2017/08/12 - 2017/08/13
752位(同エリア1150件中)
むしころさん
旅の4日目
天童温泉から山形市へ。
霞城公園を見て、市内のお寺にいくつか行って、その後かみのやま温泉まで行きました。途中に長谷堂合戦のあった場所にも立ち寄りました。(すごくよかった!!!!)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
霞城の北門から進入
-
お堀、大きくて立派です
-
太平洋戦争のとき、歩兵第32連隊の駐屯地になっていたようです
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ここの駐車場に置けるぞ。
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お、いま本丸の部分が発掘作業しているぞ!
これからどんどん良くなりそうです。
また来なくては。 -
いつ見ても霞城公園(山形城跡)の最上義光公の銅像はかっこいいな!
見てたら、どこからともなく少年たちが来て、
「だれこれ?」「山形っていったら最上でしょ」
って言ってた。
賢そうな少年、やるな。
昭和52年建立の銅像です。
ダヴィンチのスフォルツァ騎馬像のデッサンを見たとき、かっこいいなあって思ったのですが、全体重が後ろ足二本だけにかかっているので実際に作るのは物理的に無理だという解説だったので、初めてこの像を見たときすごく驚きました。
山形鋳物の技術すごいなあ!!!すばらしいな!!! -
二の丸東大手門
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正門は昭和62年(1987)に復元開始、平成3年(1991)に完成。
このとき櫓門冠木等に使う無節に近い大木を台湾から調達したらしいです。
当時は台湾政府によって伐採制限があり調達が非常に難しい状況だったのを台湾の大豊製材所さんの努力などによって入手することができたそうです。
山形県は全国で最初に日華親善協会が設立されるなど台湾との友好関係が深いみたいです。
木、本当に立派でした。
それと、東大手門は櫓門・多聞櫓・高麗門・土掘を備え、かなり守りが堅いです。 -
お堀をはさんですぐのところに線路がきておる。
-
正面からみた東大手門
かっこいい。
最上義光歴史館に立ち寄って(無料・撮影禁止)お勉強。
義光公は山形城生まれで、家臣が12000人くらいで、母親は不明らしい。
家紋は4つあって、足利家由来の「丸二引両筋」・斯波家由来の「五七桐」
・「竹に雀」・「十六葉八重菊」
ところで「竹に雀」は色々な種類があって家によってデザインが違うようだ。
長谷堂合戦の詳しい解説などがあってためになりました。(前に来たときはまだ長谷堂合戦とかに興味がなかったので良く見てなかった。)
ここでは義光公が長谷堂合戦のときに被っていた、銃痕の残る兜(三十八間総覆輪筋兜。信長公から拝領したらしい)が一番の見どころかな? -
お堀に沿って歩いて
南大手門から再び二の丸に入る -
発掘調査中の本丸
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空堀、きれい
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本丸の立派な門を入ると中は・・・こんなだった。
土砂捨ててるところみたい。。。
何年かして整備が進んだらこれがどうなるのか -
北門からでてしばらく北に歩くと小学校があってそこに三の丸跡がありました
ここの外側にまたお堀があったもよう -
光明寺
山形城主最上家の始祖、斯波兼頼が永和元年(1375)に山形城内に建立したお寺です。
義光公のときに二の丸大手門前に移されて、永和8年(1622)に最上氏が転封されて鳥居忠政がお城に入り、そのときにお寺が城外の現在地に移されてしまったそうです。 -
堂内に斯波兼頼の等身大の木造が安置されているらしい。
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つぎは専称寺
最上義光公の次女、駒姫の菩提寺です。
駒姫は文禄4年(1595)に15歳の若さで関白秀次の側室候補として聚楽第に召されたのですが、その年の7月に英次が高野山で切腹、子女妾妻三十余名は8月に京都の三条河原で斬首。彼女も11番目に刑に処されてしまいました。専称寺 寺・神社・教会
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浄土真宗大谷派
専称寺はもともと天童市にあったのですが、義光によって慶長3年(1598)に現在の場所に移されました。専称寺 寺・神社・教会
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風情のあるお寺でした。
本堂は元禄16年(1703)に改築したもので、四隅に左甚五郎作といわれる力士像があります
左甚五郎といえば日光の眠り猫だな。専称寺 寺・神社・教会
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駒姫のお墓・・・
新しい感じがするのだが専称寺 寺・神社・教会
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昭和55年4月に建立って書いてあった。
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次は光禅寺
最上義光・家親の菩提寺です。光禅寺 寺・神社・教会
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庭園は県内でも古い庭園の一つらしいのですが、築造年代は不明。
今は手入れ中かな?光禅寺庭園 寺・神社・教会
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義光公のお墓
最上義光公の墓 名所・史跡
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義光公がお亡くなりになり後を追って殉死された家臣
寒河江十兵衛
寒河江備前守
山家河内守
長岡但馬守
さんたちのお墓 -
こちらが
右から
家親公(36歳)、義俊公(26歳)のお墓
二人とも、若くしてお亡くなりになった。
これにて市内は終了今の時間は15:20くらい光禅寺 寺・神社・教会
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次は長谷堂城跡にいくぞ。
長谷堂合戦の舞台になった山々はあれか? -
ついた
駐車場が完備されていた! -
すばらしくやる気のあるマップだ!
これをつくった人に感謝。
時間があったらいろいろ見て回りたかった~ -
水堀の跡
調査によると長谷堂城を一周していて、東部分には町場を囲むようにさらに堀があって一部二重のお堀になっていたと考えらるそうです -
左下の箱の中に観光パンフレットも用意されている!
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八幡口から、さあ行くぞ
ちなみに入り口は5つあって
北の八幡口、北東の内町口、南東の観音口、南西の湯田口、西の西向口 -
わかりやすいガイド。
本沢地区振興協議会さんありがとう。 -
八幡神社
-
帯曲輪群があるらしいが草ぼーぼーでよく分からん。
長谷堂合戦のときは上杉の本陣がある菅沢山本陣の正面にあたるので、それを意識して造成したと考えられています。 -
土塁!
ちょっとわかりにくいけど。 -
横矢掛り
道をジグザクにすることで、側面から矢で攻撃できるようになっています -
山頂の本郭の手前、虎口のところに神社ができていた
-
わかりくいけど
手前が本郭への入り口になっている虎口 -
標高が227m、比高85mの山城です
城砦が築かれた時期は明らかではありません。
永正11年(1514)に「置賜の伊達稙宗軍に一時占拠された・・・」
という文献が残っているのでそれより前だと考えられているそうです。
慶長5年9月の長谷堂合戦では、志村伊豆守光安がこの長谷堂城、直江兼続率いる上杉軍は北西1kmほどの場所にある菅沢山に本陣を構えて対峙しました。
上杉軍3万名以上に対して長谷堂の兵は一千人ほどしかいなかったらしい。
しかしながら15日間攻撃をしのぎ城を守りきったそうです。9月29日夜に関ヶ原での西軍敗戦の連絡を受けて10月1日に上杉軍が撤退していったのですが、そのとき最上軍は追撃!!(すごいな)義光公はこのとき兜に銃痕を残したのでした。
戦後に光安は加増されて庄内酒田の亀ヶ崎城主になって、長谷堂城には成沢城には坂紀伊守光秀が入ったのですが、光秀のあとの光重の時代、元和8年(1622)に最上家が改易になると同時にここも廃城になったそうです。 -
ここから見える風景について書いてあるけど
太陽の光のちからによって消えかかっていた。。
菅沢山とか山形城跡とかがかいてあった -
菅沢山はこっちだけど・・・
木が茂っていて良く見えないや -
切岸
斜面を削って急斜面にした防御施設
・・・・草ぼーぼーでよくわからん -
二重横堀跡
土塁を連ねて二重の堀にして尾根筋を登ってくる敵を食い止めます
これも長谷堂合戦で対上杉のために造ったと考えられています
お城の南側斜面にあります
草でよく分からないけど。 -
長谷堂観音のところにあった鐘
一礼してからついてみた
いい音 -
最上33観音12番札所らしい・・・
それにしても貼り付け過ぎていて不気味なのだが・・・
強敵が封印されているみたいにみえる!! -
いちおうお参りしてみた
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北東の内町口に向かう途中、今度は阿弥陀堂があった
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下りてきた
-
内町口=大手門口=慈眼庵口らしい
慈眼庵は先ほど見た阿弥陀堂のことみたいです。
城跡見物1時間くらいつかいました
時刻は16:53 -
駐車場の近くに長谷堂合戦の供養塔がありました。
民家の中にあった。
合掌
マップだとほかにも供養塔とか点在していて、いつかまたここをじっくり見て回りたいなって思った。菅沢の直江本陣跡も行ってみたいな。
今日はこれで終了!宿泊地のかみのやま温泉に向かいます
~~つづく~~
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