兵隊が線路際の畑から青いリンゴを取ってきて「元気で帰れよ」と言って貨車に放り込んでくれた。飲まず食わずだったので、実に美味しかった。
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戦後60周年の回想録
http://www.geocities.jp/sh5552002/nisihara.htm
8月20日夕刻になって急に一時避難の指令がでて、私達はリュックサックを背負い、手にもてるだけ荷物を持って月明かりだけの夜道を張家口駅に向かった。その日朝から北の山の遠くで銃声らしい音が聞こえていたが、次第に大きくなってきていた。
駅までの道路には駐蒙軍の兵士が銃剣をつけて警戒にあたり、物々しい雰囲気だった。急に不安が募ってきた。駅には荷物を抱え背負った在留邦人家族が溢れていたが、駅に停車していた列車にどんどん詰め込まれた。20両ほどの列車は、最後尾に2両ほど客車を繋いでいる以外は総て有蓋と無蓋の貨物車である。私達は幸い有蓋貨車に乗せられた。
銃を持った兵士が2名ほど扉の傍に乗って警戒態勢をとっていた。後で知ったが、客車に乗せられたのは朝鮮人家族だった。列車は何時の間にかゆっくりと動き始め、鮨詰め状態の車内では誰からともなく「さらば張家口、また来る日まで・・・」と「ラバウル航空隊」の替え歌が合唱され始めた。
列車は暫く走っては止まり、また走り出すことを繰返し、張家口から約40キロ離れた次の駅、宣化(せんか)付近に明け方になってやっと到着したが、途中から雨が降り出し車内には雨漏りが始まった。その後も、列車は再々停車し、また走り出し、遠くに近くに銃声が聞こえることが度々あったが、3日3晩ほど経って漸く北京に到着した。
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「引揚者労苦記 南洋、台湾、蒙彊、残照」
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04hikiage/H_04_378_1.pdf#search='%E5%8D%97%E6%B4%8B%E3%80%81%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%80%81%E8%92%99%E5%BD%8A%E3%80%81%E6%AE%8B%E7%85%A7' -
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下花園駅
今年ここに来るとは
人生分らないものだ
来年どこに行くのだろう
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この下花園に日本人がどれくらい暮らしていたのか?日本軍部隊の駐屯はあったのか等々の詳細は分らないが、張家口から列車での北京、そして天津までの避難行は、八路軍の襲撃や線路破壊などが至る所で起きており、下花園の駅前にて当時の艱難辛苦を思う。 -
駅内から駅前を写す
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張家口:下花園駅前にて
http://youtu.be/6WYFcgpkyPI -
結局、鶏鳴山は雨に隠れ最後まで姿を見せず
この写真が一番見えている
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■鶏鳴驛へ
雨が降り止まぬままだったが今回の旅で期待していた鶏鳴驛に向かった。来る前に写真などで見た鶏鳴駅は、城壁に四方を囲まれた姿を今に留める魅力有る所だった。1900年に義和団の乱の時、西太后が西安に逃げる途中ここで一泊している。
「人民網日本語版」2008年3月18日
http://japanese.beijingreview.com.cn/ly/txt/2008-03/19/content_105801.htm
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中国に現存する最大の宿場町――鶏鳴駅。2年近くかかった修復作業が完了し、北京周辺の独特な観光スポットとしてこのほど一般開放された。
宿場町は昔、文書を運ぶ伝令が馬を交換したり、休息したりする場所だった。 鶏鳴駅は河北省張家口市の懐来県にある鶏鳴山の麓に位置し、北京からは100キロ余り離れている。元の時代以降、清王朝が1913年に全国の宿場を撤廃して、郵政局を設立するまで、北京と西北地方を結ぶ中継地としての役割を果たした。
鶏鳴駅は他に現存する宿場と同様、高さ11メートルでほぼ正方形をした2キロの城壁に囲まれている。城内にはなお17軒の寺院と馬小屋、練兵場、商店などが残っている。中国国内でも保存状態が最もよく、最大の規模を誇る宿場だ。
「人民網日本語版」2008年3月18日
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修復され残念ながら古さを感じない城壁で囲まれた鶏鳴驛に9時40分過ぎに到着した。東門の城壁には「鶏鳴山驛」と掲示があり、門の傍には「鶏鳴驛」との大きな碑が立っている。「鶏鳴山驛」と「鶏鳴驛」どっちでも構わないのということなのだろう。
大人は門票60元だったが、売り場の小姐が私を見て向こうから「60歳以上は30元」と声をかけてくれた。「我是62歳」というと身分証を見せろとも何も言わず「30元」にしてくれた。「へぇ〜、自己申告でOKなんか?」と驚くやら、「やっぱし60歳以上に見えるんや」とがっくりするやら気持ちは複雑だった。
城内の予備知識は、1900年の義和団事件の際、西太后が西安に逃げる道中に一泊した家が残っているということだけで他は何も知らず。まず城壁に登って城内の風景を見た。周囲が城壁で囲まれ平屋の家屋が立ち並び、人の気配も感じず静かだった。残念なことに小雨と霧で目の前に聳えているはずの鶏鳴山もかすかに山裾がぼんやりみえるだけで、ほとんど姿を隠していた。
晴れていたら随分景色も違ったと思う。とりあえず城壁の上を一周回ろうと、時計と反対周りで歩いた。観光バスで来ている中国人観光客が、城壁の上をちらほら歩いていた。城内の家屋は朱か黒かの屋根瓦で色の統一感もあり、城壁から見下ろす城内はそれなりの雰囲気はあるが、人の気配がなく静かだ。写真を撮りながら、ゆっくり歩いて2キロの城壁を30分ちょっとで一周した。
そこから下に降りて城内を散策。放し飼いの犬に吼えられるのが嫌だったけど、そんなこともなく、路地から路地へと適当に歩く。土産物屋のような家もあったが、今日は雨だし観光客も少ないのか、人の姿少なく、時折屋内から話し声が聞こえるので人はいるのだろうが、賑やかさとは一切無縁の鶏鳴驛だった。
そして唯一の予備知識があった、西太后の宿泊所を見つけて入っていった。狭い入り口の上に「一九零零年、慈禧西行時、曾在此留宿一宿」「1900年 慈禧(Cixi 西太后)が西安行く時、一泊した宿」との看板があった。人一人しか通れない狭い路地の置くに四合院があり、そこが西太后の宿のようだ。慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)
何故ここが宿になったのか?他と変わらぬ小さな四合院の一棟に西太后・光緒帝の掛け軸が掲げてあり、それらしき物が一応並べてあるが、誰も人はいなく価値有る物は置いてないというのは見て分る。あの西太后がここに?ホンマかいなと思うが、別段真偽を問うつもりはない。それより、こんな所だからこそ、逃避行での宿として信憑性を感じる。この四合院に宿泊したのは義和団事件で八ヶ国連合が北京に迫った時なので、オンドル不要の8月の暑い時期だったろう。
新品の偽物展示家屋より余程雰囲気はある。このままで置いて欲しい。今回帰国後、NHKテレビドラマ、「蒼穹の昴」:25話:DVD8枚を借りて三日で見終わった。ドラマは見応えがあり、当時の紫禁城内の人間模様が良く分かり面白かった。
「蒼穹の昴」では、権力の頂点で一国を私物化し、贅沢三昧に慣れた西太后が、鶏鳴驛の狭い路地を歩き、あの部屋に一泊したとは・・・。その時、光緒帝(清国:第11代皇帝)も一緒に同行していた。光緒帝は、西太后(享年73歳)の死ぬ一日前に毒殺(満37歳)されている。光緒帝の母親は西太后の妹。1900年に西安に逃げた西太后も2年後に紫禁城に戻りまた権力の座に着いた。
城内はこれからも観光化されて行くのか、新しい昔風の建物が何棟も作られている。どことも同じパターンで、出来上がりは想像に容易い。雨降りだからか往来に人の姿も少なく活気はない。何せ小さな村なので静かだった。きっと晴天の時なら、あちこちで地元の年寄りたちが椅子に座って道行く人を眺めていたり、子供たちが遊ぶ光景もあるのだろうが、この雨ではしょうがない。
鶏鳴山もとうとう最後まで姿を見せず、1時間20分くらいの散策で鶏鳴驛を去る。感想を一言で言えば、ここも修復下手でがっかりだった。 -
城壁に近づき、やっぱりかであった
ピカピカの新品 -
券販所で「60歳以上は30元」と言われた
一見して60歳以上に見えるようになったんか・・・。
写真を見ればホンマ老けた
鏡を見てもそんな感じはないけど
なんで?
横の碑には「鶏鳴驛」と刻まれている -
門の表記は「鶏鳴山驛」
「鶏鳴驛」と「鶏鳴山驛」
一体どっちや
何か意味があるのか? -
門には「鶏鳴山驛」
下の碑には「鶏鳴驛」
何でやねんやろ? -
とりあえず城壁に上り周囲を見渡す
城壁の上にも観光客がチラホラ -
周囲が二キロ、30分くらいで一周出来た
壁が新品になるとどうも中味までつまらなくなる -
城内が賑やかなら面白みもあるだろうけど
今日は雨なので、城内の人たちの動きもなく
ただひっそり -
観光バスが並んでいる
-
門票買って入るので、城内はどこでもフリーパス
とある四合院に入ったらトウモロコシの山積みだった -
ここがメーンストリート
雨で人がいなく活気がない -
慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)の宿
1900年、光緒帝も一緒だった -
「一九零零年、慈禧西行時、曾在此留宿一宿」
「1900年 慈禧(Cixi 西太后)が西安に行く時、一泊した宿」 -
西太后65歳の夏ここに来る
光緒帝25歳の夏一緒に来る
最後まで光緒帝は西太后に逆らえず
西太后の死ぬ一日前に・・・毒殺される?
光緒帝:1908年11月14日、死亡、満37歳
西太后:1908年11月15日、死亡、満72歳 -
テレビドラマ「蒼穹の昴」に描かれた西太后の姿は
どれほど真実の西太后に近いのか?
正味の西太后は一体どんな女性だったか興味あるなァ -
西太后の宿はこの四合院
迎えの部屋から話し声が聞こえていた
きっとこの村にもその時の様子が
伝えられているのだろう
聞いてみたいものだけど -
この細い路地を通って西太后はこの宿に泊まった
そしてここを抜けて出て行った
今から112年前のことである -
西太后の宿の向かいに村人の姿あり
あんたら何してんの?
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鶏鳴驛:西太后の宿
http://youtu.be/RZsrhxbUQTA -
電柱の左側に西太后の宿の入り口がある
予備知識はここだけ、あとは何も分らず -
鶏鳴驛のメーンストリート
遠くに入って来た東門が見える -
雨の中、工事が続けられている
城内にもアチコチ偽古風建築建設中 -
さらば!鶏鳴驛
これいじょうピカピカになるなよ
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城壁で囲まれた宿場町「鶏鳴驛」
http://youtu.be/ho2pXkOVRvo -
新保安(しんほあん)を通り過ぎ一路懐来へ
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■懐来で泊まるつもりが直接北京へ
懐来賓館を今日の宿にして、明日早朝北京に行こうと懐来へ向かった。鶏鳴驛から新保安まで車で16分、そこから25分くらいで懐来に到着。その時、まだ時刻は午前11時47分だった。そこで私は急遽、北京まで行こうと決めた。
運転手の“おっちゃん”に、「北京にこのまま行くから懐来賓館ではなく、北京行きの長途汽車站(長距離バス乗り場)に行って」と頼んだ。そして北京行きのバスは、汽車站ではなく、場所は、どこか分らないが道路の路肩に一台停まっておりちょうど発車寸前だった。
北京まで50元くらいだったと思う。気のいい“おっちゃん”運転手と別れバスで北京に出発!よっしゃこれで旅は無事完結だと内心思えてホッとした。 -
12時前に懐来へ到着
ここで長途汽車(長距離バス)に乗り換え北京に向かう -
こんな路肩に北京行きバスが止まっていた
ちょうど満員発車寸前で待ち時間ゼロ
ラッキーだった
気のよい“おっちゃん”ドライバーと別れ
一路北京へ -
ほぼ満席
私のあとそれでも二人くらい乗って来た -
やはりタイヤはバースト(破裂)していた
右後輪外側で良かった、前輪なら・・・・
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■北京へ
12時ちょうどくらいに懐来を出発、雨の中の高速道路で一路北京に向かう。途中高速道路走行中に、「バーン」という大きな破裂音がした。タイヤのバースト(破裂)だと直感したが車の振動もあまりなく、運転手は徐々に速度を落とし、路肩に停止して外に出て点検していた。
そして何事もなくすぐに出発したが、ノロノロ運転をしばらく続け、次のインターで下車してタイヤ屋に入った。これで「北京到着は遅くなるなあ〜」と思ったが仕方がない。
タイヤは右後輪の外側のタイヤが破裂していた。小雨が降り続き、ぬかるんだ地道でジャッキアップし、スペアーを外すのにダンボール紙を敷いての作業「危なそうやけど、よくやるなあ〜」と感心して見ていた。手際よく35分くらいでバスに積んでいたスペヤータイヤと交換し出発。
大都会「北京」に入り、乗客がところどころで降り始めたが、終点を聞いていなかったのでどこで降りて良いのか?分らず不安になる。降りるべき場所で降りれず、とんでもない所まで行ってしまった経験が何度かあったから・・・。そんな時、運転手が「ベイジン、ベイジン」と叫び、結構多くの乗客が降りる気配だった。
「ベイジン、北京」と言うならここだろうと、どこか分らず降りた。 -
一旦高速道路から降りてタイヤ修理
修理と言ってもスペアータイヤと交換で
破裂したタイヤは廃棄処分だろう
小雨の中、下は地道で交換も大変だ -
バスの下にダンボール紙を敷いて身体を入れる
見ていたら怖いけど運転手が上着を脱いで
潜ってスペアータイヤを外していた
バスの前部の下にスペアーが装着されていた -
後は取り付けてボルト締めて完了
計35分くらいで無事終了 -
まだ雨振る中をいざ北京へ
-
運転手が「北京、北京」と乗客に促したので降りた
ちょうどそこは「高碑店站」という地下鉄駅前
でもそれがどこなのか?全く不明
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■天安門東站から首都大酒店へ
そこは地下鉄「高碑店站」のすぐ傍だった。とにかくタクシーで、「首都大酒店」まで行こうとタクシーを止めようとっしたが止まらず。「高碑店橋東」バス停もあったがどれに乗って良いのか?ということで地下鉄初体験に挑戦した。地下鉄の案内掲示を見たら「高碑店站」→「天安門東」は、ほぼ一直線でこれなら簡単とホッとした。2元の切符カードを購入し地下鉄乗車となる。
途中一度乗り換えたが無事に到着。最近は反日騒動の日々であり、車内では中国人に囲まれ私自身はなんとなくの緊張感もあったが、日本人青年が現地女性と日本語で平気な顔して会話していたが誰も関心ないようだった。
そして「天安門東站」に到着、出口に迷いながらも天安門の見える所に出た。ここに来れば、道は分るので観光モードに変身して写真を撮りながらボチボチ“東交民巷”の通りを歩いた。 -
バス停もあったが、結局、地下鉄初乗りに挑戦
一言「東京メトロ」と同じように便利で分りやすかった -
北京オリンピックを前に路線も拡張されたようだ
全線二元(36円)で、切符を買うのに駅の選択不要
車両も綺麗 -
一回乗り換えたが
路線図が車両の出入り口にあるので
初めてでも目的地が分れば大丈夫
何でも試してみるものだ -
天安門東で降りて出口は天安門方向へ
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天安門が見えればもう大丈夫いつもの散歩コースのようなもの
ここからまた観光気分でボチボチ歩く -
天安門前の広場東側路を行進する武装警官
とにかくこの周辺はあらゆる警備陣がいる
今や軍事予算より治安関係予算の方が多いらしい -
“東交民巷”に戻って来た
今回の旅の無事終了を早くも実感する
この通りは1900年当時を思い起こさせる雰囲気がある -
明日26日は楽天とラベルで予約済みだが、今日は飛び込み。
739元(9,607円)で値切りは出来ず
楽天予約より「110元」高いがやむ終えない
ツアー利用ではない一人旅では最高額のホテル
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■首都大酒店到着
最初に泊まった“東交民巷飯店”の向かいが“首都大酒店”明日の予約は楽天トラベルでしているが、今日は飛び込み宿泊になる。フロントで「明日は予約しているけど一日早く着いた。今日も泊まりたい」と言ったら、宿泊はOKだったが値段は今日は739元(9,607円)で値切りは出来ず。
明日は629元(8177円)、部屋はそのままということで決まった。押金¥2000元。中国一人旅のなかでは一番豪華なホテルに二泊となった。それでも私の部屋は四星B楼、A楼は五星。
午後4時半部屋に入る。B楼4F33号室「433」はツインベッドで十分満足。 -
最高額といってもB楼で四星隣のA楼が五星
私にはこれでも十分豪華である
こんなホテルに泊まりだしたら
やっぱりこっちの方がいいなあ -
バスタブもあり、底浅くではなく結構ゆったりだった
湯量の心配もなかったしフフフ -
雨合羽を着用し頭に傘をかぶる
ふ〜ん、これも北京の風景なのか
そういえば日本も物は違うがこんな格好がある
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■果物買いに散歩
小休止の後、果物を買いに外に出た。雨がまだ降り続いていた。部屋に戻って食前の“りんご”とバナナを食う。そして今日は疲れたから、ホテルのレストランで食べようと思ったが「一人は予約がないとダメ」と言われて部屋に戻ってルームサービスで夕食を頼んだ。
昨日と同じく「揚州焼飯」と「スープ」、今回は持って来たが、やっぱりがっくり。見たこともない揚州焼飯で、量は少なく味薄く、びっくりの代物だった。スープにかろうじて肉団子のような物が入っていて何とか食えたが、二日連続食い物に縁がない。 -
散歩から部屋に戻る
4階33号「433」に二泊することになった -
ルームサービスの「揚州焼飯」と「スープ」
味薄く量少なく、最悪だった
二日連続出前注文にガッカリ
人生楽少なく苦難多し -
ZJ君からもらった高級茶
箱が大き過ぎてバックに入らないので
ばらして中味だけ待ち帰る
その前に写真を撮る
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■明日午前11時ホテルロビーで待ち合わせ
今回の旅も残りは明日一日、明後日は帰国するだけ。明日はA君と午前11時にこのホテルロビーで待ち合わせる。日本に出る前にメールをやり取りして約束したが、その後、こっちに来て連絡出来ず明日を迎える。A君は日本をこよなく愛する青年で、中国人として生まれ育ち、大学を出て石油会社に入社し、エリートコースの道を歩み始めたが、意に沿わずと退職。
その後、英語教師として大学に勤務し、その傍ら日本を思う気持ちが強まり日本語を独学でマスターして日本語検定一級を取得、日本に留学を果たす。彼は日本の保守本流を歩むが如くの思想信条を有し、日本を叱咤激励する文章はいつも過激だ。正論「談話室」に投稿をしていた当時は、皆からスパイ扱いをされていた。その後、帰国し復職していたが日本への思い断ち切れず、日本研究の専門学部の公費留学生として再来日。今も博士号取得を目指して頑張っている。
英語・日本語を駆使して、ネットや本など、彼の情報収集、そして分析能力には彼を知る誰もが驚いている。そんな不思議な青年:A君と明日このホテルロビーで再会予定だ。明日の一日はどんな北京の一日になるのだろう。乞うご期待だ。
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