2017/05/07 - 2017/05/08
75位(同エリア2526件中)
mistralさん
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7日、ライプツィヒからベルリンまで戻ってきた。
帰りの列車は、日曜日という事もあってか、指定席を取って
おいて良かったと思う程の乗車率だった。
ベルリン中央駅からU55番で二駅のブランデンブルク門駅まで、
そこで乗り換えて一駅のポツダム広場駅まで向かう途中の
ブランデンブルク門駅構内だったと思うが
通りすがりに目にとまった一枚のパネル。
(表紙の写真、いろいろな映り込みがあって良くないですが)
ケネディ大統領とブラント(当時は)西ベルリン市長。
三人のうち、もう一人が当時のアデナウワー西独首相と知ったのは
帰国後の事だった。
ケネディ大統領がかつてベルリンを訪問していたことも初めて
知ったことだったが、
かなり昔学んだ世界史の知識だけでは太刀打ちできないほどに
今回のベルリンの旅では戦後のドイツが歩んできた苦悩の道を
知ることとなった。
今回のベルリンの旅、最後の旅行記は第二次世界大戦後の
ベルリンの歴史を私自身が学びながら辿ってみました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
1945年2月から4月にかけて、ベルリンの街では空襲が激化、
4月30日ヒトラーが自殺。
5月8日、ドイツは無条件降伏した。
残されたベルリン市民250万人の3分の2が女性であり
女性たちの手によって戦後の瓦礫の復旧作業が始められていった。
ソ連、アメリカ、イギリス、フランスの4戦勝国によって
戦後のドイツは分割統治されることになっていたが
首都ベルリンも同様に分割され、ソ連占領地区に囲まれて
西ベルリンは陸の孤島の状態となった。
(写真はライプツィヒ中央駅) -
(帰りの列車もかなりの時間がかかってベルリンまで戻る。)
ICE2560
ライプツィヒ発 14:15
ベルリン着 16:23 -
1946年、ソ連の後押しを受けて、東側には社会主義統一党が
誕生。東西対立が激化する中、象徴的な言葉として
「鉄のカーテン」という言葉がよく使われるようになった。
1948年、西側連合国は新通貨、ドイツマルクを導入。
一方ソ連側の思惑では、ベルリン全体に東のマルクのみを
導入しようとしていたことから、ソ連は反発し、
その対抗措置として西ベルリンへの陸路が封鎖された。
一方の西側連合国は対抗のため「空の架け橋」作戦により
空輸ルートを確保。西ベルリン市民に対して空から、食料、燃料
などの生活物資を1年間にわたり送り続けた。
あきらめたソ連は一年後に封鎖を解除した。
このことから、東西の対立は決定的なものとなり
1949年、西側に自由主義国家のドイツ連邦共和国が成立
東側には社会主義国家のドイツ民主共和国が誕生、以降
ドイツは国家として東西に分断することになった。
(写真はベルリン中央駅とブランデンブルグ門駅とを結ぶ
わずか2駅のU55番線) -
西ベルリン、テンペルホーフ空港に物資を
空輸してきた航空機を見上げる
ベルリン市民。
(wikiより) -
東西に分断されたベルリンでの状況は一層深刻なものとなった。
東ドイツでは境界線を国境として主張、
一方西側では交通の自由を主張していた。
当時は毎日東から西へ通勤していた人もいたが、これを利用して
西側へ亡命する人の数も増加していった。
西ベルリンはアメリカからの援助も受けて徐々に復興をとげ
東側との経済格差は大きく開いていくこととなった。
この格差から、将来を悲観して東から西側に逃れる若者の数が激増、
1961年には7月だけで西ベルリンに逃げて行った東側市民の
数は3万人にも及んだが、その事を危惧した東側によって
同年8月12日から13日にかけての深夜、境界線に鉄条網が張り
めぐらされた。
(写真はわずか二駅の短い区間を結ぶU 55番、黄色の車両) -
写真はブランデンブルク門周囲の壁の様子。
左側が東側、右側が西側となる。
(同じく駅構内にあったパネルの写真) -
(表紙パネル写真のもととなった写真をネット上で見つけた。)
そんな中で1961年、アメリカ大統領に就任したのがJ.F.ケネディ。
彼はソ連のフルシチョフとの間で非公式な「ウィーン会談」開催を
持ち掛け、ソ連側からは、
西ベルリンから撤退することを西側陣営に対して求める要請があったが
とうてい応じられない事だった。
その2か月後、西ベルリンの封鎖のためにベルリンに壁が建設。
しかし本当の目的は東側市民の西への流出をくい止める為だった。
壁によって東西ベルリンが分断されたときの市民の衝撃は
かなり大きなものとなった。
1963年6月26日、そのような状況下でJ.F.ケネディは
アメリカ大統領として初めて壁の建設後の西ベルリン、
テーゲル空港へと降り立った。
アメリカはかつての占領軍から、一年間にわたって生活物資を空輸
し続けたことから、すでに友好国へと変わっていた。
ケネディを歓迎するベルリン市民は沿道を埋め尽くし、その数は
200万とも言われた。
ベルリン中の学校も休校になったようだ。 -
ケネディの演説を聞くために市庁舎前に集まった
30万人のベルリン市民。(1963年6月26日)
(wikiより)
その折の演説が、後々になっても語り継がれてきているとのこと。
「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリン市民
である。それゆえ、私は自由な人間として誇りをもってこう言いたい。
〝Ichi bin ein Berliner”
彼の演説は、全てのベルリン市民の心に訴えかけた。
陸の孤島となっていた西ベルリン市民にとって、西側世界が
味方となってくれていることを再確認させた彼の言葉だった。
そのベルリン訪問のわずか五ヶ月後、ケネディ大統領はアメリカ
ダラスにて凶弾に倒れた。 -
ポツダム広場の地上へと出てきた。
前回には目につかなかったマンホールの蓋。
テレビ塔などが彫り込まれていた。 -
最初に三泊した
The Ritz Carlton, Berlinにて
最後の一泊を過ごす。
一泊だけは前泊と同様の予約が出来なかった為
Club Loungeが利用できるフロアでの宿泊。 -
今回の部屋。
前回と余り大きな変化はないようだったが
ベッドサイドでカーテンの開閉が電動でできる
装置がついていたぐらい? -
7日は青空が広がっていた。
-
ラウンジで軽食が取れることから
結果的には7日の夕食、8日の朝、昼食までいただいて
しまった。 -
サラダ類、前菜、アルコールなどから
-
アスパラガス、ポテトには
塩・胡椒で。
ローストチキンと共に。 -
翌日8日の朝食。
-
-
チェックアウトの手続きもフロアで済ませ
スーツケースなどを預かっていただき
最後の街歩きへと出かけた。 -
テロのトポグラフィーという施設へ向かうため
ポツダム広場から南東方向へ移動中、
マルティン・グロピウス・バウ という博物館の前を
通過。 -
「テロのトポグラフィー」に到着。
どんな施設か良くわからないまま歩いてやってきた。
トポグラフィーの意味が「地勢学」???
この周辺地域にはかつてホロコーストに携わった中央司令部
ともいえる施設が集まっていた。
ゲシュタポ本部、親衛隊保安部、帝国保安中央局など
国家のテロ機構が集中していた場所だった。
ここへの出頭命令は、当時は「死」を意味していた。
戦後は北側の通りにそって壁が築かれた。
かつての建物群は撤去され更地となっていった。
右手奥に見えるのは展示館。 -
入場しなかった展示館。
ここのデザインコンセプトは「開かれた傷口」だそうだ。
シンプルなデザイン、斜めになった位置関係など
主張しすぎないデザインによって
歴史にじっくり目を向けてほしいという姿勢が
感じられる。 -
ニーダーキルヒナー通りに沿って
ベルリンの壁が200mほど残っている。
円柱を半分に割ったような物が
壁の上部に載っているのは
脱出しようとしても手がかからないように
している為。 -
ベルリンの壁のすぐ裏手にあるこのあたり一帯が
注目されるようになったのは1980年代になってから。 -
被害者の側に焦点があてられる強制収容所とは
違って
ドイツ人の加害者としての責任が問われる場所
である故に、
このような施設が造られるには、戦後になってから
長い時が必要となったようだ。 -
保存された壁沿いに
ギャラリーが作られていて
写真や解説を見られるようになっている。 -
1920年代
ワイマール共和国の自由な雰囲気に満ちたベルリン。
賑わうブランデンブルク門前の様子。
映画産業、ラジオ放送、Sバーンという高速鉄道の運行、
バウハウスの影響下のモダニズム建築などなど
当時盛んになっていったものが多く残されている。 -
ひときわ輝いた時代にあったベルリン、
「黄金の20年代」と称されるひと時。
現代の都市生活の基礎が出来上がった時代だった。
1929年の世界恐慌と共にそんな時代は暗転し
その後のナチスの台頭と共に自由な空気は失われ
ベルリンは過酷な時を迎えることとなる。 -
ナチスの軍事パレードに
熱狂的なヒトラー式の敬礼をして声援を送る
一般市民の様子。
ナチス上層部だけでなく
強制収容所での看守の写真など
普通の市民が国家をあげての組織的な
犯罪に巻き込まれていった様子が
写真を通して伝わってくる。 -
東西ドイツ統一後に跡地が発掘調査され
ゲシュタポ本部の地下牢が発見された。
収容されたのは政治犯、ユダヤ民、など。
丁度東西を分断していた壁にそって
ナチスにまつわる歴史をも学べるようになっている。 -
-
東西に分断されたベルリン、
鉄条網が引かれ近くには立ち寄られなくなった
ブランデンブルク門を警備する東側兵士。 -
ヒトラー台頭の時代が
写真パネルと解説パネルによって
展示されてる。
食い入るように見つめている多くの見学者の姿が
印象的だった。 -
遊覧気球乗り場(地上150mからベルリンを
見渡せるようだ)を通り過ぎて -
たどり着いたのは
かつて国境検問所だった
チェック・ポイント・チャーリー。 -
観光客らしい人々が
交代で記念撮影をしている。 -
ここを突破しようとして
銃殺された東ドイツ住民も少なくない。 -
-
すぐそばにある壁博物館へ入ってみる。
プライベートな博物館のためか料金は割高な感じ。
(入場料14.5ユーロ、写真撮影の為プラス5ユーロ) -
1961年、突然の壁の建設によって
境界に建っていたアパート(内部は東側)の窓から
西側に逃れようとする人々の写真。
窓から脱出しようとする老女と
それを手伝う人の姿が写されている。 -
1977年、アーチスト Renate Hagenは
大きなスピーカーの中に隠れ西側へ脱出。
脱出を手助けしたのは、後に結婚した
Theodorus Kerk(当時歌手として有名だった)が
ステーションワゴンに積み込み国境を通過。
警備の兵士はその立派なスピーカーと
周辺機器に目を止めたが、中身までは
気づかれることがなかった。 -
Joachim Neumann(ヨアヒム・ノイマン)という西ベルリンの学生
は壁が建設された1961年、スイスの学生から借りたパスポート
を使って西ベルリンへ脱出。そのまま西ベルリンにて学生生活を
送っていたが、1962年、最初のトンネルによる脱出を計画。
しかし見破られてしまいその折は失敗に終わるが
1964年ノイマンを中心とした数十人規模の西ベルリンの大学生によって
約一年かかってトンネルが掘り進められ、
縦穴からはいり145mのトンネル内部に渡されたこの板に乗せられ
10月、57人が脱出に成功した。 -
その折のパスワードは5日後に開催された東京オリンピックに
ちなんだ「トーキョー」だった。
最初の脱出計画でシュタージに捕らえられていたガールフレンドが
釈放されたとの連絡を受けての決行だった。
因みに、1964年10月10日から開催された東京オリンピックには
分断されていた東西ドイツは、ベートーヴェンの「歓喜の歌」を
国歌替わりとして、一つのチームとして競技に参加したそうだ。 -
かつて壁が築かれていたベルナウアー通りにある
ベルリン・ウォール・メモリアル(残念ながら未訪問)
が整備されているそうだが
この周囲は、脱出用のトンネルが多く掘られた場所だという。
そこに「トンネル57」のメモリアル・プレートが
設置されているようだ。 -
西ベルリン側に面した壁と東側との間には
数十メートルある無人地帯が設けられ
一定間隔の監視塔が設置されていた。
(東西ベルリン間48キロの区間だけで302か所) -
東ドイツで1953年6月に起こった初めての
人民蜂起の写真。
ナチス時代、モスクワへ亡命していたウルブリヒトは
戦後東ベルリンへ帰還。1949年、DDRが成立すると
党中央委員会の書記長に就任、シュタージ(国家保安省)
の設立、農業の集団農場化、工場などの労働者に対して
ノルマの増加などを科した。 -
結果、人々の生活苦から西側への逃亡が増加していった。
自由選挙、ドイツ統一、ウルブリヒトの辞任などを求めて大規模な
デモが起こり、
ソ連軍によって鎮圧された。 -
この博物館は、入り組んだ沢山の部屋の壁に
写真や解説パネルがびっしりと貼られていて、
当時の脱出に使用された装置やらの展示と相まって
全てを見ようとすると膨大な時間と根気も必要そうとなる。
当日は帰国日でもあり、残されたもう一箇所の訪問も
気になったので、途中で退出してしまった。 -
写真は壁博物館の建物の写真(右側、ティケットの裏面)
とパンフレット。 -
U1でWarschauer Str.までやってきた。
最後の訪問地イースト・サイド・ギャラリーを
見学するため。
この頃にはあいにくの雨模様に変わっていた。 -
壁ギャラリーの絵画は統一後に書かれたものと
思っていたが、そうではないらしい。
壁の東側は幅100mの無人地帯となっていて
立ち入ることができなかったが、西側からは
近づけた為に、壁の建設を非難し撤去を求める
落書きが出現するようになった(1986年)
(wikiより)とあったから。 -
以下、ギャラリーの写真を
載せていきます。 -
シュプレー川沿いのミューレン通りにある
壁、13㎞がオープンギャラリーとなっていて
ドイツ内外の画家が描いた壁の部分が保存されている。 -
(壁崩壊までの動きはwikiによります。)
1964年、東ドイツ政府は年金受給者に対して
西側へ行くことを許可。
65歳以上の人口が減れば年金を支払う必要がなくなる
ための措置だった。
同様にアルコール中毒患者、精神病患者も簡単に
西へ送っていた。 -
1963年12月19日から1964年1月4日までの間
一時的に西側市民の東側訪問が可能となった。
東側に親戚がいることが条件だった。
1964、65年にも同様の措置があったが
東側から西へ行くことはできなかった。 -
その後は手続きを済ませば、西から東側への訪問は簡単に出来る
ようになっていった。
しかし東西マルクを1対1で交換させられ、東ドイツでの
マルクは使い道がほとんどなく、西側へ戻る際の残ったマルク
は没収とされた。 -
1985年、ソ連共産党書記長にゴルバチョフが就任。
ペレストロイカ(改革)を推し進めたことから
東ヨーロッパ諸国へと影響が波及していった。
1989年、ハンガリーのネーメト首相が
オーストリアの国境にある国境柵の鉄条網を撤去する
ことを発表。
東側住民は夏季休暇の名目でハンガリーを訪問、
国外出国を目指した上でのことだった。 -
1989年8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニックが
ハンガリー政府改革派の後援で、オーストリア国境近くの
ショプロンで開催。
これは秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアへ
越境させることを目的としたイベントだった。
その後は、西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月以降
オーストリア経由で出国させていった。 -
日本をモチーフにした絵画も。
-
こうした動きを経て、ベルリンの壁は有名無実化していった。
国民の大量出国や、ライプツィヒの月曜デモ等から東ドイツ国内は
混乱。
しかしホーネッカー党書記長は改革に対しては背を向けていた。
1989年10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカー
書記長解任動議が可決。後継者にクレンツが就任した。 -
同年、11月9日、クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で、
翌日から施行予定の出国規制緩和のための新しい政令案を決定。
同日夕方、広報担当者、シャボフスキーは、定例記者会見で
この規制緩和策の内容をよく把握しないまま
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点
から出国が認められる」と発表。 -
いつから発効するのかという記者の質問に
「ただちに、遅滞なくです。」と答えてしまった。
これをテレビで見た東ベルリン市民は
東西ベルリン間の国境検問所に殺到。
この政令は、実際は査証発給要件の大幅な緩和だったので
越境にはあくまで査証が必要だったが -
殺到した市民への対応に困った国境検問所の指揮官は
政府からの指示がないまま
11月9日午後10時45分、国境ゲートを開放した。
もちろん査証の確認もされないままだった。
この時に、ベルリンの壁は事実上崩壊した。 -
よく11月10日
ベルリンの壁は、重機などによって破壊されていった。
翌1990年10月3日
東西ドイツは統一された。 -
米ソ冷戦の象徴的遺跡として
シュプレー川沿いの約1.3㎞の壁
このイースト・サイド・ギャラリーは
保存されることになった。 -
有名(?)な
ブレジネフとホーネッカーの
「兄弟のキス」は傷みが激しかったため
描き直された。 -
写真は、壁の崩壊に歓喜するベルリン市民
(wikiより)
今回ドイツへの旅で、特にベルリンは初めての訪問でもあり
多くの方々の旅行記を参考にさせていただきました。
下記URLは frau himmelさんの旅行記
・・・ベルリンの壁が最初に開いた場所、 ボルンホルム通り検問所
の旅行記です。
壁の崩壊に至るまでの大きなうねりが見事に解説されています。
ご興味のある方はご訪問なさってください。
http://4travel.jp/travelogue/11147208 -
この頃には土砂降りの雨となってしまい
ずぶ濡れになってホテルへと引き上げた。
Berlin/Tegel 19:00 NH6086 Munichまで
Munich 21:25 NH218 Haneda 着 (翌9日 15:50)
ゴールデンウィークのベルリンの旅はこうして終わった。 -
最後に、旅の前から読み始め、帰国してもなかなか読み終わらなかった
「ベルリンの秋」上下巻 をご紹介します。
ブログの進行と本の読み進めとがほぼ同時進行でした。
プラハの春を経験し、その後東ベルリンに大使館の開設準備を
した外交官の、恋愛も盛り込まれたストーリーで、
著者ご自身も外交官でもあるので、その実体験が元になっているようです。
シュタージ内部にいた反シュタージの人たち
ブラント首相の秘書が東側の人間だったことから、最後は首相辞任に
追い込まれた事など
事実を盛り込んだ東西の情報戦略を、息詰まる思いで読みました。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- M-koku1さん 2018/04/29 10:40:33
- 大作ですね!
- はじめまして
歴史の教科書より詳しいんじゃないでしょうか...
以前お向いにアウシュヴィッツから生還された方がお住まいだったので この種の旅行記には つい目が行ってしまいます
チェックポイントチャーリーを通って 東ベルリン観光をしたのが 昨日のように思い出されます
観光客にも銃が向けられていましたので 怖くて写真をとれませんでしたが 2つのベルリンの格差をはっきり見ることができた 貴重な経験でした
その後アウシュヴィッツを訪問したり
イギリスの戦争博物館で行われた ドイツから救出された子供達の講演会を聞きに行ったりしましたが その辺は旅行記にまとめることができました
でもmistralさんのように 詳しくまとめることは できませんでした
読み物として面白かったです
ではまた
Mより
- mistralさん からの返信 2018/04/30 10:05:29
- RE: 大作ですね!
- Mさん
おはようございます。
mistralです。
こちらからもメッセージを。
> 歴史の教科書より詳しいんじゃないでしょうか...
> 以前お向いにアウシュヴィッツから生還された方がお住まいだったので この種の旅行記には つい目が行ってしまいます
身近なところに、体験された方がおられると
関心は深くなられると思います。
> チェックポイントチャーリーを通って 東ベルリン観光をしたのが 昨日のように思い出されます
>
> 観光客にも銃が向けられていましたので 怖くて写真をとれませんでしたが 2つのベルリンの格差をはっきり見ることができた 貴重な経験でした
統一前の東ベルリンをご訪問されていたんですね。
> その後アウシュヴィッツを訪問したり
> イギリスの戦争博物館で行われた ドイツから救出された子供達の講演会を聞きに行ったりしましたが その辺は旅行記にまとめることができました
アウシュヴィッツの旅行記は昨日拝見いたしましたが
イギリスでも、子供さん達による講演会が開催され
その折のご経験も旅行記に残されているんですね。
又拝見したいと思います。
ヨーロッパの国々では、過去に起きた惨劇を語り合うことで
次なる悲劇を防ごうとする努力がみられることは
素晴らしいことと思います。
> でもmistralさんのように 詳しくまとめることは できませんでした
>
> 読み物として面白かったです
お褒めいただきありがとうございました。
mistral
-
- ペコリーノさん 2017/08/31 11:59:24
- ベルリンの歴史
- mistralさん、こんにちは。
ベルリンの壁の崩壊までの歴史をたどった、素晴らしい旅行記を見させていただきました。じっくり読み込んでしまいました。
力作ですね。
このように真剣にベルリンの歴史に向き合って旅行されているのは、とても素敵だな、と思います。
そして、ご紹介いただいた「ベルリンの秋」も読んでみたいなと思います。
私は一人旅ということもあり、リフレッシュの旅というのもあって、あまり深刻にならない様に、楽しいところや、興味のあるところだけめぐることにしていますが。
今年の秋もベルリンへ旅行します。今回はベルリンフィルのコンサートも行くので楽しみです。
ペコリーノ
- mistralさん からの返信 2017/08/31 16:41:50
- RE: ベルリンの歴史
- ペコリーノさん
メッセージをありがとうございました。
くどい旅行記を丁寧にお読みいただき、ありがとうございました。
旅している折には、それ程じっくり向き合っているわけではないのです。
ただベルリンは、昨年旅をしましたアウシュヴィッツ、ワルシャワの地と
繋がる地ということもあって
最初から訪れたいと思う所もいくつかありました。
帰国後、旅行記にコメントをつける段階になって
更に歴史を辿ってみた結果が、あんな風になってしまいました。
ペコリーノさん、他のトラベラーの方々が想っておられるベルリン、
私も少しわかったような気が致します。
今回の旅で、私もベルリンが特別の地、と
感じました。
再訪される想いの一端ではありますが、理解できました。
秋、ベルリンへ!羨ましいですね〜
mistral
>
> ベルリンの壁の崩壊までの歴史をたどった、素晴らしい旅行記を見させていただきました。じっくり読み込んでしまいました。
> 力作ですね。
> このように真剣にベルリンの歴史に向き合って旅行されているのは、とても素敵だな、と思います。
>
> そして、ご紹介いただいた「ベルリンの秋」も読んでみたいなと思います。
>
> 私は一人旅ということもあり、リフレッシュの旅というのもあって、あまり深刻にならない様に、楽しいところや、興味のあるところだけめぐることにしていますが。
>
> 今年の秋もベルリンへ旅行します。今回はベルリンフィルのコンサートも行くので楽しみです。
>
> ペコリーノ
>
>
>
-
- たらよろさん 2017/08/12 12:31:51
- 同じ国家で分断の歴史
- こんにちは、mistralさん
同じ国家で分断されるという歴史、
本当に辛いものですよね。
家族も西と東に分断されていてずっと会えないとか、、、
でも、最初の数年は東から西へ比較的楽に行けたんですね。
ドイツは美しいお城や教会などの建築物を見たり、
街歩きを楽しんだり、、、
そんな旅になるけれど、そこには戦争歴史もあるんだ!!ってこと、
感じながら歩いてみたいなぁって思いました。
ベルリンの壁が砕かれたの、、、
脳裏に焼き付いてますよー
あれから、もう28年、、、いやまだ28年なのかな?
たらよろ
- mistralさん からの返信 2017/08/12 21:15:47
- RE: 同じ国家で分断の歴史
- たらよろさん
こんばんは。
いつもメッセージをありがとうございます。
> 同じ国家で分断されるという歴史、
> 本当に辛いものですよね。
> 家族も西と東に分断されていてずっと会えないとか、、、
> でも、最初の数年は東から西へ比較的楽に行けたんですね。
日本で暮らしていると、国境という存在を忘れてしまいます。
昨年からポーランドやベルリンを旅してきたせいか、国の存在すら
なかった時があったポーランドや、一国が分断され家族ですら
自由に会うことができなかったドイツなど
その土地を実際歩いてみるまでは実感が伴っていませんでした。
> ドイツは美しいお城や教会などの建築物を見たり、
> 街歩きを楽しんだり、、、
> そんな旅になるけれど、そこには戦争歴史もあるんだ!!ってこと、
> 感じながら歩いてみたいなぁって思いました。
そうなんですよね。
現地を自分の足で歩いてみると、過去の歴史がそのままストレートに
感じられてきます。
今まで旅してきた比較的南よりのドイツとは違って、ベルリンは特別な
地という気がしました。
> ベルリンの壁が砕かれたの、、、
> 脳裏に焼き付いてますよー
> あれから、もう28年、、、いやまだ28年なのかな?
当時、壁の崩壊!のニュースは私にとっては遠い世界で起こった出来事
のような印象でした。
今回の旅で改めましてドイツが背負ってきた重荷を感じて帰りました。
重い旅行記を読んでいただきまして、ありがとうございました。
mistral
-
- frau.himmelさん 2017/08/11 20:00:20
- ベルリンの歴史、じっくり拝見しました
- mistralさん、こんばんは。
ついにベルリン編完成しましたね。
じっくりベルリンの歴史を勉強させていただきました。
私が知らなかったこともいろいろ取り上げてくださって、大変興味深く拝見しました。
あそこまで丁寧に記録に残すのには、かなりお時間を要されたのだろうな、と思いました。
いやー、読み応えがありました。
また私の、ボルンホルム検問所の旅行記の紹介もしていただいてありがとうございます。
テロのトポグラフィーに新しい展示室ができたことは知っていましたが、その後足を延ばしていないものですから、建物を見たのは初めてです。
ずいぶん無機質な建物ですね。
きっとこれもあまり重厚な造りにして「ネオナチ」のたまり場になることを避けたいという思惑があったのでしょうね。
ベルリンはいろんな歴史が交差している私の大好きな街です。
今年の秋の旅行にもベルリンの予定を入れています。
今度はどんな顔を見せてくれるか、楽しみです。
himmel
- mistralさん からの返信 2017/08/12 11:19:48
- RE: ベルリンの歴史、じっくり拝見しました
- himmelさん
メッセージをありがとうございました。
おかげさまでやっと辿りつけました。
ついつい深みにはまってしまったようで、途中で後悔し始めておりました。
> ついにベルリン編完成しましたね。
> じっくりベルリンの歴史を勉強させていただきました。
> 私が知らなかったこともいろいろ取り上げてくださって、大変興味深く拝見しました。
> あそこまで丁寧に記録に残すのには、かなりお時間を要されたのだろうな、と思いました。
> いやー、読み応えがありました。
大先輩のhimmelさんからそう仰っていただきますと、恥ずかしいです。
私自身が初めて接することとなりましたベルリンの歴史でもありますので
自分自身のため、記憶に留める意味が大きかったと思います。
> また私の、ボルンホルム検問所の旅行記の紹介もしていただいてありがとうございます。
壁崩壊にまつわる瞬間の動き、これはもうなんといいましても
himmelさんの旅行記に登場していただきたいと考えておりました。
こちらこそありがとうございました。
> テロのトポグラフィーに新しい展示室ができたことは知っていましたが、その後足を延ばしていないものですから、建物を見たのは初めてです。
> ずいぶん無機質な建物ですね。
> きっとこれもあまり重厚な造りにして「ネオナチ」のたまり場になることを避けたいという思惑があったのでしょうね。
そうだったんですね。
比較的新しい施設だったんですね。
>
> ベルリンはいろんな歴史が交差している私の大好きな街です。
> 今年の秋の旅行にもベルリンの予定を入れています。
> 今度はどんな顔を見せてくれるか、楽しみです。
今回ベルリンを旅しまして、himmelさんが何度も訪問されている意味が少しですが
わかったような気が致しました。
機会がありましたら、また訪問してみたいです。
本当にそうですね。
その都度、新しい出会いがありそうな街ですね。
mistral
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