2016/01/23 - 2016/01/23
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junemayさん
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2015年10月の成田⇔奄美大島便が国内LCC利用の第1弾となりましたが、実はその前に予約してたLCCフライトがありました。はっきりとした記憶はないのですが、多分2015年の8月頃、中国資本の春秋航空が成田→佐賀便を開設するに当たり、特別キャンペーンを開催していたのです。
成田⇔佐賀便 就航記念キャンペーンでワンコイン!
えっ! 九州まで500円で飛べちゃうの? それは行くっきゃないでしょう。ところがです。キャンペーンページに飛んで、フライトを検索してみても、500円なんていう破格値はどこにも見当たりません。一体どこにあるんだろう??? と検索すること数分。
ありましたよ。ありました。5か月も先の行き2016年1月20日、帰り2016年1月27日。たった1便ずつの500円の設定が見つかりました。他のフライトは全て6000円以上なのに、この日のフライトだけ1ケタ確かに少なかった。キラキラッ☆!
考えることなくクリック。スケジュールも翌年の事なのですぐには入れられず。そのまま殆ど忘れかけていたのですが、新しい年のスケジュール帳を用意する頃になって、そう言えば、ポチッとやったわ と思い出し、寒い季節の九州横断の旅の計画を立て始めました。今回の旅は福岡と大分がメイン。予想外の雪で、楽しみにしていた国東半島には行けませんでしたが、のんびり緩い旅程で1週間、例によって知らない街をうろついて参りました。
1/20 東京→成田空港→佐賀空港→吉野ケ里遺跡→久留米
1/21 久留米→柳川→久留米
1/22 久留米→大分
1/23★ 大分→臼杵→大分
1/24 大分→別府→大分
1/25 大分→別府→大分
1/26 大分→日田→久留米
1/27 久留米→佐賀空港→成田空港→東京
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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翌日は小雪の舞う寒い朝でした。大分駅から8:40発臼杵駅行きの大分バスに乗って、臼杵石仏に向かいます。大分在住の友達と一緒に行く予定だったのですが、彼女の都合が悪くなり、一人で出発。
およそ1時間ほどで臼杵大仏到着です。途中の景色1枚も撮っていません。着いた途端に今度はマンホールの写真です。臼杵名物のカボスがたわわ・・・良い感じ! -
これは後刻臼杵中心部で見かけたマンホールです。
この船は何だろうと調べたら、1600年(慶長5年)4月19日に臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号だそうです。この名前昔学校で習った記憶がありますよ。この船の航海長がイギリス人の三浦按針(ウイリアム・アダムス)、水先案内人が後に八重洲の語源となったオランダ人ヤン・ヨーステンでした。
市内バージョンにもカボスが添えられていますね。私は徳島のスダチも好きですが、カボスの方がもっと好き。肉や魚料理には欠かせません。 -
こちらは市街地版のミニヴァージョンです。
今日は臼杵石仏と臼杵市内両方を見学したいと思い、色々と調べたのですが、例によって例の如く公共交通機関が大変不便。石仏と市街地は結構離れているし、途中にも見どころがあるし、どうしようと考えた挙句、ガイドさんの助けを借りることにしました。
臼杵のガイドさんは有料でしたが、臼杵石仏から市街地までの送迎付き。一緒に廻ってくださったガイドさんは年の頃40歳位かな? 知識豊富で有能な女性でした。地元愛に満ちていてガイドに打って付け。自分で選んだわけではないですが、これ以上の人選はなかったと思っています。丸1日、時間を延長してお付き合いいただき、有意義な1日を過ごすことが出来ました。 -
写真は唐突に始まっていますが、まずはイントロダクション。
臼杵石仏は凝灰岩の岩肌に刻まれた摩崖仏群で、九州で最初に指定された国宝です。石仏群は大きく分けると全部で4つ。ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、そして古園石仏と呼ばれています。その中で臼杵の顔となっているのが、古園石仏の大日如来像。
運悪く、私が訪れた時には、この「臼杵の顔」である古園石仏の保存修理工事期間に当たっていました(2015年12月1日~2016年3月31日)。なので、石仏前のバス停で降りてからガイドさんが案内していただいたのは、古園石仏以外の他の3つの石仏群です。工事のために観覧券が少し安くなっていましたが、これに関しては全然嬉しくないですね。また来なくっちゃならない・・・ -
早速見学に参りましょう。少し山を上っていきます。順路で最初に現れるのは、こちらのホキ石仏第二群です。ホキとは崖という意味の地名なんですって! こちらの石仏群、岩壁を掘りくぼめた2つの龕(がん)から成っています。
まずは第2龕から。
昨日見た大分市の石仏もこちら臼杵の石仏も、阿蘇山の火砕流堆積物である阿蘇溶結凝灰岩に彫られています。この石は柔らかくて彫りやすく、彫刻に適しているのですが、風化の進行も早い。岩盤全体の亀裂などもあって、原型を留めないものもたくさんあります。こちらの石仏は1982年(昭和58年)から4年間かけて大規模は補修工事が行われたそうです。
胴体の一部から首にかけて色が違うのは、崩落した部分なのかしら? ガイドさんの話が詳細に及んだことまでは覚えているのですが、肝心の内容ははて・・・??? -
第2龕には全部で11体の仏像が彫られていました。中央に阿弥陀如来。その左右に4体ずつの阿弥陀立像。9体の九品仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した様式です。そしてさらにその左右に立像がありました。
このお方が右端の不動明王立像。首の割れ目が痛々しいね。 -
阿弥陀如来坐像(左端に見えている)の右側の4体の阿弥陀立像。彩色された跡も残っていますね。
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やや小さめな阿弥陀如来坐像(高さ約1m)とその左側の4体。背面の岩そのものが欠けてしまっていますね。よくぞ粉々にならなかった。
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と思ったのもつかの間、左端の菩薩立像はどうやら跡形もなく消えてしまったようです。
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第2龕を左端から眺めた1枚です。
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続いて第1龕石仏を愛でます。本来自然の石に彫られたものですが、風化を少しでも食い止めるため、現在はご覧のような立派な屋根の下に安置されています。自然との闘いなのでやむを得ない措置だということは分かっているのですが、本来の摩崖仏とはかけ離れた存在になってしまっています。
第1龕の阿弥陀三尊です。 -
中央の阿弥陀如来坐像は身の丈278cm。仏像の寸法の基準に丈六(仏は身長が1丈6尺 =約 485cmあったと言われていて、このサイズを元に仏像が制作されてきた)がありますが、この数字は立像なので、座像となるとちょうどこの位の高さになるのでしょうか? 臼杵で最大の大きさの仏像だそうです。
こちらは平安中期の作とされています。
はて? 阿弥陀様の左胸に何か書かれているのを発見! -
もう少しズームしますよ! 顔から胸にかけて、彩色した跡が残っています。柔和でとっても良い表情をしていますね。
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今度は胸に注目。確かに文字が書かれていますよ。何かの銘でしょうか?
色々と調べてみたのですが、この文字について言及した資料がみつかりませんでした。まさか、悪戯ではありませんよね。 -
続いて、阿弥陀仏の左側脇侍、勢至菩薩立像です。伏し目で穏やかなお顔。衣のひだが美しい曲線を描いていて、比較的良好な保存状態を保っていました。
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右側脇侍の観音菩薩です。こちらの像も美しく彩色されていたことが見て取れますね。まあ素敵!
この完成度の高い阿弥陀三尊が見れて、一番の見どころである古園石仏なしでも十分ここにやってきた価値があったと早くも満足してしまいました。 -
イチオシ
こちらの観音菩薩、彩色された当時のお姿を見たかった・・・
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肝心の石仏が収容されているお堂を写していませんが、こちらは、ホキ石仏第二群があるお堂前の景色です。地面から10m位上ってきたようです。お堂前にはたくさんの供養塔が並べられていました。
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階段の左右にこんなに沢山!
摩崖仏を参拝に来た人々が置いて行ったものなのでしょうか? -
無造作に置かれていた仏足石?
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これは何でしょう? 井戸か湧水のようで、石の祠で覆われています。中には清らかな水がたまっていて・・・
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こんな石像が沈んでいました。ムムム、ミステリアスな雰囲気!
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のどかな田園風景を眺めながら、今度はホキ石仏第1群へと足を進めました。
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ホキ石仏第1群は4つの龕から成っています。
順番通りではありませんが、こちらがその中心となる第2龕で阿弥陀、釈迦、薬師の三如来坐像から成っています。三世仏と書かれた資料もありましたが、三世とは過去、現在、未来のことで、一般的には阿弥陀、釈迦、弥勒を配するそうです。こちらの龕は薬師なので、正確には三世仏とは呼べないのではないのかしら。
殆ど風化してしまっていますが、向かって左側にも立像が見えますね。 -
中央は派手な彩色が今もクリアに残る阿弥陀如来。身の丈181cmあります。衣の色は朱色かしら? 残念なのは、顔に亀裂が入っていること。後から石同士を貼り合わせのでしょうか。大きな目は墨で縁どりがされていました。
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阿弥陀如来に向かって左側です。こちらがお釈迦様だと思っていたのですが、実は薬師如来だそう。薬瓶を持っている手が見えません。
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薬師如来の更に左に立っている正体不明の像。千手観音のようにも見えますね。
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そしてこちらがお釈迦様。禅定の相です。伝釈迦如来座像と看板に書かれていましたが、この「伝」は伝え聞くところによると という意味でしょうか?
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もう一度三体一緒に。平安時代後期の作と言われています。
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お次は第1龕に参りましょう。何故かこの写真1枚しか写していません。阿弥陀、薬師、釈迦という三如来像であるのは第2龕と同じ。左右に菩薩立像を従えていますが、向かって左側の立像を捉えていませんでした。
ここでは左から薬師、釈迦、阿弥陀の順に並んでいます。阿弥陀様は釈迦の先生であり、全宇宙のあらゆる仏の師匠でもあるので、中央位置が相応しいように思いますが、どういう順番なんでしょう・・・ -
続いて第3龕です。こちらも左右に菩薩立像を配した如来三像ですが、こちらの中央は大日如来坐像。すべての生き物の根本となる仏様です。ヒンズー教の元となったバラモン教のブラフマンと同様な存在のように思えます。
向かって左側に阿弥陀如来、右側に釈迦如来像で、平安末期の作だそうです。第2龕の三如来像に比べると、やや稚拙な出来のように思いました。 -
左右の菩薩像ですが、向かって右側は大きく崩れていて、原形をとどめていません。こちらは左側に立つ勢至菩薩です。衣の一部かしら。深紅の色が良く残っていますね。
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第4龕の石像は、これまでの構成とは全く異なっています。中央が地蔵菩薩で、その周りを十王像が囲むように配置されています。お地蔵様は子供の守り神として造られた立像が多いので、座像はとても新鮮な印象を受けました。この石仏群は鎌倉時代の作だそうです。光背と後列の十王らの冠の色が大変鮮やかで、約800年前に描かれたものとは思えませんね。
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イチオシ
地蔵菩薩背後の光背には7つの円があって、この写真だと判別できませんが、てっぺんの円には梵字、他の6つには地蔵菩薩が描かれているようです。光背の彩色部分は唐草模様になっていて、中国の影響を強く感じました。
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地蔵菩薩は平安時代以降、地獄における責め苦から救ってくれる存在として信仰を集めるようになりました。また困難を身代わりで受けてくれたり、子供を護ってくれたり、一般庶民にとっても親しみやすい存在になっていったようです。
その地蔵菩薩が中宮寺の弥勒菩薩のような半跏像で彫られていることに興味津々。普段見かけるお地蔵様とはだいぶ違いますね。 -
地蔵菩薩の左側には4人だけ・・・?と一瞬思いましたが、5人目は左端の突き出した岩の中程に浮かんでいました! 一人だけ仲間外れっぽい位置ですねえ。
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二つの石仏群を見学後、更に階段を上ります。まっすぐ行くと3つ目の石仏群山王山石仏。右に上っていくと、石仏群の守護神のような鄙びた神社日吉神社に至ります。
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こちらが3つ目の山王山石仏が収められた建物です。直前に訪れたホキ石仏第1群を見下ろす位置にあります。3つ目にして初めて建物の写真を撮っていました。
なんとはなしに、写真を撮りたくない気持ちわかるでしょう。 -
山王山石仏は一つの龕のみで、阿弥陀如来、薬師如来を左右に配した釈迦如来の三尊を見ることが出来ます。
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真ん丸顔で、「童顔」と称されている中央の釈迦如来像です。他の石仏群とは異なり、地元の石工による制作と言われていて、評価もまちまちです。
親しみやすく、どこかで会っただれかに似ている、庶民的な顔つきの如来ですよね。こちらの石仏も身の丈は丈六に合わせた265cmでした。 -
階段の下から見上げると、左右の二尊が見えないので、上りきったところからもう1枚撮りましたよ。本当にふくよかなお顔の釈迦如来ですね。
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こちらが本尊に向かって左側の阿弥陀如来坐像。身の丈168cmです。阿弥陀様も優しそう。光背は傷んでいて判別がつきませんが、複雑な模様が彫られていたように思われます。
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そして、右側の伝薬師如来。同じく168cmで、こちらは若者・・・というより少年と呼ぶ方が相応しいような雰囲気が漂っています。体の部分はかなり傷んでいるけれど、顔はかろうじて風化を免れていて良かったぁ。
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通常であれば、ここから一旦山道を下りて、新たな階段を上り古園石仏に向かえるのですが、今日はここでお終い。最初古園石仏が見られないと聞いて大層がっかりしましたが、3か所見れただけでも十分満足できる内容でした。
石仏は場所も作品の一部。博物館に運ぶわけにはいきません。誰によって彫られたのか文書は何も残っていませんが、小さな谷を見下ろせる、石を刻むには最高のロケーションだということは来てみて初めて実感しました。はるばる臼杵まで足を運ばないとこの感覚は分かりません。
修復そして維持管理の苦労が絶えないでしょうが、何とかこれ以上の風化を食い止めて後世に伝えて行ってもらいたいものですね。 -
下まで降りて参りました。小さな川を渡ると、行く手に寺が見えました。満月寺(まんがつじ)です。臼杵石仏の制作時期や縁起に関しての文書は一切残っていないのですが、この寺が深く関わっているとされる伝説が残されているそうです。
早速行ってみましょう。 -
いつもの癖で後ろも振り返ります。石仏が70余体(そのうちの60余体が国宝に指定)みつかった崖は今や全て屋根で覆われています。残念だけれど、国宝を護るためには仕方がありませんね。
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さて、満月寺に近づいていくと、半分土に埋まった石の仁王像が出迎えてくれました。(@_@)!
なんで埋まっているの? と尋ねてみましたが、仁王様答えてくれませんでした。鎌倉末期から室町初期の作とされていますが、それから700年間余り・・・先ほど渡った小さな川の氾濫で徐々に土に埋もれて行ったのでしょうか? -
吽形のアップです。風化が進んでいて、鼻は欠け、口もへこんでいるのが分かる程度で、迫力は失せてしまっています。国指定の特別史跡だそうですが、屋根はありませんでした。このままじゃあ、どんどん埋まって、どんどん欠けて行っちゃいません?
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右側の阿形です。こちらも鼻欠け状態ですが、なんでも、仁王様の鼻を煎じて飲むとご利益があるという伝説があり、削られてしまったのだそう。風化に加え、人工的な破壊も加わったんだ。
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仁王様というよりは、ずばり、ウルトラマンでしょう! 仮面ライダーという説もあります。似てません? 腰を捻るポーズが中々セクシーです。
二体は摩崖仏と同様凝灰岩で制作されていて、木原石仏という名称で呼ばれています。元々はウルトラマンが2.4m。相棒が2.2mの長身ですが、ご覧の通り今は軽く見下ろしちゃえますよ。 -
寺の裏にある崖には別の石仏を見ることが出来ます。こちらも国の特別史跡に指定されている深田観音石仏です。
解説板によると、どうもここに彫られている三体は観音ではなく、仏像を携えて隋から来朝した蓮城法師と、彼の説法を聞き、臼杵石仏群を制作させた真名野長者夫妻とのこと。真名野長者夫妻とは炭焼小五郎と玉津姫のことで、大分では有名な伝説の主人公です。 -
真名野長者夫妻の娘般若姫は用明天皇と結婚しますが、臼杵でのお産の後京へと戻る途中に嵐に会って亡くなります。夫妻は大層哀しみ、娘の供養のために石仏を彫らせたという説があります。用明天皇が生きたのは西暦518年~587年とされていますが、実際に臼杵の石仏群が造られたのは平安から鎌倉にかけてなので、この話時代的には全く合いません。
まあ、伝説などというものはそんなもんでしょう。訳分からないのは、なぜこの石仏を深田観音と名付けたのかということ。深田は当地の地名です。どう見ても観音様には見えませんよね。 -
蓮城法師は鼻は欠けていますが、額の皴まで判別可能です。しかしながら・・・
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真名野長者夫妻はご覧の通りのっぺらぼう。室町時代の制作のようですが、風化が激しい。
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そしてこちらが満月寺本堂です。「国宝臼杵石仏守護寺」という札が見えていますが、思いのほか歴史は新しい。石仏が彫られた時代にはたくさんの寺がこの地にあり、まとめて満月寺と呼ばれていましたが、大友宗麟の時代に焼かれ、明治以降はお堂もなくなっていたようです。現在の寺は1950年(昭和25年)に再建されたもので、本尊はあちこちたらい回しにされていた釈迦如来像なのだそう。
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満月寺付近は田んぼの他に蓮池などがあり、サギが遊びに来ていました。これはゴイサギの仲間かしら?
少々ゆっくりしすぎちゃいましたが、以上で臼杵石仏の見学を終え、ガイドさんの車で今度は臼杵市街地へと向かいます。 -
町へと向かう車窓から撮った1枚。名前だけは知っていた、醤油メーカーのフンドーキンの工場傍を通過中。これまでフンドーキンって外来語であると思いこんでいましたが、「分銅」と「金」を合わせたものなんですって。なーるほど!
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臼杵の市街地にやって参りました。臼杵は大友家第21代の宗麟が一族のごたごた続きの府内(大分市)の館から逃れ、1556年(弘治2年)、臼杵湾に浮かぶ丹生島に城を築いたのが城下町の始まりとされています。関ケ原以後は、美濃から入封した稲葉氏が明治維新に至るまで治め、6万石の城下町として栄えました。
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臼杵市の中央商店街 八町大路です。この名前は、2003年(平成15年)4月に行われた商店街のリニューアルの際に、約1,000通の公募の中から選ばれたものだそうです。
ちょっと歩いてみましょうか。 -
和風の外観で派手派手しさがないスーパー「まるしょく屋」。
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教会のようなたたずまいの「サーラ・デ・うすき」交流ホール。イエズス会によって1580年(天正8年)に臼杵に置かれたキリシタン修練施設ノビシャド(ポルトガル語)を模して造られたそうです。
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これまた結構クラシックな車が出現しましたよ。何かと思ったら、臼杵で400年以上の歴史を持つカニ印醤油会社の宣伝カー? ボディは塗料がだいぶ剥げていますが、いまだに現役なのかしら?
フンドーキンの方が有名ですが、カニ印は九州一古い醤油屋さんと聞きました。 -
こんな看板見たら入らなくっちゃね。ガイドさんお勧めのランチメニューもあるんですって。
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カニ印醤油の店内にはカフェかぎやが併設されています。醤油、みそのお店なので味噌カレーにも目が行ったのですが、やはり頼むとしたら「まかない飯」でしょう。
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カフェかぎやの店内は木工製品や絵画が飾られていて、ギャラリーのよう。
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やって参りましたまかない飯。ご飯の上には、別府湾でとれたちりめんに海苔、そして自家製もろみがどっさり乗っけてあります。うーん、胡麻が香ばしい!
実にシンプルながら奥が深い味を楽しみました。味噌ソフトも試したかったけれど、何せこの日は気温0度近くの寒い日で、ストーブを焚いている店内でも決して暖かくなかったので、残念ながら見送り。 -
慶長5年創業と看板に書いてあります。慶長5年と言えば関ケ原の戦いの年、1600年です。今年(2018年)でなんと創業418年ですね。
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食事を終えて少々寂し気な八町大王路を再びブラブラ。鉛色の空から今にも雪が降りだしそうです。
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ぽつんと置かれたポルトガル風のタイルが貼られたモニュメント!
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「サーラ・デ・うすき」の裏手。飲食店などが集まった複合施設の中庭にありました。サーラSalaもポルトガル語で居間のことだし、キリシタン絡みでポルトガルの雰囲気を出そうという試みでしょうか。
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今度は鏝絵の描かれた土蔵発見! 絵は打ち出の小槌を持っているから大黒天かな?
大分は元々鏝絵が盛んで、宇佐市安心院(あじむ)町には左官職人が描いた見事な鏝絵が数多く残されています。今回安心院町も訪問したいと思っていたのですが、あまりにも交通の便が悪くて断念。 -
さあ、今度は賑やかな通りを外れて小高い丘の方に向かいますよ。今日はガイドさん主導で、私は付いていくだけの人!
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二王座(におざ)歴史の道ですって。かつての武家屋敷や近代の洋館、寺社などが立ち並んだ散策するにはもってこいの道です。ここは阿蘇山の火山灰が固まった凝灰岩で出来た丘で、あちこちに切通があるんですって。
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1913年(大正2年)開業の金田歯科。建物も看板も愛おしい・・・
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見事な石垣の上に更に漆喰の塀を回したお屋敷はどなたのお宅かな? と近づいていくと・・・
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そこは臨済宗妙心寺派のお寺でした。冨春山香林寺。1649年から50年(慶安2年から3年)創建と立て札にありましたから、400年近く歴史あるお寺です。江戸時代中期に造られた庭園があると言うので、寄っていくのかなと思ったら素通り。普段公開していないんですって。
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一旦戻って板壁が印象的な長屋に沿って歩きます。この建物、臼杵市の観光情報協会が入っている建物の裏側に当たります。
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観光協会の建物に続く「長屋門」は、こじゃれた茶房になっていました。
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美しい庭を眺めながらのお茶に惹かれましたが、この季節だと少々寂しいかもね。まだ食事したばかりだったので、お茶の時間はもう少し後で取ることにしました。
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長屋門に続いてあったのが臼杵藩主稲葉家所有だった土蔵です。現在はトイレを兼ねた休憩所として使われていました。
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中はこんな具合。臼杵の竹祭り「竹宵」のポスターが貼ってありました。竹宵は臼杵石仏の制作を依頼したとされている「真名野長者」夫妻伝説を再現したお祭りで、毎年11月初めの土日に行われます。夜、数万本の竹ぼんぼりの明かりが町をライトアップするそうですよ。一度見て見たいな。
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ここからは寺町に入ります。真新しく見える立派な山門を持つ寺は、仁王山善正寺です。1602年(慶長7年)創建とありますから、やはり関ケ原のすぐ後に建てられた、由緒あるお寺です。浄土真宗 本願寺派。
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目を惹いたのは、あらゆる隙間にずらっと並べられた鬼瓦の類。建て替え前の古い建物にあった瓦かしら? ずっとここにあるのかなあ・・・
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立派な龍の頭貫(かしらぬき)?も展示! されていましたよ。こんな雨ざらしの場所しかないのかしら? 立派な木の彫り物です。うろこがとてもリアル。
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長い間屋根の上でにらみを利かせて建物を護って参りやした。もう、ボロボロですわ。
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こちらは現役! 木鼻(きばな)の獅子と象さんです。
文殊菩薩が象に、普賢菩薩が獅子に、それぞれまたがっている彫刻を見たことがあるので、菩薩繋がりでしょうか? -
寺の対面には大正時代に建てられた洋館がありました。現在はYUMEYA KAI.という雑貨屋さんになっています。何が出てくるか分からない臼杵マジックで、新旧東西入り乱れています。
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続いてのお寺はこちらです。竹生山善法寺。浄土真宗大谷派。浄土真宗のお寺が2軒並んでいました。名前も似ていますね。
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開基廓玄上人は、なんと1334年(建武元年)に臼杵末広(現在の善法寺村)に善法寺を創建。1624年(寛永元年)に臼杵藩主稲葉一通の命により、現在地へと移ったそうです。九州最古の寺の一つでした!
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とはいえ、現在のお寺は瓦が真新しくてピッカピカ。お隣お善正寺ともども新築かと思いましたよ。
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善法寺山門からすぐのT字路から見た風景です。
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どちらに進んでも、しっとりした瓦屋根の町並みが続きます。道路石畳なので、余計に情緒を感じますね。どこも掃き清められていて、塵一つ落ちていません。
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所々に、こんな位置標のマンホールがありました。
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どちらに行こうか迷いましたが、そのまま真っ直ぐに緩やかな坂道を上っていきます。右側は次のお寺蓮乗寺。どこもかしこも新築のように白壁が美しい!
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このカーブ良いよねえ・・・
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現在はお休みどころとなっている旧真光寺の建物について説明するガイドさん。江戸時代の薬売りのようないで立ちで、寒くないの? と何度も尋ねましたが、「大丈夫」だそう。
この建物には後程お邪魔します。 -
左手には石垣の上に大きな長屋門のあるお宅が! 立派!
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旧真光寺の裏手にあった法音寺。こちらの本堂の木鼻は獅子と龍の組み合わせでした。
このお寺は藩主稲葉一通が、小倉城主細川忠興とその妻細川ガラシャの娘多羅との婚礼を行うに当たり、菩提寺として1602年に建立したのだそうですよ。臼杵ではこの年に建てられた建物が多いですね。 -
阿吽の阿の方の獅子と龍。獅子の赤い目玉は迫力ありますねえ・・・
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法音寺山門は臼杵城の鬼門除けのために祀られたという、毘沙門天、持国天の姿がありました。
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あまり迫力はないけれど、ブルーの鮮やかな色が綺麗に残っていますね。派手派手しくデビューした頃を見てみたかったな。
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山門から見た景色です。鉛色の空で、寒々しいでしょう。
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さて、先ほどの旧真光寺の一般開放されているお休みどころに向かいます。何せこの天気。お寺の中なので外と同様寒々しい。流石の私でもゆっくりくつろいでという気分にはなれませんでした。
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ほらっ! 窓が開いている。これではまるっきり外ですよね。
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でも、窓からはこんな景色が愛でられるんですよ。新緑の季節に来たかったなあ・・・
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反対方向も良い感じです。曲がりくねった坂には蛇坂という名前がついていました。
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お寺の中は広いです。こんな小さな階段を上ると・・・
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先ほど、ガイドさんが写っていた曲がり角にある風流な部屋に到着です。無料のお休みどころにのみ使われてるとしたら、実に勿体ないお話。
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お向かいさんは、階段の上に立派な長屋門。年取ったらこの家に住むの大変そうと余計な心配をしてしまいました。
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旧真光寺の入口です。料亭みたいでしょう?
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寒さにめげずに、もう少し二王座の道をお散歩。左の道しるべにここが切通しだと書いてありました。
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「市街が一望できます」という看板があったのですが、あいにくのお天気なのでそちらには行かずに、龍原寺方面に下っていきます。
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昭和初期に建てられた町屋が続きます。左端の住宅は旧三浦家住宅。中央の家は昔タバコ屋さんだった面影が残っていますね。
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人っ子一人通っていないのが寂しいなあ・・・古い、凹凸のある窓ガラスに映る歪んだ景色が懐かしい。
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レンズに水滴ついてしまいましたね。程なく三重塔のある浄土宗知恩院系の末寺 龍原寺に到着です。
三重塔がトレードマークになっているこのお寺も1600年、関ケ原の年の創建。古いですねえ。塔は臼杵生まれの名匠高橋団内作で、1848年(嘉永元年)から10年の歳月をかけ、完成させたものです。聖徳太子を祀っているそうですよ。早速中へ。 -
本堂にお参りしてから、三重塔に向かいます。
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塔で見つけたものは、軒を支えるこちらのユニークな邪鬼たちです。水滴がついていたり、中央がボケていたりするけれど、堪忍どすえ。
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顔は怖いけれど、ポーズがとてもユーモラス。イタリアでも教会の柱を支えるテラモンやカリアティードを沢山見たけれど、人が考えることはいずこも同じとにんまり。
そう、以前4トラベルの口コミで、法隆寺の五重塔を支えるけなげな邪鬼の姿を投稿したことがあったっけ・・・ -
この鬼はお腹の部分が白いですねえ。彩色されていたのかしら?
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イチオシ
最後は横着者の片腕ヴァージョン。こういう輩もイタリアにもいたわ!
でもよくよく見ると、片腕もげちゃったようにも見えますね。これらの邪鬼は高橋団内の弟子である宇野定治の作だと伝えられています。 -
龍原寺は意外と敷地が狭く、多くの墓が密集していました。境内に残る小高い凝灰岩の丘の上にもご覧の通り、古そうなお墓が林立していました。ちょっとびっくり!
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墓地に入らないと、三重塔の全景を拝むのが難しい・・・ごめんなさい。
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山門から外に出ると今度は龍原寺前のバス停に注目。平清水と書いて「ひらそうず」と読むんですって。地元の人でなければ絶対読めませんね。
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龍原寺と向かい合わせに建っていたのは大橋寺。境内には大友宗麟夫人奈多(なた)の墓があります。ここは元々島だったようで、同じく島に造られた臼杵城の出城としての役割を担っていたそうです。
この位置からだと島には見えないけれど、後で地図を見たら、寺のすぐ後ろは海というか、臼杵川の河口でした。 -
さあ、ここから再び町の中心に戻ります。こちらは途中にあった成道山見星禅寺。この寺がやっている精進料理がとても好評なのだそうですよ。
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畳屋町まで戻って参りましたよ。城下町ならお馴染みの、クランクになった道路上には凝灰岩の石板に「石敢當」の文字が刻まれていました。大きいですねえ。
解説板によると、
四百余年の昔から、魔除け、商いの神、福の神と尊び崇めて大事に守り継いできた、臼杵市の文化財にも指定されている大変貴重な塔
だそうです。高さ1.6m。今まで私が見た中では最大です。 -
再び八町大路です。
個人的に、全国の呉服屋さんを応援しています。美しい着物を眺めていると、晴れやかな気持ちになってきますね♪ -
お隣は「農民カフェ」ですって。東京の下北沢にもあるんだけれど、チェーン店かしら? 野菜が並べてある辺りは雰囲気似ています。
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2階では大根干しているし・・・
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ガイドさんのいで立ちが町の景色に溶け込んでいました。
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更にウロウロしながらたどり着いたのがこちらの蔵です。ポルトガル風アズレージョが描かれた「久屋の大蔵」。江戸時代末期に造り酒屋 久家酒造の貯蔵庫として建てられました。
壁にはポルトガル人アズレージョ作家ロジェリオ・リベイロの手による壁画が長く伸びています。
ここに壁画が描かれるに至った経緯については、いくら調べてもはっきりしませんでした。大友宗麟から始まるポルトガルとの交流のシンボルというだけですかねえ。 -
1枚ずつ撮ったのでしつこいですが、全部紹介しちゃいましょう。
「旅立ちの街」
ポルトガルの港町でしょうか? -
「大航海の夢」
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「出会い」
中央はローマ教皇の帽子のようにも見えますねえ。 -
「知識交換」様々な場所から集まった者達が、お互いの知識を披露しあっている場面のようです。
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「病人の看護」
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「日本史を執筆するフロイス」
ルイス・フロイスはイエスズ会の宣教師で、1563年(永禄6年)、31歳で日本の土を踏んでから、 1597年(慶長2年)65歳で長崎で亡くなるまで、日本での布教と16世紀「日本史」の執筆にその人生を捧げました。長崎における「日本二十六聖人の殉教」もフロイスが執筆したものにより、ヨーロッパでも知られるところとなりました。 -
「大友宗麟の洗礼」
??? これではまるっきり仏教徒じゃない? -
以下の2枚は、大友宗麟の左右に描かれた天使達です。向かって左側と
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右側の天使
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「修道院(臼杵教会ノビシャド)」
ノビシャドは修練院と訳されています。一つ前の旅行記 府内(大分市)のレリーフにもありましたね。鐘楼のある本格的な建物だったように見えます。 -
「天正少年遣欧使節」
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名。地図には彼らがたどった航路並びに陸路が記されています。ローマ教皇に拝謁に行った際は、やはりスペインから船で向かったんですね。 -
タイトルわからず。
拝謁に向かう遣欧使節かなあ・・・? -
「波乱万丈のナウ船」
ナウ船とは大航海時代を代表する船種の一つで、ポルトガル語ではナウ(Nau)と呼ばれました。コロンブスが乗った船サンタ・マリア号は最も有名なナウ船です。 -
これが最後の作品。臼杵の少年かしら? タイトルわからず。
右下を見ると、1999年、ポルトガルのシントラにてと書かれた作者の署名がありました。ロジェリオ・リベイロ氏自ら来日して制作したと聞きましたが、焼き上げたのはやはり母国だったのですね。 -
特別の行事の時にしか公開されない「キリストの聖誕」「洗礼」「昇天」という3枚のアズレージョは蔵の中にしまわれてあるそうですよ。いやあ、面白かった!
現在蔵はギャラリーとして使われていると書いてあったけれど、実際には利用されていない様子。無料で見せてくれるのはありがたいけれど、こんな大空間に何もないと寒々しく思えてしまいます。
良い活用方法はないものか? 首をひねることしきり。なお、前述のこの蔵のオーナー久屋酒造の一番人気は清酒 一の井手(いちのいで)だそうです。 -
久屋の大蔵を反対側の道に出ると、目の前が野上弥栄子文学記念館です。通りの先に見える純白の小手川酒造は彼女の実家。臼杵は醸造業がホント、盛んな町ですねえ。三代目角三郎の長女として1885年(明治8年)ここ臼杵で生まれた野上は、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めたのだそうですよ。
代表作の「秀吉と利休」しか読んでいないなあ・・・彼女の生まれ育った部屋等が残されているそうですが、今回は外側のみ拝見。 -
実家の小手川酒造も現役です。小手川酒造が酒の閑散期に造っていたのが味噌・醤油で、これが現在のフンドーキン醤油の前身なのだそうです。へぇー 知らんかった。
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で、こちらが小手川酒造の対面にあるフンドーキン醤油の「小手川商店」。正に醸造オンパレードの町です。
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何とはなしに、庶民的でいいなあ と思った新聞受け。ちゃんと本日の夕刊が入っておりました。現役です。
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この建物もしっとり、味わいある造り。国の登録有形文化財に指定されていました。
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小手川通りを振り返ります。
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小手川酒造の蔵もどれだけ大きいんだ!
漆喰壁が続きますが、臼杵には戦国末期、中国からやってきた陳元明という漆喰職人が住んでいて、彼が臼杵に高度な漆喰技術を伝えたのだそうです。この蔵の裏の唐人町には、元明が住んでいた屋敷跡も残っていました。 -
寒いし、歩き疲れたしで、休憩するのにもってこいの場所にやって参りましたよ。木造3階建ての堂々たる店構えの「啄木茶房 ふしみや」。
えっ? 啄木と臼杵にどんな関係があるの? と思われるでしょう。ここで元旅館だったこの建物を買って、味噌屋をしていた平山良太郎氏が女性を騙り啄木にファンレターを出したところ、啄木から恋文が届いたのだそうです。手紙とはがき合わせてなんと6通も! 良太郎氏も始末が悪い。良子と名乗って、京都祇園の舞子さんの写真を同封したようですよ。そりゃあ、啄木が恋に落ちるのも無理ないかも。
壁にその啄木からの恋文「発見!」を知らせる新聞が貼ってあったのですが、写真撮ってません。 -
それよりも温まりたくて、ぜんざいを注文。ああ! 生き返ったわ!!! ぜんざいと啄木に興味のある方は是非どうぞ。
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すっかり長くなってしまった臼杵放浪記。もう少しですから辛抱してくださいね。
時刻は午後4時。ぜんざいで体ホッカホカになったので、あと1時間だけうろつくことにしましょう。何せぜんざい作っていなかったの?っと聞きたいくらい待たされて、ふしみやで1時間近くおしゃべりしていたもんで・・・
ふしみやから更に北に向かい、二本目の道です。左を見ると八坂神社の鳥居が「おいでおいで」をしています。 -
目の前には立派な門構えのお屋敷がありましたよ。臼杵5万石を治めた稲葉家下屋敷という看板がかかっていました。ここまで来て、ガイドさんのにくい演出に気が付きました。臼杵の町に着いてもう4時間以上経っているので、まだお城の姿を見ていない。お城は最後に取って置くというわけですね。
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ふと見ると、下屋敷の左隣にも何やら立派なお屋敷が!
こちらは臼杵市荘田平五郎記念こども図書館。1918年(大正7年)、臼杵出身の実業家荘田平五郎が私財を投じて、地元に図書館を寄贈したのだそうです。2003年(平成15年)、内部は綺麗に改修され、こども図書館として生まれ変わりました。2階は畳敷きの図書室になっているんですって。
昔の政治家、実業家は私財を投げうったという輩が多かったですね。公共機関が機能していなかったという点は多々あったでしょうが、スケールの大きな人物が時代とともに激減したように思います。 -
さて、下屋敷に戻りましょう。大名屋敷は各地で見ているので、内部は遠慮すると言ったら、ガイドさん、庭園を案内してくれることになりました。1902年(明治35年)に建てられたものですが、江戸時代の武家屋敷の雰囲気をよく伝えているということで、国の登録有形文化財に指定されています。
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この屋敷は1902年(明治35年)、廃藩置県後に東京に居を移した稲葉家旧藩主のために建てられたお屋敷と案内板にありました。
一体どなたが建築費用を出したんでしょう? と尋ねたら、町の有志だという話でした。殿様にみっともない思いはさせられないという、かつての部下の思いやりでしょうか? でもご立派! -
上の写真の右手にある門をくぐると、中には茶房「下屋敷」がありましたよ。ここもぜんざいが美味しいそうですが、もう食べたもんね。
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お庭から、お屋敷の開口部を覗き見ます。
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広い縁側のある客間が続いていますよ。
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庭園です。池もアップダウンもないけれど、飛び石がずっと連なっていて、ここでしか見られない模様を形作っています。季節の木々もよく手入れされていて美しい。
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ほーら、この飛び石。なかなかユニークですよ。
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庭の真ん中にでーんと構えていたのは、稲葉家下屋敷の一番端の座敷です。この屋敷、川という字を渡り廊下で繋いだような形をしていて、どの部屋からも庭が眺められるようになっています。
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稲葉家の家紋「角切折敷に三の字」付きの瓦です。
地続きに、1859年(安政年)に建てられた上級武士の武家屋敷「旧平井家住宅」があったようですが、どうやらすっ飛ばしたようです。暗くなるまで、もうあまり時間がないので、下屋敷はこの位にして、最後の見学場所お城へと向かいました。 -
じゃーん! 臼杵に来て、初めてお目にかかる臼杵城です。初めて対面した時、なぜか違和感がありました。
何でしょう この黒っぽい岩肌は? 天然なのかもしれませんが、セメントで安易に固められた崖のようにも見える、今まで臼杵の町で見たこともないし、感じたこともない異質の空間がそこに広がっていたのでした。 -
ガイドさんの解説によれば、この城がある場所はかつて臼杵川河口にあった丹生島と呼ばれた岩山ばかりの島で、引き潮の際にのみ陸地とわずかに繋がる天然の要害だったとのこと。周りを埋め立ててしまい、現在は島とは思えませんが、今見える橋を取り除いてしまえば、岩山の要塞に早変わりすると聞いて納得。
天然ものだったんだぁ。
そう言えば、大分(府内)城も島に造られた城郭でしたね。 -
石垣ならぬ天然岩にいくつもの穴が掘られていました。いつ頃の事なのでしょうか? 防空壕にしては小さすぎるし、右側の物は石垣?でふさがれています。
1562年(永禄5年)、毛利氏との闘いに敗れた大元宗麟はここ丹生島に城を建て、府内の大友氏館から本拠地を移します。関ケ原の戦いの後、美濃の国から稲葉氏が入封。その後二代に渡り城を改修し、現在見るような姿になったそうです。1601年(慶長 6年)に建てられた天守閣は現存しません。 -
岩と石垣のコントラストが面白い。こんなお城初めてです。
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秘密の通路になっていたのかしら? 興味津々!
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城に入る橋を真横から撮った1枚です。
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石橋 風格ありますね。江戸時代には木橋だったと言いますから、それ以降に造られたもののようです。
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ようやく違和感が取れて来たので、入城することにしました。前方に見えるのは城門ではなくて、城内にある護国神社の鳥居だそうです。
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鳥居の傍にあった解説板に、丹生島の地図がありました。地図上でピンク色の部分が丹生島。大友宗麟の時代の陸地は色のついていない部分までで、その後島を含めた大規模な埋め立てが行われています。
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第一の鳥居の先から右に折れて、切通しを経て石垣伝いに進むと・・・
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畳櫓が見えてきます。これは現存する数少ない遺構の一つだそうです。
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階段を上ったところの高い石垣と
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眼下に広がる臼杵の町です。これぞ正に城下町! という雰囲気。 寒々とした冬の町です。
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ここは二の丸だったかな? 大友宗麟公のレリーフがありました。
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鉄砲を手に西洋風の椅子に座る宗麟公。十字架を首にぶら下げていますよ。背後にはインドから来た?クジャクがいますね。宗麟は、1586年(天正14年)の島津氏との闘いのために、ポルトガルから大砲(フランキ砲)を手に入れ、なんとか島津軍を追い払うのですが、臼杵の町は大きな被害を受け、宗麟も翌年に亡くなってしまいます。
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こちらが、ポルトガルから手に入れたフランキ砲(「国崩し」と呼ばれた)です。勿論レプリカですけれどね。原始的な大砲のようだけれど、大砲と鉄砲の導入がその後の歴史を変えたのは間違いありません。まさに国崩しだわ。
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城から見た南側の風景です。かつては海だったところにも家がビッシリ建ってしまいました。右手の寺の屋根が沢山見える辺りが、先ほど歩いた二王座の丘です。奥の山中に東九州自動車道が見えています。
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本丸の手前にあった空濠です。四角形で、石垣で囲まれていました。
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城の東側に位置する卯寅口門脇櫓。こちらも現存の二層櫓で、屋根が切妻なので、大変目立ちます。手前に続く赤い鳥居は、卯寅稲荷神社のものです。
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帰り道です。右手に見える石垣に注目。こんなにカーブを描いた石垣も珍しいのでは?
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イチオシ
下まで降りて、もう一度お城を見上げます。右側に見えるのが、畳櫓、中央奥は大門櫓。こちらは最近復元されたもののようです。門をくぐると二の丸になります。
いやあ、この風景独特!!! 忘れられない臼杵城となりました。 -
時刻は午後5時。そろそろ暗くなって参りました。今日1日お付き合頂いたガイドさんとはここでお別れです。本当に中身の濃い旅となりました。ありがとうございました。
NTT前にあったこちらのブロンズ像は「臼杵っ子と福呼ぶ一番魚」というタイトルが付けられていました。魚の頭を触ると、また臼杵に戻って来れるんですって。丁寧になでなでして参りましたよ。 -
イチオシ
臼杵城から歩いて15分余り。日豊本線の臼杵駅にやってきた私は、ここで今日会えなかった臼杵の古園石仏と対面することが出来ましたよ。
古園石仏の頭部は胴体と別れ、仏体下の台座の上に安置された状態で長く保存されてきましたが、1980年~94年にかけての大規模修復工事の際に、落ちていた頭部の復位が可能かどうかを検証するため、この仏像がレプリカとして作製されたのだそうです。
工事が終わり、無事に頭がオリジナルポジションに戻ったため、1996年(平成8年)にこのレプリカは臼杵駅前にお引越しして参りました。
こんな色をしているのかなあ・・・気になるところではありますが、またの機会にお目にかかりに参りましょう。福呼ぶ一番魚を撫でたから大丈夫! -
臼杵のややさびれたホームで列車を待っています。
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ホームの上にもご覧のようなレプリカの仏頭がありました。先ほどの駅前のものと色が全く違うんですが、どちらがオリジナルに近いのかしら?
1980年以前は首がもげた状態で、長らく親しまれてきたので、復元する時には賛否両論あったそうです。 -
今では、駅に来ないと、当時の面影を感じられないのかもしれないと思い、暫し像に見入ってしまいました。
端正なお顔の大日如来は、平安時代の作とされています。 -
さてさて、大分駅へと戻って参りましたが、明日は大変なことになりそうですよ。雪の予報なのですが、ナニコレ?!
赤×は運休って、殆どじゃない! まだ降ってもいないのに運休なんてひどい。気合いが足りない! と滅茶苦茶なことを口走ってしまいそう。
首都圏だけじゃなかったんですね。取りあえず日豊本線は少し動くけれど、豊肥本線と久大本線は絶望的です。 -
明日は別府に行く予定だから、まっいいかぁ・・・冬の気まぐれな天気の影響をもろ受けそうな予感ですが、どうなることやら。
お疲れ様でした。この続きは、LCC第二弾 久大本線に沿って九州横断の旅 その6 別府で!
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