2017/10/06 - 2017/10/07
6位(同エリア1318件中)
montsaintmichelさん
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大塚国際美術館は、「ポカリスエット」でお馴染みの大塚グループの2代目大塚正士氏が創業75周年事業として、創業地の鳴門市に1998年に開設した美術館です。運営は一般財団法人大塚美術財団、「とくしま88景」にも選定されています。因みに、『怖い絵』シリーズで著名な西洋文化史家ドイツ文学者 中野京子女史お勧めの美術館でもあります。
異色なのは、展示作品は陶板複製画を中心に、1点たりともオリジナル作品が存在しないことです。しかも入場料は、日本一高い!なのに年間38万人以上が訪れ、学校教育にも活用されているというユニークな美術館です。賛否両論ありますが、絵画好きなら気になるスポットのはずです。
古代壁画~現代絵画に至るまで、世界25ヶ国190余の美術館が所蔵する1075点の世界名画を原寸大で色彩、表面の質感や筆遣いまで忠実に再現しています。陶板は、半永久的な耐久性を持ち、退色劣化を避けられるため文化財の記録保存のツールとして期待されています。一方、複製という性格上、レプリカでしかなく、陶板画ですので油絵具の重ね塗りの凹凸はなく平坦で、オリジナルを鑑賞したことにはなりません。オリジナル志向もいいのですが、ポジティブに「原寸大の名画図鑑」と捉え、ここでお気に入りの作品を見つけてオリジナルに会いに行けばいいのです。ただし、延床面積は国立新美術館に次ぐ広さを誇り、全作品を見るには4km程歩くことになります。覚悟を決め、ゆっくり時間をかけて愛でられることをお勧めします。
また、写真撮影がOKなのも魅力です。絵画のポーズを真似したり、色々愉しみながら写真撮影できます。
大塚国際美術館のHPです。
http://o-museum.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急 徒歩
-
大塚国際美術館
エスカヒル展望台から美術館の方向を眺めた様子です。手前の円形部がモネ『大睡蓮』の野外展示場になります。
初めの建設予定地は関西地区だったそうですが、会社発祥の地「鳴門」に何かの形で社会貢献したいとの思いから、建築費が倍に膨らむのも厭わず、この地に造ることを決意されたそうです。
また、お伽話に登場するようなお城をイメージした美術館を建てる構想もあったそうですが、瀬戸内海国立公園内にあるため、自然公園法により高さが13mを越えてはならず、景観を重んじた結果、地下5階、地上3階の建物になっています。因みに、延床面積は29412平方mもあります。 -
大塚国際美術館
故郷への社会貢献のため、美術館を建てたのは理解できました。しかし、何故オリジナルではなく、複製陶板画に拘ったのでしょうか?
それは、フランス文化相を務めたアンドレ・マルロー氏の言葉に共感したためだそうです。アンドレ氏は、「若い画家を教育するに当たり、偉人たちが一枚の絵に込めた人生観を汲み取ってもらうために、世界の名画を一堂に集めて勉強させたい」と語りました。しかし現実的には原画の収集では数が限られるため、原画に近い陶板画を展示し、若者たちに名画の世界を学んでもらおうと考えたのです。
また、1975年に大塚正士氏がソビエト連邦を訪れた際、墓地に故人の遺影が飾られているのを見られたそうです。しかしその写真は、無残にも赤茶けて古ぼけていたそうです。この時、写真を陶板に焼き付けたらどうだろうと思いつき、それも肖像陶板のきっかけとなりました。 -
大塚国際美術館
地下5階にあるエントランスから階段112段分に相当する長いエスカレータで上ると、そこが地下3階(B3)フロアになります。
因みにエスカレータで上った左側にコインロッカーがあり、手荷物を預けられます。使用後にコインは戻されますので無料です。是非手ぶらで鑑賞なさってください。
世界中の名画が原寸大で忠実に陶板に再現され、絵画によっては退色した本物を超えるものもあり、再現技術と情熱の賜物に息を呑むばかりです。世界でここにしかない稀有な美術館です。
また、絵画を観るには、構図や色彩だけではなく、その背景にあるエピソードも大切な要素です。背景を知れば、自ずと画家の想いも伝わってきます。名画が集まるこの美術館なら、そうした絵画鑑賞への身近な入口が発見できます。
お勧めは、クラブツーリズムさんが企画している『貴方も知っている名画がずらり 大塚国際美術館講座』です。大塚国際美術館の職員さんから、1時間半ほど見所の紹介をしていただけます。参加費は500円ですが、お土産に『西洋絵画300選』(税抜2376円)がいただけます。これでしっかり予習して臨むことができました。 -
大塚国際美術館
エスカレータで上った先にあるのがシスティーナ・ホールです。
会社の経営戦略も大いに係わりがあります。大塚グループが陶板の開発に着手したきっかけは、大塚化学の技術者が大塚正士社長の所へ持ってきた「一握りの砂」でした。鳴門で採れる白砂を原料に建材タイルを生産・販売する事業計画を提案したのです。やがて1m角のタイルの開発に成功するも、オイルショックで建設件数が激減し、事業化が危ぶまれました。そんな中、付加価値を提供するチャレンジとして大型陶板で美術品を複製し、後世に残すというアイデアが創生されました。初めて作られたのが尾形光琳『燕小花』でした。コンセプトは、単に文化財を鑑賞してもらうのではなく、「2000年経っても変色しない文化財を残そう」でした。そして真実の姿を未来永劫に伝えたいという熱意が、陶板一枚一枚に込められて行きました。
一見、大塚製薬としては突拍子もない「ドメインの再構築」かと思われるような展開ですが、個人的には健康路線の延長と思います。何故なら、モンタネールが説いたように「芸術は、心身の健康に繋がる」からです。 -
大塚国際美術館
「すだちくん」は、1993年に開催された東四国国体で、徳島県のマスコットとして活躍しました。勿論、モチーフとなっているのは、特産品「すだち」です。
美術館で現在開催中のイベントのテーマは、背筋がひんやりする「~あやしい絵~ 名画の怪」です。土日には、鑑賞ツアーが開催されています。
絵画と言えば、美しい作品や癒されるものを思い浮かべますが、中にはそうではないものも少なくありません。洋の東西を問わず、怪しい、可笑しい、不思議、不気味、奇妙な「怪画」が沢山あります。
ゴヤが晩年暮らしたマドリードの邸宅の「食堂」と「サロン」の漆喰壁には、そのムードから通称「黒い絵」と呼ばれる14枚の連作がありました。ゴヤ没後の1870年代に壁面からカンヴァスに移され、現在はプラド美術館蔵となっています。
今回は、2室あるうちの「食堂」にゴヤが暮らした当時の雰囲気をイメージ再現されていました。プラド美術館で観た、衝撃的な「黒い絵」をフラッシュバックさせることができました。 -
大塚国際美術館
このようにアート・コスプレで記念写真に収まることもできます。「真珠の耳飾」と「青いターバン」がポイントです。
ただし、期間限定の企画ですので事前にHPをチェックしておでかけください。
初期の開催期間はとっくに過ぎていたのですが、好評のため1ヶ月延長されておりラッキーでした。コスプレは、子ども用も準備されています。 -
ヤン・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』(1665~66年頃 マウリッツハイス美術館蔵)
部屋の正面中央でスポットライトを浴びているのが、『真珠の耳飾りの少女』です。「青いターバンの少女」とも呼ばれる作品です。
実物大の陶板画ですが、背景を暗くした陰影効果により、「北方のモナ・リザ」と称される『真珠の耳飾りの少女』のドキッとさせる眼差しに釘付けになります。
誰かに声を掛けられて振り向いたようなポーズ、憂いを含んだ眼差し、下唇を明るく光らせ、上唇の輪郭をぼかしたスフマート技法など、少女の若々しく瑞々しい質感が溢れるエキゾチックな作品です。よく観ると、イヤリングの真珠や少女の瞳には、効果的にポワンティエ(点綴法)と呼ばれる点描画が施されているのが判ります。
作者名は、教科書ではヨハネス・フェルメールだったと思いますが、本名はヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトです。この美術館では、ヤン・フェルメールを用いています。 -
ヤン・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』
フェルメール作品の中で、最も愛されていると言っても大過ない名画です。現在は『真珠の耳飾りの少女』と呼ばれますが、少女が付けている「耳飾り」は「真珠ではない」というのが定説です。
絵を所蔵するマウリッツハイス美術館も、「少女が身に付けた耳飾りの大きさ」や「歴史的背景(往時は非常に高価だった)」といった理由を挙げ、以前から「当時流行っていたヴェニス製の安いガラス製の耳飾り」と解説していました。それ故に、1995年までは「青いターバンの少女」と呼ばれていました。『真珠の耳飾りの少女』という作品名が一般的になったのは、2003年に同名の映画が公開された影響であり、ごく最近のことです。
2014年にはオランダ ライデン大学Vincent Icke教授が科学誌「New Scientis」に、耳飾りが周囲の光を反射する様子を真珠などを用いて比較実験した結果から、この耳飾りを「ガラスかスズ製」と結論付けています。しかし、絵が確実に実写されたという前提の下でしか、この実験の結果は有効ではないのですが…。 -
ヤン・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』
こうしたツーショット写真もここならOKです。
興味深いのは、特定のモデルを描いた肖像画ではなく、一般的な顔を描いた「トローニー」というジャンルの作品でありながら、多くの謎を秘めた絵画だという点です。
まず、制作年代が特定できません。画風から推測し、1665~66年頃とされていますが、その特定も1670年代の技法とは異なるとの観点だけで下されています。尚、この絵画には「IVMeer」と署名されていますが、日付はなく、制作年を特定するのは困難だそうです。
次に、注文主が誰なのか不明です。この時代、絵画は注文主から依頼で描くのが常でしたので、何の目的で描かれたのか不明なのです。
そして最大の謎は、モデルが誰なのか謎なのです。娘マーリアとの説もありますが、妻や恋人、あるいは全くの創作上の人物など諸説あり、これも特定できていません。
もう少し深堀りすると、少女は振り向いて画家の方を見つめています。実は、フェルメール作品では、こうした「カメラ目線」の作品は極めて稀です。また、唇を僅かに開き、もの言いたげな表情です。恐らく、画家は少女の心を読み解いていたことでしょう。ですから、この絵には寓意を示すための背景画は不要だったのです。
さて、モデルは誰だと思われますか?ひとつの解は、映画『真珠の耳飾りの少女』のストーリーの中にあります。 -
『エル・グレコの大祭壇衝立画』(復元)
世界で唯一ここにしかない、黄金に光輝くエル・グレコの幻の大祭壇衝立の復元です。ナポレオン戦争によって散逸した、マリア・デ・アラゴン学院にあった祭壇画を再現しています。時代考証・学術的研究等により、往時の展示形態と額縁の姿を推定し、その形を元に24金製の額縁の制作を北イタリア ヴィチェンツァの工房に発注し、2年余りの歳月と1億3000万円の費用を投資して再現したものです。この巨大な衝立画は6つのピースからなり、1つのピースは人の身長の2倍程ある巨大なものです。
推定再現ですから、オリジナルがこのようなものだったのかどうかは不明ですが、それでも目の前で見るとその重厚さに圧倒されます。
以下は、大塚国際美術館HPからの抜粋です。
かつてスペインのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院にはエル・グレコの円熟期、 1600年前後の制作になる大祭壇衝立画がありました。残念ながらこの作品は19世紀初頭、ナポレオン戦争で破壊され散逸し、幻の祭壇画となりました。スペイン美術史家、故 神吉敬三教授の説に従い、スペインのプラド美術館にあるエル・グレコの5点の作品「キリストの復活」(左上)、「キリストの磔刑」(中央上)、「受胎告知」(中央下)、「聖霊降臨」(右上)、「キリストの洗礼」(右下)にルーマニア国立美術館の1点「羊飼いの礼拝」(左下)を加えた6点で、この大祭壇衝立画を原寸大で推定復元しています。
往時のように6枚揃った展示は、実に200年ぶりだそうです。つまり、本家では、6枚揃った状態ではめったに見られないということです。 -
『風神雷神図』
2種類の風神雷神図が特別展示されています。
風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻を興す雷神の姿を描写した絵画です。
上は、款記も印章もない屏風ですが、俵屋宗達が描いた作品とされています( 寛永年間頃、建仁寺蔵 国宝)。尾形光琳が宗達の作品と気付いたのは、雲が「たらし込み」技法で描かれていたことです。
風神と雷神は元々は仏教と共に中国から渡来したもので、宗達は三十三間堂の千手観音の使者である風神と雷神の一対をモデルに2神だけを独立して描いたとされています。しかしこの絵が傑作と評されるのは、画面の両端ぎりぎりに配された2神が画面全体の緊張感をもたらし、かつそれらを補間する金箔が単なる装飾を越え、無限空間を表現しているからと言われます。
下は、尾形光琳が宗達の作品を模倣したものです(東京国立博物館蔵 重文)。
2神の大きさは宗達の作品と同じですが、画面の際ではなく、やや寄せて配置しています。また、屏風のサイズが宗達の作品より若干小さく、宗達が屏風の外に広がる空間を意識したのに対し、光琳は枠を意識し過ぎて寸詰まりの印象があり、大らかさに欠けるとされます。また、輪郭線や雲の墨が濃いことから、2神の躍動感が弱められています。
こうして見比べると一目瞭然です。 -
『紅白梅図屏風』(18世紀 MOA美術館蔵)
こちらも特別展示品です。
尾形光琳が晩年に手がけた代表作で、琳派芸術の最高傑作とも称されます。
紅白の梅の花が咲く2本の梅樹と、画面上部から下部へと末広がりに流れる流水が描かれています。本作は宗達の『風神雷神図』の2神の対照性を強く意識した作品と言われています。つまり、左右に梅樹を配しで中央に大三角形をつくる構図とし、奥行き感を強調しています。そしてそこに遠近法で流水を嵌め込んでいます。
『風神雷神図』で敗北した思いの丈をこの作品にぶつけたことが窺えます。失意に捉われず、謙虚に勝者から学んだのです。因みに、梅の枝は宗達の真骨頂「たらし込み」技法を見習って描いています。
こうして作品同士の繋がりに思いを馳せながら鑑賞でき、粋な展示です。 -
歌川広重『名所江戸百景』
これも特別展示です。
ロートレックは浮世絵から影響を受け、それまで単なる「広告」に過ぎなかったポスターを「芸術」の域にまで引き上げました。その代表作が、『ジャルダン・ド・パリのジャヌ・アヴリル』です。観る者の視線を踊り子に集中させるため、舞台下のコントラバス奏者をズームアップしてシルエットで描いています。彼に影響を及ぼしたのが歌川広重『名所江戸百景(亀戸梅屋敷)』(右側)と言われています。確かに構図と梅をズームアップしてシルエット効果を奏功させる手法は似ています。
左側は、『名所江戸百景(亀戸天神境内)』です。亀戸天神は藤や梅の名所でしたが、梅では「亀戸梅屋敷」に敵わないと考え、藤をフィーチャーしています。藤の奥に描かれた太鼓橋が、画面の中で絶妙のバランスを保っています。本来、太鼓橋の下は空と同じ色になるはずですが、初摺では間違えて藍色にしてしまったというポカミス作品です。
こうして広重の「梅」と「藤」を一度に堪能できるとは…。 -
ここからは、古代ゾーンに入ります。
「系統展示」は、西洋美術世界史を旅するといった趣向の展示方法です。紀元前16世紀~現在までを6つに区分しています。古代、中世、ルネッサンス、バロック、近代、現代にギャラリーを区分し、これらを時系列に鑑賞すれば、一日で西洋美術や世界史の変遷を学べる仕組みです。
古代ゾーンは見所が多いので、鑑賞する作品を事前に決めておかれると効率的に回れます。 -
『キージの壺』(紀元前650年頃 ヴィラ・ジュリア国立博物館蔵)
イタリア半島中部の古代エトルリアの墓地から出土した、ギリシアのコリントス地方で制作されたプロト・コリント様式の最高傑作です。器形はオイノコエ (片手付き酒をつぐ水差し器)で、装飾はマクミランの壺絵画家と同一視されています。名の由来は、かつてのイタリアの名門キージ家のコレクションだったからです。このように壺の展開写真をベースに陶板にして作品を展示するのも大塚国際美術館の真骨頂です。
器面の装飾帯は3層に分かれ、 上段には2組の歩兵連隊が槍を交えようとする様子、中段にはパリスの審判やスフィンクス、獅子狩り、騎馬行列のシーンが連なり、下段には日常的な兎狩りの様子が描かれています。
上段の兵士たちは、ペロポネソス戦争における重装歩兵の密集部隊(ファランクス)の交戦を表しています。この頃には歩兵の盾は小型化され、把手を握って盾を構え、兵士同士が隙間無く密着して隊列を組み、槍を揃えて敵陣へ突入する戦術でした。この戦術は、騎士が一騎打ちで戦う貴族政に代わり、平民が国防の主役となった共和政の時代に対応させたものとされています。 -
『キージの壺』
日本では鎌倉時代まで盛んに一騎打ちが行なわれていたと考えられてきましたが、『平家物語』などを精査した結果、意外にも一騎打ちは少数派だったことが判ったそうです。有名な川中島の戦いにおける武田信玄と上杉謙信の一騎討ちは、乱戦の中で偶然にこうした状況が作り出されたことに発します。武士道精神がこうした一騎打ちを助長させたのでしょう。 -
『アレクサンドロス・モザイク』(紀元前100年頃 ポンペイ遺跡にて発掘 ナポリ国立考古学博物館蔵)
モザイク画は凹凸の表現や金色の質感などが再現されており、石やガラスを埋め込んでいるかのようです。
紀元前334~331年、マケドニアのアレクサンドロス大王がダレイオス3世率いるペルシア軍を屈服させた「グラニコス河畔の戦い」「イッソスの戦い」「ガウガメラの戦い」のエピソードを組合わせたモザイク画です。大王は、東方遠征によって空前の大帝国を建設し、ヘレニズム時代を開いたことでも知られています。この歴史上の英雄について語る際、必ず登場する肖像画がこの絵です。本家は2~3mmの四角い大理石100万個で描かれています。
ポンペイ遺跡「ファウヌス(牧羊神)の家」から出土したもので、ギリシアの画家フィロクセノスが描いた作品をモザイクで忠実に模写したものとされています。凛々しい表情の大王は勿論、描かれた人物たちの表情の豊かさ、荒々しい息遣いが聞こえてきそうなほど躍動感に溢れています。中央のお尻を向けた馬の上では、大王の槍を受けた小姓がまさに倒れる刹那を切り取っています。 -
『アレクサンドロス・モザイク』
大王が乗っているのは、愛馬「ブケパロス」です。彼の父王が存命の頃、荒馬「ブケパロス」を乗りこなすことのできる人物はいませんでした。ところが、荒馬は自らの影に怯えて暴れていることに気付いたアレクサンドロスは、ブケパロスの向きを変えて首尾よく騎乗し、以後は彼の愛馬となったそうです。 -
『パレストリーナのナイル・モザイク』(紀元前1世紀頃 パレストリーナ国立考古学博物館蔵)
このモザイク画は、オーパーツ(謎とされる物体)として注目されており、現存するヘレニズム期の最大の作品です。高さ6m程の作品は、紀元前1世紀頃のものとされます。バルベリーニ家により、ルネッサンス期にローマに運ばれたものの、一部がそこで修復され、パレストリーナに戻されました。
主題に関しては諸説ありますが、プトレマイオス2世のエチオピア探査記念、あるいはエジプト神のイシスとオシリスの儀式を描いたとする説が有力です。パレストリーナは、紀元前8~7世紀頃に盛隆を極めたローマ近郊の古代都市で、古代ローマ帝国時代の紀元前1世紀頃に造られたフォルトゥナ神殿の遺跡で知られています。ローマ神話に登場する運命を司るフォルトゥナ女神を祀り、かつては辺り一帯が広大な都市だったそうです。因みに、このフォルトゥナが「fortune(運命)」の由来です。
神殿の中央祭壇の床を飾っていたと考えられ、アレッサンドリア出身の職人たちの手によるとされます。ナイル河上流での氾濫の様子を描いていますが、恐竜を彷彿とさせる謎の生物が描かれています。人類と恐竜の共存は史実に反しますが、恐竜は「イグアノドン」に酷似し、それ以外にも氷河期に絶滅した哺乳類「サーベルタイガー」の姿もあります。研究者たちの間では、絶命動物の生存説の裏付けになるとの意見も多いそうです。このモザイク画が史実を覆す論証になるのでしょうか? -
『パレストリーナのナイル・モザイク』
中央に描かれているのが、「イグアノドン」らしき恐竜です。
専門家の解説では、下部にあるエジプト風景はナイル河の第1瀑布周辺とイシスとオシリスの聖地で行われる祭儀と洪水時の祝祭を描いたものとしています。また、上部のエチオピア風景は洪水風景の中に未開の文明社会と共に多様な動物を描き、これとは対照的に下部のエジプト風景には神殿建築などの文明社会を描いたとしています。この対照性から、文明の神オシリスの復活がエジプトに文明をもたらした図と解釈され、ナイル・モザイクはイシスと習合したフォルトゥナの信仰図ではないかと結んでいます。
この考察に沿えば、上部のエチオピア風景に描かれた動物は「想像上の動物」ではないかと思われます。因みに下部のエジプト風景には、現在のワニやカバにそっくりな生物が描かれています。それとは対照的に、上部にはワニとカバを組み合わせたような奇怪な生物の絵があります。しかし想像だけで、恐竜をここまで正確に描くことが可能でしょうか?
さて、真偽のほどはいかがなものでしょうか?それが判らないから、「オーパーツ」たる所以なのですが…。 -
『パレストリーナのナイル・モザイク』
下の方には、現在のナイルワニやカバとほぼ同じ姿の生物も描かれています。 -
『パレストリーナのナイル・モザイク』
岩の上に立つのは、ワニとカバを組み合わせたような奇怪な生物です。
その下には巨大なカニが描かれ、左上には謎の龍のような生物がうごめいています。
細かくチェックしていたら一日かかるのでは!? -
『ナイル川の風景』 (50~75年 医師の家(ポンペイ)出土 ナポリ国立考古学博物館蔵)
『ナイル・モザイク』がオーパーツなら、こちらも負けてはいません。まさしく怪獣との格闘シーンを彷彿とさせます。また、「E.T.」のようなものも描かれています。しかし残念なことに、この絵は空想で描かれたものだということが判明しています。しかもこの絵に登場する人物は、全て小人(身長35cm程)です。ですから、怪獣もそれなりの大きさでしかなく、怪獣と呼ぶには抵抗があります。
この絵に登場するピュグマイオイ(英名:ピグミー)は、ギリシアやローマ人がアフリカの奥地に住むと考えていたギリシア神話に登場する小人です。この絵が描かれた時期は、ピュグマイオイが登場する絵画が最も頻繁に描かれた時期だそうです。それは、エジプト起源の宗教であるイシス信仰の普及に伴い、イシスの恩寵を受けた地に暮らすピュグマイオイに対する関心が高まったためです。また、こうした絵がイシス信仰の広告塔になったとも考えられています。
因みに、ピュグマイオイは作家スウィフトにインスピレーションを与え、『ガリバー旅行記』の小人の国リリパットの住民として登場させています。 -
ここからは、中世ゾーンに入ります。
宗教画が主体になるため、キリスト教義のアットリビュートなどの法則を覚えておかれると絵画が理解し易くなります。 -
『ウラディーミルの聖母子』(1100年頃 トレチャコフ美術館蔵)
本家では、絵画の名作の中で最古の記念碑的作品とされ、国宝級の扱いを受けています。正当なビザンチン美術作品とされ、その後のロシアでの聖母子イコンに多大な影響を与えた作品です。
このイコンは、1131年にビザンチン帝国のコンスタンティノープルからキエフ・ルーシに贈られたとされています。1155年にウラジーミルのウスペンスキー聖堂に収められ、「ウラジーミルの聖母」と呼ばれて民衆から崇拝され、このイコンの力で何度も国の危機を救ったと伝えられています。
コムネノス朝の首都に住むギリシア人の名匠の筆とされています。1918年に修復家キリロフが加筆部分を取り除き、原初の状態に復元しました。その時、原初の部分として残っていたのは聖母とイエスの顔だけでした。聖母の顔には、くすんだオリーブ色から明るいオリーブ色へと微妙に遷移する陰影法が用いられています。聖母の持つ愛と慈しみの両面が強調されたこの「聖母のイコン」は、ギリシア語で「エレウサ」、ロシア語で「ウミレーニエ」タイプと呼ばれます。
聖母は来るべき運命を予感し、悲しげに顔を曇らせながらイエスに頬を寄せています。イエスは、母の首に片方の手を掛け、もう一方の手で母の頭巾の端を持ち、無邪気に甘えるような仕草で母を見上げています。聖母の頭巾の中央と胸の辺りに、「神の母」の印の文様が飾られています。往時のイコン画家は、聖母の目の大きさを伝統に従ってやや誇張して描いているそうです。 -
『ユスティニアヌス帝と廷臣たち』(6世紀 サン・ヴィターレ聖堂)
このモザイク画があるサン・ヴィターレ聖堂は、イタリア ラヴェンナにあるビザンチン建築の白眉と称される聖堂です。聖堂の建設は司教ヴィクトールの時代の547年、ビザンチン帝国のラヴェンナ征服前後と推定されます。
本家では、教会堂のアプシス(後陣)底部の側壁に配されたモザイク・パネルです。アプシスのコンク(四半球ドーム)の湾曲があるため、本来はこうした長方形ではなく、右側は少し曲がっています。
中央には、頭光と王冠を着け、皇帝色である紫色の マントを纏った、礼装姿のユスティニアヌス帝を配しています。大きな黄金の聖体皿を抱え、宮廷人たちを従える皇帝の姿は威厳に満ちています。
因みにこのパネルで皇帝意外に銘が添えられた人物は、ラヴェンナの初代大司教マクシミアヌスです。エメラルドを鏤めた行列用の十字架を握り、禿頭で髭を蓄えています。厳しい口元の痩せ細った容貌は、いかにも禁欲的でストイックです。小太りで肉感的な皇帝とは対照的な描写です。
左側の兵士が携える盾には、イエスのモノグラム「XP」の文字が見られ、キリスト教信仰を表明しています。 -
『皇妃テオドラと侍女たち』(6世紀 サン・ヴィターレ聖堂)
本家では、祭壇のコンクを挟んで『ユスティニアヌス帝と廷臣たち』と対峙しているパネルです。
テオドラは、コンスタンティノポリスで踊り子あるいは女優をしていたと伝えられ、その魅力と知性によってユスティニアヌスに見初められ、皇妃になってからは政治的にも多大な影響を及ぼしました。
内陣に描かれた図像はイエス降誕の際の「捧げもの」に関連付けられるとの解釈が有力であり、皇帝や皇妃のパネルの主題も「捧げもの」に関係しています。皇妃は、ミサ用の祭具の聖杯を両手で支え、それをコンク中央に座したイエスに捧げる様子です。また、皇妃のマントの裾には「マギ(3賢者)の礼拝」シーンが刺繍され、ここにも「捧げもの」というテーマを暗示しています。
因みにこれらのモザイク画は、後にクリムト作品の金箔モザイク要素に影響を与えたと言われています。さもありなんのモザイク画です。 -
『最後の晩餐』(5~6世紀初頭 イタリア ヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂蔵)
「最後の晩餐」の構図の系譜を語る美術書で見かけるモザイク画です。シンプルな配列の妙は拍手ものです。ダ・ヴィンチの洗練された描き方でも、ティントレットの工夫を凝らした構図でもなく、遠近法のなかった時代ですが空間表現の未熟さを越えて鑑賞者に訴えかける味わいの深い作品です。
左端に座るイエスに対し、大半の弟子たちが険しい目付きで右端の弟子を見つめています。「裏切り者のユダは彼だ!」と思わせるのですが、実は違います。イエスの右側2人目、ペテロの背後に隠れているのがユダです。ユダらしく、自らは巧妙に隠れながら、他人に罪をなすりつけているという構図です。
また、テーブルの上にゴロンところがる魚には、思わず庶民性を感じてしまいます。イエスは、「これはあなたがたに与える私の血」と言って葡萄酒を与え、「…私の肉」とパンを与えたはずと思って調べてみると、魚は洗礼やイエス自身の象徴であるだけでなく、「最後の晩餐」そのもののシンボルでもあるようです。また、ラヴェンナは海に面した町であり、庶民には親しみ易い「最後の晩餐」だったことでしょう。
因みにオリジナルは地上から22mの高さに飾られており、このように間近で観ることは叶いません。これもレプリカの勝れた点です。 -
『龍を退治する大天使ミカエル』(12世紀前半 サン・ピエトロ・アル・モンテ聖堂)
この聖堂は、北イタリアの湖畔の街チヴァーテから1時間半程山道を登った標高600mに佇みます。伝説では、最後のロンバルディア王が772年に王子の眼病を奇跡的に癒した水に感謝し、修道院を建てたと伝わります。現在の聖堂は、11世紀末にベネディクト会修道士によって建立されたもので、ビザンチン美術の影響を受けたロマネスク様式のセッコ(壁画)やストゥッコ(漆喰細工)が残されています。尚、現在この教会は一般公開されておらず、事前許可を得ないと見学ができないそうです。
その聖堂の中のセッコで異才を放つのが『龍を退治する大天使ミカエル』です。初期ロマネスク芸術ですが、その色彩、特に青や緑色の鮮やかさとダイナミックな躍動感には目を瞠ります。また、大天使ミカエルと聖なる天使たちの活き活きとした表情も印象的です。
新約聖書の巻末にある『ヨハネの黙示録』第12章の挿話がモチーフです。左端に横たわる太陽と月を纏う女性が産んだ赤子を、7つの頭を持つ龍が食べようと待ち構えています。そこへ天使ミカエルたちが現れ、槍を突き立てて龍を退治し、赤子は天使により玉座の父なる神の元へ届けられるという物語です。太陽を纏う女性は聖母マリア、赤子はイエス、月はユダヤ教神殿を暗示しています。つまり、ユダヤ教からキリスト教の世界へと移り変わったことの勝利宣言と言えます。 -
『龍を退治する大天使ミカエル』
イタリア・ロマネスク壁画の最高傑作のひとつとされますが、父なる神の顔は失われています。それは、羊や周囲の植物文と同様に漆喰彫刻だったためです。銘文には、次のように書かれています。「人は弱り苦しむ。しかし赤き龍はほどこし物を喜ぶ。救い主は神のもとに上げられ、今や父なる神の座につき、栄光を授けられる。そこから罪人を追い落とし、彼らを大天使ミカエルの槍で貫かしめる」。 -
『わが唯一の望みの』(『一角獣を連れた貴婦人』より、15世紀末 国立クリュニー中世美術館蔵)
「タピスリーのモナ・リザ」と称されるフランスの至宝、6枚組タピスリーの内の1枚です。中世末期のゴシック美術に分類され、「三大タピスリー」の筆頭です。一連のタピスリーは、1841年に小説家プロスペル・メリメがブサック古城で発見し、作家ジョルジュ・サンドが世に紹介して一躍有名になりました。因みにリルケは、小説『マルテの手記』の第一部の最後で孤独な主人公マルテの眼を通してタピスリーの印象を克明に描写しています。
往時、タピスリーは聖堂や城館などの石造の寒さを和らげる目的や装飾として壁に掛けられました。この連作は、背景の千花模様と貴婦人の服装から15世紀末の作品と推定されます。6連作のうちの5点は五感「触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚」を主題にし、この順に生理的欲求から精神的欲求へと高まります。そしてこの作品タイトルは、中央の青い天幕の金字の銘文「 A mon seul desir(我が唯一つの望み)」が由来で、五感を統治する「心(意思)」が主題です。
一方、「ユニコーンは気性が荒いが、清らかな乙女だけは手なずけることができる」とされており、この連作は恋愛、結婚を表すとの解釈もあります。
テント脇に立つ3つの三日月の旗の紋章から、ジャンヌ・ダルクの活躍でフランス王になったシャルル7世に仕えた、リヨン出身のジャン・ル・ヴィストが注文主と推測されています。ライオン(lion)はリヨン(Lyon)、またユニコーンは足が速い(viste)ことをル・ヴィスト(Le Viste)に掛けてモチーフに選んだとも考えられています。 -
展示ルームとは別のステージでアート・コスプレが愉しめます。
この続きは、桐葉知秋 阿波紀行③大塚国際美術館 B3フロア<後編>でお届けいたします。礼拝堂などを丸ごと再現した環境展示と呼ばれる大塚国際美術館のユニークな展示方法を紹介いたします。立体的なシスティーナ・ホールも忠実に陶板で再現されています。
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