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大学時代のサークル「ワンダーフォーゲル部15回生(いちご会)」の同期会が愛知県犬山市であり、久々に参加してまいりました。初日は野暮用のため集合時間に間に合わないため、ホテルで合流することにして自由散策を愉しみました。犬山城、城下町、有楽苑、寂光寺を巡ってきましたのでレポいたします。皆、年を取りましたが、暫くしたらあの頃の笑顔に戻っていました。<br />犬山城は、尾張の最先鋒として木曽川沿いの美濃を望む標高90m程の山の上に建てられた天然の要塞であり、典型的な「後堅固の平山城」です。中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として攻防の要となりました。<br />国宝5城(姫路城、彦根城、松本城、松江城)のひとつに数えられ、現存する日本最古の木造天守です。木曽川沿いの小高い丘陵に建ち、断崖と一体化した美しい姿は「白帝城」と呼ばれるほどです。<br />元々は、岩倉織田氏当主の織田敏広の弟 広近によって1469(文明元)年に建造された木下城がはじまりです。その後、1537(天文6)年に織田信康が木之下城の城郭を移築し、現在の犬山城の基礎を築きました。<br />しかし、現在の姿になるのは数度の大改造を経てからのことです。1601(慶長6)年に尾張藩主 徳川忠吉の家老 小笠原吉次は、信康が建てた2重櫓の上に望楼を載せました。更に、1620年頃に成瀬家2代城主 正虎が防衛機能を半ば蔑ろにして望楼の基部に唐破風や望楼に廻縁などの改造を加え、現在の姿にしました。<br /><br />犬山城のHPです。<br />http://inuyama-castle.jp/

秋思秋愁 尾張犬山逍遥①犬山城

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2018/12/01 - 2018/12/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

大学時代のサークル「ワンダーフォーゲル部15回生(いちご会)」の同期会が愛知県犬山市であり、久々に参加してまいりました。初日は野暮用のため集合時間に間に合わないため、ホテルで合流することにして自由散策を愉しみました。犬山城、城下町、有楽苑、寂光寺を巡ってきましたのでレポいたします。皆、年を取りましたが、暫くしたらあの頃の笑顔に戻っていました。
犬山城は、尾張の最先鋒として木曽川沿いの美濃を望む標高90m程の山の上に建てられた天然の要塞であり、典型的な「後堅固の平山城」です。中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として攻防の要となりました。
国宝5城(姫路城、彦根城、松本城、松江城)のひとつに数えられ、現存する日本最古の木造天守です。木曽川沿いの小高い丘陵に建ち、断崖と一体化した美しい姿は「白帝城」と呼ばれるほどです。
元々は、岩倉織田氏当主の織田敏広の弟 広近によって1469(文明元)年に建造された木下城がはじまりです。その後、1537(天文6)年に織田信康が木之下城の城郭を移築し、現在の犬山城の基礎を築きました。
しかし、現在の姿になるのは数度の大改造を経てからのことです。1601(慶長6)年に尾張藩主 徳川忠吉の家老 小笠原吉次は、信康が建てた2重櫓の上に望楼を載せました。更に、1620年頃に成瀬家2代城主 正虎が防衛機能を半ば蔑ろにして望楼の基部に唐破風や望楼に廻縁などの改造を加え、現在の姿にしました。

犬山城のHPです。
http://inuyama-castle.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 名鉄「犬山遊園」駅<br />犬山城へのアクセスは、JR名古屋駅から名古屋鉄道犬山線の特急で30分弱です。<br />乗車したのは通勤快速でしたが、車両は1000系「パノラマSUPER」が使われていました。フロントマスクは、運転席が下で展望席が上というスタイルのため独特な流線型をしており、丸っこく優しさも感じられます。<br />この1000系電車は、1988年に登場した特急形車両です。特別料金不要だった7000系(パノラマカー)の後継車として、バブル景気の真っ只中に投入されました。前面展望を満喫できるハイデッカー展望席やバケットタイプの回転リクライニングシートを採用した特急専用車両を意図した設計が特徴です。ですから、一部の車両は別途座席指定券が必要になりますので注意して下さい。

    名鉄「犬山遊園」駅
    犬山城へのアクセスは、JR名古屋駅から名古屋鉄道犬山線の特急で30分弱です。
    乗車したのは通勤快速でしたが、車両は1000系「パノラマSUPER」が使われていました。フロントマスクは、運転席が下で展望席が上というスタイルのため独特な流線型をしており、丸っこく優しさも感じられます。
    この1000系電車は、1988年に登場した特急形車両です。特別料金不要だった7000系(パノラマカー)の後継車として、バブル景気の真っ只中に投入されました。前面展望を満喫できるハイデッカー展望席やバケットタイプの回転リクライニングシートを採用した特急専用車両を意図した設計が特徴です。ですから、一部の車両は別途座席指定券が必要になりますので注意して下さい。

  • 名鉄「犬山遊園」駅<br />犬山城へは名鉄「犬山」駅から徒歩15分程の距離ですが、「犬山遊園」駅からだと5分程ショートカットできます。しかし、その分、運賃も50円高いのですが…。<br />小学生の頃は、菊花展とマンガ博が「日本モンキーパーク」で同時開催されており、毎年のように家族で訪れたものです。しかし50年程前のことですから、駅舎の姿も記憶にありません。

    名鉄「犬山遊園」駅
    犬山城へは名鉄「犬山」駅から徒歩15分程の距離ですが、「犬山遊園」駅からだと5分程ショートカットできます。しかし、その分、運賃も50円高いのですが…。
    小学生の頃は、菊花展とマンガ博が「日本モンキーパーク」で同時開催されており、毎年のように家族で訪れたものです。しかし50年程前のことですから、駅舎の姿も記憶にありません。

  • 針綱神社<br />「犬山遊園」駅から徒歩10分弱で針綱神社の大鳥居に到着です。<br />犬山城へは幾つか登坂ルートがありますが、今回は一般的な三光稲荷神社の境内を通り抜けるルートで攻めてみます。<br />針綱神社は尾張五社に数えられる由緒ある神社ですので、帰路でレポしたいと思います。

    針綱神社
    「犬山遊園」駅から徒歩10分弱で針綱神社の大鳥居に到着です。
    犬山城へは幾つか登坂ルートがありますが、今回は一般的な三光稲荷神社の境内を通り抜けるルートで攻めてみます。
    針綱神社は尾張五社に数えられる由緒ある神社ですので、帰路でレポしたいと思います。

  • 三光稲荷神社<br />城山の麓に位置する歴史ある神社です。古くより「三光寺さん」と呼ばれ、地元をはじめ遠方からも篤く崇敬されています。<br />創建は不詳ですが、1586(天正14)年との伝承があります。元々は犬山城内三狐寺山に鎮座しており、犬山城を築城した織田信長の叔父 信康の崇敬が篤く、また犬山城主 成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全などのご利益があります。<br />元々は犬山城を守護する稲荷神でしたが、1876(明治9)年に中切村から遷座した稲荷神と合祀され、現在の地に1964(昭和39年)に移築されています。

    三光稲荷神社
    城山の麓に位置する歴史ある神社です。古くより「三光寺さん」と呼ばれ、地元をはじめ遠方からも篤く崇敬されています。
    創建は不詳ですが、1586(天正14)年との伝承があります。元々は犬山城内三狐寺山に鎮座しており、犬山城を築城した織田信長の叔父 信康の崇敬が篤く、また犬山城主 成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁昌、交通安全などのご利益があります。
    元々は犬山城を守護する稲荷神でしたが、1876(明治9)年に中切村から遷座した稲荷神と合祀され、現在の地に1964(昭和39年)に移築されています。

  • 猿田彦神社<br />石段の手前左に佇むのが猿田彦神社です。<br />建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。<br />注目ポイントは、足元に集められた落ち葉の形です。ハート型になっています。

    猿田彦神社
    石段の手前左に佇むのが猿田彦神社です。
    建築、方位除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足、家内安全、交通安全、海上安全など、古来多くの御神徳で知られています。
    注目ポイントは、足元に集められた落ち葉の形です。ハート型になっています。

  • 猿田彦神社<br />三光稲荷神社と猿田彦神社には、古くから女神とされてきた宇迦御魂大神(うかのみたま)、道の神や旅人の神とされる猿田彦大神、宮殿の平和を守る女神 大宮女大神(おおみやめのみこと)が祀られています。神仏習合の頃の趣を色濃く残す神社です。 <br />宇迦御魂大神は、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されています。名の「宇迦」は穀物や食物の意味で、穀物の神です。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。<br />猿田彦の神は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天照大神の孫)が天降る時に宮崎県高千穂まで道案内をした神様と『日本書紀』は伝えます。それ故、猿田彦大神が祀られている神社には、「導き」や「交通安全」などの御利益があります。ギラギラ光る目や大きな鼻が特徴のため、天狗と見立てられることもある神様です。

    猿田彦神社
    三光稲荷神社と猿田彦神社には、古くから女神とされてきた宇迦御魂大神(うかのみたま)、道の神や旅人の神とされる猿田彦大神、宮殿の平和を守る女神 大宮女大神(おおみやめのみこと)が祀られています。神仏習合の頃の趣を色濃く残す神社です。
    宇迦御魂大神は、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されています。名の「宇迦」は穀物や食物の意味で、穀物の神です。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。
    猿田彦の神は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天照大神の孫)が天降る時に宮崎県高千穂まで道案内をした神様と『日本書紀』は伝えます。それ故、猿田彦大神が祀られている神社には、「導き」や「交通安全」などの御利益があります。ギラギラ光る目や大きな鼻が特徴のため、天狗と見立てられることもある神様です。

  • 三光稲荷神社<br />ここの奥之院に祀られている狐女郎神(きじょろうかみ)は、女性の願いを叶えてくれる女神様だそうです。狐女郎神は日本神話では聞き覚えのない名ですが、元々狐と女郎は関係が深いとされ、化粧をして男をたぶらかすことから芸妓や娼妓、遊女、女郎を罵る言葉が「狐」だそうです。狐が夜な夜な面長で色白の娘に化けて酒を買ったという伝承もあります。<br />余談ですが、大阪市城東区にある皇大神宮の境内には、「小女郎稲荷」という小さな社が祀られています。大和郡山の源九郎稲荷(げんくろういなり)、泉州信太(せんしゅうしのだ) の葛葉稲荷(くずのはいなり)と並ぶ稲荷大明神だったそうです。社名の「小女郎」とは、平家滅亡と共に没落していった身分の高い婦人や女官の呼称「上臈(じょうろう)」が変化したものとされます。<br />また、荼枳尼天(だきにてん=仏教の神)の別名とも考えられています。荼枳尼天は、神通力を得た狐というのが通説で、人の死を6ヶ月前に知り、その心臓を奪って食うとされます。日本では稲荷権現として祀られています。

    三光稲荷神社
    ここの奥之院に祀られている狐女郎神(きじょろうかみ)は、女性の願いを叶えてくれる女神様だそうです。狐女郎神は日本神話では聞き覚えのない名ですが、元々狐と女郎は関係が深いとされ、化粧をして男をたぶらかすことから芸妓や娼妓、遊女、女郎を罵る言葉が「狐」だそうです。狐が夜な夜な面長で色白の娘に化けて酒を買ったという伝承もあります。
    余談ですが、大阪市城東区にある皇大神宮の境内には、「小女郎稲荷」という小さな社が祀られています。大和郡山の源九郎稲荷(げんくろういなり)、泉州信太(せんしゅうしのだ) の葛葉稲荷(くずのはいなり)と並ぶ稲荷大明神だったそうです。社名の「小女郎」とは、平家滅亡と共に没落していった身分の高い婦人や女官の呼称「上臈(じょうろう)」が変化したものとされます。
    また、荼枳尼天(だきにてん=仏教の神)の別名とも考えられています。荼枳尼天は、神通力を得た狐というのが通説で、人の死を6ヶ月前に知り、その心臓を奪って食うとされます。日本では稲荷権現として祀られています。

  • 三光稲荷神社<br />狐が娘に化けて酒を買ったという伝承を紹介しましょう。<br />娘の姿に化けた狐が酒屋にお酒を買いに来ました。でもそのお金は後で確かめると葉っぱでした。そのお酒屋は怒って以後その娘に酒を売りませんでした。でももう一軒の酒屋は、葉っぱであることを知りながら娘に酒を売り続けました。<br />その結果、前者の酒屋は潰れ、後者の酒屋は後々まで商売繁盛し栄えたと伝わります。<br />我々が小学生の時代には、新美南吉著『手袋を買いに』が定番でしたが…。

    三光稲荷神社
    狐が娘に化けて酒を買ったという伝承を紹介しましょう。
    娘の姿に化けた狐が酒屋にお酒を買いに来ました。でもそのお金は後で確かめると葉っぱでした。そのお酒屋は怒って以後その娘に酒を売りませんでした。でももう一軒の酒屋は、葉っぱであることを知りながら娘に酒を売り続けました。
    その結果、前者の酒屋は潰れ、後者の酒屋は後々まで商売繁盛し栄えたと伝わります。
    我々が小学生の時代には、新美南吉著『手袋を買いに』が定番でしたが…。

  • 三光稲荷神社<br />連なる朱塗りの鳥居にピンクの絵馬をコーディネートし、恋心に揺れる女性の心理をくすぐる空間づくりがなされています。 <br />

    三光稲荷神社
    連なる朱塗りの鳥居にピンクの絵馬をコーディネートし、恋心に揺れる女性の心理をくすぐる空間づくりがなされています。

  • 三光稲荷神社<br />願いを込めてハート絵馬を奉納します。<br />境内にある「姫亀(ひめき)神社」は、男女良縁、家内円満、夫婦和合がご神徳です。連なる鳥居の美しさやハート絵馬の可愛らしさで女性同士やカップルでの参拝が絶えません。<br />姫亀(大宮女命)は、天照大神が天岩戸に籠った時、その前で舞を披露したと伝えられる『アメノウズメ』と同一視される神様です。天孫降臨の時、猿田彦大神と出逢い、後に夫婦になったとの伝説があります。

    三光稲荷神社
    願いを込めてハート絵馬を奉納します。
    境内にある「姫亀(ひめき)神社」は、男女良縁、家内円満、夫婦和合がご神徳です。連なる鳥居の美しさやハート絵馬の可愛らしさで女性同士やカップルでの参拝が絶えません。
    姫亀(大宮女命)は、天照大神が天岩戸に籠った時、その前で舞を披露したと伝えられる『アメノウズメ』と同一視される神様です。天孫降臨の時、猿田彦大神と出逢い、後に夫婦になったとの伝説があります。

  • 三光稲荷神社<br />「朱」は「あけ」とも読まれ、夜明けなど「事のはじまり」を表し、朱塗りの鳥居を潜ることで願いが叶うとされます。

    三光稲荷神社
    「朱」は「あけ」とも読まれ、夜明けなど「事のはじまり」を表し、朱塗りの鳥居を潜ることで願いが叶うとされます。

  • 大手道<br />三光稲荷神社の鳥居を抜けると大手道に合流します。<br />今いるこの場所も昔は城郭の一部でした。左側は空堀の跡です。今はありませんが、この大手道の周囲には門や櫓が建ち並び、守りを固めていました。<br />

    大手道
    三光稲荷神社の鳥居を抜けると大手道に合流します。
    今いるこの場所も昔は城郭の一部でした。左側は空堀の跡です。今はありませんが、この大手道の周囲には門や櫓が建ち並び、守りを固めていました。

  • 大手道<br />ふと見上げれば、目が覚めるような鮮やかな紅葉が天空を覆っています。

    大手道
    ふと見上げれば、目が覚めるような鮮やかな紅葉が天空を覆っています。

  • 黒門跡<br />この辺りの石垣は、戦国時代に主流だった「野面積」という自然石を加工せずにそのまま積む工法です。そのため石と石の隙間が多くなり、雨水を石垣内に溜めることなく外に流せるので丈夫とされます。<br />稜角の積み方は「算木積」です。

    黒門跡
    この辺りの石垣は、戦国時代に主流だった「野面積」という自然石を加工せずにそのまま積む工法です。そのため石と石の隙間が多くなり、雨水を石垣内に溜めることなく外に流せるので丈夫とされます。
    稜角の積み方は「算木積」です。

  • 黒門跡<br />振り返ると「黒門」の礎石跡が見下ろせます。(立札のある所)<br />薬師門形式だった黒門は、丹羽郡大口町にある臨済宗徳林寺に払い下げられ、山門として現役です。

    黒門跡
    振り返ると「黒門」の礎石跡が見下ろせます。(立札のある所)
    薬師門形式だった黒門は、丹羽郡大口町にある臨済宗徳林寺に払い下げられ、山門として現役です。

  • 大手道<br />鉄門(くろがねもん)へは紅葉のトンネルを潜っていきます。

    大手道
    鉄門(くろがねもん)へは紅葉のトンネルを潜っていきます。

  • 鈴木玄道顕彰碑<br />大手道最後の坂を登り詰めたこの場所には、かつて岩坂門があったそうです。<br />鈴木家12代 玄道は、成瀬家の御典医でした。藩校敬道館で儒学の教授も兼任し、町民からも腕の立つ医者として慕われていました。1878(明治11)年の没後、この碑が建立されています。<br />「記念碑」の題字は、城主9代 成瀬正肥(まさみつ)が揮毫したものです。

    鈴木玄道顕彰碑
    大手道最後の坂を登り詰めたこの場所には、かつて岩坂門があったそうです。
    鈴木家12代 玄道は、成瀬家の御典医でした。藩校敬道館で儒学の教授も兼任し、町民からも腕の立つ医者として慕われていました。1878(明治11)年の没後、この碑が建立されています。
    「記念碑」の題字は、城主9代 成瀬正肥(まさみつ)が揮毫したものです。

  • 大手道<br />黒門跡方向を振り返った様子です。<br />この左手で入城チケットを購入します。通常は大人550円(税込)ですが、「日本庭園 有楽苑」も見学できるセット券1300円(税込)を購入しました。別々で購入するより、250円お得です。

    大手道
    黒門跡方向を振り返った様子です。
    この左手で入城チケットを購入します。通常は大人550円(税込)ですが、「日本庭園 有楽苑」も見学できるセット券1300円(税込)を購入しました。別々で購入するより、250円お得です。

  • 鉄門<br />大手道を登り切ると本丸門「鉄門」に到着です。<br />復元された2重の豪壮な櫓門ですが、往時とは趣が異なるそうです。かつては鉄砲玉や火矢などにも耐えられるよう鉄板が当てられて鉄門と呼ばれた、厳つい門だったそうです。また、鉄門の白壁は漆喰壁ではなく、ペイントのようです。

    鉄門
    大手道を登り切ると本丸門「鉄門」に到着です。
    復元された2重の豪壮な櫓門ですが、往時とは趣が異なるそうです。かつては鉄砲玉や火矢などにも耐えられるよう鉄板が当てられて鉄門と呼ばれた、厳つい門だったそうです。また、鉄門の白壁は漆喰壁ではなく、ペイントのようです。

  • 内藤丈草の句碑<br />鉄門の手前左側には、尾州犬山藩出身の江戸時代中期の俳人 内藤丈草の句碑があります。犬山藩家臣 内藤源左衛門の長子に生まれ、病身のために藩士を捨てて遁世し27歳で出家しました。松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲のひとりとなっています。<br />「涼しさを 見せてやうごく 城の松」。<br />晩年の1700(元禄13)年に故郷の犬山に帰省した際、犬山の暑さに耐え兼ねて美濃へ避暑した時のことを詠っています。『旅袋』には「見せてうこくや」とあります。<br />余談ですが、1922(大正11)年に若山牧水も犬山城に登城しています。<br />「犬山の城に登り立ちわが見るや 尾張だひらの秋のくもりを」、<br />「桑畑の中をすぎ来てかへりみる 犬山の城は秋霞せり」と詠んでいます。

    内藤丈草の句碑
    鉄門の手前左側には、尾州犬山藩出身の江戸時代中期の俳人 内藤丈草の句碑があります。犬山藩家臣 内藤源左衛門の長子に生まれ、病身のために藩士を捨てて遁世し27歳で出家しました。松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲のひとりとなっています。
    「涼しさを 見せてやうごく 城の松」。
    晩年の1700(元禄13)年に故郷の犬山に帰省した際、犬山の暑さに耐え兼ねて美濃へ避暑した時のことを詠っています。『旅袋』には「見せてうこくや」とあります。
    余談ですが、1922(大正11)年に若山牧水も犬山城に登城しています。
    「犬山の城に登り立ちわが見るや 尾張だひらの秋のくもりを」、
    「桑畑の中をすぎ来てかへりみる 犬山の城は秋霞せり」と詠んでいます。

  • 内外一誠(石碑)<br />鉄門の手前右にあるのは、犬山藩士 八木雕(あきら)の功績を顕彰した石碑です。<br />八木雕は、幼少より学問に熱心で、長じて犬山藩校 敬道館の教授となりました。幕末の動乱期に9代 成瀬正肥の下で国事に係り、幕閣らに画策して将軍継嗣問題に絡んで謹慎していた尾張藩主 徳川慶勝の幽門を解きました。また、蛤御門の変に伴う長州征伐では、岩国に赴いて岩国藩国家老 吉川監物と会見し、毛利氏の謝罪を決めて無血和睦を導きました。更には、官軍の参謀を務めたり、明治政府でも大いに活躍しました。

    内外一誠(石碑)
    鉄門の手前右にあるのは、犬山藩士 八木雕(あきら)の功績を顕彰した石碑です。
    八木雕は、幼少より学問に熱心で、長じて犬山藩校 敬道館の教授となりました。幕末の動乱期に9代 成瀬正肥の下で国事に係り、幕閣らに画策して将軍継嗣問題に絡んで謹慎していた尾張藩主 徳川慶勝の幽門を解きました。また、蛤御門の変に伴う長州征伐では、岩国に赴いて岩国藩国家老 吉川監物と会見し、毛利氏の謝罪を決めて無血和睦を導きました。更には、官軍の参謀を務めたり、明治政府でも大いに活躍しました。

  • 天守<br />鉄門を潜ると正面やや左にこじんまりとした天守が迫ってきます。<br />国宝5天守(姫路城、彦根城、松本城、松江城)のひとつであり、現存する日本最古の木造天守です。平山城、複合式望楼型3重4階地下2階付、本瓦葺(天守19m、天守台5m)。<br />1・2階は、1537(天文6)年に織田信長の叔父 信康によって創建されました。<br />3・4階は、1601(慶長6)年、小笠原吉次によって増築されました。<br />3階の唐破風、4階の廻縁と高欄は、1620(元和元)年頃に成瀬正虎によって改築されました。

    天守
    鉄門を潜ると正面やや左にこじんまりとした天守が迫ってきます。
    国宝5天守(姫路城、彦根城、松本城、松江城)のひとつであり、現存する日本最古の木造天守です。平山城、複合式望楼型3重4階地下2階付、本瓦葺(天守19m、天守台5m)。
    1・2階は、1537(天文6)年に織田信長の叔父 信康によって創建されました。
    3・4階は、1601(慶長6)年、小笠原吉次によって増築されました。
    3階の唐破風、4階の廻縁と高欄は、1620(元和元)年頃に成瀬正虎によって改築されました。

  • 天守<br />尾張と美濃の境に位置し、戦国時代の激戦地の要衝であったため、幾度も戦いの舞台となり、数度の落城を経験しながらも天守が現存するという大変珍しいお城です。また、その戦いの中では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人3名が関与するという数奇な歴史に翻弄された城でもあります。<br />犬山城の魅力は、如何にも「軍議」が開かれていそうな戦国時代の緊張感が漂っていることです。天守は、戦国時代から安土桃山時代の特徴を備えた意匠で、下層の入母屋造りの建物の上に望楼を載せた造営です。天守最上階の廻縁からは、かつて戦国武将たちが戦った濃尾平野を見渡すことができます。

    天守
    尾張と美濃の境に位置し、戦国時代の激戦地の要衝であったため、幾度も戦いの舞台となり、数度の落城を経験しながらも天守が現存するという大変珍しいお城です。また、その戦いの中では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人3名が関与するという数奇な歴史に翻弄された城でもあります。
    犬山城の魅力は、如何にも「軍議」が開かれていそうな戦国時代の緊張感が漂っていることです。天守は、戦国時代から安土桃山時代の特徴を備えた意匠で、下層の入母屋造りの建物の上に望楼を載せた造営です。天守最上階の廻縁からは、かつて戦国武将たちが戦った濃尾平野を見渡すことができます。

  • 天守<br />最上階に高欄を設け、そこから周囲が見渡せるようになっています。元々は見張り台の役目も持ち、安土城や岐阜城もこの形式でした。<br />最上階にある木製の火灯窓には窓の機能はなく、単なる装飾とされています。また、正面の開き扉も斬新です。このように戦時には砦となり防衛拠点となる天守に漆喰で固められていない木材を取り付けるのは、「燃やしてくれ」と言っているようなものです。<br />こうした装飾は、江戸時代に入って天下泰平な世の中になったことを如実に語る遺構です。それにしても、こうした洒落っ気あるものを取り付けるとは粋な計らいです。

    天守
    最上階に高欄を設け、そこから周囲が見渡せるようになっています。元々は見張り台の役目も持ち、安土城や岐阜城もこの形式でした。
    最上階にある木製の火灯窓には窓の機能はなく、単なる装飾とされています。また、正面の開き扉も斬新です。このように戦時には砦となり防衛拠点となる天守に漆喰で固められていない木材を取り付けるのは、「燃やしてくれ」と言っているようなものです。
    こうした装飾は、江戸時代に入って天下泰平な世の中になったことを如実に語る遺構です。それにしても、こうした洒落っ気あるものを取り付けるとは粋な計らいです。

  • 天守 付櫓<br />天守南東(右端)に設けられているのが切妻付櫓です。天守に直結して付櫓を設けた形式(複合式)を取ります。<br />天守への入口が敵兵に破られそうな時、側面上方から攻撃を加えて防御力をアップするためのものであり、こうした守り方を「横矢掛り」と言います。<br />この付櫓は1891(明治24)年の濃尾地震で壊れましたが、後に復元されて現在に至ります。

    天守 付櫓
    天守南東(右端)に設けられているのが切妻付櫓です。天守に直結して付櫓を設けた形式(複合式)を取ります。
    天守への入口が敵兵に破られそうな時、側面上方から攻撃を加えて防御力をアップするためのものであり、こうした守り方を「横矢掛り」と言います。
    この付櫓は1891(明治24)年の濃尾地震で壊れましたが、後に復元されて現在に至ります。

  • 天守<br />このように大屋根の上に望楼が載せられた構造の天守を望楼型天守と言います。<br />望楼は下の建物構造の影響を受けないため、1階部分が四角形になっていなくても形よく載せることができます。<br />

    天守
    このように大屋根の上に望楼が載せられた構造の天守を望楼型天守と言います。
    望楼は下の建物構造の影響を受けないため、1階部分が四角形になっていなくても形よく載せることができます。

  • 天守 地下2階<br />天守は、地上4階、地下2階(石垣内部)、天守台からの高さ19mと小さいです。<br />入口は真正面となる南面の石垣部にあり、石垣内の狭い地下2、地下1階を経て1階に至ります。<br />1階が4角形をしていないのは、天守台そのものが台形をしているためです。

    天守 地下2階
    天守は、地上4階、地下2階(石垣内部)、天守台からの高さ19mと小さいです。
    入口は真正面となる南面の石垣部にあり、石垣内の狭い地下2、地下1階を経て1階に至ります。
    1階が4角形をしていないのは、天守台そのものが台形をしているためです。

  • 天守 地下1階<br />階段ひとつ上がった地下1階の穴倉です。<br />石垣で囲まれた薄暗いスペースには、太い梁と黒光りした床板が存在感を顕にしています。犬山城で一番太い梁だそうです。「この太い梁と荒々しい野面積の石垣が400年以上もの間、天守を支え続けてきました」と言いたいのですが、実はこの梁はタイから輸入した木だそうです。「昭和の修理」の際に新調された梁ですが、このような大木はもはや日本では入手できないそうです。創建当時は鉋(かんな)がなく、釿(ちょうな)と呼ばれる大工道具で削っていたため、木材の表面処理を意図的に荒削にして無骨に仕上げてありるのが救いです。

    天守 地下1階
    階段ひとつ上がった地下1階の穴倉です。
    石垣で囲まれた薄暗いスペースには、太い梁と黒光りした床板が存在感を顕にしています。犬山城で一番太い梁だそうです。「この太い梁と荒々しい野面積の石垣が400年以上もの間、天守を支え続けてきました」と言いたいのですが、実はこの梁はタイから輸入した木だそうです。「昭和の修理」の際に新調された梁ですが、このような大木はもはや日本では入手できないそうです。創建当時は鉋(かんな)がなく、釿(ちょうな)と呼ばれる大工道具で削っていたため、木材の表面処理を意図的に荒削にして無骨に仕上げてありるのが救いです。

  • 天守 1階 付櫓<br />穴倉を抜けた1階は「納戸の間」と呼ばれて見所も多いのですが、生憎、耐震工事中のため覆いがされており見学できません。地下から階段を上がってすぐ右手には付櫓の内側が見られます。右側の格子窓が「横矢掛り」です。<br /><br />参考資料によると、1階の床が台形になっているのは、城を少しでも大きく見せるための計らいだそうです。1階の中央部は「上段の間」を主室とする4室に区画され、その周囲に幅2間の「武者走り」と呼ばれる廊下を回しています。「上段の間」は畳敷で、押板床や違棚、帳台構を備える書院造の座敷です。城主の部屋とされますが、城主が天守に住んでいた訳ではなく、籠城の際に城主が座る場所だったようです。そこにある引き戸の向こう側は8畳程の「武者隠しの間」になっており、不審な来客があった場合はそこに配下の者が潜んだとされます。<br />北西隅には実戦的な「石落しの間」があります。

    天守 1階 付櫓
    穴倉を抜けた1階は「納戸の間」と呼ばれて見所も多いのですが、生憎、耐震工事中のため覆いがされており見学できません。地下から階段を上がってすぐ右手には付櫓の内側が見られます。右側の格子窓が「横矢掛り」です。

    参考資料によると、1階の床が台形になっているのは、城を少しでも大きく見せるための計らいだそうです。1階の中央部は「上段の間」を主室とする4室に区画され、その周囲に幅2間の「武者走り」と呼ばれる廊下を回しています。「上段の間」は畳敷で、押板床や違棚、帳台構を備える書院造の座敷です。城主の部屋とされますが、城主が天守に住んでいた訳ではなく、籠城の際に城主が座る場所だったようです。そこにある引き戸の向こう側は8畳程の「武者隠しの間」になっており、不審な来客があった場合はそこに配下の者が潜んだとされます。
    北西隅には実戦的な「石落しの間」があります。

  • 天守 2階<br />太い梁には、「釿」や「やりがんな」、「大鋸」の粗い加工痕が残っています。<br />

    天守 2階
    太い梁には、「釿」や「やりがんな」、「大鋸」の粗い加工痕が残っています。

  • 天守 2階<br />中央部が「武具の間」で西北東の3方に武具棚が備えられ、その周囲に武者走りが回らされています。と言っても実際に武具があるわけではなく、犬山城天守の「解体骨組み模型」が展示してあります。

    天守 2階
    中央部が「武具の間」で西北東の3方に武具棚が備えられ、その周囲に武者走りが回らされています。と言っても実際に武具があるわけではなく、犬山城天守の「解体骨組み模型」が展示してあります。

  • 天守 2階<br />このように、犬山城天守の1/ 10スケールの「解体骨組み模型」がポツンと置かれています。

    天守 2階
    このように、犬山城天守の1/ 10スケールの「解体骨組み模型」がポツンと置かれています。

  • 天守 3階<br />創建当初は2階の屋根裏だったそうで、天井が低く何もないがらんどうの空間です。<br />いざという時には、「軍議の間」になったものと思われます。<br />南北側に施されている「破風の間」は成瀬正虎によって改築されたと伝わります。

    天守 3階
    創建当初は2階の屋根裏だったそうで、天井が低く何もないがらんどうの空間です。
    いざという時には、「軍議の間」になったものと思われます。
    南北側に施されている「破風の間」は成瀬正虎によって改築されたと伝わります。

  • 天守 3階<br />東西側には入母屋破風が施されています。<br />手前にある3階への階段が最も急勾配とされ、角度50度あります。<br />そもそも戦時中の階段は、登るためにあるのではなく、敵を蹴落とすためのものですから納得です。

    天守 3階
    東西側には入母屋破風が施されています。
    手前にある3階への階段が最も急勾配とされ、角度50度あります。
    そもそも戦時中の階段は、登るためにあるのではなく、敵を蹴落とすためのものですから納得です。

  • 天守 3階<br />梁は地下や1・2階のものと比べると仕上げが綺麗です。ここは鉋で削ってあるそうです。<br />確かに1・2階と3・4階では築城の年代が異なることを示しています。

    天守 3階
    梁は地下や1・2階のものと比べると仕上げが綺麗です。ここは鉋で削ってあるそうです。
    確かに1・2階と3・4階では築城の年代が異なることを示しています。

  • 最上階「高欄の間」<br />ここは戦国時代の見張り台&司令塔だったそうですが、特筆すべき点は赤い絨毯が敷かれていることです。成瀬家7代当主 正壽がオランダ商館長と親しかったことから、館長から贈られた絨毯を敷いたと伝えられ、「昭和の修理」の際に再現されました。<br />因みに、1972(昭和47)年に山口誓子は犬山城を訪れ、この絨毯のことを詠んでいます。<br />「絨毯を敷きて冷えきる天守閣」。<br />余談ですが、正壽には「尾張藩から独立して大名になる」という野望があったそうです。実際に尾張藩から離脱して幕臣に戻り、藩主として独立しようと試みましたが失敗しました。この企てが失敗したことで、徳川政権下での「犬山藩独立」は水泡に帰しました。しかし、成瀬正住の養子となった9代目の正肥の時、明治政府から犬山を藩として認められ、ようやく犬山藩を立藩することが出来ました。しかし、それも4年間という短期のことでしたが…。

    最上階「高欄の間」
    ここは戦国時代の見張り台&司令塔だったそうですが、特筆すべき点は赤い絨毯が敷かれていることです。成瀬家7代当主 正壽がオランダ商館長と親しかったことから、館長から贈られた絨毯を敷いたと伝えられ、「昭和の修理」の際に再現されました。
    因みに、1972(昭和47)年に山口誓子は犬山城を訪れ、この絨毯のことを詠んでいます。
    「絨毯を敷きて冷えきる天守閣」。
    余談ですが、正壽には「尾張藩から独立して大名になる」という野望があったそうです。実際に尾張藩から離脱して幕臣に戻り、藩主として独立しようと試みましたが失敗しました。この企てが失敗したことで、徳川政権下での「犬山藩独立」は水泡に帰しました。しかし、成瀬正住の養子となった9代目の正肥の時、明治政府から犬山を藩として認められ、ようやく犬山藩を立藩することが出来ました。 しかし、それも4年間という短期のことでしたが…。

  • 最上階「高欄の間」<br />天井が張られ、壁の上部には初代 成瀬正成から続く歴代城主の絵が掛けられています。右端から、成瀬正成→正虎→正親→正幸→正泰と続きます。<br />余談ですが、正成には主人との絆の強さを伝えるエピソードが残されています。<br />ひとつは、豊臣秀吉が正成を気に入って召し抱えようとした時のことです。正成は「二君に仕えず」と涙ながらに固辞し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と伝えたと言います。更には、正成が死に臨んだ際、「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言ってきかず、家臣らは籠を担いで日光へ向かう振りをしたと伝わります。<br />もうひとつは、正成が尾張藩付家老になった際、家康から「藩主 義直に逆心がある時は伝えるように」と命じられました。これに対して正成は、「自分は義直直属の家老になるのだから、自分の主は義直一人。その主が謀反を起こすとなれば家来である自分はそれに従う」と家康の命令を断ったそうです。

    最上階「高欄の間」
    天井が張られ、壁の上部には初代 成瀬正成から続く歴代城主の絵が掛けられています。右端から、成瀬正成→正虎→正親→正幸→正泰と続きます。
    余談ですが、正成には主人との絆の強さを伝えるエピソードが残されています。
    ひとつは、豊臣秀吉が正成を気に入って召し抱えようとした時のことです。正成は「二君に仕えず」と涙ながらに固辞し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と伝えたと言います。更には、正成が死に臨んだ際、「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言ってきかず、家臣らは籠を担いで日光へ向かう振りをしたと伝わります。
    もうひとつは、正成が尾張藩付家老になった際、家康から「藩主 義直に逆心がある時は伝えるように」と命じられました。これに対して正成は、「自分は義直直属の家老になるのだから、自分の主は義直一人。その主が謀反を起こすとなれば家来である自分はそれに従う」と家康の命令を断ったそうです。

  • 最上階「高欄の間」<br />9代目 正肥からは写真です。右端から、正住→正肥→正雄→正勝→正俊。<br />因みに、最後の12代城主 正俊氏の写真(一番左)は篠山紀信氏が撮影されたものだそうです。<br />成瀬一族は平成の世にあっても犬山城を所有し続け、2004年に財団法人ができるまで唯一の個人所有の国宝でした。

    最上階「高欄の間」
    9代目 正肥からは写真です。右端から、正住→正肥→正雄→正勝→正俊。
    因みに、最後の12代城主 正俊氏の写真(一番左)は篠山紀信氏が撮影されたものだそうです。
    成瀬一族は平成の世にあっても犬山城を所有し続け、2004年に財団法人ができるまで唯一の個人所有の国宝でした。

  • 最上階 高欄<br />南西方向の直下には城下町が俯瞰できます。手前に背の高いビルが建っており、なんだかな~の景色になっていますが…。<br />天気がよければ、その先には小牧城や名古屋テレビ塔、名古屋駅の高層ビル群が見られます。<br />こうして城下を俯瞰すると、犬山城が城下町と一体化した総構えの城郭だったことがよく判ります。木曽川の南岸、標高90mの城山に築かれた犬山城は、背後を断崖に守られた典型的な「後堅固の城」です。本丸や杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置してありました。天守の他に現存する建物はありませんが、本丸の石垣や空堀が遺されています。

    最上階 高欄
    南西方向の直下には城下町が俯瞰できます。手前に背の高いビルが建っており、なんだかな~の景色になっていますが…。
    天気がよければ、その先には小牧城や名古屋テレビ塔、名古屋駅の高層ビル群が見られます。
    こうして城下を俯瞰すると、犬山城が城下町と一体化した総構えの城郭だったことがよく判ります。木曽川の南岸、標高90mの城山に築かれた犬山城は、背後を断崖に守られた典型的な「後堅固の城」です。本丸や杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置してありました。天守の他に現存する建物はありませんが、本丸の石垣や空堀が遺されています。

  • 最上階 高欄(南側方向)<br />鉄門と小銃櫓が並んでいますが、いずれも模擬櫓です。<br />遠方に3つのピークが連なっていますが、これが尾張三山です。<br />左端の尖ったピークが「尾張富士」です。標高275mあります。尾張富士が隣の本宮山(ほんぐうさん)と高さを競い合ったことに由来し、「石上げ祭」が毎年8月の第1日曜日に開催されています。東側の山麓には、博物館明治村や入鹿池があります。<br />中央が標高293mある「本宮山」です。別名「尾張大富士」と呼ばれ、西側の山麓には大縣神社があり、山頂付近にはその奥宮が佇みます。<br />右端が尾張白山(標高260m)です。山頂には白山社があります。

    最上階 高欄(南側方向)
    鉄門と小銃櫓が並んでいますが、いずれも模擬櫓です。
    遠方に3つのピークが連なっていますが、これが尾張三山です。
    左端の尖ったピークが「尾張富士」です。標高275mあります。尾張富士が隣の本宮山(ほんぐうさん)と高さを競い合ったことに由来し、「石上げ祭」が毎年8月の第1日曜日に開催されています。東側の山麓には、博物館明治村や入鹿池があります。
    中央が標高293mある「本宮山」です。別名「尾張大富士」と呼ばれ、西側の山麓には大縣神社があり、山頂付近にはその奥宮が佇みます。
    右端が尾張白山(標高260m)です。山頂には白山社があります。

  • 最上階 高欄<br />高欄は当初と同じ高さであり、意外に低いので要注意です。信長をはじめとした多くの武将たちが同じようにここから景色を眺めていたかと思うと感慨深いものがあります。<br />

    最上階 高欄
    高欄は当初と同じ高さであり、意外に低いので要注意です。信長をはじめとした多くの武将たちが同じようにここから景色を眺めていたかと思うと感慨深いものがあります。

  • 最上階 高欄<br />西側には、木曽川に架かるライン大橋とその向こうにピラミッド形をした伊木山(標高173.1m)が見られます。戦国時代には伊木山に中世の山城があったそうです。別名「夕暮れ富士」とも呼ばれています。<br />眼下には荻生徂徠が長江に見立てた木曽川がたおやかに流れています。犬山城は別名「白帝城」とも呼ばれますが、それは木曽川沿いの丘に建つ白く美しい姿を見た儒学者 荻生徂徠が中国唐代の詩人李白の詩『早発白帝城』から着想して名付けたと伝わります。中国の白帝城は長江の上流 重慶奉節県にあり、長江が大きく曲がり小高い山の上に城郭のある景観が犬山城と似ているそうです。三国時代の蜀の皇帝 劉備玄徳が無念の死を遂げた弟達(関羽、張飛)を思いながら息を引き取った悲話が残される城ですが、白く綺麗な城とされます。

    最上階 高欄
    西側には、木曽川に架かるライン大橋とその向こうにピラミッド形をした伊木山(標高173.1m)が見られます。戦国時代には伊木山に中世の山城があったそうです。別名「夕暮れ富士」とも呼ばれています。
    眼下には荻生徂徠が長江に見立てた木曽川がたおやかに流れています。犬山城は別名「白帝城」とも呼ばれますが、それは木曽川沿いの丘に建つ白く美しい姿を見た儒学者 荻生徂徠が中国唐代の詩人李白の詩『早発白帝城』から着想して名付けたと伝わります。中国の白帝城は長江の上流 重慶奉節県にあり、長江が大きく曲がり小高い山の上に城郭のある景観が犬山城と似ているそうです。三国時代の蜀の皇帝 劉備玄徳が無念の死を遂げた弟達(関羽、張飛)を思いながら息を引き取った悲話が残される城ですが、白く綺麗な城とされます。

  • 最上階 高欄<br />北西方向には金華山にチョコンと建つ岐阜城が見られます。<br />左端の三角形をした山の奥にあるのが金華山です。<br />

    最上階 高欄
    北西方向には金華山にチョコンと建つ岐阜城が見られます。
    左端の三角形をした山の奥にあるのが金華山です。

  • 最上階 高欄<br />北側の景色です。<br />左端が岐阜県各務原市にある愛宕山(標高269m)、中央にあるピークが八木山(標高296m)です。両山の間に挟まれた双子山(標高247m)を含め、総称して八木山三山と呼ばれています。「各務原アルプス」の一画でもあります。<br />手前に広がるのは、濃尾平野北部に位置する各務原台地です。古くはこの台地を「各務野」や「鏡野」と呼び、伝承では一帯が原野だったため、蚊が蓑のように集ることから「かがみの」と呼ばれたと伝わります。土地が痩せており農業に適さず、かっては原野が広がり、明治時代までは農耕馬の飼料や堆肥用の草刈場だったようです。

    最上階 高欄
    北側の景色です。
    左端が岐阜県各務原市にある愛宕山(標高269m)、中央にあるピークが八木山(標高296m)です。両山の間に挟まれた双子山(標高247m)を含め、総称して八木山三山と呼ばれています。「各務原アルプス」の一画でもあります。
    手前に広がるのは、濃尾平野北部に位置する各務原台地です。古くはこの台地を「各務野」や「鏡野」と呼び、伝承では一帯が原野だったため、蚊が蓑のように集ることから「かがみの」と呼ばれたと伝わります。土地が痩せており農業に適さず、かっては原野が広がり、明治時代までは農耕馬の飼料や堆肥用の草刈場だったようです。

  • 最上階 高欄<br />天気が良ければ、この谷間に御嶽山が見えるはずなのですが…。<br />ツインブリッジ(新犬山橋)を走っているのが名鉄犬山線です。2000年に「鉄道橋」と「道路橋」が切り離された「新犬山橋」ですが、その時に「ツインブリッジ」という愛称を貰いました。東(奥)には日本ライン、西(手前)には木曽川と犬山城を望むことができます。「ツインブリッジ」の愛称には「新旧並んだ2つの橋」や「愛知県と岐阜県を結ぶ」、「犬山市と各務原市を結ぶ」など、ツインに相応しい意味が込められているそうです。

    最上階 高欄
    天気が良ければ、この谷間に御嶽山が見えるはずなのですが…。
    ツインブリッジ(新犬山橋)を走っているのが名鉄犬山線です。2000年に「鉄道橋」と「道路橋」が切り離された「新犬山橋」ですが、その時に「ツインブリッジ」という愛称を貰いました。東(奥)には日本ライン、西(手前)には木曽川と犬山城を望むことができます。「ツインブリッジ」の愛称には「新旧並んだ2つの橋」や「愛知県と岐阜県を結ぶ」、「犬山市と各務原市を結ぶ」など、ツインに相応しい意味が込められているそうです。

  • 最上階 高欄<br />東側には、日本モンキーパークの観覧車が見えます。

    最上階 高欄
    東側には、日本モンキーパークの観覧車が見えます。

  • 最上階 高欄<br />天守の屋根を飾る棟込瓦には、成瀬家の家紋「丸に片喰」が輝きます。<br />酢漿草(かたばみ)の花を象った紋です。<br />和名のカタバミ(片喰)は、ハート型の葉が1片食べられて欠けているように見えることに由来しています。また、酢漿の漢字は、根にシュウ酸を含み、食べると酸っぱいことから付けられました。<br />カタバミは、家紋によく使われるモチーフのひとつで、平安時代には牛車の紋に使用されていたそうです。カタバミが家紋として好まれるのは、繁殖力が強く、なかなか根絶させることができないことから、「子孫繁栄」に通じるとされていたためです。戦国大名では、長宗我部元親や長宗我部盛親が、カタバミの家紋を用いていました。

    最上階 高欄
    天守の屋根を飾る棟込瓦には、成瀬家の家紋「丸に片喰」が輝きます。
    酢漿草(かたばみ)の花を象った紋です。
    和名のカタバミ(片喰)は、ハート型の葉が1片食べられて欠けているように見えることに由来しています。また、酢漿の漢字は、根にシュウ酸を含み、食べると酸っぱいことから付けられました。
    カタバミは、家紋によく使われるモチーフのひとつで、平安時代には牛車の紋に使用されていたそうです。カタバミが家紋として好まれるのは、繁殖力が強く、なかなか根絶させることができないことから、「子孫繁栄」に通じるとされていたためです。戦国大名では、長宗我部元親や長宗我部盛親が、カタバミの家紋を用いていました。

  • 最上階 高欄<br />成瀬正虎による増築とされる高欄と廻縁が回らされた望楼となっています。<br />廻縁は外側に向かって緩く傾斜が付けられており、更に高欄が低いためとてもスリリングです。<br />金網のない廻縁は嬉しいものです。<br />

    最上階 高欄
    成瀬正虎による増築とされる高欄と廻縁が回らされた望楼となっています。
    廻縁は外側に向かって緩く傾斜が付けられており、更に高欄が低いためとてもスリリングです。
    金網のない廻縁は嬉しいものです。

  • 最上階 高欄<br />何時の時代のものかは不詳ですが、床縁には傷んだ部位などを補修する「埋め木」が施されています。<br />古くなった床などを別の木材で修繕した跡です。

    最上階 高欄
    何時の時代のものかは不詳ですが、床縁には傷んだ部位などを補修する「埋め木」が施されています。
    古くなった床などを別の木材で修繕した跡です。

  • 最上階 高欄<br />桃の形をした隅瓦が屋根に設置してあります。<br />桃は亀の甲羅に載せられており、これには建造物を「硬く守る」という意味合いがあります。<br />中国古来の言い伝えで、桃は食べると不老不死の力が得られると言われ、長寿の象徴であり、その強い生命力から魔除けの文様としても使われてきました。<br />上の鬼瓦にも桃があしらわれています。

    最上階 高欄
    桃の形をした隅瓦が屋根に設置してあります。
    桃は亀の甲羅に載せられており、これには建造物を「硬く守る」という意味合いがあります。
    中国古来の言い伝えで、桃は食べると不老不死の力が得られると言われ、長寿の象徴であり、その強い生命力から魔除けの文様としても使われてきました。
    上の鬼瓦にも桃があしらわれています。

  • 最上階 高欄<br />犬山市内には桃太郎伝説が残る桃太郎神社があるため関わりがあるようなイメージを受けますが、この瓦が桃の形をしているのは桃太郎絡みではないようです。<br />

    最上階 高欄
    犬山市内には桃太郎伝説が残る桃太郎神社があるため関わりがあるようなイメージを受けますが、この瓦が桃の形をしているのは桃太郎絡みではないようです。

  • ご神木「大杉様」<br />天守の右隣には、推定樹齢650年以上とされる犬山城のご神木「大杉様」が佇みます。築城以前からあり、天守より高く、幾度も天守を落雷から守ったと伝わる巨木です。<br />1959(昭和34)年の伊勢湾台風の際は風除けになってお城を守り、その1年後に枯れたため、このように丁重に祀られています。

    ご神木「大杉様」
    天守の右隣には、推定樹齢650年以上とされる犬山城のご神木「大杉様」が佇みます。築城以前からあり、天守より高く、幾度も天守を落雷から守ったと伝わる巨木です。
    1959(昭和34)年の伊勢湾台風の際は風除けになってお城を守り、その1年後に枯れたため、このように丁重に祀られています。

  • 石垣<br />石垣の高さは、僅か5mしかありません。このように天守台の石垣が低いのは、室町時代の特徴とされます。<br />茶褐色の石は、この辺りで採れる中生代チャートという堆積岩です。他には、砂岩や花崗岩、緑色岩、粘板岩などが混在しています。石垣にチャートを使うのは珍しいそうですが、チャートは硬く、風化や侵食に対する抵抗力が強いのが特徴です。<br />犬山市の木曽川周辺は、美濃帯と呼ばれる中古生界の堆積地層があり、チャートが大量に産出されます。1.5~2.5億年前、太平洋に生息していた放散虫(遠海性プランクトン)の死骸が堆積し、その外骨格成分の二酸化珪素(石英)が堆積したものです。<br />因みに、木曽川に突きだすようにそそり立つ崖上の天守を創りだしているのもチャート層です。犬山城天守の建つ小山は、平野の中にポツンと取り残された古生層の残丘なのです。

    石垣
    石垣の高さは、僅か5mしかありません。このように天守台の石垣が低いのは、室町時代の特徴とされます。
    茶褐色の石は、この辺りで採れる中生代チャートという堆積岩です。他には、砂岩や花崗岩、緑色岩、粘板岩などが混在しています。石垣にチャートを使うのは珍しいそうですが、チャートは硬く、風化や侵食に対する抵抗力が強いのが特徴です。
    犬山市の木曽川周辺は、美濃帯と呼ばれる中古生界の堆積地層があり、チャートが大量に産出されます。1.5~2.5億年前、太平洋に生息していた放散虫(遠海性プランクトン)の死骸が堆積し、その外骨格成分の二酸化珪素(石英)が堆積したものです。
    因みに、木曽川に突きだすようにそそり立つ崖上の天守を創りだしているのもチャート層です。犬山城天守の建つ小山は、平野の中にポツンと取り残された古生層の残丘なのです。

  • 高節凌雲霄の顕彰石碑<br />天守前には、大きな石碑があります。<br />「高節凌雲霄」とは、尾張藩の附家老で犬山藩の第9代藩主 成瀬正肥のことです。<br />正肥は、1835(天保6)年に丹波国篠山藩主 青山忠良の3男に生まれ、成瀬正住の婿養子となり、家督を継ぎました。動乱期に藩主 徳川慶勝を助け、勤皇の立場で諸問題を解決したことを検証した碑です。正肥は、慶勝が第1次長州征伐で征長総督となった際、その補佐役として出陣し、責任を取って切腹した長州藩家老 国司信濃、福原越後、周布政之助、益田右衛門介らの首実検を担当しました。<br />王政復古の大号令後、朝廷から正式に犬山藩主として認められましたが、それも1871年の廃藩置県までという短命でした。

    高節凌雲霄の顕彰石碑
    天守前には、大きな石碑があります。
    「高節凌雲霄」とは、尾張藩の附家老で犬山藩の第9代藩主 成瀬正肥のことです。
    正肥は、1835(天保6)年に丹波国篠山藩主 青山忠良の3男に生まれ、成瀬正住の婿養子となり、家督を継ぎました。動乱期に藩主 徳川慶勝を助け、勤皇の立場で諸問題を解決したことを検証した碑です。正肥は、慶勝が第1次長州征伐で征長総督となった際、その補佐役として出陣し、責任を取って切腹した長州藩家老 国司信濃、福原越後、周布政之助、益田右衛門介らの首実検を担当しました。
    王政復古の大号令後、朝廷から正式に犬山藩主として認められましたが、それも1871年の廃藩置県までという短命でした。

  • 四季桜<br />今年、何かと話題になった「桜の狂い咲き」かと思いましたが、春と晩秋の年2回咲く「四季桜」です。エドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられています。<br />この時期には桜と紅葉のコラボが愉しめます。

    四季桜
    今年、何かと話題になった「桜の狂い咲き」かと思いましたが、春と晩秋の年2回咲く「四季桜」です。エドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられています。
    この時期には桜と紅葉のコラボが愉しめます。

  • 四季桜<br />犬山城の沿革をダイジェストで紹介いたします。<br />その歴史は、室町時代にはじまります。尾張を治めた守護は、足利将軍家の一門の斯波氏でした。往時は守護職大名が支配地に在住しない場合は「守護代」を置いており、それを織田氏が務めていました。<br />織田氏には幾つかの分家があり、斯波氏の内紛に乗じ、清州城を本拠に尾張下4郡を支配した清州織田氏と岩倉城を本拠に犬山城のある丹羽郡を含む尾張上4郡を支配した岩倉織田氏が争うようになりました。<br />岩倉織田氏の当主 織田敏広の弟 広近は斯波氏の命で美濃 斎藤氏への備えとして丹羽郡犬山に赴きました。そして、1469年に木之下城を築城すると共に、乾山に砦を築きました。この砦が現在の犬山城のはじまりです。

    四季桜
    犬山城の沿革をダイジェストで紹介いたします。
    その歴史は、室町時代にはじまります。尾張を治めた守護は、足利将軍家の一門の斯波氏でした。往時は守護職大名が支配地に在住しない場合は「守護代」を置いており、それを織田氏が務めていました。
    織田氏には幾つかの分家があり、斯波氏の内紛に乗じ、清州城を本拠に尾張下4郡を支配した清州織田氏と岩倉城を本拠に犬山城のある丹羽郡を含む尾張上4郡を支配した岩倉織田氏が争うようになりました。
    岩倉織田氏の当主 織田敏広の弟 広近は斯波氏の命で美濃 斎藤氏への備えとして丹羽郡犬山に赴きました。そして、1469年に木之下城を築城すると共に、乾山に砦を築きました。この砦が現在の犬山城のはじまりです。

  • 四季桜<br />清州織田氏側では、元々は家臣だった「清州三奉行」と呼ばれる織田分派のうちのひとつ、後に信長を輩出した「織田弾正忠家」が台頭してきました。信長の父 信秀の時代には、弾正忠家は、守護代の立場ながら、主である清州織田氏やその主家の斯波氏をも凌駕しました。こうした中、信秀は尾張各地に一門や家臣を配し、1537年、信長の叔父 信康を犬山城主にしました。信康は木之下城を廃城にして城郭を砦に過ぎなかった現在の場所に移築して犬山城の基礎を築きました。現在の天守の2階まではこの時代に造営されたと考えられています。

    四季桜
    清州織田氏側では、元々は家臣だった「清州三奉行」と呼ばれる織田分派のうちのひとつ、後に信長を輩出した「織田弾正忠家」が台頭してきました。信長の父 信秀の時代には、弾正忠家は、守護代の立場ながら、主である清州織田氏やその主家の斯波氏をも凌駕しました。 こうした中、信秀は尾張各地に一門や家臣を配し、1537年、信長の叔父 信康を犬山城主にしました。信康は木之下城を廃城にして城郭を砦に過ぎなかった現在の場所に移築して犬山城の基礎を築きました。現在の天守の2階まではこの時代に造営されたと考えられています。

  • 鯱(南側)<br />1544年に織田信康が斎藤道三との戦いで戦死すると、跡を継いだ信清が信長と敵対する関係となりました。やがて信長に城を攻め取られ、1547年、信長の家臣 池田恒興が城主となりました。「本能寺の変」後には、信長の次男 信雄の配下の中川定成が城主になりました。1584(天正12)年、恒興が突如羽柴秀吉方に寝返り、守りの盲点を突いた北側から木曽川を渡って侵入し、僅か一日で犬山城を落城させました。元城主の「地の利」もあった一方、複雑な心境だったことでしょう。これが後の「小牧・長久手の戦い」のトリガーとなり、「小牧・長久手の戦い」の際に秀吉が入城し、小牧山城に陣を構えた徳川家康と睨み合いましたが、両者の間で和睦が結ばれ、信雄に返還されました。しかし、信雄の失脚により、その後は城主がめまぐるしく入れ替わりました。

    鯱(南側)
    1544年に織田信康が斎藤道三との戦いで戦死すると、跡を継いだ信清が信長と敵対する関係となりました。やがて信長に城を攻め取られ、1547年、信長の家臣 池田恒興が城主となりました。「本能寺の変」後には、信長の次男 信雄の配下の中川定成が城主になりました。 1584(天正12)年、恒興が突如羽柴秀吉方に寝返り、守りの盲点を突いた北側から木曽川を渡って侵入し、僅か一日で犬山城を落城させました。元城主の「地の利」もあった一方、複雑な心境だったことでしょう。これが後の「小牧・長久手の戦い」のトリガーとなり、「小牧・長久手の戦い」の際に秀吉が入城し、小牧山城に陣を構えた徳川家康と睨み合いましたが、両者の間で和睦が結ばれ、信雄に返還されました。しかし、信雄の失脚により、その後は城主がめまぐるしく入れ替わりました。

  • 鯱(北側)<br />2017年7月、犬山城に雷が落ちて天守北側の鯱が半壊したというニュースがありました。<br />尾びれが欠けて痛々しい姿をしていました。しかし、雷による破損はこの鯱の尾びれのみのようで、まさに身を挺して城を守ったと言えます。鯱に見られる導線が避雷針であり、この避雷針により最小の被害で収まったと思われます。<br />鯱の復元は、奈良県にある山本瓦工業で進められました。粘土で作られ、1ヶ月以上乾燥させた後、1150℃の高温で焼き上げられ、無事、復元されています。

    鯱(北側)
    2017年7月、犬山城に雷が落ちて天守北側の鯱が半壊したというニュースがありました。
    尾びれが欠けて痛々しい姿をしていました。しかし、雷による破損はこの鯱の尾びれのみのようで、まさに身を挺して城を守ったと言えます。鯱に見られる導線が避雷針であり、この避雷針により最小の被害で収まったと思われます。
    鯱の復元は、奈良県にある山本瓦工業で進められました。粘土で作られ、1ヶ月以上乾燥させた後、1150℃の高温で焼き上げられ、無事、復元されています。

  • 豊臣秀次の切腹後は、秀吉の「使番」を務めた石川貞清が城主となりました。義貞には犬山城にまつわる話がふたつあります。<br />ひとつは、義貞が美濃 金山城を譲り受け、その天守などの古材を犬山城に移築したというものです。<br />かつて、城戸博士等の大御所は、「犬山城の創建は1537(天文6)年に織田信長の叔父 織田信康が木之下城から城郭を移して築いたものであり、その後1601年に美濃 金山城の天守を移築し今の姿になった」と説きました。しかし、昭和の解体修理により、金山城移築の痕跡が見当たらず、金山城の天守移築説は完全に否定されました。

    豊臣秀次の切腹後は、秀吉の「使番」を務めた石川貞清が城主となりました。義貞には犬山城にまつわる話がふたつあります。
    ひとつは、義貞が美濃 金山城を譲り受け、その天守などの古材を犬山城に移築したというものです。
    かつて、城戸博士等の大御所は、「犬山城の創建は1537(天文6)年に織田信長の叔父 織田信康が木之下城から城郭を移して築いたものであり、その後1601年に美濃 金山城の天守を移築し今の姿になった」と説きました。しかし、昭和の解体修理により、金山城移築の痕跡が見当たらず、金山城の天守移築説は完全に否定されました。

  • もうひとつは、関ヶ原の合戦にまつわります。<br />犬山城は岐阜城などと共に西軍の拠点となり、稲葉貞通や稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らが守りましたが、岐阜城が落城すると貞清以外は東軍に寝返りました。<br />一方、貞清は、関ヶ原の合戦に参陣して宇喜多隊の右翼として奮戦するも敗北しました。しかし、東軍についた木曽の国人衆からとっていた人質を解放したことが評価され、黄金千枚を納めて助命されました。その後、京で隠棲し、剃髪して宗林と号して茶人・商人として余生を過ごしますが、『徳川除封録』には1613年に幕府から扶持米500石を給されて御家人に召抱えられたとあります。「情けは人のためならず」の人生と言えます。

    もうひとつは、関ヶ原の合戦にまつわります。
    犬山城は岐阜城などと共に西軍の拠点となり、稲葉貞通や稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らが守りましたが、岐阜城が落城すると貞清以外は東軍に寝返りました。
    一方、貞清は、関ヶ原の合戦に参陣して宇喜多隊の右翼として奮戦するも敗北しました。しかし、東軍についた木曽の国人衆からとっていた人質を解放したことが評価され、黄金千枚を納めて助命されました。その後、京で隠棲し、剃髪して宗林と号して茶人・商人として余生を過ごしますが、『徳川除封録』には1613年に幕府から扶持米500石を給されて御家人に召抱えられたとあります。「情けは人のためならず」の人生と言えます。

  • 1601年、家康の四男松平忠吉が尾張清洲城主となると、領内北部を固めるため付家老 小笠原吉次を犬山城主としました。吉次は、の上に3・4階に当たる望楼を載せて近世城郭とし、城下町も整備しました。吉次は武田信玄に敵対した信濃守護小笠原長時の嫡孫です。<br />その後、1617年に尾張藩の附家老 成瀬正成が入城し、以後9代に亘って成瀬家が城主を務めました。正成は小牧・長久手の戦いや関ケ原の合戦で活躍し、幕政にも参加し家康の家老も務めた人物です。この正成の手によって天守に唐破風や高欄と廻縁が追加され、現存する天守の姿になったと伝わります。

    1601年、家康の四男松平忠吉が尾張清洲城主となると、領内北部を固めるため付家老 小笠原吉次を犬山城主としました。吉次は、の上に3・4階に当たる望楼を載せて近世城郭とし、城下町も整備しました。吉次は武田信玄に敵対した信濃守護小笠原長時の嫡孫です。
    その後、1617年に尾張藩の附家老 成瀬正成が入城し、以後9代に亘って成瀬家が城主を務めました。正成は小牧・長久手の戦いや関ケ原の合戦で活躍し、幕政にも参加し家康の家老も務めた人物です。この正成の手によって天守に唐破風や高欄と廻縁が追加され、現存する天守の姿になったと伝わります。

  • 明治時代の廃藩置県により犬山城は廃城となり、櫓や城門など天守以外の多くの部分が取り壊されました。しかし、1891(明治24)年に発生したマグニチュード8.4の「濃尾大地震」による天守の半壊をきっかけに、修復の条件付きで旧城主であった成瀬家へ、県から城が譲渡されました。<br />2004年3月時点で全国唯一の個人所有の城でしたが、現在は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有です。<br />2006年には「日本100名城」に選定されました。

    明治時代の廃藩置県により犬山城は廃城となり、櫓や城門など天守以外の多くの部分が取り壊されました。しかし、1891(明治24)年に発生したマグニチュード8.4の「濃尾大地震」による天守の半壊をきっかけに、修復の条件付きで旧城主であった成瀬家へ、県から城が譲渡されました。
    2004年3月時点で全国唯一の個人所有の城でしたが、現在は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有です。
    2006年には「日本100名城」に選定されました。

  • 鉄門<br />鉄門の2階が管理事務所になっており、そこに日本100名城のスタンプが置かれています。<br />また、管理事務所出入口の踊り場が意外なことにビュースポットになっています。<br /><br />この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥②犬山城下町でお届けします。

    鉄門
    鉄門の2階が管理事務所になっており、そこに日本100名城のスタンプが置かれています。
    また、管理事務所出入口の踊り場が意外なことにビュースポットになっています。

    この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥②犬山城下町でお届けします。

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