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 鎌倉市の西、相模湾に浮かぶ藤沢市にある江の島は古くからの観光名所である。平成30年(2018年)の秋に訪れたので、江の島について詳しく調べることになった。<br /> 江の島は、周囲4km、標高60mほどの陸繋島である。古来は、潮が引いた際にのみ現れる洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が対岸の湘南海岸まで地続きとなって歩いて渡ることができた。その名残で、片瀬側には「洲鼻通り」がある。<br /><br /> 江の島の由来については、(1)江(入り江)に隆起した島。(2)絵の様に美しく最初「絵島」と呼んでいた。(3)島と陸地のつながった姿が柄杓(ひしゃく)に似ているので「柄之島」。(4)島には東浦、西浦の他、入り組んだ海岸線を持つ地形から「江之島」。(5)島の形が漢字の「江」の字に似ている。などの諸説が挙げられているようだ。<br /><br /> 島内に植物園内遺跡から、縄文後期から弥生時代にかけての土器片が発掘されていることもあり、およそ2万年前、沈降運動により片瀬側と離れ独立した島となったと言われている。しかし、「江島縁起」によれば、欽明天皇13年(552年)4月12日夜に大地震が発生して、23日の朝までの21日間大地が震動し、海底より砂が吹き出し、江の島ができたとされる。海底から島が隆起して出現する方が神秘性があり、その後、神が祀られ、霊場となって行くのであるが、6世紀にも島が隆起するほどの大地震があったのかも知れない。<br /> また、健保3年(1215年)9月に地震が発生して江ノ島が陸続きになり、健保4年(1216年)の正月には干潮時に歩いて渡ったと言われている。境川が運んだ土砂が堆積して砂州になったのであろう。<br /> さらに、大正12年(1923年)に起った関東大震災により江の島が1mほど隆起した。2m近くとするものもある。稚児ヶ淵の海岸には平な岩場が波に洗われているが、この時に隆起したのだという。昭和39年(1964年)の新潟地震では震源地に近い粟島が1.5mほど隆起しているように、大地震が発生することで海底が隆起することはしばしばあることだ。<br /><br /> 「江島縁起」では「天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造った」とされ、欽明天皇の勅命で岩屋(御窟(おんいわや))に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであると伝えられている。そして、鎌倉の深沢にあった湖に住んでいた五頭龍がその天女に恋をして心を入れ替えたという恋物語がある。このように、江の島にはこの天女が祀られ、対岸には五頭龍が祀られた。それにより、江島神社と龍口明神社(鎌倉市腰越・津)とは姉妹神社になっている。<br /> その後、文武天皇4年(700年)(江島神社こ由緒)(白鳳元年(672年)(鎌倉タイムズ)とも)、修験道の開祖・役小角(えんのおづの)(舒明天皇6年(634年)伝  ~大宝元年6月7日(701年))が江ノ島に霊場を開く。役小角に続き、泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、この洞窟で修行したと伝えられている。あるいは、江戸時代後期には木喰上人も別の洞窟で修行している。<br /> 弘仁5年(814年)、空海が岩屋本宮を創建した。これより、江ノ島は神仏習合した金亀山与願寺(よがんじ)となった。<br /> 仁寿3年(853年)、慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建した。<br /> 時を経て、養和2年(1182年)に源頼朝の命で文覚上人が岩屋に弁才天を勧請した。これを江島神社の(中興)創建と見る向きもある。源頼朝が奉納した八臂弁財天が祀られ、また鳥居を奉納したことが伝わっている。これ以降は戦の神である八臂弁財天を祀り、元寇で蒙古軍を撃ち退けた御礼として後宇多天皇からは江島大明神の勅額を賜っている。こうしたことから「戦いの神」としての弁財天信仰が広がり、東国武士たちが多く江の島を訪れるようになった。<br /> 建久元年(1190年)、北条時政が江の島に参籠し、一族の繁栄を祈願した。この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、「三つ鱗」を北条家の家紋と定めた。江島神社の社紋が「三つ鱗」である。しかし、主君の源頼朝を差し置いて御家人の北条氏が金亀山与願寺の大旦那になったのではおかしいだろう。<br /> 永正元年(1504年)、北条早雲が山内顕を攻略するために江の島まで出陣し、島内に禁制を下した。これ以降、江の島は北条氏の支配下に置かれる。江島神社の「三つ鱗」の社紋は戦国時代の後北条氏の家紋である。<br /><br /> 慶長5年(1600年)6月、徳川家康が江島神社に参詣した。9月の関ヶ原の戦いの前である。「直江状」に端を発して大坂城から会津征伐に出陣する際に戦勝祈願したものであろう。この後、武士だけでなく江戸庶民にも江の島詣が流行した。<br /> 相模大山は雨降り山と呼ばれ霊山として崇められてきていた。大山は男神、江の島は女神に例えられて、大山山頂の石尊社への登拝期は江の島弁財天開帳、祭礼期にあたることから、大山詣でと江の島参拝がセットとなり流行した。その際に、江戸庶民は鎌倉と金沢八景も物見遊山した。こうして江の島は観光地となっていったのである。<br /><br /> 岩屋本宮には岩本坊、上之宮には上ノ坊、下之宮には下ノ坊の3つの別当があったが、その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。常識的には「岩本」は岩屋本宮を意味する名であろう。<br /> 岩屋本宮に海水が入りこんでしまう旧暦四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座されたところが江戸時代までは本宮御旅所(ほんぐうおたびしょ)と言われていた。創建年代は不詳であるが、風土記などの資料から1600年代に奥津宮が創建されたと考えられている。<br /> 慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となった。それにより、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。江島大神としてのご神威はいささか曇り給うことなく、ご神徳はいよいよ広大に仰がれた。歌川広重の浮世絵「相州江乃嶋辨才天開帳参詣群集之図」には洲鼻口から砂州に列をなす人混みの様子が描かれている。弘化4年~嘉永5年(1847年~52年)といえば、三浦半島などで各藩が砲台を築くなど海防に追われていた頃である。江戸庶民は箱根の関所を越えての伊勢参りではなく、身近な大山詣でと江島神社参拝に大挙して押し寄せていた。浮世絵では女性の着物姿が多く見られる。<br /><br /> 明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、改めて「江島神社」と号し、これまでの本宮と御旅所は奥津宮、上之宮は中津宮、下之宮は辺津宮と改称した。これまでは、八臂弁財天と妙音弁財天を祀り、江島弁天・江島明神と呼ばれ海の神、水の神、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として仰がれていたが、これ以降、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となった。<br /> 宗像三女神は天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた女の神様で、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比賣命(たごりひめのみこと)の三神である。田寸津比賣命を辺津宮に、市寸島比賣命を中津宮に、多紀理比賣命を奥津宮にそれぞれ祀っている。九州の福岡にある宗像大社や広島県の厳島神社のご祭神と同じである。しかし、一般には、日本三大弁財天は宝厳寺・竹生島神社(滋賀県 竹生島)、ここ 江島神社、厳島神社(広島県 宮島)をいい、宗像大社は入れていない。<br /> この時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、「岩本楼」へ改称し、旅館となった。また、上之坊は「金亀楼」、下之坊は「恵比壽屋」になったが、現在では金亀楼はない。<br /><br /> また、明治13年(1880年)にはアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングが、江島神社の所有地であった江の島頂上部の土地を妻名義で購入し、別荘を建築し、庭園を造園して行く。現在の「江の島サムエル・コッキング苑」と「亀ヶ岡広場」である。山ふたつを境に、西山には龍野ヶ岡、東山には亀ヶ岡がある。江の島には富士山のビュースポットがあり、西山には頂上や下道など何ヶ所かが、東山側には稚児ヶ淵が知られている。<br /> 明治20年(1887年)に藤沢駅が、明治22年(1889年)に鎌倉駅が開業し、さらに明治35年(1902年)には江之島電氣鐵道が開通した。こうした鉄道の開通で江の島に多くの観光客を運ぶことになり、明治43年(1910年)に江ノ電が鎌倉まで全線開通すると、江の島、鎌倉を結ぶ観光ルートが確立し、修学旅行などで賑わうようになった。今では「江ノ電」は沿線住民の足としてばかりではなく、江ノ島や鎌倉を訪れる観光客の足として親しまれている。<br />(表紙写真は江の島)<br /><br />

江の島-2018年秋

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2018/10/29 - 2018/10/29

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市の西、相模湾に浮かぶ藤沢市にある江の島は古くからの観光名所である。平成30年(2018年)の秋に訪れたので、江の島について詳しく調べることになった。
 江の島は、周囲4km、標高60mほどの陸繋島である。古来は、潮が引いた際にのみ現れる洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が対岸の湘南海岸まで地続きとなって歩いて渡ることができた。その名残で、片瀬側には「洲鼻通り」がある。

 江の島の由来については、(1)江(入り江)に隆起した島。(2)絵の様に美しく最初「絵島」と呼んでいた。(3)島と陸地のつながった姿が柄杓(ひしゃく)に似ているので「柄之島」。(4)島には東浦、西浦の他、入り組んだ海岸線を持つ地形から「江之島」。(5)島の形が漢字の「江」の字に似ている。などの諸説が挙げられているようだ。

 島内に植物園内遺跡から、縄文後期から弥生時代にかけての土器片が発掘されていることもあり、およそ2万年前、沈降運動により片瀬側と離れ独立した島となったと言われている。しかし、「江島縁起」によれば、欽明天皇13年(552年)4月12日夜に大地震が発生して、23日の朝までの21日間大地が震動し、海底より砂が吹き出し、江の島ができたとされる。海底から島が隆起して出現する方が神秘性があり、その後、神が祀られ、霊場となって行くのであるが、6世紀にも島が隆起するほどの大地震があったのかも知れない。
 また、健保3年(1215年)9月に地震が発生して江ノ島が陸続きになり、健保4年(1216年)の正月には干潮時に歩いて渡ったと言われている。境川が運んだ土砂が堆積して砂州になったのであろう。
 さらに、大正12年(1923年)に起った関東大震災により江の島が1mほど隆起した。2m近くとするものもある。稚児ヶ淵の海岸には平な岩場が波に洗われているが、この時に隆起したのだという。昭和39年(1964年)の新潟地震では震源地に近い粟島が1.5mほど隆起しているように、大地震が発生することで海底が隆起することはしばしばあることだ。

 「江島縁起」では「天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造った」とされ、欽明天皇の勅命で岩屋(御窟(おんいわや))に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであると伝えられている。そして、鎌倉の深沢にあった湖に住んでいた五頭龍がその天女に恋をして心を入れ替えたという恋物語がある。このように、江の島にはこの天女が祀られ、対岸には五頭龍が祀られた。それにより、江島神社と龍口明神社(鎌倉市腰越・津)とは姉妹神社になっている。
 その後、文武天皇4年(700年)(江島神社こ由緒)(白鳳元年(672年)(鎌倉タイムズ)とも)、修験道の開祖・役小角(えんのおづの)(舒明天皇6年(634年)伝 ~大宝元年6月7日(701年))が江ノ島に霊場を開く。役小角に続き、泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、この洞窟で修行したと伝えられている。あるいは、江戸時代後期には木喰上人も別の洞窟で修行している。
 弘仁5年(814年)、空海が岩屋本宮を創建した。これより、江ノ島は神仏習合した金亀山与願寺(よがんじ)となった。
 仁寿3年(853年)、慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建した。
 時を経て、養和2年(1182年)に源頼朝の命で文覚上人が岩屋に弁才天を勧請した。これを江島神社の(中興)創建と見る向きもある。源頼朝が奉納した八臂弁財天が祀られ、また鳥居を奉納したことが伝わっている。これ以降は戦の神である八臂弁財天を祀り、元寇で蒙古軍を撃ち退けた御礼として後宇多天皇からは江島大明神の勅額を賜っている。こうしたことから「戦いの神」としての弁財天信仰が広がり、東国武士たちが多く江の島を訪れるようになった。
 建久元年(1190年)、北条時政が江の島に参籠し、一族の繁栄を祈願した。この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、「三つ鱗」を北条家の家紋と定めた。江島神社の社紋が「三つ鱗」である。しかし、主君の源頼朝を差し置いて御家人の北条氏が金亀山与願寺の大旦那になったのではおかしいだろう。
 永正元年(1504年)、北条早雲が山内顕を攻略するために江の島まで出陣し、島内に禁制を下した。これ以降、江の島は北条氏の支配下に置かれる。江島神社の「三つ鱗」の社紋は戦国時代の後北条氏の家紋である。

 慶長5年(1600年)6月、徳川家康が江島神社に参詣した。9月の関ヶ原の戦いの前である。「直江状」に端を発して大坂城から会津征伐に出陣する際に戦勝祈願したものであろう。この後、武士だけでなく江戸庶民にも江の島詣が流行した。
 相模大山は雨降り山と呼ばれ霊山として崇められてきていた。大山は男神、江の島は女神に例えられて、大山山頂の石尊社への登拝期は江の島弁財天開帳、祭礼期にあたることから、大山詣でと江の島参拝がセットとなり流行した。その際に、江戸庶民は鎌倉と金沢八景も物見遊山した。こうして江の島は観光地となっていったのである。

 岩屋本宮には岩本坊、上之宮には上ノ坊、下之宮には下ノ坊の3つの別当があったが、その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。常識的には「岩本」は岩屋本宮を意味する名であろう。
 岩屋本宮に海水が入りこんでしまう旧暦四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座されたところが江戸時代までは本宮御旅所(ほんぐうおたびしょ)と言われていた。創建年代は不詳であるが、風土記などの資料から1600年代に奥津宮が創建されたと考えられている。
 慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となった。それにより、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。江島大神としてのご神威はいささか曇り給うことなく、ご神徳はいよいよ広大に仰がれた。歌川広重の浮世絵「相州江乃嶋辨才天開帳参詣群集之図」には洲鼻口から砂州に列をなす人混みの様子が描かれている。弘化4年~嘉永5年(1847年~52年)といえば、三浦半島などで各藩が砲台を築くなど海防に追われていた頃である。江戸庶民は箱根の関所を越えての伊勢参りではなく、身近な大山詣でと江島神社参拝に大挙して押し寄せていた。浮世絵では女性の着物姿が多く見られる。

 明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、改めて「江島神社」と号し、これまでの本宮と御旅所は奥津宮、上之宮は中津宮、下之宮は辺津宮と改称した。これまでは、八臂弁財天と妙音弁財天を祀り、江島弁天・江島明神と呼ばれ海の神、水の神、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として仰がれていたが、これ以降、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となった。
 宗像三女神は天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた女の神様で、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比賣命(たごりひめのみこと)の三神である。田寸津比賣命を辺津宮に、市寸島比賣命を中津宮に、多紀理比賣命を奥津宮にそれぞれ祀っている。九州の福岡にある宗像大社や広島県の厳島神社のご祭神と同じである。しかし、一般には、日本三大弁財天は宝厳寺・竹生島神社(滋賀県 竹生島)、ここ 江島神社、厳島神社(広島県 宮島)をいい、宗像大社は入れていない。
 この時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、「岩本楼」へ改称し、旅館となった。また、上之坊は「金亀楼」、下之坊は「恵比壽屋」になったが、現在では金亀楼はない。

 また、明治13年(1880年)にはアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングが、江島神社の所有地であった江の島頂上部の土地を妻名義で購入し、別荘を建築し、庭園を造園して行く。現在の「江の島サムエル・コッキング苑」と「亀ヶ岡広場」である。山ふたつを境に、西山には龍野ヶ岡、東山には亀ヶ岡がある。江の島には富士山のビュースポットがあり、西山には頂上や下道など何ヶ所かが、東山側には稚児ヶ淵が知られている。
 明治20年(1887年)に藤沢駅が、明治22年(1889年)に鎌倉駅が開業し、さらに明治35年(1902年)には江之島電氣鐵道が開通した。こうした鉄道の開通で江の島に多くの観光客を運ぶことになり、明治43年(1910年)に江ノ電が鎌倉まで全線開通すると、江の島、鎌倉を結ぶ観光ルートが確立し、修学旅行などで賑わうようになった。今では「江ノ電」は沿線住民の足としてばかりではなく、江ノ島や鎌倉を訪れる観光客の足として親しまれている。
(表紙写真は江の島)

  • 江の島。鎌倉から見ると夕日が当たり、金色に輝く大亀に見えたのであろうか?

    江の島。鎌倉から見ると夕日が当たり、金色に輝く大亀に見えたのであろうか?

  • 江の島弁天橋からは東山側が亀の甲羅、西山側が亀の頭のようにも見える。

    江の島弁天橋からは東山側が亀の甲羅、西山側が亀の頭のようにも見える。

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