2016/01/22 - 2016/01/22
102位(同エリア530件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,632アクセス
- フォロワー41人
2015年10月の成田⇔奄美大島便が国内LCC利用の第1弾となりましたが、実はその前に予約してたLCCフライトがありました。はっきりとした記憶はないのですが、多分2015年の8月頃、中国資本の春秋航空が成田→佐賀便を開設するに当たり、特別キャンペーンを開催していたのです。
成田⇔佐賀便 就航記念キャンペーンでワンコイン!
えっ! 九州まで500円で飛べちゃうの? それは行くっきゃないでしょう。ところがです。キャンペーンページに飛んで、フライトを検索してみても、500円なんていう破格値はどこにも見当たりません。一体どこにあるんだろう??? と検索すること数分。
ありましたよ。ありました。5か月も先の行き2016年1月20日、帰り2016年1月27日。たった1便ずつの500円の設定が見つかりました。他のフライトは全て6000円以上なのに、この日のフライトだけ1ケタ確かに少なかった。キラキラッ☆!
考えることなくクリック。スケジュールも翌年の事なのですぐには入れられず。そのまま殆ど忘れかけていたのですが、新しい年のスケジュール帳を用意する頃になって、そう言えば、ポチッとやったわ と思い出し、寒い季節の九州横断の旅の計画を立て始めました。今回の旅は福岡と大分がメイン。予想外の雪で、楽しみにしていた国東半島には行けませんでしたが、のんびり緩い旅程で1週間、例によって知らない街をうろついて参りました。
1/20 東京→成田空港→佐賀空港→吉野ケ里遺跡→久留米
1/21 久留米→柳川→久留米
1/22★ 久留米→大分
1/23 大分→臼杵→大分
1/24 大分→別府→大分
1/25 大分→別府→大分
1/26 大分→日田→久留米
1/27 久留米→佐賀空港→成田空港→東京
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
九州で3日目の朝を迎えました。今朝は私としては早起きしましたよ。手帳で確認すると6時起床。旅に出ると朝型に変身するんです。いつもならもちろん♪夢の中!♪
さて、タイトルにもなっている久大本線で九州を横断するゆふ1号に乗るため、西鉄久留米駅からJR久留米駅にバス移動です。 -
流石にJR九州の主要駅だけあって、行き先がバラエティに富んでいます。よそ者だから行き先を見ただけでワクワクしちゃいました。
まずはお隣のホームに門司港行きが到着。この列車福岡から小倉を経て門司まで行くんだぁ・・・ほほぅ・・・ -
と感慨にふけっていたら、今度は向かいのホームに熊本行きがやって参りましたよ。
熊本もすぐ隣の県なのねぇ・・・へぇー。地元の人には当たり前の景色でしょうが、よそ者にはこんな通勤型列車で行けちゃう事自体に感動を覚えちゃいます。 -
続いて私の乗る別府行きのゆふ1号が到着! 赤くて可愛い気動車です。
覚えていらっしゃいますか? 2017年7月に発生した九州北部豪雨。
同じエリアに長時間大雨が降り続いたことによる鉄橋流失で、久大本線は現在、光岡ー日田間が不通となっており、この特急列車は部分運休しています。
鉄道で久留米から大分に向かうには福岡、小倉経由でぐるっと大回りしなければならないようです。最新のニュースでは2018年夏の復旧と書かれていました。 -
久大本線(久留米-大分) という立派な名前を持っていますが、実際のところはのどかなローカル線というイメージ。
久留米を出て次に停まった土蔵造りの駅「筑後吉井」。吉井はかつて久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄え、70棟余りの白壁土蔵造りの家並みが今も残されています。今回は行けずじまいでしたが、こうやって趣のある駅に降り立つ人の姿を見るとワクワクしちゃいます。 -
吉井町が属するうきは市はフルーツの名産地で、車窓からも果樹園が続く景色を楽しむことが出来ました。苺、桃、葡萄、梨、柿と1年中フルーツの絶えない町なんですって!
お向かいの小高い山には雪が残っていますね。 -
霧が晴れて来て、これから良い天気になりそう!
-
途中ビックリするほどたくさんの人たちが列車に乗り込んできたのは、久大本線きっての観光地湯布院でした。それも皆(あるいはほとんど)外国人! 私の隣の席も湯布院までは台湾のツアーガイド。湯布院から大分は韓国人旅行者でした。
-
10時50分、定刻通りに大分駅に到着。2時間半の列車旅でした。ゆふはこの先別府まで走ります。車体には「九州横断特急」って書いてありましたが、現在は大分ー日田間のみの運行だそうです。
話は脱線しますが、久留米と別府、どちらが上りなのか悩みました。なんと別府方面が下りなのだそうです。どうやって決めるのかしら? -
いきなりトイレで御免なさい。
初めて降りた大分駅は温もりのある、アースカラーの床が印象的でした。 -
鉄道駅の無機質な空間が、ウッディな床によって、ほっこりまったりスペースに変身! 駅ビルが完成してまだ2~3年?しか経っていないので、とても綺麗です。
-
蛍光灯が映っちゃったけれど、JR九州の主力部隊紹介のパネルは外せませんね。
上段左はN700系新幹線 九州・山陽新幹線を走ります。上段右は800系・新800系新幹線でJR九州のオリジナル。「さくら」、「つばめ」という名前で走ります。
中段左は1992年から博多-鹿児島中央間で「つばめ」として走った787系特急。新幹線全線開通後は、「きらめき」、「かもめ」等で現在も活躍中。中段右は883系特急「ソニック」です。
下段左は「みどり」の愛称で長年親しまれている特急列車。そして下段右は885系。博多-長崎間を結ぶ「かもめ」として走っています。
鉄ちゃんでなくても、会いたくなる面々です。 -
まだチェックインには早いけれど、ホテルに荷物を預けに向かいます。大分市の印象は、モニュメントの多い町。野外彫刻をあちこちに見ることが出来ました。
駅前の大通り 中央通りを北上して最初に目に留まったのがこちらの彫刻 富永 直樹作「美しき広場」です。
この彫刻、横浜のみなとみらい地区にある三菱重工横浜ビル前にもあるようです。父親不在の家族の肖像といった雰囲気の彫刻ですが、元々会社を支えるのが社員で、社員を支えるのが家族であるという意味を込めて設置されたものだそうですよ。横浜が1986年、大分が1988年。同じように見えますが、オリジナルとコピーなのでしょうか? -
続いて1913年(大正2年)に旧第二十三国立銀行本店として建てられ、後に大分銀行本店となった建物「赤レンガ館」の登場です。東京駅でおなじみの辰野金吾の設計ですよ。第二次大戦で壁以外は焼失しましたが戦後に修復。現在も大分銀行のATM専門の店舗として使用されています。
大好きな明治期の洋風建築は後ほどゆっくり拝見することにしましょう。 -
赤レンガ館の向かいには「ガレリア竹町」 イタリアミラノのガッレリアを思い起こさせる立派な屋根のついた商店街がでーんと構えていました。大分県で最も古い商店街で、ずっと奥まで続いている姿 実に壮観です。
-
今回の宿は、国道511号線昭和通りに面して建つベストウエスタンホテルフィーノ。今は名前が変わってホテルマイステイズ大分になっています。
まだチェックインできる時間ではなかったので、宿に荷物を預けて再び町に出ました。駅からゆっくりと歩いて10分。良いロケーションです。 -
実に良いお天気ですねえ。国道を東に数百m歩くと、府内城址(別称 荷揚城、白雉城)に到着です。豊後守護大名であった大友氏の拠点なので、てっきり大友氏が築城したのかと思っていましたが、城の沿革を見る限り、大友氏の文字はありません。
現在の府内城は、福原直高が築城を開始し、関ケ原の戦い後に入封した竹中重利が完成させました。全くの平城で、今は周りが埋め立てられていますが、築城当時はここから見えない反対側が海に面していて、荷揚げが行われた港であったことから荷揚城、水に浮かぶ姿から白雉城と呼ばれてきました。 -
今見えているのは西丸の西隅櫓(1965年復元)です。石垣に沿って少し右に行ったところに見える低い櫓は江戸末期に再建された宗門櫓だそうです。
-
1743年(寛保3年)に天守閣を焼失、明治時代の取り壊し、埋め立てに加え第二次大戦時の空爆で櫓、門等を焼失してしまいましたが、現在その一部が復元されています。
地図で見ると、城の北東側が細い堤防を隔てて海だったことが良く分かりますね。 -
本丸跡はがらんとして、見事に何にもありません。
-
本丸を横切り、これまた復元された大手門(「多聞櫓門)から出て来てしまいました。この門が府内城の玄関口となっていました。
調べたら、天守閣の北側にも江戸時代建造の櫓が残っていて散策もできたようですが、後の祭り。 -
国道を渡ったところから平たい府内城を振り返ります。門の右側に見えているのが東丸の着到櫓です。着到櫓? 聞きなれない言葉だったので調べました。
城内に参集した味方の軍勢や馬揃えなどを、大将が点検観察するための櫓(コトバンク) だそうですよ。 -
さて、今度はお城の真ん前から南に伸びる「遊歩公園」を歩いてみましょう。ここは野外彫刻の宝庫でした。
まずは鹿児島以来ご無沙汰していたこの方です。 -
フランシスコ・ザビエル像は彫刻家佐藤忠良(ちゅうりょう)の1969年(昭和44年)の作品。
ザビエルは1549年(天文18年)に鹿児島に上陸(いごよく みかけるクリスチャン! こればっか! )。その後布教の許可を得るため、天皇や将軍のいる京都まで出向きましたがお目通り叶わず、1551年(天文20年)、帰路に立ち寄った府内(大分)で大友宗麟と会っています。
ザビエル象の背後は、彼の辿った航路が示された世界地図になっていました。 -
流石、キリシタン大名大友宗麟のお膝元です。お次は伊東 ドン・マンショ像。なんと騎馬像です。長崎の平和祈念像を制作した北村西望の作品。こちらは1975年(昭和50年)に作られたもので、詳しい碑文が付設されていました。
伊東ドン・マンショは天正遣欧少年使節のリーダーとしてポルトガル、スペイン、ローマに赴き、ローマ教皇にも謁見しました。大友宗麟とは親戚関係にありましたが、彼が帰国した1590年(天正18年)にはすでに大友は亡くなっていて、秀吉により禁教令が出されていました。伊東マンショはその後神父として布教活動に励んだとありますが、禁教令にどう立ち向かったのでしょう?
像はマンショがローマ教皇に拝謁のため、サン・ピエトロ寺院に向かう姿だそうですよ。不思議な服装ですが、刀と兜は携えていますね。 -
こちらは明治から昭和にかけての日本を代表する大分県出身の彫刻家 朝倉文雄の作品で、「みどりのかげ」。1950年(昭和25年)の制作です。
日暮里にある彼の自宅兼アトリエだった朝倉彫塑館は作品はもちろんの事、建物と庭が素晴らしく、これまでに数回訪れていますが、何度行っても飽きることを知りません。
目をつむりうっとりしているように見えるこの女性像は1925年の帝展入選作です。 -
北村西望作の「健ちゃん」については、私は別の名前で存じておりました。東京の八王子駅前に立つ「将軍の孫」! 北村氏の長男をモデルにしていると聞きましたが、健ちゃんという名前だったのかしら? 知らない土地で友に再会したような気分になりました。
-
通り沿いにあった大分県庁は、言っちゃなんですが面白みのかけらもない建物。お役所でごぜえ・・・
-
まだまだ続きますよ。「西洋医術発祥記念象」ですって!
1552年に日本にやってきた医師の免許を持つポルトガルの貿易商アルメイダが、大友宗麟の援助により、日本で初の西洋式病院を建てたのだそうです。
へぇ~ 知らなかったわ。
アルメイダが日本人助手と共に手術を始める場面が再現されていました。麻酔はまだなかったでしょうね。とても痛そう! -
史蹟 滝廉太郎終焉の地
東京生まれの滝廉太郎は父の出身地および赴任地であった大分の竹田で少年時代を過ごし、その後東京音楽学校を経てドイツに留学。ヨーロッパの寒さから結核を患い、帰国後両親のいる大分で静養していましたが、わずか24歳で亡くなっています。
その短い生涯の中で、誰もが知っている曲を多数書き上げました。花、箱根八里、荒城の月、はとぽっぽ、お正月 等々 昭和の歌だわ。 -
こちらは朝倉文雄制作による滝廉太郎像です。1950年(昭和25年)の作品。
-
お次は何だろう?
The judgement of Solomon?と書いてあるレリーフです。日本語では「ソロモンの審判」と訳されている有名なお話。
ともに赤ん坊の母だと主張する二人の女性がソロモン王の裁きを受けます。王は赤ん坊を二つに裂けばよいと刀を持ってこさせます。叫び声が起こります。「待って! あの女のものになっても構わないから赤ん坊を殺さないで」と叫んだ女性が本当の母親だとの審判だったと記憶しています。
ところで何の記念碑かというと、西洋劇発祥の地の記念碑。キリスト教伝来の僅か11年後の1560年(永禄3年)のクリスマスに、信者たちによって「アダムの堕落と贖罪の希望」、「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」という劇が府内のキリスト教会で演じられたと書かれていました。
1560年ですよ~! 記録が残っているんですね。凄~い! -
キリスト教関連がまだありましたよ。
先ほど西洋式手術の彫像で登場したポルトガルの商人アルメイダは、生活苦のために嬰児を殺す人々が多いことを見かねて、自費で乳児院を設立。乳母と牝牛を置いて、牛乳で嬰児たちを育てたのだそうです。これぞわが国社会福祉事業の先駆ですね。
ポルトガルの商人ルイス・デ・アルメイダは大分では有名な人物のようです。その証拠にこの町には「大分市医師会立アルメイダ病院」という、彼の名を冠した病院があります。大分で最初の救急救命センターを持つ総合病院ですって! -
遊歩公園のモニュメントは大体見たので、続いてつい最近まで滝廉太郎の墓があったという蒋山萬壽禅寺にやって参りました。あったということは今はないということ。
廉太郎の家系は元々大分県中部にある日出町(ひじまち)の出身。廉太郎の父が彼をここ萬壽寺に葬ったのですが、最近になって他の親族の意向により故郷日出町の瀧家菩提寺に移されたのだそうです。
禅寺と看板にあるように臨済宗の寺で、起源は平安時代まで遡るという伝説のある古刹ですが、実際には大友家の5代大友貞親が1306年(徳治元年)に開山したとされています。以後大友氏の菩提寺となり、一時は五山に準ずる扱いとされ、繁栄しましたが、大友氏の勢力が弱まるとともに衰退したようです。 -
こちらは見るからに新しい、手摺までついた平成の鐘楼です。お寺も高齢化が進んでいるのでしょうね。
-
寺は江戸時代の1631年(寛永8年)に現在の場所に移ってきました。旧萬壽寺は、今の面積の倍ほどあって、10以上の伽藍が建ち並んでいたそうです。その跡地は2005年(平成17年)に国指定史跡に指定され、大友氏館跡とともに大友氏遺跡を構成しています。
写真は萬壽寺山門。古刹に相応しい佇まいです。 -
こちらは、萬壽寺仏殿。建物についての説明が得られなかったので、いつ頃の建物なのか分かりませんが、この寺は第二次大戦の戦火には逢わなかったそうなので、ひょっとすると江戸時代の作かしら?
-
こちら側が正面。二重になった屋根が特徴的ですね。とても立派です。
-
寺の墓地は何百年も時を経たものから最新のものまで千差万別。探しても、もう滝廉太郎の墓はありませんよね。
-
これは面白い!
読めない箇所があるのですが、府内萬屋町に住む渋谷何某は越中富山の産であること。彼の父の名前と母の名前が書いてあって、二人の供養をしたいこと云々が綴られていましたので思わずパチリ! -
石仏達が皆良いお顔をしていました。実は大分にやってきた大きな理由の一つが石仏、それも摩崖仏を見ることなのです。国東半島を始め、古くから仏教が栄えており、柔らかい彫りやすい石(凝灰岩)が多かったことがその理由とされていますが、なんと全国の摩崖仏の80%以上が大分にあるそうですよ。
-
この辺りは寺社仏閣が集まっているエリアらしく、萬壽寺のお隣も来迎寺というお寺でした。説明板には、1501年(文亀元年)に大友氏18代親治(ちかはる)が修行でこの地方を行脚していた文忠梵英榮(もんちゅうぼんえい)上人を府内に引き留め、建立したと書かれていました。
-
萬壽寺から少し南へ歩くと旧萬壽寺跡、大友氏の居城だった館跡などがあるのですが、時間の関係で省略です。
突然ですが、大分市のマンホールです。市の花山茶花がこちらには3つ描かれています。 -
別バージョン。こちらは山茶花6つですよ。
-
後刻大分駅前で見かけたこちらは雨水用です。分かりにくいけれど、ウナギ、カニ、メダカ、小魚が隠れていますよ。よ~く探してね♪
-
唐突が続きますが、大分の町中に戻って、ふと目に留まったのがこちらのお弁当。コンパクトで可愛いでしょう。手作り感満載の大きめと小さめのおにぎりが絶妙!朝早かったので、思わず手が伸びてしまいました。
お弁当屋さんですが、イートインコーナーもあったので、そこで思いがけなく簡単にお昼を済ませてしまいました。
お値段何と300円!やす~!! 弁当屋のおばちゃんの愛情たっぷりで美味しかったですよ。 -
府内五番街というお洒落な通りを進みます。ここは青空一杯。アーケードではありません。アーケードも雨の日は良いけれど、どうしても暗くなるのが欠点ですね。
こちらはからくり時計かな? -
うなぎ、寿司、なんでも屋さんっぽい居酒屋「食べ処 飲み処 百万石」が目の前に現れましたよ。お店の特徴が外から一目でわかるような造りの建物です。興味津々!
-
そして百万石の対面にあるのが「赤レンガ館」。こちらは裏口から見た1枚です。
-
銀行として営業中だと書いてあったので、入ってみました。あ~ら、本当だ! ATMのみで窓口業務は行っていませんでした。
-
何だかこちら側の壁は陳腐だなあ・・・ATM以外何もなくて、ご覧の通り、味気ない空間が広がっていますよ。
-
通りを渡って、全体像を捉えます。ドームは丸く見えますが八角形。辰野金吾が良く採用した様式で、辰野式ルネサンスと呼ばれているそうです。ずっと大きいけれど、復元された東京駅の2つのドームも八角形でしたね。
-
正面からもう1枚。1Fの窓の上に並ぶ船のような丸窓がオシャレです。1996年(平成8年)に国の登録有形文化財に指定されました。
-
さて、再び大分駅へとやって参りました。この駅舎もよく見るとユニークな形をしていますね。
大分が大きくひらく
人がつながり 想いがつながる
大分の地に根ざし 未来へはばたく姿勢
をあらわしているそうですよ。
駅舎ビルの屋上は緑あふれる庭園になっているとか。ここからでもちらっと木々が見えますね。 -
大分駅の看板をしょったこちらの鶏は「ぶんぶん鳥」と呼ぶんですって。何の説明もないけれど、金色に光る卵を見ると、いわくありそげですねえ。大分の鶏なのかしら?
-
大分駅の南北通路の「上野の森口」に近い一角にトイトレインが置かれていました。
-
こちらの真っ赤なプチトレインはヨーロッパでは観光地などで必ず見かけるお馴染みの物ですが、なんとここでは駅の通路を走るそうですよ。その名は「ぶんぶん号」。入口には「ぶんぶん鳥」、中には「ぶんぶん号」かあ・・・
-
土日祝日の昼間のみ、この南北通路を15分おきに走るんですって。歩行者の妨げにならないんですかねえ。東京駅ではまず無理だな。
-
駅のコインロッカーガ可愛い! クロイヌのくろちゃんは豊肥本線の観光特急「あそぼーい!」のイメージキャラクターで本名「あそくろえもん」というのだそうです。
駅にやってきたわけは、大分市のボランティアガイドさんと駅中の観光案内所で待ち合わせしていたからなんです。大分の摩崖仏は国東半島や臼杵市のものが有名ですが、実は大分市にも少し残っています。それを見たくて、ガイドさんを申し込んでしまいました。
観光案内所で無事ガイドさんとご対面! -
本日のガイドさんは元警察にいらした方で、女性である私と二人きりで歩くことをひどく気にされている、大変お堅い方。近所の方にでも見られたら大変なのかしら?
「いやあ~ 全く問題ありませんよ。大丈夫ですって。」
もしかしてこれって私が言うべきセリフじゃあないわよね?!
大分駅の南口に当たる上野の森口から徒歩で出発です。摩崖仏以外の見どころはガイドさんにお任せしたのですが、まず連れて行って下さったのがこちらの金剛宝戒寺。
727年(神亀4年)、奈良時代の僧侶行基が聖武天皇の勅を奉じて創立したという言い伝えのある古刹です。行基は朝廷や位の高い者のみが仏教信仰を許された時代に、全国を行脚して一般大衆に仏法を説いて回ったことで有名な方です。 -
境内にあった雪舟が住んだという天開図画楼跡の記念碑です。
室町時代の1470年(文明2年)に、雪舟が先ほど訪れた萬壽寺の僧を頼って、府内に画楼を建てて住んだという記録が見つかったことから、1952年(昭和27年)に有志によって建てられた記念碑だそうです。でも、画楼の場所は特定されていないので、何故この寺にあるのか、全くもって意味が分かりません。萬壽寺にあるのであればまだわかるんですが・・・ -
こちらは大分県の民話にちょくちょく登場する「山弥長者」が寄進したと伝わる石灯籠。1640年(寛永17年)。山弥長者はハチに導かれて金を掘り当てたのだそうですよ。
-
その昔は寺領三万坪。金堂、塔、講堂の大伽藍と六十区の坊舎を配し、大門、中門を備えたという金剛宝戒寺の現在の本堂はこちら。県指定有形文化財である木造の聖徳太子立像、木造釈迦如来立像、木造不動明王坐像が安置されているそうですが、こちらはなぜかスルー。
-
そして、ガイドさんの口利きで、国の重要文化財に指定されているお宝を見れることになり、やってきたのがこちらの大日堂です。この建物は、寺が現在地に移された1307年(徳治2年)当時の名残をとどめていると説明書きに書いてありました。
-
こちらが大日堂の正面です。ガタついていますが、扉の文様が美しい・・・
-
ガイドさんとは顔見知りのお寺の女将さんに案内されて、ぷーんと一種独特のにおいが立ち込める古いお堂の中に入りました。木造大日如来座像(国指定重要文化財)は、鎌倉時代後期の1318年(文保2年)南都の仏師康俊による作です。康俊は運慶の孫だそうですよ。
どっしりと安定感のある黒光りした大日如来が安置されていました。 -
例によって例の如く何枚も写真を撮ったのですが、ブレブレの写真ばかり(泣)! ろくな写真がありません。
上の写真では大きさが伝わらないと思いますが、この写真だとわかるかな? 康俊が制作したものの内、九州に残る最大の大きさの仏像で、高さ3mを越えます。大日如来のギョロっとした大きな玉眼が実に印象的でした。 -
寺には、こんな小さな祠も並んでいました。
-
首が取れた痛々しい石仏も!
ガイドさんのおかげで、思わぬ場所でお宝を目にすることが出来ました。一人で歩いていたら決してなかった出逢いに感謝。 -
次に訪れたのはすぐ隣にある弥栄(やさか)神社。八坂神社とは字は違いますが音(おん)は一緒です。江戸時代までは祇園社と呼ばれていたそうです。疫病が流行った光仁天皇在位中の宝亀年間(770年-781年)創立とありましたが、清和天皇在位の869年(貞観11年)に一国一府に小祇園社の勧請を給わったのが縁起とされているものや、大友氏初代能直が疫病が鎮まることを祈願して京都の祇園社を勧請したと書かれたものもありました。いずれにしても、疱瘡を鎮める神であるようです。
上野の山の中腹に突如このように派手な楼閣が現れたので(@_@)ビックリです! -
拝殿にはほとんど目もくれずに、・・・
-
この赤い随神門ばかり写してしまいました。門の奥に続く参道、そしてその先にある鳥居が完璧な美しさで迫って参りました。
-
さらに門に近づいてもう1枚。門にある沢山の透かし彫りの絵がまた楽しい世界を見せてくれました。獅子に天女の舞い、そして弓の名人たち。参道から入ってきたらこの門で雰囲気が一変しますね。
-
上の2枚は何の絵でしょう?下の2枚はいささか稚拙ですが風神・雷神ですね。
-
門の下にいる狛犬って初めてかもしれません。
-
こんなところにいたんだ。みっけ! という気分になります。
-
何度も振り返りながら、階段を下りました。反対方向から来てしまったので、いきなり拝殿でしたねえ。
-
先ほど門から顔を覗かせていた銅製(?)の鳥居。とても風情があります。
-
はい。ここから上ってお参りするのが正式でしたね。
-
階段の下から眺めた古国府の町です。古国府と書いてふるごうと読みます。
いにしえに国府あり
ここに豊後の国の国府が置かれていたんですね。久大本線に同名の駅がありました。大分より一つ久留米寄りの駅です。 -
お次はまた神社。松坂神社です。あの~ 私摩崖仏が見たいんですが・・・と何度も言いかけましたが、いやいや、彼の流儀に逆らってはいけないと黙ってついて回りました。神社仏閣大好きですから、全く苦にはなりません。
こちらも欽明天皇の時代(539年~71年)に創建されたとありましたから相当古い。 -
ただ、ガイドさんが披露したい戦国時代の歴史に関する知識が当方あまりにも乏しく、説明が理解できない部分が多々あったので、申し訳なかったと思っています。
ガイドさん一押しの旧跡は、この天満社のある大友館跡。鎌倉から戦国にかけて豊後の守護だった大友氏の館跡は駅の北側の萬壽寺そばとここ上野の丘に二つあります。こちら上原館は丘の上で見晴らしがよく、かつては府内の町が一望できたそうです。 -
館の敷地は、東西130m、南北150mの長方形をしていて、土塁や空堀も残っています。戦国時代の小さな山城という雰囲気です。
-
土塁の上に建つ「西山城大友館跡」と書かれた碑です。やはり西山城と呼ばれていたんですね。
-
今は天満社が残るばかりです。
-
階段を下りて行ったら、昭和のまんまのお店を見つけちゃいましたよ。イースト万十(こし)タンサン万十(つぶ)と書かれた素朴なお饅頭を売っていました。
思わず「美味しそう」という言葉を口にしてしまい、ガイドさんが買ってくださって一緒に立ち食い。優しいおやつになりました。犬も歩けばこういうお店に当たるから町歩き止められない! -
どの饅頭も65円均一。手間を考えたら、この値段じゃ儲け出ないのではと心配になります。
-
大友氏所縁の寺圓壽寺は大友氏館跡の南側にありました。元は岩屋寺という名の寺で、大友氏5代貞親が1305年(嘉元3年)、比叡山より道勇和尚を招いて中興の祖としたと伝えられています。現在の寺があるところは上野台地の東端に当たり、大変長めの良い場所です。
山門は1861年(文久元年)の作で、松平氏の庶流である大給松平家(おぎゅうまつへいけ)の近説によるものです。 -
圓壽寺文学庭園と名付けられた石の庭園。
-
江戸時代の圓壽寺の高僧 またの名を寛永の歌聖とも言う寛佐法印による雨乞い歌の碑は珍しかった。この雨乞い歌を元に「豊後よさら節」という民謡が生まれたそうですよ。
-
ブロック塀の上にずらりと並べられた石仏が壮観でした。この寺は岩屋寺の時代は上野台地の麓の古国府にあったのですが、大友氏6代貞宗が1307年(徳治2年にこの地に移し、名前を圓壽寺と改めたのだそうです。
貞宗が石仏を尊んだと聞いたので、ひょっとして岩屋寺から運んできたものでしょうか? いやあ、流石にそこまで古くはなさそうな石仏群。説明が欲しかったなあ・・・ -
こちらの寺のご本尊は拝むことが出来ました。派手な炎に包まれた不動明王でした。
-
四頭身の穏やかな表情をした十一面観音菩薩像もありました。こちらはどういう存在だったんだろう???
-
境内のあった建物の中で一番目立っていたのはこちらの廟です。府内城主だった日根野吉明公の霊廟で、釘を1本作っていないということでも有名。
日根野吉明は安土桃山時代から江戸時代前期の大名で、嫡男なく、吉明が亡くなった1656年(明暦2年)にお家断絶となっています。日根野氏に替わり府内城主となったのが前述の大給松平家の忠昭です(1658年)。 -
圓壽寺の派手な看板を横目に坂を下りて、ようやく念願の岩屋寺にやって参りましたよ。
-
摩崖仏ですから当然ですが、崖に彫られた石仏群で、全部で十七体から構成されています。平安時代後期のもので、今では風化が進んで、殆ど形を成していないものもあります。
-
石仏群に向かって右隣りの崖には、その昔小さな仏像を収めていた千仏龕(せんぶつがん)を見ることが出来ました。仏龕というのは仏像を収める窪み、スペースのことです。
-
岩屋寺石仏の石柱の脇に小さな仏像がちょこんと座っておられました。初め涎掛けをしているのでお地蔵様かと思いましたが、頭が螺髪なので如来像ですね。
-
摩崖仏のすぐ右横にあったお地蔵様。
-
う~ん。殆ど土に還って行ってしまってますねえ。姿形がはっきりしているのは右端にいらっしゃる十一面観音のみです。衣紋がくっきりと残っていますが、こちらもお顔は判別不可能・・・
-
もう一枚 十一面観音です。西日が当たって写真撮影には向いていない時刻でした。
-
徐々に左側に移動しますよ。
-
中央の、今では岩にしか見えないものが如来坐像だと推定されています。推定ですから、今は誰が見てもそうは見えないということでしょう。この如来坐像を中心に左側に10像、右側に6像あると書かれていました。
-
うう~ん、頭らしきものと腕らしきものがかろうじて判別できますがねえ・・・
-
一番左側。ひいふうみい~ 全部で6人いますよ。私の影も写っちゃった!
-
石仏群を収めたお堂の前はご覧の通り大変狭いです。皆さま気を付けてお通り下さいね。
-
お堂の前に置かれた石仏達も元々この辺りにあったものなのでしょうか?先ほどのお地蔵様同様、彩色された跡が確認できます。台座の荒々しいノミの痕も生々しいですね。
-
こちらの石仏にも彩色の跡が!
-
如来坐像にも光背の一部に色が残っていました。こうやって正面から撮ると、かろうじて人の姿が浮かび上がります。
-
先ほど下から眺めた千仏龕は近くで見るとこのようになっています。こちらはなんと崩落した部分なんですって! 風化が激しく進んでいて、こちらもそのうち石に還る日が来る運命です。
何故かカッパドキアやマテーラの洞窟住居の中を思い出していました。彼らが物を置く台として洞窟の中で掘ったものとよく似ていたからです。 -
途中でちょん切れていますが、中央上に中国で460年から524年にかけて造られた雲岡石窟の千仏龕が写っています。平安時代後期に、中国の石窟寺院 あるいは千仏龕のことがここ大分にも伝わっていた証拠ですね。
-
久大本線沿いの道を歩いて今度は少し北にある大分元町大仏へと進みます。ちょうどやってきた真っ赤なディーゼルカーです。
-
元町地区も上野台地の東端に当たるところで、阿蘇山噴火による凝灰岩が露出している場所でした。こちらが元町石仏が収められた木造瓦葺造りのお堂です。
-
大分元町石仏は、図の通り向かって左側に保存状態の良い7体が、右側に判別のつかない6体が並んでいます。残念なことにちょうど工事中のようで、良好な状態の仏さまが収められているお堂の方は足場が組まれていて、なんと見学不可!
-
仕方ない。窓から覗いてしまいましたよ。どう頑張っても中央の薬師如来坐像しか見えませんが、素晴らしい! 螺髪は完璧。伏し目で整った顔立ちですねえ。
豊後国志によると百済からやってきた日羅の作と書かれています。先ほどの岩屋寺と比べて日の当たり方が少なかったのかな? 幸運にも素晴らしいお顔のみ、よく見ることが出来ました。岩薬師の別名があるそうですよ。 -
ボディに塗られた白いものは一体なんでしょう? 石の修復に使われる合成樹脂かしら?
-
こちらは右側の摩滅した石仏群。お堂はなく屋根のみなので、見学可能です。
しかし、これではお釈迦様かどうか分かりませんね。お供えがなければ通り過ぎてしまいそう・・・釈迦三尊の中央の仏様です。 -
その隣の右側の一体です。更にその右には立像が見えますが、こちらは別の組み合わせの釈迦三尊の内左側の菩薩像です。
-
これまた今となっては、「誰か」が座ってる状態。
-
一番右側の立像。2枚上右端の立像とペアになっています。
-
そんなわけで、一番楽しみにしてきた元町石仏はあっけなく終わってしまいました。薬師如来の左の多聞天や右の不動明王が見られなかったのは痛かった!
-
ガイドさんがどうしても案内したい場所があると言ってやってきたのは、元町石仏からかなり歩きましたよ。まこもヶ池という立て札の立っている場所。でもどこにも池は見当たりません。
-
説明板によると、1200年前の嵯峨天皇の時代、百合若大臣という力の強い国主が上野に住んでいて、その国主が戦で外征中に国主の地位に就いた男が百合若の妻に心を寄せましたが拒絶され、仕返しに屋敷の隣にあったまこもヶ池に沈めて殺そうと企てたのだそうです。
その時門番の翁が自分の娘萬壽姫を身代わりにし、妻を助けたのです。帰国した百合若は萬壽姫を哀れに思い、入水した池の側にお寺を建立しました。それが蒋(まこも)山萬壽寺の起源だと言われています。大友氏の時代、圓壽寺は6つの本堂(圓壽寺六坊)を持ち、広大な土地を所有していたようです。
今では池もなく(冬だから枯れた?)、昔日を偲ぶのは大友中興の祖といわれた大友家10代の大友親世の墓(五輪塔)のみです。ここまで来るのが遠かったぁ・・・ -
最後にもう一つ摩崖仏が見たいという私の希望を叶えるため、再び岩屋寺の下を通ります。時刻はもう16時半。お約束の時間は2時間なので、もうすっかり超過しているのですが、熱心なガイドさんは最後まで私に付き合って下さるようです。
-
所々に石仏が置かれた古国府の町。町の皆さんはきちんと掃除をされて、今でも花を絶やしません。
-
仏光寺の前を通り過ぎ、再び久大本線の踏切を渡り・・・
-
目指すは南大平寺の摩崖仏です。また丘を上ってきちゃった・・・地図には伽藍石仏と書いてあったけれど、地元では「南太平寺石仏」と呼んでいるようでした。南太平寺という寺は現存せず、今は地名にのみその名を留めています。
-
児童公園の脇に小さな社があります。地図には杵築神社、地元では「伽藍大明神」「がらんさま」とも呼ばれているようです。伽藍石仏の隣だからでしょうね。
-
「この拝殿の天井をぜひ見てもらいたいんだよ」とガイドさん。高齢なのにスタイルよく、身のこなしが若者顔負けです。ついていくのが大変!
-
お参りを済ませてから、拝殿の中を覗き込みます。ちょうどうまい具合に西日が奥まで差し込んでいます。
-
あ~ら 本当だ。最近の作品でしょうが、トラ、馬、牛、鳥等の動物、植物、伝統楽器、姫達磨等の民芸品、お供え等沢山の絵が天井を飾っていました。奉納と書かれているので、氏子さん達の手によるものなのでしょうか?
中央には方角表示板。やはりこの拝殿ほぼ真西を向いていました。 -
で、神社の拝殿前から見ると斜め右方向 南西の方角にあったのが伽藍摩崖仏です。3つの石窟が並んでいるのがおわかりでしょうか?
-
ボケちゃいましたね。向かって一番左の石窟には摩崖仏はありません。岩屋寺で見たものとは異なる3つの仏龕があるのみです。ここにも生花が生けられていました。石仏詣では人々の日常の営みの中にあるようです。
-
いや、待てよ。後から持ち込まれたのでしょうが、よくよく見たら半欠けになった仏像のレリーフが中央に置かれているのを発見しましたよ。初めからここにあったわけじゃあなさそうですが、今は本尊の代用品となっていました。
-
中央の摩崖仏は阿弥陀如来です。頭の部分の損傷が激しいですが、体の部分にはかすかに彩色が残っています。舟形の光背の赤と金と黒の色はとても綺麗に残っていました。
-
覗き込むと、石窟の上部まで彩色が施されていたことが分かりました。こちらの摩崖仏は鎌倉時代後期から室町時代の作とされています。
-
右側石窟の阿弥陀如来坐像です。
-
説明書きを読むと、阿弥陀如来の両脇に観音菩薩と勢至菩薩、更にその脇に多聞天と不動明王の立像があると書かれていましたが、私の目には阿弥陀如来以外は判別不能でした。
もっと覗き込めばよかったかしら? -
3つの石窟をもう一度どうぞ。
ここは天台宗に属する南太平寺の境内だったと言われています。大友氏の時代には自らの館を含めて多くの寺社仏閣が点在していた上野台地を巡る旅はここが終着点となりました。
長い時間かけて説明および案内をして下さったボランティアガイドさんは最後まで手を抜かず、大分駅行きのバスが通る国道まで案内して下さいました。本当に感謝しております。ありがとうございました。 -
あっという間に別世界。今晩から4泊する大分市のホテルに戻って参りましたよ。
-
セミダブルベッドが心地よい眠りを誘いそうですね。
-
広さは十分。
-
何よりも助かったのは、この可動式のスタンドライト。とかく暗すぎるきらいのあるホテルの部屋ですが、おかげでPCで快適な作業が出来ました。よく歩いた。24000歩を越えました! お風呂でマッサージしておやすみなさい。
明日は臼杵大仏を見に参ります。この続きは、LCC第二弾 久大本線に沿って九州横断の旅 その5 臼杵で!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
大分市(大分) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
143