2015/02/02 - 2015/02/06
2443位(同エリア4505件中)
明石DSさん
高雄の朝
6:33
尊龍大飯店の朝食バイキング
写真を写さず何を食べたか記憶にない
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4日目:2月5日(木):晴れ
高雄の一日
2015/平成27年2月5日(木)
■高雄の朝
尊龍大飯店の朝食は6時半から。いつものように5時半頃には目覚めて準備し、早速朝飯を食べに行く。まだガラガラで人もほとんどなくバイキング形式で食べたい物を皿に盛りテーブルに・・・。野菜を多くとって食べたけど写真を写していなく忘れた。覚えているのは豆漿(豆乳)を二杯飲んだ。
そして薄切りの食パン一枚をトースターで焼いてジャムを付けて食べる。空は薄曇、レストランの窓から「長谷世貿聯合國大樓」高221.6米,地上50階、地下5階が見えていた。
部屋に戻ってトイレに行ったら便器の横に「トイレットペーパーを便器に流さないように」と中国語・英語・日本語での注意書きがあった。「えっ、こんなホテルでも?」と驚いた。恒春のホテルでもそんな注意書きはなかった。もしかしたら注意書きの有無に関わらず流してはいけないのかも?
こんな張り紙を見たのは台湾5回目の旅で初めてのような気がするが・・・台湾ではこれが普通のようだ。昔の「ぽっちょん便所」でも便壺に落とした。すぐ横のゴミ箱に鼻紙捨てるように捨てるのはどうも抵抗がある。慣れてないから。
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木曜日の朝一、食堂に人は少なく
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「長谷世貿聯合國大樓」
高221.6米,地上50階、地下5階
食堂から見えた、ズームで写す
「あべのハルカス」
高300米、地上60階、地下5階 -
部屋のトイレに貼紙
「トイレットペーパーを便器に流さないように」
そうか、違和感あるけどこれが世界の常識?
まだまだ流せるのは世界でも少数のようだ -
高雄周遊のスタート
7:47
予定通り美麗島から二つ目の「鹽?結埔站」4番出口に出た
高雄市立歴史博物館(旧高雄市役所)へと
北に歩くつもりが何を勘違いしたのか?
大勇路を反対方向(南)に向かった
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■高雄周遊のスタート
午前7時20分過ぎに部屋を出て高雄散策のスタート。最初の目的地は、高雄市立歴史博物館(旧高雄市役所)。MRT美麗島の西方向二つ目の駅「鹽?結埔(Yanchengpu)站」で降りて距離550m徒歩7分のはず。“Google”地図ルート検索徒歩コースをプリントして持参。
出口は「2、3、4番」地上に出て魔が差したのか?狐につままれたのか?大勇路を北へ向かうはずが南に歩いてしまった。その時も帰路に再び戻ってきた時にも気付かず。やっぱり方位磁石は「歩き旅」には必需だ。今まで持っていた方位磁石の調子が悪く、今回の旅の前に買おうと思いながら買わずに来てしまった。
間違いを知らずに歩いていたら「武徳殿1km」という標識が目に入った。そしてそんな近いなら博物館に行く前に行って見ようと、軽い気持ちで五福四路を西に歩いたら、すでに廃線となっている高雄臨港線の構内に入った。広い敷地に沢山のレールが残り高雄港駅が「打狗鉄道故事館」として保存されいる。その時近くまで行っていたはずだが知らなかった。
高雄臨港線の公園には武徳殿の案内標識もなく散歩中の何人かの人に聞きながらその方向に向かう。最後は消防署(鼓山分隊)が道沿いにあったので署員に聞いて無事に武徳殿に辿り着く。
https://www.google.co.jp/maps/@22.623172,120.275665,3a,89.9y,308.61h,83.52t/data=!3m4!1e1!3m2!1sCbWOpxRYnJNHvcKA0_ap-w!2e0?hl=ja
そしてビックリ!「あれっ、ここは見たことあるで、高雄神社から旗津への船乗り場(鼓山輪渡站)へ行く道ちゃうか?」と。
地図と“ストリートビュー”の写真のプリントを持参していたので確認したら鼓山國小もあり、やはりそうだった。今日の順路はまず博物館(旧高雄市役所)へ行き、そこからタクシーで高雄神社、そして神社から歩いてフェリー乗り場の鼓山輪渡站へ行く予定だった。
でもここまで来たので武徳殿から高雄神社、そしてまた船乗り場まで歩き旗津からの帰りに旧高雄市役所に行こうと変更した。デジカメ時間「鹽?結埔站」→「武徳殿」は迷ったこともあって徒歩40分ほど掛かっていた。 -
すぐに五福四路で「武徳殿1km」との標識が目にとまり
「1kmか、すぐやなァ。先にちょっと行って見よう」と
武徳殿に向かって歩き出す -
7:59
武徳殿への標識が見当たらず迷う
線路が並んだ高雄臨港線跡地
「高雄港站鐵道文化園區」へ出る -
8:16
消防署(鼓山分隊)の署員に武徳殿を尋ね
登山街を西へ歩く -
赤煉瓦と黒瓦屋根、和洋折衷の外観だが
凛とし気品に溢れ見て美しい
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■「高雄 武徳殿」
http://superspace.moc.gov.tw/jp/local_culture_page.asp?rid=178
一目見て感動した。日本でこの建物に接しても感動はしないかもだが、この高雄で見たら感動する。私は戦後生まれで自虐史観世相の中で育ち、新聞テレビメディアも戦後の似非平和を賛美し、今も表立っては大東亜戦争を間違いだったと言う者が良識人として評価されている。
だから私は意地でも敗戦までの日本と日本人を無制限に賛美する。そして大東亜戦争を賛美してやまない。賛美には一点の曇りもない。悪行は一切探さない、見つけても見ない。たまたま偶然に知っても無視する。そして先人の善行は重箱の隅を探しても知りたい、見つけたい。ハハハそれが私だ。
併合した台湾で立派な武徳殿に出会って感動する。予定になかったけど来れて良かった見れて良かった。日本人は高雄の地にこれを建てた。腐った日本人は言うだろう「併合下で日本人は台湾人を差別した」と。差別は当然だ。ちなみに私の認識は「差別」は「区別」でもあり「悪」ではなく「善」だ。
「差別」「区別」は公平の源であり、万人の活力の元となる。支配者と被支配者は元より同じ権利を有する道理がない。それでは支配の意味がない。創業社長と従業員が同じ権利を有する分けがない。それと同じだ。親と子供が同じ権利を有する分けがない。そこに厳然たる区別差別があってこそ人の世は真っ当になる。国家レベルでも同じだ。
そして「○○人は嫌い」「○○人は好き」は、差別ではない。好き嫌いの感情だ。「感情」こそ人間の最重要な権利であり誰に左右されるものでもない。「りんごが好き」「スカイは嫌い」と同じ次元だ。嫌いな物は嫌いであり、嫌いが突然何かの理由で好きになることもある。ただそれだけのことだ。
私は○○○○人が嫌いだ。これは私の感情であり嫌なものは嫌なのだ。そして誰であれ是非の判断は感情が最優先する。嫌な奴が言うことには同意しない。いくら論理的に言おうが屁理屈をこねようが結論は感情が優先する。「本能は善で理性は偽善だ」
但し「極端に不当な差別・区別」は別だ。「小学校」「公学校」「蕃人公学校」の別は不当な差別ではない。台湾人だけが通った公学校にも驚くほど素晴らしい学校はある。確かに武徳殿前の「鼓山國小」は日本人子弟の学校として創立(1907/明治40年、打狗学校)した。
「小学校」「公学校」「蕃人公学校」の別は言葉や慣習の違い、その他のいろんな要素も考えてのことだ。その時代でなされた行いは、まずその時代の相対評価ですべき。日本の台湾併合を植民地化というなら、当時の白人列強の植民地支配と比較して日本の併合政策を評価しろ。もはや物言えぬ先人を誉めるのはいくら誉めすぎても罪はない。しかし貶めたり非難冒涜は今の常識や綺麗事でするな。
武徳殿は外部が改修中のようで作業用フェンスなどがあり、周囲に誰もいなく内部にも入れなかった。でも建物の壮麗さには目を見張る。二年前の2013/平成25年10月「台南の武徳殿」にも行った。
http://4travel.jp/travelogue/10841305
高雄はレンガを使っており美的にも素晴らしい建物だ。
玄関の庇は丸みを帯びたエンタシス石柱で屋根は和風。内部は覗いただけだが床は磨かれ武道場としても素晴らしい。玄関から正面奥に武徳殿の額が飾られその下左右にに鎧兜と太鼓が置かれていた。
日本時代は振武館と呼ばれ、今も剣道場として練習生募集のパンフレットがあった。文武両道は人間教育の基本だ。どちらを疎かにしても人は立派に育たない。「高雄・武徳殿の新春祭りに参加してきました」
http://yaplog.jp/mimichachapo/archive/1514
外構えの修復工事はすでに完工した様でネットには私が訪れた二週間後の2月20日に「武?・殿修護完工」記事を見つけた。
https://tw.news.yahoo.com/%E6%97%97%E5%B1%B1%E6%AD%A6%E5%BE%B7%E6%AE%BF%E4%BF%AE%E8%AD%B7%E5%AE%8C%E5%B7%A5-%E6%88%90%E6%97%97%E7%BE%8E%E6%96%B0%E6%99%AF%E9%BB%9E-120811404.html -
玄関の石柱はエンタシス
1924/皇紀2584年・大正13年の落成
7月31日 - 阪神甲子園球場完成
私は「巨人・大鵬・玉子焼き」
2015/平成27年現在:築91年
https://www.google.com/maps/@22.624405,120.272391,3a,75y,2.08h,86.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1sTdu1-me3bqoRbk7Y3WnAgw!2e0?hl=ja-JP -
玄関には注連縄(しめなわ)が吊るされ厄や禍を祓う
昔「振武館」と呼ばれていた
今も「振武館道場」として活動している -
窓ガラス越しだが
床は磨かれゴミ一つない
文武両道こそ教育の原点だ
真に強い者は優しい
私は優しくない
武道をやっておけば良かった -
昔の武徳殿の写真・・・今も同じだ
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武徳殿の前に立つ「鼓山國小」
1907/明治40年、打狗学校
日本人子弟の学校として創立
高雄 武徳殿
https://youtu.be/lY4V04xBHNI -
武徳殿の東隣「登山街32巷」の階段を登って行けば
千光寺前の道に出る、この道が高雄神社に通じる
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■高雄神社跡(忠烈祠)へ
武徳殿のすぐ横が高雄神社に行く階段だった。予定では高雄神社から降りて来るはずの道が行く道になった。階段を登ると千光寺前に出てそこから自動車道を歩く。國立中山大学へ通う学生が原付でどんどん追い越して行く。武徳殿から10分ちょっとで道をまたいで立つ大きな高雄神社の鳥居に出た。今は中華風の鳥居に改修され忠烈祠と書かれているが高雄神社時代の物のようだ。
そして8時49分高雄神社の前に到着。幅広の階段参道が正面にあった。階段左右には狛犬が・・・いや、当時の神社の図面によれば狛犬ではなく唐獅子と記されている。しかしこの唐獅子の台座に「中華民國四十八年/1959年)」と刻まれている。いつの物か?「獅子と狛犬」・・・いろんな変遷があるようだ。
そして何よりここには階段参道正面に面して両側に「大東亜戦争完遂祈願」の大きな碑が建っている。昭和十六年十二月八日起工と記され、まさに大東亜戦争完遂を祈願する大きな石塔。今は左右の石塔とも上部に「青天白日の紋章」が入った小さなモニュメントを載せているが良くぞ破壊せず残してくれた。
日本統治50年の歴史の中で高雄山から寿山になり、金比羅神社が高雄神社になった。そして敗戦後は忠烈祠として戦没した中国人の英霊を祀る祠となって今に至る。台湾は日清戦争後に割譲され日本になり台湾人(本省人)は日本人として大東亜戦争を戦った。戦後占領軍として進駐した国民党軍が不法に居座り、その少数の外省人が長く権力の座に座った。
大東亜戦争は欧米列強の日本叩きから日本の自存自立を守る戦いだったが大東亜共栄圏・八紘一宇の大儀を掲げてのアジア解放の戦いでもあった。そして戦争には敗れたが掲げた大儀の目的はほぼ完遂した。日本が孤軍奮闘獅子奮迅で“一敗地に塗(まみ)れた”結果アジアのみらず世界の植民地国は戦後独立への道をひた走り、今の世界がある。
朝鮮も台湾も日本の敗戦を「光復節」と表向きは言っているが、日本統治の前に生まれ“ビフォー・アフター”を知る者は日本統治の実際をどう思っているのか?想像に容易い。特に北朝鮮の高齢者は皆分かっているはずだ。満洲に行った時、何度か現地の満洲時代を知る中国の老人に呼び止められ「日本は素晴らしい。中国はダメだ」と握手を求められた。内モンゴルでは「もう一度満州国を建国して」と言われた。
日本の満洲建国後万里の長城を越えて多くの漢族が満洲に移住してきた。その一事が日本統治の現実を示している。韓国は光復節から70年が経ち日本時代の教育や道徳観念が薄れ急速にぶざまな李氏朝鮮時代に先祖返りをしている。
日本の敗戦で何より良かったのはそんな朝○半島が日本でなくなったことだ。「賢者は歴史に学ぶ」なら支○○鮮と金輪際関わらないことが日本の幸だと確信する。石塔には佐賀懸と書かれた下部に漢字五文字が刻まれているが読めなかった。 -
8:41
國立中山大学に通う学生が
原付で次々と校門をくぐる -
高雄神社手前に建つ鳥居
日本時代の鳥居のようだけど -
参道大階段
階段左右には唐獅子
1912/明治45年「打狗金刀比羅神社」→1920/大正9年「打狗神社」→同年12月「高雄神社に改称」
1928/昭和3年「社殿を寿山の中腹に遷座」→1932/昭和7年4月22日「県社に列格」
戦後、社殿が取り壊され高雄市忠烈祠となる
「高雄神社見取り図」
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink_img.php?id=1561
https://www.google.com/maps/@22.625435,120.274625,3a,75y,340.6h,91.53t/data=!3m4!1e1!3m2!1sbfNPI_VHsLnLtIr-XDqJFA!2e0?hl=ja-JP -
大階段手前正面左右に二基の石塔が建つ
大東亜戦争完遂祈願:昭和16年12月8日起工
上部に「青天白日の紋章」が」あるが
良くぞ破壊せず残してくれた -
大東亜戦争完遂祈願
先の大戦は断じて太平洋戦争にあらず
「大東亜戦争」なり
1941/昭和16年12月12日に東條内閣が
「支那事変も含めて大東亜戦争とする」と閣議決定した
開戦に踏み切った時の日本政府が決めた名称を
戦後日本人が変更するのは歴史を改竄するに等しい -
参道大階段から
唐獅子と「大東亜戦争完遂祈願」石塔を写す -
高雄神社見取り図
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高雄神社絵葉書
1945/70年前はこの神社がここにあった
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■高雄神社
大階段参道を上ったらその前方に中階段があり、中階段手前左右に日本時代の灯籠がある。灯籠には「高雄市国民学校職員生徒児童一同」の文字が読めた。上にはこれにも「青天白日の紋章」入りモニュメントを載せている。高雄神社なら中階段を上がって左に手洗舎、右手に社務所、正面に拝殿 中殿、その奥に神殿があった。
忠烈祠前の回廊には写真の展示がある。国父?孫文と大陸中国での抗日戦の写真がほとんどだったがその中で一枚初めて見る女性の写真が目にとまった。最初見たとき和服らしき格好と髪型で「日本女性なの?」と思ったがその名は「秋瑾(しゅうきん)」、一枚の写真しかなかったが顔が良い。
秋瑾は1904/明治37年(2月8日日露戦争開戦)〜1905/明治38年(9月5日日露戦争勝利)の一年間ほど日本に留学していた。その時日本は大国ロシアに戦いを挑み世界の予想を翻して勝利した。日本国内はどんな雰囲気だったのだろう。
当時を想像するだけで胸が高鳴る。秋瑾もそんな日本を目の当たりにして清朝打倒に燃えたのも頷ける。満31歳で斬首された。今の日本にも秋瑾のような女性の登場を願う。「秋風秋雨人を愁殺す」
高雄神社(高雄忠烈祠)からの景色は素晴らしい。靄がかかってぼんやりだったが、それでも台湾第二の大都会が眼前に広がっていた。高層ビルが林立する中ひときわ高い「高雄八五大樓」(高さ347m、地上85階地下5階)がそびえていた。ちなみに日本一は「あべのハルカス(高さ:60階 300m)」、世界一はドバイ「ブルジュ・ハリファ(最頂部828.9 m、最上階621.3m、160階)」
高雄港も日本時代に大きく拡張されたが大戦時には連合国軍に手ひどく爆撃を受けている。そして手前には高雄臨港線跡のレールが敷かれたままの哈瑪星鐵道文化園區(公園)が広がっていた。高雄神社からの眺めは今でこそ高層ビル立ち並ぶ大都会だが、70年前の日本時代のここからの風景はどうだったのだろう。そんなことを思いながらしばし眺めていた。高雄神社滞在はデジカメ時間8:50〜9:50約1時間いた。 -
高雄神社:大階段を上がって鳥居
左右に神馬があった -
忠烈祠の鳥居、昔はこの左右に神馬があった
国民党:?拔介石が国共内戦により
台湾に逃げ込み、不法に居座った
日本は敗戦により台湾を放棄したが
台湾の帰属は国際法的には未確定
台湾問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C -
境内より昔の写真
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境内より高雄市を写す
上は昔の写真 -
前方に中階段、その向こうに拝殿があった
参道左右に灯籠がずっらと並んでいた -
中階段左右に日本時代の灯籠がある
「大東亜戦争戦争完遂祈願」の石塔と同じく
この上にも「青天白日の紋章」入り
モニュメントを載せている -
灯籠には
「高雄市国民学校職員生徒児童一同」と書かれている -
忠烈祠
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忠烈祠の周囲回廊に抗日写真の展示沢山あり
その中でこの写真は初めて見る写真だった
その名は「秋瑾(しゅうきん)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%91%BE -
この写真は日本留学時に撮影した
「秋風秋雨人を愁殺す」武田泰淳(著)
秋瑾は日露戦争時、日本に留学していた
帰国後清朝打倒に燃え、満31歳で斬首された
誇りを失った日本民族を再生するには
秋瑾のような大和撫子の登場が必要だ -
高雄神社より写す
「高雄八五大樓」(高さ347m、地上85階地下5階)
旧高雄神社
https://youtu.be/sD_w0vS8_L0 -
千光寺前の階段を降りて戻って来た
この鼓波街を真っ直ぐ行けば船着場(鼓山輪渡站)
右に「鼓山國小」「高雄武徳殿」がある
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■旗津(きしん Qijin チージン)へ向かう
高雄神社に来た道を戻らず「近道なのかも?」と降りた道が違っておりまた引き返し武徳殿から来た道に戻った。朝から歩き通しですでに足は棒になのに無駄足は余計疲れる。
千光寺から登山街32巷階段を下って「鼓山國小」横の鼓波街を「鼓山輪渡站(フェリー乗り場)」へ向かう。
途中で豆漿(15元)を飲んで小休止。10分足らず(10時34分)で鼓山輪渡站へ到着。15元(大人)の切符を購入し10時40分には船のデッキに立っていた。旗津での行き先は「旗津國小」「高雄市戰爭與和平紀念公園」「旗津砲台跡」の三ヶ所。
船のデッキからあちこち眺めながらあっと言う間に対岸の旗津輪渡站に着いた。
早速船着場前のレンタサイクルの店で自転車を借りる¥100元。「身分証」と言われて「日本人、パスポート」と言うと「パスポートを預かる」というので「ダメだ」と言うと「千元の押金」が必要と言われて払った。
フェリー中でも感じたが旗津には2月の平日というのに観光客が沢山来ている。まだ春節前というのに・・・。今年2015年の春節休暇は「2月18日(水曜)〜2月24日(火曜)」までの7連休。 -
「豆漿」の文字が目に入り
店に入って小休止
貼紙によれば、この店の春節休み
2月19、20、21、22日の四日間 -
歩き疲れて豆漿を飲む
日本の豆乳より豆漿の方が美味しい -
10:34
フェリー乗り場(鼓山輪渡站)到着
どこもかしこも来る前に
写真やストリートビューで見ている
それが現実にある。「あっ、これや」 -
フェリーで往来する人多し
それでも橋もトンネルも不要
その心は? -
高雄港を船で横切る
旅人には嬉しいけど・・・
まあ、この地の人も一服の休憩となる・・・か
南は車が走る過港隊道(トンネル)があるし -
あっと言う間に「旗津輪渡站」
『1998年改築された復古調の建物』
町全体がこうならば、どれほど素敵なことか
残念ながらまだヨーロッパに行ったことないけど
所によっては中世を思わす街並みが残っているのだろう -
みんな行ったり来たりは何で?
何がここに有って何がここに無いのか?
https://www.google.com/maps/@22.613958,120.269551,3a,75y,216.16h,72.23t/data=!3m4!1e1!3m2!1sHdOgREO5yG6QtgqyB6xO2g!2e0?hl=ja-JP -
旗津國小
1897/明治30年「打狗國語傳習所」として開校
台湾人が通う公学校「高雄第一公學校」だった
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■久しぶりの自転車でまず旗津國小へ。
この学校は日本時代1897/明治30年「打狗國語傳習所」として開校し、「高雄第一公學校」「高雄市平和公學校」「高雄市平和國民學校」と名称は変遷し、今は旗津國小となっているが日本時代の校舎「臺灣高雄市旗津國小建於日治時期的校舍建築」が今も使われている。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9B%84%E5%B8%82%E6%97%97%E6%B4%A5%E5%8D%80%E6%97%97%E6%B4%A5%E5%9C%8B%E6%B0%91%E5%B0%8F%E5%AD%B8#/media/File:%E9%AB%98%E9%9B%84%E6%97%97%E6%B4%A5%E5%9C%8B%E5%B0%8F%E6%A0%A1%E8%88%8D.JPG
「公学校」は台湾人が通う小学校
鼓山輪渡站まえから自転車で5分で旗津國小へ着いた。あいにく校門は閉まっており中に入ることは出来なかったが、外から見てもこれが日本時代の校舎だと分った。行く前に校舎の写真を見ていなかったので、その時は「これがそうだろう」と思いながら写真を撮ったが、やはり間違いなかった。
知らずに行っても、そこに行けばこれがそうだと一見して分る。立派な建築だから、小学校でありながら校舎には「凛とし品がある」こんな校舎に一歩踏み入れば先生だけでなく小一のガキでも背筋が伸びる。台湾人子弟の通う学校だ。
良くぞこんな校舎を建ててくれた。そして修復しながら今も使ってくれている台湾、高雄旗津の人たちに感謝する。旗津國小のHPでは 「學 校 沿 革」他日本時代の資料も公開してくれている。
http://www.chijps.kh.edu.tw/history/a11.htm
塀の外から周囲をアチコチ歩き覗き込むように写真を撮った。美しく立派な校舎だ。物は作った者の品性を表す。誤魔化しは効かない。じっと見れば分る。 -
この建物が日本時代に作られた校舎
良くぞ外地で教育に力を入れてくれました -
窓や扉が新しく作り直したのか?
それとも色を塗りなおしたのか?
綺麗なので驚いた
https://www.google.com/maps/@22.608611,120.271984,3a,75y,190.24h,90.24t/data=!3m4!1e1!3m2!1sclcF7Hlp5PQJe2S5qZiX0g!2e0?hl=ja-JP -
高雄市戰爭與和平紀念公園
11:32
旗津國小から和平祈念公園に
自転車で20分ほどで到着
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■高雄市戰爭與和平紀念公園へ向かう
旗津國小から自転車で20分ほど掛かった。“Google”地図ルート検索ではフェリー乗り場から「3.3km徒歩40分」だったので、「歩いても行けるかも・・・」と思ったが、道中すぐに自転車を借りてホンマ良かったと思いながらペダルを踏んでいた。
そこには「戰爭與和平:戦争と平和」主題館がある。入場無料、入館し目に入ったのが「臺籍日本兵」「臺籍国民党兵」「臺籍解放軍」の軍服姿の兵士三名が並んだ写真だった。「台湾人日本兵」は日本厚生労働省援護局資料.(1990年発表分) では軍属:126,750名、軍人 80,433名、総数 207,183名、戦死者数 30306名(15%) となっている。
ウィキペデイアによれば・・・。
『陸軍特別志願兵制度が施行されると多くの台湾人志願者が殺到し、1942年の第1回の応募には1,000名の定員に対し425,961名(当時の台湾青年の14%に相当)の志願者が応募し、第2回には同じく1,000名の定員に対し601,147名が応募している。海軍特別志願兵制度は1943年5月12日に発表され、朝鮮と同時に実施された。第1回は3,000名の訓練生定員に対し316,097人が応募している。』
「朝鮮人日本兵」も同様であり、当時を思えば 台湾朝鮮とも日本であり、その日本軍が白人連合軍と血みどろの戦いに苦戦していれば、事情はともかく民族の垣根を越えて日本と一体となり血書を認めてでも参戦しようという気持ちは人間であれば自然と髣髴する。志願は強制ではなく自発的が大多数だろう。
戦後になって生き延びた元兵士が様々なことを言っている。しかし臺籍日本兵は日本兵であったことを誇りとして戦後の人生を送っている人が多い。それは台湾に進駐した国民党軍の程度があまりにひどく幻滅と恐怖以外の何ものでもなかったことも要因だろうが。
しかし朝鮮人日本兵は、戦後韓国で初代大統領となった反日の権化「李承晩」による徹底した反日政策によって日本統治時代を呪われた時代とし、連合国と戦った朝鮮人日本兵は誇りを持つどころか国賊扱いをされるようになった。
李承晩は日本統治後すぐにアメリカに亡命し日本統治による朝鮮半島の変遷を身を持って体験していない。そして『(抜粋)朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開しこれがハースト系新聞によって宣伝された日本=野蛮国論の一部となりアメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。』
今も台湾の多数を占める本省人は日本統治時代を冷静に評価し事実を客観的に今に伝えてくれている。ひきかえ南北朝鮮は日本時代にあらゆる分野で激変を遂げ生活レベルは劇的に向上したにも関わらず、その事実は抹消された。その結果、“ビフォー・アフター”の経過は全てが嘘捏造となり朝鮮半島史は歪められた。そんな民族に明るい未来はない。
それは大東亜戦争を「間違った戦争だった」と断じ否定する日本国と日本人も同様である。今の自らを棚に置き先人の偉業を認めようとせず「戦争=悪」と軽々に批判しそれが良識とするような日本国と日本人に明るい未来はない。
記念館内の写真展示で見る高砂義勇隊の出征風景は日本兵のそれと全く同じだ。皆姿勢正しく正面を向いた兵士たちの面構えも日本兵そのものだ。それを戦後「強制された」とか「やむ終えず応募した」とか言う奴は一部どこにもいるが、そんな者は無視すれば良い。
ただ「台湾人戦没者遺族等への補償や恩給」が日本人と差があるのはまことに申し分けない。今後時が経ても、日本国と日本人がまとになれば子孫に公平なる補償をすべきだ。
館内のテレビで臺籍日本兵のインタビュー形式の映像が流されていた。しばらく椅子に一人座ってそれを見ていた。今は皆老人になっているが若き頃は頼りがいのある立派な戦士だったと思う。
そして帰国後この旅行記を書くにあたって、戰爭與和平紀念公園内で焼身自殺をした一人の元老兵士のことを知った。
http://kakutokuhatsu.katakura.net/hsu%20tsau%20jun.html
「元日本海軍兵士許昭栄氏」・・・許昭栄(きょしょうえい)氏の尽力でこの公園が出来臺籍日本兵他台湾人無名戦士の慰霊の場が設けられた。
許昭栄氏は『(抜粋)昭和19年、16才で日本帝国海軍特別志願兵第2期に応募し、20倍以上の難関を突破して、見事に2000名の合格者の一人に選ばれ、戦時中は、新竹航空隊の沖縄特攻の「桜花」の出撃整備に従事していました。』とある。
そして私が館内で写した写真の中に許昭栄氏の写真があった。胸像と共に経歴が展示され靖国神社からの記念品も飾っていた。そうか、ここで抗議の焼身自決を遂げられたのかと、そんな場所だったのかと帰国後に知った。ご冥福を祈る。長くいたつもりだったがデジカメ時間では40分ほどだった。 -
「旗津戰爭與和平紀念公園主題館」
http://superspace.moc.gov.tw/hall/local_culture_page.aspx?oid=901d5af4-de04-4319-aa46-a19948cabd4d
公園の中にひっそりと立つ
大きくは無いがシンプルで美しい -
主題館の入り口を入ったら
「臺籍日本兵」「臺籍国民党兵」「臺籍解放軍」
この三兵士のパネル写真の展示があった
同じ臺籍ながら敵味方で戦い
或いは
同じ兵士がその三軍に属し戦った
その状況、その心境は想像に余りある -
許昭榮氏の展示コーナーもあった(右奥)
胸像は許昭榮氏
許昭栄氏の尽力でこの慰霊公園が出来
「台灣無名戰士紀念碑」「台灣?代戰歿將士英靈紀念碑」などが作られた -
「台湾烈士 許昭榮先生の生涯」
許昭榮氏のことを詳しく紹介しているHP
http://taiwan-soldier.blogspot.jp/2008/10/blog-post_14.html -
靖國神社から許昭榮氏に贈られた時計
平成17年4月25日の日付が書かれている -
三種類の軍服を着た少年兵の写真が外壁にプリントされている
「一人の台湾人が日本軍、國軍及解放軍の軍服を着ている」とある
これがまさに一時代の台湾の複雑な歴史を表している
「旗津戰爭與和平紀念公園主題館」
http://superspace.moc.gov.tw/hall/news_page.aspx?oid=88833351-e323-441a-8199-98a943a62a7d
https://www.google.com/maps/@22.590793,120.283202,3a,75y,304.7h,75.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1sGKDwYtY9yZr0Fz0lkwFyZA!2e0?hl=ja-JP
「旗津國小」と「戦争と平和記念公園」
https://youtu.be/QlnJqhSXRbk -
12:16
戰爭與和平紀念公園から旗津砲台に向かって
青空広がるなか、この広い道を自転車で走る
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■旗後砲台(きごほうだい)へ向かう
午後12時15分左手に台湾海峡を望みながら旗後砲台へ向かう。旗津海岸公園は砂浜が広がり夏場は海水浴客で賑わうのだろうが、この日も少なからずの観光客らしき人たちが浜辺を散歩していた。砂浜は広い。
海辺を散策しながら30分ほどで戰爭與和平紀念公園から旗後砲台の下に到着した。見上げれば、門額に「南天○○」と右二文字は消えているが赤レンガ作りの壁が聳えていた。元は「南天震威」(右から左に読む)との文字が書かれていた。
この消えた二文字は台湾ウィキペディア「旗後砲臺」によれば『1895年乙未戰爭時、日艦吉野號於登陸前砲?腺,?腺毀砲臺門?槌「威震天南」之前二字(日清戦争勝利の後、台湾制定作戦の時に日本海軍:吉野丸の上陸前砲撃によって「威震」の二文字が毀損された)』
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E5%BE%8C%E7%A0%B2%E8%87%BA
砲台下の公園には「高雄市立苓雅國民中學五名見義勇為同學祈念碑」と書かれた立派な碑があったので写真に撮り帰国後調べた。1993年11月6日に中学生6名が海辺に遊びに来て二名が溺れかけたので、残りの四人がまず一人を助けた。しかし直後大波が来て五名が波に巻き込まれ溺死したとのこと。
「見義勇為:Jian yi yong wei ジェンイヨンウェイ」は成語で「正義感に燃えて勇敢に行動する」という意味。そして砲台下の星空隊道(トンネル)を通って向こう側に出た。
旗後山全体が砲台要塞であり星空隊道もそうだがトーチカ・洞窟要塞もアチコチに残っていた。これらは日本軍が作った物ではないだろう。要塞の機能としてはどうなのかもだが出来栄えが悪い。1895/明治28年早朝、日本軍は旗後砲台に攻撃を開始し、午後2時30分に上陸、すでに敵兵は逃げ去り、ただちに占拠した。2015年の今からちょうど120年前のことである。
旗後山の東側麓を周回し、旗後燈台へ行った。旗後燈台は1883/明治16年清朝が英国人技師を招聘して作った。そして日本統治後1918年(大正7年)に日本が新しく作り直した。戦争で多少の被害を受けたが何度か補修しながら今に至っている。ちなみに大正七年は日本では米騒動が起き高校野球も中止となった年とのこと。
八角形の白亜の燈台は美しい姿で建っていた。上には登れなかったが今もこの燈台は光度85万カンデラの光を放って海の安全を守っている。ここにも観光客も大勢来ていた。眺望抜群、丘の上に立つ白亜の燈台、撮影スポットとしても最高だ。「シャッターを押して下さい」とアベックに頼まれた。
高雄港と正面に「高雄八五大樓」が聳え立つ。寿山の高雄神社跡(忠烈祠)も左側前方に見えている。そして眺めを“ゆっくり”楽しみ砲台へと向かった。途中要塞入り口が何ヶ所もあった。懐中電灯を持たずに来たのでデジカメのフラッシュ撮影で内部を写して見たが、内部も縦横に繋がっているようだった。
でも日本軍築造の洞窟要塞と比較すれば完成度は比較にならず。これは新旧年代材料とは関係なく作り方も見た目も粗雑なのだ。日本軍が作った物は例え手彫りで岩が剥き出しの洞窟でもどこか違う。別に他を不当に評価しているつもりはない。素直にそう感じるだけだ。 -
旗津海水浴場の砂浜は広い
それに柔らかい砂質のようだ -
旗後砲台といっても道は定かではなく
自転車で辿り着いたのは、ここだった -
12:47
「南天震威」「威震天南」
威震の二文字は1895/明治28年
日本海軍「吉野」の砲撃で破損 -
「高雄市立苓雅國民中學五名見義勇為同學祈念碑」
1993年11月6日に中学生5名が仲間を助けようと溺死した
「見義勇為:Jian yi yong wei ジェンイヨンウェイ」
成語で「正義感に燃えて勇敢に行動する」 -
旗後山は旗後砲台があり、山全体も要塞化されている
こういったトーチカも随所に残っていた
一見して造作は不備で日本軍築造ではないはずだ -
旗後山を貫く「星空隊道」
ここを潜って向こう側に行った -
隊道は照明で観光ショーアップ
砲台要塞も今は歴史史跡となり -
隊道を出て振り返り写す
山全体、縦横に要塞洞窟があったが
どれもこれも完成度が低く性根を感じない
この要塞と運命を共にするのではなく
とりあえず作り、ヤバイと逃げる -
「旗後燈台」「旗後燈塔」「高雄燈塔」「高雄灯台」「旗津灯台」
日本統治後1918年(大正7年)新しく作り直した -
「左:日本時代」「右:清朝時代」の旗後燈台
-
戦時下空襲で被害を蒙る
その後補修し現在に至る -
高雄港
-
燈台から砲台へ向かう途中
こんなに洞窟が多いとは
洞窟入り口がアチコチに点在し
内部も繋がっているようだっだ
来てみるまで知らなかった
山全体が要塞化されていた -
懐中電灯なく奥まで行けず
どのくらい規模なのか不明 -
旗後砲台
英国人によって作られた砲台
1874/明治7年、日本の台湾出兵(牡丹社事件)後
建設をはじめ翌年に完工した
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■旗後砲台
旗後砲台は私が始めて見る形だった。
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旗後砲台
「旗後大砲台簡史」より抜粋
http://kstown.chukps.kh.edu.tw/resource/topten/jhtml/05/5061.htm
旗後大砲台簡史
高雄は旧名を「打狗」と言います。牡丹社事件の後、この地に砲台3つを造りました。一つは大竹里打鼓山大棚(現寿山)「大坪頂砲台」、一つは港を臨む「哨船頭小砲台」、旗後山の高所にある「旗後大砲台」。
清仏戦争の戦場は多くが台湾北部であったため、打狗地区の新式砲台は出番がありませんでした。1894年日清戦争が勃発し、清の朝廷は台湾の守備を強化するため、黒旗軍の名将劉永福に台湾南部の防衛を任せました。
1895年、日本軍は少しでも早く台湾反抗軍を消そうと、10月11日第二師団を派遣し枋寮に上陸させ、北上させました。その時、日本の常備艦隊と第二師団は、15日に第二師団が鳳山に攻撃を始めると同時に、艦隊が打狗地区の砲台を砲撃する、という作戦を協議していました。
その時、ちょうど黒旗軍の統領劉永福は日本人と降伏の条件を話し合っていたため、各軍営に白旗を揚げ、抵抗しないようにという指令を出していました。こういう状況のもとで、日本軍は簡単に鳳山を占領したのです。
しかし、13日、日本は劉永福の条件を拒絶しました。二日後、日本戦艦「吉野」「秋津州」「大和」「八重山」「浪速」「濟遠」「海門」は明け方打狗に接近しました。「吉野」は旗後砲台に白旗が揚がっているのを確認しましたが、試しに空砲を撃ってみると、案の定、突然白旗を降ろし反撃してきたのです。
その年、旗後砲台を守っていたのは劉成良でしたが、軍紀は乱れ、闘志も欠けていました。間もなく、旗後砲台のまばらな砲火は日本艦隊に抑えられ、続いて日本軍は戦艦を岸につけて兵士を上陸させ、砲台を占拠しようとしました。その時突然山上で砲声が響き、大坪頂砲台の砲弾が次々と日本艦隊の周りに落ちてきました。
「吉野」や他の戦艦はすぐさま反撃しました。この時海全体は煙に包まれていました。その後大坪頂砲台が火事を起こしたため、静かになりました。砲撃戦が終わり、日本軍は陸戦隊を放ち、各砲台に攻め込みました。しかし、砲台内の兵士はすでに逃げ出していたため、日本軍はそれほど大きな抵抗を受けることもなく砲台を占拠しました。
反抗軍の統領劉成良は旗後砲台を離れ、大坪頂砲台に隠れていました。そして大坪頂砲台が陥落すると、台南へ逃げました。劉永福は見せしめのため劉成良を処刑しようとしたとのことです。
日本統治時代から台湾光復までの歳月を経て、かつての打狗三大砲台のうち、完全に保存されているのは旗後砲台だけとなり、台湾地区古砲台の典範の一つになりました。 旗後大砲台の正門は赤煉瓦を積み上げてできています。洞門は方形で、迫力満点です。
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台湾文化部作成のHP「旗後砲台」では
http://superspace.moc.gov.tw/hall/local_culture_page.aspx?oid=dbc89cd9-43ae-49ae-8d33-3d67d3b84d0b
『清朝末期、阿片戦争後台湾で募集された西洋人監督によって作られ、西洋と中国が融合した台湾で初めての砲台。英国アームストロング砲四基』とある。
これだけの砲台を作りながらいざ戦いとなった時に、勝利の確証なければ迷わず放棄して逃げるのが清軍の変わらぬ実態だ。大陸中国には古今東西国民国家は存在せず。ゆえに軍閥あるのみで国軍も存在しない。今の人民解放軍しかり、共産党の私兵に過ぎず、誰が存在しない国に忠誠を尽くして自己犠牲をいとわず戦えるのか?笑止千万也。
東西に短く、南北に長い長方形の砲台。そして旗後山全体が要塞となっている。西洋人監督で作られた砲台なので、それなりの美しさはあった。屋上から全体を見れば幾何学的な構造を有しているようで整然とした趣がある。しかしながら「僅發射5發砲彈」・・・たった五発で“清兵とんずら”とは砲台も赤面の至りなり。それで赤いのか?
旗後砲台が最後で旗津観光は終了。星空隊道に入る前に木に鎖チェーンで施錠した自転車が心配だったがちゃんとあった。施錠を解除して港に戻る。押金(保証金)の1000元を返してもらった。時はすでに13時55分。昼食もまだだったので横の“7イレブン”でオニギリ二個とお茶を買って(計70元)昼飯とした。 -
下の公園から見た門額
威震の二文字がない「威震天南」
1895/明治28年10月
威震の二文字は吉野の砲弾で吹き飛んだ
歴史の痕跡そのままでここに残る
「旗後砲臺」
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E5%BE%8C%E7%A0%B2%E8%87%BA -
さすが英国人設計につき
砲台要塞としての機能を突き詰めれば
そこに無駄のない整然たる美しさが生じる
何を作るにも同じだろうけど・・・。 -
全体像は良くわからないけど
『砲台内部の空間は「目」の字型に区切られています』
『第一区域は練兵区、第二区域は連絡通路と弾薬庫、第三区域も練兵区』
「旗後大砲台簡史」 -
1875/明治8年、折角この砲台を作ったが
20年後の1895/明治28年
日本軍との実戦では
「僅發射5發砲彈」
たった五発で“清兵とんずら”とは -
旗後砲台を後に旗后山を下る
駆け足の旅ではなく高雄で暮らせば
高雄ってどんなところなのだろう? -
木に鎖で繋いでいたレンタル自転車があった
旗津で久しぶりに自転車に乗った
「旗後灯台」と「旗後砲台」
https://youtu.be/hFGzfO3kFH0
-
13:55
10:56.に借りて、13:55.返却、3時間
駆け足も駆け足、もし写真旅行記なくば
10年後旗津での何を記憶しているのだろう -
“7イレブン”で昼食¥70元
どこで食ってもコンビニおにぎりはうまい -
旗津輪渡站に「捨身救人」の胸像あり
ひっきりなしのフェーリーの往復
それなりに乗客多し、双方何の用が? -
14:25
鼓山輪渡站へ戻る
旗津での予定通りの散策無事終了 -
14:28
鼓山輪渡站から濱海一路を徒歩で西子灣站へ向かう
“Google”地図をプリントして持って来ている
それを見ながら目的地に向かうもまた楽しからずや
https://www.google.com/maps/@22.619719,120.270159,3a,75y,65.26h,88.08t/data=!3m4!1e1!3m2!1s_ODyBt4lp4UjKbCX5v5s9A!2e0?hl=ja-JP
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■鼓山輪渡站から旧高雄市役所(現:高雄市立歴史博物館)を目指す
フェリーに乗って「鼓山輪渡站」へ到着。午後2時半。これより捷運(MRT)西子灣站へ徒歩で向かう。ちゃんとルート地図も“ストリートビュー”の写真もプリントし持って来ているので見ながら歩く。
途中、何もない通りに何やら見たことない屋台が一台あり。一旦通り過ぎたが引き返した。その屋台は日本の提灯をぶら下げメニューは日本語だった。煎餅を焼いて売っていた。焼き煎餅に「わさび」「ニンニク」「七味」などの味を付けて一枚¥25元。わさび味を一枚買った。
店主は日本に留学していた青年。食べたが味も普通の煎餅、屋台は特注で新品だったが、とてもこの味この品では屋台制作の出資金も回収といかず頓挫しそうだ。青年の屈託のないその笑顔がいつまで続くのか?何でこんな物売って稼げると思ったのか?煎餅に見切りを付けて“たこ焼き屋”でもやったほうがいいのでは・・・?
煎餅屋で寄り道と、ちょっと迷って18分くらいで站に到着。ルート検索では「550m 徒歩7分」が随分掛かった。 -
西子灣站までの道中、捷興二街の道端で
日本風屋台を見つけて足が止まる「一体何や?」
焼き煎餅屋さんだった
日本に留学していた青年
屋台は新品、開店早々のようだ
どうみても前途多難、成功を祈る! -
一枚¥25元
「たこ焼き屋」の方が
まだ可能性があると思うけど -
14:48
西子灣站へ到着
何故か?ちょっと迷った -
朝も北に歩くはずが南に歩き
結局「武徳殿」→「高雄神社」まで歩いた
この時も北に歩いているつもりで南にあるいていた
この線路跡の公園を見て初めて間違いに気付く
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■旧高雄市役所へ向かう
一駅先の朝一番で降りた捷運鹽埕埔站で再び下車し、朝一番に行く予定だった「旧高雄市役所:現高雄市立歴史博物館」へ向かった。しかしその時もまだ今朝同様、南北方向を間違っているのに気付かず。大勇路を南に歩き「西臨港線」の線路跡まで来て「あれっ?おかしいなァ」と人に尋ねた。
そして反対方向に歩いていたことを知り来た道を引き返す。足が棒なのに・・・ガックリ。鹽埕埔站まで戻り北方向に歩き、高雄二二八公園を横切ったらすぐに建物は見えた。 -
西臨港線
足は棒なのに道を間違うと
ドッと疲れが増す
何で南北方向を間違ったのか?
まだ呆けるのは早い -
15:28
「旧高雄市役所:現高雄市立歴史博物館」
http://khm.gov.tw/khm_jpn/home01.aspx?ID=1
重い足を引き摺り来た道を戻る
間違っていなければ
駅からここまですぐだった -
高雄市役所
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■旧高雄市役所:現高雄市立歴史博物館
旧高雄市役所到着は午後3時28分。そこには紛れもない日本時代の建築物があった。
『日本の清水組(大野米次郎)により設計され、1938年(昭和13年)に建設が始まり、翌年(1939年(昭和14年))に落成しました。』とあるが大野米次郎を検索しても出てこない。
昭和13年は張鼓峰事件が起きた年。その年に高雄市役所の建設が始まったのかか。そういえば4年前の2011/平成23年9月に張鼓峰に行った。
http://4travel.jp/travelogue/10631379
そしてこの市役所が完成した昭和14年5月、ノモンハン事件が起きた。
http://4travel.jp/travelogue/10248573
この時代、日本は昭和12年から始まった支那事変で戦時の真っ只中。それに加えて張鼓峰・ノモンハンでソ連軍とも戦っていた。そんな渦中にも関わらずこの高雄にこれだけ立派な庁舎を建立した。
そして大相撲ではこの年1月69連勝中の双葉山が安藝ノ海に敗れた。当時の帝国日本と普通の生活を楽しむ日本人のエネルギーたるや恐れ入る。
台湾には日本国と日本人の痕跡が各地に残っている。台湾の本省人が残してくれている。内部も素晴らしかった。荘厳であり今の明石市役所や神戸市役所とは比較しようもない。建築の思想が違う発想が違う。その時代を生きた日本人の性根が現れている。博物館では写真の展示がいつも楽しみだ。ここにも沢山掲示してあった。
そんな展示の中に達筆な字の日本語で書かれた日記があった。それは「葉盛吉:ようせいきち(日本名:葉山達雄)」という人物である。帰国後ネットでその名前を調べたら新潟産業大学人文学部紀要 第21号『楊威理著「ある台湾知識人の悲劇」?汪秀娟』についての論文があった。
http://www.nsu.ac.jp/nsu/pdf/library/e-asia/h21-6.pdf#search='%E8%91%89%E7%9B%9B%E5%90%89'
台湾生まれで旧制二高、東京帝大医学部に学び、台湾帰国後1950年蒋介石の赤狩りで銃殺された。享年27歳、結婚後すぐ授かった一人息子の顔を見ることなく死んだ。まさに彼は日本と台湾、そして漢民族として中国にも思いを抱き、悩み続け生涯を終えた。生まれた時代によって翻弄された青年だ。
日本が台湾の支配者となり、欧米列強の植民地化政策とは次元が違う同化政策を推し進め、統治政策は穏当であり台湾人は年月の経過と共に表向きは日本国民として意識し暮らすようになった。しかし日本が戦争に敗けそうになり支配の頚木から逃れる可能性が見えると民族のアイデンティティーに必ずや目覚める。
それは人間としての本能だ。いくら善政を施した支配者であっても関係ない。私は台湾朝鮮満洲南洋諸島の併合を間違いだったと断じて思わず。当時の世界情勢及び日本の国内事情によって最良の選択だったと今も思っている。当該国に対して謝罪の必要も認めない。
しかしそんな歴史に学び未来に生かすには「今後二度と頼まれても泣き付かれても他国他民族を支配しない」・・・それが将来日本の唯一の選択肢だ。「同化するには混血を繰返し千年掛かる」それは沖縄にも言える。琉球王国は厳密には明治初めまで日本ではなかった。
琉球が自ら独立を望むなら私は反対しない。だが独立後、支那と日本とを両天秤に掛け卑怯な真似をするのはやめてくれ。日本人は器用な駈け引きは出来ない。独立するなら日本と固い契りの同盟国であってもらいたいと願う。
帰国後焼身自殺をした許昭栄氏のことを知り、一冊の本のことを知った。「愛する日本の孫たちへ」
その最初の頁に二人の以下の証言が書かれている。 -
威風堂々とした日本統治時代の建物を台湾で見ると感激する
それを見れば誇りと名誉を重んじた日本を想起することが出来る
自国国益の為に君臨したが悪政非道とは程遠い統治だった
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「愛する日本の孫たちへ」
聞き手・猪股 るー氏、桜の花出版
台湾がこれだけの進歩を遂げられたのは日本という時代を経たからです。
あの頃の私たちの感覚は「我々は百パーセント日本人」というものです。日本軍が勝ったら「万歳!万歳!」と心から喜んで叫んでいました。命をかけても日本という自分たちの国を守るんだという気持ちを持っていたのです。
今ふりかえっても、その思いに悔いはありません。。物質的に苦しかったけれど、良い時代でした。 懐かしいです、本当に懐かしいです。教科書には、植民地統治は悪いことと書いてあります。しかし、統治される人々や国にとって、それははたして悪いことか良いことか。私個人は、過去の歴史を調べてみると、台湾にとっては良いことをだったと思うんです。
(ABS樹脂製造で世界一の企業「奇美実業」創業者 許文龍さん)
私は今でも、日本人だったことを誇りに思っていますよ。
昭和二十年八月十五日、終戦。日本が負けたときは、本当にがっくりとしました。あのときは私も日本人でしたから、「自分の国」が負けたのです。台湾h少年工の日本での生活は過酷でしたが、子ども心にも「お国のため」という愛国の心に燃えていました。
だから敵と戦う飛行機を作れることは、少年工にとってこの上ない誇りでした。もちろん日本が負けて、卒業資格などもらえぬまあ台湾への帰還。しかし戦後半世紀以上過ぎた今でも、私たちは日本を心の故郷と思い、日本を愛し続けています。
(元少年工の交流会「台湾高座会」の斗六区会会長 黄茂己さん)
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この高雄市役所は日本の敗戦後高雄市政府となり、二二八事件の際に政府軍隊武力鎮圧の初めの一歩がここから始まったという歴史的現場になった。そして1992/平成4年市政府としての役目を終え1998/平成10年から歴史博物館となる。いついつまでもこの建物が残ってくれればと願う。デジカメ時間で40分ほどいた。
建物から出て周囲を一周した。薄緑と薄茶色のツートンカラーの高雄市役所はどの角度から見ても美しい。その横の道で天幕を張り宴会場を作っていた。100名分くらいの料理が準備され大皿に料理を盛り付けをしているところだった。その光景は昨日の夜の六合夜市のと同じだ。一体今夜ここでどんな集まりがあるのだろう・・・。 -
この建物に相応しい人間がかってここにいた
この建物に似合う人間がいたはずだ
人間の作った物は作った人間の品性が出る
どう誤魔化しても無理だ、どこかに出る -
今の建物にはない気品を感じ重厚さを感じる
ここは市役所であり普通の市民が普通に出入りしていた
勤める公務員は皆“お上”であり、その言動は市民の手本だった
「尊大・偉そうに」は、それだけ言動を律すことを暗に要求される
今は警察官でさえ営業マンの如く、逆に悪人をのさばらせている
今は国民の見本にも手本になるべき人間はどこにもいない
皆が皆自虐史観に縛られ、誇りと名誉をゴミと化したからだ
誇りと名誉を大事にしない人間は屑でしかない -
この時代を象徴する葉盛吉(日本名:葉山達雄)の写真
台湾生まれで旧制二高、東京帝大医学部に学び
台湾帰国後1950年蒋介石の赤狩りで銃殺された
結婚後すぐ一人息子の顔を見ることなく享年27歳
葉盛吉の一人息子
國立成功大學工學院教授:葉光毅
http://www.up.ncku.edu.tw/chinese/_teacher/Kuang-Yih%20Yeh.htm -
写真上右:上野公園1945/昭和20年撮影
下:1950/昭和25年4月潮州のマラリア研究所での記念撮影(大写真)
このあとすぐの5月29日の午後4時研究所で逮捕された
1950年11月29日黎明6時銃殺される
楊威理著『ある台湾知識人の悲劇』?汪秀娟
http://www.nsu.ac.jp/nsu/pdf/library/e-asia/h21-6.pdf#search='%E8%91%89%E7%9B%9B%E5%90%89' -
1941/昭和16年4月〜5月:葉盛吉の金銭出納長
1941/昭和16年2月、日本に来る。
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1945/昭和20年12月16日:葉盛吉の日記一部
『我らは日本人をして反省すべき点は反省せしめ、
正すべき点は正し、中日関係の禍根を除くはもちろん、
日本をその堕落より救わねばならぬ。
我らは日本の帝国主義を打倒した。
しかし、我らは日本の滅亡を断じて望まない』
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“葉盛吉”の複雑な本心を感じる -
16:12
旧高雄市役所(現:高雄市立歴史博物館)を出る
二二八事件の際、政府軍隊武力鎮圧の初めの一歩がここから始まった
旧高雄市役所(現:高雄市立歴史博物館)
https://youtu.be/LhHznvXiP1Y -
16:16
旧高雄市役所横の路地で宴会準備
手馴れた手付きで女性たちが
六合夜市の風景と同じ -
これだけ並べばなんでも壮観だ
あと数時間後には人が座り魚を食らう
木曜日なのにこの大宴会、元気や -
現在の高雄駅
近い将来新駅が出来るようで
今の駅舎は見た目も仮駅舎の如く
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■旧高雄駅へ行く
高雄市立歴史博物館から美麗島站に戻り、そこから今日最後の見学地である旧高雄駅に向かった。ここでも勘違いですぐ近くにあるはずの旧高雄駅が見つからず人に何度か尋ねる羽目になった。それは中博高架橋を挟んで東隣、建国二路に面して北側にあった。
ウィキペディア抜粋
『日本統治時代末期の1940/昭和15年に建てられた旧駅舎は帝冠様式の建物。保存のために2002年8月16日、高雄市は移築工事(曳家)を開始。総重量3500トンの駅舎をそのまま台車に乗せ、1日に6m、14日をかけて東南の方向へ82.6m移動させた。現在、その旧駅舎は「高雄願景館」という資料館に生まれ変わり街のシンボルとなっている。
なお、旧駅舎は将来新駅舎に結合され、入口として利用される予定である。現在の駅舎は新駅舎ができるまでの臨時の駅舎を使用している。』
辿り着いたのは午後5時。開館時間は「午前10時〜午後6時」とあった。一目見て感じたのは写真で見ていた通りだが「こりゃあやっぱりお城やな、でもこんな小さな駅か」だった。でも内部に入れば柱も立派で天井が高く作りは重厚だ。
城郭と言えば満洲新京(長春)の関東軍司令部を思い出す。2003/平成15年9月23日(火)に長春で見た。お城そのものだった。姫路城を築城した匠の技も素晴らしいが伊勢神宮の祠も凄い。凄いと言うよりあの質素素朴な佇まいに加えて遷宮と言う伝統継承の思想が日本人の真骨頂だと思っている。物づくり大国日本の原点だ。
高雄駅は『1940完工、1941年(昭和16年)6月22日:高雄驛落成』とある。元々今は廃線となった高雄港駅が高雄駅と呼ばれていた。この場所に新高雄駅が落成(昭和16年6月22日)し高雄港駅になった。大東亜戦争開戦半年前にこの駅は落成したのか・・・。
2002年、落成から61年を経て駅舎の役目を終えこの地に移動。そして将来新駅舎ができる時には、この駅舎も入り口に「駅の顔」として利用する計画という。
展示物はあまり記憶にない。1920年代の高雄市観光地図だけが印象にある。他にこの館内の受付and案内係の方と話をした。私と同世代の男性で「退職後ボランティアで週に何回かここに来ている」と言われていた。
話の途中私が「時間過得真快」と言ったら、彼が「英語ではこんな言葉ですね」と英文で書いてくれた。そして「日本語でそんな言葉は?」と聞かれたが、思い出せず冷や汗「時は金なり」でもないし(汗)高雄駅から出て歩き出してから思い出した「光陰矢の如し」は「光陰似箭 Guangyinsijian グアンインスージェン」だった。
彼は私に記念にと「二本入りの鉛筆」と「永康ー高雄」の記念カードをくれた。午後5時30分、これにて高雄の一日周遊は全て予定終了。 -
日本統治時代末期の1940/昭和15年に建てられた旧駅舎は帝冠様式の建物
大東亜戦争開戦一年前竣工した
まだその時は翌年に米国との戦争勃発は
日本でもこの台湾でも一般市民は思ってもいなかっただろう -
思っていたより“小ぶり”の駅舎だった
大東亜戦争最中高雄で暮らしていた日本人は
どんな思いで毎日を過ごしていたのだろう?
日本の敗戦と共にすべてが変わった
激動の時代の日々の暮らしとは
一体どんなものなのか? -
格子模様の天井は高く内部は重厚感はある
-
1920年代高雄市観光地図
写真や資料の展示はあったが
この地図以外に興味を引くようなものはなかった -
「永康⇔高雄」の記念カード
末永く健康に -
尊龍大飯店斜め向かいの日本料理店で和風ステーキを食べる
それなりだった。この店で帽子を置き忘れた(無念)
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■夕食後、六合夜市へ行く
尊龍大飯店斜め向かいの日本料理店で和風ステーキ(¥473元)を食べてホテルに戻った。部屋に入ったのは午後6時31分。
さすが疲れて部屋で1時間ほど休憩後、午後7時40分には六合夜市を歩いていた。ホンマ私の旅は歩き歩きの鍛錬の旅だ。“ゆっくり”旅は無理な性分。今日の夜も昨日同様活気溢れ人の波、30分ほどブラブラ夜店見物を堪能し午後8時12分部屋に戻った。
明日は帰国、その前に保安堂へ行く。 -
昨日も今日も同じように活気と人に溢れる六合夜市
もしもこの光景この地に無くば何事か大事が起きた時だろう -
これは展示の模型でもなければ絵でもない
もうすぐ誰かの胃袋に納まる天然食材なり
人間とは地球を制する恐ろしい生き物だ -
20:12
高雄の一日も無事終了
尊龍大飯店に戻る
さあ明日は帰国となる
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