祖谷渓・かずら橋・大歩危旅行記(ブログ) 一覧に戻る
四国3県に隣接する徳島県西部に位置する祖谷渓は、吉野川の支流の祖谷川が2億年の歳月をかけて刻んだエメラルドグリーン色を呈した風光明媚なV字渓谷です。降水量が豊富で青々とした樹木が生い茂り、断崖の高さは200m、全長は8kmにも及びます。人を拒絶するような険しい地形から、この一帯は日本の原風景が残る「日本三大秘境」にも数えられ、大自然の宝庫となっています。断崖絶壁、深い淵、小暗い山道などが点在し、これらの大自然を舞台にした伝説や風物と触れ合える濃厚な旅ができます。<br />渓谷が織りなす絶景に見惚れながら、平家落人の悲哀の歴史に思いを馳せ、郷土料理に舌鼓を打つとは、贅沢三昧な旅です。日本人が愛してやまない秘境の旅のエッセンスがここに詰まっています。また、ラフティングや観光遊覧船などが愉しめる大歩危・小歩危峡もあり、アクティビティーにもこと欠きません。

桐葉知秋 阿波紀行⑨秘境 西祖谷<後編>エピローグ

871いいね!

2017/10/06 - 2017/10/07

2位(同エリア647件中)

0

57

montsaintmichel

montsaintmichelさん

四国3県に隣接する徳島県西部に位置する祖谷渓は、吉野川の支流の祖谷川が2億年の歳月をかけて刻んだエメラルドグリーン色を呈した風光明媚なV字渓谷です。降水量が豊富で青々とした樹木が生い茂り、断崖の高さは200m、全長は8kmにも及びます。人を拒絶するような険しい地形から、この一帯は日本の原風景が残る「日本三大秘境」にも数えられ、大自然の宝庫となっています。断崖絶壁、深い淵、小暗い山道などが点在し、これらの大自然を舞台にした伝説や風物と触れ合える濃厚な旅ができます。
渓谷が織りなす絶景に見惚れながら、平家落人の悲哀の歴史に思いを馳せ、郷土料理に舌鼓を打つとは、贅沢三昧な旅です。日本人が愛してやまない秘境の旅のエッセンスがここに詰まっています。また、ラフティングや観光遊覧船などが愉しめる大歩危・小歩危峡もあり、アクティビティーにもこと欠きません。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス

PR

  • 祖谷ふれあい公園(車窓)<br />祖谷渓温泉ホテル 秘境の湯の近くに、キャンプ場を兼ねた遊園地風の施設があります。因みに祖谷渓は、青森の谷地温泉や北海道のニセコ薬師温泉などと並び、「日本三秘湯」に数えられている温泉地でもあります。<br />ここの名物「てんとうむしモノライダー」は、山肌の斜面をなぞるように全長430mの園内を周遊することができるアトラクションです。モノライダーは、みかん農家のモノレールを彷彿とさせる趣です。<br />今の時期は樹木が生い茂って周囲からは目立たちませんが、冬場は鉄の構造物が剥き出しになるのかと思うと複雑な気持ちになります。景観を壊さず、子どもたちを自然の中で遊ばせる工夫ができないものでしょうか?

    祖谷ふれあい公園(車窓)
    祖谷渓温泉ホテル 秘境の湯の近くに、キャンプ場を兼ねた遊園地風の施設があります。因みに祖谷渓は、青森の谷地温泉や北海道のニセコ薬師温泉などと並び、「日本三秘湯」に数えられている温泉地でもあります。
    ここの名物「てんとうむしモノライダー」は、山肌の斜面をなぞるように全長430mの園内を周遊することができるアトラクションです。モノライダーは、みかん農家のモノレールを彷彿とさせる趣です。
    今の時期は樹木が生い茂って周囲からは目立たちませんが、冬場は鉄の構造物が剥き出しになるのかと思うと複雑な気持ちになります。景観を壊さず、子どもたちを自然の中で遊ばせる工夫ができないものでしょうか?

  • 平家屋敷民俗資料館(西岡家住宅)<br />県道45号でバスから降り、高台へ少し急坂を登って行くと質素な門が見えてきます。<br />茅葺屋根と瓦葺の裳腰が素朴さを放つ建物は、平家の末裔が暮らした民家であり、平家の資料や遺品を展示しています。実は、「平家の隠れ里伝説」で知られる安徳帝の御典医だった堀川内記の子孫代々の屋敷です。堀川内記は、平家都落ちの折、安徳帝を供奉して屋島に落ち延び、平家滅亡後、残党と共に東祖谷の大枝に入山し、薬草の豊富な祖谷で医業と神官を務めた人物です。後年、蜂須賀公の阿波入国の際には反旗を翻えして戦い、負傷者の治療にも当たりました。しかし祖谷軍は敗れ、堀川家も処罰されましたが、後に赦されて当地西岡の名主となって西岡に姓を改め、今日に至ります。現在の当主は第20代だそうです。

    平家屋敷民俗資料館(西岡家住宅)
    県道45号でバスから降り、高台へ少し急坂を登って行くと質素な門が見えてきます。
    茅葺屋根と瓦葺の裳腰が素朴さを放つ建物は、平家の末裔が暮らした民家であり、平家の資料や遺品を展示しています。実は、「平家の隠れ里伝説」で知られる安徳帝の御典医だった堀川内記の子孫代々の屋敷です。堀川内記は、平家都落ちの折、安徳帝を供奉して屋島に落ち延び、平家滅亡後、残党と共に東祖谷の大枝に入山し、薬草の豊富な祖谷で医業と神官を務めた人物です。後年、蜂須賀公の阿波入国の際には反旗を翻えして戦い、負傷者の治療にも当たりました。しかし祖谷軍は敗れ、堀川家も処罰されましたが、後に赦されて当地西岡の名主となって西岡に姓を改め、今日に至ります。現在の当主は第20代だそうです。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />庭には、いずれも樹齢800年の「大モミジ」や「モクセイ」が聳え、江戸時代の古民家をそのまま保存した館内には、鎧・旗・古文書・生活用具など歴史ファン垂涎の的となる品々が展示されています。写真は、門の手前にあった「大モミジ」です。<br />資料館がある三好市は、徳島県の西端、四国のほぼ中央に位置していることから「四国のヘソ」と呼ばれています。2006年に近隣の町村合併によって生まれた比較的新しい市ですが、人口3万人弱なるも年々減少傾向にあるそうです。

    平家屋敷民俗資料館
    庭には、いずれも樹齢800年の「大モミジ」や「モクセイ」が聳え、江戸時代の古民家をそのまま保存した館内には、鎧・旗・古文書・生活用具など歴史ファン垂涎の的となる品々が展示されています。写真は、門の手前にあった「大モミジ」です。
    資料館がある三好市は、徳島県の西端、四国のほぼ中央に位置していることから「四国のヘソ」と呼ばれています。2006年に近隣の町村合併によって生まれた比較的新しい市ですが、人口3万人弱なるも年々減少傾向にあるそうです。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />平家落人が定着する前からあった集落には美しい山里がそのまま遺され、まさに「天空の里」です。2005年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。かつては茅葺屋根の民家ばかりだったそうですが、時代と共に変容するのは止むを得ないところです。<br />入山した平国盛は、祖谷街道からも土佐街道からも目に付き難い阿佐名に居を構え、平家再興を画策しましたが、願い虚しく安徳帝は突然崩御されました。国盛は、大枝に安徳帝を祀る鉾神社を、阿佐に定福寺と十二社権現を建立し、帝と祖先の冥福を祈りました。<br />その国盛も、入山23年目の1208年に「この地の平穏と子孫の繁栄を図れ。名を消して墓に入れ」と遺言し、49年の生涯を閉じたと伝わります。

    平家屋敷民俗資料館
    平家落人が定着する前からあった集落には美しい山里がそのまま遺され、まさに「天空の里」です。2005年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。かつては茅葺屋根の民家ばかりだったそうですが、時代と共に変容するのは止むを得ないところです。
    入山した平国盛は、祖谷街道からも土佐街道からも目に付き難い阿佐名に居を構え、平家再興を画策しましたが、願い虚しく安徳帝は突然崩御されました。国盛は、大枝に安徳帝を祀る鉾神社を、阿佐に定福寺と十二社権現を建立し、帝と祖先の冥福を祈りました。
    その国盛も、入山23年目の1208年に「この地の平穏と子孫の繁栄を図れ。名を消して墓に入れ」と遺言し、49年の生涯を閉じたと伝わります。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />主屋は土蔵と共に建造当初の姿を残した贅を尽くした造りであり、2009年、共に三好市指定有形文化財に認定されています。<br />主屋は、木造茅葺、寄棟造、平屋建で、幕末期に宮大工が3年の歳月をかけて造ったとされています。

    平家屋敷民俗資料館
    主屋は土蔵と共に建造当初の姿を残した贅を尽くした造りであり、2009年、共に三好市指定有形文化財に認定されています。
    主屋は、木造茅葺、寄棟造、平屋建で、幕末期に宮大工が3年の歳月をかけて造ったとされています。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />「コビラ玄関」という珍しい造りです。

    平家屋敷民俗資料館
    「コビラ玄関」という珍しい造りです。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />内部は、全て欅の大木を組んで造られ、天井はありません。部屋には壁や押し入れもなく、戸を外せば一室になります。囲炉裏も通年火を通したままで、その煙でいぶされて黒光りする木材は山里の情緒を漂わせます。

    平家屋敷民俗資料館
    内部は、全て欅の大木を組んで造られ、天井はありません。部屋には壁や押し入れもなく、戸を外せば一室になります。囲炉裏も通年火を通したままで、その煙でいぶされて黒光りする木材は山里の情緒を漂わせます。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />石臼があり、民謡「祖谷の粉ひき唄」が聞こえてきそうな佇まいです。<br />かつては、粟や稗、とうもろこし等を粉にして常食とし、急傾斜地農業に依存する自給自足の生活を強いられていました。また、粉引きは重労働であるだけでなく、嫁の夜なべ仕事であり、労を慰めるためや昼間の疲れからくる睡魔に耐えるために唄われたのが「祖谷の粉ひき唄」です。<br />祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣(ゆ)の如く 風も吹かんのに ゆらゆらと <br />吹かんのに 吹かんのに 風も 風も吹かんのに ゆらゆらと<br />祖谷のかずら橋ゃ ゆらゆら ゆれど 主と手を引きゃ 怖くない<br />手を引きゃ 手を引きゃ 主と 主と手を引きゃ 怖くない<br />祖谷のかずら橋ゃ 様(さま)となら渡る 落ちて死んでも もろともに<br /> ・・・<br />祖谷の源内さんは 稗の粉にむせた お茶がなかったら むせ死ぬる<br /> ・・・<br />粉ひき婆さん お年はいくつ わたしゃ挽き木の うない年(おない年)<br /> ・・・<br />粉ひけ粉ひけと ひかせておいて 荒い細いの なしょたてる<br /> ・・・<br />諸行無常というか、戦に敗れ、偏狭の地に命からがら落ち延び、しかも何時また追っ手に襲撃されるかも知れぬ極限状態にも拘わらず、歌詞に上品さが漂うのは平家がモチーフだからでしょうか?<br />揺れる橋を見つめながら、遠い京の都を偲んで唄ったという説も棄て難いものがあります。

    平家屋敷民俗資料館
    石臼があり、民謡「祖谷の粉ひき唄」が聞こえてきそうな佇まいです。
    かつては、粟や稗、とうもろこし等を粉にして常食とし、急傾斜地農業に依存する自給自足の生活を強いられていました。また、粉引きは重労働であるだけでなく、嫁の夜なべ仕事であり、労を慰めるためや昼間の疲れからくる睡魔に耐えるために唄われたのが「祖谷の粉ひき唄」です。
    祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣(ゆ)の如く 風も吹かんのに ゆらゆらと 
    吹かんのに 吹かんのに 風も 風も吹かんのに ゆらゆらと
    祖谷のかずら橋ゃ ゆらゆら ゆれど 主と手を引きゃ 怖くない
    手を引きゃ 手を引きゃ 主と 主と手を引きゃ 怖くない
    祖谷のかずら橋ゃ 様(さま)となら渡る 落ちて死んでも もろともに
     ・・・
    祖谷の源内さんは 稗の粉にむせた お茶がなかったら むせ死ぬる
     ・・・
    粉ひき婆さん お年はいくつ わたしゃ挽き木の うない年(おない年)
     ・・・
    粉ひけ粉ひけと ひかせておいて 荒い細いの なしょたてる
     ・・・
    諸行無常というか、戦に敗れ、偏狭の地に命からがら落ち延び、しかも何時また追っ手に襲撃されるかも知れぬ極限状態にも拘わらず、歌詞に上品さが漂うのは平家がモチーフだからでしょうか?
    揺れる橋を見つめながら、遠い京の都を偲んで唄ったという説も棄て難いものがあります。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />展示品の中では、平家の盛衰と共に戦地で翻っていた「平家の赤旗(レプリカ)」は必見です。レプリカの割には、ガラスで囲って厳重な展示ですが…。<br />平家の栄達への勢いの早さは、皮肉にも相対する滅亡への早さでもありました。その激烈な興亡は赤という色こそが相応しく、源氏は奇しくも白旗、まさに対照的でした。

    平家屋敷民俗資料館
    展示品の中では、平家の盛衰と共に戦地で翻っていた「平家の赤旗(レプリカ)」は必見です。レプリカの割には、ガラスで囲って厳重な展示ですが…。
    平家の栄達への勢いの早さは、皮肉にも相対する滅亡への早さでもありました。その激烈な興亡は赤という色こそが相応しく、源氏は奇しくも白旗、まさに対照的でした。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />本物の「平家の赤旗」は、国盛から数えて23代目の子孫 阿佐道彦さんが暮らす阿佐家屋敷に保管されていますが、残念ながら非公開です。外目には森林に囲まれ屋敷は見えず、南には県境の京柱峠を見晴らすことができる、追っ手の襲来を警戒できる天然の要害の地に建てられています。因みに身分を隠すため、4代目以降、阿波と土佐の国境にある土地に因み、阿佐家と改名したそうです。<br />秘蔵の赤旗大小2流は、ボロボロで黄ばんではいるものの、時代考証の結果、往時の血痕も確認され、「現存する日本最古の軍旗」と認定されています。大旗は本陣用、小旗は戦陣用に用いたと伝えられ、それぞれ「八幡大菩薩」の文字が書かれ、向かい揚羽は阿佐家の家紋にもなっています。

    平家屋敷民俗資料館
    本物の「平家の赤旗」は、国盛から数えて23代目の子孫 阿佐道彦さんが暮らす阿佐家屋敷に保管されていますが、残念ながら非公開です。外目には森林に囲まれ屋敷は見えず、南には県境の京柱峠を見晴らすことができる、追っ手の襲来を警戒できる天然の要害の地に建てられています。因みに身分を隠すため、4代目以降、阿波と土佐の国境にある土地に因み、阿佐家と改名したそうです。
    秘蔵の赤旗大小2流は、ボロボロで黄ばんではいるものの、時代考証の結果、往時の血痕も確認され、「現存する日本最古の軍旗」と認定されています。大旗は本陣用、小旗は戦陣用に用いたと伝えられ、それぞれ「八幡大菩薩」の文字が書かれ、向かい揚羽は阿佐家の家紋にもなっています。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />祖谷伝承は、「屋島で敗れた平国盛は、安徳帝を守り、讃岐山脈を越え、吉野川に出て南岸に渡った」と伝えます。<br />安徳帝は高倉天皇と平清盛の娘 徳子の間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させて2歳で天皇に即位しました。しかし安徳帝に関しては、祖谷をはじめ鹿児島県三島村や対馬など全国20ヶ所に隠れ住んだとの伝承があり、謎めいています。<br />伝承では、屋島の戦い後、平家の一部が帝を連れて祖谷に隠れたと伝えます。平家を再興させ一族郎党を再結集するには、清盛の孫 安徳帝は不可欠でした。各地に安徳帝の伝説があるのは、安徳帝が生きており、その所在を攪乱させる工作だったとも考えられます。<br />一方、源氏は、安徳帝が没したのを広め、平家再興を挫こうと腐心しました。故に、『平家物語』や『源平盛衰記』には没したと書かせ、安徳天皇陵を下関に造り、琵琶法師により全国に流布させたのです。これも源氏の情報戦です。現在も同様に、SNSにはフェイクニュースが氾濫しており、読み手の冷静な判断力が求めらています。<br />鎌倉幕府編纂『吾妻鏡』は、壇の浦の戦いを「平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった」と語るのみです。故に、二位の尼(清盛の妻)と安徳帝、及び平家武将が入水したというのは、勝者が創った歴史だった可能性があります。あるいは、入水した安徳帝も国盛も影武者だったと判り、記さなかったとも考えられます。<br />「もうひとつの平家物語」を紹介しているHPです。<br />http://nishi-awa.jp/heike/html/story/

    平家屋敷民俗資料館
    祖谷伝承は、「屋島で敗れた平国盛は、安徳帝を守り、讃岐山脈を越え、吉野川に出て南岸に渡った」と伝えます。
    安徳帝は高倉天皇と平清盛の娘 徳子の間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させて2歳で天皇に即位しました。しかし安徳帝に関しては、祖谷をはじめ鹿児島県三島村や対馬など全国20ヶ所に隠れ住んだとの伝承があり、謎めいています。
    伝承では、屋島の戦い後、平家の一部が帝を連れて祖谷に隠れたと伝えます。平家を再興させ一族郎党を再結集するには、清盛の孫 安徳帝は不可欠でした。各地に安徳帝の伝説があるのは、安徳帝が生きており、その所在を攪乱させる工作だったとも考えられます。
    一方、源氏は、安徳帝が没したのを広め、平家再興を挫こうと腐心しました。故に、『平家物語』や『源平盛衰記』には没したと書かせ、安徳天皇陵を下関に造り、琵琶法師により全国に流布させたのです。これも源氏の情報戦です。現在も同様に、SNSにはフェイクニュースが氾濫しており、読み手の冷静な判断力が求めらています。
    鎌倉幕府編纂『吾妻鏡』は、壇の浦の戦いを「平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった」と語るのみです。故に、二位の尼(清盛の妻)と安徳帝、及び平家武将が入水したというのは、勝者が創った歴史だった可能性があります。あるいは、入水した安徳帝も国盛も影武者だったと判り、記さなかったとも考えられます。
    「もうひとつの平家物語」を紹介しているHPです。
    http://nishi-awa.jp/heike/html/story/

  • 平家屋敷民俗資料館<br />土蔵は、木造瓦葺、切妻造、2階建で、主屋と同時期に造られたものです。上から火が入らないように屋根を上に載せた構造にしており、「火入らずの蔵」と言われたそうです。この時代の祖谷地方の建物に屋根瓦は珍しく、前戸は三重になり、外戸は土でできています。

    平家屋敷民俗資料館
    土蔵は、木造瓦葺、切妻造、2階建で、主屋と同時期に造られたものです。上から火が入らないように屋根を上に載せた構造にしており、「火入らずの蔵」と言われたそうです。この時代の祖谷地方の建物に屋根瓦は珍しく、前戸は三重になり、外戸は土でできています。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />2階の扉の上の飾りには「ウサギ」が跳ねています。<br /><br />平国盛の名は、平氏系図を調べても見当たりません。それは、祖谷に落ち延びた平教経は、その名を初名「国盛」に戻したからです。平教経と言えば、源義経の最大の好敵手としてその名を馳せた人物です。<br />平教経は、平清盛の異母弟 平教盛の次男であり、「合戦で一度の不覚もとらなかった」と称される平家随一の猛将です。『平家物語』では、清盛亡き後、平家が源義仲に都を追われる場面から登場します。大将 足利義清に追討される平家を奮い立たせ、陣頭に立って奮戦し、ついに義清を自刃に追い込み、大勝しました(水島の戦い:1183年)。<br />源義経に急襲された屋島では、「王城一の強弓」で名を馳せた教経は自慢の弓で義経の四天王の一人 佐藤継信を射抜きました。また、源平最後の大戦「壇ノ浦の戦い」では、義経を追い詰め、義経は舟を飛びながら逃げるしか術がなかったと伝えています(義経の八艘跳び)。<br />しかし謎めいたことに、平教経は3度死んでいます。1度目は一の谷の合戦で討死(吾妻鏡)、2度目は壇ノ浦の戦いで30人力で知られた敵方の安芸兄弟を両脇に抱えたまま、もろとも海に沈みました(平家物語)。そして、最後は、祖谷の地に落ち延びた23年後、49年の生涯を閉じました。「不死身」と信じられ生存伝説を生んだ武将は少なくありませんが、源義経同様、そのライバル平教経も例外ではありませんでした。

    平家屋敷民俗資料館
    2階の扉の上の飾りには「ウサギ」が跳ねています。

    平国盛の名は、平氏系図を調べても見当たりません。それは、祖谷に落ち延びた平教経は、その名を初名「国盛」に戻したからです。平教経と言えば、源義経の最大の好敵手としてその名を馳せた人物です。
    平教経は、平清盛の異母弟 平教盛の次男であり、「合戦で一度の不覚もとらなかった」と称される平家随一の猛将です。『平家物語』では、清盛亡き後、平家が源義仲に都を追われる場面から登場します。大将 足利義清に追討される平家を奮い立たせ、陣頭に立って奮戦し、ついに義清を自刃に追い込み、大勝しました(水島の戦い:1183年)。
    源義経に急襲された屋島では、「王城一の強弓」で名を馳せた教経は自慢の弓で義経の四天王の一人 佐藤継信を射抜きました。また、源平最後の大戦「壇ノ浦の戦い」では、義経を追い詰め、義経は舟を飛びながら逃げるしか術がなかったと伝えています(義経の八艘跳び)。
    しかし謎めいたことに、平教経は3度死んでいます。1度目は一の谷の合戦で討死(吾妻鏡)、2度目は壇ノ浦の戦いで30人力で知られた敵方の安芸兄弟を両脇に抱えたまま、もろとも海に沈みました(平家物語)。そして、最後は、祖谷の地に落ち延びた23年後、49年の生涯を閉じました。「不死身」と信じられ生存伝説を生んだ武将は少なくありませんが、源義経同様、そのライバル平教経も例外ではありませんでした。

  • 平家屋敷民俗資料館<br />西岡家の瓦紋は「丸に三つ柏」です。<br />古代では食器の代わりに柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていました。これに由来し、柏は「神聖な木」とされていました。「柏手を打つ」とは神意を呼び覚ますことを言い、柏は神社や神家と深い縁があるようです。安徳帝の御典医だった堀川内記は祖谷で神官も務めたと伝承されており、柏を家紋に使っても不思議ではありません。<br /><br />平国盛の長男 氏盛が阿佐姓に改名し、それが現在の阿佐家に繋がっています。第23代となる現当主の阿佐道彦氏は、家宝の「平家の赤旗(大小二旒)」をはじめ家系図や宝刀などを受け継いでいます。また、阿佐集落にある鉾神社は、国盛が鉾を納めて社を建てたと伝えられ、現在、その中には安徳帝と国盛の木像が安置されています。更には、境内に聳える幹回り10m以上ある杉の巨木は推定樹齢800年以上とされ、その杉は国盛が手植えしたとの由来から「国盛杉」と呼ばれています。<br />他にも、落ち延びた平家一行が籠った岩窟を「平家の岩窟」と呼んだり、安徳帝が装束を掛けたという「装束石」、鉾を立て掛けたという「鉾立て石」などもあります。<br />タイムスリップした気分に襲われながら、次のスポットへ向かいます。

    平家屋敷民俗資料館
    西岡家の瓦紋は「丸に三つ柏」です。
    古代では食器の代わりに柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていました。これに由来し、柏は「神聖な木」とされていました。「柏手を打つ」とは神意を呼び覚ますことを言い、柏は神社や神家と深い縁があるようです。安徳帝の御典医だった堀川内記は祖谷で神官も務めたと伝承されており、柏を家紋に使っても不思議ではありません。

    平国盛の長男 氏盛が阿佐姓に改名し、それが現在の阿佐家に繋がっています。第23代となる現当主の阿佐道彦氏は、家宝の「平家の赤旗(大小二旒)」をはじめ家系図や宝刀などを受け継いでいます。また、阿佐集落にある鉾神社は、国盛が鉾を納めて社を建てたと伝えられ、現在、その中には安徳帝と国盛の木像が安置されています。更には、境内に聳える幹回り10m以上ある杉の巨木は推定樹齢800年以上とされ、その杉は国盛が手植えしたとの由来から「国盛杉」と呼ばれています。
    他にも、落ち延びた平家一行が籠った岩窟を「平家の岩窟」と呼んだり、安徳帝が装束を掛けたという「装束石」、鉾を立て掛けたという「鉾立て石」などもあります。
    タイムスリップした気分に襲われながら、次のスポットへ向かいます。

  • JR大歩危駅(車窓)<br />大歩危橋から見下ろした大歩危駅です。この橋を渡り終えると国道32号に合流します。<br />停車中の列車は、大歩危駅14:20始発の「四国まんなか千年ものがたり(しあわせの郷紀行)」です。9月19日に乗客1万人を突破した、人気を博す観光列車です。偶然にもカメラを構えていたため、瞬撮することができラッキーでした。こうした瞬撮には、ピント合わせが超高速になる、通称「親指AF」がお勧めです。ピントは親指に、露光とシャッターは人差し指に役割分担させます。中級機以上ならカメラのモード設定で対応できると思います。<br />「四国まんなか千年ものがたり」は、JR四国が徳島県大歩危駅 ー 香川県多度津駅間を土讃線経由で2017年4月1日より運行している観光列車です。コンセプトは「おとなの遊山」。かつて、徳島の子どもたちは桃の節句などにお弁当を持って野山に行く「遊山」と呼ばれる風習があり、それを現代風にアレンジし、大人の洒落た小旅行が気軽に愉しめる観光列車です。<br />列車名は、地理的にも四国のまんなかを走行し、沿線に弘法大師の生誕地善通寺や古くから海の神様として信仰を集める金刀比羅宮、平家落人の秘話や伝説が今なお残る秘境祖谷地方など、千年を超える歴史的な文化があることから命名されています。

    JR大歩危駅(車窓)
    大歩危橋から見下ろした大歩危駅です。この橋を渡り終えると国道32号に合流します。
    停車中の列車は、大歩危駅14:20始発の「四国まんなか千年ものがたり(しあわせの郷紀行)」です。9月19日に乗客1万人を突破した、人気を博す観光列車です。偶然にもカメラを構えていたため、瞬撮することができラッキーでした。こうした瞬撮には、ピント合わせが超高速になる、通称「親指AF」がお勧めです。ピントは親指に、露光とシャッターは人差し指に役割分担させます。中級機以上ならカメラのモード設定で対応できると思います。
    「四国まんなか千年ものがたり」は、JR四国が徳島県大歩危駅 ー 香川県多度津駅間を土讃線経由で2017年4月1日より運行している観光列車です。コンセプトは「おとなの遊山」。かつて、徳島の子どもたちは桃の節句などにお弁当を持って野山に行く「遊山」と呼ばれる風習があり、それを現代風にアレンジし、大人の洒落た小旅行が気軽に愉しめる観光列車です。
    列車名は、地理的にも四国のまんなかを走行し、沿線に弘法大師の生誕地善通寺や古くから海の神様として信仰を集める金刀比羅宮、平家落人の秘話や伝説が今なお残る秘境祖谷地方など、千年を超える歴史的な文化があることから命名されています。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />「児啼爺(こなきじじい)」が三好郡三名村字平に伝わる妖怪であることを記した文献が発見されたのをきっかけに、山城町上名地区が児啼爺の故郷とされ、2008年に世界妖怪協会から全国2例目の「怪遺産」に認定されています。因みに1例目は鳥取県堺港市、3例目は岩手県遠野市です。<br />実は山城町には50種類以上160ヶ所以上の妖怪の伝承や遺跡が残されており、その数は日本随一です。その妖怪たちに因み、道の駅には木製の妖怪モニュメントが4体置かれています。<br />「一つ目入道」の後方のガラス扉には、「歓迎」という言葉が10ヵ国語で記されているのが判るでしょうか?意外な所では、ハンガリーやヴェトナム語なんてものあります。著名な観光地でも、ここまでカバーできている所は少ないのでは?こうした秘境で、体験型旅行をエンジョイする海外リピーターが増えている証だと思います。

    道の駅 ラピス大歩危
    「児啼爺(こなきじじい)」が三好郡三名村字平に伝わる妖怪であることを記した文献が発見されたのをきっかけに、山城町上名地区が児啼爺の故郷とされ、2008年に世界妖怪協会から全国2例目の「怪遺産」に認定されています。因みに1例目は鳥取県堺港市、3例目は岩手県遠野市です。
    実は山城町には50種類以上160ヶ所以上の妖怪の伝承や遺跡が残されており、その数は日本随一です。その妖怪たちに因み、道の駅には木製の妖怪モニュメントが4体置かれています。
    「一つ目入道」の後方のガラス扉には、「歓迎」という言葉が10ヵ国語で記されているのが判るでしょうか?意外な所では、ハンガリーやヴェトナム語なんてものあります。著名な観光地でも、ここまでカバーできている所は少ないのでは?こうした秘境で、体験型旅行をエンジョイする海外リピーターが増えている証だと思います。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />大歩危の近くにある山城町上名は、水木しげる氏の名作『ゲゲゲの鬼太郎』の「児啼爺」の伝承地です。阿波伝承「おぎゃなき伝説」を民俗学者 柳田國男氏が『妖怪名彙』や『妖怪談義』で児啼爺として紹介したのをきっかけに、水木氏が漫画の名脇役として世に知らめました。<br />『妖怪談義』には、「阿波の山中にいるという怪で、形は爺だが赤ん坊の泣き声を出す。あるいは赤ん坊の姿に化けて山中で泣いているともいうのは、どうやらこしらえ話らしい」とあります。一般には、体は赤子で顔は老人、赤子の泣き声を真似る妖怪とされ、年齢は3100歳。泣く児啼爺を見つけた通行人が憐れんで抱き上げると、体重が次第に重くなり、放そうとしてもしがみついて離れず、遂には命を奪われてしまうと伝えられています。

    道の駅 ラピス大歩危
    大歩危の近くにある山城町上名は、水木しげる氏の名作『ゲゲゲの鬼太郎』の「児啼爺」の伝承地です。阿波伝承「おぎゃなき伝説」を民俗学者 柳田國男氏が『妖怪名彙』や『妖怪談義』で児啼爺として紹介したのをきっかけに、水木氏が漫画の名脇役として世に知らめました。
    『妖怪談義』には、「阿波の山中にいるという怪で、形は爺だが赤ん坊の泣き声を出す。あるいは赤ん坊の姿に化けて山中で泣いているともいうのは、どうやらこしらえ話らしい」とあります。一般には、体は赤子で顔は老人、赤子の泣き声を真似る妖怪とされ、年齢は3100歳。泣く児啼爺を見つけた通行人が憐れんで抱き上げると、体重が次第に重くなり、放そうとしてもしがみついて離れず、遂には命を奪われてしまうと伝えられています。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />徳島県の山間部は、現在は鉄道や道路が整備されて往来が便利になっていますが、かつては往来が困難な場所で、道中で命を落とす者も少なくなかったそうです。少しでも気を抜けば、崖から転落したり、川に流されるという危険が日常の中に潜んでいました。「児啼爺」はじめこれらの妖怪伝説が生まれたのは、親たちが子供たちに自然の脅威から命を守るための心得えとして、代々伝承してきたことが始まりだとも考えられています。それ故、一見不気味に思える妖怪たちですが、どことなく親近感のある愛らしい存在でもあります。こうした強面にされたのも、いわば人間の身勝手からです。

    道の駅 ラピス大歩危
    徳島県の山間部は、現在は鉄道や道路が整備されて往来が便利になっていますが、かつては往来が困難な場所で、道中で命を落とす者も少なくなかったそうです。少しでも気を抜けば、崖から転落したり、川に流されるという危険が日常の中に潜んでいました。「児啼爺」はじめこれらの妖怪伝説が生まれたのは、親たちが子供たちに自然の脅威から命を守るための心得えとして、代々伝承してきたことが始まりだとも考えられています。それ故、一見不気味に思える妖怪たちですが、どことなく親近感のある愛らしい存在でもあります。こうした強面にされたのも、いわば人間の身勝手からです。

  • 道の駅 ラピス大歩危「蜘蛛取り淵の一つ目入道」<br />伝説は次のように語ります。<br />蜘蛛取り淵の上に小屋を建てて住む男がいた。夕飯後に居眠りをしていると、外から蜘蛛が入って来て男の足に糸を付けてはまた外に出る仕草を繰り返した。男は何の気も無しに足に付いた糸を小屋の柱に巻き付けてそのまま寝入ってしまった。<br />するとその夜中、小屋は轟音と共に淵の底に引き込まれて沈んでしまった。男は命からがら小屋から逃げ出し、淵を見るとそこには大きな一つ目入道が居たそうだ。

    道の駅 ラピス大歩危「蜘蛛取り淵の一つ目入道」
    伝説は次のように語ります。
    蜘蛛取り淵の上に小屋を建てて住む男がいた。夕飯後に居眠りをしていると、外から蜘蛛が入って来て男の足に糸を付けてはまた外に出る仕草を繰り返した。男は何の気も無しに足に付いた糸を小屋の柱に巻き付けてそのまま寝入ってしまった。
    するとその夜中、小屋は轟音と共に淵の底に引き込まれて沈んでしまった。男は命からがら小屋から逃げ出し、淵を見るとそこには大きな一つ目入道が居たそうだ。

  • 道の駅 ラピス大歩危「一つ目入道」<br />2010年にリニューアルオープンした「妖怪屋敷」には、怖いながらもどこか愛嬌のある70体もの妖怪人形たちが並べられています。これらは、半年の期間と延べ700人以上もの地元の方々による、愛情が込められた手づくり作品だそうです。<br />妖怪屋敷の監修者 下岡昭一氏は、生まれ育った山城の町興しのため、住人に故郷への愛着を深めてもらって過疎化を防せごうと妖怪伝説を集め、全展示物のデザインを手がけられました。<br />妖怪について下岡氏は、「山里には、無闇に立ち入ると命に関わる危険な場所が多い。妖怪伝承は、そうした場所を判り易く伝えるために創られた」と分析されています。人が自然と共存するための知恵として伝承されてきたのかもしれません。

    道の駅 ラピス大歩危「一つ目入道」
    2010年にリニューアルオープンした「妖怪屋敷」には、怖いながらもどこか愛嬌のある70体もの妖怪人形たちが並べられています。これらは、半年の期間と延べ700人以上もの地元の方々による、愛情が込められた手づくり作品だそうです。
    妖怪屋敷の監修者 下岡昭一氏は、生まれ育った山城の町興しのため、住人に故郷への愛着を深めてもらって過疎化を防せごうと妖怪伝説を集め、全展示物のデザインを手がけられました。
    妖怪について下岡氏は、「山里には、無闇に立ち入ると命に関わる危険な場所が多い。妖怪伝承は、そうした場所を判り易く伝えるために創られた」と分析されています。人が自然と共存するための知恵として伝承されてきたのかもしれません。

  • 道の駅 ラピス大歩危「鬼姥(おにうば)」<br />かつて鬼姥八剣大権現として祀られていた鬼姥は、日没後に鬼姥の住む社の前を通りかかると飛び出てきて人間を襲ったため、日没以降は誰もこの社の前を通らなかったそうです。それでお賽銭箱の後ろに潜んでいるのですね!<br /><br />ここのフードコーナーには、地元に伝わる妖怪タヌキ「うどん狸」を基にした名物メニューがあります。うどん狸は瀬貝地区に伝わる妖怪で、高齢者に取り付いて大量のうどんを平らげたところを退治され、腹を割くとうどんが溢れ出したという伝説です。<br />特産の特大油揚げ「ぼけあげ」を2等分し、その中にうどんや山菜、肉団子などの具材を詰めてタヌキの腹に見立てています。油揚げを割き、具材をしょうゆベースのだし汁と絡ませて食べます。時間があれば食してみてください。

    道の駅 ラピス大歩危「鬼姥(おにうば)」
    かつて鬼姥八剣大権現として祀られていた鬼姥は、日没後に鬼姥の住む社の前を通りかかると飛び出てきて人間を襲ったため、日没以降は誰もこの社の前を通らなかったそうです。それでお賽銭箱の後ろに潜んでいるのですね!

    ここのフードコーナーには、地元に伝わる妖怪タヌキ「うどん狸」を基にした名物メニューがあります。うどん狸は瀬貝地区に伝わる妖怪で、高齢者に取り付いて大量のうどんを平らげたところを退治され、腹を割くとうどんが溢れ出したという伝説です。
    特産の特大油揚げ「ぼけあげ」を2等分し、その中にうどんや山菜、肉団子などの具材を詰めてタヌキの腹に見立てています。油揚げを割き、具材をしょうゆベースのだし汁と絡ませて食べます。時間があれば食してみてください。

  • 道の駅 ラピス大歩危「尻子玉を抜くエンコ(河童)」<br />カッパ伝承は日本全国に流布され、呼び名も、河童や河太郎、ガワッパ、カワエロ、フチザル、カワコ等、地方によって様々です。徳島県では主に河太郎と言いますが、大歩危の辺りでは「エンコ」と呼ばれます。<br />姿形はと言うと、彫刻のようなものもありますが、似ても似つかないものもあり、それらを見比べるだけでも興味は尽きません。<br />「エンコ」は、ドロメキ淵に住み、人や馬が近づくと、引き込んで尻子玉(お尻の穴の中にある架空の臓器)を抜き取ると伝わります。人は尻子玉を抜かれてしまうと腑抜けになり、それが溺死の原因になるそうです。「ドロメキ」は、轟くことを指すと言われています。何でもない川で溺死するケースも多いのですが、これが「エンコ」の仕業と噂されます。

    道の駅 ラピス大歩危「尻子玉を抜くエンコ(河童)」
    カッパ伝承は日本全国に流布され、呼び名も、河童や河太郎、ガワッパ、カワエロ、フチザル、カワコ等、地方によって様々です。徳島県では主に河太郎と言いますが、大歩危の辺りでは「エンコ」と呼ばれます。
    姿形はと言うと、彫刻のようなものもありますが、似ても似つかないものもあり、それらを見比べるだけでも興味は尽きません。
    「エンコ」は、ドロメキ淵に住み、人や馬が近づくと、引き込んで尻子玉(お尻の穴の中にある架空の臓器)を抜き取ると伝わります。人は尻子玉を抜かれてしまうと腑抜けになり、それが溺死の原因になるそうです。「ドロメキ」は、轟くことを指すと言われています。何でもない川で溺死するケースも多いのですが、これが「エンコ」の仕業と噂されます。

  • 道の駅 ラピス大歩危「野鹿池の龍神と乙姫」<br />野鹿池は、山城町の最高峰でシャクナゲの名所「野鹿池山(1294m)」にある池です。池の周辺は、底なしの地と呼ばれる湿地帯です。現在も小さな野鹿池山神社が建てられ、龍神を祀り、雨乞いのご利益があるそうです。<br />伝説は次のように語ります。<br />藤川家当主 大助兵衛は狩りを好み、深山に分け入っては日を送っていた。 ある日、獲物が捕れず、池の畔に腰を下ろして「この山で怪異が起こるのは池の主の仕業だろう。龍王は在宅か」と戯れに呟いてみると、一陣の風が水面を煽ったかと思うとみるみるうちに波は沸き立ち、黒雲が天を覆い尽くして水煙と共に龍が現れた。やがて龍は昇天をはじめ、従者達は恐れをなしひれ伏したが、大助兵衛だけは驚く様子もなく龍が姿を消すまで眺めていた。その夜、大助兵衛の夢に龍王が現れ、何事かを願ったらしい。    <br />すると翌朝から大助兵衛による野鹿池修築工事が始められた。大歩危の川原から1300mの高さにある山上に毎日大勢の領民が石を運んだ。やがて野鹿池には大堤防が築かれ、水が満々と湛えられて修築は完成した。この池の龍王は今も雨乞いの神として祀られ、干ばつの年は遠く讃岐、伊予の村々からも雨乞いにやって来たそうです。<br />また、野鹿池には龍王の化身とされる乙姫が住んでいた。山爺が山伏に退治された時、周辺の同族に対し「2度と人を害してはならぬ」と叫んだ。これを聞いて中津山に住む太郎坊と国見山の次郎坊は同意したが、乙姫だけは何も答えようとはしなかった。そのため、野鹿池のある山では、度々怪異が起こったと伝わります。

    道の駅 ラピス大歩危「野鹿池の龍神と乙姫」
    野鹿池は、山城町の最高峰でシャクナゲの名所「野鹿池山(1294m)」にある池です。池の周辺は、底なしの地と呼ばれる湿地帯です。現在も小さな野鹿池山神社が建てられ、龍神を祀り、雨乞いのご利益があるそうです。
    伝説は次のように語ります。
    藤川家当主 大助兵衛は狩りを好み、深山に分け入っては日を送っていた。 ある日、獲物が捕れず、池の畔に腰を下ろして「この山で怪異が起こるのは池の主の仕業だろう。龍王は在宅か」と戯れに呟いてみると、一陣の風が水面を煽ったかと思うとみるみるうちに波は沸き立ち、黒雲が天を覆い尽くして水煙と共に龍が現れた。やがて龍は昇天をはじめ、従者達は恐れをなしひれ伏したが、大助兵衛だけは驚く様子もなく龍が姿を消すまで眺めていた。その夜、大助兵衛の夢に龍王が現れ、何事かを願ったらしい。    
    すると翌朝から大助兵衛による野鹿池修築工事が始められた。大歩危の川原から1300mの高さにある山上に毎日大勢の領民が石を運んだ。やがて野鹿池には大堤防が築かれ、水が満々と湛えられて修築は完成した。この池の龍王は今も雨乞いの神として祀られ、干ばつの年は遠く讃岐、伊予の村々からも雨乞いにやって来たそうです。
    また、野鹿池には龍王の化身とされる乙姫が住んでいた。山爺が山伏に退治された時、周辺の同族に対し「2度と人を害してはならぬ」と叫んだ。これを聞いて中津山に住む太郎坊と国見山の次郎坊は同意したが、乙姫だけは何も答えようとはしなかった。そのため、野鹿池のある山では、度々怪異が起こったと伝わります。

  • 道の駅 ラピス大歩危「大天狗」<br />山城町には、天狗にまつわる地名が沢山あります。天狗滝、神籠岩の天狗、チチノキの天狗、天狗の庭、天狗の腰掛け松、天狗岳など。<br /><br />柳田國男氏は、「幽霊」と「妖怪」の相違点を3つ定義されています。<br />まず、幽霊が場所に関係なく現れるのに対し、妖怪は出没する場所が決まっていること。<br />次に、幽霊が「これぞと思う者だけ」の前に現れるのに対し、妖怪は「むしろ平々凡々の多数に向かって」出現すること。<br />最後に、幽霊が「丑三つの鐘が陰にこもって響く頃」に現れるのに対し、妖怪は「宵と暁の薄明り」によく出現すること。

    道の駅 ラピス大歩危「大天狗」
    山城町には、天狗にまつわる地名が沢山あります。天狗滝、神籠岩の天狗、チチノキの天狗、天狗の庭、天狗の腰掛け松、天狗岳など。

    柳田國男氏は、「幽霊」と「妖怪」の相違点を3つ定義されています。
    まず、幽霊が場所に関係なく現れるのに対し、妖怪は出没する場所が決まっていること。
    次に、幽霊が「これぞと思う者だけ」の前に現れるのに対し、妖怪は「むしろ平々凡々の多数に向かって」出現すること。
    最後に、幽霊が「丑三つの鐘が陰にこもって響く頃」に現れるのに対し、妖怪は「宵と暁の薄明り」によく出現すること。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />大天狗を撮影してテラスに回りこんだ刹那、目の前を「四国まんなか千年ものがたり」が悠々と通過していくではありませんか。運が良ければ見られるかなとは思っていましたが、それが現実になるとは吃驚です。<br />大歩危駅から多度津駅に向かう上り列車ですので、オレンジ色を先頭車両にした「しあわせの郷紀行」になります。<br />琴平駅は海の神様「金刀比羅宮」の玄関口です。金刀比羅宮は古来「こんぴらさん」として親しまれてきました。幸福の黄色いお守りと「しあわせさん、こんぴらさん」というキャッチフレーズで有名です。「しあわせの郷紀行」は「しあわせさん、こんぴらさん」と象頭山や飯野山など、讃岐の豊かな自然と、心を温かく包んでくれる里山のイメージから名付けれらています。<br />車両は、「剣山号」と同じくJR四国伝統の気動車「キハ185系」です。<br />車両デザインを手がけられたのは、松岡哲也氏です。松岡氏は、デザイナーではなくJR四国の社員ですが、観光列車「伊予灘ものがたり」のデザインも手がけられています。車両デザインは著名な外部デザイナーに委託するケースが多いのですが、自前で人材を育てていこうというJR四国の気概が窺えます。

    道の駅 ラピス大歩危
    大天狗を撮影してテラスに回りこんだ刹那、目の前を「四国まんなか千年ものがたり」が悠々と通過していくではありませんか。運が良ければ見られるかなとは思っていましたが、それが現実になるとは吃驚です。
    大歩危駅から多度津駅に向かう上り列車ですので、オレンジ色を先頭車両にした「しあわせの郷紀行」になります。
    琴平駅は海の神様「金刀比羅宮」の玄関口です。金刀比羅宮は古来「こんぴらさん」として親しまれてきました。幸福の黄色いお守りと「しあわせさん、こんぴらさん」というキャッチフレーズで有名です。「しあわせの郷紀行」は「しあわせさん、こんぴらさん」と象頭山や飯野山など、讃岐の豊かな自然と、心を温かく包んでくれる里山のイメージから名付けれらています。
    車両は、「剣山号」と同じくJR四国伝統の気動車「キハ185系」です。
    車両デザインを手がけられたのは、松岡哲也氏です。松岡氏は、デザイナーではなくJR四国の社員ですが、観光列車「伊予灘ものがたり」のデザインも手がけられています。車両デザインは著名な外部デザイナーに委託するケースが多いのですが、自前で人材を育てていこうというJR四国の気概が窺えます。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />逆に多度津駅から大歩危駅に向かう下り列車の場合は、緑色が先頭車両の「そらの郷紀行」になります。<br />徳島県の人たちは自分たちの住む地域より高い所を「そら」と呼び、徳島県西部の険しい山と共にある集落がいつしか「そらの郷」と呼ばれるようになりました。このことから、「そらの郷」へと向かう列車の愛称を「そらの郷紀行」と名付けています。<br />車両の随所にあしらわれている「天狗の団扇」のような形をしたトレイン・シンボルマークのモチーフのひとつになったのは、讃岐財田駅前にあるタブノキです。推定樹齢700年超とされ、樹高13m、幹回り5.5m、枝回りは四方に21mという巨木で、香川県の保存木にも指定されています。タブノキの他、善通寺のクスノキ、祖谷の鉾杉などもイメージし、このマークに決まったそうです。

    道の駅 ラピス大歩危
    逆に多度津駅から大歩危駅に向かう下り列車の場合は、緑色が先頭車両の「そらの郷紀行」になります。
    徳島県の人たちは自分たちの住む地域より高い所を「そら」と呼び、徳島県西部の険しい山と共にある集落がいつしか「そらの郷」と呼ばれるようになりました。このことから、「そらの郷」へと向かう列車の愛称を「そらの郷紀行」と名付けています。
    車両の随所にあしらわれている「天狗の団扇」のような形をしたトレイン・シンボルマークのモチーフのひとつになったのは、讃岐財田駅前にあるタブノキです。推定樹齢700年超とされ、樹高13m、幹回り5.5m、枝回りは四方に21mという巨木で、香川県の保存木にも指定されています。タブノキの他、善通寺のクスノキ、祖谷の鉾杉などもイメージし、このマークに決まったそうです。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />丁度、全3車両が見られる絶好のポジションです。<br />先頭車両は、色づく紅葉と果実を彷彿とさせるオレンジ色を基調にした3号車「秋彩(あきみのり)の章」です。讃岐平野の水田に頭を垂れる稲穂の黄金色、大歩危・小歩危峡を深紅に染める紅葉色をイメージしたカラーリングです。<br />次は、夏の川の清々しさをブルーのカラーリングで表現した2号車「夏清(なつすがし)の章」。因みに2号車の構成は季節で異なり、冬季には冬の空気の清らかさを表した白色を基調とした「冬清(ふゆすがし)の章」に置換されます。<br />そして最後尾が、若葉の芽吹きをイメージした1号車「春萌(はるあかり)の章」です。若草色から深緑へと変化するカラーリングです。

    道の駅 ラピス大歩危
    丁度、全3車両が見られる絶好のポジションです。
    先頭車両は、色づく紅葉と果実を彷彿とさせるオレンジ色を基調にした3号車「秋彩(あきみのり)の章」です。讃岐平野の水田に頭を垂れる稲穂の黄金色、大歩危・小歩危峡を深紅に染める紅葉色をイメージしたカラーリングです。
    次は、夏の川の清々しさをブルーのカラーリングで表現した2号車「夏清(なつすがし)の章」。因みに2号車の構成は季節で異なり、冬季には冬の空気の清らかさを表した白色を基調とした「冬清(ふゆすがし)の章」に置換されます。
    そして最後尾が、若葉の芽吹きをイメージした1号車「春萌(はるあかり)の章」です。若草色から深緑へと変化するカラーリングです。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />道の駅は、こんな断崖絶壁に建てられています。<br />この辺りも大歩危峡の一画になります。<br />

    道の駅 ラピス大歩危
    道の駅は、こんな断崖絶壁に建てられています。
    この辺りも大歩危峡の一画になります。

  • 道の駅 ラピス大歩危<br />観光遊覧船乗場となる「大歩危峡まんなか」が下流に見えます。

    道の駅 ラピス大歩危
    観光遊覧船乗場となる「大歩危峡まんなか」が下流に見えます。

  • 道の駅 ラピス大歩危「カマイタチ」<br />着ぐるみの「カマイタチ」君がポーズをとってくれました。<br />見た目はイタチのような生き物とされ、両手に鋭い鎌のような爪を持っています。全国的に良く知られる妖怪ですが、東北では冷たい風そのものをカマイタチと呼びます。また、西日本では、野山に捨てられた草切鎌が化けて妖怪になったという説もあります。<br />カマイタチの被害は、そのほとんどが雪国で起き、つむじ風に乗って現われて人を切りつけるとされます。出遭った者は刃物で切られたような鋭い傷を受けるものの痛みは無く、傷からは出血すらないとされます。<br />しかし、早々に科学的に証明されてしまったと言っても大過ない、悲しい運命の妖怪です。雪国で起こり易いということを糸口に、寒い時期、外で転んだ時などに足に鋭い切り傷を負うことから、「凍傷の類、またはあかぎれの一種」であることが通説になったのです。<br />勿論、この科学的根拠を一切受け付けない輩もおられるようですが…。

    道の駅 ラピス大歩危「カマイタチ」
    着ぐるみの「カマイタチ」君がポーズをとってくれました。
    見た目はイタチのような生き物とされ、両手に鋭い鎌のような爪を持っています。全国的に良く知られる妖怪ですが、東北では冷たい風そのものをカマイタチと呼びます。また、西日本では、野山に捨てられた草切鎌が化けて妖怪になったという説もあります。
    カマイタチの被害は、そのほとんどが雪国で起き、つむじ風に乗って現われて人を切りつけるとされます。出遭った者は刃物で切られたような鋭い傷を受けるものの痛みは無く、傷からは出血すらないとされます。
    しかし、早々に科学的に証明されてしまったと言っても大過ない、悲しい運命の妖怪です。雪国で起こり易いということを糸口に、寒い時期、外で転んだ時などに足に鋭い切り傷を負うことから、「凍傷の類、またはあかぎれの一種」であることが通説になったのです。
    勿論、この科学的根拠を一切受け付けない輩もおられるようですが…。

  • 大歩危峡まんなか<br />観光遊覧船乗場は、「大歩危峡まんなか」という処にあります。<br />因みに大歩危峡は、「国指定天然記念物」と「名勝」の2つの冠をいただいています。

    大歩危峡まんなか
    観光遊覧船乗場は、「大歩危峡まんなか」という処にあります。
    因みに大歩危峡は、「国指定天然記念物」と「名勝」の2つの冠をいただいています。

  • 大歩危峡まんなか 後藤新平の句碑<br />下流側の駐車場の先にある、句碑です。<br />祖谷渓と並んで名勝地として有名な吉野川の中流域に位置する8kmに亘る大渓谷が剣山国定公園に属する「大歩危・小歩危峡」です。四国・中央構造線の南に広がる渓谷であり、四国山脈の結晶片岩が吉野川の激流で浸食され、2億年の歳月をかけてつくられた千態万様の奇観を魅せる大渓谷です。<br />大歩危は、明治時代、逓信大臣だった後藤新平が紅葉の美しさから「岩に題す 天下第一 歩危の秋」の句を詠った場所です。天下の名勝として全国に知れ渡ったのは、この句のおかげと言われています。

    大歩危峡まんなか 後藤新平の句碑
    下流側の駐車場の先にある、句碑です。
    祖谷渓と並んで名勝地として有名な吉野川の中流域に位置する8kmに亘る大渓谷が剣山国定公園に属する「大歩危・小歩危峡」です。四国・中央構造線の南に広がる渓谷であり、四国山脈の結晶片岩が吉野川の激流で浸食され、2億年の歳月をかけてつくられた千態万様の奇観を魅せる大渓谷です。
    大歩危は、明治時代、逓信大臣だった後藤新平が紅葉の美しさから「岩に題す 天下第一 歩危の秋」の句を詠った場所です。天下の名勝として全国に知れ渡ったのは、この句のおかげと言われています。

  • 大歩危峡まんなか<br />坂を下りていくと、遊覧船が見えてきます。舟下りと言っても、ライン下りのように水飛沫で濡れる心配はなく、一艘に30名程乗船します。<br />因みに、駐車場から乗船場までは5分ほど要しますので、乗船時間が決められている場合は遅れないように留意ください。

    大歩危峡まんなか
    坂を下りていくと、遊覧船が見えてきます。舟下りと言っても、ライン下りのように水飛沫で濡れる心配はなく、一艘に30名程乗船します。
    因みに、駐車場から乗船場までは5分ほど要しますので、乗船時間が決められている場合は遅れないように留意ください。

  • 大歩危峡まんなか<br />大歩危・小歩危峡は、吉野川の激流によって結晶片岩が削られてできた深い渓谷です。四国山脈を越える時には、必ず通らねばならない場所で、崖が切り立ち川の流れも速いため、古くからの難所でした。<br />地名「大歩危」の由来は、漢字から察すれば「大股で歩くと危険」との意と察せられますが、「歩危(ほけ)」は渓流に臨んだ断崖を意味する古語でもあり、そこから「大歩危」に転化したとも言われています。<br />『阿波史』では「大嶂」の字を充てていますが、明治時代の地租改正では「大歩怪」の字が充てられています。その際、「こぼけ」には「小歩危」の字を充ており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになったとも言われています。

    大歩危峡まんなか
    大歩危・小歩危峡は、吉野川の激流によって結晶片岩が削られてできた深い渓谷です。四国山脈を越える時には、必ず通らねばならない場所で、崖が切り立ち川の流れも速いため、古くからの難所でした。
    地名「大歩危」の由来は、漢字から察すれば「大股で歩くと危険」との意と察せられますが、「歩危(ほけ)」は渓流に臨んだ断崖を意味する古語でもあり、そこから「大歩危」に転化したとも言われています。
    『阿波史』では「大嶂」の字を充てていますが、明治時代の地租改正では「大歩怪」の字が充てられています。その際、「こぼけ」には「小歩危」の字を充ており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになったとも言われています。

  • 大歩危峡まんなか<br />遊覧船の歴史は意外に古く、明治24~25年頃、国道開通景気に乗り大平磯吉氏が宿屋兼飲食店を開業し、一艘の「かんどり舟」で鰻漁の傍ら宿泊客の閑を慰めるために大歩危を遊覧したのが始まりです。埼玉県長瀞の船下りはNHK「ブラタモリ」では大正時代と説明されていましたので、それよりも歴史が古いことになります。巨岩奇岩が続くダイナミックな景観を間近で見ながら、船頭さんの阿波弁の名調子に傾聴しながら、30分間のクルージングを愉しみます。

    大歩危峡まんなか
    遊覧船の歴史は意外に古く、明治24~25年頃、国道開通景気に乗り大平磯吉氏が宿屋兼飲食店を開業し、一艘の「かんどり舟」で鰻漁の傍ら宿泊客の閑を慰めるために大歩危を遊覧したのが始まりです。埼玉県長瀞の船下りはNHK「ブラタモリ」では大正時代と説明されていましたので、それよりも歴史が古いことになります。巨岩奇岩が続くダイナミックな景観を間近で見ながら、船頭さんの阿波弁の名調子に傾聴しながら、30分間のクルージングを愉しみます。

  • 大歩危舟下り<br />ライフジャケットを着けて、いざ出航!<br />こちらは舟の後尾になります。<br />

    大歩危舟下り
    ライフジャケットを着けて、いざ出航!
    こちらは舟の後尾になります。

  • 大歩危舟下り<br />上流方向を振り返った様子です。<br />大歩危峡は、吉野川の中流にあり、河床と河岸には関東~九州まで帯状に分布する三波川変成岩が見られます。両岸の峨々たる岩壁は、2~1億年前に海底でつくられたものです。学名を「結晶片岩」と言い、ミルフィーユのように平板を幾層も重ねたような形をしています。結晶片岩は、中生代ジュラ紀~白亜紀にかけての海洋プレートの沈み込みにより海底の砂泥が大陸の地下深くに押し込まれ、そこで高い圧力を受けて再結晶し、それが地殻変動により地表へ現れたものです。大歩危以外では埼玉県長瀞に地上露出が見られます。結晶片岩は「三波石」や徳島では銘石「阿波青石」と呼ばれ、庭石として珍重されます。<br />大歩危の結晶片岩は、原岩が泥岩のものを泥質片岩、原岩が砂岩のものを砂質片岩と呼びます。ほとんどが砂質片岩であり、その表面は風化されて青灰色ですが、内部は鮮やかな緑色です。この砂質片岩で出来た分厚い地層が波状にうねってクラックが入り、そこが浸食されて大歩危峡が生まれました。ですから、大歩危付近の変成岩は、ドーム状の背斜という褶曲構造を示すのが特徴です。

    大歩危舟下り
    上流方向を振り返った様子です。
    大歩危峡は、吉野川の中流にあり、河床と河岸には関東~九州まで帯状に分布する三波川変成岩が見られます。両岸の峨々たる岩壁は、2~1億年前に海底でつくられたものです。学名を「結晶片岩」と言い、ミルフィーユのように平板を幾層も重ねたような形をしています。結晶片岩は、中生代ジュラ紀~白亜紀にかけての海洋プレートの沈み込みにより海底の砂泥が大陸の地下深くに押し込まれ、そこで高い圧力を受けて再結晶し、それが地殻変動により地表へ現れたものです。大歩危以外では埼玉県長瀞に地上露出が見られます。結晶片岩は「三波石」や徳島では銘石「阿波青石」と呼ばれ、庭石として珍重されます。
    大歩危の結晶片岩は、原岩が泥岩のものを泥質片岩、原岩が砂岩のものを砂質片岩と呼びます。ほとんどが砂質片岩であり、その表面は風化されて青灰色ですが、内部は鮮やかな緑色です。この砂質片岩で出来た分厚い地層が波状にうねってクラックが入り、そこが浸食されて大歩危峡が生まれました。ですから、大歩危付近の変成岩は、ドーム状の背斜という褶曲構造を示すのが特徴です。

  • 大歩危舟下り<br />舟はまず下流の小歩危方向へ下ります。左手には国道32号線、右手にはJR土讃線が並走します。水面ギリギリの目線なので、余計に渓谷のスケールに圧倒されます。水が碧色がかった色に見えるのは、この辺りで採れる阿波青石(緑泥片岩)の影響です。また、地肌を露出した地層が斜め、横へと片理している様子が見られます。川には鮎やウグイが戯れ、運が良ければ、中腹に野生の猿やカモシカが出没するそうです。

    大歩危舟下り
    舟はまず下流の小歩危方向へ下ります。左手には国道32号線、右手にはJR土讃線が並走します。水面ギリギリの目線なので、余計に渓谷のスケールに圧倒されます。水が碧色がかった色に見えるのは、この辺りで採れる阿波青石(緑泥片岩)の影響です。また、地肌を露出した地層が斜め、横へと片理している様子が見られます。川には鮎やウグイが戯れ、運が良ければ、中腹に野生の猿やカモシカが出没するそうです。

  • 大歩危舟下り<br />遊覧船の乗場周辺では「含礫片岩」が見られます。含礫片岩とは、短直に言えば大歩危でしか見られない特異な岩石です。結晶片岩の一種ですが、礫質が含まれることから「含礫」と言います。結晶片岩の中に含まれた丸い礫が煎餅のように扁平にされたものが連なるのは、礫が高圧力で押し潰されたことを物語ります。大陸起源の花崗岩類が浸食されてできた礫岩が沈み込んで変成作用を受けたことの証とされ、他に類を見ません。また、岩石組成の比較から、四万十帯の白亜紀層を源岩としている可能性が推定されています。「三名含礫片岩」は、大歩危峡チガヤノの河床に多く見られます。

    大歩危舟下り
    遊覧船の乗場周辺では「含礫片岩」が見られます。含礫片岩とは、短直に言えば大歩危でしか見られない特異な岩石です。結晶片岩の一種ですが、礫質が含まれることから「含礫」と言います。結晶片岩の中に含まれた丸い礫が煎餅のように扁平にされたものが連なるのは、礫が高圧力で押し潰されたことを物語ります。大陸起源の花崗岩類が浸食されてできた礫岩が沈み込んで変成作用を受けたことの証とされ、他に類を見ません。また、岩石組成の比較から、四万十帯の白亜紀層を源岩としている可能性が推定されています。「三名含礫片岩」は、大歩危峡チガヤノの河床に多く見られます。

  • 大歩危舟下り<br />この岩の状態が「片理が傾いている様子」です。岩層が下流に向かって45度傾斜し、背斜層を見せています。<br />片理とは、結晶片岩に特徴的に見られる構造で、岩石は片理に沿って平行に剥がれ易くなります。因みに節理は、重力方向に走る切れ目を言います。

    大歩危舟下り
    この岩の状態が「片理が傾いている様子」です。岩層が下流に向かって45度傾斜し、背斜層を見せています。
    片理とは、結晶片岩に特徴的に見られる構造で、岩石は片理に沿って平行に剥がれ易くなります。因みに節理は、重力方向に走る切れ目を言います。

  • 大歩危舟下り<br />浸食されて表面が真っ平らになった岩が見えます。<br />片理で斜めに表面が削がされ、そこを流水や風によって浸食されたのでしょう。

    大歩危舟下り
    浸食されて表面が真っ平らになった岩が見えます。
    片理で斜めに表面が削がされ、そこを流水や風によって浸食されたのでしょう。

  • 大歩危舟下り 獅子岩<br />船頭さんが左手前方にある白っぽい岩に注目するよう促します。<br />こちらから見ると何の変哲もない岩ですが、岩を通り過ぎた所から振り返ると「獅子」の形に見えます。

    大歩危舟下り 獅子岩
    船頭さんが左手前方にある白っぽい岩に注目するよう促します。
    こちらから見ると何の変哲もない岩ですが、岩を通り過ぎた所から振り返ると「獅子」の形に見えます。

  • 大歩危舟下り 獅子岩<br />渓谷には奇岩が多く、これはその形から「獅子岩」と呼ばれています。「ゴジラ」にも見えますが、ロールシャッハ・テストなる自然の彫刻です。<br />また、暴れ川の異名を象徴するように、雨が降る度に大量に砂が移動することでも知られています。因みに台風などで増水すると、レストランの地下駐車場の天井まで濁流が上がって来るそうです。改めて自然の脅威を思い知らされます。最高水位は国道32号の際まで上がる感じです。

    大歩危舟下り 獅子岩
    渓谷には奇岩が多く、これはその形から「獅子岩」と呼ばれています。「ゴジラ」にも見えますが、ロールシャッハ・テストなる自然の彫刻です。
    また、暴れ川の異名を象徴するように、雨が降る度に大量に砂が移動することでも知られています。因みに台風などで増水すると、レストランの地下駐車場の天井まで濁流が上がって来るそうです。改めて自然の脅威を思い知らされます。最高水位は国道32号の際まで上がる感じです。

  • 大歩危舟下り<br />上流の獅子岩方向を振り返った様子です。<br />「大歩危の美は、個々の美ではない」と称される通り、深い渓谷、大岩盤に片理も鮮やかに連なる岩、湛える碧の清水とのコラボレーションが織り成す自然美です。これらの普遍的な美しさに加え、深山桜やツツジが咲き乱れ、若葉が茂り、やがて全山紅葉し、落葉すると雪を呼んで季節感を滲ませます。つまり、遊覧船での見所は、「歩危小唄」に歌われる通り、渓谷美+春は桜に岩つつじ、夏は若鮎、 秋は紅葉、冬は雪景色です。その景色は、訪れる人には森厳にも、荘厳にも、神秘にも映ることでしょう 。

    大歩危舟下り
    上流の獅子岩方向を振り返った様子です。
    「大歩危の美は、個々の美ではない」と称される通り、深い渓谷、大岩盤に片理も鮮やかに連なる岩、湛える碧の清水とのコラボレーションが織り成す自然美です。これらの普遍的な美しさに加え、深山桜やツツジが咲き乱れ、若葉が茂り、やがて全山紅葉し、落葉すると雪を呼んで季節感を滲ませます。つまり、遊覧船での見所は、「歩危小唄」に歌われる通り、渓谷美+春は桜に岩つつじ、夏は若鮎、 秋は紅葉、冬は雪景色です。その景色は、訪れる人には森厳にも、荘厳にも、神秘にも映ることでしょう 。

  • 大歩危舟下り<br />大歩危~小歩危峡間はラクダのコブのように岩の層が山型に連なり、この山型の背斜層から日本列島の成り立ちを知ることができます。こうした間近に見える岩石やV字渓谷の様子から、日本列島の成り立ちが判る全国的にも貴重な地形として、国の天然記念物に指定されています。<br />通常、地層は下層ほど年代が古いのですが、大歩危峡で見られる地層は年代の古い地層が新しい年代の地層の上にあるという逆転現象が起きており、その様子が確認できる場所は大歩危峡だけです。

    大歩危舟下り
    大歩危~小歩危峡間はラクダのコブのように岩の層が山型に連なり、この山型の背斜層から日本列島の成り立ちを知ることができます。こうした間近に見える岩石やV字渓谷の様子から、日本列島の成り立ちが判る全国的にも貴重な地形として、国の天然記念物に指定されています。
    通常、地層は下層ほど年代が古いのですが、大歩危峡で見られる地層は年代の古い地層が新しい年代の地層の上にあるという逆転現象が起きており、その様子が確認できる場所は大歩危峡だけです。

  • 大歩危舟下り<br />大歩危と小歩危峡の境界部では、片理の方向が平行になっています。この先の下流の小歩危では片理の向きが大歩危に対して90度変わり、上流に45度傾いた向斜層になります。<br />因みに、「大きな歩幅で歩くと危険な場所だから大歩危」、「小幅でも危険だから小歩危」と言うそうです。「大・小」という言葉からは大歩危の方が危険な感じがしますが、実は逆だったんですねぇ~。小歩危でラフティングが盛んな理由が納得できました。

    大歩危舟下り
    大歩危と小歩危峡の境界部では、片理の方向が平行になっています。この先の下流の小歩危では片理の向きが大歩危に対して90度変わり、上流に45度傾いた向斜層になります。
    因みに、「大きな歩幅で歩くと危険な場所だから大歩危」、「小幅でも危険だから小歩危」と言うそうです。「大・小」という言葉からは大歩危の方が危険な感じがしますが、実は逆だったんですねぇ~。小歩危でラフティングが盛んな理由が納得できました。

  • 大歩危舟下り<br />折り返し地点です。左上の鉄骨は、水嵩が増えた時に遊覧船を吊り提げておくためのクレーンだそうです。川幅が狭いため、大雨が降るとあっという間に水位が上がるそうです。しかし、平時は、深い所は水深20m以上、平均6m程、浅瀬は1mにもならないようです。<br />クレーンの先の小歩危峡では、ラフティングを愉しんでおられる様子が窺えます。

    大歩危舟下り
    折り返し地点です。左上の鉄骨は、水嵩が増えた時に遊覧船を吊り提げておくためのクレーンだそうです。川幅が狭いため、大雨が降るとあっという間に水位が上がるそうです。しかし、平時は、深い所は水深20m以上、平均6m程、浅瀬は1mにもならないようです。
    クレーンの先の小歩危峡では、ラフティングを愉しんでおられる様子が窺えます。

  • 大歩危舟下り<br />アレックス氏は著書の中で次のように記しています。<br />「祖谷峡は、日本で一番深い峡谷です。…川は青い「阿波石」のためエメラルド色に染まり、聳え立つ岸壁は「玉」のよう。そして谷の向こうの山からは白い滝が、まるで筆で書いたように真っすぐに流れ落ちていました」。<br />祖谷に魅せられた彼は、この平家落人の里で茅葺の古民家を購入し、それを「城」と称して仙人のように暮らしていた時期がありました。

    大歩危舟下り
    アレックス氏は著書の中で次のように記しています。
    「祖谷峡は、日本で一番深い峡谷です。…川は青い「阿波石」のためエメラルド色に染まり、聳え立つ岸壁は「玉」のよう。そして谷の向こうの山からは白い滝が、まるで筆で書いたように真っすぐに流れ落ちていました」。
    祖谷に魅せられた彼は、この平家落人の里で茅葺の古民家を購入し、それを「城」と称して仙人のように暮らしていた時期がありました。

  • 大歩危舟下り<br />1952(昭和27)年、小歩危に高さ126m、総貯水容量3億万トンを超える四国最大のダムを造る計画が持ち上がりました。建設省四国地方建設局と電源開発が共同で計画したものです。<br />往時の四国は、台風などで洪水が頻発し、甚大な被害に辟易していました。戦争で疲弊した経済の復興を急務とした政府は、復興の妨げになる洪水被害を減らし、かつ有効利用を図ることで食糧増産と電力増強を行い、早期の経済復興を目論みました。これは、米国がテネシー川流域開発公社(TVA)の成功で世界恐慌を克服し超大国へ躍進した実績に倣った計画でした。<br />しかし、代償として大歩危・小歩危という風光明媚な名勝地が水没することから、地元住民の反対が強く、計画は頓挫しました。もしも小歩危ダムが完成していたら、この景観を見ることはできなかったのです。こうした秘話を知ればこそ、美しい景色が感慨深いものに映ります。<br />因みに、2015年に漸く本体工事が着手されるも、未だにくすぶり続けている名勝 吾妻渓谷の「八ッ場ダム」も小歩危ダムと同年に国が計画したものです。こちらは、首都圏の水不足解消と利根川の洪水対策が目的でした。しかし生活環境の進化等で首都圏では水余り現象が起こるなどダムの必要性が希薄になる中、八ッ場ダム事業は迷走状態にあると言っても過言ではありません。

    大歩危舟下り
    1952(昭和27)年、小歩危に高さ126m、総貯水容量3億万トンを超える四国最大のダムを造る計画が持ち上がりました。建設省四国地方建設局と電源開発が共同で計画したものです。
    往時の四国は、台風などで洪水が頻発し、甚大な被害に辟易していました。戦争で疲弊した経済の復興を急務とした政府は、復興の妨げになる洪水被害を減らし、かつ有効利用を図ることで食糧増産と電力増強を行い、早期の経済復興を目論みました。これは、米国がテネシー川流域開発公社(TVA)の成功で世界恐慌を克服し超大国へ躍進した実績に倣った計画でした。
    しかし、代償として大歩危・小歩危という風光明媚な名勝地が水没することから、地元住民の反対が強く、計画は頓挫しました。もしも小歩危ダムが完成していたら、この景観を見ることはできなかったのです。こうした秘話を知ればこそ、美しい景色が感慨深いものに映ります。
    因みに、2015年に漸く本体工事が着手されるも、未だにくすぶり続けている名勝 吾妻渓谷の「八ッ場ダム」も小歩危ダムと同年に国が計画したものです。こちらは、首都圏の水不足解消と利根川の洪水対策が目的でした。しかし生活環境の進化等で首都圏では水余り現象が起こるなどダムの必要性が希薄になる中、八ッ場ダム事業は迷走状態にあると言っても過言ではありません。

  • 大歩危峡まんなか<br />駐車場から見下ろした遊覧船乗場です。

    大歩危峡まんなか
    駐車場から見下ろした遊覧船乗場です。

  • 大歩危峡まんなか<br />この雄大な景観は、いつまで眺めていても飽くことがありません。

    大歩危峡まんなか
    この雄大な景観は、いつまで眺めていても飽くことがありません。

  • 大歩危峡まんなか<br />下流側の駐車場の隅にある展望台からの眺めです。<br />遊覧船で間近に臨む大歩危峡もいいのですが、こうして延々と続く岩壁を俯瞰するのも雄渾な大歩危峡の味わい方のひとつです。<br />恐らく、「四国まんなか千年ものがたり」の車窓には、こんな風景が広がっていたことでしょう。

    大歩危峡まんなか
    下流側の駐車場の隅にある展望台からの眺めです。
    遊覧船で間近に臨む大歩危峡もいいのですが、こうして延々と続く岩壁を俯瞰するのも雄渾な大歩危峡の味わい方のひとつです。
    恐らく、「四国まんなか千年ものがたり」の車窓には、こんな風景が広がっていたことでしょう。

  • 大歩危峡まんなか<br />後ろ髪を引かれながらバスに乗り込みます。

    大歩危峡まんなか
    後ろ髪を引かれながらバスに乗り込みます。

  • 小歩危峡(車窓)<br />小歩危峡は、年間を通して安定した豊富な水量と落差2m超の瀬を含めたセクションの激しさから、世界有数のラフティングスポットの中でもトップレベルの激流だそうです。また、エメラルドグリーンに輝く川面や川底まで透き通る透明度もラフティング愛好家を魅了する理由です。

    小歩危峡(車窓)
    小歩危峡は、年間を通して安定した豊富な水量と落差2m超の瀬を含めたセクションの激しさから、世界有数のラフティングスポットの中でもトップレベルの激流だそうです。また、エメラルドグリーンに輝く川面や川底まで透き通る透明度もラフティング愛好家を魅了する理由です。

  • リバーステーション West-West(車窓)<br />小歩危峡にあるラフティング&観光拠点施設です。小歩危峡は日本屈指かつ世界レベルの激流を有し、ここで年間4万人がラフティングを愉しむそうです。ラフトと呼ばれるゴムボートで激流を下っていくエキサイティングなアウトドアスポーツです。<br />2017年10月初旬、この吉野川に世界のトップアスリートが集結し、レース・ラフティング世界一を競い合いました。この日は、ラフティング世界選手権 スラローム競技(ジュニア・ユース)が開催されていました。この下がスタート地点になります。<br />因みに2017年の競技結果は、地の利でしょうか、日本成人男子チームが準優勝、成人女子チームが優勝しています。選手ならびに運営に携わられた方々、お疲れさまでした!

    リバーステーション West-West(車窓)
    小歩危峡にあるラフティング&観光拠点施設です。小歩危峡は日本屈指かつ世界レベルの激流を有し、ここで年間4万人がラフティングを愉しむそうです。ラフトと呼ばれるゴムボートで激流を下っていくエキサイティングなアウトドアスポーツです。
    2017年10月初旬、この吉野川に世界のトップアスリートが集結し、レース・ラフティング世界一を競い合いました。この日は、ラフティング世界選手権 スラローム競技(ジュニア・ユース)が開催されていました。この下がスタート地点になります。
    因みに2017年の競技結果は、地の利でしょうか、日本成人男子チームが準優勝、成人女子チームが優勝しています。選手ならびに運営に携わられた方々、お疲れさまでした!

  • 阿波池田(車窓)<br />秋祭りでしょうか、道路脇の家々には縄に紙垂が結ばれています。当方が住む阪神地区では見かけない風習です。

    阿波池田(車窓)
    秋祭りでしょうか、道路脇の家々には縄に紙垂が結ばれています。当方が住む阪神地区では見かけない風習です。

  • 阿波池田(車窓)<br />山車がアーケード街に繰り出しています。<br />ボンネットバスもアーケード街を疾走してJR阿波池田へ向かいます。<br /><br />JR徳島駅からは、高速バスで阪神三宮まで戻りました。<br />秋の風情を満喫するには少し早い時期でしたが、「食欲と芸術」の秋を堪能できた他、実りの多い旅行になりました。<br />これからは、ひと雨毎に秋も深まってまいります。季節の変わり目ですので風邪などひかないようにご自愛ください。<br /> <br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    阿波池田(車窓)
    山車がアーケード街に繰り出しています。
    ボンネットバスもアーケード街を疾走してJR阿波池田へ向かいます。

    JR徳島駅からは、高速バスで阪神三宮まで戻りました。
    秋の風情を満喫するには少し早い時期でしたが、「食欲と芸術」の秋を堪能できた他、実りの多い旅行になりました。
    これからは、ひと雨毎に秋も深まってまいります。季節の変わり目ですので風邪などひかないようにご自愛ください。
     
    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

871いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP