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《2018.June》あみんちゅ弾丸ツアーで訪ねるTHE DAY IN OKINAWAその弐~本島中部戦跡巡り編~<br /><br />気が付けば6月23日の沖縄慰霊の日を現地で過ごす旅も葉や4回目。内地で知る〝この日〟があまりにも違うことを知り、毎年訪れるようになりました。ただ知れば知るほど奥が深いことを知るものの、その準備に費やす時間が日に日に無くなって来たこともあり、今年を以ってしばらく定期的な来沖をやめようと考えました。それにあたって今までお世話になってきた宿泊施設をすべて回り、思い出に代えようと考えました。しか~しその前に立ちはだかったのはまさかの〝現実〟でした。現在勤務している店が耐震問題で建て替えることとなり、それに伴い異動辞令が出るはずが、まさかの延期。既に他店に移動した者もいる中で、1週間の休みは当然却下となりました。とはいえ長きに渡ってお世話になった店舗ゆえ自己理由で押し通せる訳もなく、4日に短縮ということでやっとOKしてもらいました(嬉)。<br /><br />そんなこんなであっという間に出発の日。例年ならば前日早上がりなのですが、それも叶いませんでした…。準備不足はいつものこと、さぁどんな旅路になったのやら。それでは初日が始まります。<br /><br />平成30(2018)年6月22日金曜日<br />ホテルキング 09:10(0.0km・0.0km・58.2km・0.0km/h)<br />ファミマ屋富 09:11(0.4km・0.4km・58.6km・24.0km/h)<br />祖 一丁 目店 09:22<br />浦添ようどれ館 09:43(7.5km・7.9km・66.1km・21.4km/h)<br />        12:15<br />カンパン壕 12:27(3.4km・11.3km・69.5km・17.0km/h) 69.5<br />      12:40<br />墓地 12:51 (3.4km・14.7km・72.9km・18.5km/h)72.9<br />   13:02<br />那覇商業高校 13:24(8.5km・23.2km・81.4km・23.2km/h)81.4<br />       13:43<br />なぐやけの塔 13:52 (2.2km・25.4km・83.6km・3.3km/h)83.6<br />       14:32<br />琉球銀行本店 14:41(1.5km・26.9km・85.1km・15.0km/h) 85.1<br />       14:47<br />沖縄銀行本店 14:54(1.0km・27.9km・86.1km・15.0km/h)<br />       15:05<br />松山公園 15:10(1.1km・29.0km・87.2km・13.2km/h) 87.2<br />     15:32<br />沖縄水産高校 16:07(17.0km・46.0km・104.2km・29.1km/h)<br />       17:01<br />ファミマ豊見 17:18(5.1km・51.10km・109.3km・18.0km/h)<br />城名嘉地北店 17:33<br />田原公園 17:43(3.3km・54.4km・112.6km・19.8km/h)<br />   18:04	<br />城岳公園 18:22 (3.1km・57.5km・115.7km・10.3km/h)<br />     18:42<br />コジマ 19:13(5.1km・62.6km・120.8km・9.9km/h)<br />那覇店 19:35<br />吉野家国道58号天久店  19:37(0.7km・63.3km・121.5km・21.0km/h)<br />20:10<br />イオン那覇 20:34 (6.7km・70.0km・128.2km・16.7km/h)<br />      21:00<br />ゲストハウスりゅうかく 21:37(17.1km・87.1km・145.3km・27.7km/h)//<br /><br />7:30に目覚ましで起こされました。梅雨明け宣言はまだですが良い天気です♪普段の行いなんて言いながら窓を開けると現実に引き戻されます。浦添の歓楽街とキャンプキンザ―。沖縄が抱える問題を目の当たりにして、13年前に同じことを思ったことを思い出しました。食事の提供はないのでさっさと出発すれば良いのですが、浦添ようどれ館の営業時間の絡みもあり、今日の予定を見直してから9:00過ぎに出発します。そして最寄りのファミマに立ち寄りタバコとコーヒー、そしてドリンクを購入して勢いをつけます♪<br /><br />そして向かった先は伊祖公園。第6師団独立歩兵隊第21大隊第3中隊終焉之地の碑に参拝するためです。しか~し肝心の伊祖公園に到着しても車を停めることができません。駐車場がないのか…と思って調べるも、ちゃんと〝ある〟と市のHPに書かれています。じゃあなんなの~??って思うと実は簡単なこと、開園時間が10:00とのことでした。現在9:30…、待つ時間は今日の行程にはありません。事前調査不足をボヤいても仕方がないので、次回に回して先を急ぎます。<br /><br />寄り道を含め30分程でよいどれ館に到着します。浦添市が運営している施設ですが、どうやら浦添〝城(グスク)〟の見学についてのアプローチが強いところのようでした。駐車場に車は停まっているものの、ようどれ館に入っている方はほとんどおらず、100円の入館料を払うと、窓口のおばぁがようどれ館・浦添グスク・前田高地の戦跡等いろんなことを説明してくれました。中でも〝滋賀県から来た〟というと第二尚王朝尚昌の娘であり第二尚王朝最後の国王尚泰王の曾孫にあたる文子氏が、旧彦根藩主井伊家の16代当主であり後に彦根市長となる井伊直愛(いいなおよし)氏に嫁いだという〝所縁〟の話を楽しそうにされていました。まぁ個人的にはひめゆりの塔にその話が書かれていたので知ってはいたのですが(笑)。<br /><br />まぁそんなこんなでようどれ館を見学した後いよいよ歩き始めることにします。駐車場付近にある展望台からは〝現在の浦添〟を眺めることができます。先ずは浦添グスクの遺構から。綺麗なカーブを描いた石牆(せきしょう)は中世琉球に於ける築城の〝芸術〟と言っても過言ではないように思います。それに加えて天然の石のトンネルであった〝クラシンウジョウ〟は、写真でしか見ることはできませんが、自然の素晴らしさみたいなものを感じました。ただこの界隈は70余年前には前田高地を含む沖縄戦初期の大激戦地であったため、多くの遺構も破壊されてしまっています。それを市の事業として復旧することは大変なことだったと思いますが、そのお蔭で私ら戦後生まれの観光客が中世の石牆をこの目で確認できていることには感謝感激雨あられで頭が下がります。復旧工事をする以前に既に手が加わってしまっているためにどうしようもないところも多々あるようですが、できる限り琉球の〝王朝ロマン〟が今に蘇ってくれることを期待しています♪<br /><br />そして石牆に沿うようにして歩いて行くと浦添ようどれに到着します。英祖王統初代英祖王が1261年に築き、尚巴志王が破壊し、第二尚氏王統尚寧王が修築を加えたものと伝えられている墳墓は、国の史跡である〝浦添城跡〟の一部となっています。もちろん墳墓には立ち入ることはできませんが、浦添ようどれ館に復元されたものが置いてあり、石棺を含めその様子を垣間見ることができます。第二尚氏の陵墓は那覇にある玉陵だということに加えて英祖王が浦添ようどれを整備してから350年もの月日の後に尚寧王が修復し、自らの墳墓にしたのかは諸説あり、王位に就いている間に島津の侵攻を許してしまったため、王墓に入るのを躊躇ったという説。自らの血筋を正統化するために英祖王に肖ろうとした説など興味深いものは多々あれど、結局のところは自らの故郷である浦添の地を選んだだけに過ぎないという説が有力です。一説には第一尚氏二代目の尚巴志王が手を加えたという説もありますが、なんせ中山王として首里を王宮にした尚巴志は、浦添城を攻め滅ぼした王であることには間違いなく、浦添城の中にある浦添ようどれの改修を行ったかどうかは疑わしように思います。私的には戦跡ならば事実を明らかにしたいと思うのですが、内地で言えば鎌倉時代に始まる浦添ようどれの歴史、わからないままでもロマンを感じてしまうのは勝手なんでしょうか(笑)?<br /><br />浦添ロマンに触れた後は再び現実の世界へと戻って進むと沖縄学の権威である伊波普猷の墓に至ります。沖縄をいろいろな観点から分析し、その多岐に渡る学問から見た沖縄学。中でも琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である〝おもろさうし(おもろそうし)〟の研究により琉球とヤマトの繋がりを模索しました。琉球人のアイデンティティの形成について等、現在でも感じることを取り上げていたことは、先見の明があったことはもとより、やはり違いがあることを改めて感じることのように思います。批評によっては伊波普猷の研究がヤマトの沖縄差別について甘さがあり、結果として天皇制を受け入れざるを得ない状況にしてしまったとの辛口意見もあるようですが、沖縄一中時代にストライキ事件を起こしたもののひとりとして、同じく退学処分を受けた漢那 憲和(かんな けんわ)とともに〝初沖縄〟を全国に知らしめた功績は大きいものだと思います。晩年は東京で暮らしながら故郷沖縄のことを憂いたまま亡くなりましたが、その遺骸はここ浦添の地で永遠の眠りなついています。沖縄学とひとことで言っても幅が広過ぎて、わかりづらいところがありますが、読んでいてなるほど~と思えることも多々あり、1世紀の後であっても興味深いものでした。主観的でなく客観的に見た沖縄…、知れば知るほど好きになること間違いなしです♪<br /><br />さらに進むと観音像に出会います。和光地蔵と言われるこの観音像は沖縄戦戦没者慰霊のために大阪四天王寺の出口管長によって3体が寄贈され、そのうちの1体が激戦地区であった前田高地を含むこの浦添城跡に建立されました。ただひとつ残念なことに建立されたのは良いが管理をすることについて明確にされていないという事実です。特定の宗教のものであれば管理者もわかりやすいのですが、どうやら個人が建立した慰霊塔の扱いになっているようであり沖縄県も管理者を探している様子です。やはり同じように個人の慰霊碑が戦没した場所に遺族によって建立されたものの、その後放置されて現在に至っている事実が多々あります。建立者がわかっているためなんとかなりそうだとは思うのですが、そう簡単にはいかないのが事実のようです。遺族や同窓生の高齢化が進む今日意外なところでも新たな問題が生じています。<br /><br />そして浦添王子遺跡の脇を通り浦和之塔に到着しました。この場所も訪問候補地に挙がりながら今まで訪れることができなかった場所でした。内地の人間の無知と言ってもいいとは思うのですが<br />、この〝浦和〟と言うのは元埼玉県の県庁所在地である〝浦和〟に関係するものだと勝手に思っていました。しか~しそれは全くの誤りで浦和の〝浦〟は浦添の〝浦〟、〝浦和〟の〝和〟は平和の〝和〟だということを知りました。固定観念とは怖いものだと改めて思います。その二文字には、激戦のあった浦添から全国津々浦々の平和を祈るという意味を込めて名付けられたものだそうです。<br /><br />また浦和の塔下には〝ディークガマ〟がぽっかりと口を開けています。これは浦添城跡にある御嶽のひとつだそうですが、戦時中は住民の避難壕として使われました。ガマ(洞窟)前には大きな梯梧(ディーク)の木があることからこの名が付けられたそうです。現在は崩落の危険性があるということで内部に入ることはできませんが、かつてこの場所には浴槽のような形をした納骨堂があり、この界隈で亡くなられた戦没者約5,000柱の遺骨が納められていました。その後遺骨は識名を経由して現在では摩文仁の丘にある〝国立戦没者墓苑〟に合祀されています。<br /><br />この浦和の塔とディークガマの位置関係は、兵士の籠った壕やガマ、そしてその戦没者慰霊塔の位置関係によくあるパターンではあるものの、慰霊碑の意味合いとしては日米軍民問わないものであるため、少し違う印象を受けました。しかし70余年前にはこの前田高地という猫の額ほどの広さしかない場所で、日米両軍の死闘が繰り広げられた場所であり、その戦場となった浦添村の住民も多数戦闘に巻き込まれて犠牲者を出した史実を考えると、ごくごく普通に出来上がったもののようにも思えます。見かけだけなのかも知れませんが平和だなぁ・・・という思いを持ちつつ沖縄旅行ができている私には、ない頭を捻って拙い言葉で〝言い表すこと〟しかできないため、静かに手を合わせてご冥福を祈ります。<br /><br />そのまま進むと下方へと続く階段があります。それを下りたところにあるのが〝前田高地平和之碑〟です。この場所も訪問候補に挙がりながら時間の都合で来ることができなかった場所のひとつです。嘉数・前田高地の戦いに於いて急遽増援された第24師団第32連隊第2大隊、米軍の沖縄本島上陸以降侵攻の遅滞作戦を行い、多くの犠牲者を出して戦力が低下していた第62師団歩兵第63旅団隷下の部隊との入れ替わりの命令によるものでした。日本軍に於いては大隊長というと〝佐官クラス〟が任命されていましたが、既にそのクラスの士官の多くは戦死しており、この第二大隊の志村常雄隊長は大尉で大隊長に就任しています。浦添グスク内に掘られた無数の壕、それらは複雑に繋がっており、ひとつの出入り口が砲撃によって破壊されても何ら問題のないものだったように作られています。勿論壕に籠る日本軍はその辺りをちゃんと理解しており、増援される側だった第63旅団第12大隊(賀谷與吉中佐)の撤退場所を把握し、無事に連絡を取り合うことができたということがわかっています。<br /><br />昨年平成29(2017)年に米軍衛生兵の実話をもとにした〝ハクソー・リッジ〟が公開され、沖縄島中部に於けるもっとも熾烈な戦いが繰り広げられた嘉数・前田高地の戦いが黒-図アップされることとなりました。地の利を生かした日本軍は数に勝る米軍と互角若しくは有利に戦闘を進めていた時もありましたが、次第に物資・人員に勝る米軍に押されて行くこととなり、多くの兵士がこの場所で戦死しています。第62師団をはじめとした日本軍主力部隊はその後首里を経て南部へと向かうことになりますが、その殿として撤退を助けたのは他ならぬ増援部隊であった第2大隊でした。主力の撤退後追いかける手筈ではあったようですが、米軍の猛攻の前に犠牲者が日に日に増える結果となり、大隊の9割に当たる犠牲者を出した第二大隊は壕内に籠って夜になると壕を出てゲリラ戦を展開していとの記録が残っています。この第二大隊は大多数の犠牲者を出しながらも昭和24(1945)年9月には日本軍の組織的抵抗が終わり、投降せよとの命令を同じく第32連隊第1大隊長伊藤孝一大尉からの伝令を受けて投降し、大隊レベルで終戦を迎えることができた数少ない部隊のひとつとなっています。しかし第二大隊でも多くの犠牲者を出しており、その戦いの場所となった場所のひとつである〝前田高地〟に〝前田高地平和之碑〟を戦友会が建立し、戦没者慰霊の場所として現在に至っています。<br /><br />旧日本軍関係の慰霊碑ではあるものの前田の戦いが如何に熾烈なものであったかを今に伝えるものとして、知られているもののひとつであることに違いはなく、その知名度が私をこの場所に導いたようにも思えるので、静かに手を合わせて戦没者全ての冥福を祈ります。この付近には往時に兵士や住民が籠ったと言われる壕やガマがたくさんあるものの、戦後の開発や経年による劣化の影響で落盤の危険性があるということで立ち入り禁止となっているのが残念でした。<br /><br />そしてこの先には場所の目安として利用された為朝岩(ニードルロック)があるのですが、そこに至る道すじが良くわかりません。墓地の中を通り抜けると遊歩道が設けられているようですが、普段の運動不足がたたり歩く気力がなかったため、次回の楽しみに回すことにします。ただ付近一帯からニードルロックそのものの姿は確認できるので(笑)。<br /><br />行きはヨイヨイ帰りは怖いとはよく言ったもので、車に戻るには今来た道を戻らなければなりません。ヘタレにはだいぶ応えていましたが、仕方なしに再び歩き出します。そして浦添の景色が広がる場所にやって来ます。ここが映画化されたハクソー・リッジです。現在では展望台も設けられており、往時の様子は感じられませんが、猫の額ほどの場所に於いて熾烈な戦いが繰り広げられた史実は映画でも再現されています。縄ばしごを掛けて崖をよじ登って来る米兵に対し、なぜ日本兵は崖の上から銃撃を加えなかったのか?不思議とも言われることですが、理由は簡単なことでそれだけのスペースがなかったことに他なりません。結果として接近した白兵戦が行われ、日米両軍共に多大な犠牲者を出しました。<br /><br />現在では浦添の長閑な風景が広がっており、ここが70余年前には熾烈な戦いが行われた戦場だったとは夢にも思わないでしょう。そんな思いを持ちながら景色を眺めていると、いつものように人が群がり罵声が飛び交う姿が目の前にチラつきます。déjà vuとも言えないただの妄想ですが、何も考えずに南の島を歩くことができることを幸せなことだと改めて感じました。<br /><br />そしてグスクの石垣の下に広がる前田高地壕群が見えてきます。前田高地を死守した第24師団第32連隊第2大隊が米軍の沖縄西海岸上陸の報を受け、住民を動員して突貫工事で掘り進めた壕群と言われています。網の目のように巡らされた壕は、ひとつの出入口を砲撃によって破壊されても影響がなく、また壕入口に攻撃を加えられても直接的には内部に被害の無いように屈曲をしていたものだと言うことは記録に残っています。前田高地の戦いが始まった頃には常に部隊間の連絡網がしっかりとしており、最前線で10倍の兵力を相手に遅滞作戦を行って大きなダメージを受けて、僅かな残存兵力と傷病者を携えた第62師団歩兵第63旅団第二大隊が撤退して来た壕を探しあてて部隊の入れ替わりを果たしています、もっともその後の戦闘では善戦はしたものの圧倒的な火力・兵力の前になすすべを無くし、夜になると壕から出て夜襲をかけるといったゲリラ戦の様相を呈するに留まることにはなってしまったようですが・・・。<br /><br />そんな謂れのある壕ですが、やはり経年劣化による落盤の危険性を理由に立ち入りは禁止されています。壕内には土砂の流入が見受けられ、70余年の月日から植物が生い茂っていました。いずれは自然に戻るような様相が、見かけだけでも平和と言える日々が続くよう見守っているように思えた私でした。<br /><br />浦添グスクから南へと進むとクチグァーガマがぽっかりと口を開けていました。沖縄戦が始まるや否や仲間集落第6班の住民が身を寄せていたそうです。そのうちにこの地が戦場と化し、日本兵もガマに身を寄せ軍民共存のガマとなっていたようです。しかし浦添の地を占領した米軍によってガマの上に艦砲射撃が加えられるとガマ内部で落盤が起き、少なくない人々が生き埋めとなりました。たまたま助かった者の中に日本軍将校がおり、岩盤を日本刀で叩きながら出口へと辿り着きますが、その瞬間投げつけられた手榴弾によって落命したとの記録が残っています。その様子を知り出るに出られなくなった民間人と兵士達。兵士は司令部の南下と行動を共にするため出て行きましたが、残された住民はそのままとなり、後に捕虜となった時には僅か3家族しか残っていなかったそうです。見た目からしてもかなり大きなガマですが、やはり経年劣化による落盤の危険性があるために立ち入りは禁止されています。軍と行動を共にした住民もおり、その多くは南部糸満の地で戦闘に巻き込まれて戦死しています。また動けなかった傷病者はこのガマの中で亡くなりました。チビチリガマのように集団自決が起こった場所ではありませんが、やはらガマ内部では多くの人命が失われた場所であることには変わりありません。ここでも静かに手を合わせて亡くなられた方々のご冥福を祈ることしかできなかった私です。<br /><br />そしてなんの因果でかガマの上には浦添グスクの城壁が見つかり、往時を偲ぶことができる場所となっていました。<br /><br />そのまま歩き続けると浦添城前の碑が建てられています。尚寧王時代の道路竣工記念碑とされるものは沖縄戦で破壊され、平成11(1999)年に再建されました。内地で言えば戦国時代末期に尚寧王の命により、住民が力を合わせて首里までの道を作ったことが、琉球かな文字と漢文で刻まれています。王制が順調だったことを示し、その国力を対外的にアピールしていたものかと推測します。また碑の前には馬ヌイ石と呼ばれる石があり、浦添城を訪れた高貴な方々が馬から降りる際に足をついたものとされています。この馬ヌイ石はInstagramで結構有名な場所として知られているようで、女子がこの石に足を置いて撮られた写真がよく掲載されていることを知りました。お調子者の私としてはここでのワンショットは絶対!と考え、一人だということを忘れて自撮りにチャレンジします。三脚を使用するか自撮り棒を使えば良いものを、敢えて手持ちで上から撮ってみましたがどう見ても撮影意図のわからない間抜けな写真しか撮れませんでした(泣)。それだけならまだしもあまりにも不自然な姿勢を取ったために、撮った瞬間足がツリました。あ~ぁ、慣れないことはするもんじゃありません・・・。<br /><br />馬ヌイ石からふとまた場所になにやら標識があるようです。カガンウカー、ガジュマルの大木の根元に広がる井戸のことですが、沖縄戦前には水面が鏡のようにキラキラした井戸だったようです。地形が変わるくらいに砲撃を喰らった浦添城、その影響もあり既に水は枯れていましたが、70余年前には生活用水に用いるなどして使われた生活に密着していた歴史ある井戸だったようです。まぁ拝所ではなかったようですが・・・。<br /><br />という感じでグスクと戦跡巡り〝歩き編〟はこれにて終了し一旦車へと戻ります。そして向かった先はカンパン壕でした。アパートの隣にある壕には、食料としてのカンパンが堆く積まれていたそうです。そのうちにこの地が戦場となり、前線で負傷した兵士が運び込まれる等〝野戦病院〟宛らの様子を呈したこともあるようです。しかし病院壕ではなかったためにろくな治療もできず、重症者はただ死を待つしかなかったそうです。また収容者の中には場所がなく、カンパンの上で寝起きしていた者もいたと書かれていました。<br /><br />このカンパン壕ですが浦添城の中でもかなり低い位置にあるため、水の流入が悩みのタネだったことが記録に残っています。訪れた時も完全に水没しており、どんなものだったのかすら検討がつかないものでした。戦時中はそんな細かいところは考慮されずに、壕を掘りガマを使っていたようですが、70余年経った今日ではその取り巻く環境によって保存状態に大きな差が出ています。このカンパン壕も後数百年も経てば完全に土に還る場所のように見えました。戦跡としては残して欲しい気持ちはあれど、元々人工的に掘られた壕ゆえに、自然に帰り行くことが運命なのかも知れません。落盤とかの可能性ではなく、水没という絶対的理由から入壕出来ないカンパン壕を見てふと思ってしまいました。<br /><br />そしてニードルロックを見ながら那覇へと急ぎます。途中公園墓地の休憩所で一息ついた後、今後の行程を見直します。2件時間優先の場所があり、それに合わせるために少し空走距離が増えることを確認します。そして再び走り出し向かった先は沖縄県立那覇商業高校でした。子供もいないのになぜ学校へと向かうのか?学校見学とは全く無関係で学校敷地内にある学徒隊の慰霊碑に手を合わせるためでした。事前に連絡はしておいたのですが、どうやら教頭先生が付き添って下さるとのこと。イチ観光客の道楽に付き合わせるのも申し訳ないのですが、このご時世変な部外者が行内をうろついているのも問題になるかも知れません。ただナビの示す通り走って行って校門を入ったのはどうやら裏門だった様子。とはいっても知らない場所ゆえなんともなりません。車の中から電話を掛けると態々お出迎え頂きました。重ね重ね申し訳ありません。<br /><br />正門前にお目当ての慰霊碑はありました。和魂之塔、沖縄戦に動員された学徒隊21校のうちのひとつ那覇商工学校の学徒隊と引率教員その他の学校関係者の戦没者165人が合祀されています。那覇商工の学徒は鉄血勤皇隊を組織して主に通信隊に入隊、無線・暗号・情報の教育を受け従軍しましたが、中でも最前線の伝令は砲弾飛び交う下での重要な役割でした。一人に任せてその一人が戦死すれば伝令が使わらないとの軍上層部の考えから、同じ命令を3人に託し一人でも無事辿り着けば良いという考えもされていました。加えて急造機雷を抱えての戦車への特攻などにも駆り出され、多くの犠牲者を出しています。<br /><br />お忙しい教頭先生には申し訳ないと思いながらも〝和魂の塔〟に纏わるお話を色々聞かせて頂きました。先生の学生時代にもやはり同年齢の女子生徒が戦争に駆り出されることなど実感として湧かなかったと仰っていました。先生になられて教え子を持ち、この子達が戦争に行かなければならないことは絶対にしてはならないとも聞きました。私自身教師の考えなどどうでも良いと考えていたひとりなのですが、今回の教頭先生のお話は、戦争は経験されてはいないものの〝実体験〟から出てきた〝重み〟を痛感したものでもありました。和魂之塔に祀られている戦没学徒が生き返って、志半ばで斃れなければ体験できたろう種々のことを可能にすることは誰にもできないことだとわかってはいるものの、せめてあの世で楽しい生活を送って頂きたいという思いを込めて手を合わせました。リップサービスもあるのかも知れませんが、内地の人間が那覇商の〝和魂の塔〟の情報を知り、訪ねてきたことを嬉しく思い、その思いはきっと学徒達に伝わりますと言って頂いて、ずっと心苦しかった訪問が少し気が楽になりました。ここで改めてお忙しい中時間を割いて頂いた那覇商の教頭先生に感謝致します。ありがとうございました。<br /><br />和魂の塔参拝を済ませ、距離の近い順で訪問地を並べ直します。若狭公園にあると書かれている〝恒久平和のモニュメント「なぐやけ」〟に向かうことにします。若狭公園の界隈は以前訪れたことはあるものの、基本駐車場がなくパーキングメーター利用の駐車をした記憶が残っています。しかし公園の周りには車の停められそうな場所がなく、とにかく場所を特定してから車を停めようと考えて公園内を見渡しますがモニュメントらしいものはどこにもありません。仕方がないので休憩中のおじぃに尋ねたところ『知らない』と冷たいお言葉。でも碑とかだったら若狭『海浜』公園に幾つかあるよとの情報を仕入れ、車を一度そちらに回してみます。するとどでかいマーライオン(実際は龍)が目に入ってきます。日中友好のシンボルのために3億円もの費用を費やしたこの3体の龍。なにが言いたかったのかわからずじまいでした。福州市との友好30周年を記念して建立されたものとは書かれていましたが、目を引くには引いてもその意図や存在があまりにもマイナー過ぎて意味を成してはいません。すぐ近くには那覇市の市制70周年と福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設されて平成4(1992)年に開園した中国式庭園〝福州園〟を含め、建立意図や目的があまりにも曖昧過ぎて不評をかっているものが並んでいます。そんな夢見る観光投資をするならば、学徒隊慰霊碑の保全活動など県民のために費やさねばならないことは山積みのはずです。口から水を吐かるだけでマーライオンになってしまう巨大建築物を見てふと思いました。<br /><br />とにかく車を駐車場に停め歩いて行くと、見つかりました〝恒久平和のモニュメント「なぐやけ」〟が。平成7(1995)年に戦後50年の節目を迎えるにあたり、那覇市連合遺族会の提案に基づき市が恒久平和を願って建立されたものと碑文には書いてありました。ただ…これはどう見ても祈念碑ではなく〝記念碑〟です。平和を祈念するのであれば、下手な抽象化は意図が伝わらなくなり無意味なものになります。住民の方が知らないというのは祈念碑には関心を持つが記念碑はどうでも良いという気持ちがあるからではないでしょうか?茂みの中にポツりとある記念碑は、味方によっては背景から浮いているようにしか見えませんでした。カメラには収めたものの今回の訪問個所では一番の〝残念〟な場所になってしまいました。<br /><br />そんなこともあり無料の駐車時間30分で見学を済ませて次の目的地へと向かいます。ここはプライベートな訪問になるのですが、私はお年玉にいつも2,000円札を渡すことにしています。以前は近くの銀行でも〝新札の2,000円札〟を手に入れることができたのですが、最近では2,000円札そのものがないと言われます。そこでコンビニのATMでも2,000円札が出てくる沖縄ならば…ということで沖縄に入り浸るようになった平成25(2013)年以降沖縄の銀行で手に入れるようになりました。しかしすでに作られていない2,000円札ゆえ新札の両替はどこの銀行でもできなくなりました。それでも本店ならば…という思いで琉球銀行の本店を訪ねます。そして用件を言うとまさかの〝手数料〟が掛かることを言われてしまいます。琉球銀行では口座を持たない顧客の両替は1枚から手数料が掛かるとのこと…。50枚以上が当たり前の地元の銀行しか知らない私としては???としか思えませんでした。2,000円札5枚なんですが…と伝えてもやはり手数料は掛かり、なおかつ新札はありませんとのことでした。サービス悪~って思いましたが、沖縄銀行では大丈夫かもと教えて貰ったので、急いで車に戻り沖銀本店を目指します。なんとか閉店時間までには間に合ったもののやはり2,000円札の新札はないので、きれい目なものを探してきますと言われ、なんとか今年も手に入れられました。もし手に入れられなくなったらお年玉自体も終了させなければならないので、私的には歓迎するところもあるのですが(笑)。てな感じでふたつの時間指定ミッションをクリアし、残りの行程を再確認します。<br /><br />そしてやってきたのは松山公園。実はこの場所先程訪ねた那覇商隣なのですが、銀行の時間があったため後に回しています。戦前からこの辺り一帯は文化ゾーンでもあり、白梅学徒を輩出した沖縄県立第二高等女学校もこちらに建てられていました。白梅の乙女たち像がその跡地に建立されていますが、昭和19(1944)年10月10日の那覇大空襲で校舎は焼失し、焼け残った官舎等を利用して授業は続けられたものの沖縄戦が始まるにあたり、第32軍司令部よりの二高女4年生は学徒看護隊として従軍することになります。学徒隊として多くの戦没者を出し、そして戦後復活することもなく廃校になってしまった沖縄県立第二高等女学校は校庭の一角にあった〝ユーナヌカー〟と呼ばれる井戸、そしてそのそばにあった〝ゆうなの木〟とガジュマルとともに近年整備されて公園内に残り、白梅の乙女たち像とともにこの地に二高女があったことを今に伝えています。2年ぶりに訪問できた二高女跡、それをカメラに収めて次の目的地を目指します。<br /><br />南国らしいスコールがザっと来たのでしばらくエンジンを止めて車体を冷やします。程なくして上がり、夏の日差しが戻り再び走り出します。時間の関係で一旦南下するように走り、訪れた先は沖縄県立沖縄水産高校です。先程訪れた那覇商同様文武両道の学校で全国的に名前は知られています。今回沖水を訪れた理由はやはり学徒隊の慰霊碑、翔洋碑に参るためです。来客駐車場に車を停めて事務所らしいところで、先ほど電話をして翔洋碑に参拝したい旨を伝えておいたのですが、どうやら電話を受けて頂いた教頭先生が見つからない様子。下校時間と被っておりお忙しそうなので、場所さえ教えて頂いたら大丈夫ですと言って、入校の許可を頂きます。校舎に挟まれた道をまっすぐ行くとグラウンドがあり、どうやら拡張整備を行っておられるようです。その左端にポツンと翔洋碑は建立されていました。沖縄水産高校の前身である沖縄県立水産学校、沖縄戦が始まるにあたり学徒隊を結成し、1年生は通信隊として球部隊(第32軍)に、2・3年生は鉄血勤皇隊として石部隊(第62師団)に配属されました。水産鉄血勤皇隊・水産通信隊としての動員数は生徒48名・教師2名で、うち戦没者数は生徒31名・教師1名となっています。<br /><br />学徒隊と学校関係者の戦没者の御霊を祀るべく1962年11月に〝沖縄水産健児之塔〟が建立されました。その後判明した学校関係者の戦没者名を追記しつつ昭和53(1978)年3月に〝翔洋碑〟が建立されて現在に至っています。<br /><br />沖縄水産高校では沖縄慰霊の日にあたる6月23日に1年生が参加して慰霊祭が行われる他に、6月22日には同窓会が主催する慰霊祭も行われています。学徒隊の慰霊祭は戦後廃校となった学校も多く、それら学徒隊の慰霊祭は同窓会が主催してきました。しかし既に戦後73年となった今日、学徒隊生存者の高齢化によって慰霊祭の開催はもとより慰霊碑の維持そのものが難しくなってきているのが現実です。そんな中戦後後身として開校した学校がでは、卒業生や在校生を中心とし、碑の保全と慰霊祭の開催を代々引き継いでいます。戦没学徒の分も生きなければという生還した元学徒隊のメンバーの意気込みはすごくよくわかるのですが、やはり寿命には勝てないため残念ながら慰霊祭の規模縮小や慰霊碑の管理を委託せねばならないのが現実です。<br /><br />確かに学校敷地内にあるため、公式ガイドに載ることも少ない上にたまたま沖縄を訪れている時期であっても学校行事と被ったりして、参拝できない場合もあるのは確かです。学校に連絡を入れて許可を摂ることは場合によっては〝時間の縛り〟を受けることもあり、面倒だと思われるかも知れません。確かに包括的な〝学徒隊の碑〟が平和祈念公園に建立され、それほど知識がなくても21もの学校の生徒による〝学徒隊〟が結成されたことを知るきっかけになったことは事実です。しかしあくまで〝包括的〟なものであって個々の学徒隊の足跡には触れていない部分も確かにあります。そのような現実を考えれば、やはり学徒隊慰霊碑〝そのもの〟に参って情報を仕入れ、史実を知ることは大事かと思います。学校の開いている時間の関係で移動距離は伸びてしまいましたが、やはり訪れたからわかったことも多々あったことも事実です。今日と明日に行われる慰霊祭の準備がされている〝翔洋碑〟に参ることでその慰霊碑そのもの訪れる重要性を改めて痛感した私でした。<br /><br />事務所に立寄りお礼を述べて出発します。時間指定はここまでで後は日没になるまで許す時間を走ります。途中ファミリーマート豊見城名嘉地店で一服と飲み物を仕入れ一息つきます。そして向かった先は那覇の〝田原公園〟です。どうやらメイン道路を走らなかったために、住宅地を通り過ぎて到着します。カテーラムイ、旧日本海軍巌部隊が構築した〝寿山壕〟にやってきました。旧海軍壕のひとつではあるものの、豊見城にある旧海軍司令部壕の方がはるかに有名ではあります。場所は小禄なので当時の小禄飛行場からはそう離れてはいない場所にあったもののようです。南西諸島海軍航空隊、通称巌部隊の本部壕として住民を動員して突貫工事で構築されましたが、やはり曲がりくねったものでありなかなか壕口からの攻撃は壕の奥までは届かない構造になっていました。小禄飛行場が米軍に制圧された昭和20(1945)年6月4日よりこのカテーラムイも攻撃を受けるようになりました。既に豊見城を含めた海軍には太刀打ちする術は残っておらず、夜襲を掛けることで戦死者を増やしていました。海軍司令部壕での大田実司令官の自決の報を聞いた残存兵は6月13日に総攻撃を仕掛けます。150名が全滅する結果となり、その後加えられた火炎放射器による米軍の〝馬乗り攻撃〟を受けて、壕内に置かれていた爆弾を爆発させ壕全体隊を爆破し、壕もろとも米兵を一緒に吹き飛ばそうとするも失敗します。そして日本軍の組織的抵抗が終わった後に動けるもの全員が壕を出たようですが、結局行く当てもなく誰ともなく壕に戻ってきて、9月5日の武装解除の時には120名の兵士が残っていたと記録されています。<br /><br />このカテームライは海軍壕のひとつではあるものの、米軍のピンポイント攻撃を受けた時期には約1,000名もの兵士と住人が籠っていたという珍しいものでもありました。保存状態が良く、内部の様子を垣間見ることができるものとなっていますが、研究目的でしか入ることは許されていないようです。現在の田原公園の周辺を含めて壕の入り口が複数開いているようですが、時間の都合もあり公園内の壕入り口を確認して出発することにします。<br /><br />そして次に訪れたのが城岳(グスクダケ)公園。那覇市楚にある小丘陵ですが、城嶽ともいうようです。かつてこの一帯は真和志間切古波蔵村と呼ばれる場所であり、城嶽には古波蔵村の拝所があった。大正時代末期に沖縄県立第二中学校(現那覇高校)や沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設されるとともに住宅が建ち並ぶようになり、かつての城嶽の鬱蒼とした林は、昭和初期には宅地や畑地になっていたと言われています。沖縄戦に於いてこの城岳周辺には第24師団の那覇守備隊陣地壕として使われており、5月には城嶽周辺で激しい戦闘も繰り広げられています。そして戦後昭和26(1951)年には城岳の山頂部を削り取って〝新世界〟という遊園地が開園、回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた〝いにしえの〟本格的な遊園地だったようで、那覇の一大名所として賑わっていたそうです。しかしこの手のものはピークを過ぎればすぐに衰退するものであることには違いなく、昭和36(1961)年には経営難から閉園することとなり、敷地は那覇市に売却されました。<br /><br />返還前の昭和46(1971)年には那覇市が〝城岳公園〟として整備を行い、平成に入ってからにはなるものの、付近にあった墓の移転工事も進み、丘の麓では園路整備も行われています。現在公園内には昭和37(1962)年に再興された城嶽御宮に加えて、平成2(1990)年には奥武山公園から〝二中健児之塔〟が移設再建されて現在に至っています。<br /><br />現在の沖縄県立那覇高校の前身にあたる沖縄縣立第二中学校。やはり沖縄戦に於いて〝二中鉄血勤皇隊〟〝二中通信隊〟を結成し従軍しています。二中健児之塔の碑文には動員されたのは教師1名・生徒140名で、その内生徒115名が戦死しています。また学徒隊以外でも教師9名と生徒71名が戦死しており、二中の戦没者数は195名と記録されていました。<br /><br />ただひとつ戦死者数は男子学徒隊の中でも高い割合を示している二中学徒ですが、この戦死者は〝通信隊〟属し、第62師団隷下の部隊に配属され浦添から始まった沖縄戦の〝特に熾烈な戦い〟の戦場で斃れた者が非常に多かったという事実です。学徒の通信隊の仕事と言えば、砲弾の飛び交う戦場に於ける伝令や、急造機雷を抱えて戦車に特攻することであったことは言うまでもありません。しかし那覇にある学校にも拘らず生徒によって結成された〝鉄血勤皇隊〟は沖縄島中南部ではなく、北部に配属されています。北部の戦闘は南部とは比較にならないものだと表現する方も居られます。現実にはどうだったかはわからないところもあるものの、配属されていた兵力のことを考えるとその説もある意味では〝間違いない〟とも考えられます。学徒隊の戦死者は、兵士と同じく中南部の戦闘によって亡くなっています。またそのエリアでの戦闘要員として駆り出されているのも事実です。それではなぜ北部戦線に向かった部隊、そして学徒隊がいたのか?という疑問が出てきますが、これは偏に配属将校の判断によるものだったと記録が残っています。高山代千八中尉、県立二中の配属将校だった人物です。学徒隊結成後に二中は空襲で焼けたために北部金武国民学校に移動したと連隊区司令部会議で主張し、そのため急遽北部へと配置替えとなった立役者でもあります。予定では二中鉄血勤皇隊は南部の高嶺村に配属されるはずでした。現糸満市のこの場所は、沖縄戦末期の〝最後の熾烈な戦い〟が行われた場所であり、この地区に配属となった学徒はほとんどが戦死しています。しかしそれを北部に配置換えをした。そして金武に着くなり『勤皇隊の参加承諾書に親の捺印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない』と高山中尉が命令し、合法的に親元へ帰して事実上部隊の解散をさせています。何らかの理由で帰省せず行動を共にした学徒隊は、その後独立混成第44旅団国頭支隊の第3遊撃隊に配属されることになり、護郷隊員として戦闘に参加し鉄血金の戦死する者もいたそうです。しかしそのようなことになっても陸軍中野学校出身の第3遊撃隊村上治夫大尉には『学徒隊を先頭に投入するのは最後にしてくれ』と頼んでいます。そのような過程があった二中学徒隊の扱いでしたがやはり賛否はあるようで、解散したことによって戦死者が減ったと言う者もいれば、解散しても実家が南部にあって向かったら、戻る場所がなくなっており結果他の部隊に属する学徒隊に加わったために戦没した者もいると否定的に取っている方も居られます。<br /><br />この話は二中健児之塔の碑文には書かれてはおらず、同窓会の会報に投稿されたものがクローズアップされた事実を紐解いています。戦没者の数は少なくとも全体的な犠牲者の割合はかなり多いので、亡くなられた方を冒涜しかねないという思いから少しだけ史実に触れたいと思い記述しています。<br /><br />翌日(6月23日)に執り行われる慰霊祭準備のために、県立那覇高校の生徒さんが総出で学校や会場周辺を清掃している姿が取り上げられていました。現在の生徒の中にはこの配属将校の話を知らない者がほとんどだと聞きました。今は知る必要がないのかも知れませんが、物心ついて善悪の判断がつくようになった時にこの話を伝え聞いて、後世へと伝えて行って貰いたいと思いつつ二中健児之塔に手を合わせて公園を後にします。<br /><br />日没までに回れるのはここまでで、残ってしまったところはまた次の機会の楽しみにして、買い物をしようと思います。いつもと同様今回も〝アナログカメラ〟を使って撮影しています。ただ一般的なカラーフィルムであるASA400は24枚・27枚が各1本と36枚撮りが3本しか手持ちがありません。ASA800はあるのですが昼間に使うと仕上がりが固くなってしまうため、できれば使いたくはありません。でも既に36枚撮り2本しか残っていないため安く仕入れればありがたいと思い、通り道でチラッとみたビッグカメラ・コジマ電器那覇店に向かいます。私もブックカメラのJR京都駅店を利用しているため、同じものが手に入ると思いきや・・・フィルムなんて影も形もありません。どうやら会社が合併したから付いた名前であってコジマ電器主体の家電のお店だということに気付きました。ならば長居は無用ということでお店を後にして、一路南部へと車を進めます。<br /><br />とにかく19:30頃になると渋滞が年々ひどくなってきている那覇中心部。慰霊の日前日の今日も例には漏れません。快走できずに腐っていると目の前に〝吉野家〟の看板が目に入ってきます。そこで今朝から何も食べていないことに気付きます。ちょうど駐車場手前で止まったことをいいことに、そのまま入って行きました。グルメでない私だからできることなのかも知れません(笑)。<br /><br />吉野家国道58号天久店、店の形は幹線道路沿いにある普通の〝吉野家〟でした。でもこのお店には〝店舗限定メニュー〟があるそうで、メニューに大々的に書いてあった〝タコライス・トク盛〟に目が行きます。勿論それを注文し味噌汁をプラスします。トマトソース仕立ては〝甘口〟だそうですが、なんとなく疲れていたこともあり、甘~いソースが体の隅々まで染み渡ります♪美味しく頂いてしばしの休憩を取った後、再び走り出します。<br /><br />泊港入口付近で車が中央分離帯にぶつかっている事故がありました渋滞している道路でどうやってこうなるのかわかりませんが、気を引き締めて運転を続けます。そしてイオン那覇店に立ち寄り飲み物を調達します。本当はサンエーストアを利用したいのですが、通り道から外れるのでイオンを利用します。<br /><br />本日の宿泊は南城市の奥武島ですが、那覇から奥武島へは国道331号線を経由しないで、国道329・507号線で豊見城・津嘉山を、そして県道48号線で南風原を経由して国道331号線に合流して向かうルートを推奨します。渋滞にもならないこのルートの方が早いのは知っていますが、曲がるところを間違えるとかなりロスするリスクがあります。でもさすがに毎回のように利用しているとなんとなくわかります。<br /><br />全てが1年ぶりに見る車窓は懐かしさもあるのですが、時間も時間なので一服入れることもせずに40分程で奥武島のゲストハウスりゅうかくに到着します。5回目の宿泊となるこちらのお宿、近年宿泊客が増加しておりなかなか希望日に予約が取れなくなってきました。今年2月に予約を入れようと電話をしたら、21日は満室とのこと。最終日の飛行機の時間を考えると22日しか泊まれません。1年ぶりに見るオジイ・オバアば元気なようでそれはそれで安心しました。でも満室だった筈がどうやら私だけの様子。おや?と思い尋ねると6月に入ってからキャンセルが入ったとのこと。あ~ぁわかっていたら泊まっていたかも知れません。まぁ今更言っても始まらないので、泊まり慣れた201号室に入って荷物を置いて寝る支度をします。共用スペースに少し配置換えがされていたので尋ねると、実は部屋にもありますよと言われます。でも見慣れてしまっているのでわかるかな~と思いきや、あっさり枕元に置いてあるスタンドに気付きました♪<br /><br />見慣れている宿はやはり安心できるようで、シャワーを浴びてひと息つくと瞼がすぐに重くなってきます。明日はいよいよ慰霊の日、一日中歩き回るので疲れを取らないといけません。そんなこんなで時間は過ぎて行き、4年連続4回目の慰霊の日を迎えますzzz。<br />《次編に続く》<br /><br />【本日の収支】<br />ファミマ浦添屋冨祖四丁目店…796円(タバコ・コーヒー他)<br />ようどれ館…100円<br />飲み物…320円<br />ファミマ豊見城名嘉地店…1,433円(タバコ・飲み物他)<br />吉野家国道58号天久店…640円(タコライストク盛り・みそ汁)<br />イオン那覇…2,605円(頭痛薬他)<br />イオン那覇…243円(飲み物)<br />ゲストハウスりゅうかく…5,940円<br />小計:12,077円<br />

《2018.June》あみんちゅ弾丸ツアーで訪ねるTHE DAY IN OKINAWAその弐~本島中部戦跡巡り編~

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《2018.June》あみんちゅ弾丸ツアーで訪ねるTHE DAY IN OKINAWAその弐~本島中部戦跡巡り編~

気が付けば6月23日の沖縄慰霊の日を現地で過ごす旅も葉や4回目。内地で知る〝この日〟があまりにも違うことを知り、毎年訪れるようになりました。ただ知れば知るほど奥が深いことを知るものの、その準備に費やす時間が日に日に無くなって来たこともあり、今年を以ってしばらく定期的な来沖をやめようと考えました。それにあたって今までお世話になってきた宿泊施設をすべて回り、思い出に代えようと考えました。しか~しその前に立ちはだかったのはまさかの〝現実〟でした。現在勤務している店が耐震問題で建て替えることとなり、それに伴い異動辞令が出るはずが、まさかの延期。既に他店に移動した者もいる中で、1週間の休みは当然却下となりました。とはいえ長きに渡ってお世話になった店舗ゆえ自己理由で押し通せる訳もなく、4日に短縮ということでやっとOKしてもらいました(嬉)。

そんなこんなであっという間に出発の日。例年ならば前日早上がりなのですが、それも叶いませんでした…。準備不足はいつものこと、さぁどんな旅路になったのやら。それでは初日が始まります。

平成30(2018)年6月22日金曜日
ホテルキング 09:10(0.0km・0.0km・58.2km・0.0km/h)
ファミマ屋富 09:11(0.4km・0.4km・58.6km・24.0km/h)
祖 一丁 目店 09:22
浦添ようどれ館 09:43(7.5km・7.9km・66.1km・21.4km/h)
        12:15
カンパン壕 12:27(3.4km・11.3km・69.5km・17.0km/h) 69.5
      12:40
墓地 12:51 (3.4km・14.7km・72.9km・18.5km/h)72.9
   13:02
那覇商業高校 13:24(8.5km・23.2km・81.4km・23.2km/h)81.4
       13:43
なぐやけの塔 13:52 (2.2km・25.4km・83.6km・3.3km/h)83.6
       14:32
琉球銀行本店 14:41(1.5km・26.9km・85.1km・15.0km/h) 85.1
       14:47
沖縄銀行本店 14:54(1.0km・27.9km・86.1km・15.0km/h)
       15:05
松山公園 15:10(1.1km・29.0km・87.2km・13.2km/h) 87.2
     15:32
沖縄水産高校 16:07(17.0km・46.0km・104.2km・29.1km/h)
       17:01
ファミマ豊見 17:18(5.1km・51.10km・109.3km・18.0km/h)
城名嘉地北店 17:33
田原公園 17:43(3.3km・54.4km・112.6km・19.8km/h)
   18:04
城岳公園 18:22 (3.1km・57.5km・115.7km・10.3km/h)
     18:42
コジマ 19:13(5.1km・62.6km・120.8km・9.9km/h)
那覇店 19:35
吉野家国道58号天久店 19:37(0.7km・63.3km・121.5km・21.0km/h)
20:10
イオン那覇 20:34 (6.7km・70.0km・128.2km・16.7km/h)
      21:00
ゲストハウスりゅうかく 21:37(17.1km・87.1km・145.3km・27.7km/h)//

7:30に目覚ましで起こされました。梅雨明け宣言はまだですが良い天気です♪普段の行いなんて言いながら窓を開けると現実に引き戻されます。浦添の歓楽街とキャンプキンザ―。沖縄が抱える問題を目の当たりにして、13年前に同じことを思ったことを思い出しました。食事の提供はないのでさっさと出発すれば良いのですが、浦添ようどれ館の営業時間の絡みもあり、今日の予定を見直してから9:00過ぎに出発します。そして最寄りのファミマに立ち寄りタバコとコーヒー、そしてドリンクを購入して勢いをつけます♪

そして向かった先は伊祖公園。第6師団独立歩兵隊第21大隊第3中隊終焉之地の碑に参拝するためです。しか~し肝心の伊祖公園に到着しても車を停めることができません。駐車場がないのか…と思って調べるも、ちゃんと〝ある〟と市のHPに書かれています。じゃあなんなの~??って思うと実は簡単なこと、開園時間が10:00とのことでした。現在9:30…、待つ時間は今日の行程にはありません。事前調査不足をボヤいても仕方がないので、次回に回して先を急ぎます。

寄り道を含め30分程でよいどれ館に到着します。浦添市が運営している施設ですが、どうやら浦添〝城(グスク)〟の見学についてのアプローチが強いところのようでした。駐車場に車は停まっているものの、ようどれ館に入っている方はほとんどおらず、100円の入館料を払うと、窓口のおばぁがようどれ館・浦添グスク・前田高地の戦跡等いろんなことを説明してくれました。中でも〝滋賀県から来た〟というと第二尚王朝尚昌の娘であり第二尚王朝最後の国王尚泰王の曾孫にあたる文子氏が、旧彦根藩主井伊家の16代当主であり後に彦根市長となる井伊直愛(いいなおよし)氏に嫁いだという〝所縁〟の話を楽しそうにされていました。まぁ個人的にはひめゆりの塔にその話が書かれていたので知ってはいたのですが(笑)。

まぁそんなこんなでようどれ館を見学した後いよいよ歩き始めることにします。駐車場付近にある展望台からは〝現在の浦添〟を眺めることができます。先ずは浦添グスクの遺構から。綺麗なカーブを描いた石牆(せきしょう)は中世琉球に於ける築城の〝芸術〟と言っても過言ではないように思います。それに加えて天然の石のトンネルであった〝クラシンウジョウ〟は、写真でしか見ることはできませんが、自然の素晴らしさみたいなものを感じました。ただこの界隈は70余年前には前田高地を含む沖縄戦初期の大激戦地であったため、多くの遺構も破壊されてしまっています。それを市の事業として復旧することは大変なことだったと思いますが、そのお蔭で私ら戦後生まれの観光客が中世の石牆をこの目で確認できていることには感謝感激雨あられで頭が下がります。復旧工事をする以前に既に手が加わってしまっているためにどうしようもないところも多々あるようですが、できる限り琉球の〝王朝ロマン〟が今に蘇ってくれることを期待しています♪

そして石牆に沿うようにして歩いて行くと浦添ようどれに到着します。英祖王統初代英祖王が1261年に築き、尚巴志王が破壊し、第二尚氏王統尚寧王が修築を加えたものと伝えられている墳墓は、国の史跡である〝浦添城跡〟の一部となっています。もちろん墳墓には立ち入ることはできませんが、浦添ようどれ館に復元されたものが置いてあり、石棺を含めその様子を垣間見ることができます。第二尚氏の陵墓は那覇にある玉陵だということに加えて英祖王が浦添ようどれを整備してから350年もの月日の後に尚寧王が修復し、自らの墳墓にしたのかは諸説あり、王位に就いている間に島津の侵攻を許してしまったため、王墓に入るのを躊躇ったという説。自らの血筋を正統化するために英祖王に肖ろうとした説など興味深いものは多々あれど、結局のところは自らの故郷である浦添の地を選んだだけに過ぎないという説が有力です。一説には第一尚氏二代目の尚巴志王が手を加えたという説もありますが、なんせ中山王として首里を王宮にした尚巴志は、浦添城を攻め滅ぼした王であることには間違いなく、浦添城の中にある浦添ようどれの改修を行ったかどうかは疑わしように思います。私的には戦跡ならば事実を明らかにしたいと思うのですが、内地で言えば鎌倉時代に始まる浦添ようどれの歴史、わからないままでもロマンを感じてしまうのは勝手なんでしょうか(笑)?

浦添ロマンに触れた後は再び現実の世界へと戻って進むと沖縄学の権威である伊波普猷の墓に至ります。沖縄をいろいろな観点から分析し、その多岐に渡る学問から見た沖縄学。中でも琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である〝おもろさうし(おもろそうし)〟の研究により琉球とヤマトの繋がりを模索しました。琉球人のアイデンティティの形成について等、現在でも感じることを取り上げていたことは、先見の明があったことはもとより、やはり違いがあることを改めて感じることのように思います。批評によっては伊波普猷の研究がヤマトの沖縄差別について甘さがあり、結果として天皇制を受け入れざるを得ない状況にしてしまったとの辛口意見もあるようですが、沖縄一中時代にストライキ事件を起こしたもののひとりとして、同じく退学処分を受けた漢那 憲和(かんな けんわ)とともに〝初沖縄〟を全国に知らしめた功績は大きいものだと思います。晩年は東京で暮らしながら故郷沖縄のことを憂いたまま亡くなりましたが、その遺骸はここ浦添の地で永遠の眠りなついています。沖縄学とひとことで言っても幅が広過ぎて、わかりづらいところがありますが、読んでいてなるほど~と思えることも多々あり、1世紀の後であっても興味深いものでした。主観的でなく客観的に見た沖縄…、知れば知るほど好きになること間違いなしです♪

さらに進むと観音像に出会います。和光地蔵と言われるこの観音像は沖縄戦戦没者慰霊のために大阪四天王寺の出口管長によって3体が寄贈され、そのうちの1体が激戦地区であった前田高地を含むこの浦添城跡に建立されました。ただひとつ残念なことに建立されたのは良いが管理をすることについて明確にされていないという事実です。特定の宗教のものであれば管理者もわかりやすいのですが、どうやら個人が建立した慰霊塔の扱いになっているようであり沖縄県も管理者を探している様子です。やはり同じように個人の慰霊碑が戦没した場所に遺族によって建立されたものの、その後放置されて現在に至っている事実が多々あります。建立者がわかっているためなんとかなりそうだとは思うのですが、そう簡単にはいかないのが事実のようです。遺族や同窓生の高齢化が進む今日意外なところでも新たな問題が生じています。

そして浦添王子遺跡の脇を通り浦和之塔に到着しました。この場所も訪問候補地に挙がりながら今まで訪れることができなかった場所でした。内地の人間の無知と言ってもいいとは思うのですが
、この〝浦和〟と言うのは元埼玉県の県庁所在地である〝浦和〟に関係するものだと勝手に思っていました。しか~しそれは全くの誤りで浦和の〝浦〟は浦添の〝浦〟、〝浦和〟の〝和〟は平和の〝和〟だということを知りました。固定観念とは怖いものだと改めて思います。その二文字には、激戦のあった浦添から全国津々浦々の平和を祈るという意味を込めて名付けられたものだそうです。

また浦和の塔下には〝ディークガマ〟がぽっかりと口を開けています。これは浦添城跡にある御嶽のひとつだそうですが、戦時中は住民の避難壕として使われました。ガマ(洞窟)前には大きな梯梧(ディーク)の木があることからこの名が付けられたそうです。現在は崩落の危険性があるということで内部に入ることはできませんが、かつてこの場所には浴槽のような形をした納骨堂があり、この界隈で亡くなられた戦没者約5,000柱の遺骨が納められていました。その後遺骨は識名を経由して現在では摩文仁の丘にある〝国立戦没者墓苑〟に合祀されています。

この浦和の塔とディークガマの位置関係は、兵士の籠った壕やガマ、そしてその戦没者慰霊塔の位置関係によくあるパターンではあるものの、慰霊碑の意味合いとしては日米軍民問わないものであるため、少し違う印象を受けました。しかし70余年前にはこの前田高地という猫の額ほどの広さしかない場所で、日米両軍の死闘が繰り広げられた場所であり、その戦場となった浦添村の住民も多数戦闘に巻き込まれて犠牲者を出した史実を考えると、ごくごく普通に出来上がったもののようにも思えます。見かけだけなのかも知れませんが平和だなぁ・・・という思いを持ちつつ沖縄旅行ができている私には、ない頭を捻って拙い言葉で〝言い表すこと〟しかできないため、静かに手を合わせてご冥福を祈ります。

そのまま進むと下方へと続く階段があります。それを下りたところにあるのが〝前田高地平和之碑〟です。この場所も訪問候補に挙がりながら時間の都合で来ることができなかった場所のひとつです。嘉数・前田高地の戦いに於いて急遽増援された第24師団第32連隊第2大隊、米軍の沖縄本島上陸以降侵攻の遅滞作戦を行い、多くの犠牲者を出して戦力が低下していた第62師団歩兵第63旅団隷下の部隊との入れ替わりの命令によるものでした。日本軍に於いては大隊長というと〝佐官クラス〟が任命されていましたが、既にそのクラスの士官の多くは戦死しており、この第二大隊の志村常雄隊長は大尉で大隊長に就任しています。浦添グスク内に掘られた無数の壕、それらは複雑に繋がっており、ひとつの出入り口が砲撃によって破壊されても何ら問題のないものだったように作られています。勿論壕に籠る日本軍はその辺りをちゃんと理解しており、増援される側だった第63旅団第12大隊(賀谷與吉中佐)の撤退場所を把握し、無事に連絡を取り合うことができたということがわかっています。

昨年平成29(2017)年に米軍衛生兵の実話をもとにした〝ハクソー・リッジ〟が公開され、沖縄島中部に於けるもっとも熾烈な戦いが繰り広げられた嘉数・前田高地の戦いが黒-図アップされることとなりました。地の利を生かした日本軍は数に勝る米軍と互角若しくは有利に戦闘を進めていた時もありましたが、次第に物資・人員に勝る米軍に押されて行くこととなり、多くの兵士がこの場所で戦死しています。第62師団をはじめとした日本軍主力部隊はその後首里を経て南部へと向かうことになりますが、その殿として撤退を助けたのは他ならぬ増援部隊であった第2大隊でした。主力の撤退後追いかける手筈ではあったようですが、米軍の猛攻の前に犠牲者が日に日に増える結果となり、大隊の9割に当たる犠牲者を出した第二大隊は壕内に籠って夜になると壕を出てゲリラ戦を展開していとの記録が残っています。この第二大隊は大多数の犠牲者を出しながらも昭和24(1945)年9月には日本軍の組織的抵抗が終わり、投降せよとの命令を同じく第32連隊第1大隊長伊藤孝一大尉からの伝令を受けて投降し、大隊レベルで終戦を迎えることができた数少ない部隊のひとつとなっています。しかし第二大隊でも多くの犠牲者を出しており、その戦いの場所となった場所のひとつである〝前田高地〟に〝前田高地平和之碑〟を戦友会が建立し、戦没者慰霊の場所として現在に至っています。

旧日本軍関係の慰霊碑ではあるものの前田の戦いが如何に熾烈なものであったかを今に伝えるものとして、知られているもののひとつであることに違いはなく、その知名度が私をこの場所に導いたようにも思えるので、静かに手を合わせて戦没者全ての冥福を祈ります。この付近には往時に兵士や住民が籠ったと言われる壕やガマがたくさんあるものの、戦後の開発や経年による劣化の影響で落盤の危険性があるということで立ち入り禁止となっているのが残念でした。

そしてこの先には場所の目安として利用された為朝岩(ニードルロック)があるのですが、そこに至る道すじが良くわかりません。墓地の中を通り抜けると遊歩道が設けられているようですが、普段の運動不足がたたり歩く気力がなかったため、次回の楽しみに回すことにします。ただ付近一帯からニードルロックそのものの姿は確認できるので(笑)。

行きはヨイヨイ帰りは怖いとはよく言ったもので、車に戻るには今来た道を戻らなければなりません。ヘタレにはだいぶ応えていましたが、仕方なしに再び歩き出します。そして浦添の景色が広がる場所にやって来ます。ここが映画化されたハクソー・リッジです。現在では展望台も設けられており、往時の様子は感じられませんが、猫の額ほどの場所に於いて熾烈な戦いが繰り広げられた史実は映画でも再現されています。縄ばしごを掛けて崖をよじ登って来る米兵に対し、なぜ日本兵は崖の上から銃撃を加えなかったのか?不思議とも言われることですが、理由は簡単なことでそれだけのスペースがなかったことに他なりません。結果として接近した白兵戦が行われ、日米両軍共に多大な犠牲者を出しました。

現在では浦添の長閑な風景が広がっており、ここが70余年前には熾烈な戦いが行われた戦場だったとは夢にも思わないでしょう。そんな思いを持ちながら景色を眺めていると、いつものように人が群がり罵声が飛び交う姿が目の前にチラつきます。déjà vuとも言えないただの妄想ですが、何も考えずに南の島を歩くことができることを幸せなことだと改めて感じました。

そしてグスクの石垣の下に広がる前田高地壕群が見えてきます。前田高地を死守した第24師団第32連隊第2大隊が米軍の沖縄西海岸上陸の報を受け、住民を動員して突貫工事で掘り進めた壕群と言われています。網の目のように巡らされた壕は、ひとつの出入口を砲撃によって破壊されても影響がなく、また壕入口に攻撃を加えられても直接的には内部に被害の無いように屈曲をしていたものだと言うことは記録に残っています。前田高地の戦いが始まった頃には常に部隊間の連絡網がしっかりとしており、最前線で10倍の兵力を相手に遅滞作戦を行って大きなダメージを受けて、僅かな残存兵力と傷病者を携えた第62師団歩兵第63旅団第二大隊が撤退して来た壕を探しあてて部隊の入れ替わりを果たしています、もっともその後の戦闘では善戦はしたものの圧倒的な火力・兵力の前になすすべを無くし、夜になると壕から出て夜襲をかけるといったゲリラ戦の様相を呈するに留まることにはなってしまったようですが・・・。

そんな謂れのある壕ですが、やはり経年劣化による落盤の危険性を理由に立ち入りは禁止されています。壕内には土砂の流入が見受けられ、70余年の月日から植物が生い茂っていました。いずれは自然に戻るような様相が、見かけだけでも平和と言える日々が続くよう見守っているように思えた私でした。

浦添グスクから南へと進むとクチグァーガマがぽっかりと口を開けていました。沖縄戦が始まるや否や仲間集落第6班の住民が身を寄せていたそうです。そのうちにこの地が戦場と化し、日本兵もガマに身を寄せ軍民共存のガマとなっていたようです。しかし浦添の地を占領した米軍によってガマの上に艦砲射撃が加えられるとガマ内部で落盤が起き、少なくない人々が生き埋めとなりました。たまたま助かった者の中に日本軍将校がおり、岩盤を日本刀で叩きながら出口へと辿り着きますが、その瞬間投げつけられた手榴弾によって落命したとの記録が残っています。その様子を知り出るに出られなくなった民間人と兵士達。兵士は司令部の南下と行動を共にするため出て行きましたが、残された住民はそのままとなり、後に捕虜となった時には僅か3家族しか残っていなかったそうです。見た目からしてもかなり大きなガマですが、やはり経年劣化による落盤の危険性があるために立ち入りは禁止されています。軍と行動を共にした住民もおり、その多くは南部糸満の地で戦闘に巻き込まれて戦死しています。また動けなかった傷病者はこのガマの中で亡くなりました。チビチリガマのように集団自決が起こった場所ではありませんが、やはらガマ内部では多くの人命が失われた場所であることには変わりありません。ここでも静かに手を合わせて亡くなられた方々のご冥福を祈ることしかできなかった私です。

そしてなんの因果でかガマの上には浦添グスクの城壁が見つかり、往時を偲ぶことができる場所となっていました。

そのまま歩き続けると浦添城前の碑が建てられています。尚寧王時代の道路竣工記念碑とされるものは沖縄戦で破壊され、平成11(1999)年に再建されました。内地で言えば戦国時代末期に尚寧王の命により、住民が力を合わせて首里までの道を作ったことが、琉球かな文字と漢文で刻まれています。王制が順調だったことを示し、その国力を対外的にアピールしていたものかと推測します。また碑の前には馬ヌイ石と呼ばれる石があり、浦添城を訪れた高貴な方々が馬から降りる際に足をついたものとされています。この馬ヌイ石はInstagramで結構有名な場所として知られているようで、女子がこの石に足を置いて撮られた写真がよく掲載されていることを知りました。お調子者の私としてはここでのワンショットは絶対!と考え、一人だということを忘れて自撮りにチャレンジします。三脚を使用するか自撮り棒を使えば良いものを、敢えて手持ちで上から撮ってみましたがどう見ても撮影意図のわからない間抜けな写真しか撮れませんでした(泣)。それだけならまだしもあまりにも不自然な姿勢を取ったために、撮った瞬間足がツリました。あ~ぁ、慣れないことはするもんじゃありません・・・。

馬ヌイ石からふとまた場所になにやら標識があるようです。カガンウカー、ガジュマルの大木の根元に広がる井戸のことですが、沖縄戦前には水面が鏡のようにキラキラした井戸だったようです。地形が変わるくらいに砲撃を喰らった浦添城、その影響もあり既に水は枯れていましたが、70余年前には生活用水に用いるなどして使われた生活に密着していた歴史ある井戸だったようです。まぁ拝所ではなかったようですが・・・。

という感じでグスクと戦跡巡り〝歩き編〟はこれにて終了し一旦車へと戻ります。そして向かった先はカンパン壕でした。アパートの隣にある壕には、食料としてのカンパンが堆く積まれていたそうです。そのうちにこの地が戦場となり、前線で負傷した兵士が運び込まれる等〝野戦病院〟宛らの様子を呈したこともあるようです。しかし病院壕ではなかったためにろくな治療もできず、重症者はただ死を待つしかなかったそうです。また収容者の中には場所がなく、カンパンの上で寝起きしていた者もいたと書かれていました。

このカンパン壕ですが浦添城の中でもかなり低い位置にあるため、水の流入が悩みのタネだったことが記録に残っています。訪れた時も完全に水没しており、どんなものだったのかすら検討がつかないものでした。戦時中はそんな細かいところは考慮されずに、壕を掘りガマを使っていたようですが、70余年経った今日ではその取り巻く環境によって保存状態に大きな差が出ています。このカンパン壕も後数百年も経てば完全に土に還る場所のように見えました。戦跡としては残して欲しい気持ちはあれど、元々人工的に掘られた壕ゆえに、自然に帰り行くことが運命なのかも知れません。落盤とかの可能性ではなく、水没という絶対的理由から入壕出来ないカンパン壕を見てふと思ってしまいました。

そしてニードルロックを見ながら那覇へと急ぎます。途中公園墓地の休憩所で一息ついた後、今後の行程を見直します。2件時間優先の場所があり、それに合わせるために少し空走距離が増えることを確認します。そして再び走り出し向かった先は沖縄県立那覇商業高校でした。子供もいないのになぜ学校へと向かうのか?学校見学とは全く無関係で学校敷地内にある学徒隊の慰霊碑に手を合わせるためでした。事前に連絡はしておいたのですが、どうやら教頭先生が付き添って下さるとのこと。イチ観光客の道楽に付き合わせるのも申し訳ないのですが、このご時世変な部外者が行内をうろついているのも問題になるかも知れません。ただナビの示す通り走って行って校門を入ったのはどうやら裏門だった様子。とはいっても知らない場所ゆえなんともなりません。車の中から電話を掛けると態々お出迎え頂きました。重ね重ね申し訳ありません。

正門前にお目当ての慰霊碑はありました。和魂之塔、沖縄戦に動員された学徒隊21校のうちのひとつ那覇商工学校の学徒隊と引率教員その他の学校関係者の戦没者165人が合祀されています。那覇商工の学徒は鉄血勤皇隊を組織して主に通信隊に入隊、無線・暗号・情報の教育を受け従軍しましたが、中でも最前線の伝令は砲弾飛び交う下での重要な役割でした。一人に任せてその一人が戦死すれば伝令が使わらないとの軍上層部の考えから、同じ命令を3人に託し一人でも無事辿り着けば良いという考えもされていました。加えて急造機雷を抱えての戦車への特攻などにも駆り出され、多くの犠牲者を出しています。

お忙しい教頭先生には申し訳ないと思いながらも〝和魂の塔〟に纏わるお話を色々聞かせて頂きました。先生の学生時代にもやはり同年齢の女子生徒が戦争に駆り出されることなど実感として湧かなかったと仰っていました。先生になられて教え子を持ち、この子達が戦争に行かなければならないことは絶対にしてはならないとも聞きました。私自身教師の考えなどどうでも良いと考えていたひとりなのですが、今回の教頭先生のお話は、戦争は経験されてはいないものの〝実体験〟から出てきた〝重み〟を痛感したものでもありました。和魂之塔に祀られている戦没学徒が生き返って、志半ばで斃れなければ体験できたろう種々のことを可能にすることは誰にもできないことだとわかってはいるものの、せめてあの世で楽しい生活を送って頂きたいという思いを込めて手を合わせました。リップサービスもあるのかも知れませんが、内地の人間が那覇商の〝和魂の塔〟の情報を知り、訪ねてきたことを嬉しく思い、その思いはきっと学徒達に伝わりますと言って頂いて、ずっと心苦しかった訪問が少し気が楽になりました。ここで改めてお忙しい中時間を割いて頂いた那覇商の教頭先生に感謝致します。ありがとうございました。

和魂の塔参拝を済ませ、距離の近い順で訪問地を並べ直します。若狭公園にあると書かれている〝恒久平和のモニュメント「なぐやけ」〟に向かうことにします。若狭公園の界隈は以前訪れたことはあるものの、基本駐車場がなくパーキングメーター利用の駐車をした記憶が残っています。しかし公園の周りには車の停められそうな場所がなく、とにかく場所を特定してから車を停めようと考えて公園内を見渡しますがモニュメントらしいものはどこにもありません。仕方がないので休憩中のおじぃに尋ねたところ『知らない』と冷たいお言葉。でも碑とかだったら若狭『海浜』公園に幾つかあるよとの情報を仕入れ、車を一度そちらに回してみます。するとどでかいマーライオン(実際は龍)が目に入ってきます。日中友好のシンボルのために3億円もの費用を費やしたこの3体の龍。なにが言いたかったのかわからずじまいでした。福州市との友好30周年を記念して建立されたものとは書かれていましたが、目を引くには引いてもその意図や存在があまりにもマイナー過ぎて意味を成してはいません。すぐ近くには那覇市の市制70周年と福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設されて平成4(1992)年に開園した中国式庭園〝福州園〟を含め、建立意図や目的があまりにも曖昧過ぎて不評をかっているものが並んでいます。そんな夢見る観光投資をするならば、学徒隊慰霊碑の保全活動など県民のために費やさねばならないことは山積みのはずです。口から水を吐かるだけでマーライオンになってしまう巨大建築物を見てふと思いました。

とにかく車を駐車場に停め歩いて行くと、見つかりました〝恒久平和のモニュメント「なぐやけ」〟が。平成7(1995)年に戦後50年の節目を迎えるにあたり、那覇市連合遺族会の提案に基づき市が恒久平和を願って建立されたものと碑文には書いてありました。ただ…これはどう見ても祈念碑ではなく〝記念碑〟です。平和を祈念するのであれば、下手な抽象化は意図が伝わらなくなり無意味なものになります。住民の方が知らないというのは祈念碑には関心を持つが記念碑はどうでも良いという気持ちがあるからではないでしょうか?茂みの中にポツりとある記念碑は、味方によっては背景から浮いているようにしか見えませんでした。カメラには収めたものの今回の訪問個所では一番の〝残念〟な場所になってしまいました。

そんなこともあり無料の駐車時間30分で見学を済ませて次の目的地へと向かいます。ここはプライベートな訪問になるのですが、私はお年玉にいつも2,000円札を渡すことにしています。以前は近くの銀行でも〝新札の2,000円札〟を手に入れることができたのですが、最近では2,000円札そのものがないと言われます。そこでコンビニのATMでも2,000円札が出てくる沖縄ならば…ということで沖縄に入り浸るようになった平成25(2013)年以降沖縄の銀行で手に入れるようになりました。しかしすでに作られていない2,000円札ゆえ新札の両替はどこの銀行でもできなくなりました。それでも本店ならば…という思いで琉球銀行の本店を訪ねます。そして用件を言うとまさかの〝手数料〟が掛かることを言われてしまいます。琉球銀行では口座を持たない顧客の両替は1枚から手数料が掛かるとのこと…。50枚以上が当たり前の地元の銀行しか知らない私としては???としか思えませんでした。2,000円札5枚なんですが…と伝えてもやはり手数料は掛かり、なおかつ新札はありませんとのことでした。サービス悪~って思いましたが、沖縄銀行では大丈夫かもと教えて貰ったので、急いで車に戻り沖銀本店を目指します。なんとか閉店時間までには間に合ったもののやはり2,000円札の新札はないので、きれい目なものを探してきますと言われ、なんとか今年も手に入れられました。もし手に入れられなくなったらお年玉自体も終了させなければならないので、私的には歓迎するところもあるのですが(笑)。てな感じでふたつの時間指定ミッションをクリアし、残りの行程を再確認します。

そしてやってきたのは松山公園。実はこの場所先程訪ねた那覇商隣なのですが、銀行の時間があったため後に回しています。戦前からこの辺り一帯は文化ゾーンでもあり、白梅学徒を輩出した沖縄県立第二高等女学校もこちらに建てられていました。白梅の乙女たち像がその跡地に建立されていますが、昭和19(1944)年10月10日の那覇大空襲で校舎は焼失し、焼け残った官舎等を利用して授業は続けられたものの沖縄戦が始まるにあたり、第32軍司令部よりの二高女4年生は学徒看護隊として従軍することになります。学徒隊として多くの戦没者を出し、そして戦後復活することもなく廃校になってしまった沖縄県立第二高等女学校は校庭の一角にあった〝ユーナヌカー〟と呼ばれる井戸、そしてそのそばにあった〝ゆうなの木〟とガジュマルとともに近年整備されて公園内に残り、白梅の乙女たち像とともにこの地に二高女があったことを今に伝えています。2年ぶりに訪問できた二高女跡、それをカメラに収めて次の目的地を目指します。

南国らしいスコールがザっと来たのでしばらくエンジンを止めて車体を冷やします。程なくして上がり、夏の日差しが戻り再び走り出します。時間の関係で一旦南下するように走り、訪れた先は沖縄県立沖縄水産高校です。先程訪れた那覇商同様文武両道の学校で全国的に名前は知られています。今回沖水を訪れた理由はやはり学徒隊の慰霊碑、翔洋碑に参るためです。来客駐車場に車を停めて事務所らしいところで、先ほど電話をして翔洋碑に参拝したい旨を伝えておいたのですが、どうやら電話を受けて頂いた教頭先生が見つからない様子。下校時間と被っておりお忙しそうなので、場所さえ教えて頂いたら大丈夫ですと言って、入校の許可を頂きます。校舎に挟まれた道をまっすぐ行くとグラウンドがあり、どうやら拡張整備を行っておられるようです。その左端にポツンと翔洋碑は建立されていました。沖縄水産高校の前身である沖縄県立水産学校、沖縄戦が始まるにあたり学徒隊を結成し、1年生は通信隊として球部隊(第32軍)に、2・3年生は鉄血勤皇隊として石部隊(第62師団)に配属されました。水産鉄血勤皇隊・水産通信隊としての動員数は生徒48名・教師2名で、うち戦没者数は生徒31名・教師1名となっています。

学徒隊と学校関係者の戦没者の御霊を祀るべく1962年11月に〝沖縄水産健児之塔〟が建立されました。その後判明した学校関係者の戦没者名を追記しつつ昭和53(1978)年3月に〝翔洋碑〟が建立されて現在に至っています。

沖縄水産高校では沖縄慰霊の日にあたる6月23日に1年生が参加して慰霊祭が行われる他に、6月22日には同窓会が主催する慰霊祭も行われています。学徒隊の慰霊祭は戦後廃校となった学校も多く、それら学徒隊の慰霊祭は同窓会が主催してきました。しかし既に戦後73年となった今日、学徒隊生存者の高齢化によって慰霊祭の開催はもとより慰霊碑の維持そのものが難しくなってきているのが現実です。そんな中戦後後身として開校した学校がでは、卒業生や在校生を中心とし、碑の保全と慰霊祭の開催を代々引き継いでいます。戦没学徒の分も生きなければという生還した元学徒隊のメンバーの意気込みはすごくよくわかるのですが、やはり寿命には勝てないため残念ながら慰霊祭の規模縮小や慰霊碑の管理を委託せねばならないのが現実です。

確かに学校敷地内にあるため、公式ガイドに載ることも少ない上にたまたま沖縄を訪れている時期であっても学校行事と被ったりして、参拝できない場合もあるのは確かです。学校に連絡を入れて許可を摂ることは場合によっては〝時間の縛り〟を受けることもあり、面倒だと思われるかも知れません。確かに包括的な〝学徒隊の碑〟が平和祈念公園に建立され、それほど知識がなくても21もの学校の生徒による〝学徒隊〟が結成されたことを知るきっかけになったことは事実です。しかしあくまで〝包括的〟なものであって個々の学徒隊の足跡には触れていない部分も確かにあります。そのような現実を考えれば、やはり学徒隊慰霊碑〝そのもの〟に参って情報を仕入れ、史実を知ることは大事かと思います。学校の開いている時間の関係で移動距離は伸びてしまいましたが、やはり訪れたからわかったことも多々あったことも事実です。今日と明日に行われる慰霊祭の準備がされている〝翔洋碑〟に参ることでその慰霊碑そのもの訪れる重要性を改めて痛感した私でした。

事務所に立寄りお礼を述べて出発します。時間指定はここまでで後は日没になるまで許す時間を走ります。途中ファミリーマート豊見城名嘉地店で一服と飲み物を仕入れ一息つきます。そして向かった先は那覇の〝田原公園〟です。どうやらメイン道路を走らなかったために、住宅地を通り過ぎて到着します。カテーラムイ、旧日本海軍巌部隊が構築した〝寿山壕〟にやってきました。旧海軍壕のひとつではあるものの、豊見城にある旧海軍司令部壕の方がはるかに有名ではあります。場所は小禄なので当時の小禄飛行場からはそう離れてはいない場所にあったもののようです。南西諸島海軍航空隊、通称巌部隊の本部壕として住民を動員して突貫工事で構築されましたが、やはり曲がりくねったものでありなかなか壕口からの攻撃は壕の奥までは届かない構造になっていました。小禄飛行場が米軍に制圧された昭和20(1945)年6月4日よりこのカテーラムイも攻撃を受けるようになりました。既に豊見城を含めた海軍には太刀打ちする術は残っておらず、夜襲を掛けることで戦死者を増やしていました。海軍司令部壕での大田実司令官の自決の報を聞いた残存兵は6月13日に総攻撃を仕掛けます。150名が全滅する結果となり、その後加えられた火炎放射器による米軍の〝馬乗り攻撃〟を受けて、壕内に置かれていた爆弾を爆発させ壕全体隊を爆破し、壕もろとも米兵を一緒に吹き飛ばそうとするも失敗します。そして日本軍の組織的抵抗が終わった後に動けるもの全員が壕を出たようですが、結局行く当てもなく誰ともなく壕に戻ってきて、9月5日の武装解除の時には120名の兵士が残っていたと記録されています。

このカテームライは海軍壕のひとつではあるものの、米軍のピンポイント攻撃を受けた時期には約1,000名もの兵士と住人が籠っていたという珍しいものでもありました。保存状態が良く、内部の様子を垣間見ることができるものとなっていますが、研究目的でしか入ることは許されていないようです。現在の田原公園の周辺を含めて壕の入り口が複数開いているようですが、時間の都合もあり公園内の壕入り口を確認して出発することにします。

そして次に訪れたのが城岳(グスクダケ)公園。那覇市楚にある小丘陵ですが、城嶽ともいうようです。かつてこの一帯は真和志間切古波蔵村と呼ばれる場所であり、城嶽には古波蔵村の拝所があった。大正時代末期に沖縄県立第二中学校(現那覇高校)や沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設されるとともに住宅が建ち並ぶようになり、かつての城嶽の鬱蒼とした林は、昭和初期には宅地や畑地になっていたと言われています。沖縄戦に於いてこの城岳周辺には第24師団の那覇守備隊陣地壕として使われており、5月には城嶽周辺で激しい戦闘も繰り広げられています。そして戦後昭和26(1951)年には城岳の山頂部を削り取って〝新世界〟という遊園地が開園、回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた〝いにしえの〟本格的な遊園地だったようで、那覇の一大名所として賑わっていたそうです。しかしこの手のものはピークを過ぎればすぐに衰退するものであることには違いなく、昭和36(1961)年には経営難から閉園することとなり、敷地は那覇市に売却されました。

返還前の昭和46(1971)年には那覇市が〝城岳公園〟として整備を行い、平成に入ってからにはなるものの、付近にあった墓の移転工事も進み、丘の麓では園路整備も行われています。現在公園内には昭和37(1962)年に再興された城嶽御宮に加えて、平成2(1990)年には奥武山公園から〝二中健児之塔〟が移設再建されて現在に至っています。

現在の沖縄県立那覇高校の前身にあたる沖縄縣立第二中学校。やはり沖縄戦に於いて〝二中鉄血勤皇隊〟〝二中通信隊〟を結成し従軍しています。二中健児之塔の碑文には動員されたのは教師1名・生徒140名で、その内生徒115名が戦死しています。また学徒隊以外でも教師9名と生徒71名が戦死しており、二中の戦没者数は195名と記録されていました。

ただひとつ戦死者数は男子学徒隊の中でも高い割合を示している二中学徒ですが、この戦死者は〝通信隊〟属し、第62師団隷下の部隊に配属され浦添から始まった沖縄戦の〝特に熾烈な戦い〟の戦場で斃れた者が非常に多かったという事実です。学徒の通信隊の仕事と言えば、砲弾の飛び交う戦場に於ける伝令や、急造機雷を抱えて戦車に特攻することであったことは言うまでもありません。しかし那覇にある学校にも拘らず生徒によって結成された〝鉄血勤皇隊〟は沖縄島中南部ではなく、北部に配属されています。北部の戦闘は南部とは比較にならないものだと表現する方も居られます。現実にはどうだったかはわからないところもあるものの、配属されていた兵力のことを考えるとその説もある意味では〝間違いない〟とも考えられます。学徒隊の戦死者は、兵士と同じく中南部の戦闘によって亡くなっています。またそのエリアでの戦闘要員として駆り出されているのも事実です。それではなぜ北部戦線に向かった部隊、そして学徒隊がいたのか?という疑問が出てきますが、これは偏に配属将校の判断によるものだったと記録が残っています。高山代千八中尉、県立二中の配属将校だった人物です。学徒隊結成後に二中は空襲で焼けたために北部金武国民学校に移動したと連隊区司令部会議で主張し、そのため急遽北部へと配置替えとなった立役者でもあります。予定では二中鉄血勤皇隊は南部の高嶺村に配属されるはずでした。現糸満市のこの場所は、沖縄戦末期の〝最後の熾烈な戦い〟が行われた場所であり、この地区に配属となった学徒はほとんどが戦死しています。しかしそれを北部に配置換えをした。そして金武に着くなり『勤皇隊の参加承諾書に親の捺印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない』と高山中尉が命令し、合法的に親元へ帰して事実上部隊の解散をさせています。何らかの理由で帰省せず行動を共にした学徒隊は、その後独立混成第44旅団国頭支隊の第3遊撃隊に配属されることになり、護郷隊員として戦闘に参加し鉄血金の戦死する者もいたそうです。しかしそのようなことになっても陸軍中野学校出身の第3遊撃隊村上治夫大尉には『学徒隊を先頭に投入するのは最後にしてくれ』と頼んでいます。そのような過程があった二中学徒隊の扱いでしたがやはり賛否はあるようで、解散したことによって戦死者が減ったと言う者もいれば、解散しても実家が南部にあって向かったら、戻る場所がなくなっており結果他の部隊に属する学徒隊に加わったために戦没した者もいると否定的に取っている方も居られます。

この話は二中健児之塔の碑文には書かれてはおらず、同窓会の会報に投稿されたものがクローズアップされた事実を紐解いています。戦没者の数は少なくとも全体的な犠牲者の割合はかなり多いので、亡くなられた方を冒涜しかねないという思いから少しだけ史実に触れたいと思い記述しています。

翌日(6月23日)に執り行われる慰霊祭準備のために、県立那覇高校の生徒さんが総出で学校や会場周辺を清掃している姿が取り上げられていました。現在の生徒の中にはこの配属将校の話を知らない者がほとんどだと聞きました。今は知る必要がないのかも知れませんが、物心ついて善悪の判断がつくようになった時にこの話を伝え聞いて、後世へと伝えて行って貰いたいと思いつつ二中健児之塔に手を合わせて公園を後にします。

日没までに回れるのはここまでで、残ってしまったところはまた次の機会の楽しみにして、買い物をしようと思います。いつもと同様今回も〝アナログカメラ〟を使って撮影しています。ただ一般的なカラーフィルムであるASA400は24枚・27枚が各1本と36枚撮りが3本しか手持ちがありません。ASA800はあるのですが昼間に使うと仕上がりが固くなってしまうため、できれば使いたくはありません。でも既に36枚撮り2本しか残っていないため安く仕入れればありがたいと思い、通り道でチラッとみたビッグカメラ・コジマ電器那覇店に向かいます。私もブックカメラのJR京都駅店を利用しているため、同じものが手に入ると思いきや・・・フィルムなんて影も形もありません。どうやら会社が合併したから付いた名前であってコジマ電器主体の家電のお店だということに気付きました。ならば長居は無用ということでお店を後にして、一路南部へと車を進めます。

とにかく19:30頃になると渋滞が年々ひどくなってきている那覇中心部。慰霊の日前日の今日も例には漏れません。快走できずに腐っていると目の前に〝吉野家〟の看板が目に入ってきます。そこで今朝から何も食べていないことに気付きます。ちょうど駐車場手前で止まったことをいいことに、そのまま入って行きました。グルメでない私だからできることなのかも知れません(笑)。

吉野家国道58号天久店、店の形は幹線道路沿いにある普通の〝吉野家〟でした。でもこのお店には〝店舗限定メニュー〟があるそうで、メニューに大々的に書いてあった〝タコライス・トク盛〟に目が行きます。勿論それを注文し味噌汁をプラスします。トマトソース仕立ては〝甘口〟だそうですが、なんとなく疲れていたこともあり、甘~いソースが体の隅々まで染み渡ります♪美味しく頂いてしばしの休憩を取った後、再び走り出します。

泊港入口付近で車が中央分離帯にぶつかっている事故がありました渋滞している道路でどうやってこうなるのかわかりませんが、気を引き締めて運転を続けます。そしてイオン那覇店に立ち寄り飲み物を調達します。本当はサンエーストアを利用したいのですが、通り道から外れるのでイオンを利用します。

本日の宿泊は南城市の奥武島ですが、那覇から奥武島へは国道331号線を経由しないで、国道329・507号線で豊見城・津嘉山を、そして県道48号線で南風原を経由して国道331号線に合流して向かうルートを推奨します。渋滞にもならないこのルートの方が早いのは知っていますが、曲がるところを間違えるとかなりロスするリスクがあります。でもさすがに毎回のように利用しているとなんとなくわかります。

全てが1年ぶりに見る車窓は懐かしさもあるのですが、時間も時間なので一服入れることもせずに40分程で奥武島のゲストハウスりゅうかくに到着します。5回目の宿泊となるこちらのお宿、近年宿泊客が増加しておりなかなか希望日に予約が取れなくなってきました。今年2月に予約を入れようと電話をしたら、21日は満室とのこと。最終日の飛行機の時間を考えると22日しか泊まれません。1年ぶりに見るオジイ・オバアば元気なようでそれはそれで安心しました。でも満室だった筈がどうやら私だけの様子。おや?と思い尋ねると6月に入ってからキャンセルが入ったとのこと。あ~ぁわかっていたら泊まっていたかも知れません。まぁ今更言っても始まらないので、泊まり慣れた201号室に入って荷物を置いて寝る支度をします。共用スペースに少し配置換えがされていたので尋ねると、実は部屋にもありますよと言われます。でも見慣れてしまっているのでわかるかな~と思いきや、あっさり枕元に置いてあるスタンドに気付きました♪

見慣れている宿はやはり安心できるようで、シャワーを浴びてひと息つくと瞼がすぐに重くなってきます。明日はいよいよ慰霊の日、一日中歩き回るので疲れを取らないといけません。そんなこんなで時間は過ぎて行き、4年連続4回目の慰霊の日を迎えますzzz。
《次編に続く》

【本日の収支】
ファミマ浦添屋冨祖四丁目店…796円(タバコ・コーヒー他)
ようどれ館…100円
飲み物…320円
ファミマ豊見城名嘉地店…1,433円(タバコ・飲み物他)
吉野家国道58号天久店…640円(タコライストク盛り・みそ汁)
イオン那覇…2,605円(頭痛薬他)
イオン那覇…243円(飲み物)
ゲストハウスりゅうかく…5,940円
小計:12,077円

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JALグループ JRローカル 徒歩 ソラシド エア
旅行の手配内容
個別手配

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  • それでは出発します。

    それでは出発します。

    ホテル・キング 宿・ホテル

  • 浦添ようどれ館に到着します。

    浦添ようどれ館に到着します。

  • 浦添市西海岸の石切場跡(移設)。

    浦添市西海岸の石切場跡(移設)。

  • 沖縄戦に於ける遺品の数々が展示されていました。

    沖縄戦に於ける遺品の数々が展示されていました。

  • 浦添の街が一望できる展望台がありました。

    浦添の街が一望できる展望台がありました。

  • 浦添の街。長閑な街並みが広がっていますが、キャンプキンザーのお膝下である、70余年前には前田高地の戦いを含む沖縄戦初期の激戦が繰り広げられた場所でもあります…。

    浦添の街。長閑な街並みが広がっていますが、キャンプキンザーのお膝下である、70余年前には前田高地の戦いを含む沖縄戦初期の激戦が繰り広げられた場所でもあります…。

  • さぁ浦添グスクとその周辺の戦跡を巡ります。地図でのチェックは必ず必要です。

    さぁ浦添グスクとその周辺の戦跡を巡ります。地図でのチェックは必ず必要です。

  • 浦添ようどれを囲む石牆(せきしょう)。復元ですが奇麗なつくりが目を引きます。

    浦添ようどれを囲む石牆(せきしょう)。復元ですが奇麗なつくりが目を引きます。

  • 浦添ようどれの石牆(せきしょう)。石の囲いと言えばいいのかな。

    浦添ようどれの石牆(せきしょう)。石の囲いと言えばいいのかな。

  • この辺りには天然の岩でできた通り道〝暗しん御門(くらしんうじょう)〟がありました。戦争で破壊されてしまいましたが…。

    この辺りには天然の岩でできた通り道〝暗しん御門(くらしんうじょう)〟がありました。戦争で破壊されてしまいましたが…。

  • 往時の〝暗しん御門(クラシンウジョウ)〟。

    往時の〝暗しん御門(クラシンウジョウ)〟。

  • 浦添ようどれ、入口。

    浦添ようどれ、入口。

  • 浦添ようどれ(うらそえようどれ・ウラシーユードゥリ)。<br />琉球王国の陵墓であり、西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓庭・門・石牆から構成されている。英祖王統初代英祖王が1261年に築き、尚巴志王が破壊し、第二尚氏王統尚寧王が修築を加えたものと伝えられおり、国の史跡・浦添城跡の一部となっている。

    浦添ようどれ(うらそえようどれ・ウラシーユードゥリ)。
    琉球王国の陵墓であり、西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓庭・門・石牆から構成されている。英祖王統初代英祖王が1261年に築き、尚巴志王が破壊し、第二尚氏王統尚寧王が修築を加えたものと伝えられおり、国の史跡・浦添城跡の一部となっている。

  • ようどれ前の石碑は擦り切れていて碑文が読めませんでした…。

    ようどれ前の石碑は擦り切れていて碑文が読めませんでした…。

  • 浦添ようどれ散策路にて、たかティムさん。

    浦添ようどれ散策路にて、たかティムさん。

  • 沖縄学の父と言われる伊波 普猷(いは ふゆう)の墓。

    沖縄学の父と言われる伊波 普猷(いは ふゆう)の墓。

  • 和光地蔵尊とありました。1952年に大阪四天王寺の出口常順管長(当時)が、沖縄戦の戦没者を供養しようと建立したものだそうです。<br /><br />中部エリアの激戦地であった前田高地に3体のうち1体が建立されています。

    和光地蔵尊とありました。1952年に大阪四天王寺の出口常順管長(当時)が、沖縄戦の戦没者を供養しようと建立したものだそうです。

    中部エリアの激戦地であった前田高地に3体のうち1体が建立されています。

  • 浦添王子遺跡の碑。<br /><br />浦添 朝満(うらそえ ちょうまん、弘治7年(1494年) - 嘉靖19年11月11日(1540年12月19日))は琉球王国第二尚氏王統の人で、3代尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖で唐名は尚維衡、童名を思徳金。尚真王の長男。<br />本来は父王尚真の世子であったが、二度にわたり廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が践祚し、第二尚氏王統4代王となった。<br />この廃嫡の理由については、最初は尚真の母:おぎやかの思惑による(後述)もの、二度目は尚真夫人である思戸金按司(華后)の計略によりそうなったとされる。いずれにしても王位継承を巡っての骨肉の争いがあり、朝満はその戦いに敗れたということであろう。<br />なお、死後は浦添ようどれに一旦葬られるが、のちに弟の尚清王によって王家の陵墓、玉陵へ移葬された。

    浦添王子遺跡の碑。

    浦添 朝満(うらそえ ちょうまん、弘治7年(1494年) - 嘉靖19年11月11日(1540年12月19日))は琉球王国第二尚氏王統の人で、3代尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖で唐名は尚維衡、童名を思徳金。尚真王の長男。
    本来は父王尚真の世子であったが、二度にわたり廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が践祚し、第二尚氏王統4代王となった。
    この廃嫡の理由については、最初は尚真の母:おぎやかの思惑による(後述)もの、二度目は尚真夫人である思戸金按司(華后)の計略によりそうなったとされる。いずれにしても王位継承を巡っての骨肉の争いがあり、朝満はその戦いに敗れたということであろう。
    なお、死後は浦添ようどれに一旦葬られるが、のちに弟の尚清王によって王家の陵墓、玉陵へ移葬された。

  • 浦和之塔。

    浦和之塔。

  • 浦和之塔とたかティムさん。

    浦和之塔とたかティムさん。

  • 浦和之塔下にあるディーグガマ。梯梧の大樹がある洞穴という意味で、鍾乳洞が陥没してできた窪地となっており地元の方の拝する御嶽となっています。そのような背景から内部に入ることは禁止されています。

    浦和之塔下にあるディーグガマ。梯梧の大樹がある洞穴という意味で、鍾乳洞が陥没してできた窪地となっており地元の方の拝する御嶽となっています。そのような背景から内部に入ることは禁止されています。

  • ディーグガマ内部の様子。拝所が見えます。

    ディーグガマ内部の様子。拝所が見えます。

  • 浦和の塔とディークガマ。<br /><br />浦和の塔(碑文)<br />浦和の塔は、沖縄戦で散華した人々を祀る慰霊の塔です。<br />一九五二に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人五、〇〇〇余柱が安置されており市では毎年十月には、慰霊祭を催し英霊を慰めています。<br />浦添市役所<br />

    浦和の塔とディークガマ。

    浦和の塔(碑文)
    浦和の塔は、沖縄戦で散華した人々を祀る慰霊の塔です。
    一九五二に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人五、〇〇〇余柱が安置されており市では毎年十月には、慰霊祭を催し英霊を慰めています。
    浦添市役所

  • 厳かな雰囲気を感じました。

    イチオシ

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    厳かな雰囲気を感じました。

  • やっと来られた前田高地平和之碑。

    やっと来られた前田高地平和之碑。

  • 裏面にはこの碑を建立するために寄付をした第24師団第32連隊第2大隊隊長志村常雄氏以下生存者の名前が刻まれています。

    裏面にはこの碑を建立するために寄付をした第24師団第32連隊第2大隊隊長志村常雄氏以下生存者の名前が刻まれています。

  • こちらにも生存者篤志者寄付者名とありました。

    こちらにも生存者篤志者寄付者名とありました。

  • 碑の後方には戦没者の法名が刻まれていました…。

    碑の後方には戦没者の法名が刻まれていました…。

  • 【碑文】<br />鎮魂<br /> この前田高地は、去る沖縄戦で、日米両軍がその争奪に死闘 を繰りひろげ、多数の貴い犠牲者を出した最大の激戦地である。<br /> 山3475部隊(歩兵第32連隊)第二大隊は、昭和20年4月29日この地に進出し、全員傷つき斃れたが、なおこれを死守して、国軍の真価を遺憾なく発揮した。<br />関係各方面の絶大なる御協力と第二大隊生存者の積年の悲願により、ここに碑を建立し、地下に眠る戦友の英霊を慰め、変わらない友情の確かな証となし、恒久の平和のゆるぎない礎にしたいと念ずるものである。<br />昭和54年3月1日 山3475部隊第二大隊戦友会

    【碑文】
    鎮魂
     この前田高地は、去る沖縄戦で、日米両軍がその争奪に死闘 を繰りひろげ、多数の貴い犠牲者を出した最大の激戦地である。
     山3475部隊(歩兵第32連隊)第二大隊は、昭和20年4月29日この地に進出し、全員傷つき斃れたが、なおこれを死守して、国軍の真価を遺憾なく発揮した。
    関係各方面の絶大なる御協力と第二大隊生存者の積年の悲願により、ここに碑を建立し、地下に眠る戦友の英霊を慰め、変わらない友情の確かな証となし、恒久の平和のゆるぎない礎にしたいと念ずるものである。
    昭和54年3月1日 山3475部隊第二大隊戦友会

  • 前田高地平和之碑とは…。

    前田高地平和之碑とは…。

  • やっと来られた前田高地平和之碑。

    やっと来られた前田高地平和之碑。

  • 落盤が進み奥へと入れない第二大隊が籠った壕。

    落盤が進み奥へと入れない第二大隊が籠った壕。

  • 作年映画化されて話題となったハクソー・リッジ。穏やかな景色とは裏腹に沖縄戦前期のもっとも熾烈な戦いが繰り広げられた戦場のひとつです。

    作年映画化されて話題となったハクソー・リッジ。穏やかな景色とは裏腹に沖縄戦前期のもっとも熾烈な戦いが繰り広げられた戦場のひとつです。

  • ハクソー・リッジに建つ休憩所兼展望台。

    ハクソー・リッジに建つ休憩所兼展望台。

  • ハクソー・リッジリッジをバックにしている(はず)のたかティムさん。

    ハクソー・リッジリッジをバックにしている(はず)のたかティムさん。

  • 今では穏やかな景色が広がっています…

    今では穏やかな景色が広がっています…

  • しかし70余年前には一面焼け野原になった景色が広がっていた史実…。

    しかし70余年前には一面焼け野原になった景色が広がっていた史実…。

  • 複雑な想いを記録に残しておくことにします。

    複雑な想いを記録に残しておくことにします。

  • 前田高地壕群(北側)。第62師団歩兵第63旅団(旅団長:中島徳太郎少将)が構築したものとされており、複雑な繋がりであるも多くの壕口があったため、砲撃によりひとつの出入口が破壊されても影響を受けなかったとされている。<br /><br />米軍上陸に対し遅滞作戦を一手に行った歩兵第12大隊(賀谷與吉中佐)が撤退してきた壕へ支援部隊として送られた第24師団第32連隊第2大隊が合流できた場所だとも言われている。

    前田高地壕群(北側)。第62師団歩兵第63旅団(旅団長:中島徳太郎少将)が構築したものとされており、複雑な繋がりであるも多くの壕口があったため、砲撃によりひとつの出入口が破壊されても影響を受けなかったとされている。

    米軍上陸に対し遅滞作戦を一手に行った歩兵第12大隊(賀谷與吉中佐)が撤退してきた壕へ支援部隊として送られた第24師団第32連隊第2大隊が合流できた場所だとも言われている。

  • 縦横無尽に掘られた壕ではあるが、経年により土砂の流入や取り巻く環境の変化によって地割れなどが起こっており、落盤の危険性があるため現在では立ち入り禁止となっている。残念ではあるが時の流れには逆らえないということだろう。

    縦横無尽に掘られた壕ではあるが、経年により土砂の流入や取り巻く環境の変化によって地割れなどが起こっており、落盤の危険性があるため現在では立ち入り禁止となっている。残念ではあるが時の流れには逆らえないということだろう。

  • クチグヮーガマ。<br />入口が人間の口に似ているということからクチグヮーガマと呼ばれるようになり、沖縄戦中には仲間第6班の避難壕となっていた。当初は10家族が避難していたが、前田高地の戦いの頃に兵士もガマに入り、軍民共用のガマとなっていたようだ。戦線が南下するにあたり兵士は壕と出て行くが、その際にガマに残っていたのは3家族であったとされている。

    クチグヮーガマ。
    入口が人間の口に似ているということからクチグヮーガマと呼ばれるようになり、沖縄戦中には仲間第6班の避難壕となっていた。当初は10家族が避難していたが、前田高地の戦いの頃に兵士もガマに入り、軍民共用のガマとなっていたようだ。戦線が南下するにあたり兵士は壕と出て行くが、その際にガマに残っていたのは3家族であったとされている。

  • クチグヮーガマ。広さはあるようだが…。

    クチグヮーガマ。広さはあるようだが…。

  • 土砂の流入や亀裂が見られ、落盤の危険性もありやはり出入り禁止となっている。

    土砂の流入や亀裂が見られ、落盤の危険性もありやはり出入り禁止となっている。

  • やはり時代の流れなのであろう・・・。

    やはり時代の流れなのであろう・・・。

  • 岩盤の上に見つかった城壁。

    岩盤の上に見つかった城壁。

  • ガマの上の部分が城壁です。

    ガマの上の部分が城壁です。

  • 浦添城の前の碑。<br /><br />1597 年尚寧(しょうねい)王時代に、首里から浦添城までの道路を整備した際の<br />竣工記念碑です。現在の石碑は沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元され<br />ました。表には琉球かな文字、裏は漢文で「尚寧王の命令で国民が力を合わせて、<br />岩を刻み、道を造り石を敷き、川には虹のような橋をかけた」と記されています。<br />石碑上部には、国王を表す太陽、優れた王だったことを示す鳳凰、琉球が豊かな<br />土地だったことを意味する流雲がレリーフとして刻まれているのも特徴です。ま<br />た石碑の前の大きな石は馬ヌイ石と呼ばれ、浦添城に来た際にの馬の乗り降りた<br />め踏み台として使われていたそうです。

    浦添城の前の碑。

    1597 年尚寧(しょうねい)王時代に、首里から浦添城までの道路を整備した際の
    竣工記念碑です。現在の石碑は沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元され
    ました。表には琉球かな文字、裏は漢文で「尚寧王の命令で国民が力を合わせて、
    岩を刻み、道を造り石を敷き、川には虹のような橋をかけた」と記されています。
    石碑上部には、国王を表す太陽、優れた王だったことを示す鳳凰、琉球が豊かな
    土地だったことを意味する流雲がレリーフとして刻まれているのも特徴です。ま
    た石碑の前の大きな石は馬ヌイ石と呼ばれ、浦添城に来た際にの馬の乗り降りた
    め踏み台として使われていたそうです。

  • 浦添城の前の碑と馬ヌイ石。

    浦添城の前の碑と馬ヌイ石。

  • 馬ヌイ石。足置きの石です。<br /><br />

    馬ヌイ石。足置きの石です。

  • 無理な姿勢で足を置いた姿を自撮り中のたかティムさん。この後足が攣りました…。

    無理な姿勢で足を置いた姿を自撮り中のたかティムさん。この後足が攣りました…。

  • カガンウカー。

    カガンウカー。

  • カガンウカーの内部の様子。

    カガンウカーの内部の様子。

  • カンパン壕へとやってきました。

    カンパン壕へとやってきました。

  • カンパン壕とは昭和19(1944)年に作られた〝コの字型〟をした壕で、旧日本軍の食料貯蔵庫として〝カンパン〟が天井に届く程高く積み上げられていたそうです。この地が戦場となるや重傷兵士が運び込まれるも薬品類が不足し、加えて前田高地を米軍が占領した昭和20(1645)年5月下旬以降は水の確保が困難で手当てもままなら無かったとされています。負傷兵の中にはカンパンの箱の上で寝起きしていたものもあったことからこの名がつけられたともいわれている。

    カンパン壕とは昭和19(1944)年に作られた〝コの字型〟をした壕で、旧日本軍の食料貯蔵庫として〝カンパン〟が天井に届く程高く積み上げられていたそうです。この地が戦場となるや重傷兵士が運び込まれるも薬品類が不足し、加えて前田高地を米軍が占領した昭和20(1645)年5月下旬以降は水の確保が困難で手当てもままなら無かったとされています。負傷兵の中にはカンパンの箱の上で寝起きしていたものもあったことからこの名がつけられたともいわれている。

  • 今では雨水で水没していることがほとんどであることや、壕壁の経年劣化により落盤の危険性があるため立ち入りは禁止されています。水没した様がもの悲しさを誘います…。

    今では雨水で水没していることがほとんどであることや、壕壁の経年劣化により落盤の危険性があるため立ち入りは禁止されています。水没した様がもの悲しさを誘います…。

  • 沖縄県立那覇商業高校にやってきました。

    沖縄県立那覇商業高校にやってきました。

  • ここにやって来た目的は、沖縄戦に動員された学徒隊のひとつである沖縄商業学校学徒隊の慰霊碑である〝和魂の塔〟に参拝するためです。

    ここにやって来た目的は、沖縄戦に動員された学徒隊のひとつである沖縄商業学校学徒隊の慰霊碑である〝和魂の塔〟に参拝するためです。

  • 玄関入り口にある和魂の塔、それを取り巻く環境はすっかり変わっているようです…。

    玄関入り口にある和魂の塔、それを取り巻く環境はすっかり変わっているようです…。

  • 和魂の塔。

    和魂の塔。

  • 沖縄商業学校戦没者記名碑。ここへもやっと来られました。<br /><br />案内して頂いた教頭先生、お忙しいところどうもありがとうございました。

    沖縄商業学校戦没者記名碑。ここへもやっと来られました。

    案内して頂いた教頭先生、お忙しいところどうもありがとうございました。

  • 若狭海浜公園内にある恒久平和のモニュメント『なぐやけ』を訪れました。一部書物に〝若狭公園〟と誤記されているものがあり注意が必要です。

    若狭海浜公園内にある恒久平和のモニュメント『なぐやけ』を訪れました。一部書物に〝若狭公園〟と誤記されているものがあり注意が必要です。

  • 恒久平和のモニュメント『なぐやけ』<br /><br />沖縄戦は、一九三一年の柳条湖事件にはじまった日中戦争以来、一五年に及んだ<br />戦争の最後の激戦であり、日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦でありました。<br />一九四四年十月十日の空襲によって、那覇市は灰燼に帰し翌年四月の米軍上陸から<br />三ヶ月余に及んだ沖縄戦は熾烈を極めました。<br />その結果、那覇市民の戦没者は二万八千人余に及び、沖縄全体では二十三万人余の尊い人命が失われました。<br />わたくしたち那覇市民は、戦争の惨禍を決して忘れることなく、愚かな戦争を再び<br />繰り返してはならないと深く決意するものであります。<br />那覇市では戦後五十年の節目にあたり、那覇市連合遺族会の提案に基づき、戦没者の恒久平和への強い決意をアジアや世界の人々に伝えるため、那覇市平和宣言を行い、ここに恒久平和のモニュメント「なぐやけ」を建立いたしました。<br />「なぐやけ」は「穏やか」「和やか」という沖縄の古語で、いつまでも平和でありますようにとの祈りが込められています。<br /><br />那覇市<br />

    恒久平和のモニュメント『なぐやけ』

    沖縄戦は、一九三一年の柳条湖事件にはじまった日中戦争以来、一五年に及んだ
    戦争の最後の激戦であり、日本で唯一住民を巻き込んだ地上戦でありました。
    一九四四年十月十日の空襲によって、那覇市は灰燼に帰し翌年四月の米軍上陸から
    三ヶ月余に及んだ沖縄戦は熾烈を極めました。
    その結果、那覇市民の戦没者は二万八千人余に及び、沖縄全体では二十三万人余の尊い人命が失われました。
    わたくしたち那覇市民は、戦争の惨禍を決して忘れることなく、愚かな戦争を再び
    繰り返してはならないと深く決意するものであります。
    那覇市では戦後五十年の節目にあたり、那覇市連合遺族会の提案に基づき、戦没者の恒久平和への強い決意をアジアや世界の人々に伝えるため、那覇市平和宣言を行い、ここに恒久平和のモニュメント「なぐやけ」を建立いたしました。
    「なぐやけ」は「穏やか」「和やか」という沖縄の古語で、いつまでも平和でありますようにとの祈りが込められています。

    那覇市

  • なぐやけの塔、背面。<br /><br />生きぬき 築き上げた都市<br />那覇――その戦後は米軍のバリケードで囲まれた焼野が原から出発した<br /><br />はじめに一〇三人の市民が生きぬいてもどった<br />なつかしい壺屋のまちに<br />多くのいのちを失い<br />ふるさと那覇も消滅し<br />悲しみは深かったが<br />打ちふるう復興の鍬には力があふれ<br />みんなまなこを<br />しっかり前へ向け踏み出した<br />生活と都市再建の一歩を<br /><br />それから<br />心のいしじを固く敷きつめ<br />平和通りをつくり<br />国際通りを開け<br />もう二度と失うことのない<br />那覇を築いてきた<br /><br />ここにくるまで五十年<br />一〇三人は三十一万へとかわった<br />那覇――それは戦争をしない都市<br />那覇――それは市民の愛が守るまち<br />那覇――それは市民が主人公の都市<br />那覇――それは世界の都市を友とするまち<br /><br />私たちは いま、ここに<br />市民の誇りと勇気により蘇った<br />都市・那覇を世界に宣言する<br /><br />一九九五年・沖縄戦終結五十年記念宣言 那覇市<br />

    なぐやけの塔、背面。

    生きぬき 築き上げた都市
    那覇――その戦後は米軍のバリケードで囲まれた焼野が原から出発した

    はじめに一〇三人の市民が生きぬいてもどった
    なつかしい壺屋のまちに
    多くのいのちを失い
    ふるさと那覇も消滅し
    悲しみは深かったが
    打ちふるう復興の鍬には力があふれ
    みんなまなこを
    しっかり前へ向け踏み出した
    生活と都市再建の一歩を

    それから
    心のいしじを固く敷きつめ
    平和通りをつくり
    国際通りを開け
    もう二度と失うことのない
    那覇を築いてきた

    ここにくるまで五十年
    一〇三人は三十一万へとかわった
    那覇――それは戦争をしない都市
    那覇――それは市民の愛が守るまち
    那覇――それは市民が主人公の都市
    那覇――それは世界の都市を友とするまち

    私たちは いま、ここに
    市民の誇りと勇気により蘇った
    都市・那覇を世界に宣言する

    一九九五年・沖縄戦終結五十年記念宣言 那覇市

  • 雪の崎跡(ユーチヌサチアト)。

    雪の崎跡(ユーチヌサチアト)。

  • 那覇の北西部にあった古の岬の名前で、拝所として崇められています。

    那覇の北西部にあった古の岬の名前で、拝所として崇められています。

  • 松山公園に立寄ります。

    松山公園に立寄ります。

    松山公園 公園・植物園

  • ここには2年前にも立ち寄っています。

    ここには2年前にも立ち寄っています。

    松山公園 公園・植物園

  • 沖縄県立第二高等女学校跡にある〝白梅の乙女たち像〟です。

    沖縄県立第二高等女学校跡にある〝白梅の乙女たち像〟です。

    松山公園 公園・植物園

  • 時間の都合で糸満市西崎にある沖縄県立沖縄水産高校へとやって来ました。

    時間の都合で糸満市西崎にある沖縄県立沖縄水産高校へとやって来ました。

  • ここもかねてから訪れたかった場所のひとつです。

    ここもかねてから訪れたかった場所のひとつです。

  • 旧碑は〝沖縄水産健児之塔〟と言いました。その後移築され〝翔洋碑〟と改名され現在に至っています。

    旧碑は〝沖縄水産健児之塔〟と言いました。その後移築され〝翔洋碑〟と改名され現在に至っています。

  • 沖縄水産健児之塔の碑と翔洋碑。

    沖縄水産健児之塔の碑と翔洋碑。

  • 明日(6月23日)は1年生を対象に慰霊祭が執り行われるそうです。

    明日(6月23日)は1年生を対象に慰霊祭が執り行われるそうです。

  • 沖縄水産翔洋碑。

    沖縄水産翔洋碑。

  • 翔洋碑<br />沖縄県立水産学校<br />糸満市西崎沖縄水産高校内<br />戦没者計六十六名<br />学徒(学徒隊三一名・入隊五名・その他二二名)<br />教職員(引率一名・その他七名)<br />

    翔洋碑
    沖縄県立水産学校
    糸満市西崎沖縄水産高校内
    戦没者計六十六名
    学徒(学徒隊三一名・入隊五名・その他二二名)
    教職員(引率一名・その他七名)

  • 建立の詞<br /><br />昭和十二年七月七日支那事変勃発し続いて十六年十二月八日第二次世界大戦となって戦禍は益々熾烈を窮め二十年八月十五日古今未曾有の人類の悲劇は終末を告げたのであります<br />其の間吾が沖縄県立水産学校も幾多の教職員及び同窓生を支那大陸又は南溟の地に送り或いは郷土防衛の楯となったのでありますが勇戦奮闘も空しく多数の戦死者を出したのでもあります<br /><br />特に沖縄が第二次大戦の戦場と化するに及んで一年生は通信隊として球部隊に二年三年生は鉄血勤皇隊として石部隊に召集編入され直接戦闘に参加したのでありますが戦いわれに利あらずあたら春秋にとむ身を護国の神となって散華したのであります<br />此處に吾等同窓生並びに関係有志はこれら戦没勇士を追慕し英霊の御冥福を祈ると共に永遠の世界平和を祈願してこの塔を建立するものであります。<br /><br />一九六二年十一月吉日<br />沖縄水産学校同窓会

    建立の詞

    昭和十二年七月七日支那事変勃発し続いて十六年十二月八日第二次世界大戦となって戦禍は益々熾烈を窮め二十年八月十五日古今未曾有の人類の悲劇は終末を告げたのであります
    其の間吾が沖縄県立水産学校も幾多の教職員及び同窓生を支那大陸又は南溟の地に送り或いは郷土防衛の楯となったのでありますが勇戦奮闘も空しく多数の戦死者を出したのでもあります

    特に沖縄が第二次大戦の戦場と化するに及んで一年生は通信隊として球部隊に二年三年生は鉄血勤皇隊として石部隊に召集編入され直接戦闘に参加したのでありますが戦いわれに利あらずあたら春秋にとむ身を護国の神となって散華したのであります
    此處に吾等同窓生並びに関係有志はこれら戦没勇士を追慕し英霊の御冥福を祈ると共に永遠の世界平和を祈願してこの塔を建立するものであります。

    一九六二年十一月吉日
    沖縄水産学校同窓会

  • 学校のシンボルなのでしょうか?学生たちがこの木の前で写真を撮っていました…。

    学校のシンボルなのでしょうか?学生たちがこの木の前で写真を撮っていました…。

  • 田原公園にやってきました。ここには海軍航空隊巌(いわを)部隊の本部陣地壕跡(カテーラムイ・寿山)があります。

    田原公園にやってきました。ここには海軍航空隊巌(いわを)部隊の本部陣地壕跡(カテーラムイ・寿山)があります。

  • 日本軍はこの地を寿山と称したそうです。

    日本軍はこの地を寿山と称したそうです。

  • 小禄飛行場(現那覇空港)防衛のため小禄(おろく)・豊見城(とみぐすく)一帯では海軍少将大田実(おおたみのる)司令官の指揮下に連合陸戦部隊(沖縄根拠地隊)が編成されて多くの陣地壕が掘られた。<br /><br />その一つが本壕であり昭和19(1944)年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mありその中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられていた。<br />

    小禄飛行場(現那覇空港)防衛のため小禄(おろく)・豊見城(とみぐすく)一帯では海軍少将大田実(おおたみのる)司令官の指揮下に連合陸戦部隊(沖縄根拠地隊)が編成されて多くの陣地壕が掘られた。

    その一つが本壕であり昭和19(1944)年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mありその中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられていた。

  • 昭和20(1945)年6月4日米軍は飛行場のある字鏡水(あざかがみず)に上陸して、戦闘が始まった。6月7日米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいたが、南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、沖縄戦終結後の8月段階で約50人が壕内に留まっていたといわれている。

    昭和20(1945)年6月4日米軍は飛行場のある字鏡水(あざかがみず)に上陸して、戦闘が始まった。6月7日米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいたが、南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、沖縄戦終結後の8月段階で約50人が壕内に留まっていたといわれている。

  • ここも訪れたかった場所のひとつ、城岳公園の二中健児之塔へやって来ました。

    ここも訪れたかった場所のひとつ、城岳公園の二中健児之塔へやって来ました。

  • 二中健児之塔、正面。

    二中健児之塔、正面。

  • 二中健児之塔、右側面。

    二中健児之塔、右側面。

  • 二中健児之塔。<br />建立の詞<br /> 一九四五年第二次世界大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄縣立第二中学校職員生徒は軍命により、或は鉄血勤皇隊として、北部の防衛に當り、或は通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、其他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。<br /> 茲に、母校及び其後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此のゆかりの聖地を卜し沖縄縣立二中健児の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。<br /><br />一九五七年十二月二十九日<br />(平成2(1990)年11月22日移設)<br />二中健児之塔建設期成会<br />会長 山域篤男

    二中健児之塔。
    建立の詞
     一九四五年第二次世界大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄縣立第二中学校職員生徒は軍命により、或は鉄血勤皇隊として、北部の防衛に當り、或は通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、其他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。
     茲に、母校及び其後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此のゆかりの聖地を卜し沖縄縣立二中健児の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。

    一九五七年十二月二十九日
    (平成2(1990)年11月22日移設)
    二中健児之塔建設期成会
    会長 山域篤男

  • 碑の後方には沖縄縣立第二中学校学徒他の戦没者の法名が刻まれていました。

    碑の後方には沖縄縣立第二中学校学徒他の戦没者の法名が刻まれていました。

  • 明日は慰霊祭が行われるようで、テントが張られていました。

    明日は慰霊祭が行われるようで、テントが張られていました。

  • 日没時間切れということで夕食を摂るために吉野家58号線天久店にやって来ました。

    日没時間切れということで夕食を摂るために吉野家58号線天久店にやって来ました。

  • 店舗限定メニューの〝タコライス(トマトソース)トク盛〟+味噌汁をオーダーしました♪

    店舗限定メニューの〝タコライス(トマトソース)トク盛〟+味噌汁をオーダーしました♪

  • 今宵の宿は5回目となる南城市奥武島のゲストハウスりゅうかくです。おや?借景が整っているようですね♪

    今宵の宿は5回目となる南城市奥武島のゲストハウスりゅうかくです。おや?借景が整っているようですね♪

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 共用スペースの配置が逆になっていました。おじいの三線は同じですが(笑)。

    共用スペースの配置が逆になっていました。おじいの三線は同じですが(笑)。

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 去年はこちらに冷蔵庫等がありました。

    去年はこちらに冷蔵庫等がありました。

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 今宵はシングルルームの201号室を使わせて頂きます♪

    今宵はシングルルームの201号室を使わせて頂きます♪

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • エアコンと洗面所。

    エアコンと洗面所。

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • おトイレと…。

    おトイレと…。

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • シャワールーム♪

    シャワールーム♪

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • おっと~枕元に照明がつけられていました(驚)!

    おっと~枕元に照明がつけられていました(驚)!

    ゲストハウスりゅうかく 宿・ホテル

    借景が変わっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
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