2017/04/25 - 2017/04/25
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belleduneさん
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唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝宇3年(759)に新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を寺としたものでした。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語。寺、院、精舎、蘭若などと同じく、仏教寺院を指す語として使われていました。即ち、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和尚のための寺」という意味ですね。
- 旅行の満足度
- 4.5
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南大門は昭和35年(1960)に復元されたもので、柱五間の中央を三扉とする切妻造の門。昔は、中門があったので、この南大門から入って、中門があり、回廊が左右に出ていて、金堂に繋がっていました。講堂は、回廊の外にあり、塔は回廊からずっと東にあったそうです。法隆寺や法起寺、薬師寺とは伽藍配置が異なっています。現在は、中門も回廊もありません。
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目の前にどーんと見えているのが、金堂です。今日の飛鳥時代の法輪寺、法起寺から始まって、薬師寺、そして、この唐招提寺と見て来ると、このお寺は他とは全く異なっていることが分かります。
正面七間、屋根の両橋にのっている鴟尾が特徴で、ここは鑑真和上個人のお寺だったため、今日見てきたお寺が官寺だったのに対して、実にシンプルな造りになっています。ですから、法隆寺、薬師寺が入母屋造になっていますが、ここは寄棟造です。昔は入母屋造りの方が格が高かったのです。因みに現在の鴟尾は、平成の修復時に新しく造られたものです。
また、丸瓦が作る棟からおりてくる平行な線が凹凸を持った縞模様を作り、今日のように、日が当たると、丸瓦は影と共に白く輝きますし、もし雨天でもしっとりと濡れて美しいそうです。現在の屋根は、江戸時代の修理で 2,8m 高くなっています。創建当時は、もっと緩やかな勾配だったのでしょう。欠点は、雨漏りがすることだったため、勾配を急にしたそうです。 -
唐招提寺の寺地は、新田部親王邸跡地で、広さは4町でした。1町が約1ha、つまり100mX100m です。寺内に現存する2棟の校倉造り倉庫のうち、経蔵は、新田部親王宅の倉庫を改造したものと言われています。
この金堂は、鑑真の弟子で、共に来日した如宝によって造られ、食堂は、藤原仲麻呂の寄進によるものであり、講堂は、平常宮の東朝集殿を移築改造したものだったそうです。金堂の建立年代は、鑑真の没後、おそらく8世紀末とされています。伽藍の造営は、鑑真の弟子・如宝や孫弟子・豊安に引き継がれましたが、平安時代以降、一時衰退しました。その後、鎌倉時代の僧・覚盛によって、復興されています。 -
嘗ては、南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出ており、金堂左右に繋がっていました。
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長押の上が白壁で真ん中に長い通し肘木が通っています。間に間斗束(けんとづか)が入っています。間斗束とは、組物と組物の間にあり、縦方向の荷重を支えている構造材を中備(なかぞえ)といい、これもその1種です。日本建築の詳しい写真解説は、sukima.comの組物で分かり易く解説してあります。
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青い矢印は、軒支輪地という部分です。内部に支輪板、小支輪などの展示がありましたが、ボランティアをなさっている方は、あまりご存知ではなかったようで、どの部分が軒支輪かは、ネットで調べてやっと分かりました。門を入って、この金堂を遠くから見た時は横長ですが、近づくにつれて、縦の線が強調されてきます。太い柱が並んでいて、その柱は、「粽」の手法で上が丸くなっています。
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同じく、軒支輪です。
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正面には殆ど壁がありません。正面3間の蔀戸を全開すると、中央に本尊盧舎那仏坐像、左に千手観音立像、右に薬師如来立像が見えるようになっていて、そのために造られた金堂でもあるのだそうです。
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基壇の上に太く、がっちりと並んだ八本の柱に架けられた虹梁が見事です。正面の柱割りは、天平尺だと、真ん中の三間が、16尺、その両脇が15尺、またその両脇が13尺、11尺と狭くなっています。こういう柱割りは、隅を丈夫にするということもあるし、見る者に広がりを感じさせて、安定感を増すようにしてあるそうです。
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三和土の上にどしっと立っている側柱は、傷んだ箇所を取り除いて、新しく補修してあり、その歴史を感じさせます。
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柱の上の組物は、薬師寺と同じ三手先担っています。太い部材を使わずに、肘木と斗、尾垂木などを三段に組み合わせて、深い軒を支えるものです。地垂木は、丈夫で、太く、数が多いので、屋根を支えるだけでなくて、建物の歪み(ゆがみ)やひずみを起こさせない役目を果たしているそうです。その地垂木の先端部分上に「木負い」(両端の隅木から隅木までの長い部材)があります。その気負いの上端に「飛檐垂木」を乗せる受け凹みが刻まれていて、しっかりと固定されます。こうして。長い軒が出来上がるのです。そして、飛檐垂木の先端上部には、「茅負い」が取り付けられていて、これが反り上がって、屋根そのものの基本形を決めているのだそうです。当寺の飛檐垂木は、先端に反って、緩くカーブを入れた形になっています。こうして深い軒を支えた美しい構成となっています。全ての部材名と役目は sukima.com のサイトをご覧になってください。
唐招提寺は、興福寺などと比べると、尾垂木の下側に丸みを持たせて、少し反りがあるために、やさしい感じを与えるという。 -
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正面吹き放し部分の上部。
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向こうに緑の庭園が見えて、薬師寺とは全く異なる雰囲気ですね。
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深く大きな軒を支える宮大工の技術は本当に素晴らしいものです。
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側面4間で、南の一間は、壁がなく、開放されています。大きな屋根を支えるには、この太い柱が絶対条件だったのでしょう。
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北側は、連子格子で、中央に扉があり、六間が格子になっています。
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北側全景
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鼓楼は、仁治元年(1240)に建立した重層な建物。以前は、経楼でしたが、鎌倉時代に再建された後、鼓楼と呼ばれました。1階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置していることから、「舎利殿」との言われています。
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入母屋造、本瓦葺き。頭貫は、端部を大仏様の木鼻になっています。この部材名も、sukima.com を見てください。
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側面から見た鼓楼。後ろに見えるのは、礼堂・東室です。
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その礼堂・東室は、南北に細長い建物です。元は僧房でしたが、弘安6年(1283)に改築されたもの。桁行19間、梁間4間、入母屋造り、本瓦葺き。中央南寄りに馬道(土間の通路)があり、そこから北の10間が東室、南の8間は仏堂になり、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂と呼ばれます。礼堂内には、清涼寺式釈迦如来立像と日供養舎利塔を安置しています。
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南側が、礼堂。
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奥が東室です。
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礼堂の東側に並んで建つのが、経蔵、宝蔵で、共に奈良時代の校倉造り倉庫。経蔵は、唐招提寺創建以前にここにあった新田部新王邸の米倉を改造したもので、日本最古の校倉と言われています。
写真の宝蔵はここが唐招提寺になってから、建てられました。 -
講堂は、鑑真和上が唐招提建立の際、平城京にあった東朝集殿堂を賜ったものを改造したそうです。本瓦葺きで、正面9間、側面4間となっています。東朝集殿は、壁や建具のない開放的な建物で、屋根は切妻造りでしたが、寺院に改造するため、屋根は入母屋とし、建具を入れています。鎌倉時代の健治元年(1275)にも改造されていますが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として重要なものとなっています。
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堂内には、本尊弥勒如来坐像、持国天、増長天立像が安置されています。
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ここも白壁の少ない建物で、連子格子が使われています。地垂木は真っ直ぐで、上の飛檐垂木の先を細くして、カーブをつけてあります。こちらは、軒の出も短いので、金堂と比べると、柱の太さも全く違っています。
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中央の扉付近です。
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ちょうど瓊花が咲き始めているので、御影堂前に行って見ました。御影堂は修復中で暫く内部は公開されません。瓊花の隣には藤の花も咲き始めています。
瓊花とは、鑑真和上の故郷である中国・揚州の花で、隋の皇帝・燿帝が大変気に入ったため、それ以降門外不出となっていた名花でした。これは、特別に頂いた国内でも貴重な株だそうです。 -
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奥の藤棚に咲いていた白藤は満開近くで綺麗でした。
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ここには、西室がありました。
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木立の向こうに、講堂が見えています。
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