2017/04/14 - 2017/04/14
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montsaintmichelさん
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「吉野の桜」のフィナーレを飾る奥千本は、その名の通り吉野山の最奥に鎮座し、山中の清閑な佇まいにひっそりと咲く桜が愉しめるエリアです。奥千本では西行が桜に憧れて3年間隠棲したと伝わる西行庵付近の桜の群生が名所になりますが、金峯神社といった世界遺産に登録された古社や国の史跡「大峯奥駈道(おくがけみち)」など神秘的な雰囲気が漂うパワー・スポットも点在しており、桜の季節以外でも愉しめます。
吉野の玄関口となる近鉄「吉野山駅」から奥千本の金峯神社までは6.6km程の道程があり、徒歩で登る場合の目安は1時間半~2時間程を見ておかれることをお勧めします。
復路は中千本エリアの別尾根にある如意輪寺を経由し、ピクニック気分が味わえる「ささやきの小径」を辿って森林セラピーを満喫してまいりました。
写真撮影に人一倍時間を割いたこともあり、吉野駅をスタートしてからトータル6時間の工程となりました。
http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html
散策マップ
http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf
http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
修行門
吉野水分神社から更に登っていくと民家がフェードアウトし、人も疎らになります。参道の両側を吉野杉が覆い、道は右に左にくねり、徐々に心細くなりかける頃に漸く見えてくるのがこの風景です。
山上ヶ岳(大峯峰山)への4つの門の内の第2門「修行門」の鳥居に到着です。第1門が下千本の金峰山寺銅鳥居(発心門)で、遥か先にある第3門が「等覚門」、第4門が「妙覚門」となります。
いよいよ金峯神社から先が奥千本エリアになります。
参道の周囲には荒涼とした風景が広がっていますが、かつての風景を再現するために樹木を伐採し、その代わりに植樹された若桜の蕾がまだ固いためです。開花時期には桜花で埋まるそうです。 -
金峯神社
奥千本エリアは、これぞ吉野山とうならせるような鬱蒼とした木々に覆われた神秘的な空間が広がっています。最奥の青根ヶ峰の傍の標高756mの地にひっそりと佇むのが金峯神社です。この辺りの道は、国の史跡「大峯奥駈道(おくがけみち)」の一部をなし、熊野古道の中でもとりわけ険阻なルートです。「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産にも登録されており、吉野山の大らかな自然を堪能できるスポットです。
創祀年代は不詳ですが、吉野山の地主神 金山毘古命(かなやまびこ)を祀り、中世以降は修験道の修行の場でした。『古事記』によると、イザナミが火の迦具土の神を生んだ時、御陰を焼かれて病気になった際に嘔吐によって生まれた神、つまり鉱山の神としています。神仏習合の時代には「金精明神」と呼ばれ、本地仏には阿しゅく如来、釈迦如来、大日如来(金剛界)を祀る延喜式内社の古社です。また、吉野八社明神のひとつに数えられています。 -
金峯神社 拝殿
吉野の山奥に寡黙に鎮座し、年季を感じさせる佇まいです。周囲は吉野杉の古木に覆われ、素朴ながらどこか気品に満ちた神社です。
社名の「金峯」は、吉野山や山上ヶ岳一帯の峰々の総称ですが、その地下に黄金の鉱脈が埋まっていると信じられていたことが由来です。『宇治拾遺物語』には、京都七条の金箔打ちの男がこの山で黄金を掘り出し、金箔にして売りさばいたところ、祟って殺されたとの話が記されています。これは仏教説話として、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたものとされています。地元の方は、「金精(こんしょう)明神」や「愛染の宮」と呼んで親しまれ、金は太古の昔から人々の憧れの的だったといえます。
歴史ファンにも外せないスポットであり、関白 藤原道長がここに参拝したことが『栄華物語』に記され、その折に埋経したと伝わる金堂製経筒が300年程前に発見されています(京都国立博物館収蔵 国宝)。また、源義経が身を隠したと伝わる「義経の隠れ塔」が近くにあり、まさしく歴史ファンには垂涎の的です。 -
金峯神社 拝殿
がらんどうの拝殿の先には天界(本殿)への階段がありますが、立ち入り禁止です。神や心に浮かんだことを思案するためにある、何もない空間です。こうした空間は、「熊野本宮大社」の大斎原(おおゆのはら)や「伊勢神宮」にも存在します。
流造りの拝殿は、飾り気がなく素朴な趣が素敵です。天井は小組の格天井となっており、歴史の深さを感じさせます。
祭神は金の峰に坐す神として相応しい金山毘古命ですが、一説には蔵王権現と考えられている安閑天皇だとも言われています。安閑天皇は「勾大兄廣國押武金日天皇」とも言われ、この「金日」から連想されたものと思われます。また、林道春の『神社詳説』には、「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」と記されているそうです。 -
義経の隠れ塔
社務所の脇に建てられた小さな鳥居を潜って小径を降りていくと、直ぐに樹木の中に小さな堂宇の佇まいが確認できます。源義経が難を逃れるために身を隠したと伝わる、宝形造、檜皮葺の簡素な堂宇です。
周囲は鬱蒼とした吉野杉が天空に向かって伸び、昼間でも薄暗く、熊野古道を彷彿とさせる神々しい雰囲気に満ちています。
皮肉にも義経が隠れたことで一躍脚光を浴びた塔ですが、元々この塔は大峯修行場のひとつであり、塔の中が真っ暗だったことから、邪気や俗気を抜くための施設として使われていました。役行者は、呪文を唱え右回りに3回まわる修業をしたそうです。また、修験者たちが神官の先導に従い、「吉野なる深山の奥の隠れ塔 本来空のすみかなりけり」と唱えながら境内を巡ったという言い伝えもあります。 -
義経の隠れ塔
伝承によると、1185(文治元)年、平氏滅亡の最大の功労者でありながら、朝廷から無断で官位を授かったという理由で兄 頼朝の執拗な追討を受けた義経は、静御前や弁慶、佐藤忠信らとこの隠れ塔に逃げ込み、4~5日間籠ったそうです。追っ手に囲まれた義経らは屋根を蹴破り、辛くも逃げ延びました。こうした言い伝えから、この塔は「義経の隠れ塔」や「蹴抜けの塔」と呼ばれています。
『吾妻鏡』には、静御前はここを逃げ出した後、藤尾坂より下った蔵王堂に至るまでの所で捕縛されたとあります。故に義経と永遠に離れ離れになった悲劇の地とも言えます。
現在の建物は1912(大正元)年に再建された木造一重ですが、1906(明治39)年の焼失前は鎌倉時代に創建された三重塔だったそうです。現在の建物でも隠れるには目立ち過ぎますが、これが三重塔であったとしたらそんな所に敢えて身を隠すのもどうかと思うのですが…。 -
西行庵へは金峯神社の右手に伸びている石畳の小路を登って行きます。距離は片道500mほどですが、標高800mまでいったん登り、そこから50mほど下ります。第1の分岐点まではこうした急な登り坂です。階段は下ってこられる方専用のようです。
分岐点から先は、観桜の季節は一方通行になっており、右側の道を進みます。現在は大峰山と言えば山上ヶ岳を指しますが、大峯奥駈道でいう「大峯」は吉野から山上ヶ岳を経てさらに奥の山々、そして最終的には熊野三山に至る大峰山系を縦走する修行の道全体を指しています。ですから、ここでは熊野古道の片鱗を垣間見ることができます。
尚、観桜シーズンで無ければ、左側の道を往復される方が疲れませんし、安全です。
往復30分ほどの散策になりますが、生憎途中にトイレはありません。金峯神社の少し下にあるトイレで済ませておくのがお勧めです。
西行庵へのルートマップです。一方通行の季節は、反時計回りに進みます。
http://partner.tea-nifty.com/photos/uncategorized/2014/11/26/map2.jpg -
ここが第1の分岐点です。
左へ進むと大峯奥駈道に入り、宝塔院跡にある休憩所を経て山上ヶ岳~近畿最高峰の八経ヶ岳~釈迦ヶ岳を越え、熊野本宮大社へと至ります。
右へ進むと西行庵、鳳閣寺に至ります。
因みに帰路は、この左の道(大峯奥駈道)からここへ合流することになります。 -
こうした杉並木の道を越えると第2の分岐点にでます。
ここでは標識に従って左側の道に進みます。右側へ進むと鳳閣寺に至ります。
この遊歩道は、雨の後はぬかるんで滑り易いので注意なさってください。 -
第2の分岐点を左に折れると景色が一変し、見えてくるのはこうした殺伐としたガレ場です。左側は樹木が伐採された崖になっており、暫く山肌を縫うように下っていきます。足元には石がゴロゴロしていて安定性が悪く、鎖場の代わりに手すりが設けられているほどです。
これで一方通行にしている謎が解けました。しかし、一方通行と知らず、もと来た道を忠実に辿って帰られる方も少なくありません。人一人通るのがやっとの道幅ですので、すれ違う際には細心の注意が必要です。
やがて急な坂を九十九折で下ると平坦地の右奥に鄙びた西行庵が忽然と現れます。金峯神社から15分程です。 -
西行庵
役行者の活躍から500年後、日本文学史上最も桜を慈しんだとされる西行法師が平安時代後期に現れます。西行は、鳥羽上皇の北面の武士の身ながら、23歳の時に出家して僧となり、漂泊の歌人として各地を遍歴して歌を詠み、春の日の多くをこの吉野での日々に費やしました。出家の理由は、親しい友の死であるとも、失恋であるとも言われていますが、いずれにせよ世を儚んで仏門に入ったことは確かです。
「なにとなく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山」(山家集)。「吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき」(同上)。
桜の花に恋焦がれ、浮き足だつような心境を詠んだ春らしい歌です。西行が詠んだ2000首以上の歌のうち230首が桜の歌であり、如何に桜を愛していたかが窺えます。 -
西行庵 西行坐像
この西行庵は、西行が俗塵を避けて約3年間、侘び住まいしたという庵です。実際に西行が庵を結んだかは定かではないそうですが、何時の頃からかその庵跡が伝説となり、松尾芭蕉もその面影を慕ってここを訪ねています。
しかし、西行にとって桜は、単なる春に愛でる花ではなかったようです。
「仏には桜の花をたてまつれ 我がのちの世を人ととぶらはば」(同上)。
(仏には桜の花を奉ってください。私が死んだ後の冥福を誰かが祈ってくれるなら…。)
「願はくば花の下にて春死なん そのきさらきの望月のころ」(同上)。
(できれば2月15日(釈尊涅槃の日)頃、満開の桜の木の下で死にたい。)
心を浮遊させ、仏の境地へと誘う桜の花を詠み、死後の導きも桜に託しています。三世を守護する蔵王権現の息を吹きかけられた吉野の桜は、現世だけでなく来世までも約束してくれると信じていたのでしょう。この歌の通りに2月16日に入寂した際には、満開の吉野の桜を想い描いていたに違いありません。
それにしても、何故西行は、奥千本の最奥、その時代には修験者以外は人が通わない場所に隠遁したのでしょうか?
次の歌が西行の心境を代弁しているように思います。
「深き山にすみける月を見ざりせば 思い出もなきわが身ならまし」(風雅集)。
西行が隠棲したと伝わる庵は、主が去った後に朽ち落ちましたが、その都度地元の人びとが再建して今日に伝えています。 -
西行庵
西行庵のある奥千本は、桜の頃は勿論、新緑、紅葉と四季を通じて人里離れた自然の美しさが満喫できます。花見客でごった返す下千本や上千本などと異なり、吉野の深い自然の中でゆったりと桜の美しさを愛でることができ「吉野山の桜は奥千本が最高」と言われる方もおられます。
吉野山の桜絵巻は多くの歌人たちを惹きつけ、西行は深い山の中に庵を結び、その西行を慕った芭蕉は2度この地を訪れています。綾足が吉野を目指したのも、人生を旅になぞらえた芭蕉を偲んだからでしょう。幽遠な桜景色は、遙かな時を経た今も、花に魅せられた人々の想いを静かに語り継いでいます。
周辺には西行が愛した桜が沢山植えられていますが、蕾はまだ固く、冬のような殺伐とした景色に戸惑うばかりです。しかし梢を通して降り注ぐ日差しには春の温もりが感じられ、開花も近いと思います。この辺りの標高は750mあり、吉野の麓、下千本からは550mの標高差があり、それが桜の開花時期にタイムラグをもたらしています。 -
苔清水
一方通行になっている復路を辿ると出会えます。
「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすまいかな」と西行が詠んだ苔清水は、今も清らかに澄んだ水が流れ、「大和の水31選」のひとつになっています。
また、1684(貞享元)年とその4年後の2度、西行を偲んでこの地を訪れた松尾芭蕉が西行が詠んだ苔清水を見つけ、淡いユーモアを交えて「露とくとく 心みに浮世 すすがばや」、「春雨の こしたにつたふ 清水哉」の句を残しています。
こうして清水が竹の樋からとくとくと流れ出ているのを見ていると、往時にタイムスリップしたような気がしてきます。 -
四方正面堂跡
ここは前方が開けており、重畳する吉野の山並みが一望できます。四方正面堂は、吉野山を背に3方向が開けた場所に建っていた堂宇だったようです。
明治初年の廃仏毀釈までは、この付近に多宝塔や四方正面堂、安禅寺蔵王堂など大小の寺院が点在していたそうです。
西行がここに庵を結んだ鎌倉時代初期には、修験者や僧侶などの姿も見られたのではないでしょうか?
因みにここには背丈の高い桜木が数本あり、開花が愉しみです。 -
中千本
あっという間に中千本まで下ってきました。
吉野駅への帰路は、対面する山肌にへばりつくように建てられている如意輪寺経由にします。
中千本駐車場(櫻本坊直下)の先に右手の如意輪寺へ誘う散策路があります。しかしほぼUターンするような形の脇道ですので、見逃さないでください。中千本の左右に分かれた道が合流する地点まで下ってしまうと行き過ぎです。 -
中千本
上千本から見下ろしていた如意輪寺周辺の桜林が間近に迫ってきます。 -
中千本
まずは桜のトンネルを潜り抜けます。
右手の高台が、五郎兵衛茶屋になります。実際にお茶屋さんがあるわけではなく、かつて五郎兵衛という人物が茶屋を開いていたから現在でもこう呼ばれているそうです。 -
中千本
雲海を彷彿とさせる桜に包まれた如意輪寺が次第に大きくなってきます。
尾根が違うため、一旦谷まで降りてまた登ることになります。 -
中千本
ズームアップしてみます。
多宝塔に寄り添うように今が盛りと咲いているのが推定樹齢150年とされる大枝垂桜です。
右端の建物が如意輪寺宝物館ですが、よくぞこんな崖の上に建てたものです。如意輪寺には数多くの文化財が保存されていますが、特筆すべきは後醍醐天皇が護持していたとされる金剛蔵王権現木像です。桜の一木造りで、その造形は見る者を圧倒します。この像は、かの大仏師 運慶の高弟 源慶の作と伝わり、重文に指定されています。
金剛蔵王権現木像はこちらのHPで動画が拝見できます。(一番下です)
http://www.nyoirinji.com/index.html -
中千本
繊細な山桜の花姿はどこか控え目で儚げに映り、幽玄の趣を湛えるものがあります。 -
中千本
まさしく桜の花園。仙人になった境地です。 -
中千本
逆光に透過されて眩しく光り輝く花姿も見逃せません。
実際には写真よりも輝いていたのですが…。 -
中千本
光と影が演出する視覚効果に心がときめきます。
桜花の色彩にも濃淡があり、個々が主張し合う中で立体感が創られていきます。 -
中千本
一幅の絵のように、緑から薄桃色へ遷移するグラデーションが絶妙です。 -
中千本
吉野の桜が人を魅了してやまない理由は、楚々とした山桜の美しさだけでなく、桜花の儚さと吉野の深い歴史に刻まれた悲哀の物語が幾重にも重なり、更には観光地化の潮流に流されることなく、修験道の聖域が持つ独特の雰囲気を失わないところにあると思います。
また、個々の山桜が周りに染まることなく自己の色調をアピールし、その結果、多彩かつ複雑な色合いを呈している点も見逃せません。 -
中千本
吉野の歴史を知ればこそ、より花姿が愛おしく美しく見えてくるのかもしれません。 -
中千本
如意輪寺への最後の坂道では今までの桜の風景が一掃され、新鮮な竹林の風情で出迎えてくれます。この切り返しも計算ずくなのでしょう。 -
如意輪寺 山門
長い階段の先にある山門です。木札には「吉野朝勅願所 如意輪寺」と「楠木正行公遺跡」とあります。南北朝時代に後醍醐天皇が吉野に行宮(あんぐう:一時的な宮殿)を定めた際に勅願寺とされ、正式には塔尾山椿花院如意輪寺と言います。
延喜年間(901~23年)に真言密教僧 日蔵道賢上人が開基した浄土宗の古刹です。現在の本堂は、1650(慶安3)年に文誉鉄牛上人が再建したものです。本尊は、後醍醐天皇の信仰が篤かったと伝えられる如意輪観世音(秘仏)を祀っています。 -
如意輪寺 本堂
本堂は寄棟造の銅板葺です。
後醍醐天皇や護良親王、楠木正成とその子 正行(まさつら)の生き様や敗者の美学を見届けてきた如意輪寺には、正行が本堂の扉に鏃(やじり)で刻んだ辞世の句があり、歴史ファンには見逃せないスポットです。
正行は、高師直との決戦となる四条畷戦いに出陣前、南朝宮に後村上天皇を訪ね、さらに塔尾陵や如意輪堂を参詣した後、「かへらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と刻んで死地に赴きました。(現在は宝物殿にて保管) -
如意輪寺 役行者堂
鐘楼と山門の間にあるのが、ご他聞にもれず「役行者」です。
「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という行者の言葉に、その神髄が込められています。
見た所、ここの行者はお酒をたしなまれるようですが、前鬼後鬼を連れていないため手酌で寂しく飲まれるということのようです。
如意輪寺には「桜葬(宝珠苑)」というものがあるそうです。桜の木を墓標として遺骨を直接土の中に埋め、石碑を建てない自然葬だそうです。まだ終活には早いですが、これも選択肢の一つですね! -
如意輪寺
境内には、後醍醐天皇の「腰掛石」や楠木正行お手植の木斛(モッコク)、正行一族郎党143名が最後の出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻(みずら)を埋めた塚「正行公埋髻墳」 、正行討死の後に尼僧になり菩提を弔った弁内侍の黒髪を埋めた「至情塚」などがあり、見所満載です。
また、南北朝時代の史跡に混じり、倒幕の旗印を揚げて蜂起した天誅組総裁 藤本鉄石を讃えた招魂碑もあります。時代背景は異なるものの、大義の下に反旗をかざした歴史的カリスマ2人の史跡が同居しているのは感慨深いものがあります。
吉野の長い戦乱の歴史の断片を覗き込んでいるような思いがしてなりません。 -
如意輪寺 庫裏
本堂の西側にある現在の庫裏は、1710(宝永7)年の火災による焼失後、江戸時代後期に他の寺院より移築された建物と伝えられ、唐破風の式台を中央に配し、手前側を書院などの接客や寺務空間とし、奥側を居住用に充てています。 -
如意輪寺 後醍醐天皇御霊殿
入母屋造、一間向拝唐破風付で妻側を正面にした霊廟であり、後醍醐天皇御自作の像を安置しています。
鎌倉幕府打倒に命を賭し、流罪から復帰して建武の新政を敷き、その後足利尊氏の裏切りに遭って吉野南朝を旗揚げし、いずれ京の都に凱旋することを夢見ながら失意の中で亡くなった後醍醐天皇の壮絶な人生を思うと、あまりにひっそりとした霊廟です。
今回は時間の都合で入りませんでしたが、有料拝観の庭園内では綺麗な多宝塔と共に美しい枝垂桜(推定樹齢150年)が華麗な花を咲かせています。 -
如意輪寺 後醍醐天皇陵(塔尾陵:とうのおのみささぎ)
後醍醐天皇の御陵は、本堂の奥の高台に鎮座しており、直径22m、高さ4mの円墳になっています。
吉野南朝は、儚く散る桜花の如く、僅か数代で消滅した夢幻でしかありませんでした。約4年間をこの吉野で過ごし、なおも京の都に未練を残しながら1329(延元4)年8月16日に崩御されました。遺言により、京の都への思いを表すために天皇家の墓陵としては唯一北(京都)向きになっており、「北面の御陵」として知られています。
『太平記』では、後醍醐天皇崩御を次のように伝えています。
「菊という霊剣を玉体に添へ、棺槨を厚くして御座を直しくし、芳野山の麓 蔵王堂の民なる林の奥に、塔尾といふ処に円丘を高くつきて、都を望むと仰せられしかばとて、北面に葬し、埋み奉る」。
また、松尾芭蕉は『野ざらし紀行』に、「山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜になれば、名ある所々み残して、まず、後醍醐帝の御廟を拝む」と記し、「御廟年経て 忍は何を しのぶ草」の句を添えています。 -
中千本
如意輪寺から見下ろす対面の山桜です。柔らかな綿毛を纏ったような儚げで華奢な山桜が風に震えるその姿は、ソメイヨシノの華やかさとはまた違った意味での味わいがあります。
峰の中腹を水平に走っている遊歩道が「ささやきの小径」です。 -
ささやきの小径
ありふれたネーミングの小径ですが、清閑な森林セラピーが堪能できる谷筋の小径です。
右手に中千本の桜林を見上げながら、多少のアップダウンはありますが、ハイキング気分で愉しめるコースになっています。
メインストリートの人混みの中を縫って下りるのとは雲泥の差です。 -
ささやきの小径
斜面の樹木を伐採して植樹されたまだ若い桜木ですが、10年、20年先を考えてのことだと思います。 -
ささやきの小径
このように里山はかなり荒れた状態になっています。 -
ささやきの小径 温泉谷 吉野温泉元湯 日本庭園
「吉野の隠し湯」なるキャッチフレーズと赤錆色の源泉掛け流しで人気のお宿です。
明治26年の春、22歳の島崎藤村は女学校の教え子との禁断の愛に悩み、約40日間この宿に逗留しました。ですから吉野は無名時代の藤村が失恋を癒した地とも言われています。奥千本の西行庵を訪ねた『訪西行庵記』や『人生の風流に思ふ』といった作品に吉野の思い出が綴られています。
予約は1年先まで詰まっているそうです!
ですが、外来入浴が可能です。HPによると時間(40分)単位で貸切入浴を受け入れているため、外来入浴にも予約が必要とのこと。
外来入浴は、11時~15時、入浴料¥700(40分)です。
http://www.motoyu-yoshino.com/onsen.php#higaeri -
ささやきの小径 バイモ
野性バイモの群生があります。
ユリ科バイモ属の半蔓性多年草で、原産地は中国です。日本へは江戸時代の享保年間に薬用植物として入り、鱗茎をせきどめや止血、解熱などの薬用に利用していました。神秘的な雰囲気を醸す「クロユリ」と同属で、一般的には観賞用として栽培されたものですが、稀に野生のものもあります。
花は、黄緑色をした釣鐘状の花径3cm程のものです。内側に黒紫色の網目状斑紋を持つことから、別名「編笠百合」の名があります。また、早春に開花することから「春百合」とも呼ばれます。
属名「フリチラリア(Fritillaria)」は、ラテン語の「fritillus(サイコロ箱)」という意に由来し、花の形状に因みます。和名は球根(鱗茎)を乾燥させた形が2枚貝の殻に似ているため、漢名の音読みで「バイモ(貝母)」です。古くは、この貝殻を合わせた形が栗に似ていることから「ハハクリ(母栗)」とも呼ばれていたそうです。葉は細長く、先端は巻きひげ状になり、絡み合う姿に愛嬌があります。
花言葉は、「謙虚な心」「威厳」「人を喜ばせる」など。 -
ささやきの小径 コブシ
民家の庭にコブシの巨木があります。
モクレン科モクレン属の落葉広葉樹の高木で、早春に白い花を梢いっぱいに咲かせるため、別名「田打ち桜」と言います。昔は、コブシが咲くと田植えを始めたそうです。
名の由来は、蕾が開く直前の形が子供の握り拳に似ていることに因みます。また、コブシの実はゴツゴツしており、その実の具合から「こぶし」と命名されたとの説もあります。
花言葉は「信頼」です。 -
下千本
丁度、ロープウェイが下りてきました。 -
下千本
こちらが往路に登った七曲り坂の一目千本です。 -
ロープウェイ
下千本編でも紹介した、吉野大峯ケーブル自動車(株)が運営するロープウェイです。
2本の支索の間にハンガーが走行しているのもポイントです。それに伴い、支柱の形状も両脇からロープを支える特殊な構造になっています。 -
ロープウェイ
ゴンドラの底には、「ようおこし」と書かれています。ゴンドラの底を覗き込む人は少ないと思いますが、細かな配慮がなされていることが判ります。
創業者 内田政男氏の「地元のために人を運ぶロープウェイをつくりたい」との想いから、地元有志と共に苦労を重ねて実現し、戦時下の金属供出令の中でも住民の交通手段を守り抜いたというドラマチックな歴史を持つロープウェイです。 -
近畿日本鉄道「吉野」駅
15時前に無事帰還しました。
ご覧のように駅の前には人が溢れています。
先に復路の切符を購入しておいて正解でした! -
山桜ようかん
吉野の里で人気なのが、塩漬けにした桜花を閉じ込めた「山桜ようかん」です。お祝いの席に使われる桜花漬けは、お湯を注いでいただくのはもちろんのこと、お米と炊いて桜ご飯にしても美味です。京都が匠や粋を極めた「和」の文化都市であるのに対し、奈良はこうした素朴さが魅力です。
3層になった羊羹は、1層目に桜花の香りを寒天で閉じ込め、2層目には上品な吉野くず、そして下段3層目はあずき・抹茶・さくらあん(桜葉入)の3種類があります。吉野と言えば葛です。混じり気のない葛粉100%のものを本葛と呼び、生産量が少ないのでとても高価です。
写真の物は、駅の右横に並ぶ土産物屋の中で駅に一番近い「近藤商店」で購入しました。¥780でリーズナブルでした。一口食べると吉野の桜の光景が蘇ってきます。 -
山桜ようかん
ようかん以外の桜に因んだ名物としては、地元では桜茶と呼ぶ花びらを浮かべた「桜湯」があり、桜の甘い香りを愉しむことができます。桜の持つ控えめで仄かな香りも日本人が桜好きになった理由のひとつかもしれません。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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