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小手指ヶ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう、埼玉県所沢市北野)は元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府を攻めるため上野国新田荘の生品明神にて挙兵した新田義貞(にった・よしさだ、1300頃~1338)が八幡荘を経て一路鎌倉を目指して南下、同じく同国世良田荘にて挙兵した足利千寿王(あしかが・せんじゅおう、1330~1367・足利尊氏嫡男の幼名で後の二代将軍足利義詮)と合流、同月11日鎌倉街道上ノ道を北上した幕府討伐軍と最初に衝突した戦場です。<br /><br />旗揚げした頃の新田軍は僅か150騎程度でしたが夕方頃には越後より200騎の新田一族が合流、利根川渡河時点では甲斐・信濃の源氏系軍5千騎が加わり更に関東各地の豪族たちが参集し20万7千騎を越える大部隊となったそうです。<br /><br />これに対して得宗家当主北条高時(ほうじょう・たかとき、(1304~1333)が派遣した北条一門の桜田貞国(さくらだ・さだくに)を総大将とする討伐軍10万騎が鎌倉街道上ノ道を入間川に向かい11日早朝から合戦が繰り広げられます。<br /><br />両軍は出会いがしらの形で衝突、矢戦で合戦が開始され続いて騎馬戦に移り百騎単位で30回を超えるほどの激戦となり双方8百騎の犠牲を出すも勝敗つかず、日没を前にして人馬とも疲れ切って戦闘状態を保てず新田・足利千寿王軍は入間川に幕府軍は久米川にそれぞれ引き返し陣容を立て直すことになります。<br /><br /><br />茶畑に囲まれた古戦場跡に建てられた石碑の傍らには所沢市教育委員会による説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「埼玉県指定文化財(旧跡)<br />小手指がケ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう)<br /><br />小手指ケ原古戦場は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場になることが多かったのです。<br /><br />特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、進むにつれて沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。<br /><br />新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ケ原で三十余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引き返した。翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高塒らが鎌倉東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡するに至りました。<br /><br />なお、背後にある小高い塚は八旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。<br />         平成22年3月<br />                    所沢市教育委員会」<br />            <br /><br />

武蔵所沢 不敗の武家政治を誇った鎌倉幕府が御家人の不満を放置した得宗家専制政治のなかで没落の契機となった『小手指ヶ原古戦場』散歩

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2012/04/30 - 2012/04/30

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滝山氏照

滝山氏照さん

小手指ヶ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう、埼玉県所沢市北野)は元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府を攻めるため上野国新田荘の生品明神にて挙兵した新田義貞(にった・よしさだ、1300頃~1338)が八幡荘を経て一路鎌倉を目指して南下、同じく同国世良田荘にて挙兵した足利千寿王(あしかが・せんじゅおう、1330~1367・足利尊氏嫡男の幼名で後の二代将軍足利義詮)と合流、同月11日鎌倉街道上ノ道を北上した幕府討伐軍と最初に衝突した戦場です。

旗揚げした頃の新田軍は僅か150騎程度でしたが夕方頃には越後より200騎の新田一族が合流、利根川渡河時点では甲斐・信濃の源氏系軍5千騎が加わり更に関東各地の豪族たちが参集し20万7千騎を越える大部隊となったそうです。

これに対して得宗家当主北条高時(ほうじょう・たかとき、(1304~1333)が派遣した北条一門の桜田貞国(さくらだ・さだくに)を総大将とする討伐軍10万騎が鎌倉街道上ノ道を入間川に向かい11日早朝から合戦が繰り広げられます。

両軍は出会いがしらの形で衝突、矢戦で合戦が開始され続いて騎馬戦に移り百騎単位で30回を超えるほどの激戦となり双方8百騎の犠牲を出すも勝敗つかず、日没を前にして人馬とも疲れ切って戦闘状態を保てず新田・足利千寿王軍は入間川に幕府軍は久米川にそれぞれ引き返し陣容を立て直すことになります。


茶畑に囲まれた古戦場跡に建てられた石碑の傍らには所沢市教育委員会による説明板には下記の通り記載されています。

「埼玉県指定文化財(旧跡)
小手指がケ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう)

小手指ケ原古戦場は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場になることが多かったのです。

特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、進むにつれて沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。

新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ケ原で三十余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引き返した。翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高塒らが鎌倉東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡するに至りました。

なお、背後にある小高い塚は八旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
         平成22年3月
                    所沢市教育委員会」
            

交通手段
私鉄 徒歩
  • 所沢市名所旧跡マップ

    所沢市名所旧跡マップ

  • 白旗塚遠景<br /><br />辺りは茶畑で囲まれた平地で遠くに白旗塚の思われる小高い丘が見えます。

    白旗塚遠景

    辺りは茶畑で囲まれた平地で遠くに白旗塚の思われる小高い丘が見えます。

  • 白旗塚

    白旗塚

  • 小手指ケ原古戦場石碑

    小手指ケ原古戦場石碑

  • 小手指ケ原古戦場説明板

    小手指ケ原古戦場説明板

  • 白旗塚への道<br /><br />左右の茶畑の植栽を挟まれた小道を進んで白旗塚へ進みます。

    イチオシ

    白旗塚への道

    左右の茶畑の植栽を挟まれた小道を進んで白旗塚へ進みます。

  • 白旗塚登口<br /><br />丘の登り口の左右には標柱と石碑が建てられています。

    白旗塚登口

    丘の登り口の左右には標柱と石碑が建てられています。

  • 白旗塚土盛修復記念碑<br /><br />当塚は源氏後裔の新田義貞が源氏の旗「白旗」を掲げて陣とした塚で、土盛修復した後に新規に標柱が建てられています。

    白旗塚土盛修復記念碑

    当塚は源氏後裔の新田義貞が源氏の旗「白旗」を掲げて陣とした塚で、土盛修復した後に新規に標柱が建てられています。

  • 白旗塚土盛修復記念碑

    白旗塚土盛修復記念碑

  • 白旗塚土盛修復記念碑<br /><br />北野中学校生徒奉仕による白旗塚修復の碑文が下記のごとく記されています。<br /><br />「盛土の土は地元の岩田清氏の提供。教員生徒が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ5ケ年の歳月をかけて修復。防砂に箸我を植え平成24年1月31日をもって本事業を完了した。<br /><br />盛土の総量約50m3生徒数(白旗塚自治会の協力含む)延べ350名この間文化財奉仕活動に尽力された北野中学校生徒の功績を讃えて茲に記し碑文とする。<br />                 平成24年3月吉日」<br /><br />

    白旗塚土盛修復記念碑

    北野中学校生徒奉仕による白旗塚修復の碑文が下記のごとく記されています。

    「盛土の土は地元の岩田清氏の提供。教員生徒が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ5ケ年の歳月をかけて修復。防砂に箸我を植え平成24年1月31日をもって本事業を完了した。

    盛土の総量約50m3生徒数(白旗塚自治会の協力含む)延べ350名この間文化財奉仕活動に尽力された北野中学校生徒の功績を讃えて茲に記し碑文とする。
                     平成24年3月吉日」

  • 石碑    <br />白旗塚登口脇に石碑が建っています。

    石碑    
    白旗塚登口脇に石碑が建っています。

  • 白旗塚頂上<br /><br />白旗塚石碑と浅間神社の石祠堂が在ります。

    白旗塚頂上

    白旗塚石碑と浅間神社の石祠堂が在ります。

  • 白旗塚頂上

    白旗塚頂上

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