2018/10/16 - 2018/10/19
5517位(同エリア11698件中)
明石DSさん
関空⇔上海(浦東)格安「Travel2be」で購入
なんでもパソコンで購入できる
これをプリントしたものが電子チケットになる
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1日目:10月16日(火):晴れ後曇り一時雨
出発・関空から上海へ
2018.平成30年10月16日(火)
■12年ぶり6回目の上海へ:いざ出発!
初の上海は1998/平成10年、48才で3回目の海外旅行だった。ちょうど20年前になる。長男が高卒後、上海外大「国際文化交流学院」に四年留学の始まった最初の年の12月、17才の二男と二人四泊五日の上海だった。
翌年は家内と、一年置いて2001/平成13年、17才の三男と行き、一応5人家族皆が長男の留学先を訪れた。
そのころの中国は、反日暴動吹き荒れた2012年の10年以上前で未だ発展途上、将来日本と中国との関りは更に深くなって行くのだろうと漠然と思っていた。
今回の航空券は7月5日自宅PCで格安航空券を検索し値段が安い「Travel2be」で購入した。東方航空:関空⇔上海往復「JPY33037.00」
20年前の初回は「日中青年旅行社」で「¥33,000円・・東方航空」ビザの取得手数料・・・・・7,000円・・・・・計40,000円だった。 http://www.jcyts.co.jp/
20年前と同じとは・・・へぇ~そうなんか。当時平成10年の為替レートは「1元≒15円」、今より円高時代。今回平成30年「1元≒18円」。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
日はまた昇る
塩屋から須磨に向かって・・・国道2号線を走る
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■自宅出発、ベイシャトルへ
「MU730」9時30分(発)なので朝5時に起きて朝風呂で目を覚まし、昨日夜に準備したリュック(6.8キロ)を担いで出発前の写真を家内に写してもらう。
これが遺影にならぬようにそっと心に祈る。今回も関空アクセスはポートアイランドから“ベイ・シャトル”を使ってなので車で午前5:42分我が家を出発。
国道2号線塩屋あたりで紀伊半島から夜明けの太陽が姿を現す。「さあ!行くぞ上海へ」と、渋滞なく快調に走り出発1時間後の6時44分“ベイ・シャトル”駐車場に到着。
待合室に入って7時15分発の乗船者の多いのにびっくり。早朝発はいつもこんな様子なのか・・・。往復乗船券は¥3,000円也。片道なら¥1,850円。 -
ポートアイランド(神戸)⇔関空
船便:ベイシャトル駐車場
船を利用すれば何日停めても無料
右駐車場は台風で若干陥没、使用不可 -
朝から待合室は混んで来た
この後も続々と乗客が増えていた -
こんなに多い乗船風景は初めて
整理券を持たず止められドキッとしたが
幸い定員オーバーではなく乗れて一安心
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■船に乗って関西国際空港へ到着
乗船時間が来て船に向かった。切符切りの兄さんに乗船券を渡そうとしたら「整理券は?」と聞かれハッとする。「えっ、何それ?」と言うとお兄さんはレシーバーで「持っていない人が一名、どうでしょうか?」と聞いていた。
「そうかさっき待合室で女性スタッフが券を配っていたなあ。乗船の整理券やったんか・・・定員オーバーしたら乗れないのかも?」とヒヤッとしながら立っていた。
まもなく「OK」と返事がありホッとする。ダメと言われたら、ここから車を飛ばして関空まで行くしかない。乗船客が多く出航も少し遅れ関空到着は7時53分。バスに乗り換え第一ターミナルへ。そして東方航空カウンターの「G」に午前8時過ぎに並ぶ。やはりすでに長蛇の列。
しかしここでも間抜けなミスをした。並んだのは「G」で良かったが天津行きのカウンターだった。15分くらい徐々に前に進みながら「あれ?ここは上海行きじゃあないで」と気が付いた。上海行は左横だった。そこにはすでに誰も並んでいなかった。
紐を潜って誰も並んでいない隣のカウンターへ。窓側席を頼むと、まだちゃんとあった。 -
まだ空席はあった。毎回これだけ乗ればなァ
ベイシャトルよ、潰れないでくれ!
というより神戸空港から国際便を飛ばしてくれ! -
東方航空 Gカウンター
「長い行列やなァ~」と並んでいたが
こっちは「天津行き」だった
「G6 7」が上海、すでに誰もいない -
手荷物検査の行列
やっぱり飛行機に乗るには余裕を持って早目に来ないと
こんな行列を見るだけで時間がなければ焦ってしまう
並び始めはもっと遠くで「えっ~、こんなとこから」だった
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■関空から浦東空港へ
そして手荷物検査へと向かう。そこも長蛇の列。火曜日の朝なのにこんなに多いのか?
その長蛇の列の写真とコメントを家族5人(我ら夫婦・息子三人)グループ“LINE”に送信したら、中国出張月一、二回している長男から「おはよう、気をつけて。いつもだいたいこの時間はこんな感じ」との返信あり。因みにこのグループ“LINE”に、三人の嫁は入ってない。
二男が作った家族“LINE”だが、何故?三人の嫁は入れないのか?嫁が返信や対応に困ると思うので・・・。“LINE”というのは便利な代物だが扱いに気を遣う。書かれた文字には抑揚も相手の表情もなく・・・返信なきも、何故?と考える。
この家族“LINE”に一番多く写真送信や書き込んでいるのは私だが返信はたまにあるだけ・・・しかし離れて暮らす息子三人の「既読」で生存確認は出来るし、家族ニュースとして発信している。ホントに便利、一人は現在アフリカ単身駐在だが普通に届く。
20分以上掛かって荷物検査・出国審査を終え、35番搭乗口到達は8時50分過ぎ、すぐに搭乗が始まった。「44A」の左窓側座席に9時4分には座っていた。乗客は8割方、空席もチラホラ、真中通路左右三座席の私の横は空席でラッキー。9時44分離陸、巨体が轟音と共に大空に舞い上がる?不思議だ。
しばし下界は見えたがすぐに見渡す限りの雲海の上へ、上には青空が。35分くらいして食事が配られた。関空→上海は2時間15分のフライト。少々窮屈でも機内食を食べ、お茶を飲む時間を含めて地球のどこへでも2時間くらいの空の旅なら最高だ!未来はどうなる?きっとそうなると思う。
この辺りで腕時計とデジカメの時間を上海時間、日本時間マイナス1時間に合せる。現在時午前9時20分になった。「焼きそば」と「果物」「どら焼き」完食。焼きそばの味は今一だけど文句は言えぬ。
上海が近づくとともに雲海の色も雨雲色、今日の天気予報は一時雨だった。しかし明日から晴れなので期待している。歩き回る予定なので天気良ければ全て良し。悪ければ当たり前だが諦めるしかない。空港が近づき降下態勢、雲の下に出た。
午前11時、浦東飛行場に無事着陸、その後飛行機で10分間ものドライブ。挙句に止まったのはターミナルではなく飛行場の外れ!バスに乗り換えるのは邪魔臭い。 -
35番搭乗口 同じ日同じ便に乗る人必ずいる
沢山人間がいればそういうものなのか?
今日上海にみんな何しに行くの? -
初めて飛行機に乗ったのは、確か27才くらい
職場から東京での講習に行かせてもらい
伊丹→羽田 二階建てジャンボ機だった -
轟音とともに一気に空高く
飛行機ならではの窓外の景色が見れる
上空から大地を見れば
陸地なんて“カサブタ”のようなものだ -
雲の上を飛ぶんなて・・・凄い景色だ
祖父母は新幹線も乗らず、両親は飛行機も乗らず
息子や孫はこの先何に乗るのだろう?
孫は成層圏を越えるのか? -
機内食はありがたい。気分転換になるし
みんな一緒が良い、窮屈だけど我慢する
今のビジネスクラスの座席がエコノミーになる日が来て欲しい
頼むからなんとかしてくれ! -
浦東空港へ到着間近
一時雨の天気予報通り雲に覆われた上海
天気だけはどうしようもない -
着陸後飛行機でドライブは面白くない
挙句にバスに乗り換えてターミナルへ
飛行機で直接ターミナルに付けてくれ -
着陸後30分でやっとターミナルに入る
2018/04/28:外国人入国時の指紋採取が始まったとのこと
分からんままに何とかクリアー「OK」の紙切れを持って
入国審査でまた指紋採取、共産党独裁国家
個人情報何でも根こそぎ収集
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■浦東空港
11時25分ターミナル入場、入国審査を受ける。12年ぶりの浦東での入国審査は以前と変わっていた。
まず「外国人はこっち」とその方向に進むと、自動の機械でパスポートをスキャンし、片方づつ四本の指紋採取、次に親指を交互に採取。傍に係員がいたので何とか出来たが一人でその場に立てばお手上げだった。何度もやり直してやっと10本の指紋が採取出来たようで「OK」との紙切れが出て来た。
その紙をパスポートに挟んでいつもの入国審査場へ。しかし確認の為なのかそこでも指紋の採取と顔写真を撮られる。入国者の指紋採取と顔写真は面倒だが当然だ。今や国境を越えての人の移動は当たり前。テロや犯罪、行方不明等々安全防犯国防の為にも世界中の人が指紋と顔写真を登録すれば良い。
ようするに国民総背番号制の拡大で世界の人に個別の背番号を与える。瞬時に識別可能だ。悪用の危険性を如何に防ぐのか?難しだろうけど、世界はいずれそうなる。指紋や顔認識で一瞬にしてどこの誰かが判明する。
そうなればキャッシュレスだけでなく、何も持たずに世界のどこでも全てのサービスが受けれる。医療も当然、経歴も学歴も健康状態も、なにもかも隠せることなし。そんな世界は人間にとってどうなのか?否応なくいずれそんな時代が来る?
ターミナルに入って入国審査を終え、空港内で5万円(2,793元≒1元18円)の両替をし、やっと出口まで、長~い時間が掛かったと思ったがデジカメ時間では20分くらいだった。
「あっと言う間に経つ時間」と「長~く感じる時間」とは如何なるものか?自分の好きなことをしてる時間は前者、恐怖・嫌なことは後者。人間は感情が全てを支配する。 -
空港内はどことも同じ景色で同じ雰囲気
同じと言うのが旅行者にとっても有難い -
出口の風景もまったく同じ
ここはどこ?そうだ浦東だ -
浦東空港から市内へは地下鉄で行く
案内表示があるので助かる
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■浦東空港から地下鉄で市内に向かう
浦東空港からまず2号線で「南京東路」まで行き10号線に乗り換えて一つ目の「豫園站」で下車。豫園站近くのホテル「康?上海外?酒店」へと向かう。地下鉄の乗り場を聞いてターミナルから長~い連絡通路を歩き、ずらっと並んだ自動券売機の前に来た。
「どうやって?」と思いながらもタッチパネルを触ってお金を入れようとしたが札が入らず。「間違っているのか?」と台を替えたり最初からやり直したり・・・と何度も、振り返れば若い男性がいたので「我不知道、不明白(分からない)」と言ったら、代わりにやってくれた。やはり札が入らず、台を替えて何度かのチャレンジでやっと買えた。豫園までの料金は7元。最高値は9元。
人民元は日本の紙幣より粗末だから見るからに入りにくい、硬貨の方が確実だ。出てくる切符はクレジットカード形状。座り心地の悪い固い椅子に座れたのは良かったが、八つ目の站:广?路(グアンランル:広蘭路=Gu?・ng l?・n l?・)で乗ってる人が皆降りるのを「えっ~?」と一瞬だが呆然と見ていた。
「地球の歩き方」に乗り換え必要との記述があったが、こっちで路線図を見ても同じ色で一直線だったので忘れていた。車内で一人になって降りた人がそのままホームに立っているのを見てとりあえず降りた。そこに逆方向から来た電車が止まり、扉が開いたら一斉にその車両に乗り込んだ。
私も慌てて乗り込みその車両は来た方向と反対方向に進みだした。今度は上海市内に向かって・・・。良く分からないけどややこしい。「広蘭路で地下鉄乗り換え」でネット検索すれば詳しい解説が沢山ある。当然座るのは不可能で立ったまま市内へと向かう。
黄浦江(Hu?・ngp?・ ji?・ng ホァンプウジャン)を越えた最初の站が南京東路(ナンジンドンルウ)。ここで降りて10号線へと連絡通路を歩く。表示があるので不安なく行けた。地下通路を右に左にエスカレーターでの上下もあり5分以上掛かって10号線ホームに到着。どっち側に乗れば?・・・これも行き先表示があるので分かる。
乗って一つ目で降り、どっち方向に出れば良いのか?百円ショップで買った方位磁石を手に北北西を確認する。今回の旅でこの方位磁石は大いに役立った。これがないと東西南北まったく分からず。さあここからホテルに向かって歩きだ。 -
長~い連絡通路を地下鉄の站を目指して歩く
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自動券売機の前に立ち 途方に暮れるが
適当にパネルにタッチして試すしかない
徐々に使い方も分かってくる
(豫園站撮影) -
地下鉄:浦東国際機場站ホームに辿り着く
空港出口から14分、長~く掛かった気がするけど
デジカメで写真を撮りまくっていれば時間経過が良く分かる -
豫園站から地上に出て北西方向を写す
この方向に康?上海外?酒店があるはず
雨の心配をしていたが地上に出て青空も見えラッキー
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■地下鉄:豫園站からホテルに向かう
地上に出たら浦東地区の高層ビル群がニョキニョキ聳えていた。上海市内の場合「東方明珠電視塔(468m)」と「上海中心大厦(632m)」が、下界を見張っているかのように、どこからでもその姿を見せる。神戸市内で例えれば「山側」「海側」というように浦東方向が分かる。
それと道路に名前表示が沢山あるので助かる。河南南路を北に歩き、金陵東路(西)→山東南路(北)→?最海(N?・ngh?・i寧海)東路(西)→と、昔のままの上海風情の残る裏通りのような道を歩いて、福建南路の康?上海外?酒店( カンパニール上海バンド ホテル )に迷うことなく無事到着。豫園のホームからデジカメ時間約20分。午後1時53分。
ホテル前の路上は駐車場のようで高級車が並んでいた。日本車もチラホラ・・・。反日暴動も今のところは沈静化。ホテルは7月にBooking.comでネット予約、三泊¥27,651円(1712元)バスタブなしのシャワーだけ。宿泊費に加えて有料の朝食をフロントで聞かれ三日間頼んだ。一日68元×3=204元 合計¥1916元(34,488円)
満洲旅行時に比べれば、私にとって十分豪華なホテル。お金を全額前払いで439号室、部屋のカードキーを受け取りエレベーターへ。二機ある右側に乗ったが4F表示を押しても反応せず。出て来て隣へ移ろうとしたら、フロントのお兄さんが慌てて来てくれて部屋カードキーを当てないと上がらないことが分かった。
思えばどこかで経験したが忘れていた。「ふ~ん、こうなってるのか・・・」と、カードキーを当てるのは昇りだけ降りる時は不要、なるほど。
部屋はダブルベッドが一つ、広くはないが不満はない。大きな窓が一つ、カーテンを開ければ遠方に高層ビルが林立し、すぐ傍には古い住居群、新旧上海の風景が広がっていた。天気予報通り一時雨のようで道も濡れたあとがある。 -
東方向には現代上海の象徴が聳えていた
40年前文革当時貧しかった国が
市場経済を取り入れこうなった -
日傘付き“オバチャン”運転のこれって三輪タクシー?
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100円ショップで購入の方位磁石
道具というのはホント便利だなァ -
豫園站→河南南路→金陵東路から
山東南路を北に歩く
路地裏を歩くのが旅の楽しさ -
迷うことなく「康?上海外?酒店」に到着
ぶらぶら歩きで豫園站から15分 -
ホテル前の路上が駐車場代わり
外国に行けば日本車の有無が気になる「あった」
高級車の分類では2割くらい日本車の感じ
http://news.livedoor.com/article/detail/15178068/ -
三泊四日する4階一番奥の「439号室」
三泊¥27,651円(1712元)
余程でない限り部屋に文句はない、満足
ホテル内ではハイファイは使えた -
バスタブがないのが残念だったが
綺麗・毎日すべてを取り換え補充してくれた -
窓から旧新の街並みが広がる
地下鉄「豫園・大世界・人民広場」駅まで徒歩OK -
周囲に繁華街はなかったけど
外灘・南京東路・豫園は徒歩圏内
歩き回る上海の旅には良かった -
1885/明治18年の神戸居留地
神戸外国人居留地の街並(海岸通)
そうか我が町神戸も・・・こんな景観になっていたのか
良くぞ日本は上海の二の舞にならずだった
先人達の奮闘努力のお陰なり
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■幕末上海を訪れた日本人たち
今回の上海の旅は上海での日本と日本人の歴史探訪と足跡巡り。建前はそうだがそんな予備知識もなく、ささやかな自己満足の範囲を出ない。年齢と共に下調べの意欲減退で読書量も減り仕方がない。初日午後からの半日観光は、「大世界」「新世界」「南京東路」「外灘」を巡って昔の建物を確認したり往時を偲ぶのが目的だった。
日本人と上海との関り。1553年(室町時代)倭寇の来襲から守る為に上海に城壁を作った。倭寇と言うのは日本人が主体なのか?朝鮮シナ人が主体だったのか?時期によって「倭寇」の実態は諸説様々あり。
そして2018/平成30年は1868年の明治維新150年だが、維新6年前の1862年幕府が「千歳丸」で51名の日本人を上海に派遣した。その中に8名の青年武士がおり誰もが知るのが上海でピストルを購入した高杉晋作だろう。この派遣での高杉及び他の青年武士の評価等についても様々な見解がある。
ネット検索すれば溢れる情報がありどれもが読めば面白い。その中の二つをここに記す。
(一)高杉の評価が低い『幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間』
(二)高杉の評価が高い『「高杉晋作の上海体験を読み解く」』
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13575
上海に来た23才の高杉。イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ等の外国人の町となった上海の姿に驚くと共に強い危機感を抱き帰国した。
帰国翌年の1863年に奇兵隊を創設。1864年8月イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国と「四ヶ国艦隊下関砲撃事件」が起き『連合国は「彦島の租借」を要求してきたが晋作は、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れず、結局は取り下げさせることに成功した。』・・・通訳担当の伊藤博文の自伝より。
伊藤博文は、自伝の中で「もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろう」と記している。この一事を思うだけでも高杉晋作の上海渡航には大きな意味があった。
「青年藩士たちの行動空間」では三名の行動を分析しているが、高杉はピストルと時計に興味があっただけで上海での行動範囲も狭く自身での積極行動はないとの辛辣な評価だ。
私が思うには、高杉は上海に足を踏み入れ白人共に好き勝手されている上海の現実を目の当たりにし、瞬時にすべてを察したのだ。
高杉たちの翌年1863年には長州藩から欧州に派遣された伊藤博文たち「長州五傑」も上海に降り立ち外国軍艦や蒸気船、上海の姿を目の当たりにして「攘夷」から「開国」に気持ちが変わった。
幕末に上海視察をした青年武士たちの共通認識は・・・。
「文久二年幕府派遣「千歳丸」随員の中国観」
http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/401/1/v3p197_yokoyama.pdf
①亡国の危機感をつのらせ,幕末の開国・改革に走らせる一助となった
②中国蔑視の芽を育んだ
その後も岩倉使節団が帰途「明治6年(1873年)9月上海に立ち寄っている」・・・この時は、浦江飯店(アスターホテル・ASTOR HOUSE HOTEL)に宿泊したようだ。
そして時は進み「第一次(1932/昭和7年1月28日-3月3日)、二次上海事変(1937/昭和12年年8月13日 - 10月26日) 」「支那事変」「大東亜戦争」と上海は日本人と大きく関わる地となった。 -
1800年後半の外灘
岩瀬弥四郎が1862/5月10日記す
「上海港碇泊外航船数」
軍艦イギリス13,フランス3,ロシア1の17艘
商船はイギリス53,フランス41,ハンプルグ8,支那5など合計120艘。 -
1890年の外灘
高杉上海来訪1862年の28年後の外灘
当時もこんな光景だったのだろう
写真で見るように租界は比較的綺麗であったが
県城の中国人の街はゴミと糞尿に埋もれていた -
高杉上海から帰国の二年後(1864年)
「四ヶ国艦隊下関砲撃事件」勃発
連合国によって占拠された長府の前田砲台 -
2013/平成25年8月8日の前田砲台跡(撮影:私)
怒涛の如く押し寄せた欧米列強の覇権拡張から
有色人種国家として唯一なんとか独立を堅持した
先人達の勇気と英断と犠牲によって今がある -
上海一日目の歩きが始まる
439号室を背にエレベーター方向を写す
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■大世界(ダスカ)へ行く
上海6回目にして初めて日本人の足跡を訪ねて歩くことになった。ホテル出発は午後2時50分。まず「大世界」を探して歩き始める。“Google・Map”のルート検索では徒歩5分の近さ。 ?最海東路を西に歩き、路地をウロウロして延安東路へ出て少し西に歩いたら大世界があった。建物の外観は誤爆当時の写真と同じだった。
「第二次上海事変」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html?sp
「上海防空戦 2」。
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/2-82ca.html
第二次上海事変
『1937年8月14日、広徳の基地を飛び立った中国爆撃機21機が、虹口の海軍陸戦隊本部ビル、日本領事館、黄浦江に停泊の旗艦出雲と僚艦を狙い爆撃に来た。その内の被弾した一機が大世界前の十字路に爆弾二発を誤爆。
誤爆は外灘のキャセイ・ホテル(和平飯店)、パレス・ホテル(和平飯店南楼)、23日には南京路のデパート街に。支那軍は日本軍の爆撃だと発表したがイタリア製の爆弾でありその嘘は直ぐにバレた。』
シナ人は今も昔も同じであり執拗に嘘を言い続け平気だ。
調べれば調べるほど、知れば知る程に戦後自虐史観に染まったまま先人を貶める反日偽善日本人に辟易する。誤爆と書いたが被弾した自らの機体を軽くし逃げようとした投下もあり、元より自国民を守る意識など伺い知れず。
盧溝橋事件から始まり支那事変も上海事変もそうだが、その始まりは断じて日本の覇権拡張を目指した先制攻撃ではない。
『ドイツの軍事顧問団は蒋介石に「中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案した。」』
『蒋介石は日本と戦うというファルケンハウゼン(独軍事顧問団団長)の考えに反対だった。それでも、ファルケンハウゼンは執拗に対日戦を主張した。』
『盧溝橋事件から半年以上前である1937年1月の時点で、既にドイツ軍事顧問団の提案に沿って上海前面の攻囲陣地が完成している』
・・・ようするにドイツは支那と日本との戦いを仕組んでいた。それに上海での日支軍衝突後は、上海租界の欧米は中立を装いながら・・・。
『工部局の行動は反日色彩が濃厚となり、24階建てブロードウェイ・マンションに展望台を設置し、イギリス人警官が中国軍のために日本軍陣地までの着弾距離を計測したり、中国軍に電話で戦況を伝えたり、貯蔵されていた物資を中国軍に提供している。』
支那は、欧米には植民地化され元より歯が立たず、しかし見下したい日本にはドイツの協力と欧米白人の根底にある有色人種蔑視「日本叩き」を利用して挑んでくる。
「通州事件」もそうだがシナ人の過去から今に続く残虐非道は捏造の南京虐殺そのままであり。日本軍の虐殺非道は、世界どの国の軍隊より少ないと信じる。
延安東路と西蔵南路の交差点に昔のままの姿でリニューアルされた大世界があった。「上海ナビ」によれば『2017年に10年以上の閉鎖期間を経てリニューアル。無形文化財を紹介する施設として生まれ変わりました。』とある。
1937/昭和12年8月14日、第二次上海事変、この大世界の前に中国軍機から二発の爆弾が投下され市民千名以上が死傷する惨劇があった。
先を急ぐので建物の中に入らず交差点に架かる歩道橋を渡りながら写真を撮って次の「新世界」を見つけに歩く。 -
康?上海外?酒店の一階フロント
-
一階奥はレストラン 朝食バイキングもここで
-
ホテル前の?最海東路を西に歩いて大世界へ
右手は公園 バスケ・ハーフコートあり -
延安東路に大世界はあった
上海事変はドイツが仕組み 上海租界の白人も
日本の進出に対し表向きはどうあれ反感を抱いていた
大東亜戦争は日本vs白人連合の戦いであり
有色人種が白人種に必死で挑んだ歴史の必然だ
もし日本が戦わずば・・・。
今の世界は白人列強の植民地経営が当然の世界のままだ -
1937/昭和12年8月14日 誤爆
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙 1937年9月16日
『日本軍は、ここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、
我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために
出来る限りの全てのことをした。
だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと
無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、
この衝突のなかに巻き込もうとする意図があるかのように思えた。』
戦前の日本を安易に非難するな! -
1937/昭和12年8月14日 誤爆による大世界前の大惨事
中国軍が愚かにもドイツと手を組み
日本に対して攻撃し、誤爆もいとわず
同胞を平気で殺戮する、不幸な国よ
『第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)』
https://youtu.be/Nr_eThF6I00
これがシナ人の実態だ↑ -
今も同じ場所に大世界はあった
第二次上海事変「1937年8月13日-10月26日」
11月8日までの日本軍の戦死者は9015名、日露戦争の奉天会戦以来の大規模な戦い
ちなみに南京占領までを合算すると、戦死者は2万1300名、負傷者は5万余
11月19日 蒋介石の南京国民政府が首都を重慶に移すことを決定。 -
2018/平成30年、81年前上海事変でこの路上に中国軍機の爆弾が落ちた
(抜粋)
1937/8月9日、張治中は蒋介石の許可なく事件を仕組んだ。
中国軍が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。
他に一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ門外で射殺された。
日本側の仕業に見せかけた。張治中は蒋介石に攻撃許可を求めた。
「本軍は本日午後5時を持って攻撃を開始する。計画は次の通り・・・」
8月14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃
大世界前他で誤爆数発があり死傷者多数がでる -
この分厚い本を持って上海を歩いた
詳しい地図と解説が書かれている
でもその場所が多過ぎて困った
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■大世界から新世界へ
私の旅はスタンプラリーの如し。分厚い「上海歴史ガイドマップ」(木之内誠 編著)とパソコンからプリントした地図を手に探しながら歩く。背中には小さいナップサックに水とお菓子、それに今日は折り畳み傘を入れて。
今は“Google・Map”のルート検索で大体の徒歩時間が分かる。それでも現地に来て「こんなん広すぎて歩きは無理」とか「案外小さな町だった(ウラジオストック)」と戸惑うことも多々ある。だが経験を積んでなのか?徐々にマップでのイメージと実際の誤差が少なくなった。
中蔵中路を北に歩く、道向こう左側に人民広場、人民公園がある。イギリス租界時代は三代目上海競馬場だった人民公園、当時場内にはプール、ミニゴルフ場、クリケット場なども。
途中、ビル正面最上部に「1929」昭和4年建立と銘記された歴史建築があった。旧東方飯店(1950年から上海市工人文化宮)、上海の大型旅館で競馬場に来る客で賑わっていたそうだ。
18世紀から19世紀初頭まで権勢を誇った「陽の沈まぬ大英帝国」、第二次大戦は米国の参戦により連合国勝者となったが、戦後植民地の独立によってその栄華は過去のものになった。
『マレー沖海戦の敗北と東洋のジブラルタルと言われる程の難攻不落の要塞と言われたシンガポール陥落は最も威信を傷付けたといわれる。』
日本軍の快進撃によって大英帝国はじめ列強の威信を揺らがせ、長きに渡り白人との戦いなど想定も出来なかった有色人種を驚愕させ勇気を与えたのは我らが先人だ。
目指す「新世界」が見えた。
『上海初期の娯楽場で南北2楼に別れ地下道で結ばれていた。大正4年、1915年(南)、そして1917年「大世界」が開場し、それに対抗して1918年(北)を建てた。1993年取り壊し大規模な商業ビル「新世界商城」が新築オープン』
・・・そうかこの建物は新装だったのか。 -
延安東路に架かる歩道橋から
大世界を背に北方向を写す
左側が競馬場跡の人民広場
前方右端に「新世界商城」が見える -
旧の背中に新
「1929」昭和4年建立:旧東方飯店
(1950年から上海市工人文化宮)
昔は上海の大型ホテルで競馬場に来る客で賑わっていた。 -
「新世界城」・南京東路歩行街西端にある
この建物は1993年建立だが、元は1915(南楼)1918(北楼)
大世界(1917)に対抗しての総合娯楽場だった
競馬場に娯楽場、当時の賑やかさが想像できる -
右側ビル:1936/昭和11年開業 大新公司(上海第一百貨商店)
へぇ~、第二次上海事変前年にオープン
10階建て、中国初のエスカレーター設置
大世界前の誤爆で大惨事は、その翌年だった
旧上海四大デパート
「上海市第一百貨商店」「上海市第一食品商店」
「上海華聯商廈」「上海時装」
-
初めてここを歩いたのは19年前の1999/平成11年
家内と二人でこの歩行者天国を歩いたが
中国人の服装が良くなっている感はあるけど
その時と今も同じように人が多く賑わってる
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■南京東路歩行街
新世界城の中にも入らず南京東路:歩行街(歩行者天国)へ進む。20年前の初回の上海は何故か?南京東路は歩いていないが、1999/平成11年の2回目以降は上海に来るたびに南京歩行街を歩き豫園にも行っている。
今回も19年前も感覚的に違いはない。歩く人の服装や通りに面しての建物も変わっているのだろうが同じ歩行街。
往来の人が多く、時折観光客を乗せた連結バスが通る。そんな風景も以前のまま。まずスタンプラリーの目当て「五・三0事件」の記念碑を見つける。1925/大正14年2月から労働運動が各地で広がり5月15日上海の日系内外綿工場で20才の顧正紅が射殺された。
それに端を発し『30日大規模デモが、ここ南京路であり租界警察の、イギリス人警部の命令で、中国人・インド人の警官がデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働者ら13人が射殺され、40人余りが負傷した。これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。』
その時、この南京路は血に染まった。確かに20世紀は世界的な戦争の世紀だった。しかしいつの世も世界各地で殺戮があり侵略があり強者に弱者は蹂躙されている。
平和を得るには、国を守り家族を守るには強者であり続けねばならない。綺麗事は動物世界でも人間世界でも通じない。他人の優しさは同情であり哀れみであり優越感の裏返しでもあり蔑視でもある。
日本人は個々では温厚であり常識人であり、狩猟民族には太刀打ち出来ない。しかし他にないものが一つある。それは「恥を知る」であり、すなわち「命より大切なものがある」という文化、精神性だ。
それこそが他に比類なき強靭さを隠し持つ。先祖に対し子孫に対し自分に対し恥ずかしくない生き様こそすべてだ。
今から93年前にこの場で起こった「五・三0事件」の「五卅慘案(W?・ s?・ c?・n'?・n ウーサンツァンアン)祈念碑」は、歩行街に入って直ぐの泰康食品店前に建っていた。その前で止まる人おらず。誰も関心なく通り過ぎてゆく。
そして気付けば午後3時過ぎ、機内食を完食したので、まだ昼食を食べていなかった。マクドナルド店(麦当? マイランダォ M?・id?・ngl?・o)があったので入った。
注文カウンターに人が数人並んでいたのでマクドを通り過ぎ同じ階のフードコートの中華店で「ワンタン?12元」と「焼き餃子10元」を食べる。味はまあまあ。
遅い昼食休憩後また南京東路歩行街をキョロキョロしながら歩く。重厚な古い建物が並んでいる。旧上海四大デパートの一つ、1917/大正6年開業、東亜飯店が入る「上海時装商店:錦江之星酒店」
道を挟んで、やはり旧上海四大デパートの一つ、1918/大正7年創業「永安百貨」の横で「魔都・上海」がテーマ?のような有料撮影をやっていた。
クラッシック・オープンカーと人力車を並べ、撮影スタッフの服装も借り衣装も、男は上海のギャングのような黒ずくめに黒ハット。女性はチャイナドレスを借りて女優になり切り写してもらう。
その撮影風景を私も含めての多くのやじ馬が見守る。昔も今もこれぞ上海の風景だろう!昔は知らないがそう思う。料金を確認するのを忘れた
江戸末期、1848年明治の20年前に建立の「老鳳祥銀樓」も小さいながら一見して存在感がある。2018年の今年建立から170年が経つ。建物も見事だがそれを建てた当時の人間も凄い。
雰囲気は初めて歩いた19年前、前回の12年前と変わらぬ歩行街をキョロキョロしながら外灘に向かって歩いた。私と同じ方向にも反対方向からも人の行列は途切れず続いている。 -
「五・三0事件」記念碑
1925/大正14年ここで租界警察の
イギリス人警部の命令により
中国人・インド人の警官がデモ隊に発砲
学生・労働者ら13人が射殺された -
「五・三0事件」記念碑の前で止まる人ナシ
私が10歳の時は1960年、終戦から15年だった
まだ先の戦争の記憶は生々しかったはずだ
今はもう終戦から73年がたち生々しさはない
残念無念だが時の経過はいかんともし難い -
上海市第一食品商店(新新公司)」旧四大デパートの一つ
午後3時半、機内食を食べたので遅い昼食となる
マクドを食べようと・・・この店に入った・・・が -
マクドのカウンターで並んでいたので
同じ階のこの店で食べることに
写真が掲示されているので助かる -
「ワンタン?12元」を食べる
味はまあまあ -
「焼き餃子10元」を食べる
焼き餃子も王将の方が美味い -
1918/大正7年創業「永安百貨(上海華聯商廈) 」
旧上海四大デパートの一つ -
永安百貨の横で有料写真撮影会があった
魔都「上海」時代を思わす格好で写真を撮る
「クラッシックカー」と「人力車」 -
時代は変われど人の容姿変わらぬ
人の中味はどうなのか? -
この人だかり
しばし見ていた -
右側:上海時装公司 (先施公司)
左側:上海華聯商廈 (永安公司)
旧上海四大デパート・南京路にすべてあり -
1848年建立「老鳳祥銀樓」
明治維新20年前からここに建つ -
案内標識は旅行者にとってありがたい
外灘まで500m・・・か -
南京東路を外灘に向かう人
外灘から歩行街へ向かう人
人の波は途切れることなし
どこから来てるんや?
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■外灘へ
そして外灘に近づくにつれて魔都上海・外国租界時代の景観漂う建物群が並び、中国の中では独特であろう上海の風景がここにあった。
黄浦江の通りに面して外灘の象徴でもあり偉容を誇る建築群はネットで検索すれば多くの情報がある。
「パリ、上海……世界の有名都市の変遷を振り返る」の1800年代後半の外灘の写真を見て分かるように今の建築群は、そのほとんどが1900年以降建立されている。 https://www.businessinsider.jp/post-1568
1862年、幕末に上海に来た高杉晋作一行も、1873/明治6年、岩倉使節団が米欧視察の帰路立ち寄った上海でも今とは違う外灘の風景だった。
しかし当時の外灘には小ぶりだが西洋建築の商館が建ち並び外国人に占拠されている事実は一目瞭然だったろう。
日本にも幕末から維新にかけて居留地も出来、1885/明治18年の神戸居留地の写真は外灘と変わらぬ風景がある。横浜にも幕末1866年上海と同じく横浜競馬場が開場した。
黒船来航等を通じ世界の脅威を肌で感じ欧米上海の生の現状を見た日本人の危機感が何となくでも分かる。
「支那人と犬はいるべからず」で分かるように、当時の白人は「人間は白人のみが人間である」と有色人種を我が物顔に見下ろし己が天下を誇っていた。
「神」「仏」等、理性偽善を前面に出さずば平常心を保てぬ人間は、表向き「強者は弱者を駆逐する」という本来の姿をひた隠し、白も黒も黄色もその他も「博愛」「平等」「自由」を絶対であるかのように等しく掲げる。
いつの世も「独立」「自由」「平和」は覚悟を持っての戦いに勝ち抜いてこそかろうじて得ることが出来る。真っ当なる大人なら肝に銘じろ!理想などあり得ぬからこそ理想だ!そして理想社会こそ退屈であり、この世の地獄だ!
南京東路から浦東地区の高層ビル群が一気に目に入る。共産党一党独裁シナの躍進ここにありと看板であるかのようい聳え立つ。これぞ黄浦江を挟み新旧見事な人工の景観だろう。正直見応えはある。
向かって左に東方明珠塔(467.9m)、右に上海中心大厦(Shanghai Tower 632m)ビル、その中に森ビルの「世界環球金融中心」(栓抜きビル)などズラーっと高層ビル群が建ち並ぶ。
20年前我が初の上海で長男・次男と三人で来て浦東を背景にここで記念写真を撮っている。
1998:平成10年12月25日(金)午後7時過ぎ1枚7元8ポーズ56元840円で写した写真の背景は東方明珠塔とまだ全面オープン(1999)前の暗い金茂大厦(1998竣工)くらいしか写っていない。
今日は火曜日だが観光客で溢れていた。 -
1929/昭和4年竣工
サッスーン・ハウス(沙遜大厦)→キャセイ・ホテル→和平飯店北楼
泊りたいけど私にとって高過ぎる
最安値一泊26000~3万円くらい
http://www.mrfujii.jp/history/02child/shanghai.htm -
上海発展の象徴 浦東に居並ぶ超高層ビル群
1998年私の初上海の浦東新区の超高層は
電視塔と金茂大厦(1998年竣工)くらいだった
20年たつと超高層ビルも捻じ曲がるんか!
右の632m 上海中心は龍として建つ
ふ~ん、今ではねじ曲りも珍しくはないようだ
『世界最高層「ねじれタワー」TOP10』 -
外灘の歴史建築群は外国人租界の象徴でもある
-
-
写真:1900年撮影の外灘、高杉来訪38年後の外灘
この写真のような外灘だったのでは?
「1900年德国公使??中的上海」
https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_1486914_1 -
100年後の景色やいかに?
中華人民共和国は消滅し、国名はいかに? -
この外灘に人が少ない日はあるのだろうか?
人の少ない時間帯もあるのだろうか?
朝も昼も、そして夜も、人で溢れる外灘 -
初めて目にした巨大牛
次に上海に来る日は???
もし来ることがあるなら
その時は、どんな事情で来るのだろう -
明日の夜、ライトアップされた外灘を見に来る予定
-
1937/昭和12年年8月14日 第二次上海事変
左:和平飯店(キャセイホテル)と右:和平飯店南楼(パレスホテル)
この付近に中華民国空軍機が投下した爆弾二発が落下
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■第二次上海事変 外灘での誤爆
87年前の1937/昭和12年年8月14日、第二次上海事変において、この黄浦江に停泊中の日本海軍巡洋艦「出雲」は中華民国空軍機(10機程度)より爆撃されるも第八戦隊僚艦と対空砲火で撃退する。
その時、爆弾投下を誤り、2発が和平飯店(キャセイホテル)と和平飯店南楼(パレスホテル)付近に落下、戦争見物していた群衆「729人が即死し、861人が負傷」、後の駐日アメリカ大使エドウィン・ライシャワーの兄も30歳でこの誤爆に巻き込まれて亡くなっている。
この31分後に大世界前にも誤爆、この日だけで中華民国空軍機は3000名以上の同胞を死傷させ、この後も発生している。
支那人には国も同胞も敵味方もないのでは?大陸の歴史は日本人が想像も及ばぬくらい凄まじいのだろう。
そんな支那相手に戦をするは極力避けるべきだ。しかし日清・日露・満州建国・上海事変から支那事変・大東亜戦争と致し方なく泥沼にのめり込んだ。それに対しての批判も非難もしない。まさに当時の世界情勢を鑑みれば致し方なくだ。
支那の伝統的な戦いに「督戦隊」がある。将来もし戦争があればやはり支那軍には督戦隊が存在するはずだ。上海事変でもそうだった。
【督戦隊に監視される中国軍部隊】
抜粋
『中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた。このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に1937/昭和12年10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。
これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。
10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている』
(抜粋:了)
戦争にルールなくそこには究極の修羅場がある。日本軍にも個々の戦場において後退してくる兵士を射殺したり、日頃憎き上官を後ろから撃って殺害したなどと言うことが戦記本や元兵士の伝聞証言などで語られている。
その現場を知らない私は否定できないし、しないが、組織的にしたという事実は知らない。
特攻隊員が出撃し、特攻機の不具合で戻って来たら上官から罵倒されたりもあっただろう。この大陸での戦闘で強姦も罪なき支那人の射殺もあっただろう。それらすべてを含めて戦争だ。
しかし日本軍、日本人の性根は今も昔も同様だ。何が?いや昔は今より数倍ましな道徳性も精神性も備えた日本人だったと思っている。これが誉め過ぎなら今と同じでも良い。
今の日本人、自分や周囲、今の支○○鮮の人間と比較しての日本人が、当時の日本人でもある。自衛隊のPKO部隊が諸外国に派遣されどこでも地元民に歓迎されている。私の二男は自衛官として東チモールにPKOで派遣された。その派遣先から家族にビデオ映像が二度ほど送られてきた。
ある派遣隊員が地元民が日本の自衛隊に感謝してくれるので「何で?」と、その理由を問うと「日本の自衛隊員は私たちと一緒に食事をしてくれる。ポルトガルの部隊はそんなことはしない」と言った。自衛官は「日本人にとっては当たり前なので、それで感謝されることに驚いた」とのこと。基本的に昔の日本軍人もそうだと私は信じている。
1931/昭和6年9月18日柳条湖での南満州鉄道爆破事件後関東軍はわずか五ヶ月で満洲全土を占領下においた。翌昭和7年第一次上海事変、その五年後1937/昭和12年第二次上海事変、1941/昭和16年 大東亜戦争開戦。
そして1945/昭和20年敗戦と満州事変勃発の昭和6年から昭和20年までの15年間は中国大陸とアジア各地、北は千島列島、太平洋全域の広大な地域で連合国・支那相手に戦い続けた。
1868年江戸から明治へと維新を成し遂げた極東の島国日本が大帝国を築き、世界を相手に戦ったエネルギーたるや想像に絶する。同じ日本人だったのか?と。
満洲でも支那でも日本軍が制圧統治を始めたらシナ人が大挙して押し寄せて来ている。満洲にも何度も行っているが満洲時代を知る高齢の老人は大概日本びいきだ。そんな経験を何度も実際に私は体験した。
昭和9年第二次上海事変三年前から
『蒋介石はドイツ軍大将ゼークト(ファルケンハウゼンの上官)の顧問就任を強く要請。ゼークトは北支の実地調査を行い、蒋介石に対して意見書を提出した。そのなかに、すでに「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策をとること」』とある。
当時の上海、いや列強の中の日本の立場が「白人vs黄色人」との現実が如実に示されている。
何が日独伊三国同盟だ。何が日露不可侵条約だ。日本など鼻から奴等の蔑視の対象だった。今も昔もこれからもだ!表立っての争いは無用だがそれが人類世界だと言うことを忘れるべからず。
何ら不幸でも差別でもない、ただそれが現実というだけのことだ。堂々と生きるべし!生まれる時も国も親も選べず。今68才にして外灘に気楽に遊べる私は先人に感謝あるのみ。
これからも生きている限り歴史の真実は求め続ける。その歴史において先人の善行は例え間違えても傷つく者は少ない。しかし確たる証拠もないのに「悪」とするのは万万が一にも間違えれば取り返し付かず。
万死に値する。いや例え死んでもその罪は償えず。 -
当時の日常時の風景
右:キャセイホテル 左:パレス・ホテル
外灘から北に向かっての写真 -
1937/昭和12年年8月14日 第二次上海事変
右:キャセイホテル 左:パレス・ホテル
爆弾落下の惨状 -
戦争見物していた群衆「729人が即死し、861人が負傷」
http://www.geocities.jp/torikai007/japanchina/813shanghai.html -
督戦隊というのが通常の部隊で部隊旗まであるとは?
当たり前のように「敵味方もなく殺し合う」・・・なら
それでは真の敵は一体どうなるのか?
写真『中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗
1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。』 -
外灘から四馬路と呼ばれていた福州路へ入る。
福州路の一つ北の道は漢口路で三馬路と呼ばれていた
正統史観年表「「第二次上海事変」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
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■四馬路(スマロ)と昔呼ばれた福州路を歩きホテルに戻る
外灘の人込み、中国語の喧騒の中で40分程の時を過ごし、千歳丸(1862)から上海事変、大東亜戦争から今(2018)の156年間を振り返りつつホテルへの帰路につく。
帰り道は四馬路(スマロ)と昔呼ばれた福州路を歩く。私世代までなら誰もが聞いたことのある『ディク・ミネ / 夜霧のブルース 』に「夢の四馬路(スマロ)か虹口(ホンキュウ)の街か」の歌詞がある。
上海は日本人にとってもビザ不要で気軽に行けた外国だった。長崎⇔上海の定期航路(26時間程)は、1923/大正12年からで「長崎県上海村」「東京へは羽織袴、上海へは下駄ばきで」と言われるほど異国とはいえ日本人も多く身近だったのだろう。
1872/明治5年 維新後早くも上海領事館が開設され。その22年後の1894/明治に27年日清戦争、28年日清戦争勝利によって世界での日本及び日本人の評価は一気に上がった。
当時イギリス留学中の日本人の興奮が分かる
『「タイムス」は本邦人を目してNew Powerとなし、東洋人として軽蔑し来りたる迷夢を払去りて大いに本邦に対し畏敬の心を起こしたり』
「日露戦争勝利」で更に世界は驚愕したろう。当時の日本人の意気揚々とした目の輝きが想像できる。私にとって「1868/明治元年~1945/昭和20年」までの77年間が、日本歴史上最高の時代であり最高の日本人が生きていた。
戦後に生き延びた日本人も、戦後に生まれ育った日本人もまったく同じムジナとなり、つまらぬことこの上ない。今は誰がなんと言おうがぶざまな商人国家なり。
午後5時過ぎ、福州路に入ってすぐの小吃店「鮮食?( シーシーフイ Xiānshí huì)」の店前写真に「お粥」があったので夕食となった。こぎれいな店で料理もそれなりのレベルだった。
メニューの簡体字を見ても分からない。カウンターでの注文なので指差しで「上海少?包(シャオロンバオ Xiǎo lóng bāo)15元)」「小米白粥加?菜(シャオミィバイジョージャージャンツァイ Xiǎomǐ báizhōu jiā jiàngcài)10元」を頼んで食べる。美味しかった。
上海に行く前、「上海ではキャッシュレス化が進んでいる」と言うのをニュースで見たりした記憶はあったが忘れていた。それに気付いたのは結局帰国してからになった。
帰国してから日本で働いている在日上海人に「スマホでの支払い」を聞かれて「あっ、そうか、それやったんや」と度々見た「スマホ清算」が一瞬で蘇った。
この店でもそうだったが滞在中に小さな食堂でも若い客がスマホを「QRコード」に当てて店の人に確認するのを何度も見た。
でも「こんな小さな店を登録して何があるの?」と不可思議な感じしかなかったが「QRコード決済・スマホ支払い」だったんだと。確かに日本より、いや明石より遥かに進んでいる。 -
「夢の四馬路(スマロ)か虹口(ホンキュウ)の街か」
昔上海で暮らした日本人には「夢のスマロ」だった
一体どんな夢のスマロだったのかなァ~ -
福州路沿いにあった小吃店で夕食を
このガイドブックを片手に歩いた
お粥は美味しい
「小米白粥加?菜 10元」 -
カウンターで注文する
こういった店が増えている気がする
料理の写真表示もあったりするので助かる -
「上海少?包(シャオロンバオ Xiǎo lóng bāo)15元)」
小籠包を食べる -
「上海少?包(シャオロンバオ Xiǎo lóng bāo)15元)」
小籠包を食べる -
福州路を西に歩いていたら突如私の目に
特徴のある建物「工部局」(老市府大楼)が現れた
「そうか、これが工部局だ・・・・」と
1913~1921/大正10年竣工、8年の歳月を掛けて
花崗岩の外壁で重厚感は今も十分ある
外国共同租界に日本も加わっていた
今のG7は「仏・米・英・独・日・伊・加」
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■租界時代の行政機関「工部局」
今朝、明石を発ち関空→上海、そして上海市黄浦区福建南路33号の「康?上海外?酒店」に到着。午後3時前にホテルを出て約2時間歩き続けている。
次に探すのは外国租界の行政最高管理機構であった「工部局」。1913/大正2年着工、1921/大正10年竣工とある。「えっ!8年も掛けて作ったの?」と驚きだ。
写真で見ていたその建物は突然のように私の目の前に現れた。高さはないが入口が逆アーチのようで特徴がある。建物は東西が「福州路から漢口路」南北は「江西中路から河南中路」までの一区画を占めていた。
一周歩いたが租界の最高機関でもあり8年もの歳月を掛けて建立した建物は見るからに歴史を感じ重厚感がある。
『工部局は1854年に既存の英国租界と米国租界をまとめて管理するために再組織され、その後日本がこれに加わり、イギリス5人、日本とアメリカより2人ずつの計9人の参事会員が選出され上海共同租界を運営していた。 』・・・白人列強の中に日本あり。
今も主要国首脳会議:G7は仏・米・英・独・日・伊・加。G8なら露が増える。
福州路(南北)と江西中路(東西)の交差点を挟み工部局の斜め向かいにもデッカく古い建物が建っていた。
「工部局」竣工の12年後1933/昭和8年に建ったオフィスビル「ハミルトン・ハウス(福州大楼)」・・・今は「華東電子機材公司」が入っている。
外灘 工部局周辺は領事館や租界の警察本部「新中央巡捕房(警察)」現在は上海市公安局。などのお堅い機関がある地域だと思い込んでいたが・・・。
少し歩けば周辺には『南京東路 人民公園からすぐ 昔の花街 福州路から 旧・四馬路は 老上海の名高い娼婦街でした』・・・これが上海だという場所が沢山あるようだ。「秘境 上海情報 」
http://d.hatena.ne.jp/ekobiiki888/20140306/1394114141
午後5時26分、ボチボチ夕暮れが迫り写真も写しにくくなった。工部局の外周を廻り漢口路の方から守衛がいたと思うけど何食わぬ顔で中に入った。
L字型で中庭があり、「民生局」「衛生局」「市政府労働局」「消防局」などが入っているようだ。警察車両も停まっていた。
中庭から西方向正面に屋上に花開く「ザ ウェスティン バンド センター 上海 (上海外灘中心威斯汀大飯店) 」が見えた。外に出ると目の前にハミルトン・ハウスが聳えていた。工部局を探し当て、今日の目標は全て達成、ホテルへの帰路につく。
ホテル傍のコンビニでペットボトルの紅茶を買い部屋に辿り着く。スマホ歩数計は「16,041歩、11.8キロ」
明日もホテルからずっと歩きで外灘→旧日本領事館→呉淞路・四川北路をグルグル歩いて魯迅公園を目指す。日本人がこの辺りに沢山暮らしていた。内山書店址にも・・・。
とりあえず疲れた。明日に備えて寝る。 -
工部局の対面に建つ「ハミルトン・ハウス(福州大楼)」
「工部局」竣工の12年後1933/昭和8年に建った -
工部局はデカイ
福州路(南) 江西中路(東)
漢口路(北) 河南中路(西)
この四つの道に建物全体が囲まれている -
漢口路から工部局を写す こっちが正面玄関
「上海共同租界」 -
工部局中庭を歩く
正面に屋上花びら「上海外灘中心」
この「屋上花びらビル」も良く目についた -
中庭から福州路への出口を通って外へ
租界時代は白人が闊歩してたことだろう
そんな中で日本人も頑張っていた -
出たら正面に「ハミルトン・ハウス(福州大楼)」がある
-
福州路から外れてホテルに向かっていたら
「旬鮮」こんな店を見つけ・・・思わず写真を撮る
上海市黄浦区昭通路24号(近河南中路昭通路) -
福建中路から延安東路に架かる歩道橋を渡り
康?上海外?酒店に到着、初日の歩きは終了 -
スマホ歩数計は「16,041歩、11.8キロ」
朝の5時起き、5:42分我が家を出発
午後6時前にホテルに戻る。疲れた
明日は今回の旅のメーンの一日
虹口(ホンキュウ)を歩き回るぞ!
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