2017/11/14 - 2017/11/16
36位(同エリア187件中)
naoさん
旅の行程
11月14日 塩竈、松島
11月15日 登米、富谷
11月16日 白石、村田
宮城県登米市登米町(とめしとよままち)は、一関街道(一関~石巻)と登米街道(築館~登米)が交差する交通の要衝に位置し、北上川水運の川湊でもあったことから、周辺地域一帯の政治や経済の中心地として重要視されていました。
余談ですが、市の名前は「とめ」と読んで、町の名前は「とよま」と読むので、最初は読み方に戸惑いました。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏が源頼朝との奥州合戦に敗れ滅亡すると、登米町を含む一帯は源頼朝に従軍し戦功のあった葛西氏が支配する事となり、寺池城を築き本拠とします。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により葛西氏が断絶すると、寺池城は秀吉家臣の木村氏が統治しますが、翌年起こった葛西大崎一揆の戦火にまみれ落城、一揆鎮圧後に米沢から国替えした伊達氏の所領となりました。
この城を重視した伊達政宗は、慶長9年(1604年)に重臣の白石宗直を1万5千石で入城させ、城の南側に武家町、北上川に沿って延びる一関街道沿いに商人町、城下町を挟んだ南側の丘陵に葛西氏や白石氏の菩提寺などを配した寺町で構成する、現在の登米町の原型となる町づくりを行い、以後、登米伊達氏と呼ばれるようになります。
明治時代に入ると、周辺地域一帯の政治や経済の中心地だった登米町には、登米県の中心地として県庁が置かれ、急速に西欧化への道をたどり、その後の行政改革で、一関県や水沢県などへの変遷を経て、最終的に宮城県に組み込まれ現在に至っています。
現在の登米町には、城下町時代を彷彿とさせる武家屋敷や町屋が軒を連ねる町並みや、旧水沢県庁庁舎、旧登米高等尋常小学校、旧登米警察署庁舎など、西欧化の名残とも言える洋風建築が残されていることから、「とよま明治村」と呼ばれています。
登米は仙台から距離があるうえ鉄道や高速バスで行くには時間を要することと、次の目的地である富谷への移動や日没時間などを考慮して、この日はレンタカーを借りることにしました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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登米にやってきました。
観光用駐車場に車を停めて、さっそく町歩きを始めます。 -
まず訪れたのは、明治21年(1888年)に建てられ、昭和48年(1973年)まで実際に使われていた旧登米高等尋常小学校の校舎を活用した「教育資料館」です。
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和瓦葺きの屋根に外壁を板張りで仕上げ、中庭をコの字型に囲んだ平面形状の木造2階建の校舎は、中央部に玄関と洋風のバルコニーを配し・・・
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両翼には外気に開放された片廊下を有する、美しい和洋折衷の建物です。
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校舎全体が木材の素地仕上げなのに対して、白いバルコニーが印象的です。
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これは現在のチャイムにあたる時鐘。
時間になれば用務員さんが鳴らしていたそうです。 -
雑巾洗いや足洗い場として子供たちが使っていた井戸。
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今にも倒れそうですが、支柱で支えられて何とか持ちこたえている柳の木。
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松尾芭蕉が登米に宿泊したことを記念して立てられた「奥の細道一宿の地」碑。
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コの字型の「教育資料館」の全景。
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「教育資料館」の後ろにある現在の登米小学校。
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土蔵でよく見かける土塗りの扉が、2階窓の横に付けられています。
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真っ赤に紅葉したドウダンツツジの向こうに見える洋館は「宮城芸術文化館」です。
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「宮城芸術文化館」は、明治29年(1896年)に建てられた建物を再生したもので、登米出身のマーブル・グラフィック制作者の三浦永年氏と、世界的な製本装幀界の巨匠ティニ・ミウラ女史ご夫妻の作品を中心に展示する私設美術館です。
ちなみに、ご夫妻が製本装幀とデザインを担当した巨大植物写真図鑑は、現在ワシントンDCにあるスミソニアン国立自然史博物館に所蔵されているそうです。 -
登米市の汚水桝の蓋。
古くから愛されている日本の紋様、「青海波」のような図案をモチーフにしています。 -
県道36号線にある、仙台と「とよま明治村」を結ぶ高速バスのバス停。
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こちらは登米市の雨水桝の蓋。
市の花「さくら」がモチーフになっています。 -
寺池城址にやってきました。
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現在は裁判所や「登米懐古館」の用地として使われており・・・
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これらの門以外に遺構はほとんど残っていません。
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では坂道を上って、寺池城址の一角にある「登米懐古館」へ向かいます。
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石垣にイチョウの落葉が寄り添っています。
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今は廃屋となっている町家。
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「登米懐古館」の収蔵庫とモミジの紅葉。
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陽の光に透かされたハナミズキの紅葉。
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こちらは、「蔵の資料館」になっている味噌・醤油・酒醸造元の酒蔵です。
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板塀を巡らせた町家は、主屋の小屋組みが見所ですね。
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こちらの門の屋根は、登米産では最古の玄昌石(天然スレート)で葺かれているそうです。
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登米の町並みです。
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この辺り一帯は・・・
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妻入りの町家が連なっています。
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こちらの町家の屋根は金属板葺になっていますが・・・
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かつては茅葺屋根だったであろうと想像されます。
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こちらは文久2年(1862年)に建てられた商家でで、上下に揚げ降ろしするしとみ戸が付けられています。
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重厚な土蔵造りの町家は呉服屋さんです。
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こちらは先ほどの「蔵の資料館」の一部です。
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こちらは、天保4年(1833年)創業の、宮城県で最古の歴史を誇る老舗の味噌・醤油・酒の醸造元です。
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「蔵の資料館」は、明治41年(1908年)まで酒を作っていたこちらの酒蔵を資料館として一般に公開しているものです。
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明治27年(1894年)に建てられ土蔵造りの薬局には、くすりにまつわる「アンティーク資料館」が併設されています。
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館内には、明治時代初期から現代にいたる大衆薬や度量衡器(はかり)などが展示されています。
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登米町の街灯のポール。
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こちらの土蔵造りの建物は味噌・醤油醸造元の工場です。
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2階の窓廻りに豊かな風情を感じます。
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登米の町並みの中には・・・
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昭和レトロな看板建築も残されています。
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大きな建物に挟まれながらも、決して見劣りしない趣のある町家です。
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こちらは明治時代に創業した味噌・醤油醸造元の老舗です。
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1階屋根の上にある看板の屋号は前身の社名で、昭和34年(1959年)に現在の社名になったそうです。
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かつてこの地区には、土蔵造りの長屋建ての町家が結構集まっていたようで、この町家もその名残の一つだそうです。
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この町家は、1階の腰壁に下見板張りを使っています。
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こちらは鰻料理屋さんです。
お昼時なので来客用駐車場が混みあっています。 -
またまた看板建築がありました。
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この辺りに集まっていたのは、土蔵造りの長屋建ての町家だけではないようです。
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ナマコ壁の目地の位置がちょっとズレるだけでこんなにも印象が変わるんですね・・・。
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こちらは、登米特産の玄昌石の、産出から製品に至るまでの過程を写真パネルなどで紹介する資料館で、「玄昌石の館」と呼ばれています。
ちなみに、この姿からイタリア南部アルベロベッロの伝統的な町家「トゥルッリ」が思い起こされます。 -
強度や耐久性に優れている登米産の玄昌石は、世界でも最高級の品質を誇っていて、東京駅などの屋根材に使われています。
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この木造の電話ボックスは、今も現役で活躍しているようです。
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こちらは、明治22年(1889年)に完成した旧登米警察署の庁舎で、現在、警察に関する資料を展示する「警察資料館」として一般に公開されています。
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旧登米警察署の敷地内にある井戸。
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旧登米警察署庁舎の火の見櫓。
かつて警察署が消防業務も管轄していた時代があり、各地の警察署に火の見櫓が建設されていたことが知られています。
この火の見櫓は大正15年(1926年)に建てられたものです。 -
この辺りには、かつて登米が城下町だったことを示す、のこぎりの歯のように道路に対して斜めに建物を配置した、「武者隠し」の遺構が残っています。
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斜めに建物を配置することでできたスペースに武者が隠れ、侵入してくる敵に奇襲攻撃を仕掛けるといった塩梅です。
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こちらは、先ほど見た屋号看板をあげていた味噌・醤油醸造元の工場です。
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工場と言ってもその辺にある代物とは大違いで、白漆喰塗籠めの外壁にナマコ壁を配した重厚な建物です。
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工場に続く事務所は、それほど重厚さはありませんが・・・
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風情ある町家然とした、味のある建物です。
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看板が見当たりませんが、こちらの建物や・・・
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この、見事なナマコ壁の建物も味噌・醤油醸造元の建物のようです。
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宮城県北部地方で食べられてきた油麩(仙台麩)を製造しているお店です。
登米では今も郷土の伝統食として受け継がれています。 -
「UNAGI」のポスターを張ったお店です。
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店先の赤い実が風情あるお店に彩りを添えています。
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土塀を巡らせた広大なお屋敷があります。
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これだけの土塀を巡らせるだけのことはあるお屋敷ですから・・・
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さすがに門構えも立派です。
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登米の町並みです。
少し先に旧登米警察署庁舎の火の見櫓が見えています。 -
こちらは、廻船問屋を営んでいた菅野屋の歴史と文化を今に伝える「町屋ミュージアム菅勘資料館」です。
館内には、舟道具や古い文書などが展示されています。 -
「町屋ミュージアム」のお隣にある立派な土蔵。
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妻壁一面がナマコ壁になっているこちらの建物は、製材所の工場だそうです。
では、この先にある脇道を歩きます。 -
きれいな樹形の欅です。
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板塀の内側に、目隠しの生垣が続いています。
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こちらが先ほどの「町屋ミュージアム菅勘資料館」の正面入口のようですね。
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「町屋ミュージアム菅勘資料館」の先に延びる町並みです。
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見越しの松のある町家。
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こちらは四脚門です。
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この門は東日本大震災で被災したそうなんですが、寄贈を受けた登米市が再生したそうです。
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登米の町並みです。
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茅葺屋根が素晴らしい、昔ながらのおだんご屋さん。
もちろん、東北の味「ずんだ」があるそうですよ。 -
武家屋敷としての重厚な風格をただよわせる熊谷邸の門。
この四脚門は、登米に現存する最古の四脚門だと言われています。 -
「春蘭亭」が見えてきました。
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「春蘭亭」は、慶長9年(1604年)に登米伊達藩初代藩主の伊達宗直が岩手県水沢城から登米に移るのに伴って来た鈴木家のお屋敷です。
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建築年代は定かではないようですが、今から200年以上前の、江戸時代中期から後期にかけての武家屋敷だと推定されています。
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平成元年まで住んでおられた元の持ち主の方が、合併前の登米町に寄贈され、現在は「春蘭亭」として運営されています。
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今が盛りのモミジの紅葉と茅葺屋根の主屋。
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このモミジの紅葉は目にも鮮やかです。
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モミジの紅葉と茅葺屋根の主屋を違ったアングルで・・・。
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玄関庇にもイチョウの落葉が舞い降りています。
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青空に映える茅葺屋根の棟飾り。
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玄関から見た亭内の様子。
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縁側の雨落を埋める黄色と紅色の落葉。
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縁側から見た亭内の様子。
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分厚い茅葺屋根。
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いつまでも見ていたい紅葉です。
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では、町並みへ戻ります。
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こちらは「春蘭亭」の隣にある武家屋敷、清野邸です。
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邸内の枝垂れ桜は見応えのあることで知られています。
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武家屋敷の町並みです。
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かつての水沢県庁舎を再生した、「水澤縣廳記念館」が見えてきました。
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明治新政府との戊辰戦争に敗れた仙台藩は、明治4年(1871年)に布告された廃藩置県により、明治9年(1876年)に現在の宮城県が成立するまでの間、何度も県の整理統合が行われました。
その過程で、現在の宮城県北部と岩手県南部を管轄する地域を「登米県」と称していた明治4年(1871年)に「登米県庁舎」が設置されることになり、翌明治5年(1872年)に「水沢県庁舎」として完成し、明治8年(1875年)まで使用されていたのがこの建物です。 -
入母屋屋根の破風に懸魚を備えた「水沢県庁舎」は、宮城県を代表する貴重な官庁建築と言われています。
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城下町時代を彷彿とさせる武家屋敷や町屋が軒を連ねる、風情豊かな町並みがあるかと思いきや、一方で、旧水沢県庁舎、旧登米高等尋常小学校、旧登米警察署庁舎など、西欧化の名残とも言える洋風建築が残されている登米は、見応えのある、とても印象的な町でした。
再訪したい町が、また一つ増えました。
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