2017/08/11 - 2017/08/12
101位(同エリア253件中)
むしころさん
天童温泉で城跡や神社仏閣を見てきました。
信長公にゆかりの神社があるなんて知らなかったので、来てよかったです
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
楯岡から途中スーパーに立ち寄ったりして、17時過ぎにホテルについた。
ホテルで近くにお寺とかあるか聞いたところ、南側に天童公園があるのでそちらの方面にいくつかあるとのこと。ちょっと行ってみた。毎日天気が悪いので折りたたみ傘も念のため持っていこう
愛宕神社と天童古城跡ってのが非常に気になる。行ってみよう!
小雨が降ってきた・・・ -
看板のところから8分くらい歩いて登ってきたところ、愛宕神社の説明看板があった。
天正12年(1584)12月24日に山形城主の最上義光公が建立したそうです。
ここから山道を700mくらい行くとあるようだ。薄暗くなってきたけど行ってしまおう! -
曲輪群の看板があったのだが草ぼーぼーでよくわからん。
天童古城は多くの上下に階段状に連なる曲輪群が特色だそうだ。 -
参道の階段を登って、、、愛宕神社ついた。
舞鶴天上の天童城が天正12年(1584)10月10日に最上義光に攻略されて、義昭が城址の山頂にこの神社を造営して、祭神として勝軍地蔵を安置したそうです。
社殿は慶長8年(1603)に再建されています。 -
愛宕神社のある付近がお城の主郭部分です
物見櫓台跡などもあります
かつてはこの辺り一帯に建物があったそうです。
虎口が愛宕神社参道の辺りにあって、西側の尾根を登りつめたところにも出入り口があったと考えられているようです。 -
ここが櫓台なのかな
参道の階段を再び下りてもと来た道へ、反対側の道へ行くと天童神社へ行くらしいのだが本当に薄暗くなってきたので危ないからやめておいた。天童神社の創建は明らかではないのですが南北朝時代時代に舞鶴山にお城を構えた北畠天童丸も合祀されているらしい -
曲輪に 天童古城生命の井戸 ってのがあった。けど草ぼーぼーで見えない。
もう埋まっちゃってるということでよいのかな??
そうでないと危ないよな。
下のほうから不気味にラジオとかの音がしてきて怖いからちょっと走ってみる -
山道を抜けて広場へ来た。
これは将棋の森
天童の将棋駒が市のシンボルとして皆から愛されていくことを願って造られたらしい。
将棋駒の材料となる「マユミ」「ホオノキ」「ハクウンボク」「ウリハタカエデ」「イタヤカエデ」「ツゲ」の木が植えてあるそうです -
以後クアの道(健康道)っていうのをちらほら見かけるようなります。
山形で流行っているのかな
もう少し時間があれば赤いコースの天童神社とお城跡ぐるっと回るコースに行きたかったな。 -
天童のマップ
これがある場所に駐車場があってかなり沢山の台数が置けるようになってました。 -
人間将棋会場って場所に来てみた。
将棋駒の生産量が全国一の天童市のシンボルとして立てたられたそうです
字は大山康晴15世名人の書らしい!!
毎年春にここで将棋駒の供養祭が行われるそうです。(どんなだろ?)
で、そのときに人間将棋が繰り広げられるそうです。 -
ここで人間将棋。
太閤秀吉が桜が爛漫の伏見城で関白秀次相手に、小姓と腰元を将棋駒に仕立てて野試合を楽しんだ故事にならったものだそうです。
少し前に松山ケンイチさんも来たそうです。映画で村山聖さんを演じたのでその関係みたいです。
そういえば、映画の写真だけ見て『村山さんっぽいな、モデルにしてるのかな』って思ってたら、本当に村山さんの役だったので、ここまで似せられるなんてすごいなって思ったのを思い出した。 -
将棋駒の碑からさらに奥にもいけるのですがここも城跡の一部みたいです
-
天堂古城の記念碑があった
お城をつくった天堂頼直氏は足利の流れを引く奥州斯波兼頼の孫といわれています
彼は南北朝時代には成生楯へ移って里見を名乗ってその後永和元年(1375)成生楯をでて天堂山城に移って天童市を名乗ったそうです。
10代目の頼久のときに最上氏にお城が攻略されて、天童氏は仙台伊達家の家臣である国分氏を頼って多賀城の地に移り住みました。そして伊達家に仕えて準一家として厚遇されたそうです。 -
ここは中央郭にあたるようです。
城跡は山全体で、主郭・東郭・西郭・中央郭とあります
大ケヤキがここのシンボルツリーになってました。 -
ここから見える風景はこちら
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天気が悪くて山が見えん
ちなみに今、18時です -
西郭方面へ降りて途中、神社などがあったら寄りながらホテルに戻ろう
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矢場跡
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建勲神社(たけいさおじんじゃ)があった
なんと信長公が祀られているらしい
天童織田藩の始祖、信長公を祀るため明治3年に藩知事織田信敏が城山山頂に社殿を造営し、明治17年に現在地へ遍座したそうです。
結構最近の神社だった -
織田信雄の流れを汲む織田家が群馬の小幡を治めていたのですが、そこから出羽高畠に国替えされて、天童も織田藩領になったそうで、織田信美(のぶかず)のときに居城(館)を高畠から天童に移し天童織田藩になったとのこと。
明治維新のときは官軍に味方した功で子爵に列れられたそうだ。
さあお詣りしよ -
織田信恒さんの書
中に宣教師が書いた織田信長公の肖像画があるらしいぞ -
18:51ホテルの近くまで戻ってきた
ホテル王将さんの前に足湯があるので折角だから天童温泉を脚だけ満喫
温泉成分表によると
泉質 ナトリウム・カルシウムー硫酸塩温泉
水素イオン濃度(ph)は 8.0
だって。ちょっとアルカリ性
掛け流しかどうかは不明 -
成分がくっついているからわりと良さそう。
透明で味はちょっとしょっぱかったです。 -
ホテルの湯沸し気がデロンギだった。めずらしいな
-
天童ワインとか買ってみたぞ。赤・ハーフサイズで658円でした。
あとこっちの牛乳。
桃は道中にあった道の駅むらやまで買った二個で150円って激安だぞ
ちょっと固いのでもう少し食べずにいよう -
次の日
8月12日(土)9:00
三宝寺
織田宗家御廟があるらしい三宝寺 寺・神社・教会
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織田宗家御廟 仰徳殿(こうとくでん)
昭和6年(1931)5月に元織田藩士族の会によって建立されたそうです。
その前の建物は慶応4年(1868)戊辰戦争で焼失してしまい、御位牌は運び出されて焼けずにすんだらしい。
ここが織田宗家の菩提寺になったのは文政13年(1830)で、幕府の寺社奉行から申し付けられたそうです。
信長公をはじめ、代々の藩主や家族、79名の方々の御位牌が安置されているとのこと。
信長公にもっとも似ていると織田宗家に伝わる肖像画の写真も掲額されています。
これで天童は終了。南下して山形市のほうへ向かいます!
~~つづく~~
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