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翌朝、朝食をとりホテルを出る。フロントで空港までのタクシー運賃を聞くと、500P,とのことだった。鉄道駅の横を通り、空港に戻ると、800Pをとられた一昨日の運転手がいた。やはりふっかけていたようだった。なおその運転手は、どこから来たのかといい、サハリンからと答えると、「カラフト?」と言っていた。<br /><br />空港で搭乗手続きをしようとすると、チケットがどこにしまったのか見つからない。サハリンに帰れないとあわてたが、パスポートを見せると乗ることができた。飛行機が浮上すると、下に蛇行するアムール川が見えた。これも印象深い風景であった。そして2~3時間のって、ユジノサハリンスクに戻った。<br /><br />サハリンは3時間早いため、もう午後も遅い。空港からバスで市街に戻るとき、途中にある[シティモール」というショッピングモールに立ち寄った。日本のイオンモールのようにファッション、雑貨など多くの店が入り、最上階は子供の遊び場もある。広いフードコートもあり、そこで食べた。「ラーメン一番」という日本語が書かれたラーメン店もあった。<br /><br />ユジノサハリンスクに戻り、宿に荷物を置き、しばらく街を歩くことにした。この街は、戦前は日本領(南)樺太で、豊原(とよはら)といい、ミニ札幌風に、駅を基点として、東に碁盤の目の道路と市街が広がっている。道は大陸ロシアの街ほど広くなく、せいぜい片側二車線である。走っている車は、9割方日本の中古車である。国産車の生産が追い付かず、極東ロシアでは漁船や貨物船の乗組員が、”携帯品”として日本の中古車を持ち帰ることができた。ソ連時代の国産新車よりも品質がよいと、安く転売されたのがきっかけだった。十数年前、ウラジヴォストークでは99%、右ハンドル日本車だった。昨日までいたブラゴベシチェンスクでは見た目8割、ここユジノサハリンスクでは9割と、まだまだ多い。<br /><br />北東に広い公園がある。その前に、土産物店があり、絵葉書などを買う。南に向かうと、北海道庁が立てた、日本企業向けテナントビルがあるが、道の事務所以外、部屋はあまり埋まっていないようである。<br /><br />駅前、宿の近くに戻ってきた。このあたりには、稚内市の事務所があるはずで探していた。HPにあった住所のあたりのビルに入ったが、見当たらない。守衛らしき人によると”働いていない”(やっていない)とのことだった。また駅前で、戦前の、旧「みちのくビル」にあるという日本の領事館も探したが、うまく見つけられなかった。<br /><br />ただ、この日は腹痛が続き、さえない1日だった。駅前の建物の一室には「ふる里」という日本レストランがある。あまりに腹の調子が悪く、消化のいいものを食べようと入り、一番安い”鍋焼きうどん”を注文する。中には、観光客の親子が食べていたほか、そして商社の駐在員と思しき5人ほどの方々が、平日から宴会をしている。会話がですます調で、別々の会社の方々が集まっているようだ。中ではやけに日本風の提灯があり、北原ミレイの””石狩挽歌”などの演歌が流れている。慣れない着物を着たロシア人女性が給仕をされていた。<br /><br />翌朝は、まだ本調子でなかった。今朝は、西海岸のホルムスクに行きたかった。この街は戦前は真岡(まおか、アイヌ語のマウカに由来する)といい、当時から港町だった。終戦前後、ソ連軍が侵攻してきたとき、ここの郵便局の女性局員が集団自決をしたことで知られている。しかしバスで片道2時間弱かかり、体調面で気力が出ず、バスターミナルまでいくと直後のバスは切符が売り切れていたため、断念した。

2017 サハリン(等)の旅行 10

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2017/08/09 - 2017/08/16

299位(同エリア341件中)

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H.A.さん

翌朝、朝食をとりホテルを出る。フロントで空港までのタクシー運賃を聞くと、500P,とのことだった。鉄道駅の横を通り、空港に戻ると、800Pをとられた一昨日の運転手がいた。やはりふっかけていたようだった。なおその運転手は、どこから来たのかといい、サハリンからと答えると、「カラフト?」と言っていた。

空港で搭乗手続きをしようとすると、チケットがどこにしまったのか見つからない。サハリンに帰れないとあわてたが、パスポートを見せると乗ることができた。飛行機が浮上すると、下に蛇行するアムール川が見えた。これも印象深い風景であった。そして2~3時間のって、ユジノサハリンスクに戻った。

サハリンは3時間早いため、もう午後も遅い。空港からバスで市街に戻るとき、途中にある[シティモール」というショッピングモールに立ち寄った。日本のイオンモールのようにファッション、雑貨など多くの店が入り、最上階は子供の遊び場もある。広いフードコートもあり、そこで食べた。「ラーメン一番」という日本語が書かれたラーメン店もあった。

ユジノサハリンスクに戻り、宿に荷物を置き、しばらく街を歩くことにした。この街は、戦前は日本領(南)樺太で、豊原(とよはら)といい、ミニ札幌風に、駅を基点として、東に碁盤の目の道路と市街が広がっている。道は大陸ロシアの街ほど広くなく、せいぜい片側二車線である。走っている車は、9割方日本の中古車である。国産車の生産が追い付かず、極東ロシアでは漁船や貨物船の乗組員が、”携帯品”として日本の中古車を持ち帰ることができた。ソ連時代の国産新車よりも品質がよいと、安く転売されたのがきっかけだった。十数年前、ウラジヴォストークでは99%、右ハンドル日本車だった。昨日までいたブラゴベシチェンスクでは見た目8割、ここユジノサハリンスクでは9割と、まだまだ多い。

北東に広い公園がある。その前に、土産物店があり、絵葉書などを買う。南に向かうと、北海道庁が立てた、日本企業向けテナントビルがあるが、道の事務所以外、部屋はあまり埋まっていないようである。

駅前、宿の近くに戻ってきた。このあたりには、稚内市の事務所があるはずで探していた。HPにあった住所のあたりのビルに入ったが、見当たらない。守衛らしき人によると”働いていない”(やっていない)とのことだった。また駅前で、戦前の、旧「みちのくビル」にあるという日本の領事館も探したが、うまく見つけられなかった。

ただ、この日は腹痛が続き、さえない1日だった。駅前の建物の一室には「ふる里」という日本レストランがある。あまりに腹の調子が悪く、消化のいいものを食べようと入り、一番安い”鍋焼きうどん”を注文する。中には、観光客の親子が食べていたほか、そして商社の駐在員と思しき5人ほどの方々が、平日から宴会をしている。会話がですます調で、別々の会社の方々が集まっているようだ。中ではやけに日本風の提灯があり、北原ミレイの””石狩挽歌”などの演歌が流れている。慣れない着物を着たロシア人女性が給仕をされていた。

翌朝は、まだ本調子でなかった。今朝は、西海岸のホルムスクに行きたかった。この街は戦前は真岡(まおか、アイヌ語のマウカに由来する)といい、当時から港町だった。終戦前後、ソ連軍が侵攻してきたとき、ここの郵便局の女性局員が集団自決をしたことで知られている。しかしバスで片道2時間弱かかり、体調面で気力が出ず、バスターミナルまでいくと直後のバスは切符が売り切れていたため、断念した。

  • シティモールの日本洋品・雑貨店

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