2017/01/17 - 2017/01/24
246位(同エリア518件中)
明石DSさん
2017:平成29年1月17日(火)~1月24日(火)
5泊8日
6日目:1月22日(日):曇り
アマルフィー海岸ドライブとポンペイ遺跡へ
2019.平成29年1月22日(日)
ナポリ:アメリカンホテル 朝のロビー
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■ナポリ郊外の朝
南イタリアツアー最後の観光の朝、今朝もまだ暗い6時過ぎに散歩に出た。ホテルのすぐ近く道沿いに日本車スズキのディーラーがある。展示車は日本で見るより輝いて見える。イタリアで日本車を見かけるのは多くはないが異国で日本企業を見れば素直に嬉しいい。頑張れよ!と思う。
スーパーマーケットはまだ入口の扉が閉まっていた。ホテルに戻って早い出発に備え朝食は6時45分から。ドリンクバーにはカタカナ日本語と中国語の漢字表記、ハングルはなかった。朝食はどことも同じようで私には十二分だ。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
午前6時 まだ暗い
ちょっと散歩に出る -
ホテル傍にスズキのディーラーがある
物作り大国日本、日本車が評価されている限り
日本の科学技術・物作りは大丈夫だ!頑張れ日本! -
アメリカンホテルの朝食バイキング
朝食はどことも文句はない -
日本語・漢語の表記あり、ハングルなし
近隣三ヶ国とは即時国交断絶を願う
それが叶えば気分は最高、嫌なものは嫌
断じて差別ではない人間は感情の動物なり -
午前7時29分、早くもホテルを出発
アマルフィ海岸 ポンペイ遺跡観光に向かう
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■アマルフィ海岸へ
7時半にならないうちにバスは出発。まずアマルフィ海岸へのドライブ。私は何を勘違いしたのか今日のバスコースを読み違えた。一旦アマルフィ海岸の東まで行きそこから海岸を西に向かって走ると思っていた。だから景色を見やすいように左側座席に座った。
それが失敗であり、左座席の者は通路を隔て右座席に座っている人の窓越しに見えるだけの景色となった。当然写真もほとんど取れず。アマルフィ海岸へのバスはいつものバスより小型になり座席も一杯、右座席に変わること出来ず。
ナポリ湾の素晴らしい景色もアマルフィ海岸の崖下に見えるはずの海の色も“Tさん”の説明を聞くだけで目にすること叶わず。欲張って考えすぎて罰が当たったのだろう。あとから右側一番前の席に座っている添乗員“Tさん”の横に座らせてもらったら良かったと後悔するも、その時はただ諦めていた。
ナポリからバスでアマルフィ海岸ドライブの際は右側座席の窓側に座ることをお勧めする。ゆえに車内から写真はあまり取れなかった。ホテルを出発、ヴェスビオ山を眺めながら走っていたら途中からナポリ湾の向こうにヴェスヴィオ山が聳える絶景の道に出た。
見にくい左座席からでも一見してこの景色こそが
「特命全権大使米欧回覧実記. 第4篇 欧羅巴大洲ノ部 中」(コマ番号230)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761505/198?tocOpened=1
「以国人ノ諺ニ、那不児ヲ一覧シタル後ニ死ナント謂フ トナリ、以テ其名勝ノ地タルヲ知ヘシ」と書いた景色だと感じた。
イタリア語で「vedi Napoli e poi mori(ナポリを見てから死ね)」・・・残念ながら自分で良い写真は取れなかったが誰もが感動するような素晴らしい風景だ。ナポリを訪れた日本人は古今を問わずこの景色を見ただろう。
バスは勾配のある狭い道に入りすぐに海岸沿いの崖っぷちアマルフィー海岸を走る。狭い道なのに自転車のロードレーサーが練習なのか4~5台連なって走っていた。下を覗くと紺碧の海に海岸沿いはエメラルド色のツートンカラー。残念ながら右窓からしか覗けず、私にはほとんど見れなかったがたまに見れる角度もあった。
でも海の色の美しさはなんと言ってもパラオ戦跡巡りで見た海。サイパン・グアムなども行ったが次元の違う美しさだった。
蛇行した崖っぷちの道を走りアマルフィに向う途中ポジターノ(POSITANO)展望台で休憩。バスから降り眺望を楽しみ写真を写す。
冠雪の山からティレニア海への急こう配、その谷の斜面へばりつくように階段状に美しい家々が立ち並ぶ。ポジターノはアマルフィー海岸の西端で人口3900人。ここは高級リゾート地で夏場には世界の有名人がバカンスにやってくる。ハリウッドスターやイタリアの大統領などもこのポジターノ来るようだ。
ポジターノで10分程休憩しバスは出発。クネクネ曲がった崖上周回道路(SS163)を走る。車内で添乗員の“Tさん”がナポリから船で行くカプリ島の「青の洞窟」の話しをしていた。青の洞窟?って聞いたことがあるような気がするがそれが何か知らなかった。
ポジターノから30分程走り海岸沿いのホテル「アルベルゴ ラ コンカ アッズーラ(Albergo La Conca Azzurra)」:「Allere ART SHOP CAFE」陶器の土産物店にトイレ休憩を兼ねて入る。
イタリアの陶器はデザイン派手で色彩も鮮やか、渋い日本の陶器とは趣が違う。コーヒーを頼んでしばし休憩、小さな小鉢を一つ記念に自分の土産に購入し帰国後家で使って気に入っている。この場所の下の海岸にエメラルド洞窟(Grotta dello Smeraldo)があり観光場所にもなっているとのこと。20分足らずの休憩でいよいよアマルフィへ。 -
日本の象徴は富士山 ナポリはヴェスヴィオ山
山 海 川 人間は変われど自然は変わらぬ
幾千年 幾万年 皆同じ光景を見ているはずだ -
ナポリ湾とヴェスヴィオ山 絶景なり
左側座席を選択したことが悲劇だった
バス座席は満席 右に移れず写真も撮れず
日頃の行い結果であり、これ自業自得という -
岩倉使節団「米欧回覧実記」七十七巻(コマ番号230)記
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761505/198?tocOpened=1
「以国人ノ諺ニ、那不児ヲ一覧シタル後ニ死ナント謂フ トナリ、
以テ其名勝ノ地タルヲ知ヘシ」 -
いよいよバスはアマルフィ海岸に近づく
-
アマルフィ海岸を走る
「紺碧の海に海岸沿いはエメラルド色のツートンカラー」
との説明あるも左座席から時々垣間見れるのみ -
イタリアも自転車競技が盛んなようだけど・・・
こんな狭いカーブ道での練習は命懸けやなァ -
ポジターノ(POSITANO)展望台前にある果物店
https://www.google.co.jp/maps/@40.6268981,14.4788486,12.48z?hl=ja -
岩肌に白の瀟洒な住居が立ち並ぶ
ここはポジターノ 高級リゾート地 -
小さいけれど砂浜もある
金持ちのリゾート場所・・・か
我金持ちになれず生涯を終える -
犬とポジターノ
-
ポジターノ展望台の犬 何思う
-
アマルフィ海岸にはこのバスで来た
ベンツ・バスは大きすぎてこの道は不可とのこと -
トイレ休憩を兼ねてこの店に入る
「Calajanara RESTAURANT」「Allere ART SHOP CAFE」
https://www.google.co.jp/maps/place/Calajanara/@40.6148523,14.566037,19.48z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xa1931d69ddf59271!8m2!3d40.6147849!4d14.566527?hl=ja -
色鮮やかな陶器製品があふれていた
日本の陶器と比較しての異文化を感じる
違いこそ面白い! -
南イタリアのお土産としてこの小さな器を購入
我が家で今使っている -
喫茶コーナーもある
-
コーヒーを飲む
-
ナポリのホテルから7時半にバスで出発
2時間半でアマルフィに到着した
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■アマルフィ
午前10時5分、世界文化遺産のアマルフィ海岸の中心都市・観光の拠点であるアマルフィに到着。アマルフィのことは「アマルフィの魅力を紹介」に詳しく解説がある。事前知識はほとんどなくこの地に立った。天気晴朗風なく寒くなく旅日和とは今日のことだ。
人口5149人。斜面にへばりついた町である。こんな場所に住居を構え昔々から海洋貿易を行い近隣諸外国と商売を行い大いに栄え『839年(奈良時代)、ナポリの属国から独立し、中世イタリアで最初の海洋共和国となる』・・・へぇ~背後が切り立ち耕作地もないこんな狭い場所で9世紀に共和国として存在するだけの力があったのか。
バスを降りまず皆で向かった先はドゥオモ(アマルフィ大聖堂)。狭い町にどっしりした大聖堂が幅広の階段上に堂々と立っていた。目に付くのは外観模様。『教会正面(ファサード)は1891年に改装され、外壁はストライプのマーブル模様という、この地域の教会・聖堂として珍しいものになっている。』
こんな模様をマーブル模様というのか・・・。確かに教会には珍しい外壁デザイン・いろんな図柄も書かれ海洋都市:多文化混合教会という感じだ。教会正面左側には建設に100年の歳月を掛け戦時には見張り台になった鐘楼がイスラム教モスクを思わせるデザインで聳えている。これがキリスト教会?と思わせる独特の景観のアマルフィ大聖堂。
階段を上って行ったが「天国の回廊」も教会内部も見なかった。そして集合時間を決めてこの場で解散、午前10時20分~11時30分まで自由時間となる。早速一人で歩きだす。アマルフィのメーンストリート「ロレンツォ・ダマルフィ通り(Via Lorenzo D'Amalfi)」を上に歩き途中右側路地の「狭い階段(ココ)」を上がって行った。
https://www.google.co.jp/maps/@40.6371635,14.6025337,3a,75y,65.59h,89.67t/data=!3m6!1e1!3m4!1szFG0e_jPW2z075i-JKBxcg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
階段が至るところにあり家の壁や擁壁に挟まれた狭い道なのに途中オートバイが何台か置いてあった。単車が通る道があるのだろう。さすがに車はない。道は上に向かってどこまでも続いている。出来るなら頂上付近まで行きたいところだが集合時間が気になるし、迷うことも心配で15分くらい上ったところで引き返す。
残念ながら上った道が悪かったのか東斜面側で眺望良くなく町全体を見渡せない。しかしここまで来たらもっともっと高い所にも住居が立ち並んでいるのが見えた。アマルフィのムリーニ渓谷は12世紀頃から手透きの製紙業が盛んになったようで今も「紙の博物館(Museo Della Carta)」がある。
http://blog.goo.ne.jp/h274h038/e/1951e66546beb1f48720c495c4e08f9c
こんな狭い峡谷に急斜面の小さな街アマルフィ、それが海洋国家となり海外との貿易で栄え製紙業も盛んだったとは・・・。
思えば日本もどんな山奥にも集落あり、家内の実家は和歌山の山奥の寒村。やはり谷の斜面にへばりつく様に村がある。平地なく耕作面積も限られた土地。「何でこんなところに家を建て住みだしたのか?」・・・落ち武者が辿り付き隠れ暮らし村となったとの言い伝えもあるが実際のところ分からない。
アマルフィ海岸沿いに点在する絶壁の集落を見て人間の適応力の凄さを思う。住めば都と言うがホンマ不思議なり。
本通りに出てソフトクリームを買う。イタリアのソフトクリームは甘くておいしいとのイメージがあったが味は普通。現代社会は“おいしいもの”が溢れすぎ何もかもがおいしくなり過ぎた。それは空腹感がないからだ。ゆえに「より旨く」を追求しないと食べ物は売れない。
果物もお菓子も何もかもおいしくなりすぎている。おいしすぎるのは身体に悪い。旨い物の追及より「空腹」を目指せ!
海岸に出て突き出た突堤の先端部まで行って街を振り返る。絵葉書の風景が現実に目の前に広がっていた。美しいアマルフィ。青い海・青い空・白い建物・そして背景には岩山の絶壁。
ここで仕事を得 家庭を持ち日常の生活を送る。そんなイメージは湧かないなァ。やはりここはリゾート地が相応しい。 -
最初に行ったのがアマルフィの象徴ドゥオモ(アマルフィ大聖堂)
驚いた。カトリック教会と思えない外壁デザインと色合い
聳える鐘楼はイスラム教会のモスクにも似たり -
この大聖堂こそがアマルフィの歴史を示す
『イタリア、アラブ、ビザンチンを結ぶ「三角貿易」で発展し
839年にナポリの属国から独立し、中世イタリアで最初の海洋共和国となる』
アマルフィならではの文化を感じる -
教会階段上から“ドゥオーモ広場”を見る
イタリアって何でも広場っていう名前がついているなァ -
自由時間が与えられ早速上に向かって歩く
出来るだけ上の方に登って眺望の開けたところに行きたい -
「狭い階段(ココ)」を上がって行く
“Google・Map”ストリートビューは偉大なり
今後どう進化していくのか?湧く々するけど
https://www.google.co.jp/maps/@40.6371635,14.6025337,3a,75y,65.59h,89.67t/data=!3m6!1e1!3m4!1szFG0e_jPW2z075i-JKBxcg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja -
この先はどうなっているのか?
1時間10分の自由時間片道30分の距離
ツアーゆえ迷うことは厳禁なので無理できず -
ふ~ん、こんなところに単車の駐輪場が
ここまでは単車で走れる道があるってこと
そしてこの先は歩きしかダメってことなのだ -
選んだ道が悪かったようで展望開けず
このまま上り続けるのを諦めこの先で引き返す -
ここまで来れば、まだこの奥高台に集落があるのが見える
あそこまで行くのに徒歩ではあるまいに
どこかに車で行ける道があるのだろう -
高台からアマルフィ海岸の展望を期待して上って来たが
上った道が悪く海岸方向視界が狭まるばかり・・降りる -
こういう所に絡み合って居を構え暮らす人たちは
みんな家族のような親しき関係にあるのだろうなァ
どんな仕事に従事しどんな人生を送るのか? -
本通りに無事降りて来た
-
アマルフィの洗濯干し
-
どう見ても車同士の行き違いは無理
だが一方通行でもありません
互いに譲り合って通行します -
IL PLANETA DEL GELATO
GELATERIA ARTIGIANALE
このアイスクリーム店でアイスクリームを買う -
イタリアのアイスクリームは濃厚で甘くて美味しいはずが
今は日本のアイスも美味しいので、美味しく感じず -
中共からの一団と遭遇
難儀な隣国に昔も今も今後も悩まされ続ける
富国強兵目指すのみ、奴らの足下に下れば地獄だ -
正面からアマルフィを望む、教会鐘楼が右に
『鐘楼は1180年から完成まで100年以上かかる
鐘楼は戦争時は見張り台の役割も担っていた』 -
右手 ティレニア海に面し、へばりつき建つ白い邸宅
部屋からの風景は想像するだけで夢心地 -
左手 岩山のてっぺんに家が並ぶ
凄い!良くぞ建てたあの上に -
アマルフィ滞在 10:07~11:32 1時間25分
生涯二度と来ないだろうアマルフィ 来たことが奇跡なり
サラバ! -
アマルフィからポンペイ遺跡へと向かう
天気が良くて幸いなり
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■ポンペイ遺跡に向かう
自由時間は終了し生涯再び来ることはないだろうアマルフィを午前11時30分後にした。そして今回のツアー最後の観光地ポンペイ遺跡へと向かう。しばらくティレニア海が広がる景色を見ながら海岸沿いを走り、やがて正面に雄大なヴェスヴィオ山が見えて来た。
そして12時43分ポンペイ遺跡傍の昼食レストラン:ヴェスヴィオ・レストラン(Ristorante Vesuvio Pizzeria)に到着。ここは団体専用でとにかく広い。
アジア系白人系多様な人種が団体で固まって食事中だった。やはりポンペイ遺跡観光は人気あるのだろう。私も子供の時から名前は知っていた。レストランにウエイトレス姿の記憶なし。“おっさん”ウェーターが慣れた手付きで料理を盛った皿を何枚も持ち運びテーブルに並べたり、大皿に盛った料理を各自の小皿に盛り付けたり・・・。
パフォーマンスを見るがごとく。髭ズラいかつい“おっさん”ウェーターもさすがイタリア、皆陽気だった。「タント(tanto) たくさん」「ボーノ(buono)・ボーノ おいしい」「グラッチェ(grazie) ありがとう」などの言葉が日本人客と“おっさん”ウェーターの間で飛び交っていた。料理も美味かった。
ここに流しの歌手、ギター片手に現れ歌う。何を歌っていたのか知らないが、そばに来たのでチップを渡す。1時間ほどの昼食タイムを終えポンペイ遺跡へ。 -
アマルフィ海岸「ウィキペディア」によれば
『「世界一美しい海岸」と云われる景勝地・避寒地で、
1997年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された』
世界遺産か、私が小さい時は国立公園、国定公園だった
今は国立公園、国定公園も価値なく知る人も少なく -
アマルフィ海岸ドライブウェイでの対向車との行き違い
絶妙なり -
ヴェスヴィオ山が見える ポンペイは近い
紀元62年2月5日、大地震に襲われ被害甚大となる
再建作業も終わらない79年8月24日の午後1時頃
ヴェスヴィオ火山大噴火、25日火砕流発生一瞬にして埋まる -
アマルフィより1時間10分でポンペイ到着、昼食となる
ヴェスヴィオ・レストラン(Ristorante Vesuvio Pizzeria)
https://www.google.co.jp/maps/place/Ristorante+Vesuvio+Pizzeria/@40.7471782,14.4824778,18.61z/data=!4m5!3m4!1s0x133bbcb70d4e9ad9:0xeaf4d2189e4b46f!8m2!3d40.7471531!4d14.4824957?hl=ja -
今回のツアーで初めての大勢での食事
日本人 アジア系 白人たちもで大入り
さすがポンペイ遺跡というべきか -
「タント(tanto)たくさん」
「ボーノ(buono)おいしい」
「グラッチェ(grazie)ありがとう」
それらの言葉が飛び交っていた
ウェイターの“おっちゃん”も片言日本語駆使し -
デジカメ構えたらカメラ目線でポーズをとってくれた
愛想満点のイタリア“おっちゃん”グラッチェ! -
陽気ではないギター流しのイタリア人
陽気ならもっと稼げるだろうに・・・ -
腹ごしらえを済ませ 準備万端
気合を入れて?ポンペイ遺跡に向かう -
ガイドの“Gさん”が入場券を購入
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■ポンペイ遺跡入場
ポンペイの悲劇(ウィキペディア抜粋)
『62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年(弥生時代)8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった』
今(2017年)から1938年前、ポンペイの街は一瞬にして火砕流により地中に埋まった。その街が1600年以上の時を経て1748年に発見され発掘が始まった。そしてタイムカプセルのように当時の人々の暮らし全てが蘇ることになる。
私がいつ頃ポンペイ遺跡のことを知ったのか覚えていないが、昔から何となく知っていた。しかし、まさか現実にこの地を訪れる時がくるとは思ってもいなかった。我ポンペイ遺跡に来たれり!すでに海外旅行も今回で36回目、最早時代は私にも海外旅行が特別なものではなくなった。
66歳にして笑いたくなるくらい普通にポンペイに来た。まるで国内旅行の如く。大した感動も興奮もなく遺跡入場門をくぐる自分が不思議なり。
このポンペイ遺跡への入場口は三ケ所ある。私たちはレストラン近くの「マリーナ門」(ポルタ・マリーナ・インフェリオーレ広場)から入る。イタリア傘松が立ち並ぶ道を歩き最初の見学は「剣闘士の兵舎」
「劇場のクアドリポルティコまたは剣闘士の兵舎」って何?
ネット検索すればイタリア語でクアドリポルティコ「Quadriportico」は「四角」って意味。確かに「四角」
『紀元62年に起きた地震後、建物の一部を再整備して剣闘士たちの兵舎として使うようになった。試合前のパレードで使う様々な武器や武具が発見され、この場所から沢山の犠牲者が発見されている』
次に「小劇場(Teatro Piccolo)」
『この劇場はオデイオンorテアトルム・テクトゥムとローマ人から呼ばれていた。ここで当時の流行だった無言劇が上演され、音楽会にも利用された。音響効果を高めるために天井部分は屋根で完全に覆われていた。外側壁に見物人たちの書き込みが数多く残り、かなり遠い地域からやって来た者もた。』
「大劇場(Teatro Grande)」
『大劇場は丘の自然な傾斜を利用して紀元前2世紀の中頃建設された。伝統的なギリシア-ローマの喜劇や悲劇が上演されていた。この劇場は公共建築の中では最初に完全に発掘された建物。発掘時期(1764-1765・1767-1769・1773)』
ここでのガイドはイタリア人高齢“おっちゃん”の“Gさん”。やはり英語で説明“Tさん”の通訳。それを各自イヤホン・ワイヤレスで聞く。聞いていたはずが記憶に何も残らず。ボケたか?ICレコーダーで録音していないと全部忘れている。結局帰国後ネット検索に頼る。
この大劇場では手を叩いて反響を確かめた。マイクもスピーカーもない時代、こんな大きな劇場でも舞台上のセリフが隅々まで聞こえ歌が聞こえるように作られている。科学は進化するが人間は進化しない。ただ過去からの知識経験等々の積み重ねによって昔と今の人類世界の「物」が進化しているだけだ。 -
遺跡は広いので全部見ること叶わず
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概ね、この赤丸エリアⅦ・Ⅷ内を散策
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我らツアー一行の見学は、⑪の剣闘士の兵舎が最初
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-
傘松並木の「Viale delle ginestre」を歩き
「⑪ 剣闘士の兵舎」に向かう -
劇場のクアドリポルティコまたは剣闘士の兵舎」
クアドリポルティコ「Quadriportico」は「四角」
『ウィキペディア(Wikipedia)』「剣闘士」は想像通り凄まじい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E9%97%98%E5%A3%AB
ここで『試合前のパレードで使う様々な武器や武具が発見され、
この場所から沢山の犠牲者が発見されている』とのこと。 -
新進の彫刻家の作品がアチコチに置かれうっとうしい
剣闘士(Wikipediaより抜粋)
1世紀、100試合に出場した200人の剣闘士のうち死亡者は19人、生存率は9割を超えている。 だが、闘技会は再び過激化に向かい、3世紀には1試合おきに死亡者が出るようになり、やがて剣闘士試合の敗者はほぼ殺害されるようになった
剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、
20戦ほどを経験し死ぬか木剣拝受者となって引退したと推定され
1世紀頃の事情では生き残りうる確率は20人に1人程度であった -
⑫ 小劇場 オデイオン
“Gさん”の解説を“Tさん”が通訳
その時は納得しているが記憶に残らず
剣闘士兵舎の横に劇場か
剣闘士も音楽を聴いたのだろうなァ -
無言劇ってパントタイムを想像すれば良いのだろう
筋書きは昔も今もきっと変わらぬと思う -
⑩ 大劇場
この劇場の音響効果の確認のために
“Gさん”が拍手で響きを試している
みんなやった私もやってみた。響いた -
2000年前にこんな素晴らしい劇場があり
様々な演劇が公演されていたとは・・・
人は2000年で何が変わった?何も変わっていないのか? -
水飲み場が各所にあった
ポンペイ遺跡は今の街並みと変わらず
日本は弥生中期後半時代
我ら先祖はどんな生活を送っていたのだろう?
https://www.google.co.jp/maps/@40.7491394,14.4876606,3a,75y,120.9h,77.55t/data=!3m6!1e1!3m4!1sIwUM4i6W_Db4uGC1k0Oifw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
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■ポンペイ遺跡内を巡る
大劇場から出ると道路に水飲み場があった。上下水道が整備され今と変わらぬ水道の弁、水量調節の仕組みがポンペイにはあった。ポンペイの街が埋まった1世紀の日本弥生中期後半の村の様子はどうだったのだろう。ポンペイ遺跡の中を歩いても今も変わらぬ様子なので2000年人の生活は基本的に何も変わっていないのが良く分かる。
ということは人の夢も希望も悩みも喜び悲しみも2000年前も似たり寄ったりで科学の進歩も人間を変えることはない。“Gさん”の後を付いてポンペイ遺跡を見て回ったのは「ポンペイ遺跡ガイド」の「REGIO Ⅶ Ⅷ」。
遺跡ガイドでは「Ⅰ~Ⅸ」までのエリアに分けて説明がある。私たち一行の見学地はそのうちの概ね二区画。説明を聞きながら見て回ったが今記憶に残っているのは遊郭と浴場、そしてフォロという広場。
フォロは『位置的には街の中心より西にあるが、ここに公共の建物がならび市場など商取引も行われ信仰の場でもあった。フォロの北側、ヴェスビオ山を結ぶ線上にジュピター神殿がある』・・・まさにこの場所はナポリの街の中心だったのだろう。神殿の背景にヴェスヴィオ山が聳える景色は時空を超え今も変わらず。
明治維新を成し遂げた時の政府がまだ国内の安定もほど遠い「1871/明治4年11月12日~1873/明治6年9月13日」の間、岩倉使節団を欧米に派遣した。その使節団一行が明治6年5月22日このポンペイ遺跡を訪れている。彼らも間違いなくこのフォロに立ち私と同じ景色を見たはずだ。
この地には有栖川宮、大山元帥、山県有朋も来ている。その他今まで数数えられない日本人がこの地に来て遺跡を見学し2000年前の街並みにそれぞれ何を感じたのだろう
その場で見学順をメモでもしておかないと遺跡写真は崩れた壁や柱でどことも良く似ているからその時説明を聞いて頷いていても帰国後場所の特定は難しい。それでもネット情報で分かった場所もある。
「REGIO Ⅶ 17 シリコの家(CASA Di Sirico)」
「REGIO Ⅶ 18 遊郭(Lupanare ルゥパナーレ)」
「REGIO Ⅶ 12 畜殺場 Macellum マチェルム」
「REGIO Ⅶ 10 フォロ(フォルム)の浴場」
「REGIO Ⅶ 13 Santuario dei Lari Pubblici - Scavi 公共のラル神の聖域」
「REGIO Ⅷ 2 パジリカ」
ポンペイ遺跡は今と変わらぬ街の佇まいであり、崩れた家屋を忠実に再現すれば中世の時代の街になるのでは?と思わす光景だった。
モザイクタイル貼りの玄関、売春宿もそうだが壁画も各所に残っていた。遺跡見学1時間半、午後3時41分頃にマリーナ出口より出て来た。 -
Via dell’Abbondanza, 23-29
https://www.google.co.jp/maps/@40.7495779,14.4872576,3a,75y,237.89h,101.96t/data=!3m6!1e1!3m4!1sykzlEpWHJIOhGeoaJvRIog!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
石畳の車道に両側には広い歩道が
ポンペイの大通りアッポンダンツァ通り -
Ⅶ エリア
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Ⅶ エリア
-
⑰ シリコの家 シリクスの家 DOMVS SIRICI(ドムス・シリチ)
「ポンペイ遺跡ガイド」によれば
噴火が起きた時、この家ではちょうど内部の壁面装飾を、
当時の好みに合わせて全面的に新しくしている最中でした。
この家の最後の所有者はプブリウス・ヴェディウス・シリクスで、
この名の刻印された印章が発見されて判明しました
そんな家がこの家 -
⑱ 遊郭 Lupanare
今も昔も何ら変わらぬ
綺麗事しか言わぬすました左翼女より
身体を張って生きる女郎の方が余程まし -
男を手玉に取り 男を慰め
いつの世も強く逞しく優しきは女なり -
遊郭の昔も今も変わらぬ様
ホンマに人間とはかくあるものなり
千年後も変わりようがないはずだ -
遊郭のぽっとんトイレ
-
「Via dell’Abbondanza」
https://www.google.co.jp/maps/@40.7493884,14.486367,3a,75y,263.68h,101.01t/data=!3m6!1e1!3m4!1s4tDF9qusFeX-U1-thBBY5Q!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
アボンダンツァ通り:メーンストリート
(西に向かって写す) -
石に刻まれた男性のシンボル
遊郭を指し示す
ここを目指して遠路遥々、納得 -
街ごとタイムカプセルになったポンペイ
世界遺産 ポンペイの壁画展
https://youtu.be/QqNfZLwkTyE -
モザイクタイル貼りの玄関
https://www.google.co.jp/maps/@40.7492734,14.485815,3a,75y,167.51h,80.25t/data=!3m6!1e1!3m4!1sVsWSADerzzXQ3DZISLLEqA!2e0!7i13312!8i6656!6m1!1e1?hl=ja
2011年6年前の以下の旅行記によれば玄関奥に水槽がある・・・けど
忘れへんうちに 旅編
https://hulule-hulule-voyage.blogspot.jp/2011_03_01_archive.html -
Abbondanza(アボンダンツァ)通りから中心の広場
⑤ 「フォロ広場」に入る
https://www.google.co.jp/maps/@40.7494713,14.4846717,173m/data=!3m1!1e3?hl=ja -
ポンペイ フォロ広場からヴェスヴィオ山を仰ぐ
古今問わずポンペイ遺跡を訪れた者、皆ここで足を止める
正面 ⑧ ジュピターの神殿 -
79年8月24日午後1時頃ヴェスヴィオ火山が大噴火
翌25日(噴火から約12時間後)噴火末期に火砕流発生
ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった -
左側の屋根のある建物 ⑦ フォロの穀物倉
今はポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われ
1800年代の終わりからの発掘出土品9千点以上が保管
犠牲者や犬、樹木の石膏型などが陳列されている -
フォロの穀物倉に収められている出土品の数々
2000年後の今もそのまま使える、違和感なし -
火砕流が街を飲み込み、全てを一瞬にして封じ込めた
死者は約2000人~1万人以上、肉体が朽ち空洞が残った
空洞に石膏を流し込む手法で石膏像が展示されている
首輪をしたこの犬はあまりにも有名になり
この犬の石膏像は量産されているそうだ
「有名になった犬」
https://matome.naver.jp/odai/2138873558307452901 -
ポンペイ遺跡は18世紀半ば姿を現し
300百年近く経過した今も発掘は終わっていない
発掘によって腐食が進み建物が倒壊するなど
一部埋め戻しされたところもあるそうだ -
岩倉使節団:米欧回覧実記
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/kairan/index.html -
右手が出土品倉庫 ⑦ フォロの穀物倉
ヴェスヴィオ山を背にフォロ広場を写す -
-
⑩ フォロの浴場(Forum Baths:Terme del Foro)
-
冷浴室(フリギダリウム)
「フォロ浴場」
http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/04ae57f5049e789bfbbf1b6d10275a40/
日本は弥生時代、当時日本人はどんな暮らしをしていたのかなァ -
大理石製の温水浴槽
サウナに水浴・温浴 浴場としても設備は至れり尽くせり
2000年後の今でもそのままで使える設備に驚嘆するしかない -
カリダリウムの噴水
水槽の淵周囲の文字は寄付した有力者の名前等を刻んでいる
古今東西人間のやることななすこと同じなんだと・・・。
「古代ローマ時代の公共浴場(Terme del Foro)」
http://blog.goo.ne.jp/h274h038/c/58da94cfda53d251f163da8004a337ca -
温水浴槽を背に奥にあるカリダリウムの噴水を写す
浴槽と噴水との間に広い空間がある
この空間はサウナのように利用とな -
「ポンペイ遺跡ガイド」 エリア Ⅵ
⑤ 居酒屋 飲食店(テルモポリウム Thermopolium)跡
フォロ浴場の道を隔てて北側にある
https://www.google.co.jp/maps/place/Thermopolium/@40.7497151,14.4839996,101a,35y,45.02t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x0:0xcbef989b5b01597e!8m2!3d40.750681!4d14.484064?hl=ja
大衆食堂、フォロ浴場の目の前
風呂に入り酒を飲み食事をする・・・か
ホンマに今と変わらぬ楽しみと日常生活 -
二軒?並んでのテルモポリウム(飲食店)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0
どちらも大衆食堂とは思えぬ設備
カウンターに空いている穴には素焼きの壺が収まり
総菜・食材・果物等々が販売されていたとのこと -
エリア Ⅵ ④ 悲劇詩人の家
「CAVE CANEM」:猛犬注意
ハハハ、人も犬も何ら変わらず・・・か -
悲劇詩人の家
ポンペイの都市の中でもっとも一般的な
住宅の形式とされている「悲劇詩人の家」
悲劇詩人の家
https://hulule-hulule-voyage.blogspot.jp/2011/03/blog-post_18.html -
一般的住宅といってもこんなに大きいのか・・・。
ポンペイの「悲劇詩人の家」の復元と模型製作 -
エリア Ⅶ ⑨ 名誉のアーチ
古代にはレンガ造りで大理石で化粧張りされた二つのアーチがあった
東側のアーチは基壇が残るのみ。これは西側のアーチ -
フォーロ広場を南に歩く我らがツアー一行
-
エリア Ⅶ ⑫ マチェルム(Macellum 市場)
-
⑫ マチェルム(Macellum 市場)
『入口から伸びる東側の高い位置には礼拝用の広間
この場所も皇帝信仰の場所であったと想像される』
『中庭の中央には円形の建物(ソロス)があり
魚を捌いて売る場所として使われてた』 -
⑫ マチェルム(Macellum 市場)
門を入ってすぐの壁にフレスコ画
南側には商店が並んでいた。 回廊の壁面には魚や鶏の販売など
の日常の風景と共に、神話を題材とした場面も描かれている -
エリア Ⅷ ② バジリカ(Basillica)
-
② バジリカ(Basillica)
バジリカの入口は「フォロ広場」に面している -
② バジリカ(Basillica)
裁判や通商会議、商取引に使用された施設等 -
② バジリカ(Basillica)
延べ面積1500平方メートル、フォロで最大の建物
広~い -
② バジリカ(Basillica)
ヴェスヴィオ山を望む -
ポンペイ遺跡観光
14:08-15:48 1時間35分にて終了なり
あっけなく、一応見たけど・・・なァ。 -
「へぇ~これがナポリか」って言っても
車窓からではナポリは感じず
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■ナポリ車窓観光
バスに乗ってナポリ車窓観光となった。折角のナポリも車窓見学のみで残念至極。
ナポリ市内ヴィットリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)をバスで走行しながら説明を聞く。
『あれがヌオーヴォ城(Castel Nuovo)。新しい(Nuovo)城」を意味し、近く(サンタルチア港)にある卵城と区別するために命名された。』・・・など など と
車内から写真を写し、サン・カルロ劇場前からトリエステ E トレント広場を通過して郊外に出た。
車窓観光の最後にバスが目指す場所はナポリ湾を一望出来る「ポジリポ(Posillipo)の丘」ということで期待を胸に向かった。しかしポジリポ広場付近にバスを停める場所がなく停車出来る場所を探してウロウロ。どこか分からぬ場所で停車しそこからの眺望となった。
夜景とは程遠く中途半端に薄暗くなってしまった。良い写真も一枚も取れず。それでも来れて良かった見れて良かった「ナポリを見てから死ね」の絶景を見た!と言い聞かす。 -
ヌオーヴォ城(アンジュー家の城)
Castel Nuovo - Maschio Angioino -
この道をバスは走り車窓から眺める
-
左正面:国立ヴィットリオ・エマヌエーレⅢ世図書館
(Biblioteca Nazionale Vittorio Emanuele III)
噴水のある広場 -
「ナポリを見てから死ね」
岩倉使節団もこの諺は知っていた
車窓から垣間見る、早く停まって欲しかった -
「ポジリポ(Posillipo)の丘」付近に停車場所見当たらず
段々暗くなって折角の景色もこのように薄暗い -
動画の静止画がこれ
写真はホンマ難しい
焦った挙句に“納得の一枚”が撮れず -
イタリア最後の夜 やっとピザを食べることに
https://www.google.co.jp/maps/@40.8317703,14.2509638,3a,61y,224.25h,92.11t/data=!3m6!1e1!3m4!1sX4APIhBs36COV-kV6k1otw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
スパゲティとピザ、一回づつだった
毎日でも良かったのに、贅沢は言えんけど
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■ナポリの夕食
ポジリポの丘から夕食場所へ。イタリア旅行初のピザを食べに行く。場所はナポリ湾に面したレストラン「Ristorante La Piazzetta」。店の前の広場にウンベルトⅠ世像(Monumento a Re Umberto I)が立っている。暗くて海のそばと気付かず。
Ristorante La Piazzettaは明るい時には湾を隔ててヴェスビオ山が正面に見える絶好の場所にある。何と言っても今日の夕食のメーンはイタリア本場のピザ。19名分を一つの窯で5枚づつくらい焼くので最初に食べた者が食べ終わる頃に最後の分が焼きあがるということだった。
みんなが席について前菜を食べだしてから最初のピザを焼き始める。そして最初のピザが焼きあがって運ばれて来た。そのピザを見てみんなが「えっ~!でっかいなァ~」「ウワァ~大きいなァ~」と異口同音に声を発した。それくらい衝撃の大きさだった。
「こんなん一人で食べられへんわ・・・」と誰しもがそう思ったが、食べだしたら周囲の耳は厚みと太さがあるが中央部は薄いし食べやすい。案外全部食べきれた。味はやっぱり私には日本のピザの宅配の方が美味い。ピザは具も少なくあっさりしていたのでこれなら毎日でも食べれるのかもと感じたけど・・・。
焼いているところを見ていたが一人の“おっちゃん”職人が、丸めた生地を広げソースを塗り具を乗せ窯に入れる。窯の傍での夏場のピザ作りは大変だろう。イタリア最後の夕食にピザを食べ南イタリア観光の予定は全て終了となった。
その後の記憶なく明日の帰国となる -
まず最初にこんな揚げ物が
-
ふ~ん これが本場のピザ窯か
客が多くても5枚づつしか焼けず、19名の場合
最初に食べた者が食べ終わった頃に皆に行き渡る -
ピザ職人もこの“おっちゃん”一人
慣れた手付きでピザを焼く -
デカイ!最初見たら誰しも驚く
写真では大きさ伝わらないけど
淵は分厚いけど中は薄い、食える -
ピザ屋の前に建つ“ウンベルトⅠ世像”(Monumento a Re Umberto I)
南イタリアの旅はいよいよ終了となった -
ピザレストラン・・・は、ここにある
https://www.google.co.jp/maps/@40.8318736,14.2511279,3a,63.1y,242h,95.98t/data=!3m6!1e1!3m4!1sgmX7cVP-r6JqgASUZ3o8tg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
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