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ところで、改めて日光についてですが、東京から手軽に行ける多目的の観光地としては、箱根と並んで双璧だと思います。年間の観光客数は、箱根の20百万人に対して、日光は12百万人ほど。箱根は小田急だし、日光は東武。ともにアクセスも良好です。<br /><br />そして、日光の観光では、世界遺産にもなっている二社一寺が基本であることは言うまでもありませんが、しかし、そこから始まって、これに奥日光と霧降高原を加えたものが日光であって、実はとっても奥が深い。特に奥日光は、いろは坂、明知平から華厳の滝、中禅寺湖のエリアに、竜頭の滝から戦場ヶ原、湯滝、奥日光湯元温泉とか。本当に自然が豊かで、私的には奥日光のハイキングは奥入瀬とかにも匹敵するのではないかと思っているくらいです。<br /><br />ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、これまで日光の各所を歩いて、最後に霧降高原を確認したところで、一応日光の観光はひと区切りいれていたつもりでした。そんな中で、今回の二社一寺の改めての訪問は、59年ぶりの大改修もあったのですが、もう一つは私の中で徳川家康の認識が少し変わったから。<br /><br />二社一寺の隆盛は、徳川家康を祀っている霊廟であり、徳川幕府の厚い庇護があってのものですが、それは私にとってはどちらかといえばマイナスの要素だったんですね。徳川家康は武士であり、思想家でも宗教家でもない。せいぜい政治家というのが限界でしょう。そんな人物を無理やり崇めて、全国の大名たちを抑えつけていたとみれば、それはグロテスクな姿というしかありません。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友といった儒教の思想を取り入れたのも、体制を維持するため。とても学ぶべきものがあるとは思えないんですよね。<br /><br />しかし、徳川家康がいなければ。もうしかしたら、戦国時代にまた逆戻りしていた可能性もなくはない時代。殺し合いの繰返しはもうこりごり。織田、豊臣が垣間見せた平和で穏やかな暮らしを失いたくないという大衆の声を受けて、天下を継承したのがやっぱり家康なんですね。<br />本当に平和な世の中をどうやってつくるのか。それをどう安定させていくのか。その知恵は小さな私欲からなど出てくるものではない。信長、秀吉の築いた天下を横取りしたとか、石田三成、秀吉を倒したのもたぬきの権化のように言われて、まったく散々ですが、どう平和を築くかについて真剣に知恵を絞った根っこのところはもう少し素直に理解してもいいのではないか。二社一寺を歩いて、今回もいきなり具体的になるほどということはありませんでしたが、それでもこれまでよりも自然体でその美しさを感じられたのかなと思います。<br /><br />封建制度は体制としての限界を迎えていたこともあって、瓦解したのですが、歴史は流れを理解しないと正しい理解にはならない。幕藩体制下で育まれたことにも、もう少し光が当てられていいのではないかと思います。<br />

日光 二社一寺と今市・鹿沼も途中下車の旅(二日目・完)~59年ぶりの大改修が終わった東照宮を中心に二社一寺をこまごまチェック。滝尾神社までの史跡探勝路から明治館のランチ、小杉放菴記念日光美術館の後、今市のグルメもまあまあです~

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2017/09/08 - 2017/09/08

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たびたび

たびたびさん

ところで、改めて日光についてですが、東京から手軽に行ける多目的の観光地としては、箱根と並んで双璧だと思います。年間の観光客数は、箱根の20百万人に対して、日光は12百万人ほど。箱根は小田急だし、日光は東武。ともにアクセスも良好です。

そして、日光の観光では、世界遺産にもなっている二社一寺が基本であることは言うまでもありませんが、しかし、そこから始まって、これに奥日光と霧降高原を加えたものが日光であって、実はとっても奥が深い。特に奥日光は、いろは坂、明知平から華厳の滝、中禅寺湖のエリアに、竜頭の滝から戦場ヶ原、湯滝、奥日光湯元温泉とか。本当に自然が豊かで、私的には奥日光のハイキングは奥入瀬とかにも匹敵するのではないかと思っているくらいです。

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、これまで日光の各所を歩いて、最後に霧降高原を確認したところで、一応日光の観光はひと区切りいれていたつもりでした。そんな中で、今回の二社一寺の改めての訪問は、59年ぶりの大改修もあったのですが、もう一つは私の中で徳川家康の認識が少し変わったから。

二社一寺の隆盛は、徳川家康を祀っている霊廟であり、徳川幕府の厚い庇護があってのものですが、それは私にとってはどちらかといえばマイナスの要素だったんですね。徳川家康は武士であり、思想家でも宗教家でもない。せいぜい政治家というのが限界でしょう。そんな人物を無理やり崇めて、全国の大名たちを抑えつけていたとみれば、それはグロテスクな姿というしかありません。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友といった儒教の思想を取り入れたのも、体制を維持するため。とても学ぶべきものがあるとは思えないんですよね。

しかし、徳川家康がいなければ。もうしかしたら、戦国時代にまた逆戻りしていた可能性もなくはない時代。殺し合いの繰返しはもうこりごり。織田、豊臣が垣間見せた平和で穏やかな暮らしを失いたくないという大衆の声を受けて、天下を継承したのがやっぱり家康なんですね。
本当に平和な世の中をどうやってつくるのか。それをどう安定させていくのか。その知恵は小さな私欲からなど出てくるものではない。信長、秀吉の築いた天下を横取りしたとか、石田三成、秀吉を倒したのもたぬきの権化のように言われて、まったく散々ですが、どう平和を築くかについて真剣に知恵を絞った根っこのところはもう少し素直に理解してもいいのではないか。二社一寺を歩いて、今回もいきなり具体的になるほどということはありませんでしたが、それでもこれまでよりも自然体でその美しさを感じられたのかなと思います。

封建制度は体制としての限界を迎えていたこともあって、瓦解したのですが、歴史は流れを理解しないと正しい理解にはならない。幕藩体制下で育まれたことにも、もう少し光が当てられていいのではないかと思います。

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  • 日光の二社一寺は、東照宮から始めます。これが正面の参道。

    日光の二社一寺は、東照宮から始めます。これが正面の参道。

  • まずは、正面の日光東照宮 一ノ鳥居。花崗岩でできた石の鳥居は、高さ9.2m、幅13.2m柱の直径1mの堂々としたものであり、日本三大石鳥居の一つ。黒田長政が奉納したものだそうです。<br />今回はガイドさんの説明があって、まずはこの鳥居から説明です。

    まずは、正面の日光東照宮 一ノ鳥居。花崗岩でできた石の鳥居は、高さ9.2m、幅13.2m柱の直径1mの堂々としたものであり、日本三大石鳥居の一つ。黒田長政が奉納したものだそうです。
    今回はガイドさんの説明があって、まずはこの鳥居から説明です。

  • この五重塔は、1650年に、若狭の小浜藩主酒井忠勝が寄進したもの。ただ、現在の塔は、焼失した後に、再建されたもの。高さは、36mです。<br />一層には、十二支の彫刻など。近づいてみると極彩色の豪華な意匠がよくわかります。やはり、こうでなくては、東照宮の一角を占める建物にはなりませんね。

    この五重塔は、1650年に、若狭の小浜藩主酒井忠勝が寄進したもの。ただ、現在の塔は、焼失した後に、再建されたもの。高さは、36mです。
    一層には、十二支の彫刻など。近づいてみると極彩色の豪華な意匠がよくわかります。やはり、こうでなくては、東照宮の一角を占める建物にはなりませんね。

  • さて、表門からが有料エリアとなります。<br />

    さて、表門からが有料エリアとなります。

  • 表門は、元和3年(1636年)に、徳川家光の東照宮再建で造営されたもの。石鳥居が第1の門とすれば、表門は、第2の門です。<br />さほど豪華な造りには見えませんが、やっぱり八脚門という重厚形式。赤い仁王がぎろりと参詣者をにらんでいます。

    表門は、元和3年(1636年)に、徳川家光の東照宮再建で造営されたもの。石鳥居が第1の門とすれば、表門は、第2の門です。
    さほど豪華な造りには見えませんが、やっぱり八脚門という重厚形式。赤い仁王がぎろりと参詣者をにらんでいます。

  • 表門から境内に入ると、まず現れるのはこの派手な三神庫。黒い瓦屋根には金の縁取りが施されていて、このデザインはやっぱり東照宮だなという感じ。<br />建物は、上神庫、中神庫、下神庫の3つ。神様のお道具を入れる倉庫であり、例大祭に使われる道具・装束を保管します。 

    表門から境内に入ると、まず現れるのはこの派手な三神庫。黒い瓦屋根には金の縁取りが施されていて、このデザインはやっぱり東照宮だなという感じ。
    建物は、上神庫、中神庫、下神庫の3つ。神様のお道具を入れる倉庫であり、例大祭に使われる道具・装束を保管します。 

  • 上神庫の側面に描かれた2頭の象が想像の象。狩野探幽作のようですが、探幽は実際の像を見たことがないので、実物を想像して描いたというので想像の象。全体にシワシワ、ヨレヨレのような感じに見えますが、それがかえって老成した神獣のような姿。その出来栄えは、やっぱりさすがということでしょう。

    上神庫の側面に描かれた2頭の象が想像の象。狩野探幽作のようですが、探幽は実際の像を見たことがないので、実物を想像して描いたというので想像の象。全体にシワシワ、ヨレヨレのような感じに見えますが、それがかえって老成した神獣のような姿。その出来栄えは、やっぱりさすがということでしょう。

  • 角度を変えて眺めた、その先にあるのが

    角度を変えて眺めた、その先にあるのが

  • 日光東照宮の西浄。これは、神様のトイレ。中神庫と下神庫の間にある赤い建物ですが、あまり目立ってはいないでしょう。見た限り、近くに説明板もないので、気が付く人も少ないかも。トイレではあっても、この建物も屋根には金の縁取り。やっぱりそれなりの扱いです。

    日光東照宮の西浄。これは、神様のトイレ。中神庫と下神庫の間にある赤い建物ですが、あまり目立ってはいないでしょう。見た限り、近くに説明板もないので、気が付く人も少ないかも。トイレではあっても、この建物も屋根には金の縁取り。やっぱりそれなりの扱いです。

  • 内番所は、正面に陽明門を見上げる場所。お札やお守りを売っている建物ですが、元々は日光奉行が支配する番所で警備の侍が常駐していたところ。装飾はほとんどありませんが、これも重要文化財。<br />ちなみに、この日はあいにくの雨。ここはひさしが深いのでしばらく雨宿りさせてもらいました。

    内番所は、正面に陽明門を見上げる場所。お札やお守りを売っている建物ですが、元々は日光奉行が支配する番所で警備の侍が常駐していたところ。装飾はほとんどありませんが、これも重要文化財。
    ちなみに、この日はあいにくの雨。ここはひさしが深いのでしばらく雨宿りさせてもらいました。

  • 陽明門に向かって左手には御水舎。ここで手を清める場所です。神社にはどこにでもありますが、やっぱり東照宮。唐破風の屋根に花崗岩の柱は金の装飾が多用されて、これ以上ないくらいにいわゆるコテコテです。<br />なお、水盤は九州鍋島藩、鍋島勝茂候の奉納です。 

    陽明門に向かって左手には御水舎。ここで手を清める場所です。神社にはどこにでもありますが、やっぱり東照宮。唐破風の屋根に花崗岩の柱は金の装飾が多用されて、これ以上ないくらいにいわゆるコテコテです。
    なお、水盤は九州鍋島藩、鍋島勝茂候の奉納です。 

  • 御水舎の並び。奥に建つのは経蔵です。一重もこし付方形造のずんぐりした姿。ここの装飾も金箔を多用して豪華なのですが、まとまりのよい形だけになにか目立たない感じは否めません。この日は扉を開けて、お坊さんが集まっていました。

    御水舎の並び。奥に建つのは経蔵です。一重もこし付方形造のずんぐりした姿。ここの装飾も金箔を多用して豪華なのですが、まとまりのよい形だけになにか目立たない感じは否めません。この日は扉を開けて、お坊さんが集まっていました。

  • ここから、陽明門に上がって行きますが、

    ここから、陽明門に上がって行きますが、

  • その石段の右手。<br />東照宮の中には大名たちが競って奉納した灯籠が至る所にあるのですが、最も有名な燈籠の一つが伊達政宗公の奉納したこの「南蛮鉄灯籠」。ポルトガルから鉄を運んで作ったといわれるもの。今ではちょっと錆びた感じで地味なものですが、当初は実はピカピカだったのではないかと思います。お見逃しなく。

    その石段の右手。
    東照宮の中には大名たちが競って奉納した灯籠が至る所にあるのですが、最も有名な燈籠の一つが伊達政宗公の奉納したこの「南蛮鉄灯籠」。ポルトガルから鉄を運んで作ったといわれるもの。今ではちょっと錆びた感じで地味なものですが、当初は実はピカピカだったのではないかと思います。お見逃しなく。

  • 陽明門に向かって最初の石段を登りきった右手にあるのは、飛び越えの獅子。石柵の裏です。<br />この獅子の見どころは、石柵と獅子が一つの石から彫られていること。日光に住んでいた石工職人、冬木太良右衛門の作。この獅子が石柵を飛び越えていると観て、飛び越えの獅子。ただ、動きのある姿ではないようにも思います。

    陽明門に向かって最初の石段を登りきった右手にあるのは、飛び越えの獅子。石柵の裏です。
    この獅子の見どころは、石柵と獅子が一つの石から彫られていること。日光に住んでいた石工職人、冬木太良右衛門の作。この獅子が石柵を飛び越えていると観て、飛び越えの獅子。ただ、動きのある姿ではないようにも思います。

  • 日光東照宮の陽明門の手前。一段低い場所には、鐘楼と鼓楼が一対となって建っています。陽明門に向かって、右側に建つのが鐘楼。名前の通り、鐘が収められていて、日光の祭礼はこの鐘の音で終わりとなるのだそうです。

    日光東照宮の陽明門の手前。一段低い場所には、鐘楼と鼓楼が一対となって建っています。陽明門に向かって、右側に建つのが鐘楼。名前の通り、鐘が収められていて、日光の祭礼はこの鐘の音で終わりとなるのだそうです。

  • 陽明門に向かって、左側の鳴き龍に行く方が鼓楼。名前の通り、太鼓が収められていて、日光の祭礼はこの鼓楼の太鼓の音に始まるのだそうです。ただ、うーん。鐘楼と鼓楼ともに、コテコテ。デザイン的には大きな違いはありません。

    陽明門に向かって、左側の鳴き龍に行く方が鼓楼。名前の通り、太鼓が収められていて、日光の祭礼はこの鼓楼の太鼓の音に始まるのだそうです。ただ、うーん。鐘楼と鼓楼ともに、コテコテ。デザイン的には大きな違いはありません。

  • そして、いよいよ陽明門。 

    そして、いよいよ陽明門。 

  • 陽明門の彫刻は、唐子・聖賢の彫刻が見どころ。<br />豪華絢爛な陽明門のデザインですが、やはり全体のデザインだけでは、見飽きてしまう。一日見ても飽きないと言われる所以は、この彫刻にあるでしょう。陽明門も40年ぶりの大修理が終わり、白・金・黒の背景に極彩色の彫刻がいっそう鮮やかに蘇りました。 <br /><br />

    陽明門の彫刻は、唐子・聖賢の彫刻が見どころ。
    豪華絢爛な陽明門のデザインですが、やはり全体のデザインだけでは、見飽きてしまう。一日見ても飽きないと言われる所以は、この彫刻にあるでしょう。陽明門も40年ぶりの大修理が終わり、白・金・黒の背景に極彩色の彫刻がいっそう鮮やかに蘇りました。 

  • ところで、唐子の知恵遊びや、中国の故事・逸話をモチーフにした彫刻は、戦いのない平和な世の中を作りたいという家康の理想。信長・秀吉の遺産を横取りしたというイメージもある家康ですが、少し気を許せば戦国の世に逆戻りする危険も大いにあった時代。家康の功績はそんなに小さなものではないように思います。<br /><br />「君子の四芸・琴」<br />膝の上の琴を乗せて弾いている姿。

    ところで、唐子の知恵遊びや、中国の故事・逸話をモチーフにした彫刻は、戦いのない平和な世の中を作りたいという家康の理想。信長・秀吉の遺産を横取りしたというイメージもある家康ですが、少し気を許せば戦国の世に逆戻りする危険も大いにあった時代。家康の功績はそんなに小さなものではないように思います。

    「君子の四芸・琴」
    膝の上の琴を乗せて弾いている姿。

  • 「君子の四芸・棋」<br />囲碁をやっている様子。四芸にはあと書と画がありますが、そうした芸事に夢中になれるのは平和な世の中なればこそ。

    「君子の四芸・棋」
    囲碁をやっている様子。四芸にはあと書と画がありますが、そうした芸事に夢中になれるのは平和な世の中なればこそ。

  • 「周公聴訴」<br />洗髪中でも人が訪ねてくれば中断して訴えを聞いた周公。<br /><br />手前の白い唐獅子は東照宮の守護獣です。ちらりと金が使われているのもさりげなく豪華です。

    イチオシ

    「周公聴訴」
    洗髪中でも人が訪ねてくれば中断して訴えを聞いた周公。

    手前の白い唐獅子は東照宮の守護獣です。ちらりと金が使われているのもさりげなく豪華です。

  • 「訴人」<br />周公の右側にある彫刻ですが、訴人が頭をかがめて何かを訴えています。

    「訴人」
    周公の右側にある彫刻ですが、訴人が頭をかがめて何かを訴えています。

  • 日光東照宮魔除けの逆柱は、陽明門を入って裏側から見ます。<br />これは陽明門があまりにも精緻で完璧な造りであるがゆえに、そのままでは不吉なことが起こると信じられ、この柱だけ逆さにして、それを防ぐことにしたもの。柱は糊粉という貝殻から作られる白い顔料を使っているのですが、ちゃんと見るとその文様によって逆さであることが確認できます。ただ、この日はシートが架けてあって、よく見えませんでした。 

    日光東照宮魔除けの逆柱は、陽明門を入って裏側から見ます。
    これは陽明門があまりにも精緻で完璧な造りであるがゆえに、そのままでは不吉なことが起こると信じられ、この柱だけ逆さにして、それを防ぐことにしたもの。柱は糊粉という貝殻から作られる白い顔料を使っているのですが、ちゃんと見るとその文様によって逆さであることが確認できます。ただ、この日はシートが架けてあって、よく見えませんでした。 

  • 金の唐獅子も確認して、中に入ります。

    金の唐獅子も確認して、中に入ります。

  • 神輿舎は、陽明門を入ってすぐの左手。3基の神輿を納める建物です。 

    神輿舎は、陽明門を入ってすぐの左手。3基の神輿を納める建物です。 

  • 神輿は、中央が主祭神、徳川家康の神輿。右が豊臣秀吉で、左は源頼朝のもの。扉の奥に並んでいます。もう一つの見どころは天井画。神輿の上で、天女が優雅に舞っています。 

    神輿は、中央が主祭神、徳川家康の神輿。右が豊臣秀吉で、左は源頼朝のもの。扉の奥に並んでいます。もう一つの見どころは天井画。神輿の上で、天女が優雅に舞っています。 

  • 陽明門を入って、

    陽明門を入って、

  • すぐ正面にあるのがこの唐門。本社の正門にあたります。絢爛豪華なことで陽明門が圧倒的に有名なのですが、美しさという面では、この唐門の方が上かも。白い柱に這う茶色の龍の意匠など、うっとりするような美しさです。<br />正面の上部にある「舜帝朝見の儀」の彫刻もお見逃しなく。

    イチオシ

    すぐ正面にあるのがこの唐門。本社の正門にあたります。絢爛豪華なことで陽明門が圧倒的に有名なのですが、美しさという面では、この唐門の方が上かも。白い柱に這う茶色の龍の意匠など、うっとりするような美しさです。
    正面の上部にある「舜帝朝見の儀」の彫刻もお見逃しなく。

  • 祈祷殿は、陽明門を入ったスペース。眠り猫の方に進んで左手に建つ建物です。<br />

    祈祷殿は、陽明門を入ったスペース。眠り猫の方に進んで左手に建つ建物です。

  • かつての東照宮は、神仏習合。ここで護摩をたいて祈願する場所だったようです。今は、ここで祈祷してもらうので、まあ、似たようなことかなとは思います。緑の配色がちょっと個性的です。

    かつての東照宮は、神仏習合。ここで護摩をたいて祈願する場所だったようです。今は、ここで祈祷してもらうので、まあ、似たようなことかなとは思います。緑の配色がちょっと個性的です。

  • 神楽殿は、眠り猫に向かう手前右手に立つ建物です。ここで神楽を奉納するのですが、普段はカーテンのような目隠しがあって中を覗くことはできません。全体に黒ずんで地味に見えましたが、それは古びているから。装飾はここも十分派手でしょう。

    神楽殿は、眠り猫に向かう手前右手に立つ建物です。ここで神楽を奉納するのですが、普段はカーテンのような目隠しがあって中を覗くことはできません。全体に黒ずんで地味に見えましたが、それは古びているから。装飾はここも十分派手でしょう。

  • 回廊は、陽明門から入ったスペースのぐるりを囲む塀の役割を果たす建物。御供廊下は、東回廊から本社石の間に通じる全長20mの廊下のこと。どちらも付属的な建物であり、主役となるものではないので、これ自体をじっくり見るということはないような気がします。

    回廊は、陽明門から入ったスペースのぐるりを囲む塀の役割を果たす建物。御供廊下は、東回廊から本社石の間に通じる全長20mの廊下のこと。どちらも付属的な建物であり、主役となるものではないので、これ自体をじっくり見るということはないような気がします。

  • 眠り猫をくぐって、ここから日光東照宮の奥宮に向かいます。最初に現れるのが坂下門。奥宮の入り口です。この門をくぐってから奥宮まで約200段(正確には207段)の石段があると説明されていました。この門も立派ですが、

    眠り猫をくぐって、ここから日光東照宮の奥宮に向かいます。最初に現れるのが坂下門。奥宮の入り口です。この門をくぐってから奥宮まで約200段(正確には207段)の石段があると説明されていました。この門も立派ですが、

  • むしろ注目はそこからの石段かも。一つの大きな石から何段かの石段や柵を彫りぬいたとか、意外なところで途方もない手間をかけています。

    むしろ注目はそこからの石段かも。一つの大きな石から何段かの石段や柵を彫りぬいたとか、意外なところで途方もない手間をかけています。

  • 坂下門から奥宮への207段の石段を登り切ったところに建つ御宝蔵は、朝廷から徳川家康や日光東照宮に送られた官符宣命等の文章を収めたもの。黒ずんだ建物ですが、それは黒漆が塗られているため。外壁に銅板を貼り、その上に塗ったものですから、やっぱり仕様は半端ではありません。

    坂下門から奥宮への207段の石段を登り切ったところに建つ御宝蔵は、朝廷から徳川家康や日光東照宮に送られた官符宣命等の文章を収めたもの。黒ずんだ建物ですが、それは黒漆が塗られているため。外壁に銅板を貼り、その上に塗ったものですから、やっぱり仕様は半端ではありません。

  • 奥社拝殿は、家康の宝塔の前の建物。現在の建物は、徳川家光が造ったもの。

    奥社拝殿は、家康の宝塔の前の建物。現在の建物は、徳川家光が造ったもの。

  • 外側は黒一色で地味ですが、内部は金箔の柱に極彩色の鳳凰などの装飾。やはり、こちらも豪華さに徹した東照宮の建物の一つです。 

    外側は黒一色で地味ですが、内部は金箔の柱に極彩色の鳳凰などの装飾。やはり、こちらも豪華さに徹した東照宮の建物の一つです。 

  • その裏側にある唐門は、五代将軍綱吉の時代に銅製の門に作り替えられた鋳抜門。門の両側に配されたのも金属製のこま犬。門の深い緑にこま犬の艶々した黒色などはなかなかの渋さがあって、陽明門ほかの派手な色調とは一線を画しています。

    その裏側にある唐門は、五代将軍綱吉の時代に銅製の門に作り替えられた鋳抜門。門の両側に配されたのも金属製のこま犬。門の深い緑にこま犬の艶々した黒色などはなかなかの渋さがあって、陽明門ほかの派手な色調とは一線を画しています。

  • そして、これが奥社宝塔。ここに、家康の神柩が納められています。宝塔は、鋳銅製。方形造りの屋根に、よく見ると扉には南京錠が架かっていて、家康の神柩はこの下にあるはずなので、そこへの入口扉ということなのかもしれません。<br />ぐるりが順路になっているので、見学は宝塔を一周。360°から眺められます。

    そして、これが奥社宝塔。ここに、家康の神柩が納められています。宝塔は、鋳銅製。方形造りの屋根に、よく見ると扉には南京錠が架かっていて、家康の神柩はこの下にあるはずなので、そこへの入口扉ということなのかもしれません。
    ぐるりが順路になっているので、見学は宝塔を一周。360°から眺められます。

  • 奥社宝塔の脇に立つ叶杉。雷に打たれたのでしょうか。幹は途中から切られていて、ちょっと痛々しい感じもしなくはないですね。で、根元の方はえぐれて祠のような穴が開いているので、そこに願いを唱えると願い事が叶うと説明されていました。

    奥社宝塔の脇に立つ叶杉。雷に打たれたのでしょうか。幹は途中から切られていて、ちょっと痛々しい感じもしなくはないですね。で、根元の方はえぐれて祠のような穴が開いているので、そこに願いを唱えると願い事が叶うと説明されていました。

  • 再び、御供廊下に降りて、ここから、石の間へ。<br />石の間は、靴を脱いで本殿に上がると、そのまま奥の拝殿に繋がる一段低いスペースがあって、そこのこと。二つの社殿を結ぶ石の廊下が進化したもので、こうした構造が権現造の特徴なんですね。<br />室内は撮影禁止ですが、そこまで特別厳かな雰囲気があるわけでもない。観光客は勝手に入って観ていくといった感じです。<br />以上で、東照宮はおしまい。今度は、二荒山神社です。

    再び、御供廊下に降りて、ここから、石の間へ。
    石の間は、靴を脱いで本殿に上がると、そのまま奥の拝殿に繋がる一段低いスペースがあって、そこのこと。二つの社殿を結ぶ石の廊下が進化したもので、こうした構造が権現造の特徴なんですね。
    室内は撮影禁止ですが、そこまで特別厳かな雰囲気があるわけでもない。観光客は勝手に入って観ていくといった感じです。
    以上で、東照宮はおしまい。今度は、二荒山神社です。

  • 日光東照宮から二荒山神社の方に向かう道は下新道です。大きな杉両脇に並んで立つ杉の並木道で、道の脇には湧水でしょうか、勢いのある水の流れもある。深山の中を行く趣きがあって、移動のためだけではなく、この道自体が楽しめると思います。<br />

    日光東照宮から二荒山神社の方に向かう道は下新道です。大きな杉両脇に並んで立つ杉の並木道で、道の脇には湧水でしょうか、勢いのある水の流れもある。深山の中を行く趣きがあって、移動のためだけではなく、この道自体が楽しめると思います。

  • 二荒山神社の入口手前に、二つ堂と呼ばれる常行堂、法華堂が並んで建っています。二つの堂は歩廊を設け接続されていますが、これは何か見たことあるなと思ったら、比叡山延暦寺のにない堂と同じですね。

    二荒山神社の入口手前に、二つ堂と呼ばれる常行堂、法華堂が並んで建っています。二つの堂は歩廊を設け接続されていますが、これは何か見たことあるなと思ったら、比叡山延暦寺のにない堂と同じですね。

  • 純和様の宝形造が常行堂。こちらは内部の拝観が可能です。

    純和様の宝形造が常行堂。こちらは内部の拝観が可能です。

  • 日光二荒山神社の御神木は、いくつかあるようですが、下新道から入る坂道途中にある縁結びの御神木。杉に楢が寄生木していて、「好き(杉)なら(楢)一緒に」というダジャレ。まあ、日光は広い。中にはこういうのもありということでしょう。

    日光二荒山神社の御神木は、いくつかあるようですが、下新道から入る坂道途中にある縁結びの御神木。杉に楢が寄生木していて、「好き(杉)なら(楢)一緒に」というダジャレ。まあ、日光は広い。中にはこういうのもありということでしょう。

  • 日光二荒山神社の拝殿は、神門をくぐった正面に建つ堂々とした建物。まずはここで参拝をすることになる、二荒山神社の境内ではこれが中心です。<br />拝殿が建てられたのは、1644年。徳川家光の時代です。とてもしっかりした姿なので鉄筋コンクリートの建物みたいに見えなくもないですが、そうではありません。念のため。

    日光二荒山神社の拝殿は、神門をくぐった正面に建つ堂々とした建物。まずはここで参拝をすることになる、二荒山神社の境内ではこれが中心です。
    拝殿が建てられたのは、1644年。徳川家光の時代です。とてもしっかりした姿なので鉄筋コンクリートの建物みたいに見えなくもないですが、そうではありません。念のため。

  • もう少し境内をチェックします。<br />日光二荒山神社の楼門は、二荒山神社の境内東端。 上新道からの入口です。<br />勝道上人の男体山登頂1200年を記念して、昭和57年に作られたもの。パッと見た感じでも、あまり古いものではないなという印象。これからどう馴染んでいくのかが問題でしょう。

    もう少し境内をチェックします。
    日光二荒山神社の楼門は、二荒山神社の境内東端。 上新道からの入口です。
    勝道上人の男体山登頂1200年を記念して、昭和57年に作られたもの。パッと見た感じでも、あまり古いものではないなという印象。これからどう馴染んでいくのかが問題でしょう。

  • その楼門を過ぎると現れるのが唐銅鳥居。寛政11年(1799年)に造られたもの。脚下に神仏習合の名残りであるハスの花の文様をあしらった明神鳥居という形式。三つ巴の家紋のデザインも気になりますが、意味は不明です。

    その楼門を過ぎると現れるのが唐銅鳥居。寛政11年(1799年)に造られたもの。脚下に神仏習合の名残りであるハスの花の文様をあしらった明神鳥居という形式。三つ巴の家紋のデザインも気になりますが、意味は不明です。

  • ここから有料のエリア、神苑に入りまして。この神苑にもいろいろポイントがあるんですが。。<br /><br />日枝神社は、神苑の入口を入ってすぐ左手。山の神様で健康をつかさどる神社ですから、二荒山神社にも摂社としてあっておかしくはないでしょう。赤い社には極彩色の装飾。瓦屋根もしっかりしているし、小ぶりですが、最低限の威厳は保っている構えです。

    ここから有料のエリア、神苑に入りまして。この神苑にもいろいろポイントがあるんですが。。

    日枝神社は、神苑の入口を入ってすぐ左手。山の神様で健康をつかさどる神社ですから、二荒山神社にも摂社としてあっておかしくはないでしょう。赤い社には極彩色の装飾。瓦屋根もしっかりしているし、小ぶりですが、最低限の威厳は保っている構えです。

  • 二荒山神社の神輿舎も、日枝神社の並び。みこしが三体納められているので、神輿舎(しんよしゃ)です。<br />元々は、元和3年(1617年)に東照宮の仮殿拝殿として造営されたもの。規模は小さいですが、東照宮の創建当時の建築様式を唯一残すものだそうです。小さくても二重垂木。無垢の木の味わいも気持ちよく感じられます。

    二荒山神社の神輿舎も、日枝神社の並び。みこしが三体納められているので、神輿舎(しんよしゃ)です。
    元々は、元和3年(1617年)に東照宮の仮殿拝殿として造営されたもの。規模は小さいですが、東照宮の創建当時の建築様式を唯一残すものだそうです。小さくても二重垂木。無垢の木の味わいも気持ちよく感じられます。

  • 大国殿は、神輿舎のさらにひとつ奥。<br />元々、二荒山神社の主神は大国主命なんですが、「大国」は、ダイコクと読めるので、大黒天にも通ずるとして、大黒天を祀るのがこの建物です。<br />ここにある建物では唯一内部に入れるので、金箔を貼った厨子や大黒の板絵などを間近で拝見することができます。

    大国殿は、神輿舎のさらにひとつ奥。
    元々、二荒山神社の主神は大国主命なんですが、「大国」は、ダイコクと読めるので、大黒天にも通ずるとして、大黒天を祀るのがこの建物です。
    ここにある建物では唯一内部に入れるので、金箔を貼った厨子や大黒の板絵などを間近で拝見することができます。

  • 手前に戻って。二荒山神社の化燈籠は神苑に入って、すぐの右手。<br />いわれがあって、火を入れても油が尽きて火が消えてしまったり、怪しいことが起きる灯籠だったので、警固の武士たちが刀で斬りつけたことで、そうしたことが起きなくなったというのです。刀傷が今でも残っているという説明だったのですが、それはよく分かりませんでした。 

    手前に戻って。二荒山神社の化燈籠は神苑に入って、すぐの右手。
    いわれがあって、火を入れても油が尽きて火が消えてしまったり、怪しいことが起きる灯籠だったので、警固の武士たちが刀で斬りつけたことで、そうしたことが起きなくなったというのです。刀傷が今でも残っているという説明だったのですが、それはよく分かりませんでした。 

  • 高野槙は、その向かい。石垣に囲まれた一角にあります。樹齢は千年以上。弘法大師がお手植えと伝わるそうですが、本当にこんなところまで来ていたんでしょうか。高野槙は高野山の木。少なくとも高野山がルーツということでしょう。緑がきれいな樹木です。

    高野槙は、その向かい。石垣に囲まれた一角にあります。樹齢は千年以上。弘法大師がお手植えと伝わるそうですが、本当にこんなところまで来ていたんでしょうか。高野槙は高野山の木。少なくとも高野山がルーツということでしょう。緑がきれいな樹木です。

  • 日光二荒山神社の本殿は、拝殿の奥なのですが、神苑の方に入らないと全景は見えません。造営されたのは元和5年(1619年)。徳川二代将軍、徳川秀忠によるもの。ただ、現在は工事中。周囲はシートで覆われていて、建物はほとんど見えません。 

    日光二荒山神社の本殿は、拝殿の奥なのですが、神苑の方に入らないと全景は見えません。造営されたのは元和5年(1619年)。徳川二代将軍、徳川秀忠によるもの。ただ、現在は工事中。周囲はシートで覆われていて、建物はほとんど見えません。 

  • ここから再び、奥に進んで。<br />朋友神社は、少名彦名命という学問と知恵の神様を祀る神社。小さい神社ですが、赤い社はれっきとした流造の檜皮葺。ただ世界遺産としか書いてありませんが、駒札は誇らしげです。

    ここから再び、奥に進んで。
    朋友神社は、少名彦名命という学問と知恵の神様を祀る神社。小さい神社ですが、赤い社はれっきとした流造の檜皮葺。ただ世界遺産としか書いてありませんが、駒札は誇らしげです。

  • 二荒山神社の二荒霊泉は、神苑エリアの一番奥。洞窟から湧く水には、「智恵の水」「若水」「酒の泉」と書かれた三つの立札がありました。こうして三つ並べられると、そうしたありがたい水ですというのが伝わってきます。<br />となりに、二荒霊泉の水で入れる抹茶やコーヒーのあずまやもあって、これも気になりました。<br />以上で、二荒山神社はおしまいです。

    二荒山神社の二荒霊泉は、神苑エリアの一番奥。洞窟から湧く水には、「智恵の水」「若水」「酒の泉」と書かれた三つの立札がありました。こうして三つ並べられると、そうしたありがたい水ですというのが伝わってきます。
    となりに、二荒霊泉の水で入れる抹茶やコーヒーのあずまやもあって、これも気になりました。
    以上で、二荒山神社はおしまいです。

  • 続いては、大猷院です。<br />大猷院は、徳川三代将軍、家光の廟。「大猷院」というのは、家光が死後、天皇から賜った戒名です。家光は、祖父である家康公を尊敬し、亡くなる際に、「死んでも、東照大権現にお仕えする」という遺言を残したことから、家康を祀る東照宮の隣りに、この廟が造られました。<br />

    続いては、大猷院です。
    大猷院は、徳川三代将軍、家光の廟。「大猷院」というのは、家光が死後、天皇から賜った戒名です。家光は、祖父である家康公を尊敬し、亡くなる際に、「死んでも、東照大権現にお仕えする」という遺言を残したことから、家康を祀る東照宮の隣りに、この廟が造られました。

  • 大猷院仁王門の金剛力士像は、赤い像です。極彩色の金剛力士像はめったにないと思うのですが、この大猷院の門を飾る像はことごとくが、極彩色なのです。奈良の渋い仏像も、本来は極彩色だったようです。むしろ、ここの極彩色を見て、逆に奈良の往時を偲ぶのがいいのかもしれません。<br />

    大猷院仁王門の金剛力士像は、赤い像です。極彩色の金剛力士像はめったにないと思うのですが、この大猷院の門を飾る像はことごとくが、極彩色なのです。奈良の渋い仏像も、本来は極彩色だったようです。むしろ、ここの極彩色を見て、逆に奈良の往時を偲ぶのがいいのかもしれません。

  • お水舎があって、ここからまた石段が始まります。

    お水舎があって、ここからまた石段が始まります。

  • 大猷院の二天門は、仁王門を過ぎた二番目の門。正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門なのですが、私の好きなのは背面の風神・雷神。大猷院にはいくつもの極彩色豊かな像がありますが、色彩と躍動感ある姿のバランスはこれが一番。私のお気に入りです。<br />ただ、工事がまだ続いていて、よく見えない。修理が終わるのが待ち遠しいです。

    大猷院の二天門は、仁王門を過ぎた二番目の門。正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門なのですが、私の好きなのは背面の風神・雷神。大猷院にはいくつもの極彩色豊かな像がありますが、色彩と躍動感ある姿のバランスはこれが一番。私のお気に入りです。
    ただ、工事がまだ続いていて、よく見えない。修理が終わるのが待ち遠しいです。

  • ちなみに、ここでも、大名の寄進した石灯篭が多数あり。そして、寄進の多さによって石灯籠の大きさは違うのですが、ただ、いくら大きいのを寄進しても、外様大名では廟の近くまでは行けないのだとか。徳川の権威は、やっぱりシビアです。<br />

    ちなみに、ここでも、大名の寄進した石灯篭が多数あり。そして、寄進の多さによって石灯籠の大きさは違うのですが、ただ、いくら大きいのを寄進しても、外様大名では廟の近くまでは行けないのだとか。徳川の権威は、やっぱりシビアです。

  • 大猷院の夜叉門は、二天門を過ぎて、次の門。ここは霊廟への最初の入り口です。<br />この門は、霊廟の鎮護に当たる四つの夜叉を納めるのが最大の特徴。<br />

    大猷院の夜叉門は、二天門を過ぎて、次の門。ここは霊廟への最初の入り口です。
    この門は、霊廟の鎮護に当たる四つの夜叉を納めるのが最大の特徴。

  • 緑の「阿跋摩羅(あばつまら)」、

    緑の「阿跋摩羅(あばつまら)」、

  • 赤の「毘陀羅(びだら)」、

    赤の「毘陀羅(びだら)」、

  • 白の「ケン陀羅(けんだら)」、

    白の「ケン陀羅(けんだら)」、

  • 青の「烏摩勒伽(うまろきゃ)」と、現代ならフィギュアという感じ。たぶん、昔の人も同じ感覚でこのカラフルな像を楽しんだのではないかと思います。

    イチオシ

    青の「烏摩勒伽(うまろきゃ)」と、現代ならフィギュアという感じ。たぶん、昔の人も同じ感覚でこのカラフルな像を楽しんだのではないかと思います。

  • で、これが大猶院の本殿。<br />

    で、これが大猶院の本殿。

  • 東照宮の本殿よりちょっと小ぶりですが、豪華さとおごそかな雰囲気は同じです。

    東照宮の本殿よりちょっと小ぶりですが、豪華さとおごそかな雰囲気は同じです。

  • こちらでも、内部では係りの人が丁寧に建物の説明をしてくれます。<br />周囲の金地障壁画の唐獅子は狩野探幽の作。鶴の置物は水戸家から贈られたものだとか云々。<br />奥の位牌は、家康、お江、家光。三つが仲良く並んでいます。

    こちらでも、内部では係りの人が丁寧に建物の説明をしてくれます。
    周囲の金地障壁画の唐獅子は狩野探幽の作。鶴の置物は水戸家から贈られたものだとか云々。
    奥の位牌は、家康、お江、家光。三つが仲良く並んでいます。

  • 大猷院の皇嘉門は、本殿のさらに先。徳川家光の御廟は、この皇嘉門の先です。中国、明朝の建築様式を取り入れたという別名、竜宮門。下から見上げるだけですが、がっちりした石垣に囲まれた場所に建つ姿は、色・形すべてが息をのむような美しさです。<br />以上。これで、大猶院はおしまいです。

    イチオシ

    大猷院の皇嘉門は、本殿のさらに先。徳川家光の御廟は、この皇嘉門の先です。中国、明朝の建築様式を取り入れたという別名、竜宮門。下から見上げるだけですが、がっちりした石垣に囲まれた場所に建つ姿は、色・形すべてが息をのむような美しさです。
    以上。これで、大猶院はおしまいです。

  • 二荒山神社から滝尾神社に向かうコースという標識があって、今回は、これにも挑戦してみます。<br />女峰山は、日光市の北側にそびえる山。男体山の北東約7km地点にある標高2,483mの山ですが、この辺りはその女峰山の山すそ。歩き始めた道は、その女峰山への登山ルートの始まりのようでした。全体からすればちょこっ歩いただけでしょうが、辺りは寂しい山の中。改めて日光自体が深い山の中にある場所だということが実感されました。

    二荒山神社から滝尾神社に向かうコースという標識があって、今回は、これにも挑戦してみます。
    女峰山は、日光市の北側にそびえる山。男体山の北東約7km地点にある標高2,483mの山ですが、この辺りはその女峰山の山すそ。歩き始めた道は、その女峰山への登山ルートの始まりのようでした。全体からすればちょこっ歩いただけでしょうが、辺りは寂しい山の中。改めて日光自体が深い山の中にある場所だということが実感されました。

  • 予定通り、滝尾神社に出てきました。

    予定通り、滝尾神社に出てきました。

  • ここは、隠れ家的な日光のパワースポットということのようですね。それなりに観光客の姿がありますよ~

    ここは、隠れ家的な日光のパワースポットということのようですね。それなりに観光客の姿がありますよ~

  • ただ、朱塗りの楼門をくぐって本殿も豪華な建物を見た後だけに、

    ただ、朱塗りの楼門をくぐって本殿も豪華な建物を見た後だけに、

  • ちょっと粗末な印象。

    ちょっと粗末な印象。

  • 御神木の「滝尾三本杉」も拝見しましたが、特に感動はなし。しんどい目をしてわざわざ行くところかなとは思います。

    御神木の「滝尾三本杉」も拝見しましたが、特に感動はなし。しんどい目をしてわざわざ行くところかなとは思います。

  • 滝尾神社から、今度は史跡探勝路 神橋・滝尾神社ハイキングコースで神橋方面に向かって下っていきます。しかし、何んというかかなりの悪路ですね。石がゴロゴロして歩きにくいことこの上なし。多くの人が通ったことは窺われますが、普通はそのことで少しは歩きやすくなるものなんですが、ほとんどそんなことがない。距離も長いし、正直、あまり楽しくはありません。

    滝尾神社から、今度は史跡探勝路 神橋・滝尾神社ハイキングコースで神橋方面に向かって下っていきます。しかし、何んというかかなりの悪路ですね。石がゴロゴロして歩きにくいことこの上なし。多くの人が通ったことは窺われますが、普通はそのことで少しは歩きやすくなるものなんですが、ほとんどそんなことがない。距離も長いし、正直、あまり楽しくはありません。

  • やっと輪王寺の開山堂が現れました。人けのないちょっとした平地があって、囲いも何もない中に重層宝形造りの赤いお堂がポツンと建っていました。勝道上人入寂の地のようですが、結局はとにかく寂しい場所というしかありません。

    やっと輪王寺の開山堂が現れました。人けのないちょっとした平地があって、囲いも何もない中に重層宝形造りの赤いお堂がポツンと建っていました。勝道上人入寂の地のようですが、結局はとにかく寂しい場所というしかありません。

  • 開山堂の隣りには、輪王寺観音堂。赤い社殿の正面には、数えきれないほどの将棋の駒「香車」が並んで、これは何ですかあ。傍らに駒札があって、別名、香車堂または将棋っ駒と言って、香車がまっすぐ進んで帰ってこないことに例えて、安産の神様とされているのだそう。なるほど。このもじりは楽しいです。

    開山堂の隣りには、輪王寺観音堂。赤い社殿の正面には、数えきれないほどの将棋の駒「香車」が並んで、これは何ですかあ。傍らに駒札があって、別名、香車堂または将棋っ駒と言って、香車がまっすぐ進んで帰ってこないことに例えて、安産の神様とされているのだそう。なるほど。このもじりは楽しいです。

  • そこから、昼飯のこともあるので、明治の館に立ち寄ります。<br />ここは、明治時代に建てられた石造りの洋館。まるで小さなお城のような外観です。<br />

    イチオシ

    そこから、昼飯のこともあるので、明治の館に立ち寄ります。
    ここは、明治時代に建てられた石造りの洋館。まるで小さなお城のような外観です。

  • 店内もおしゃれでレトロ感がムンムン。高級レストランといった感じですが、オムレツとかリーズナブルなメニューもあって、それなりに気軽に楽しめる。

    店内もおしゃれでレトロ感がムンムン。高級レストランといった感じですが、オムレツとかリーズナブルなメニューもあって、それなりに気軽に楽しめる。

  • 私も、そのオムレツをいただきましたが、存在感のあるプリプリの海老が何匹も入っていて、なかなか美味。何気に贅沢な味わいを堪能しました。これでまた元気が出た感じです。

    イチオシ

    私も、そのオムレツをいただきましたが、存在感のあるプリプリの海老が何匹も入っていて、なかなか美味。何気に贅沢な味わいを堪能しました。これでまた元気が出た感じです。

  • 再び、散策開始。<br />小玉堂は、周囲がフェンスで囲まれていて、近づくことはできません。少し遠めに見ることになります。<br />傍らに駒札があって、これは空海が滝尾で修業していたところ、池から二つの白玉が浮かび出た。その玉を祀ったのだそうです。規模は小さいですが、流れ造の整った社。屋根が大きくてやや頭でっかちですが、それがまた美しい姿となっています。

    再び、散策開始。
    小玉堂は、周囲がフェンスで囲まれていて、近づくことはできません。少し遠めに見ることになります。
    傍らに駒札があって、これは空海が滝尾で修業していたところ、池から二つの白玉が浮かび出た。その玉を祀ったのだそうです。規模は小さいですが、流れ造の整った社。屋根が大きくてやや頭でっかちですが、それがまた美しい姿となっています。

  • ここまで来れば、神橋ももうすぐのはずなんですが。。<br />四本龍寺は、日光開山の祖である勝道上人が大谷川を渡った後、千手観音を祀るお寺として建立したもの。そして、四本の紫の煙が龍の形になって天に昇っていったことで、四本龍寺。日光の歴史はこの寺から始まったとされています。観音堂と三重塔が遠目で見ると美しい。近づくとそうでもないのですが、そこはまああまりとやかく言わなくてもいいでしょう。

    ここまで来れば、神橋ももうすぐのはずなんですが。。
    四本龍寺は、日光開山の祖である勝道上人が大谷川を渡った後、千手観音を祀るお寺として建立したもの。そして、四本の紫の煙が龍の形になって天に昇っていったことで、四本龍寺。日光の歴史はこの寺から始まったとされています。観音堂と三重塔が遠目で見ると美しい。近づくとそうでもないのですが、そこはまああまりとやかく言わなくてもいいでしょう。

  • 四本龍寺から少し下って。これは二荒山神社別宮 本宮神社。二荒山神社・滝尾神社と合わせて、日光三社ともいうと説明されていましたが、この辺りは日光を開いた勝道上人が大谷川を渡って、初めて神仏を祀り活動を開始した場所。

    四本龍寺から少し下って。これは二荒山神社別宮 本宮神社。二荒山神社・滝尾神社と合わせて、日光三社ともいうと説明されていましたが、この辺りは日光を開いた勝道上人が大谷川を渡って、初めて神仏を祀り活動を開始した場所。

  • 境内は少し荒れていなくもないですが、特別な場所というのはそのとおりでしょう。拝殿はけっこう普通。さっきの奥の本殿の方が見応えがあります。

    境内は少し荒れていなくもないですが、特別な場所というのはそのとおりでしょう。拝殿はけっこう普通。さっきの奥の本殿の方が見応えがあります。

  • ここで神橋に出てきました。<br />ところで、神橋の下を流れる川が大谷川。街の近くを流れる川ですが、びっくりするくらい澄んだ水。きれいな流れで、いつみても癒されます。もう少し触れましたが、日光を開いた勝道上人がこの大谷川を渡るのに難渋し、それを助けるため、蛇を投げてもらって川を渡ったというのが日光の起源。雨が降れば濁流となるのでしょうが、普段、橋の上から眺める眺めからはちょっと想像できません。

    ここで神橋に出てきました。
    ところで、神橋の下を流れる川が大谷川。街の近くを流れる川ですが、びっくりするくらい澄んだ水。きれいな流れで、いつみても癒されます。もう少し触れましたが、日光を開いた勝道上人がこの大谷川を渡るのに難渋し、それを助けるため、蛇を投げてもらって川を渡ったというのが日光の起源。雨が降れば濁流となるのでしょうが、普段、橋の上から眺める眺めからはちょっと想像できません。

  • 周辺のチェックだと板垣退助銅像。少し高い場所にあるのですが、木に隠れてちょっと分かりにくいかもしれません。<br />なぜ日光に板垣退助?という思いもありましたが、実は戊辰戦争で日光にこもる大鳥圭介らの旧幕府伝習隊と相対したのが板垣退助。日光が戦禍にまみれることがないよう交渉し、無事に日光は守られたというのです。江戸城や江戸市街を守った西郷隆盛みたいな位置づけかと思います。

    周辺のチェックだと板垣退助銅像。少し高い場所にあるのですが、木に隠れてちょっと分かりにくいかもしれません。
    なぜ日光に板垣退助?という思いもありましたが、実は戊辰戦争で日光にこもる大鳥圭介らの旧幕府伝習隊と相対したのが板垣退助。日光が戦禍にまみれることがないよう交渉し、無事に日光は守られたというのです。江戸城や江戸市街を守った西郷隆盛みたいな位置づけかと思います。

  • 対して、天海大僧正の像は、日当たりのいい場所に建っていて、すぐにそれと分かります。<br />日光開山の祖は勝道上人ですが、それを再興し、現在の隆盛に導いたのは、徳川家康、秀忠、家光の3将軍に仕え徳川幕府で権勢を誇った天海大僧正でしょう。家康をここに祀り、後世までも平和な世を維持しようと着想した人物。意志の強そうな面構えが印象的です。

    対して、天海大僧正の像は、日当たりのいい場所に建っていて、すぐにそれと分かります。
    日光開山の祖は勝道上人ですが、それを再興し、現在の隆盛に導いたのは、徳川家康、秀忠、家光の3将軍に仕え徳川幕府で権勢を誇った天海大僧正でしょう。家康をここに祀り、後世までも平和な世を維持しようと着想した人物。意志の強そうな面構えが印象的です。

  • 少し足を延ばして、小杉放菴記念日光美術館も訪ねます。大谷川に沿って奥に少し上った場所に建つ立派な建物です。

    少し足を延ばして、小杉放菴記念日光美術館も訪ねます。大谷川に沿って奥に少し上った場所に建つ立派な建物です。

  • 二荒山神社の神官の子として生まれた小杉放菴は、明治・大正・昭和時代の洋画家としては、大物の位置付けでしょう。しかし、正直うまいのか、そうでもないのか。その茫洋とした画風はちょっととらえどころがないような一面もなくはない。もう少し、多くの作品を見てその辺りをはっきりさせたいなという思いもあったのですが、この日は、企画展「絵本の系譜IV 安野光雅 ふしぎな絵本の世界展」。その分、小杉放菴の作品は少なくなっていて、残念。<br />ただ、反面、改めて、安野光雅の奥の深さにはちょっと感銘を受けました。幾何学的なデザインを用いながら、不思議な空間を作り上げていて、「街道を行く」に紹介されている変わり者のおじさんというイメージはやっぱり修正する必要があるでしょう。探求心旺盛な作品からは、津和野で感じた氏の懐の深さがより具体的になったような気がしました。

    二荒山神社の神官の子として生まれた小杉放菴は、明治・大正・昭和時代の洋画家としては、大物の位置付けでしょう。しかし、正直うまいのか、そうでもないのか。その茫洋とした画風はちょっととらえどころがないような一面もなくはない。もう少し、多くの作品を見てその辺りをはっきりさせたいなという思いもあったのですが、この日は、企画展「絵本の系譜IV 安野光雅 ふしぎな絵本の世界展」。その分、小杉放菴の作品は少なくなっていて、残念。
    ただ、反面、改めて、安野光雅の奥の深さにはちょっと感銘を受けました。幾何学的なデザインを用いながら、不思議な空間を作り上げていて、「街道を行く」に紹介されている変わり者のおじさんというイメージはやっぱり修正する必要があるでしょう。探求心旺盛な作品からは、津和野で感じた氏の懐の深さがより具体的になったような気がしました。

  • 小杉放菴記念日光美術館から神橋の方に戻って。<br />深沙王堂は、神橋を渡ってすぐの自動車道路の脇。太郎杉の隣りです。<br />勝道上人が大谷川を渡るのを助けるために2匹の蛇を投げてくれた神様を祀っている神社。そこから、商売繁盛の橋渡し、事業繁栄の橋渡しといったご利益にもつながるようです。小さな神社は朱塗りで「深沙王」の額。お札がペタペタ貼られています。

    小杉放菴記念日光美術館から神橋の方に戻って。
    深沙王堂は、神橋を渡ってすぐの自動車道路の脇。太郎杉の隣りです。
    勝道上人が大谷川を渡るのを助けるために2匹の蛇を投げてくれた神様を祀っている神社。そこから、商売繁盛の橋渡し、事業繁栄の橋渡しといったご利益にもつながるようです。小さな神社は朱塗りで「深沙王」の額。お札がペタペタ貼られています。

  • 太郎杉は、その隣り。日光は杉並木が有名ですが、この杉もその杉並木の一本だったもの。道路ができることで、この木を切るのか保存するのかで意見が分かれたのですが、結局、保存されることに。そうした議論によって、日光の遺産としての価値は神社仏閣だけではないと認識させたことに大きな意味があったのだということです。

    太郎杉は、その隣り。日光は杉並木が有名ですが、この杉もその杉並木の一本だったもの。道路ができることで、この木を切るのか保存するのかで意見が分かれたのですが、結局、保存されることに。そうした議論によって、日光の遺産としての価値は神社仏閣だけではないと認識させたことに大きな意味があったのだということです。

  • ここから二社一寺の最後、輪王寺に向かいます。<br />で、その前に。。輪王寺の門前のお茶屋さんは、萬屋。いかにも古くから続くお茶屋さんという感じです。

    ここから二社一寺の最後、輪王寺に向かいます。
    で、その前に。。輪王寺の門前のお茶屋さんは、萬屋。いかにも古くから続くお茶屋さんという感じです。

  • 冷えた甘酒をいただきましたが、爽やかな甘さがとっても美味。喉が潤うだけでなく、体に栄養が行きわたるような。けっこうな甘酒です。そこそこお客さんはいましたが、これならもうちょっと知られてもいいかなと思います。

    イチオシ

    冷えた甘酒をいただきましたが、爽やかな甘さがとっても美味。喉が潤うだけでなく、体に栄養が行きわたるような。けっこうな甘酒です。そこそこお客さんはいましたが、これならもうちょっと知られてもいいかなと思います。

  • 輪王寺の中心施設、三仏堂は工事中です。<br />この建物は、平安時代の創建。日光山では一番大きく、東日本でも一番大きな木造建築というのですが、敷地も広いので、印象としてはそんなスケール感はないかもしれません。

    輪王寺の中心施設、三仏堂は工事中です。
    この建物は、平安時代の創建。日光山では一番大きく、東日本でも一番大きな木造建築というのですが、敷地も広いので、印象としてはそんなスケール感はないかもしれません。

  • 三仏堂の前の前にあるのは、輪王寺の金剛桜。推定樹齢500年の山桜で、天然記念物です。<br />明治の初めに、明治政府の神仏分離令の混乱の中で、ここに移植されたものだとか。今ではこんもりとした姿に活力を感じますが、桜は意外に弱い木。大事にされて根付いたことは想像に難くありません。<br /><br />さて、三仏堂に入って、久しぶりに千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音の三体の大仏さまを眺めます。高さ7.5mの巨大な金ぴかの像なんですが、不思議と製作がいつの時代なのかとか基本的なことが分かっていない。傷んだ感じがほとんどないので、江戸時代のものなのかなあとか勝手に思っていましたが、宝物殿の人に聞いたらもっとずっと前ではないかということ。<br />金峯山寺 蔵王堂の秘仏蔵王権現立像も製作年代がはっきりしないのと似ているかもしれません。<br />ただ、日光とはなんなのかということなんですが、やっぱりその価値は徳川家康。勝道上人が天台密教の寺院を開いただけでは、世の中に与えた影響は限られたものだったでしょう。日光の権威を語る上では歴史が古い方が都合がいいのでしょうが、そこはあまり追求しても大きな意味はないかもしれません。 

    三仏堂の前の前にあるのは、輪王寺の金剛桜。推定樹齢500年の山桜で、天然記念物です。
    明治の初めに、明治政府の神仏分離令の混乱の中で、ここに移植されたものだとか。今ではこんもりとした姿に活力を感じますが、桜は意外に弱い木。大事にされて根付いたことは想像に難くありません。

    さて、三仏堂に入って、久しぶりに千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音の三体の大仏さまを眺めます。高さ7.5mの巨大な金ぴかの像なんですが、不思議と製作がいつの時代なのかとか基本的なことが分かっていない。傷んだ感じがほとんどないので、江戸時代のものなのかなあとか勝手に思っていましたが、宝物殿の人に聞いたらもっとずっと前ではないかということ。
    金峯山寺 蔵王堂の秘仏蔵王権現立像も製作年代がはっきりしないのと似ているかもしれません。
    ただ、日光とはなんなのかということなんですが、やっぱりその価値は徳川家康。勝道上人が天台密教の寺院を開いただけでは、世の中に与えた影響は限られたものだったでしょう。日光の権威を語る上では歴史が古い方が都合がいいのでしょうが、そこはあまり追求しても大きな意味はないかもしれません。 

  • 三仏堂の拝観を終わって裏手に出たところのが大護摩堂。ここはもう有料のスペースではありません。<br />

    三仏堂の拝観を終わって裏手に出たところのが大護摩堂。ここはもう有料のスペースではありません。

  • こちらはその名前の通り、ここでは一日3回の護摩祈願が行われます。入口のところからでも、護摩祈願の様子がそれなりに見えます。この日も御祈祷を申し込む人がたくさんいて賑わっていました。

    イチオシ

    こちらはその名前の通り、ここでは一日3回の護摩祈願が行われます。入口のところからでも、護摩祈願の様子がそれなりに見えます。この日も御祈祷を申し込む人がたくさんいて賑わっていました。

  • その向かいが日光山輪王寺 相輪棟。<br />空に向かって金属製の柱が三本建っていて、インパクトある姿ですが、将軍家光の発願によって天海大僧正が建造。法華経ほかの経典が納められているのだそうです。遠くから見ても大きいですが、近くから見るとさらに大きさを実感します。

    その向かいが日光山輪王寺 相輪棟。
    空に向かって金属製の柱が三本建っていて、インパクトある姿ですが、将軍家光の発願によって天海大僧正が建造。法華経ほかの経典が納められているのだそうです。遠くから見ても大きいですが、近くから見るとさらに大きさを実感します。

  • 護法天堂は、大護摩堂の並びにある赤一色の建物。扉は閉まっていて、人けもほとんどないし、隣りの大護摩堂に比べると規模がずっと小さいので、正直、まったく目立っていないと思います。<br />かつては、毘沙門天、大黒天、弁財天の三天が祀られていたそうですが、現在は大護摩堂に移されています。

    護法天堂は、大護摩堂の並びにある赤一色の建物。扉は閉まっていて、人けもほとんどないし、隣りの大護摩堂に比べると規模がずっと小さいので、正直、まったく目立っていないと思います。
    かつては、毘沙門天、大黒天、弁財天の三天が祀られていたそうですが、現在は大護摩堂に移されています。

  • 回る順番が逆になってしまいましたが、これは黒門。東照宮の正面参道途中から輪王寺に入る門で、三間一戸潜り戸付き薬医門で、日光山輪王寺の表門に当たります。<br />漆が塗ってあるので黒一色ですが、表面が艶々というかツルツルというか。ぴかぴか光っていて、それが印象的です。

    回る順番が逆になってしまいましたが、これは黒門。東照宮の正面参道途中から輪王寺に入る門で、三間一戸潜り戸付き薬医門で、日光山輪王寺の表門に当たります。
    漆が塗ってあるので黒一色ですが、表面が艶々というかツルツルというか。ぴかぴか光っていて、それが印象的です。

  • 三仏堂入口の向かい側には、逍遥園という日本庭園もあります。

    三仏堂入口の向かい側には、逍遥園という日本庭園もあります。

  • 入口を入って行くと、すぐに池を中心とする意外に広い庭園が現れます。

    イチオシ

    入口を入って行くと、すぐに池を中心とする意外に広い庭園が現れます。

  • 小堀遠州の作とも言われるようですが、いずれにしても池泉回遊式の庭園。

    小堀遠州の作とも言われるようですが、いずれにしても池泉回遊式の庭園。

  • 池を一周しながら、景色の変化を楽しみます。まだ紅葉には早い時期でしたが、確かにモミジは多い。紅葉の名所というのもそれなりに想像できました。

    池を一周しながら、景色の変化を楽しみます。まだ紅葉には早い時期でしたが、確かにモミジは多い。紅葉の名所というのもそれなりに想像できました。

  • 同じ園内にある日光山輪王寺の宝物殿です。チケットは逍遥園と共通。<br />展示内容は、歴代の徳川将軍の肖像画や将軍ゆかりの品々。展示品はちょっと少なめですが、将軍家の威厳を伝えるものばかりです。日光は徳川家康を祀ることでこれだけの隆盛を誇るようになる。輪王寺自体の歴史はずっと古いかもしれませんが、やっぱり徳川将軍家の寺といった方が理解はしやすいでしょう。<br />なお、ロビーからは逍遥園を眺めたり。ちょっと休憩所っぽく使えるのも利点でしょう。

    同じ園内にある日光山輪王寺の宝物殿です。チケットは逍遥園と共通。
    展示内容は、歴代の徳川将軍の肖像画や将軍ゆかりの品々。展示品はちょっと少なめですが、将軍家の威厳を伝えるものばかりです。日光は徳川家康を祀ることでこれだけの隆盛を誇るようになる。輪王寺自体の歴史はずっと古いかもしれませんが、やっぱり徳川将軍家の寺といった方が理解はしやすいでしょう。
    なお、ロビーからは逍遥園を眺めたり。ちょっと休憩所っぽく使えるのも利点でしょう。

  • 再び東照宮の参道に出て、今度は日光東照宮宝物館へ。<br />この立派な宝物館は、場所を移動して新しくなったよう。<br />拝観料金は1000円と高いですが、しかし、ロビーでは日光で行われる諸行事が巨大スクリーンで放映されていて、これを見るだけでも価値あり。ちょこっと寄ってみるのもお勧めです。

    再び東照宮の参道に出て、今度は日光東照宮宝物館へ。
    この立派な宝物館は、場所を移動して新しくなったよう。
    拝観料金は1000円と高いですが、しかし、ロビーでは日光で行われる諸行事が巨大スクリーンで放映されていて、これを見るだけでも価値あり。ちょこっと寄ってみるのもお勧めです。

  • 日光東照宮宝物殿の隣りに建つ赤い大きな建物は、日光東照宮武徳殿。<br />元々は、大正4年に東照宮300年祭を記念して建てられた参拝人休憩所だそう。それが昭和に入ってから日光東照宮奉納武道大会がここで開かれるようになり、増改築により武徳殿となりました。普段は外観を確認するしかありませんが、全面の扉を開けたらさぞ壮観だろうということは容易に想像できると思います。

    日光東照宮宝物殿の隣りに建つ赤い大きな建物は、日光東照宮武徳殿。
    元々は、大正4年に東照宮300年祭を記念して建てられた参拝人休憩所だそう。それが昭和に入ってから日光東照宮奉納武道大会がここで開かれるようになり、増改築により武徳殿となりました。普段は外観を確認するしかありませんが、全面の扉を開けたらさぞ壮観だろうということは容易に想像できると思います。

  • そこから一段上がった林の中に建つのが日光東照宮 御仮殿。<br />本社を修理するときに、一時的に神霊を移す建物。仮殿というと役割が終わったら取り壊されるというイメージがありますが、日光東照宮は修理が頻繁なため御仮殿は常設とされました。確かに、ここだけでちゃんと神社になっているくらいしっかりした構えだと思います。

    そこから一段上がった林の中に建つのが日光東照宮 御仮殿。
    本社を修理するときに、一時的に神霊を移す建物。仮殿というと役割が終わったら取り壊されるというイメージがありますが、日光東照宮は修理が頻繁なため御仮殿は常設とされました。確かに、ここだけでちゃんと神社になっているくらいしっかりした構えだと思います。

  • けっこう歩きましたが、最後に気になる慈眼堂に向かいます。<br />また下新道を通って、西参道へ。この西参道は、旧日光市街の方から上る参道で、二荒山神社や大猷院の入口へは一直線。ただ、東照宮への参道に比べると、人通りはほとんどなし。西参道入口にお土産物屋さんなんかもなくはないですが、やっぱり寂しい。さびれた感のある参道です。

    けっこう歩きましたが、最後に気になる慈眼堂に向かいます。
    また下新道を通って、西参道へ。この西参道は、旧日光市街の方から上る参道で、二荒山神社や大猷院の入口へは一直線。ただ、東照宮への参道に比べると、人通りはほとんどなし。西参道入口にお土産物屋さんなんかもなくはないですが、やっぱり寂しい。さびれた感のある参道です。

  • 日光山輪王寺の慈眼堂は、西参道の途中から工事用の道路をけっこう歩いて訪ねました。<br />本来、慈眼堂への道は、二つ堂から下がって行く道なのですが、今は閉鎖されていて通れなかったんです。<br />

    日光山輪王寺の慈眼堂は、西参道の途中から工事用の道路をけっこう歩いて訪ねました。
    本来、慈眼堂への道は、二つ堂から下がって行く道なのですが、今は閉鎖されていて通れなかったんです。

  • すると、なるほど。東日本大震災で被害を受けて、以降、公開はしていないんですね。<br />ちょっと立ち入り禁止みたいな感じでしたが、なんとか境内を覗いてみると、やっぱり天海僧正が眠っているところ。勿体のある建物でした。

    すると、なるほど。東日本大震災で被害を受けて、以降、公開はしていないんですね。
    ちょっと立ち入り禁止みたいな感じでしたが、なんとか境内を覗いてみると、やっぱり天海僧正が眠っているところ。勿体のある建物でした。

  • 以上で、日光は終了して、今市の方に移動します。<br />今市の散策は、上今市から。<br />杉並木公園は、上今市駅を降りてすぐ。こんもりとした杉並木の街道に隣接した公園です。ただ、やはりこの公園の部分が見どころではなくて、やっぱり杉並木の街道。この公園自体は、日当たりも悪いし、ジメッとした印象。この公園だけ見ても仕方がないように思います。

    以上で、日光は終了して、今市の方に移動します。
    今市の散策は、上今市から。
    杉並木公園は、上今市駅を降りてすぐ。こんもりとした杉並木の街道に隣接した公園です。ただ、やはりこの公園の部分が見どころではなくて、やっぱり杉並木の街道。この公園自体は、日当たりも悪いし、ジメッとした印象。この公園だけ見ても仕方がないように思います。

  • その日光杉並木はこれ。これまでも列車の中からもこんもりとした並木は何度も見ていましたが、この中に立つのは初めてです。<br />少しカーブした街道は高い杉で覆われて、脇には勢いのあるせせらぎも。車も通れなくはないですが、外側に車道があって、車はだいたいはそちらを通るので、安心して歩ける。昔に返ったような景色です。

    その日光杉並木はこれ。これまでも列車の中からもこんもりとした並木は何度も見ていましたが、この中に立つのは初めてです。
    少しカーブした街道は高い杉で覆われて、脇には勢いのあるせせらぎも。車も通れなくはないですが、外側に車道があって、車はだいたいはそちらを通るので、安心して歩ける。昔に返ったような景色です。

  • ここから今市市街中心部に向かって歩きます。<br />と、上澤梅太郎商店は、「日光みそのたまり漬」の看板が目立つ、立派な構えの漬物屋さんです。店内では試食も積極的にやっていて、私はラッキョウのたまり漬をいただきましたが、けっこう強烈。ラッキョウのガツンとした味わいが残っていて、たぶんそれも自信の表れ。なかなかのものです。

    ここから今市市街中心部に向かって歩きます。
    と、上澤梅太郎商店は、「日光みそのたまり漬」の看板が目立つ、立派な構えの漬物屋さんです。店内では試食も積極的にやっていて、私はラッキョウのたまり漬をいただきましたが、けっこう強烈。ラッキョウのガツンとした味わいが残っていて、たぶんそれも自信の表れ。なかなかのものです。

  • もう少し進んで、大通り沿いに見えてきたのは今市宿市縁ひろば。道の駅のような感じのとにかく広い敷地をを持ったところです。

    もう少し進んで、大通り沿いに見えてきたのは今市宿市縁ひろば。道の駅のような感じのとにかく広い敷地をを持ったところです。

  • 奥に小さな建物に入った観光案内所があって、そこで近隣の観光スポットを確認させてもらいました。それはそれでよかったのですが、ただ、何のためにこんなに広いスペースが必要なのか。そこはやっぱり疑問です。<br />

    奥に小さな建物に入った観光案内所があって、そこで近隣の観光スポットを確認させてもらいました。それはそれでよかったのですが、ただ、何のためにこんなに広いスペースが必要なのか。そこはやっぱり疑問です。

  • 日光の天然氷を使ったカキ氷が大人気のお店、松月氷室です。ネットの評判も良かったので、楽しみにしていたお店です。

    日光の天然氷を使ったカキ氷が大人気のお店、松月氷室です。ネットの評判も良かったので、楽しみにしていたお店です。

  • いただいたのは、定番というとちおとめのカキ氷にミルクを加えたもの。甘みが少なくて、いちごのうまみもイマイチ。これは大人の味わいと言えばいいのでしょうが。。こだわりの手作りシロップとか書いてある割には、どうでしょうねえ。今の時代、カキ氷のレベルは信じられないくらい上がっています。そういう意味で、ゴージャスタイプのメニューもありましたが、これを定番というのなら、このレベルは少し改善の必要があるかもしれません。

    イチオシ

    いただいたのは、定番というとちおとめのカキ氷にミルクを加えたもの。甘みが少なくて、いちごのうまみもイマイチ。これは大人の味わいと言えばいいのでしょうが。。こだわりの手作りシロップとか書いてある割には、どうでしょうねえ。今の時代、カキ氷のレベルは信じられないくらい上がっています。そういう意味で、ゴージャスタイプのメニューもありましたが、これを定番というのなら、このレベルは少し改善の必要があるかもしれません。

  • 道の駅 日光街道ニコニコ本陣は、今市市街の中心部。車で日光に向かう人がちょこっと寄る場所となればいいのでしょうが、ただ、ここまで来ると日光はもう目と鼻の先。強力な集客力がないとなかなか振り向いてはもらえないかもしれません。

    道の駅 日光街道ニコニコ本陣は、今市市街の中心部。車で日光に向かう人がちょこっと寄る場所となればいいのでしょうが、ただ、ここまで来ると日光はもう目と鼻の先。強力な集客力がないとなかなか振り向いてはもらえないかもしれません。

  • そういう意味で、敷地内にあるこの日本のこころのうたミュージアム船村徹記念館はそれなりの役割があるかもしれません。<br />

    そういう意味で、敷地内にあるこの日本のこころのうたミュージアム船村徹記念館はそれなりの役割があるかもしれません。

  • 地元出身の作曲家で文化勲章も受けた船村徹の名曲を紹介しています。ちょっと年齢層が上のような気がしましたが、それでも聞いたことのある曲のオンパレード。こうした施設は、曲の魅力を再認識させてくれるところがあって、私は、美空ひばりの「みだれ髪」でまた新たな感動を覚えました。

    地元出身の作曲家で文化勲章も受けた船村徹の名曲を紹介しています。ちょっと年齢層が上のような気がしましたが、それでも聞いたことのある曲のオンパレード。こうした施設は、曲の魅力を再認識させてくれるところがあって、私は、美空ひばりの「みだれ髪」でまた新たな感動を覚えました。

  • 続いての菓子処 本沢屋の名物はおだんご。

    続いての菓子処 本沢屋の名物はおだんご。

  • 醤油味をベースにしたあやめ団子をいただきました。もっちり感はさすがという感じなのですが、みたらし団子のように素直な甘辛さではなくて、少しぼんやり薄め味のドロっとしたタレがたんまりかかったお団子。でも、だんごはあくまで主役は団子。このもっちりさがあれば、今市の名物は間違いなしです。

    醤油味をベースにしたあやめ団子をいただきました。もっちり感はさすがという感じなのですが、みたらし団子のように素直な甘辛さではなくて、少しぼんやり薄め味のドロっとしたタレがたんまりかかったお団子。でも、だんごはあくまで主役は団子。このもっちりさがあれば、今市の名物は間違いなしです。

  • 如来寺は、東照宮造営の際、家光が宿泊するための御殿がここに建てられたとかなかなかの由緒。その御殿はもうありませんが、立派な塀に囲まれて、今でもそれなりの威厳を感じます。<br />ただ、境内はけっこう殺風景。何が見どころと言われても困るような。敢えて言えば、境内を出てすぐのところに七福神めぐりの弁財天のお堂があったくらいです。

    如来寺は、東照宮造営の際、家光が宿泊するための御殿がここに建てられたとかなかなかの由緒。その御殿はもうありませんが、立派な塀に囲まれて、今でもそれなりの威厳を感じます。
    ただ、境内はけっこう殺風景。何が見どころと言われても困るような。敢えて言えば、境内を出てすぐのところに七福神めぐりの弁財天のお堂があったくらいです。

  • 二宮尊徳の墓は、二宮神社の境内奥にあります。 

    二宮尊徳の墓は、二宮神社の境内奥にあります。 

  • 墓石の前には、三つの屋根を持つ小さな建物があって、よく見るとそれは蝋燭立て。参詣者がここに蝋燭を立てるんでしょうが、二宮尊徳のなにか教えとかに関係するんでしょうか。変わったものだけに、まずこれに目が付きました。<br />ちなみに、尊徳は小田原藩から現在の真岡市の復興を命ぜられ、こちらで亡くなったのだそうです。

    墓石の前には、三つの屋根を持つ小さな建物があって、よく見るとそれは蝋燭立て。参詣者がここに蝋燭を立てるんでしょうが、二宮尊徳のなにか教えとかに関係するんでしょうか。変わったものだけに、まずこれに目が付きました。
    ちなみに、尊徳は小田原藩から現在の真岡市の復興を命ぜられ、こちらで亡くなったのだそうです。

  • 報徳文庫って、何かと思ったら、二宮神社の本殿横。二宮尊徳に関係する展示もありますが、その本来の目的は2500冊の報徳文庫の保存。勤勉実直の二宮尊徳の教えは有名ですが、その教えの原典といったものはあまり気にしていませんでした。それを保存するというのは、尊徳の亡くなった今市ならではかなと思います。なお、拝観料は300円です。 

    報徳文庫って、何かと思ったら、二宮神社の本殿横。二宮尊徳に関係する展示もありますが、その本来の目的は2500冊の報徳文庫の保存。勤勉実直の二宮尊徳の教えは有名ですが、その教えの原典といったものはあまり気にしていませんでした。それを保存するというのは、尊徳の亡くなった今市ならではかなと思います。なお、拝観料は300円です。 

  • 追分地蔵尊は、今市市街の日光側の端っこ。御成り街道と例弊使街道の分岐点にあります。<br />

    追分地蔵尊は、今市市街の日光側の端っこ。御成り街道と例弊使街道の分岐点にあります。

  • 祀られているのはけっこうな大きさの石地蔵。立派な屋根ですが、周囲は壁が取っ払われた開け広げの建物。ずんぐりした石の顔立ちと勿体ある建物の組み合わせも面白いと思います。

    祀られているのはけっこうな大きさの石地蔵。立派な屋根ですが、周囲は壁が取っ払われた開け広げの建物。ずんぐりした石の顔立ちと勿体ある建物の組み合わせも面白いと思います。

  • 二宮堂は、今市駅近くの小さな町の和菓子屋さん。

    二宮堂は、今市駅近くの小さな町の和菓子屋さん。

  • 帰りの電車の中で食べようと思って、麩饅頭をいただきました。見た目にも海藻が浮き出ていて、少しの塩味が味のアクセントになっている。ちょっと個性的な味わいで、それがサプライズ。思わずにんまりしてしまいます。<br /><br />これで、日光ほか鹿沼・今市の旅は終了。今市は意外に軽いエリアなので、サクッと終わった感じ。最後は余力を持って終わったかなと思います。ありがとうございました。

    帰りの電車の中で食べようと思って、麩饅頭をいただきました。見た目にも海藻が浮き出ていて、少しの塩味が味のアクセントになっている。ちょっと個性的な味わいで、それがサプライズ。思わずにんまりしてしまいます。

    これで、日光ほか鹿沼・今市の旅は終了。今市は意外に軽いエリアなので、サクッと終わった感じ。最後は余力を持って終わったかなと思います。ありがとうございました。

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