2018/12/02 - 2018/12/02
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Weiwojingさん
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九段神社の近くにある旧山縣有朋邸を訪れた。普段は未公開で、昨年の公開と今回訪れるまではこのような旧邸宅がこの付近にあることすら知らなかった。11月下旬から12月初旬までの1週間限定で公開されていた。
千鳥ヶ淵の桜の満開期にはしばしばこの前を通ったり、またインド大使館の隣にあって、ここに来た際には前を通っていた。しかし、旧山縣有朋邸というような看板が出ているわけではないので全然知らなかった。昨年新聞記事を目にし、訪れた。今年も同時期に公開され、さらに内部も見学できるということで訪れてみた。
ここは現在農林省の「三番町共用会議所」となっていて、昨年来た時は違う出入り口を利用したので、正面入り口がどこにあるか分からず、「三番町共用会議所」の掲示に気が付かなかった。しかし、今回は見学入口が正面入り口からとなっていたので、この掲示を知ることが出来た。
- 旅行の満足度
- 4.5
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地下鉄九段下駅を降りて、靖国神社を右に見ながら進んでいくと、すぐ千鳥ヶ淵公園に出る道になり、ここを左に曲がる。曲がるとすぐこのような遊歩道になっている。すぐそばにインド大使館が見え、その少し先に「三番町共用会議所」という表札が見える。
ここが旧山縣有朋邸があったところで、今は全くそれらしい看板があるわけではないので、皆目分からない。 -
遊歩道の両側には桜の古木や様々あ木が植えられていて、春は桜、秋は紅葉で散歩にはぴったりの所である。
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すぐ「三番町共用会議所」の看板が見え、その前に「旧山県有朋邸一般公開中」の立て看板があった。
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門を入るとこのような倉庫と大きな煙突のようなものがある。職員の話だと、これらは来年中に取り壊されるそうである。
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この建物は本館であるが、もちろん昔の山県邸と同じではない。旧邸は1945年(昭和20)2月の東京空襲で焼け落ちてしまい、跡形もない。その後に出来たのがこの建物である。1952年(昭和27)に建設された。
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これも本館建物の一部であるが、現在は三番町共用会議所の建物となっている。
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ここには別館がある。法政大学55年館と58年館を設計した建築家大江宏が1954年(昭和29)に建てたものである。大江宏は国立能楽堂、伊勢神宮・宇佐神宮内の施設等も手掛けた建築家である。
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別館を庭園側から見てみた。大江の建築はモダニズムと日本の伝統様式の高次元な融合を図った建築意匠で知られる。
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別館から本館の方を見てみた。
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別館は広い回廊が正面にあり、フロアの意匠が美しい。広いバルコニー、細い柱、コンクリート打ち放しの外壁を特徴としている。
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如何にも細い柱が何本も並んでいて、天井を支えているような具合である。
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回廊の模様も当時の斬新を感じさせ、目を見張る思いがする。
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内部を見ると、広い応接室があり、さらにこの奥に和室が見える。
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割と大きな会議室があるが、ここでは歴史に残る米価審議会の会議が何度も行われたそうである。
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その会議室の一部。
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2階には広々とした和室もあり、ここでも様々な会議など開かれたものと思われる。
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これは屏風だろうか、大きな屏風が和室に置かれている。
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庭園の方に出てみた。ここは戦前の山縣有朋邸の時のままで、昔の姿を偲ぶことが出来る。
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案内してくださった方がこの燈籠をよく見てださいと言うので、注意して見ると、黒く焼けたような跡があった。それは1945年2月の東京大空襲の際この辺まで焼かれたそうだ。本館の建物は焼夷弾で焼け落ちてしまったが、この燈籠かなりの部分が焼けたが、しかし、幸いにも残ったという話であった。
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木の表面にキノコ(?)が生えているのが見られた。
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この庭園の造園者は誰だかわからないが、小川治兵衛だと言う話も聞くが、真偽のほどは分からない。
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回遊式の庭園は散策にぴったりである。桜の時期は大きな桜の木があって、なかなか見事だそうである。
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別館脇に何やら不自然な地形が見られた。
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芝生が張られた地面が見られるが、ここは下の方に防空壕があったそうである。
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建物の外に出て庭園側から見ると、先ほどの芝生の張られた部分がこんな具合になっていた。防空壕があった部分である。建物の中から見た時はただの平面的な芝生の張られた土地に過ぎなかった。
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庭の隅の方に小さな池がある。
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池の中央にある岩の上にウサギが一匹ちょこんと座っているのが見られた。
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庭園は四季それぞれに花が咲き、楽しめるようになっている。
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小生が訪ねた12月初旬にはたくさん椿が咲いていた。
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池の脇には山縣有朋による石碑がある。これには明治18年10月明治天皇が行幸された際に山縣が詠んだ和歌である。石碑は翌年建てられた。次のように刻まれている。
天津かせ えたをなさらぬ 君かよは こころ のとけく 匂ふ梅かか -
藁側を見ると、漢文調の文章が彫られている。
今日10月19日、今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かる事大である。又銀杯、貨幣を下賜される。有朋謹んで米国製の刀一口及び松陰先生の書二幅献上した。この宴に待する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ、ご覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏される。夜になり、多くの燈を点け、煙火を放つ。既に儀杖兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟有朋の幸この上もなし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位伯爵 山縣有朋
謹んで標す。 -
赤い色をした建物が木々の間からすぐ隣に見えた。これはイタリア文化会館で、何度か訪れたことがある。
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イタリア文化会館は建設当時赤い色が周りとの景観上、醜悪だと批判され、かなり論争があった。しかし、その後何も変わらずそのままなので今はその論争は収まったのだろうか。
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