2018/04/01 - 2018/04/01
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滝山氏照さん
小倉城(おぐらじょう、埼玉県比企郡ときがわ町大字田黒)跡は秩父山系の舌状型丘陵が平野部に落ち込む東端に築かれた梯郭式の山城です。
地勢的には尾根伝いに配された青山城が幹線道路である鎌倉街道上道を見下ろす位置に恵まれていたのに対し、当該城は丘陵東端部に築城され、従い凸状に大きく蛇行する槻川の運用という水上交通に利便性があったようです。
周辺には「割谷板碑石材採掘遺跡」に代表されるよう板碑の石材となる緑泥片岩(りょくでいへんがん)の産地が控えており、槻川から都幾川を経て古荒川水系に繋がる水運活用が小倉城の支配に大きく寄与したと思われます。
築城時期及び築城者については確たる裏付けはありませんが、15世紀後半から16世紀初頭において鉢形城(埼玉県寄居町)を本拠とした山内上杉氏と河越城(埼玉県川越市)を本拠とした扇谷上杉氏との内部戦乱(長享の乱)において両上杉氏の勢力が拮抗する比企郡では多数の城砦が築城されました。
上述の勢力の境目において須賀谷原(すがやはら、現在の埼玉県嵐山町付近)や高見原(たかみはら、埼玉県小川町付近)における両上杉氏の軍事衝突が発生し当該城もこの頃に築城に至ったのではないかと推察されるところです。
また築城者についても築城当時の裏付けがないので特定が困難ですが、両上杉氏が武蔵中部で火花を散らしている間に新興勢力として相模国を手中に収めた小田原北条氏が頭角を現して武蔵国を北進し、両上杉氏とこれらを支援する古河公方晴氏の旧勢力が没落に至った経緯を見れば最終的に小田原北条氏に臣従した在地領主とも考えられます。
その候補としては松山城を本拠とし比企郡に勢力を有していた上田氏の名前が挙げられますが、他方小倉城南東部山麓にある大福寺(だいふくじ)と称する天台宗寺院があり、かつては小倉城主の居館跡とも想定され当該寺院には小田原北条氏の重臣である遠山光景(とおやま・みつかげ)室の位牌が安置されていることから遠山氏が築城に関係している可能性があります。
壇状になっている主郭のうち、小倉城趾石碑のすぐ下段に配された縄張図を付した説明板には下記の通り説明がなされています。
「 小 倉 城 跡
小倉城跡は、外秩父と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川の先端に構えられている。城跡は槻川-都幾川-古荒川水系を基本に、陸路は鎌倉街道上道と山根筋(八王子-鉢形を結び上州へ抜けるル-ト)の中間に当たり、中世の幹線ル-トを意識した位置どりをとっている。
縄張り構造の大きな特徴は、自然地形を巧みに取り込むことにより、同心円的に画された総構空間の中心に、居館と目される山麓の大福寺平場と、その背後に展開する梯郭式の要害部分が構成されることである。
要害部分は、南北方向に走る主尾根に沿って、郭1と郭2を並列に配置し、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設ける。郭5は、井戸沢と呼ばれる谷に面している。
郭1は、尾根の最高所に位置し、すべての導線がこの郭に収倣すること、土塁の規模が大きく、虎口の構造も厳重であることから、主郭(本郭)として位置づけられる。この他、横堀とセットになったクランク状の塁線の折れ、それに組み合わされた竪堀等の技術的に優れた普請が行われている。
城跡の北東へ1.5Kmの嵐山町平沢寺には、長享4年(1488)の須賀谷原の合戦の折に山内上杉方の陣所がおかれている。江戸時代の諸記録では、「新編武蔵風土記稿」に、後北条氏重臣遠山氏、「武蔵誌」では、比企戦国史に重要な位置を占めた上田氏を城主としているが、最新の発掘調査による城跡の年代推定は、16紀前半~後半と判明している。
この城の最大の特徴は、基盤層に結晶片岩の岩盤を持つことに由来する、大規模な石垣普請にある。本郭土塁内裾や虎口部、郭3外面を中心に随所に見られ、総延長150m以上、最大高5mにおよび累々と積まれた様は圧巻であり、「石造りの山城」と呼ぶべき景観である。
この城は、石垣、縄張りの点で優れた遺構を今日に伝えており、東国の戦国い中小規模山城を代表する史跡である。また、木の繁茂した現在でも青山城や菅谷城跡を目視できる位置関係にあり、山稜と河川の織りなす景観は、比企地方の代表的な中世的景観を今なお色濃く残している。 」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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仙元大日神・石碑
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仙元大日神・石碑
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尾根通路
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「小倉城跡入口」石標
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大堀切
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土橋
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堀切(左側)
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堀切(右側)
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土塁
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土塁
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土塁
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虎口
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南虎口・案内板
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南虎口
近年行われた発掘調査によって石塁は埋められている状況下にあります。 -
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虎口
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イチオシ
主郭
主郭は1mほど段差となっており、上段は石積みされその上には小倉城趾石碑と説明石碑が建てられています。 -
「史蹟小倉城趾」石標
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小倉城跡石碑
石碑には下記の通り刻されています。
「 埼玉県指定史跡
小倉城跡
比企郡玉川村大字田黒字江戸田城山
昭和11年5月31日付け指定
この城は標高140メ-トルの山上にある典型的な山城である。城下は槻川の曲流により画され東北西の三方は断崖をなし要害な位置を占めている。
城の形状は細長く南北約360メ-トル、東西110メ-トルある。
本丸を中心に八つの出曲輪をつくり各曲輪の累壁は5~6メ-トルをなし本丸と二の丸には高さ1~2メ-トルの土塁をめぐらしている。また基盤を堀削した空堀も残存している。
築城年代は不詳であるが、おそらく鎌倉街道の押えとしての役割ももっていたと考えられる。
元亀天正のころ(戦国時代)北条氏の武将遠山右衛門大夫光影の居城となったが天正18年(1590)豊臣氏の小田原攻めのとき、松山城などとともに落城したものといわれる。
昭和49年10月
埼玉県教育委員会
玉川村教育委員会 」 -
小倉城跡説明板
縄張図と共に説明が記されています。 -
小倉城縄張図
北東から南西に走る主郭・二郭・四郭を主体とする城郭と主郭から南東に分かれる三郭から構成されています。 -
周辺地図
地図を一覧すると偶然にも西から東にかけて一直線に腰越城・青山城・小倉城・菅谷館が並んでいます。 -
主郭石積み
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主郭跡
標高137m地点に主郭を配し、梯郭式に東南・南西・北東の三方向に郭を配する城郭形態で居館跡の大福寺とは70mほどとなります。 -
主郭跡広場
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東虎口
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大福寺方向
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主郭北虎口方向
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主郭北虎口方向
東側には南北に土塁が走っています。 -
北虎口
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主郭北虎口
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主郭北虎口
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主郭北虎口
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枡形虎口
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升形虎口
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小倉城跡(遠景)
小川町下里から城跡方向を捉えます。 -
阿弥陀図像板石塔婆
槻川を渡る坂田橋に向かう途中に石塔婆が立っています。 -
阿弥陀図像板石塔婆(近景)
通りに石塔婆が立っており、さすがに板碑の産地であると認識します。 -
「阿弥陀図像板石塔婆」説明板
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