2018/04/20 - 2018/04/20
294位(同エリア1109件中)
ベームさん
その1の続きです。
写真は巣鴨地蔵通り商店街。
-
その2、染井霊園と巣鴨地蔵通り商店街です。
-
豊島区のパンフレット。
-
染井霊園。
明治7年東京府の管理になった都内四大霊園(谷中、雑司ヶ谷、青山、染井)の一つ。
霊園事務所のある正門からでなく、巣鴨門から入りました。 -
右下が霊園事務所、地図左端が巣鴨門です。
他の霊園に比べて小さく、街区表示も分かりやすかったです。明治の政治家や軍人のこれ見よがしの大きな墓もありません。 -
事務所で霊園の地図を貰いました。
波多野精一。1877/明治10~1950/昭和25年、松本出。
西田幾多郎と並ぶ京都学派の哲学者。一高、東大卒。京都帝大教授。 -
南そめいよしの通り。
メインストリートです。真っすぐ行くと霊園事務所。 -
饗庭篁村(あえばこうそん)。1855~1922/大正11年、江戸下谷生まれ。
作家、演劇評論家、ジャーナリスト。
江戸の戯作者から明治の坪内逍遥、幸田露伴など新作家への過度期に橋渡しの役割をした。根岸派の重鎮。 -
高村家先祖代々の墓。
高村光雲、高村光太郎、高村智恵子、光太郎の弟で鋳金家豊周が眠っています。
高村光雲:1852~1934/昭和9年、江戸下谷生まれ。彫刻家。東京美術学校教授、帝室技芸員。上野公園の西郷隆盛像は光雲の作。 -
高村光太郎:1883/明治16~1956/昭和31年。詩人、彫刻家。光雲の長男として生まれる。
東京美術学校彫刻科卒。在学中から文学にも関心を持ち、与謝野鉄幹の新詩社同人になり「明星」に投稿する。明治39~42年の欧米留学後、詩、彫刻、絵画、評論、翻訳と多方面に活躍。太平洋戦争時、戦意高揚、戦争協力の詩を発表。戦後その反省の意味で花巻近郊太田村に7年間独居生活を営む。肺結核で死去、74歳。
詩集に道程、智恵子抄、典型など。 -
高村智恵子:1886/明治19~1938/昭和13年、福島県二本松の酒造家の長女として生まれる。本名長沼チエ。洋画家。
日本女子大在学中に絵画に惹かれ、卒業後当時珍しかった女性洋画家の道を進む。平塚雷鳥の青鞜社同人となり「青鞜」の表紙絵を描く。高村光太郎と知り合い大正3年結婚。父の死、実家の破産、制作の行き詰まりなど心労が重なり昭和6年綜合失調症発症、品川のゼームス坂病院入院。入院中千代紙を使った紙絵を創作。昭和13年夫光太郎の看病空しく死去。53歳だった。
見えにくいが右から5番目に光雲、左から4番目に光太郎、5番目に智恵子の戒名がある。 -
智恵子の描いた「青鞜」創刊号の表紙。明治44年。
光太郎が智恵子を詠った詩です。
「樹下の二人」
あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川 ・・・・
この大きな冬のはじめの野山の中に あなたと二人静かに燃えて手を組んでいる
よろこびを 下を見ているあの白い雲にかくすのは止しましょう・・・・
ここはあなたの生まれたふるさと・・・・
阿多多良羅山:安達太良山 -
智恵子の紙絵。くだものかご。
もう一つ、光太郎の詩「あどけない詩」。
智恵子は東京に空が無いという ほんとの空が見たいという 私は驚いて空を見る
・・・・
智恵子は遠くを見ながら言う 阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという あどけない空の話である -
高村智恵子
-
熊谷直彦。1829~1913/大正2年、京都出。
江戸末期から明治にかけての日本画家。山水景勝を得意とした。帝室技芸員。 -
雨中秋山図。明治45年。
-
下岡蓮杖。1823~1914/大正3年、伊豆下田生まれ。画家、写真家。
長崎の上野彦馬とともに我が国写真術の開祖。
最初画家を目指すが、あるときダゲレオタイプの写真を見て写真術を学ぶ決心をする。ハリスと共に通訳として来航したヒュースケンに学ぶなど幾多の艱難を経て写真術を習得、当時は、もし写真に撮られれば3年以内に寿命が亡くなると信じられていた時代で、写真術を学ぶのも命がけだった。1862年横浜野毛に横浜最初の写真館を開業。
号はもともと薫円(とうえん)と言ったが、長さ5尺8寸もある長大な蓮の根の形に彫刻された杖を愛用していたので蓮杖と云われるようになった。 -
梶田半古。1870/明治3~1917/大正6年、彫金師の長男として東京下谷生まれ。日本画家。
幼少から画才を発揮。浮世絵を学ぶ傍ら家計を助けるため団扇、扇子、工芸品の下絵などを描く。明治31年岡倉天心の日本美術院に参加。
新聞雑誌の挿絵とか絵葉書も手掛け、尾崎紅葉の金色夜叉、小杉天外の魔風恋風の挿絵は半古のもの。挿絵の地位向上に資した。
2度目の妻は尾崎紅葉の弟子北田薄氷(きただうすらい)。
墓碑は弟子小林古径の筆。 -
春宵怨図(しゅんしょうえん)。明治35年。
-
濱尾新(はまおあらた)。1849~1925/大正14年、但馬豊岡出。教育家、政治家。
慶應義塾、大学南校(のちの東大)に学びアメリカにも留学。2度の東大総長、文部大臣、枢密院議長歴任。赫々たる経歴だが、明治26、明治38年の東大総長時に学生、講師として東大に在籍してた夏目漱石は「あんなものが最高学府の長とは」とけなしている。漱石は肩書を振り回す役人、政治家が嫌いでした。東大構内に銅像があります。 -
伊藤道郎。
左伊藤家の墓。 -
真ん中に伊藤道郎の名があります。
1893/明治26~1961/昭和36年。東京出。舞踏家、演出家。
当初三浦環に声楽を学びオペラ歌手を目指すが、欧州留学時にダンサーに転身、長年欧米で活躍。昭和6年帰国後伊藤道郎舞踏研究所設立、多くの舞踏家を育てた。
伊藤熹朔、千田是也は弟。 -
大田黒元雄。1893/明治26~1979/昭和54年、東京出。日本の音楽評論家の草分け。
裕福な実業家の一人息子に生まれ稼ぐため汗を流す必要もなく、欧州に留学したり音楽会、劇場に通いつめたりと芸術的な自由人として生涯を過ごす。音楽関係の翻訳、作曲家の評伝執筆、音楽雑誌の刊行等西洋音楽の移入に功績があった。
戦後まもなく始まったNHKのラジオ番組「話の泉」にレギュラー出演し好評だった。 -
幣原喜重郎。1872/明治5~1951/昭和26年、大阪・門真出。
外交官、政治家。三高、東大卒。
大戦直後の昭和20年10月、辞職した東久邇内閣の後を受け内閣総理大臣。 -
幣原喜重郎。
-
伊勢津藩主藤堂家墓域。
附近に下屋敷があるだけあって染井霊園の中で一番大きな塋域でした。 -
岩崎家。
三菱の創始者岩崎家の墓。 -
川田小一郎。1836~1896/明治29年、高知出。
実業家、政治家。
土佐出身の岩崎弥太郎に見いだされ、岩崎と共に三菱財閥の基礎を作った。
第3代日銀総裁。 -
福田英子。1865/慶応元年~1927/昭和2年、岡山出。社会主義運動家。
婦人解放運動の先駆者。東洋のジャンヌ・ダルクといわれた。
若くから明治政府の強権政治に反対し板垣退助の自由民権運動に参加。のち幸徳秋水、堺利彦の平民社に入り社会主義運動を行う。足尾鉱毒事件では被災民救済に活躍。 -
中巖本善治、右若松賤子、左巖本真理。
-
巖本善治。1863~1942/昭和17年、豊岡出。女性教育家、評論家。
中村正直の私塾同人社、津田仙(津田梅子の父)の学農社を経てキリスト教精神に基づいた女子教育に尽力。廃娼運動も進める。
明治18年牧師木村熊二が開いた明治女学校に参加、のち校長。同年「女学雑誌」創刊、投稿者に星野天知、北村透谷、戸川秋骨、島崎藤村、平田禿木がいた。戸川秋骨、島崎藤村は一時明治女学校の教師を勤めている。
勝海舟と交流があり、海舟の死後「海舟余話」を刊行している。 -
若松賤子(わかまつしずこ)/巌本賤子。1864~1896/明治29年、会津若松生まれ。女性教育者、翻訳家。本名松川甲子(かし)。巌本善治の妻。
横浜のミス・キダーの英語塾(のちのフェリス女学院)に学び、卒業後同教師。
フェリスに講演に来た巌本と知り合い明治22年結婚、明治女学校の教師となる。
「女学雑誌」にバーネットの「小公子」を翻訳連載、森田思軒、坪内逍遥から絶賛を浴びる。
元々体が弱く、仕事と家事で結核を患い32歳で死去。 -
巖本真理。1926/昭和元年~1979/昭和54年。ヴァイオリニスト。
巌本善治、賤子の孫(長男と米国女性との間の娘)。
学歴は小学校中退で、家庭でヴァイオリンの英才教育を受ける。6歳から小野アンナにヴァイオリンを習う。11歳で日本音楽コンクール優勝、天才少女と云われた。昭和21年、20歳の時から5年間東京音楽学校(現東京芸大)教授。国内外で活躍、芸術選奨ほか数々の賞を受賞。昭和41年、巌本真理弦楽四重奏団結成。
癌で死亡、53歳。
墓碑の真理の上二人は両親。 -
岡倉天心。1863~1913/大正2年、福井藩士の子として横浜に生まれる。美術史家、美術評論家。
日本伝統美術の復興と革新を図り、日本近代美術の父と云われる。東大在学中講師のフェノロサの助手として美術品収集を手伝う。明治22年の東京美術学校(現東京芸大)設立に関与、23年同校長。横山大観、下村観山、菱田春草らを育てる。 -
明治31年、美校事件で東京美術学校を排斥され、大観、観山、橋本雅邦らと日本美術院設立。
明治37年、ボストン美術館東洋部長に招かれ、以後日米をまたにかけて活動する。大正2年9月慢性腎臓炎に尿毒症を併発、赤倉温泉の別荘で弟、子供たち、大観、観山らに看取られ死去。50歳。著書に「東洋の思想」、「日本の覚醒」、「茶の本」。
英語学者の岡倉由三郎は弟。 -
結城素明。1875/明治8~1957/昭和32年、東京本所生まれ。日本画家。
日本芸術院会員。
川端玉章門、東京美術学校卒。東京美術学校、東京女子師範学校教授。 -
浅春。昭和17年。
-
土方与志(ひじかたよし)。1898/明治31~1959/昭和34年、東京生まれ。新劇演出家。
土方久元伯爵の孫で伯爵位を相続しているがのち剥奪される。
子供のころから演劇に熱中、東大卒後小山内薫に師事協力し大正13年築地小劇場設立し、新劇運動の拠点とした。昭和4年劇団の内紛により築地小劇場劇団を脱退、新築地劇団結成。小林多喜二の「蟹工船」ほかプロレタリア作品を上演し官憲の圧迫を受けるようになる。 -
昭和9年、モスクワでの作家同盟大会に日本プロレタリア演劇同盟代表として参加、そのままソビエト、さらにパリに亡命、伯爵位を剥奪される。昭和16年帰国し治安維持法違反の理由で逮捕され終戦まで投獄される。
戦後日本共産党に入党。前進座などで演劇活動を続けた。 -
安岡正篤。
-
野村文夫。1836~1891/明治24年、広島で藩医の子に生まれる。明治初期のジャーナリスト、自由民権運動家。
大阪、緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。イギリスに密航しパリ万博を見たりしたが、慶応元年帰国、特にお咎めなく、明治新政府に仕官。退官後明治10年、絵入風刺新聞「団団(まるまる)珍聞」発刊、小林清親、ジョルジュ・ビゴーなどが絵を描いた。 -
放棄された墓か。
-
二葉亭四迷。本名長谷川辰之助。1864~1909/明治42年、尾張藩士の子に江戸市ヶ谷生まれ。小説家、翻訳家、ジャーナリスト。東京外国語学校露語科に学ぶ。
坪内逍遥と交流があり、明治20その勧めで書いた「浮雲」は山田美妙の「武蔵野」と共に言文一致小説の嚆矢と云われる。
しかし創作力に疑問を持ち20年近く執筆を絶つ。明治35年頃大陸に渡り、一時壮士的動きもした。 -
「あひびき」、「めぐりあい」、「片恋」などツルゲーネフ、ゴーリキー他ロシア文学の翻訳を行う傍ら官吏、東京外語大学ロシア語教授などをしていたが、明治37年東京朝日新聞に入社、「其面影」、「平凡」を紙上に発表。朝日では夏目漱石の先輩だった。ただし月給は漱石200円に対し二葉亭は100円と差がある。
明治41年朝日新聞特派員としてロシアに渡り肺炎を発症、死を予感し船で帰国途上ベンガル湾上で客死、シンガポールで荼毘に付された。明治42年。
墓碑の字は朝日新聞主筆だった池辺三山。夏目漱石、二葉亭四迷の朝日招聘には池辺の力があった。 -
ボランティア「染井花の会」が育てています。
-
山田文應翁碑。
-
信州出の僧侶、染井墓地の開設者。
明治4年、東京に墓地が少ないのを東京府民が困っていたのを見、建部家屋敷跡のこの地に共同墓地を開設。明治7年東京府が引き継ぎ染井霊園となった。 -
水原秋桜子。1892/明治25~1981/昭和56年、神田の産婦人科の家に生まれる。俳人、医学博士。
一高、東大医学部卒。昭和3年から16年まで今の昭和医大で産科の教授。宮内省侍医も務めた。
東大在学中から俳句に興味を持ち、高浜虚子の「ホトトギス」に投稿、のち虚子に師事しホトギス同人。山口誓子、高野素十らと同人の主要メンバーとなる。 -
水原家。
昭和6年頃から俳句の写生観をめぐり虚子と意見が対立、ついにホトトギスを飛び出し「馬酔木」に拠って新興俳句運動を展開、石田波郷、加藤楸邨らを育てる。
昭和30年医業を退き俳句に専念する。昭和41年日本芸術院会員。
医学に立派な業績を残しながら文人として名を成したのに木下杢太郎、斉藤茂吉がいます。 -
高田早苗。1860~1938/昭和13年、東京深川生まれ。教育家、政治家。衆議院議員、文部大臣、早稲田大学総長。
東大卒業後大隈重信の立憲改進党に加わり、大隈と共に東京専門学校設立に参加。明治23年の第1回衆議院選挙で全国最年少(30歳)で当選、以降連続6期務める。その後第2次大隈内閣の文部大臣。 -
高田早苗。
東京専門学校の実質の運営は大隈ではなく、高田早苗、市島健吉、坪内逍遥らであり、その中心が高田早苗だった。高田と坪内逍遥の交遊はずっと続く。
明治35年、東京専門学校が早稲田大学に変り初代学長。大正12年から昭和6年まで総長。
夫人は前島密の娘。 -
顕彰碑。
昭和14年11月、早稲田大学建立。 -
宮武外骨。1867/慶応3年~1955/昭和30年、香川県。ジャーナリスト、風俗史家。
反骨の奇人と云われた。骸骨は本名。
14歳で上京し進文学舎で漢学を学ぶ。幾つもの新聞雑誌を刊行し、政治権力を批判、同時に権力に迎合するジャーナリズムをも批判した。明治22年大日本帝国憲法発布に際しこれをパロディ化し不敬罪で投獄される。明治43年大阪で「滑稽新聞」発刊。昭和2年東大の明治新聞雑誌文庫主任。 -
若槻禮次郎。1866/慶應2~1949/昭和24年、松江藩の下級武士の子。官僚、政治家。
苦学しながら東大卒、大蔵省に入り栄進。大蔵大臣、内務大臣、憲政会総裁を経て2度にわたり内閣総理大臣。
太平洋戦争前後は和平・穏健派として活動。東条英機ら軍部と対立するが抑えることは出来なかった。 -
陸羯南(くがかつなん)。1857~1907/明治40年、弘前生まれ。ジャーナリスト、政治評論家。実は本名。三宅雪嶺、徳富蘇峰、山路愛山らと共に明治の新聞界の巨峰の一人。
上京しフランス語を学び官吏になる。新聞界に転身し、明治22年、33歳の時日本新聞発刊。極端な欧化主義を批判、反官僚、反藩閥の立場で時の政府を批判、度々発禁停止を受ける。
日本新聞文芸欄に正岡子規を登用、短歌、俳句欄を任せた。正岡子規は陸を生涯の恩人としている。
日本新聞は論説を主とした硬派の新聞で発行部数は多くなかったが、子規のほか人材は壮観です。長谷川如是閑、内藤湖南、志賀重昂、福本日南、池辺三山など。 -
淡島家。
-
淡島寒月。1859~1926/大正15年、江戸馬喰町生まれ。淡島椿岳の子。
文学者、古物収集家。古美術、考古学に造詣深い趣味人だった。井原西鶴を再評価し、幸田露伴、尾崎紅葉に影響を与えた。
著に「江戸か東京か」、「亡び行く江戸趣味」、「梵雲庵雑話」。 -
末広厳太郎(すえひろいずたろう)。1888/明治21~1951/昭和26年、大審院判事の子として山口に生まれる。
民法、労働法の権威。東大を銀時計組で卒業、のち東大教授、同法学部部長。
日本の水泳発展に尽力し、日本水泳連盟会長を務める。戦後中央労働委員会会長。 -
長田秀雄。1885/明治18~1949/昭和24年、東京出。詩人、劇作家。
北原白秋、木下杢太郎らと「明星」で詩人として屋上庭園創刊、のちパンの会でも「スバル」上で活躍。劇作家としても「大仏開眼」を発表、新劇に力を入れ築地小劇場の社長も務めた。長田幹彦は弟。
右の小さな墓が秀雄の墓です。 -
小さな可愛いお墓です。
-
桜の大木。
-
霊園内には100本ほどの桜の木があり桜の名所です。
-
染井霊園。
-
染井霊園。
-
奥宮健之(おくのみやけんし)。1857~1911/明治44年、土佐藩の陽明学者の子に生まれる。社会運動家。馬場弧蝶の兄馬場辰猪とともに土佐の二俊秀といわれた。
板垣退助の自由民権運動に共鳴し自由党に入党。人力車夫を糾合し「車会党」を結成するなど下層労働者の組織化に尽力。
幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという理由で大逆事件に連座、死刑となる。 -
阪本四方太(さかもとしほうだ、よもた)。1873/明治6~1917/大正6年、鳥取出。俳人。
仙台二高在学中に句作を始め、東大に進み句誌「ホトトギス」同人になる。正岡子規門下。夏目漱石の門にも出入りした。 -
右から2人目、阪本四方太の名が刻まれています。
-
山田美妙(やまだびみょう)。慶應4年(1868)~明治43年(1910)、神田に南部藩士の子に生まれる。小説家、評論家、新体詩人。二葉亭四迷とともに言文一致体の先駆者。
尾崎紅葉とは幼馴染で、東大予備門時代に尾崎紅葉、石橋思案らと硯友社設立。予備門中退後読売新聞に「武蔵野」を連載、最初の言文一致小説として脚光を浴び、硯友社同人の中で最も早く文壇にデビューした。 -
以降短編集「夏木立」刊行、雑誌「都の花」主宰など華々しい活躍をする。この活躍はかえって硯友社の仲間と疎遠になることになり、徳富蘇峰の「文学界」に参加。その「国民の友」に載せた「蝴蝶」の挿絵に渡辺省亭の裸女を載せ発禁処分を受ける。デビューが早かったぶん文才の枯渇も早く、題材を求めた不純な女性関係が暴かれ文壇から抹殺されていく。
晩年は「大辞典」、「日本大辞書」の編纂で生活していたが、友もなく42歳で貧困の中癌で亡くなる。
武太郎は本名。 -
「蝴蝶」挿絵。
-
笹川臨風。1870(明治3)~1949(昭和24)、神田に旧幕臣の子に生まれる。歴史家、評論家、俳人。三高、東大卒。
歴史書、美術評論、小説など幅広い著述活動を行う。東大在学中高山樗牛、姉崎嘲風らと「帝国文学」編集。 -
染井霊園を後にして巣鴨名所巣鴨地蔵通り商店街に向かいました。
-
巣鴨地蔵通り商店街。
旧中山道沿いに780mほど続く商店街。江戸時代、日本橋から出発して最初の休憩所として商業、信仰の場として栄えた。 -
日の丸の旗。今日は旗日でしたっけ。
毎月4の日には縁日が開かれ、200もの露店が店を並べるという。 -
なんとかの原宿と云われるだけあってお年寄り向けの衣料品の店が沢山あります。
-
値下げ、大感謝祭。安いのかそうでないのか。
-
金太郎飴には行列も。
-
金太郎飴。
-
勿論仏具の店も有ります。
-
商店街の中ほどにあるとげぬき地蔵の高岩寺。
-
高岩寺(こうがんじ)。
1596年頃の創設の曹洞宗の寺。
最初は神田明神下、のち上野を経て明治24年巣鴨に移転。 -
境内。
本尊はとげぬき地蔵と云われる延命地蔵。本物は拝観不可、像を描いたお札が貰えるそうです。 -
手水舎。
なぜとげぬき地蔵と云われるかと言うと、何でも昔大奥の女中が誤って針を飲み込んでしまった。どうにも医者の手に負えない。そこへある僧がこれを飲みなさい、と高岩寺のお札を飲ませた。すると女中は胃の中のものを吐きお札と共に飲み込んだ針が出てきた、ということです。 -
境内の露店。
カシャカシャ音がするのは鰹節を機械で削る音でした。 -
大きな香炉があり善男善女が香の煙を浴びています。
-
身体にがたが来つつある私なら体ごと香炉の中に入らないといけません。
-
本堂.
昭和32年再建。 -
洗い観音。
明暦の大火の時妻を亡くした檀家の人が聖観音菩薩像を寄進した。そのうちこれに水をかけ自分の体の悪い所を洗うと治る、という信仰が生まれたそうです。 -
今のは平成4年に新しいのに取り換えられています。昔は束子でこすっていたそうですが像に傷がつきやすいので今は白い布でこするそうです。
-
行列のできる賑わい。これも私がやると身体じゅうこすらないといけなく後ろの方に迷惑なので止めました。
結局香炉の煙を浴びず、観音様も洗わず、私は頭も体も悪いままです。 -
境内の高島易断。
-
1865年撮影の尊皇の志士46名の写真が張り出されています。
慶応元年上野彦馬撮影となっています。 -
合成写真ではないのでしょうか。上野彦馬、慶応元年撮影となっています。
森有礼、黒田清輝、西郷従道、西郷隆盛、大久保利通、横井小楠、坂本竜馬、高杉晋作、副島種臣・・・。 -
小松帯刀、伊藤博文、江藤新平、後藤象二郎、勝海舟、岩倉具視、大隈重信、桂小五郎、大村益次郎・・・。
これらの維新の大物たちが一堂に会したことなんてあったのでしょうか、いつ何処で何のためか知りたいものです。 -
高岩寺前。
とある食堂で昼にしました。食の進まない私にも少し物足りない量です。客層の中心がお年寄りなのでお年寄りメニューなのか。 -
七味唐辛子。
幾つかの原料を調合し袋に入れる手つきに見惚れて中辛を一袋買いました。600円。 -
とげぬき生活館相談所。なんでもよろしい、相談料無料です。
-
茶を売る店。
-
高岩寺信徒会館。
-
土湯のこけし。
-
せんべい屋、隣は八つ目うなぎの店です。
-
帽子、傘、杖。
-
袋物。
-
塩大福。年末でもないのにジャンボくじ。
-
外人観光客向け?。ジャパニーズ・ハンカチーフ。
-
ズボン屋がありました。
私でもパンツと聞くと下着を思います。 -
赤パンツ、赤インナー、赤Tシャツ、赤ソックス。
赤い下着をつけると体に良いそうです。でも赤い下着をつけたお年寄りを想像したくない。 -
まあここに来るとお年寄りの衣食すべて整います。寺もあることだし老人ホームでも出来たら老後は安心して住めますね。老後は巣鴨に棲もう。
-
巣鴨駅側の商店街の入口の案内所。
-
商店街の入り口に眞性寺(しんしょうじ)があります。
真言宗豊山派。 -
伝えによると740年頃聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたとされます。1615年中興。
-
ここには江戸六地蔵の一つがあります。
-
江戸六地蔵は江戸の六街道の出入り口に安置され、旅の安全を守ってくれた地蔵さんです。
六地蔵巡拝には順序があるようで、眞性寺は3番目だそうです。ただし建立は4番目。 -
境内。
-
本堂。
-
銅造地蔵菩薩坐像。
-
江戸六地蔵のうちここのは4番目に出来たそうです。1714年。
-
高さ2.68m、台座を含めると3.45m。
-
松尾芭蕉と杉山杉風(さんぷう)の句碑。
杉風は芭蕉の門人であるとともにその後援者だった。魚問屋で、深川の芭蕉庵は杉風が芭蕉に提供したもの。
なぜ二人の句碑がここにあるのかは分かりません。 -
白露も こほれぬ萩の うねりかな 芭蕉
萩植て ひとり見習ふ 山路かな 杉風 -
中山道(白山通り)と巣鴨地蔵通り商店街(旧中山道)。
-
白山通り、巣鴨地蔵通り商店街入口。
-
都営三田線巣鴨駅。
-
山手線脇の染井吉野の碑。
-
JR山手線巣鴨駅。
-
駒込駅からスタートして今日の終わりは巣鴨駅。3時過ぎ。上野で東京上野ラインに乗換え帰りました。
足首から先がジンジン痛みましたが、心配した脚の痙攣は起こりませんでした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
大塚・巣鴨・駒込(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
125