2017/07/23 - 2017/08/01
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azianokazeさん
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7月26日(水) シラーズから、今回旅行のメインメニューのひとつ、ペルセポリス遺跡に向かいます。
早い時間にペルセポリス観光を済ませ、周辺遺跡も見ながらゾロアスター教遺跡が残るヤズドへ移動するというタフな1日です。
本編では、ペルシャ帝国の栄華を偲ばせるペルセポリス関連の写真をまとめました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
7月27日朝 シラーズの「PARK SHIRAZ HOTEL」の中庭
ゆっくり朝食を取りたいところですが、今日はタイトなスケジュール
(ペルセポリス観光をなるべく涼しい時間帯にすませるために、当初予定を変更したため)
ホテルに頼んで、朝食開始時間前に簡単な朝食パックを用意してもらい、7時には専用車で出発。 -
シラーズから60kmほど 40~50分で到着 朝8時頃と早いせいでほとんど人はいません。
気温も、車の温度計では25℃ぐらい。昼過ぎには40℃近くになるでしょう。
入場料は20万リアル(約600円)
世界遺産としては格安かと思いますが、イランの観光地施設はペルセポリスのような超有名スポットも、ローカルなスポットも同額 チケットも同じもの使っていました。
バッグ類は持ち込み禁止ということで、カメラと水とガイドブックだけ持っていきますが、あいにく手は2本しかなく非常に面倒。 -
朝日の逆光のなかに遺跡の柱が見えてきました。基壇の上に建設されているようです。
ちなみに、ペルセポリスはヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡
とともに「中東の3P」と称されていましたが、周知のようにパルミラ遺跡はイスラム国(IS)によって一部破壊されたそうです。
(個人的には、タリバンによるアフガニスタンのバーミヤン大仏破壊が残念です)
また、ペルセポリス遺跡は一部の旅行者の間では「がっかり世界遺産」とも呼ばれています。期待の大きさに比べ、残されている遺跡群が少ないことからでしょうか。
個人的には、高校時代の世界史の教科書に掲載された小さな写真を見て以来、「いつか行ってみたい」と思っていた場所です。
「がっかり世界遺産」なのかどうか・・・ -
遺跡にあがる大階段 左右にふたつあります。
ロープで保護されているように、約1700年前のオリジナル(一部修復はありますが)です。
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基壇へと上る堂々たる二重階段は、左右どちらも111段。1段ずつ石を積み上げたものではなく、ひとつの岩から5段分の階段を切り出し削ったもの。
段差が約10cmと低いのは、馬に乗っていても上り下りを容易に行えるようにするため。【歩き方】
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宮殿の正門「クセルクセス門」
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「クセルクセス門」西側の牝牛像(馬のようにも見えますが・・・)
頭部は偶像崇拝を嫌うイスラム勢力によって破壊されています。 -
反対側の東側には人面有翼獣神像
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「クセルクセス門」東側
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クセルクセス門CG再現図
【http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/19175844.html】 -
大階段からクセルクセス門へ(再現図) 奥は宮殿本体部
【http://www.persepolis.nu/persepolis.htm】
もちろん想像の産物ですが。 -
クスエルクセス門付近から眺める宮殿跡
ペルシャ帝国・ダリウス1世がペルセポリスの建設に着手したのは紀元前520年、クーヒ・ラハマト(慈悲の丘)の山裾に自然の岩盤を利用して建設されました。
ペルセポリスはアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)の都・・・と思っていたのですが、“クセノフォンの記録によればアケメネス朝の王は春3ヶ月間をスサ、夏2ヶ月間をエクバタナ、冬7ヶ月間をバビロンで過ごしたとあり、ペルセポリスは儀式用の都市であったのではないかという説もある。”とのことで、ガイドのヤコブ氏もこの考えでした。 -
有名なレリーフがある東階段は屋根で保護されています。
最初40~50分は写真撮影は控えて、ガイド氏の話を聞きながら最後まで見学、その後同程度の自由時間で写真を撮りながら来た道を戻る・・・というスタイル。
ガイドするのには効率的なのでしょうが、写真を我慢する方には忍耐が要求されます。 -
ペルセポリスCG再現図 中央やや下が「クセルクセス門」
【http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/19175844.html】 -
クセルクス門を東へ通り抜けると、儀杖兵の通路が真っすぐ延びています。
通路の奥、未完成の間の手前左側にあるのは、空飛ぶ双頭鷲像。
ふたつの頭の間の水平になった部分に梁を載せ、通路に屋根をかけていたとのこと。 -
左手奥のクセルクセス門から延びる「儀仗兵の通路」
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この重い柱頭をどうやって20m近い柱の上にあげたのか?
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作業に使用した滑車も見つかっているとか。
写真の柱の一部は、滑車のロープをかけるように細工されているそうです。
「滑車」と言ってもいろんなレベルがあるので、当時存在したとしても、どのようなレベルのものだったのかは知りません。
いずれにしても、なんらか工夫しないと、重い柱頭を柱に乗せるのは難しいように思えます。 -
この時間帯はまだ人影もまばらです。
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つくりかけの像
このようにいくつかの石を積んでおおよその形をつくり、その後、専門職人が表面を整えていきます。結果、牝牛像や人面有翼獣神像などができあがります。 -
この一帯は往時は美しい庭園だったとか。
庭園は「パラダイサ」つまり、生命が光を浴びて空中を舞う所(Life flies with the essence of light)と呼ばれ、これが英語世界における「パラダイス(楽園)」の語源となったそうです。
このほか、インド・アーリア語には、「ペルシャ」起源の重要な単語が多数存在しているそうで、ヤコブ氏の話では「ゴッド(神)」もその一つとか。 -
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いくつか残る門の内側には、王と悪魔が戦う図柄のレリーフが彫られています。
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手前は「百柱の間」の柱土台
中央部は兵舎跡
山裾にあるのは、アルタクセルクセス2世王(BC404~358年)の墳墓
ペルセポリスの後に訪れる予定の「ナグシェ・ロスタム」と同じ構造だから・・・ということで、アルタクセルクセス2世王墳墓には行きませんでしたが、高台からペルセポリス全景がきれいに眺められるようです。 -
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こちらでも戦っています。
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“王が向かい合った牡牛に短剣を突きつけている「悪魔と王の闘争像」は、悪に対する王の力や勝利の象徴だ。”【歩き方】
この図は牝牛ではなく獅子のようです。 -
画像では判別しづらいですが「玉座の王像」
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南側の「玉座の王像」もやはり王の権力を誇示したもの。
玉座をかついでいる臣民は、それぞれアケメネス朝に従う28の属州を表している。
王の頭上にある浮き彫りは「翼ある日輪」で表されたゾロアスター教の最高神、アフラ・マズダ。
神、王、臣民という当時の力の構造がひとつに表現されており、興味深い。【歩き方】
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「宝庫」跡
ダリウス1世以来の莫大な富が収められており、ペルセポリスを征服・略奪したアレクサンダー大王が宝物を運び出すのに、1万頭のロバと5000頭のラクダを要したそうです。 -
「アバダーナ(謁見の間)」基壇に彫られたレリーフ
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ペルセポリス遺跡を代表するモチーフ「牡牛を襲うライオン」
“解釈は諸説あるが、ライオンが夏、牡牛が冬を表し、季節の移り変わりを表しているというのが有力。ライオンを王、牡牛を敵の象徴とみる説もある。”【歩き方】 -
「アバダーナ(謁見の間)」に上がる有名な「東階段」のレリーフ
その国ならではの朝貢物を手にしてペルシャ王に謁見する23の国々の使者が描かれており、当時“世界の中心”であったアケメネス朝ペルシャとその王の権威を示しています。 -
東階段レリーフ
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比較的遠い地域では、東アフリカのエチオピア
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エチオピアの隣は北アフリカのリビア
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東方世界では、腰布ドーティをまとったインドの使者
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コーカサス地方からは、とんがり帽子のスキタイ
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地中海世界イオニアからは布とトウモロコシを持参
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羊を連れているのはどこでしょうか?
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こぶ牛を連れているのはメソポタミア
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当時流行った靴を履いているのは小アジアのリディア
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ライオンを連れているのはご近所のエラム
前を行く母ライオンが後ろの子ライオンを気にしています。
その下、瓶を捧げ持つのはアルメニア -
先頭はお膝元メディア
この東階段のレリーフから、アケメネス朝ペルシャがいかに広大な地域を支配していたかが分かります。
この広大な帝国の根幹にあったのは、迅速な移動を可能にした道路「王の道」
帝都スーサ、ペルセポリスとエーゲ海に面したサーディスを繋ぐ2700kmの古代ハイウエイで、一定間隔で守備隊・宿駅が置かれ、馬を乗り継ぐ形で移動が可能でした。
この道路を利用して銀行・郵便制度も生まれたとか。
更には、地方官であるサトラップ(州知事)の勤務状況を把握するために派遣した監督官制度としての「王の目・王の耳」
そして何よりも肝心な点は、異なる民族、文化、宗教にも寛大であったことです。
バビロン捕囚として奴隷の地位にあったユダヤ人を解放したのは、大帝国を打ち立てたキュロス2世です。
“後世に理想的な帝王として仰がれ、ユダヤ人を解放して帰国させたことから旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている”【ウィキペディア】
ペルシャ帝国は力によってのみ形成されたものではありません。
バビロニア有力者などは、自ら望んでペルシャ帝国支配を受け入れたとも。 -
「アバダーナ(謁見の間)」に上がると 双頭の獅子がお出迎え。
昔学習した世界史では、同時代に民主主義を成し遂げたとされるギリシャが中心で、オリエント的専制国家のペルシャは、ペルシャ戦争などの“敵役”として登場する形ですが、この世界帝国のあり様については再認識する必要があるように思えます。 -
「アバダーナ(謁見の間)」
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ダレイオス1世の命によって建てられた豪華な宮殿。属国からの使者との謁見やノウルーズ(新年)の祭儀のために使われていた。
高さ2.6mある床には磨かれた石が敷き詰められ、水路の溝が当時の設備の整い具合を物語っている。
レバノン杉が使われていたという屋根は、高さ19mの36本の柱によって支えられていた。そのうち12本が今も原型をとどめ、天空を突き刺すようにそびえている。【歩き方】
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前編で「イランはイスラムではない!」という話を取り上げました。
宗教としてのイスラムへの敬意はともかく、イランにとってイスラムは比較的新しい時代に入ってきた文化であり、古来イラン人のアイデンティティーの根幹にあるのは、歴史をはるかに遡るペルシャ帝国の偉業であり、その寛容な精神に裏付けされた洗練された文化であると思われます。 -
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高さ20mほどの列柱に支えられたレバノン杉の大屋根の広間・・・往時の姿を想像することは難しいですが、世界各地から集まった使者を平伏させるに十分な壮麗さだったことでしょう。
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しかし、その栄華も時の流れの中で・・・
写真奥の遺跡はダリウス1世のプライベート宮殿「タチャラ」 -
ダリウス1世のプライベート宮殿「タチャラ」
磨き抜かれた黒大理石を使っており、「鏡の間」とも呼ばれているそうです。 -
中央宮殿・・・ではないでしょうか。
あちこち撮影した写真を、ガイドブック等で確認しながら場所を特定していますので、間違い・勘違いも多々あることをご了承ください。 -
「玉座かつぎ」のレリーフ
28の属州の臣民がダリウス1世の玉座を支え、王の背後にクセルクセス1世が控える・・・という構図 -
同上
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「ハディーシユ」 (クセルクセス1世のプライベートな宮殿)でしょうか。
ペルセポリスはアレクサンダー大王に制服された際に炎上し、歴史から消えていきます。
伝説によれば、酒宴で酩酊したアレクサンダーが遊女にそそのかされて火を放った・・・とも。
ただ、実際は、それなりの政治的思惑があっての放火・破壊だったのでしょう。
ガイドのヤコブ氏は「アレクサンダーは"大王"なんかではない。彼は破壊しただけで何も作り出していない」と、厳しい評価でした。
ギリシャ人を引き連れて各地に住まわせ、ヘレニズム文化をつくった・・・とも言えますが、イランにとっては単なる破壊者のようです。 -
クセルクセス門に戻る頃には観光客がずいぶん増えていました。
気温もかなり上がってきました。 -
入口の女性観光客の一団
-
冒頭にも述べた「がっかり世界遺産」だったかどうか。
私は非常に満足しました。
多分、イランの文化・歴史を少しでも理解してほしいというガイドのヤコブ氏の熱意に感化されたせいでしょう。
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