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西武鉄道(都心と西部地域を運行する私鉄)の東村山駅(ひがしむらやまえき、東京都東村山市野口町)西口広場には旧川越鉄道が国分寺と川越(現在の「本川越」)間を敷設した新線(現在の西武国分寺線)に関連する「東村山停車場」の石碑があります。<br /><br />そもそも川越鉄道の起工の目的は東京から多摩地区を経て西走して甲府に至る甲武鉄道が明治22年(1889)新宿-立川間の開通を果たし、新たに川越鉄道を設立し途中の国分寺から北進し東村山を経て川越に至るものでした。<br /><br />しかしながら、これから柳瀬川の橋梁を架設しようとする段階で、この工事によって川がせき止められ洪水になるとの懸念で住民に反対が起こりこれによって会社は工事続行を止められ、やむなく久米川停車場を仮設し明治27年(1894)12月21日暫定的に国分寺-久米川間の営業開始となります。<br /><br />翌年柳瀬川の橋梁工事が完成しそれまでの久米川停車場は仮設であった事情で廃止となりますが、これに対し地元では地域の発展を真剣に考慮する村の有力者たちの間で駅の再設置を求める運動をおこします。<br /><br />具体的には有力者らが停車場工事の費用を寄付、あるいは必要な敷地の提供をすることで明治28年(1895)3月21日全線開通を経て同年8月6日ようやく設置にこぎつけ、それまでの久米川停車場を東村山停車場に改称して現在に至ります。<br /><br />全線開通後の川越鉄道は順風満帆ではなく、明治39年(1906)9月30日、鉄道国有法(明治39年3月31日公布)により親会社の甲武鉄道が国有鉄道に買収され川越鉄道は独立自営に入りますが、大正4年(1915)飯能の有力者が中心となって武蔵野鉄道(池袋-飯能)が開通し都心への直接乗り入れが実現、これにより乗客・貨物を奪われた川越鉄道は経営悪化となり電力事業会社で鉄道事業を併営する武蔵水電に吸収合併されます。<br /><br />しかしながら大正11年(1922)11月親会社である武蔵水電が全国的展開する帝国電灯に吸収合併、これを機に鉄道事業部門が分離、既に同年8月に旧武蔵水電の経営陣によって設立されていた武蔵鉄道に譲渡、譲渡を受けた武蔵鉄道は西武鉄道(現在の西武鉄道の前身のひとつ)と改称し川越線と旧武蔵水電の鉄道事業であった大宮線(川越-大宮)、新宿線(淀橋-荻窪)の三路線を継承して経営することになります。<br /><br /><br />西武鉄道東村山駅前の広場に建っている石碑の隣には「東村山停車場の碑」と題された説明版があります。<br /><br /><br />東村山市指定有形民俗文化財<br />    東村山停車場の碑(ひがしむらやまていしゃばのひ)<br />      所在地 東村山市野口町一丁目四一番地<br />      指 定 平成三年(1991)七月二四日指定第二三号<br /><br />東村山は北多摩地域でも早い時期に鉄道が開通した所です。明治二二年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿と立川間が開通すると、やがてそのい国分寺と埼玉県の川越を結ぶ川越線が計画されました。そして明治二七年(1894)に国分寺と東村山間の工事が完成しましたが、柳瀬川の鉄橋工事が難行したので、やむなく現在の東村山駅の北方に仮設の駅(久米川仮停車場)を置き、国分寺-久米川仮停車場で営業を開始しました。<br /><br />翌年明治二八年(1895)、鉄橋も完成し国分寺-川城間が開通するに伴い、仮設の駅は廃止されることとなりました。しかし、東村山の人々は鉄道の駅の有無は地域の発展に大きく影響すると考え、約二五〇人もの寄付と土地の提供により、同年八月六日にようやく東村山停車場の設置にこぎつけました。<br /><br />当時の人々の考えたとおり鉄道は地域の発展に欠かせないものとなり、その後の東村山の発展の基礎となりました。東村山停車場の碑は、こうした当時の人々の努力を後世に残すため、明治三〇年(1897)に建てられたもので、当時は現在のエレベ-タ-付近にありました。<br /><br />また、石碑右の石造物は、由来は不明ですが、野口町一丁目一八番地にあったもので、「嘉永七年八月十二日 馬頭観世音」の銘があります。<br /><br />       平成二一年(2009)九月<br />                     東村山市教育委員会」<br /><br />

武蔵東村山 西武鉄道東村山駅前広場に建つ旧川越鉄道(国分寺-川越)敷設の「東村山停車場跡」散歩

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2012/04/30 - 2012/04/30

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滝山氏照

滝山氏照さん

西武鉄道(都心と西部地域を運行する私鉄)の東村山駅(ひがしむらやまえき、東京都東村山市野口町)西口広場には旧川越鉄道が国分寺と川越(現在の「本川越」)間を敷設した新線(現在の西武国分寺線)に関連する「東村山停車場」の石碑があります。

そもそも川越鉄道の起工の目的は東京から多摩地区を経て西走して甲府に至る甲武鉄道が明治22年(1889)新宿-立川間の開通を果たし、新たに川越鉄道を設立し途中の国分寺から北進し東村山を経て川越に至るものでした。

しかしながら、これから柳瀬川の橋梁を架設しようとする段階で、この工事によって川がせき止められ洪水になるとの懸念で住民に反対が起こりこれによって会社は工事続行を止められ、やむなく久米川停車場を仮設し明治27年(1894)12月21日暫定的に国分寺-久米川間の営業開始となります。

翌年柳瀬川の橋梁工事が完成しそれまでの久米川停車場は仮設であった事情で廃止となりますが、これに対し地元では地域の発展を真剣に考慮する村の有力者たちの間で駅の再設置を求める運動をおこします。

具体的には有力者らが停車場工事の費用を寄付、あるいは必要な敷地の提供をすることで明治28年(1895)3月21日全線開通を経て同年8月6日ようやく設置にこぎつけ、それまでの久米川停車場を東村山停車場に改称して現在に至ります。

全線開通後の川越鉄道は順風満帆ではなく、明治39年(1906)9月30日、鉄道国有法(明治39年3月31日公布)により親会社の甲武鉄道が国有鉄道に買収され川越鉄道は独立自営に入りますが、大正4年(1915)飯能の有力者が中心となって武蔵野鉄道(池袋-飯能)が開通し都心への直接乗り入れが実現、これにより乗客・貨物を奪われた川越鉄道は経営悪化となり電力事業会社で鉄道事業を併営する武蔵水電に吸収合併されます。

しかしながら大正11年(1922)11月親会社である武蔵水電が全国的展開する帝国電灯に吸収合併、これを機に鉄道事業部門が分離、既に同年8月に旧武蔵水電の経営陣によって設立されていた武蔵鉄道に譲渡、譲渡を受けた武蔵鉄道は西武鉄道(現在の西武鉄道の前身のひとつ)と改称し川越線と旧武蔵水電の鉄道事業であった大宮線(川越-大宮)、新宿線(淀橋-荻窪)の三路線を継承して経営することになります。


西武鉄道東村山駅前の広場に建っている石碑の隣には「東村山停車場の碑」と題された説明版があります。


東村山市指定有形民俗文化財
    東村山停車場の碑(ひがしむらやまていしゃばのひ)
      所在地 東村山市野口町一丁目四一番地
      指 定 平成三年(1991)七月二四日指定第二三号

東村山は北多摩地域でも早い時期に鉄道が開通した所です。明治二二年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿と立川間が開通すると、やがてそのい国分寺と埼玉県の川越を結ぶ川越線が計画されました。そして明治二七年(1894)に国分寺と東村山間の工事が完成しましたが、柳瀬川の鉄橋工事が難行したので、やむなく現在の東村山駅の北方に仮設の駅(久米川仮停車場)を置き、国分寺-久米川仮停車場で営業を開始しました。

翌年明治二八年(1895)、鉄橋も完成し国分寺-川城間が開通するに伴い、仮設の駅は廃止されることとなりました。しかし、東村山の人々は鉄道の駅の有無は地域の発展に大きく影響すると考え、約二五〇人もの寄付と土地の提供により、同年八月六日にようやく東村山停車場の設置にこぎつけました。

当時の人々の考えたとおり鉄道は地域の発展に欠かせないものとなり、その後の東村山の発展の基礎となりました。東村山停車場の碑は、こうした当時の人々の努力を後世に残すため、明治三〇年(1897)に建てられたもので、当時は現在のエレベ-タ-付近にありました。

また、石碑右の石造物は、由来は不明ですが、野口町一丁目一八番地にあったもので、「嘉永七年八月十二日 馬頭観世音」の銘があります。

       平成二一年(2009)九月
                     東村山市教育委員会」

交通手段
私鉄

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  • 西武鉄道東村山駅前西口広場<br /><br />現在の東村山駅は西武鉄道国分寺線(国分寺-東村山)、新宿線(西武新宿-本川越)及び西武園線などが交差する交通の要所で、遡れば中世における鎌倉街道・上ノ道の宿場町として繁栄を極めていたほどでした。この川越鉄道(国分寺-川越)の開通によって、物資の集散地である川越と都心とを結ぶ鉄道として位置付けられていました。<br /><br />尚川越鉄道(国分寺-川越)営業終点である川越は現在の本川越で、昭和15年(1940)7月22日国鉄川越線開業に伴いそれまでの「川越」を「本川越」に改称した経緯があります。

    西武鉄道東村山駅前西口広場

    現在の東村山駅は西武鉄道国分寺線(国分寺-東村山)、新宿線(西武新宿-本川越)及び西武園線などが交差する交通の要所で、遡れば中世における鎌倉街道・上ノ道の宿場町として繁栄を極めていたほどでした。この川越鉄道(国分寺-川越)の開通によって、物資の集散地である川越と都心とを結ぶ鉄道として位置付けられていました。

    尚川越鉄道(国分寺-川越)営業終点である川越は現在の本川越で、昭和15年(1940)7月22日国鉄川越線開業に伴いそれまでの「川越」を「本川越」に改称した経緯があります。

  • 東村山駅西口前広場に建つ石碑

    東村山駅西口前広場に建つ石碑

  • 東村山停車場の石碑<br /><br />碑文は漢文で刻されていますが、内容については別掲の「東村山停車場の碑」説明板で理解するしかありません。<br /><br />

    イチオシ

    東村山停車場の石碑

    碑文は漢文で刻されていますが、内容については別掲の「東村山停車場の碑」説明板で理解するしかありません。

  • 「東村山停車場の碑」説明板

    「東村山停車場の碑」説明板

  • 鉄道開通100周年記念碑<br /><br />明治27年(1894)国分寺-久米川間に旧川越鉄道が開通し平成6年(1994)に開通100周年を迎え、その記念として石碑が建てられたものです。往時の東村山駅は現在よりも所沢寄りに在って「久米川停車場」と呼ばれていました。

    鉄道開通100周年記念碑

    明治27年(1894)国分寺-久米川間に旧川越鉄道が開通し平成6年(1994)に開通100周年を迎え、その記念として石碑が建てられたものです。往時の東村山駅は現在よりも所沢寄りに在って「久米川停車場」と呼ばれていました。

  • 東村山駅周辺案内図

    東村山駅周辺案内図

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