2017/10/16 - 2017/10/24
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tono202さん
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羊蹄山のふもとの吹きだし公園で有名な京極町。そこは名前の通り、四国丸亀藩の旧藩主によって開かれた町だという。
関わったのは旧藩主たち。郡長や国家公務員に「就職」していた忠臣達が旧藩主の要請で職を辞して、開墾地を選定し、入植者を全国から募集し、彼らを叱咤激励し指導しながら切り開いた大地。そんな痕跡を京極町で探してみた。
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やってきたのは京極ふきだし公園。
まずは京極の遠景を掴むためにこの展望台に登ることにする。 -
一直線の階段を上り詰めると・・
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広がる畑と市街地
その中を尻別川がゆったりと流れる -
明治20年頃は有島武郎の有島農場がそうであったように華族や資産家が殖産のため北海道で農場を経営することがブームのようになっていた時代だった。旧丸亀願京極家の家臣で、貴族院議員であった三崎亀之助も、京極家の将来の安泰のために農場設立を考える。その際に相談したのが、明治二十年から向洞爺に入植して着実な開拓を進めている旧家臣三橋政之だ。こうして、丸亀藩の忠臣達の三崎、三橋、と初代管理人となる児玉忠広のラインで具体化が進めらた。
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明治三十年、旧丸亀藩主の京極高徳子爵の名で字ワッカタサップ番外地の荒野二百四十万坪(八百ヘクタール)の開拓を目的に設立されたのが京極農場である。
この眼下に広がる大地がそれである。 -
向こうの小高い丘には京極神社があり、そのふもとに招致された3つの寺院が建立されている。そして今は役場や小・中学校が並ぶ文教地帯となっている。
まずは吹き上げ公園でのどを潤し、次に京極農場の事務所跡を訪ねてみよう。 -
ふきあげ公園入口には、唐松の美林が並んでいる。
ハラハラと針のような落葉を落としている。 -
階段下に吹きだし口から流れ出し、生まれたばかりの川が見えてきた。
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その階段の途中に、ミズナラの巨樹が番人のように入口には立っている。
開拓の際に守り神として残された樹木なのだろうか。
開拓者の回顧談には、伐採についてつぎのような話が語られている。
「畑と言う字は火へんに田で、原野の草木を焼き払って耕地を作る意味だと聞いていました。一口に焼くと言っても、それはやさしい仕事ではなかったのです。
切っても尽きることのない樹木、まったく樹木が敵でした。疲れ果てて傍らの大木のこずえを見上げていると、名も知らぬ小鳥たちが鳴きながら飛び立ち、人間の非力を憐れんでいるかのようでした。
私達の開墾地は、大森林の中にできた小さな穴のようなものです。
その穴が隣の開墾地の穴とつながって広く大空が見えるようになって「羊蹄山は、こんな方角にあったのかと気が付いた」という話をよく聞きました。
空が開かれて、周りの森のこずえを越して他の開墾地の火入れの煙が見えました。
「ああ、あっちにも開墾者がいる。負けるもんか」そう思ってひたすら伐木、笹狩り、火入れに励んだものです。
働いても働いても開墾は進まず、第1年目の作物は早霜にやられ、ほとんど何も取れませんでした。」
この吹きだしに入った入植者は、この巨樹を伐採せずに残した。
そんな開墾の苦難を見つめてきた巨樹かもしれない。
「ミズナラ」は京極町の町木になっている。 -
この公園の土地も入植した個人のものであったそうだ。
それが町に寄贈され、今は公園に整備されている。 -
羊蹄山の伏流水が、ここからあふれ出す。
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多くの人たちがペットボトルで水くみにやってきている。
まさに天然水。 -
そして川となって流れ出し、尻別川へと合流していく
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ふきだし公園から尻別川を渡ると、社会福祉協議会の建物の前に自然林が残る。
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その森の中に巨人が立っていた。
樹齢三百年以上、周囲が約5メートル、高さ約20メートルといわれるにれの大木だ。ここが、もと京極農場の事務所があった所。
巨人は、開拓の歴史を見守ってきたのだろうか。 -
木の根元には、熊が冬眠できそうな大きな洞が空いている。
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農場地の貸付を受けた京極家では、明治三十年洞爺村から香川県財田村出身者五戸二十七名を開拓指導者として招いて開墾を指導する準備を整えた。
その上で、翌年に石川、富山の両県から小作人を募集・入植させ、初めて集落が形造られた。
この開拓指導者を入れるという案は三崎-三橋の線で計画されたものだろう。
土地選定から運営開始まで準備周到である。
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京極農場の事務所跡所には、百周年記念碑が建立されている。
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明治28年11月に北海道庁に出された京極農場の開拓計画書を要約すると以下のようになる。
121万9千716坪の内、樹林地29万7千坪を以下の方法により畑に開墾する。
樹林地には目通り3尺廻り(直径約30cm)の赤タモの木(ニレの木)1,700本、タモの木1,500本、ナラの木500本があり、これらを伐木し畑地に開墾する。
赤タモ、タモ、ナラの木は現在では床の集成材や野球のバットに利用されていますが、当時は薪や炭に利用する以外に利用価値がなく伐木後は燃やされた。
初年(明治29年)は2万2,500坪を畑に開墾する。
農具唐鍬山刀、鎌を用い、小作人4戸を移住させて畑に開墾する。
その費用は225円で一反当たり3円の割で開墾費用とする。
小作人の住む小屋4棟建築し、その費用は20円(但し小屋造築補助費5円の割)事務所及び倉庫共1棟建築するその費用は300円(建坪30坪、10円の割)
道路308間(560m)開設費、その費用92円40銭(但し間口30銭の割)
管理人1名雇入れ年給144円、創業資金として300円として合計1,081円40銭となっている。
小作人1戸で1年間に5千坪、3年間で1万5千坪を開墾させる。
小屋建設補助金として5円を給付するが開墾後の土地は3年後から一反歩当たり1円の小作料を徴収する。
農具は小作人の自弁とする。
開かれた畑がニレの巨木の前に広がり、冬を待っている。 -
次にやって来たのは京極神社のある小高い丘の麓。
丘に下に赤い鳥居が立つ。 -
一家団欒のゆとりもないほどに開墾に追われる人々。
その心のよりどころとして京極農場は、明治31年に京都男山八幡神社から分霊しこの丘に祭り、神社山と呼ぶことにした。 -
鳥居から拝殿に向かって階段が一直線に伸びている。
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参道には紅葉が敷き詰められたように落ちていた。冬がそこまでやってきている。
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たてがみの立派な狛犬が出迎えてくれる。
開拓者たちの回顧談 2
灯下は“小とぼし”というものを使いました。小さなカンヅメくらいの大きさのブリキ缶に石油を入れ、木綿ひもの芯をつけて点火するのですが、ローソクくらいの明るさです。石油は4合ビンに1本ずつ事務所から配給されました。無くなってもらいに行くと、「使いすぎる」と叱られました。叱られるのが嫌だから」、なるべく石油を使わず、いろりのたき火で我慢しました。
フロは大木の切株で、中心がうつろになっているのを見つけて輪切りにし、中をくりぬき、片方に石油缶のブリキを広げて張りつけて底にしました。手ごろな石をならべ、その上にこのフロをのせ、下から火を焚く野天フロでした。
お茶などはぜいたく品でした。たいてい柳の新芽を摘んでそれを干して茶の代用としましたが、もちろんおいしいはずがありません。わらじも初めはブドウの皮で作りましたが、ゴワゴワして堅く、はき心地が悪いので、米のあき俵を払下げしてもらい、そのワラで作りました。米のあき俵は夏のワラジ、冬のツマゴ作りに貴重な材料でした。 -
そして真新しい拝殿と本殿が広い境内に建つ。
開拓者の回顧談 3
農場小作人は鍬下3年で、その後は米麦、みそ、農具、種子、日用品など一切を農場から貸してもらいました。したがって個人入植者のように日常生活物資でひどく困ることはありませんでした。
ただ、配給品を受取るためにほんの5~6町離れた事務所まで行き来するのにほねがおれました。
今の三条通りは、農場の道路としてワッカタサップ橋のあたりまで、木を切り倒し、笹を刈ってありました。笹は刈ったとはいうものの根元が1尺以上も残っており、危なくて暗くなればとても歩けませんでした。この笹の切株の中を歩くために、シコロの木を切って割り、手製の下駄をつくりました。緒はブドウづるの皮です。
今の三条通り□(ひとがしらの下にトの屋号)守さんのあたりはひどい谷地で、うっかりぬかると大変だから太い木を何本も倒して丸木橋のようにしてその上を渡って歩いたものです。
農場からの食料は1日どれくらいあったか忘れましたが、米が3、麦が7の割合でした。故郷の加賀は米作地ですから、こんな麦飯を食べたことはありませんでした。香川県から移住してきた田尾牛松さんに麦飯の炊き方を教えてもらったが、つい麦を残して米だけ先に食べてしまいました。そこで事務所の人に見つからないように倶知安まで往復7里の道もいとわず、こっそりと米を買いに行ったものです。 -
境内の隅にあるこの建物は?
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参拝後に社務所横の倉庫をのぞくと・・・
獅子舞の姿が描かれている。
それは讃岐の獅子舞とそっくり。
香川県の丸亀市と京極町は、姉妹縁組を結んで交流を続けている。 -
京極農場は神社、寺院(広徳寺)の建立、学校(京極小学校)や郵便局の設立などにも力を尽くした。
それらの建物は、神社のある丘の麓に集まっている。 -
地域が発展し人口が増えると農場の一部を返上して市街地とした。
大正12年には、大規模な造田を行うなどこの町の発展のうえに果たした役割は大きい。
大正8年鉄道開通と共に駅名を、更に昭和15年村名を「京極」としたのも京極農場との深い関わりからだろう。 -
京極農場は、昭和13年小作者120余名に農場を開放して、明治30年以来41年に亘る開拓の歴史を閉じた。しかし、町名として今にその名は残っている。
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京極町の役場
開拓者の回顧談 4
こういう生活を続けながら1年がかりで開墾した土地は2~3反もあったでしょうか。働き手の多い家でも4~5反が精一杯だったと思います。いやまだまだ開墾できたかもしれませんが、皆の心の底にはやがて国へ帰ろうという気持ちが潜んでいるのだから良い成績があがらないのです。
どんなに苦しんで働いても土地は自分のものにならず、出発前に故郷と想像したのと、現実はあまりにもかけ離れていたからであります。
「何の為に北海道へ来たのか」・・・と、そぞろに故郷が懐かしくなり、帰郷したくて矢も楯もとまらないという気持ちになるのでした。
それでも小作者たちは1坪、2坪と土地にしがみつくように開墾したのは、1反につき3円の開墾手当が欲しかったからです。今更故郷にも戻れず、そうして大地にむかうより地に生きてゆく方法がなかったのであります。 -
この後、町立図書館で町史等の資料を見せてもらい京極町を後にした。
尻別川沿いの国道を走っていると、それまで雲に隠れていた羊蹄山が姿を見せてくれた。
「いっぺんで何もかんも分かろうとしたらいかん。全てが見えてくるのはまだまだ先のこと。今日はこれだけ・・・」
と呟いているような気がしてきた。
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