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妙哲禅師(みょうてつぜんじ)が開いた同慶寺(どうけいじ)(栃木県宇都宮市竹下町1107)を見学した。<br />前回訪れた伝法寺(栃木県宇都宮市徳次郎町)と妙雲寺(みょううんじ)(栃木県那須塩原町)等、下野(しもつけ)(栃木県)国内に臨済宗(りんざいしゅう)をひろめた中心人物だそうです。<br /><br />お寺の外観は普通のお寺と特に変わりありませんでした。<br />が、歴史を知るとちょっと変わっていました。<br /><br /><br />西側800mの場所に飛山城(とびやまじょう)がありますが、お寺の説明文では<br />①お寺はその支城であった。<br />②非常時にトンネルでこのお寺に抜けられるようになっていた。<br />③勅使門があった。(普通お寺に勅使門はあったのだろうか)

「同慶寺(どうけいじ)」_栃木県宇都宮市竹下町1107_No811

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2017/08/11 - 2017/08/11

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しんちゃん

しんちゃんさん

妙哲禅師(みょうてつぜんじ)が開いた同慶寺(どうけいじ)(栃木県宇都宮市竹下町1107)を見学した。
前回訪れた伝法寺(栃木県宇都宮市徳次郎町)と妙雲寺(みょううんじ)(栃木県那須塩原町)等、下野(しもつけ)(栃木県)国内に臨済宗(りんざいしゅう)をひろめた中心人物だそうです。

お寺の外観は普通のお寺と特に変わりありませんでした。
が、歴史を知るとちょっと変わっていました。


西側800mの場所に飛山城(とびやまじょう)がありますが、お寺の説明文では
①お寺はその支城であった。
②非常時にトンネルでこのお寺に抜けられるようになっていた。
③勅使門があった。(普通お寺に勅使門はあったのだろうか)

旅行の満足度
5.0

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  • 同慶寺入り口、道路反対側にある道標

    同慶寺入り口、道路反対側にある道標

  • 同慶寺入り口

    同慶寺入り口

  • 同慶寺

    同慶寺

  • 同慶寺

    同慶寺

  • 六地蔵、なんとなく一人ボスがいるが…<br />

    六地蔵、なんとなく一人ボスがいるが…

  • 同慶寺

    同慶寺

  • 銅鐘

    銅鐘

  • 銅鐘

    銅鐘

  • 読めるかな?<br /><br />寄付者の地名、竹下、道場宿(どうじょうじゅく)、鐺山(こて山)は現在も地名が残っているが、田宿、柳原は何処だろうか?<br />

    読めるかな?

    寄付者の地名、竹下、道場宿(どうじょうじゅく)、鐺山(こて山)は現在も地名が残っているが、田宿、柳原は何処だろうか?

  • 「十六羅漢(じゅうろくらかん)」のひとり・・・だれだろう?<br /><br /><br /><br />16人の羅漢(阿羅漢(あらかん))。<br />(1)賓度羅跋惰闍(びんどらばらだじゃ)、(2)迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)、(3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)、(4)蘇頻陀(そびんた)、(5)諾距羅(なくら)、(6)跋陀羅(ばっだら)、(7)迦理迦(かりか)、(8)伐闍羅弗多羅(ばざらほったら)、(9)戍博迦(じゅばか)、(10)半託迦(はんだか)、(11)怙羅(らこら)、(12)那伽犀那(ながさいな)、(13)因掲陀(いんがだ)、(14)伐那婆斯(ばなばし)、(15)阿氏多(あした)、(16)注荼半託迦

    「十六羅漢(じゅうろくらかん)」のひとり・・・だれだろう?



    16人の羅漢(阿羅漢(あらかん))。
    (1)賓度羅跋惰闍(びんどらばらだじゃ)、(2)迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)、(3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)、(4)蘇頻陀(そびんた)、(5)諾距羅(なくら)、(6)跋陀羅(ばっだら)、(7)迦理迦(かりか)、(8)伐闍羅弗多羅(ばざらほったら)、(9)戍博迦(じゅばか)、(10)半託迦(はんだか)、(11)怙羅(らこら)、(12)那伽犀那(ながさいな)、(13)因掲陀(いんがだ)、(14)伐那婆斯(ばなばし)、(15)阿氏多(あした)、(16)注荼半託迦

  • 訶利帝母堂(かりていぼどう)(鬼子母神堂 )

    訶利帝母堂(かりていぼどう)(鬼子母神堂 )

  • 訶利帝母堂(かりていぼどう)<br />訶利帝母(かりていぼ)とは鬼子母神(きしぼじん)の事です。<br />鬼子母神は東京上野入谷の鬼子母神が有名ですが・・・<br /><br />「恐れ入谷の鬼子母神、そうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」<br />入谷の鬼子母神訪問記は下記です。覗いて見て下さい。<br />“http://4travel.jp/travelogue/10161824”

    訶利帝母堂(かりていぼどう)
    訶利帝母(かりていぼ)とは鬼子母神(きしぼじん)の事です。
    鬼子母神は東京上野入谷の鬼子母神が有名ですが・・・

    「恐れ入谷の鬼子母神、そうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」
    入谷の鬼子母神訪問記は下記です。覗いて見て下さい。
    http://4travel.jp/travelogue/10161824

  • 訶利帝母堂(かりていぼどう)内部に訶利帝坐像(かりていぼざどう)

    訶利帝母堂(かりていぼどう)内部に訶利帝坐像(かりていぼざどう)

  • 訶利帝坐像(かりていぼざどう)を覗いた!<br /><br />美人であった!

    訶利帝坐像(かりていぼざどう)を覗いた!

    美人であった!

  • 本堂(左)庫裡(右)

    本堂(左)庫裡(右)

  • 本堂

    本堂

  • 本堂脇の同慶寺沿革説明文<br /><br />一部コピーです。<br />【同慶寺が他の一般寺院と差異があるのは、単に寺院としての性格のほかに、飛山城の支城としての機能をもっていたことである。つまり当時は内城、外城から成り内城だけでも二十町歩に達し、これに二重の外堀り、内堀りがめぐり、その構築方法は飛山城の外堀、内堀に全&lt;類似している。<br />このことは、飛山城を築城する際に支城としての機能を十分に考えて設計したことを立証しているものである。<br />寺域には勅使門の跡があり、その門跡の近&lt;には古井戸があって、井戸は飛山城に通じるという伝説がある。寺内には飛山城と同慶寺を築いた高俊以下の墓、清原氏累代の墓碑がある。現在の本堂は平成十六年に建立した。】

    本堂脇の同慶寺沿革説明文

    一部コピーです。
    【同慶寺が他の一般寺院と差異があるのは、単に寺院としての性格のほかに、飛山城の支城としての機能をもっていたことである。つまり当時は内城、外城から成り内城だけでも二十町歩に達し、これに二重の外堀り、内堀りがめぐり、その構築方法は飛山城の外堀、内堀に全<類似している。
    このことは、飛山城を築城する際に支城としての機能を十分に考えて設計したことを立証しているものである。
    寺域には勅使門の跡があり、その門跡の近<には古井戸があって、井戸は飛山城に通じるという伝説がある。寺内には飛山城と同慶寺を築いた高俊以下の墓、清原氏累代の墓碑がある。現在の本堂は平成十六年に建立した。】

  • 同慶寺から眺める「飛山城跡」…西側約800mにある<br /><br />城は平安時代初め頃、烽火(のろし)をあげる場所として使用されていた。実際に「烽家(とぶひのやけ、とぶひや)」と記された土器が出土しており、資料館にレプリカが展示されている。本物は倉庫に保管だそうです。

    同慶寺から眺める「飛山城跡」…西側約800mにある

    城は平安時代初め頃、烽火(のろし)をあげる場所として使用されていた。実際に「烽家(とぶひのやけ、とぶひや)」と記された土器が出土しており、資料館にレプリカが展示されている。本物は倉庫に保管だそうです。

  • 本堂東側に芳賀氏(清原氏)累代の墓碑がある。<br /><br />後日撮り忘れた芳賀氏の墓碑と井戸を撮りに行った。<br />

    本堂東側に芳賀氏(清原氏)累代の墓碑がある。

    後日撮り忘れた芳賀氏の墓碑と井戸を撮りに行った。

  • 説明文:<br />【芳賀氏は、 天武天皇の流れをくむ清原氏の子孫で、花山天皇の怒りにふれ芳賀郡に流されたことにはじまると伝えられます。 同慶寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、芳賀高俊が鎌倉時代の永仁年間 (13世紀末) に飛山城を築いた後、子孫長久のために建立した菩捉所です。以下略】

    説明文:
    【芳賀氏は、 天武天皇の流れをくむ清原氏の子孫で、花山天皇の怒りにふれ芳賀郡に流されたことにはじまると伝えられます。 同慶寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、芳賀高俊が鎌倉時代の永仁年間 (13世紀末) に飛山城を築いた後、子孫長久のために建立した菩捉所です。以下略】

  • 芳賀氏(清原氏)累代の墓碑<br /><br />《貞和(しょうわ)5年(1349)11月12日の没年何歳だったかは不明であるが、同慶寺開山は幅を持たせても1300年~1349年。永仁年間(1293年から1298年)芳賀高俊が飛山城を築くと同時に子孫長久のため伽藍を建立…この伽藍を利用して妙哲禅師が臨済宗(りんざいしゅう)をひろめるため、同慶寺として開山したのだろうか。》

    芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

    《貞和(しょうわ)5年(1349)11月12日の没年何歳だったかは不明であるが、同慶寺開山は幅を持たせても1300年~1349年。永仁年間(1293年から1298年)芳賀高俊が飛山城を築くと同時に子孫長久のため伽藍を建立…この伽藍を利用して妙哲禅師が臨済宗(りんざいしゅう)をひろめるため、同慶寺として開山したのだろうか。》

  • 芳賀氏(清原氏)累代の墓碑<br /><br />

    芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

  • 芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

    芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

  • 芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

    芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

  • 芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

    芳賀氏(清原氏)累代の墓碑

  • しんちゃんの持っている明治37年の栃木県地図です。<br />赤丸が飛山城、その東側に同慶寺はありますが、地図には載っていません。<br />鬼怒川の東側は芳賀郡の一部です。<br />芳賀氏が飛山城に居たころは清原氏を名乗っており、清原の地名はその由来かも知れないが不明らしい。<br />芳賀郡清原村は【1954年(昭和29年)8月10日 宇都宮市へ編入され消滅。】(Wikipediaより)

    しんちゃんの持っている明治37年の栃木県地図です。
    赤丸が飛山城、その東側に同慶寺はありますが、地図には載っていません。
    鬼怒川の東側は芳賀郡の一部です。
    芳賀氏が飛山城に居たころは清原氏を名乗っており、清原の地名はその由来かも知れないが不明らしい。
    芳賀郡清原村は【1954年(昭和29年)8月10日 宇都宮市へ編入され消滅。】(Wikipediaより)

  • 本堂

    本堂

  • 駐車場から西側への階段

    駐車場から西側への階段

  • 駐車場の崖下で「勅使門」「井戸」を探した。<br />

    駐車場の崖下で「勅使門」「井戸」を探した。

  • 崖下の北側に・・・藪!

    崖下の北側に・・・藪!

  • 井戸を発見!

    井戸を発見!

  • 井戸の周りに金網が貼ってあった。<br /><br />800mのトンネルは眉唾物(まゆつばもの)かも知れないが<br />金沢市の「妙立寺」通称“忍者寺”のトンネルもある事ですし<br />伝説として残したいですね。<br />妙立寺は40年前等、2度程見学しているがお勧め場所です。<br /><br /><br />勅使門跡は判らなかった!<br /><br />次は問題の「飛山城跡」見学だ!

    井戸の周りに金網が貼ってあった。

    800mのトンネルは眉唾物(まゆつばもの)かも知れないが
    金沢市の「妙立寺」通称“忍者寺”のトンネルもある事ですし
    伝説として残したいですね。
    妙立寺は40年前等、2度程見学しているがお勧め場所です。


    勅使門跡は判らなかった!

    次は問題の「飛山城跡」見学だ!

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