2018/01/15 - 2018/01/15
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ミズ旅撮る人さん
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2015年7月5日に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」として登録された長崎県の端島。
外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
2009年から一般の人の上陸が許可されるようになり、行ってみたいと思ってもなかなか縁のなかったこの島に、2018年1月、ついに上陸しました。
前編では、長崎港からクルーズ船に乗って出航し、端島に上陸。
3か所ある見学広場のうち、2か所を周ったところで終わりました。
今回は、最後の見学広場と、上陸しただけでは見られない西側の、海からの見学の様子を掲載します。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
第2見学広場から第3見学広場へと移動します。通路は岸壁に沿って続いています。
端島は、元々は大きな岩礁にすぎませんでした。
1810年に石炭が発見されましたが、炭鉱として採炭されるようになったのは明治20(1887)年です。第1竪坑が開坑されました。
明治23年に三菱が10万円で炭鉱を買収し、高島炭鉱の支坑となりました。
明治28年に第2竪坑、29年に第3竪坑と相次いで開坑。第4竪坑は大正14(1925)に完成しました。
明治30(1897)年に初めての埋め立てが行われました。今、歩いている場所はまだありません。
同年、第1竪坑で火災が起き、消火のために水没してしまい、止む無く廃坑となりました。
明治32・33・34・40年と埋め立て工事が行われ、島の大きさはどんどん大きくなっていきました。
最後の昭和6年の工事で、貯炭場の半分と端島小中学校のある部分が出来ました。
昭和10(1934)年、第3竪坑が老朽化のため、廃棄されました。 -
海底水道の取り入れ口だそうです。
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イチオシ
レンガの壁が廃墟に色どりを添える総合事務所の周りには、会社事務所・会議室などがあり、会社の中心部でした。
だからここに地下通路があるんでしょうね。
地下通路は、島内に入った波の排水溝の役割も担っていました。 -
端島は明治から昭和にかけて9回の大型台風による被害を被っています。
ここに見える岸壁の残骸は、明治30年の第1回拡張工事で作られた岸壁だったのだと思います。
その後、第2回拡張工事で南側の埋め立ては完了しているので、古い岸壁はここに残されたようです。 -
総合事務所と渡り廊下で繋がっていた会議室です。手前には鍛冶工場があった筈なんですが。
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仕上工場。ぽつんと建っていて周りにびっしり建っていた筈の建物は瓦礫の山です。
鉄筋コンクリート造の耐久性がわかりますね。 -
第3見学広場が見えて来ました。ここで気になることが。岸壁に釣り人が何人もいます。
端島は、ツアーでないと上陸できないのでは?釣り人であればいつでもどこでもOK?
見学通路と広場以外、立入禁止なのでは?岸壁ならどこでもOK? -
割り切れないものを抱えつつ、第3見学広場に到着です。
右から、会議室・第2坑捲・30号棟・31号棟です。 -
ここからだと、貯水槽と灯台が良く見えます。
貯水槽からはパイプが伸びていて、共同水栓へと水を供給していたのでしょう。
昭和10(1935)年に製塩事業を廃止したので、真水の供給は給水船が担っていました。
昭和7年就航の「三島丸」と、16年就航の「第二三島丸」だけでは間に合わず、24年に「朝顔丸」が就航して1日当たり700tの水を運びました。これらの船を「水船」と呼びます。
昭和32年に島内すべての配管が完了して、海底水道から各家庭に水道が繋がるようになり、水船の役目は終了しました。 -
「第2坑捲」と呼ばれる建物の崩落した壁越しに、ひしゃげた鉄骨が見えます。
一番手前の壁に「Rockn Rool」という落書きがあります。
当時のものなのでしょうか? -
日本最古のコンクリート造として名高い30号棟です。大正5(1916)年建設。
大正時代に既にコンクリート建築があったなんて、驚きです。
当時の日本では、まだ実験段階で、いきなりこんなに大きなものを建ててしまったなんて、信じられません。
それが100年以上経った今でも、昭和生まれの他の団地同様に外観を保っているのだから、立派です。 -
鉄筋コンクリート造と言っても、結構壁にレンガが使われていたんですね。
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建物の中央は採光のため、約6m四方の吹き抜けがあって、その周りを階段と廊下が取り巻いていました。
しかし、台風などの時は、ここから各階に雨風が吹き込んで、難儀したそうです。 -
30号棟は、建設当初は4階建てでしたが、後に3階分増築されました。
間取りは6畳一間が基本で、そこにかまどの付いた台所が付いていました。
背中合わせの2軒分のかまどから1本の煙突が屋上に向けてのびていて、屋上には10本の煙突がありました。
建物は長方形で、長辺には6戸、短辺には3~4戸の部屋が並んでいました。 -
20数棟ある端島の高層住宅ですが、実際に目の前で見られるのは、この30号棟だけです。
その他は、立入禁止区域にあるので、海からしか見ることが出来ません。
老朽化・崩落の危険。言葉ではわかっていても、ちょっとくらいなら、入っても大丈夫なんじゃない?
そう思ってしまいがちですが、実際にこれを見れば、もう人が立ち入ることは無理だとわかります。
ちょっとした振動だけで床も柱も、いや全体が崩れ落ちないとも限りません。
同じ場所の写真でも、撮った時期によって姿が変わっています。
小中学校の7階は以前の写真ではちゃんとありましたが、今は崩落してしまっています。 -
30号棟の向こう側にちょっとだけ25号棟が見えます。
この25号棟とすぐ横にある26号棟との間には、各階に渡り廊下があり、水平移動することが出来ました。
この渡り廊下は、すべての高層住宅に設置され、住民は地上に降りることなく、島中を歩くことが出来たといいます。
高低差の激しい、エレベーターのない島での工夫です。
1棟ごとに別々に考えるのではなく、島全体を一つと考えたからこそ出来たことです。
100年も前に造られた町に、既に未来都市構想が伺えるのが、端島の興味深いところです。 -
25号棟からは、島中央部の岩礁を周り込む道が2本ありました。
1本は貯水槽のすぐ西側にあるクラブハウスに向かう少し高い所を通る道。
もう1本は、下に向かって端島銀座に至る道です。この道は、日給社宅を経て端島神社・地獄段へと続きます。 -
岸壁の向こうに31号棟が見えます。31号棟は少し「くの字型」に曲がっています。
端島の高層住宅の中で一番長い建物です。昭和32(1957)年築。6階建て51戸。
1階には郵便局や理髪店があり、地下には共同浴場もありました。
かつてあった木造アパートが台風によって全壊した跡地に建てられたのですが、木造アパートのそばを通っていたボタ運搬用のベルトコンベアーを建物の内部を貫通させるという驚きの設計が為されました。
コンベアーは、折れ曲がった向こう側の2階部分に開けられた穴から顔を出し、岸壁を乗り越えて海にボタを捨てていたそうです。見えないのが残念。 -
31号棟は塩害を受けやすい場所に建っているため、海に面した西側の窓は、他の社宅に比べて小さく作られています。
また、床上浸水を防ぐため、1階の床は1mほど高いそうです。 -
確かに、老朽化というよりは、風雨・波浪に痛めつけられた感じが強いです。
西側に立つ高層住宅は、波を避けるために岸壁とは直角に建てられていますが、51号棟とこの31号棟は直面して建てられています。
土地が狭いため、仕方がなかったんでしょうね。 -
東側は山が迫り、西側はこの小さな窓だけ。しかも格子のたくさん入った木製の窓。
部屋の中は暗かっただろうし、高波の時は怖かったのでは?
(ところがどっこい、端島生まれの人達は、すっかり台風慣れしていて、高波見物なんぞしていたそうな) -
仕上げ工場の建物と、30号棟、山の上には貯水槽と灯台。いい構図だなあと喜んでいて、失敗しました。
この背後に、プールの跡があったんです。小中学校の前にあったプールが台風で大破(!)して、代わりに学校からは随分と離れた南端に作られました。場所がなかったんでしょうね。
昭和33(1958)年完成。25mと幼児用プールがあったそうです。但し、海水を使っていたんだとか。
しょっぱいけれど、浮力が付くから泳ぎは上手くなったかも。
ついつい目の前の建物にばかり目が行って、振り返ることを忘れました。枠しか残っていなかったようですがね。
このプール、水を抜いている時は野球場としても使われていました。
狭い場所ですから1チーム3~4人。打球をプールの外に出すとアウトだったそうです。 -
ガイドさんは、写真を見せながら当時の生活について説明してくれました。
端島での暮らしは、良かったんだそうです。当時の最先端の生活が出来ました。
明治末期に既に蒸気機関から電気への交代が始まり、大正7(1918)年には完全に移行しました。
電話は郵便局に公衆電話があり、夜8時以降だと通話料金が安くなるので、人が集中したそうです。
社宅には島内で使える内線電話がありましたが、家庭用電話機はありませんでした。
水道代や共同浴場は無料。ガス代も無料でしたが、後に有料化。
昭和初期の三種の神器と言われた白物家電はすべて揃っており、テレビのアンテナが林立していた様子の写真を見せてくれました。
給料が高かったこともあって、贅沢な暮らしが出来ました。
毎月13日の給料日には、わざわざ商人たちが行商に来ていたそうです。
因みに、給料はもちろん現金支給で、30号棟の1階で受け取っていたそうです。 -
見学時間が終わろうとしています。未練たらたらで、通路を引き返します。
遠くに見えるのは、対岸の野母半島です。
あちらから海底を通して引いた水道管は6.5kmです。先に引かれた高島は5kmでした。送水目標は端島が1,350tで、高島は3,650t。
高島の方がかなり大きな島ですが、比べてみると規模が違います。
いつか本家・高島の方にも行ってみたくなりました。あちらには石炭資料館があります。 -
総合事務所の建物は、前面の壁だけが辛うじて残っています。
まるで抜け殻のようですが、よく見ると屋根の角が丸くなっていたことがわかります。
手前に立つレンガの壁もアーチが多用されてなかなかお洒落な外観だったと思われます。
かつての建物の模型などが置いてあるといいのにな。
クルーズ船の船内には当時の写真などの資料がたくさん掲示されていましたが、撮影禁止だし、急いで屋上に行かなければならないので、見ることが出来ません。
長崎港へ帰る時間を利用して見るのでしょうが、船内は満杯で窮屈でじっくり見る余裕はありませんでした。 -
13tクレーンです(ちょっと撮り損ないですが)。クレーンは4機あり、最大のものは北にある20tです。
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第1見学広場に戻って来ました。
ここからあの貯水槽まで直接登れる階段を作れば、貯水槽を展望台として、島全体を見渡すことが出来るのになあ。今の見学内容では、せっかく上陸したのに中途半端です。あまりに見られるものが少ないです。
クロアチアのドゥブロブニクみたいに、ぐるっと囲む岸壁の上を歩くとか出来れば、最高なのにな。 -
岸壁のトンネルを通ると、出口でなにやら撮影しています。何が見えるんだろう?
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トンネルを出た所からドルフィン桟橋と船を撮っていたようです。
私は、ちょっと行ってから撮ってみました。 -
ドルフィン桟橋から離岸します。この桟橋は3代目です。
最初に上陸用桟橋が作られたのは、大正11(1922)年です。
最初のドルフィン桟橋が作られたのは、昭和29(1954)年でしたが、31年の台風により破壊され、33年に2代目桟橋が作られました。
しかし、翌年の台風でまたもや大破。37年に作られたのが、現存するドルフィン桟橋です。 -
船から最初に見た65号棟を見ます。渡り廊下が良く見えます。
手前のレンガが見える建物は第4坑捲です。レンガが綺麗に残っています。建設されたのが遅かったのかもしれません。
いよいよお別れなんだなあ。ガイドさんが言っていました。年々風雨によって端島の姿は変わって行きます。
来年訪れたとしても、どこかが変わっている。端島は失われゆく物なのです。 -
私たちが離岸すると、すぐに別の船が着岸しました。
端島へのクルーズ船は4社が出していますが、釣り人の数からして、それ以外の船も来ているものと思われます。 -
さあ、端島周遊クルーズの始まりです。1周するのではなく、南側を回り込んで西側を見たら、元来たコースを戻って長崎港に向かいます。左側にしか座れなかった人への配慮でしょう。
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離れてみると、「山道」と呼ばれる岩山の中腹を南北に通る道がよくわかります。意外に起伏のある道だったんですね。
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イチオシ
この辺りが、軍艦に見えるのかな?
観光地として見栄えがするので「軍艦島」という名前が使われているけれど、島の人達は「端島」としか思っていなかったと思います。 -
島の南側に来ました。
端島は南北に約480m、東西に約160m、面積が6万5千㎡という小さな細長い島です。 -
今見えている低い部分は、大部分が明治32(1899)年に第2回拡張工事で埋め立てられた部分です。
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30号棟の隣の31号棟の全景が見えて来ました。両者の間に隠れているのが25号棟。
その左奥が13号棟で、山の上が3号棟。画面左端が51号棟です。 -
西側全体が見えて来ました。ここから先は、逆光になるので写真が撮りづらくなります。
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横に長い31号棟の、左端から2軒目の2階に大きな穴が開いているのがわかります。
ボタを捨てるためのベルトコンベアーが通っていた穴です。 -
右手前から、31号棟、小っちゃな公民館。その間に映画館があったのですが、1階部分しか残っておらず、岸壁に隠れて見えません。
映画館「昭和館」は昭和2年に建てられ、いつも満席で立ち見が続出しました。40年代になって映画が廃れると、閉館され、集会場などに使われました。
公民館では文化祭が催され、この界隈は、娯楽施設の集積地でした。
公民館の左に建つのが48号棟で、5階建て。地下にパチンコ店がありました。
その隣が8階建ての51号棟。この2棟の後ろに、16~20号棟の日給社宅があります。 -
端島神社。元々あった島の頂に建てられました。当初の社殿は立派なものでしたが、昭和10(1935)年に火災で焼失、翌年再建されました。拝殿は倒壊して、祠だけが残っています。
神社へは、16号棟と57号棟の間から伸びる地獄段と呼ばれる階段を上って行きました。 -
山の上の3号棟と、やや下にある13号棟です。13号棟は、端島では唯一の町営住宅でした。
ここに住んだのは、端島小中学校の教職員です。
端島小中学校は、最盛期(昭和37年)には1学年3~4クラス、総勢1,170人でした。教職員の数もそれなりに多かったことでしょう。
しかし、3年後には、690人と激減しました。これは、39年に起こった坑内深部でのガス爆発で、主要鉱区であった8~10片盤を水没させ、放棄せざるを得なかったため、大量に坑夫の人員削減が行われたからです。
坑夫の数は半減し、2,000人が離島しました。
失った採炭場所を求めて、島直下の鉱区から南西にある三ツ瀬に坑道を伸ばし、昭和40年から出炭を開始しました。
三ツ瀬までの坑道は深度340mのところに2,345m掘り進みました。よく、そこに石炭があるとわかったものですね。 -
右から59・60・61号棟です。3棟とも昭和28年に建てられた5階建・17戸の社宅です。
台風対策として海側に窓を設けず、1階の床を高く設定してあります。
3棟共通の地下空間に共同浴場と購買会があり、社宅とは別に地下への入り口があり、頑丈な防水扉が取り付けられていました。
この購買会は会社経営で、食品・衣料品・化粧品・生活雑貨など、品数が多く、価格も市価より安かったそうです。
島内の他の店は、端島銀座に生協があり、個人商店などもほとんど全種類が揃っていました。
また、島外から商品を売りに来る人が露店を開いており、活発な取引が行われました。
しかし、海が荒れると船が来なくなるので、生鮮品が不足し、買い溜めておいた缶詰で食いつなぐことになりました。 -
シルエットで浮かび上がる65号棟の渡り廊下。端島神社のある山の「五十段」と呼ばれる階段や「山道」と二か所で繋がっていました。
端島の高層住宅は、このように何か所かで繋がっていたり、全部の階に渡り廊下があったり、「大廊下」と呼ばれるもので繋がっていました。
16~20号棟の日給社宅は、1階が台風対策で半地下となっており、公共施設や食堂、娯楽施設、個人商店などがありました。
2階から上にはすべての階に「大廊下」と呼ばれる通路で各棟が繋がれていて、たいへん便利な構造になっていました。
また、土に慣れ親しもうと、「屋上庭園」が造られました。残念ながら、昭和39年のガス爆発事故による人員削減で、わずか3年で終わってしまいました。
今でも、日給社宅の屋上は緑で覆われています。 -
その日給社宅の「大廊下」が左端で、それに各階から渡り廊下で繋がっているのが51号棟です。
日給社宅は、「大廊下」が海側に面していて、それに直角に5棟が建っています。
なので、海から社宅は見えません。わずかに16号棟がちらっと見えるだけです。 -
右端にちらっと写っているのが5階建ての61号棟。縦縞がポイントでずんぐりした4階建てが66号棟(啓明寮)。
その左隣が67号棟(単身寮)です。背後の10階建てが人気のあった65号棟です。
59~67号棟が一列に並んでいますが、これらの高さは4~5階建てと低かったため、大波が護岸を越えて、社宅を飛び越え、65号棟の前に降り注ぎました。
そのため、「塩降町」という呼び名が付きました。 -
66号棟です。この建物は、護岸に対して直角に建っている2棟を、海側に設置された大廊下で繋いでいます。
「啓明寮」という名前で、「鉱員合宿」ということなので、独立した家庭が入居した訳ではないようです。
戸数も明記されず、ちょっと正体不明です。
この建物の外観を見ると、窓は出窓で、屋上の縁には小さなアーチが並んでいます。
昭和15年築の建物ですが、わずかに残っているレンガは構造体というより装飾だったのではないかと思われます。結構洒落たデザインだったんじゃないかな。 -
端島炭鉱では、日本が占領した朝鮮半島からの捕虜が大量に働いていました。
朝鮮人は500人弱で、30号棟と18~20号棟に、中国人は80人で南部にある仕上場の近くに住んでいたそうです。「下請社宅」と書かれるのが、それに該当するようです。
端島は彼らにとって「地獄島」だったようです。
20年間に事故死63人、逃亡失敗の溺死が4人いたということです。
端島が世界遺産になる時に、韓国が反対したのはこのためです。
でも、ユダヤ人を大量に虐殺したアウシュビッツは立派な世界遺産です。反対することに理はありません。
ただ、日本が行った強制労働については、明記しなければならないと思います。 -
65号棟の、正面が東棟、右側が南棟です。東棟の屋上には保育所(後に幼稚園)が設けられました。
北・東・南の3棟で囲んだ中庭には昭和42年に子供遊園地が作られました。ブランコをはじめとした各種遊具が備え付けられていました。 -
65号棟の北棟です。北棟の小中学校の側には将来エレベーターを設置するための場所が設けられていました。
写真でいうと左端です。結局は設置されず、住居に転用されたそうです。
端島では、体育館に設置された給食運搬用の物を運ぶのが、唯一のエレベーターでした。
小中学校では、3時間目が終わると牛乳が出て、弁当を食べる子と一旦家に帰る子に分かれました。
昭和45年に給食施設が出来たので、小・中学校ともに学校給食が始まりました。新しい校舎には、水洗トイレもありました。 -
右が67号棟、左に頭の先がちょこんと見えるのが端島病院の隔離病棟で、その後ろが端島病院です。
67号棟は、独身寮で、山側に設けられた階段がX型をしているのが特徴です。残念ながら、海からは見えません。 -
階段が目立つのなら、59・60・61号棟も目に付きます。
階段に沿って窓が設置されているので、斜めに窓が連なっているのです。
味気ないコンクリートの団地ですが、いろいろとデザインや構造が工夫されています。
昭和初期の団地というと、一様でつまらない外観がほとんどですが、端島は豊かさもあって、最先端だったのかもしれません。
それぞれ別々の建物でも、屋根付きの渡り廊下で繋がっていて、雨の日でも傘の必要がなかったといいます。
そうそう、端島での見学では雨傘・日傘ともに禁止です。雨合羽やフードのある服などで対応してください。 -
右側の巨大なのが65号棟の北棟、左隣が端島小中学校。手前が端島病院です。
隔離病棟は2階建てなので、屋上付近がちょっと見えるだけ。
端島病院は、端島小中学校が全焼した昭和32年の火事で類焼しました。
翌年、4階建ての新しい病院が建設されました。
また、隔離病棟も出来、結核や伝染病の患者を収容しました。 -
さあ、端島の先端まで来ました。向こう側に抜けてしまえば完全一周なのですが、それだと左舷に座った人が、全部後ろ向きになってしまいます。
ここから来た道を引き返します。 -
長崎港を出て、端島に上陸したところまでは元気だった乗客たちが、帰路につくとなんだかしんみり静かです。
別れを惜しんでいるのか、廃墟の山にノスタルジックな気分になったのか。
誰も何も言わずに、ただ眺めています。 -
屋上は、結構空いていました。見学も終わり、寒いので船室に行ってしまった人も多かったようです。
暖かい時期だと乗船率は高いのでしょうが、寒い時期はゆとりがあって、狙いどころかもしれません。 -
まだ、端島の西側ですが、急速に離れて行きます。
これから南端を回り込んで、北方の長崎港へ向かいます。 -
これだけじっくり見て来たら、もう1棟1棟見分けられるようになりました。
そうすると、なんだか愛着が湧いて来ます。すっかり頭の中に端島の地図が出来て、歩き回れるくらいです。
これらの団地群を見ていて思い出したガイドさんの言葉があります。「大事なのは炭鉱だから、団地は波除けのバリケードだったんだ。」
確かにそうなんでしょうが、冷たい現実がありました。 -
島に近かった時は逆光で苦労したけれど、このくらい離れると却って光線の具合がよくなります。
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南端です。左奥に高島が見えます。
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見慣れた風景に戻って来ました。
ほとんど瓦礫ばかりになっている炭鉱地区より、やはり林立する団地の方が思い入れが深くなりますね。
「山道」一周見学コースが出来るといいな。 -
イチオシ
波を蹴立てて、船は速度を上げて離れて行きます。ああ、お別れだね。
すべての人に見捨てられた島。さようなら。 -
まだ、端島は見えているのだけれど、誰もいなくなっちゃった。船室の資料を見に行く人もいるでしょう。
でも、資料なら長崎に帰ってからでも手に入るけど、端島はもう見られない。 -
端島の隣にある中ノ島炭鉱は、端島よりも早い明治17年に三菱社が買収し、操業を始めました。
しかし、湧水が多く明治26年には操業停止となった、短命の炭鉱でした。
中ノ島には、端島になかった施設がありました。火葬場と墓地です。
自宅か端島内の泉福寺で葬儀をし、遺体は伝馬船(てんません)に乗せて、中ノ島に運びました。
この時、遺族を乗せた「夕顔丸」が伝馬船を曳航しました。
「夕顔丸」は、昭和6(1931)年に就航した、長崎~高島~端島を結ぶ連絡船です。
この船は定期船として75年運行という日本最長記録を持っています(竣工したのは明治20年で、昭和39年に解体されました)。
また、中ノ島には昭和37(1962)年に緑地公園が整備されました。
端島の人々が、こぞって訪れたといいます。 -
太陽が水面を照らします。このクルーズは、9時に長崎港を出港し、11時半に戻って来ます。
午後は、13時出航、15時半帰港です。
午前の便だと端島の西側に回り込んだ時に、太陽が低い季節だと逆光になります。午後の方が無難かもしれません。
しかし、今回、お昼には急に雲が出て、信じられないことに雨が降りました。
天気はこちらの希望通りには行かないものなので、あまり深く考えても仕方がないのかもしれません。 -
上陸すると、船会社の「軍艦島グッズ」の販売が行われます。
べらぼうに高くはないので、結構買っちゃいました。
フェリーターミナルの売店にも、お菓子を中心としたグッズが売られていました。 -
「軍艦島上陸証明書」です。写真は変わるようです。
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近くの出島ワーフで食事をしていたら、午後の便が出航して行きました。屋上、満員ですね。
彼らは、この後雨に降られたと思います。午前の晴れっぷりからは信じられませんが・・・
「長崎は今日も雨だった」油断禁物ですね。傘は使えませんからご注意を。
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