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南九州の名城巡りです。

2017暮、南九州の名城(6/26):12月12日(6):人吉城(6/7):三の丸、三の丸の眺望

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2017/12/12 - 2017/12/14

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旅人のくまさん

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南九州の名城巡りです。

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  • 人吉城の三の丸付近の石垣光景です。虎口を形成している石垣部分のようでした右手前に見えている石垣は、野面積のようです。

    イチオシ

    人吉城の三の丸付近の石垣光景です。虎口を形成している石垣部分のようでした右手前に見えている石垣は、野面積のようです。

  • 三の丸址に建っていた標識の光景です。自然石を使った石標ではなく、弾痕らしいものが残るコンクリート製のようでした。文字は読み取れませんでしたが、ネット情報では、『三の丸下段にはかつて於津賀社という、相良氏入城前の代官・矢瀬主馬祐をまつる社があった。現在はその礎石が残る』と紹介されていました。周りに見えるのがその礎石のようです。

    三の丸址に建っていた標識の光景です。自然石を使った石標ではなく、弾痕らしいものが残るコンクリート製のようでした。文字は読み取れませんでしたが、ネット情報では、『三の丸下段にはかつて於津賀社という、相良氏入城前の代官・矢瀬主馬祐をまつる社があった。現在はその礎石が残る』と紹介されていました。周りに見えるのがその礎石のようです。

  • 一部の積石が崩壊した、三の丸付近の石垣光景です。本丸の南に二の丸が位置し、その南側と東側を取り囲むように三の丸が配された人吉城の縄張りです。

    一部の積石が崩壊した、三の丸付近の石垣光景です。本丸の南に二の丸が位置し、その南側と東側を取り囲むように三の丸が配された人吉城の縄張りです。

  • 三の丸址から眺めた麓の光景です。球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣が築かれた人吉城です。その球磨川沿いに築かれていた石垣と再建された長塀が下方に見えています。

    三の丸址から眺めた麓の光景です。球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣が築かれた人吉城です。その球磨川沿いに築かれていた石垣と再建された長塀が下方に見えています。

  • 同じく、三の丸址から眺めた北側方面の麓光景です。球磨川はこの辺りでは、おおむね東西に流れ、途中から北西に方角を変え、八代で八代海(不知火海)に注ぎます。熊本県最大の河川で、最上川、富士川と並ぶ日本三大急流の一とされます。

    同じく、三の丸址から眺めた北側方面の麓光景です。球磨川はこの辺りでは、おおむね東西に流れ、途中から北西に方角を変え、八代で八代海(不知火海)に注ぎます。熊本県最大の河川で、最上川、富士川と並ぶ日本三大急流の一とされます。

  • 三の丸址から眺めた麓の光景が続きます。眼下に神社の屋根が見える、南側方面の光景になるようです。神社は、この後紹介する人吉護国神社です。

    三の丸址から眺めた麓の光景が続きます。眼下に神社の屋根が見える、南側方面の光景になるようです。神社は、この後紹介する人吉護国神社です。

  • 二の丸址から眺めた城内と、その先の人吉市街の光景です。右側に人吉護国神社の境内が見える、南側方面の光景になります。<br />

    イチオシ

    二の丸址から眺めた城内と、その先の人吉市街の光景です。右側に人吉護国神社の境内が見える、南側方面の光景になります。

  • 少し怪しくなった空模様でしたが、お城見学中に雨が降り出すことはありませんでした。黒雲の下に見える人吉市街の光景です。

    少し怪しくなった空模様でしたが、お城見学中に雨が降り出すことはありませんでした。黒雲の下に見える人吉市街の光景です。

  • 二の丸から三の丸付近の石垣光景と、杉木立の光景です。あとで植林されたらしい杉木立は、二の丸を中心に林立していました。<br />

    二の丸から三の丸付近の石垣光景と、杉木立の光景です。あとで植林されたらしい杉木立は、二の丸を中心に林立していました。

  • 冬木立になった樹木の光景です。実を一杯に着けたセンダン(栴檀)のようでした。センダン科センダン属の落葉高木です。オウチ(楝)やアミノキなどの別名を持ちます。『栴檀は双葉より芳し』のことわざでよく知られますが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)の誤りとするのが定説になっているようです。

    冬木立になった樹木の光景です。実を一杯に着けたセンダン(栴檀)のようでした。センダン科センダン属の落葉高木です。オウチ(楝)やアミノキなどの別名を持ちます。『栴檀は双葉より芳し』のことわざでよく知られますが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)の誤りとするのが定説になっているようです。

  • 人吉城跡の見学を終えて、下山する途中の光景です。左手前方に、多重石塔のような外観の建造物が見えてきました。

    人吉城跡の見学を終えて、下山する途中の光景です。左手前方に、多重石塔のような外観の建造物が見えてきました。

  • 同じく、人吉城跡の見学を終えて、下山する途中の光景です。緑の草の上に散り敷いた落葉の光景です。

    同じく、人吉城跡の見学を終えて、下山する途中の光景です。緑の草の上に散り敷いた落葉の光景です。

  • 多重石塔のような外観を持ったモニュメントらしい施設光景です。近くには立ち寄りませんでしたから、30層ほどの施設の詳細は分かりませんでした。ネット情報でも、まだ検索できていません。

    多重石塔のような外観を持ったモニュメントらしい施設光景です。近くには立ち寄りませんでしたから、30層ほどの施設の詳細は分かりませんでした。ネット情報でも、まだ検索できていません。

  • 辺り一面を覆い尽くしたイチョウ(公孫樹)やカエデ(楓)などの落葉光景です。黄色い葉が公孫樹で、左上付近の赤っぽい色がカエデの落葉です。

    辺り一面を覆い尽くしたイチョウ(公孫樹)やカエデ(楓)などの落葉光景です。黄色い葉が公孫樹で、左上付近の赤っぽい色がカエデの落葉です。

  • 同じく、辺り一面を覆った落葉の光景です。左手に三の丸から麓に下りる石段の一部が見えていました。

    同じく、辺り一面を覆った落葉の光景です。左手に三の丸から麓に下りる石段の一部が見えていました。

  • 人吉城の麓まで下りて来ました。前方に見えてきたのは、かつての城主の館にあったとされる池泉回遊式の庭園です。この後、もう少し詳しく説明します。

    人吉城の麓まで下りて来ました。前方に見えてきたのは、かつての城主の館にあったとされる池泉回遊式の庭園です。この後、もう少し詳しく説明します。

  • かつての城主の館跡に建てられた、『相良護国神社』の拝殿光景です。創建は、明治13年(1880年)とされます。

    イチオシ

    かつての城主の館跡に建てられた、『相良護国神社』の拝殿光景です。創建は、明治13年(1880年)とされます。

  • 『御館(みたち)跡庭園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この池泉回遊式庭園は、天和3年(1683年)、相良氏の邸宅である御館(みたち)の庭園として築かれたことなどが紹介されていました。

    『御館(みたち)跡庭園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この池泉回遊式庭園は、天和3年(1683年)、相良氏の邸宅である御館(みたち)の庭園として築かれたことなどが紹介されていました。

  • 『御館(みたち)跡庭園』の景観の中の中心施設とされる、石橋の光景です。池で泳ぐ赤い魚の姿が見えました。緋鯉か錦鯉のようです。

    『御館(みたち)跡庭園』の景観の中の中心施設とされる、石橋の光景です。池で泳ぐ赤い魚の姿が見えました。緋鯉か錦鯉のようです。

  • 『御館(みたち)跡庭園』の光景が続きます。先ほど紹介した説明パネルには、御館は藩政の中心で、公的な接客、応対を行った表御殿の南端には、大広間や使者の間が置かれ、この庭園を眺めることができたと紹介されていました。

    『御館(みたち)跡庭園』の光景が続きます。先ほど紹介した説明パネルには、御館は藩政の中心で、公的な接客、応対を行った表御殿の南端には、大広間や使者の間が置かれ、この庭園を眺めることができたと紹介されていました。

  • 先に撮影しておいた『御館(みたち)跡庭園』の光景です。東北側からの眺めになるようです。中央奥に相良護国神社の鳥居が見えています。

    先に撮影しておいた『御館(みたち)跡庭園』の光景です。東北側からの眺めになるようです。中央奥に相良護国神社の鳥居が見えています。

  • 同じく、先に撮影しておいた『御館(みたち)跡庭園』の光景です。中央手前に鯉に餌をあげるのに適したように見える、平らで大きな敷石が置かれていました。

    同じく、先に撮影しておいた『御館(みたち)跡庭園』の光景です。中央手前に鯉に餌をあげるのに適したように見える、平らで大きな敷石が置かれていました。

  • 南側から眺めた、相良護国神社の鳥居光景です。参道の正面奥に、拝殿が見えていました。人吉城址に位置し、現在の住所は、人吉市麓町になります。

    南側から眺めた、相良護国神社の鳥居光景です。参道の正面奥に、拝殿が見えていました。人吉城址に位置し、現在の住所は、人吉市麓町になります。

  • 『相良護国神社』の文字が刻まれた、苔生した古い石標の光景です。人吉城、別名繊月城の御館跡に明治13年(1880年)に創建されました。

    『相良護国神社』の文字が刻まれた、苔生した古い石標の光景です。人吉城、別名繊月城の御館跡に明治13年(1880年)に創建されました。

  • 『相良護国神社』の入口脇にあった石灯篭の光景です。拝殿に向かって右側の石灯篭だったようです。何段にも積まれた台石の上に置かれていました。

    『相良護国神社』の入口脇にあった石灯篭の光景です。拝殿に向かって右側の石灯篭だったようです。何段にも積まれた台石の上に置かれていました。

  • 同じく、『相良護国神社』の入口脇にあった石灯篭の光景です。こちらが拝殿に向かって左側の石灯篭だったようです。右後ろに見えるのが、『郡市遺族会館』の建物のようです。

    同じく、『相良護国神社』の入口脇にあった石灯篭の光景です。こちらが拝殿に向かって左側の石灯篭だったようです。右後ろに見えるのが、『郡市遺族会館』の建物のようです。

  • かつての人吉城の城郭の跡らしい石垣と冬枯れの蓮池の光景です。石橋の上から眺めた西側方面の光景です。

    かつての人吉城の城郭の跡らしい石垣と冬枯れの蓮池の光景です。石橋の上から眺めた西側方面の光景です。

  • 同じく、かつての人吉城の城郭の跡らしい石垣と冬枯れの蓮池の光景です。石橋の上から眺めた東側方面の光景です。期待した鳥の姿はありませんでした。

    同じく、かつての人吉城の城郭の跡らしい石垣と冬枯れの蓮池の光景です。石橋の上から眺めた東側方面の光景です。期待した鳥の姿はありませんでした。

  • 『御館(みたち)入口』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『御館』は歴代城主の居館で、南側に正面入口だったことなどが紹介されていました。

    『御館(みたち)入口』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『御館』は歴代城主の居館で、南側に正面入口だったことなどが紹介されていました。

  • 南側の橋の袂から眺めた、『御館(みたち)入口』となる石橋の光景です。石橋の先に相良護国神社の鳥居が見えていました。

    南側の橋の袂から眺めた、『御館(みたち)入口』となる石橋の光景です。石橋の先に相良護国神社の鳥居が見えていました。

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