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山全体が世界遺産に登録されている吉野山の桜は、1300年も前から神木として崇拝され、花見と参詣が一緒に催されてきたという数奇な歴史を持ちます。また、吉野山は日本一の本数を誇る山桜の名所で知られ、山麓から尾根伝いに青根ヶ峰まで淡い桜色のグラデーションの杜が広がる光景は桃源郷を彷彿とさせます。日本古来の野生桜「シロヤマザクラ」を中心に約200種3万本もの山桜が密集し、儚げで可憐な山桜が谷から尾根へと山全体を染め上げていく桜の聖地は、訪れる人を天然の桃色絵巻で歓迎してくれます。古来、数多の歌人に愛され、歌にも詠まれてきたその絶景は、今も多くの人々を魅了してやみません。<br />桜は大別して4つのエリアに密集し、一目で視界に千本の桜が飛び込む豪華さから「一目千本」と称されます。吉野宮一帯を下千本、如意輪寺一帯を中千本、吉野水分神社付近を上千本、西行庵付近を奥千本と呼び、例年4月初旬~末にかけ、下千本から奥千本まで徐々に山を染め上げていくため、長期間愉しめるのも魅力です。<br />また、吉野は数々の歴史の舞台でもあり、南北朝時代の南朝がこの地に置かれ、源義経と静御前が永遠の別れを惜しんだ山里であり、太閤秀吉が絢爛豪華な大花見の宴を催した地でもあります。シーズン中は夜桜のライトアップも行われ、昼間とは別世界の幽玄な雰囲気にしっとりと包まれます。<br /><下千本編>では、七曲り坂を中心にした下千本エリアと本来は中千本に当たる金峯山寺までをレポいたします。<br />http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html<br />散策マップ<br />http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf<br />http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

芳葩爛漫 吉野山逍遥①下千本

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2017/04/14 - 2017/04/14

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

山全体が世界遺産に登録されている吉野山の桜は、1300年も前から神木として崇拝され、花見と参詣が一緒に催されてきたという数奇な歴史を持ちます。また、吉野山は日本一の本数を誇る山桜の名所で知られ、山麓から尾根伝いに青根ヶ峰まで淡い桜色のグラデーションの杜が広がる光景は桃源郷を彷彿とさせます。日本古来の野生桜「シロヤマザクラ」を中心に約200種3万本もの山桜が密集し、儚げで可憐な山桜が谷から尾根へと山全体を染め上げていく桜の聖地は、訪れる人を天然の桃色絵巻で歓迎してくれます。古来、数多の歌人に愛され、歌にも詠まれてきたその絶景は、今も多くの人々を魅了してやみません。
桜は大別して4つのエリアに密集し、一目で視界に千本の桜が飛び込む豪華さから「一目千本」と称されます。吉野宮一帯を下千本、如意輪寺一帯を中千本、吉野水分神社付近を上千本、西行庵付近を奥千本と呼び、例年4月初旬~末にかけ、下千本から奥千本まで徐々に山を染め上げていくため、長期間愉しめるのも魅力です。
また、吉野は数々の歴史の舞台でもあり、南北朝時代の南朝がこの地に置かれ、源義経と静御前が永遠の別れを惜しんだ山里であり、太閤秀吉が絢爛豪華な大花見の宴を催した地でもあります。シーズン中は夜桜のライトアップも行われ、昼間とは別世界の幽玄な雰囲気にしっとりと包まれます。
<下千本編>では、七曲り坂を中心にした下千本エリアと本来は中千本に当たる金峯山寺までをレポいたします。
http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html
散策マップ
http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf
http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
私鉄
  • 近畿日本鉄道「吉野」駅<br />公共交通機関を利用して吉野へアクセスする方法は、残念ながら近鉄以外選択肢がありません。また、特急はかなり前に予約する必要があり、開花のタイミングや当日の天候に重きを置いてスケジュールを微調整するとなると急行がベストです。<br />大阪阿倍野橋駅7:12発の急行に乗り、100分程の列車の旅になります。橿原神宮から先が各駅停車かつ単線のためすれ違い待ちが多く、距離の割には時間がかかり、まさに「陸の孤島」状態です。途中、大学生時代に大峰山系を登山した際に利用した下市口駅には往時の面影が残されておらず、残念でした。<br />平日でしたので通勤・通学の方もおられましたが、ほとんどは終着駅の吉野駅まで行かれます。ですから阿倍野橋駅で座席を確保しないと吉野まで座れません。<br />急行で注意する点は、7両編成ですが途中の駅で後ろ3両を切り離すことがあります。近鉄HPの時刻表のどこにも説明されていませんので、不測の事態に備えて前寄りの4両に乗車されることをお勧めします。

    近畿日本鉄道「吉野」駅
    公共交通機関を利用して吉野へアクセスする方法は、残念ながら近鉄以外選択肢がありません。また、特急はかなり前に予約する必要があり、開花のタイミングや当日の天候に重きを置いてスケジュールを微調整するとなると急行がベストです。
    大阪阿倍野橋駅7:12発の急行に乗り、100分程の列車の旅になります。橿原神宮から先が各駅停車かつ単線のためすれ違い待ちが多く、距離の割には時間がかかり、まさに「陸の孤島」状態です。途中、大学生時代に大峰山系を登山した際に利用した下市口駅には往時の面影が残されておらず、残念でした。
    平日でしたので通勤・通学の方もおられましたが、ほとんどは終着駅の吉野駅まで行かれます。ですから阿倍野橋駅で座席を確保しないと吉野まで座れません。
    急行で注意する点は、7両編成ですが途中の駅で後ろ3両を切り離すことがあります。近鉄HPの時刻表のどこにも説明されていませんので、不測の事態に備えて前寄りの4両に乗車されることをお勧めします。

  • 近畿日本鉄道「吉野」駅<br />8:54に吉野駅に到着です。<br />日中は最高気温22℃まで上がるとの予報ですが、まだひんやりしています。放射冷却効果のため、今朝の最低気温は4℃だったそうです。<br />ここから暫くして急登になるため、汗をかく前にダウンを脱いでおきます。<br />

    近畿日本鉄道「吉野」駅
    8:54に吉野駅に到着です。
    日中は最高気温22℃まで上がるとの予報ですが、まだひんやりしています。放射冷却効果のため、今朝の最低気温は4℃だったそうです。
    ここから暫くして急登になるため、汗をかく前にダウンを脱いでおきます。

  • ロープウェイのりば<br />駅を出て土産物屋の先を右手へ道なりに進むと、直ぐにロープウェイの乗り場が現れます。思ったより混み合っていないのは、大多数は観桜期臨時バスで中千本公園まで直行されるからです。<br />吉野山ケーブルと言いますが、実は吉野大峯ケーブル自動車(株)が運営するロープウェイです。かつて「空中ケーブル」と呼ばれていた名残りのようですが、日本初のロープウェイということもあり、往時は「ロープウェイ」という言葉がなかったためやむを得ず「ケーブル」と呼んだそうです。<br />ロープウェイをやりすごしてその先の七曲り坂を登る方は、さらに疎らになります。

    ロープウェイのりば
    駅を出て土産物屋の先を右手へ道なりに進むと、直ぐにロープウェイの乗り場が現れます。思ったより混み合っていないのは、大多数は観桜期臨時バスで中千本公園まで直行されるからです。
    吉野山ケーブルと言いますが、実は吉野大峯ケーブル自動車(株)が運営するロープウェイです。かつて「空中ケーブル」と呼ばれていた名残りのようですが、日本初のロープウェイということもあり、往時は「ロープウェイ」という言葉がなかったためやむを得ず「ケーブル」と呼んだそうです。
    ロープウェイをやりすごしてその先の七曲り坂を登る方は、さらに疎らになります。

  • ロープウェイのりば<br />ゴンドラは、桜花をあしらった「さくら号」と秋をイメージした「かえで号」があります。春は右横に七曲り坂の桜を一目千本で俯瞰することができる他、夏はアジサイ祭りの様子も見渡せます。<br />千本口駅から吉野山駅へは全長350m、高低差103mあり、定員28名乗りのゴンドラで、3分程で引き上げてくれます。<br />1929(昭和4)年開業という国内で現存するロープウェイでは最古であり、2012年に日本機械学会から「機械遺産」に認定されています。昭和ロマンを感じさせるレトロなゴンドラのデザインを好まれる観光客も多いそうです。ゴンドラの床はご覧のようにケーブルカーのように傾斜しており、ロープウェイとしては珍しいデザインです。

    ロープウェイのりば
    ゴンドラは、桜花をあしらった「さくら号」と秋をイメージした「かえで号」があります。春は右横に七曲り坂の桜を一目千本で俯瞰することができる他、夏はアジサイ祭りの様子も見渡せます。
    千本口駅から吉野山駅へは全長350m、高低差103mあり、定員28名乗りのゴンドラで、3分程で引き上げてくれます。
    1929(昭和4)年開業という国内で現存するロープウェイでは最古であり、2012年に日本機械学会から「機械遺産」に認定されています。昭和ロマンを感じさせるレトロなゴンドラのデザインを好まれる観光客も多いそうです。ゴンドラの床はご覧のようにケーブルカーのように傾斜しており、ロープウェイとしては珍しいデザインです。

  • 幣掛(しでかけ)神社<br />ロープウェイ駅をやり過ごし、急勾配の階段を息を切らして5分程登った先の左手にあります。<br />吉野八社明神の1社に当たり、行場のひとつです。大峰山に登拝することを「山上参り」と言い、その入口となり、古来より登山の安全を祈る第1の神社です。修験者はここで世俗の祓いを取り除いてから登ったそうです。左脇には役行者を祀る祠もあります。<br />名の由来は、この土地が吉野山字四手掛と言われていたことから、この地名の読みを冠して幣掛神社とされたそうです。<br />ご祭神には水を司る速秋津比売命(はやあきつひめのみこと)を祀り、鳥居の傍には吉野山の緑を育み旅人の喉を潤してきたご神水が滾々と湧きだしています。吉野山の桜がこの女神様が司る水で生かされていると思うと、深く頭が下がります。

    幣掛(しでかけ)神社
    ロープウェイ駅をやり過ごし、急勾配の階段を息を切らして5分程登った先の左手にあります。
    吉野八社明神の1社に当たり、行場のひとつです。大峰山に登拝することを「山上参り」と言い、その入口となり、古来より登山の安全を祈る第1の神社です。修験者はここで世俗の祓いを取り除いてから登ったそうです。左脇には役行者を祀る祠もあります。
    名の由来は、この土地が吉野山字四手掛と言われていたことから、この地名の読みを冠して幣掛神社とされたそうです。
    ご祭神には水を司る速秋津比売命(はやあきつひめのみこと)を祀り、鳥居の傍には吉野山の緑を育み旅人の喉を潤してきたご神水が滾々と湧きだしています。吉野山の桜がこの女神様が司る水で生かされていると思うと、深く頭が下がります。

  • 幣掛神社 幣掛行者堂<br />役行者(役小角)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされています。現在の奈良県御所市茅原に生まれ、大峰山系や熊野の山々で修行を重ね、修験道の基礎を築きました。<br />鬼を従えて各地を訪ねたという伝説は、奈良県内のあらこちらに伝承されています。<br />

    幣掛神社 幣掛行者堂
    役行者(役小角)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされています。現在の奈良県御所市茅原に生まれ、大峰山系や熊野の山々で修行を重ね、修験道の基礎を築きました。
    鬼を従えて各地を訪ねたという伝説は、奈良県内のあらこちらに伝承されています。

  • 幣掛神社<br />道行く人は見向きもせずにそそくさと先に進まれますが、今回の山行の安全を祈念して参拝していきます。<br />今や花見で有名になってしまった吉野山ですが、修験道の修行の場でもあり、決して甘く見てはなりません。

    幣掛神社
    道行く人は見向きもせずにそそくさと先に進まれますが、今回の山行の安全を祈念して参拝していきます。
    今や花見で有名になってしまった吉野山ですが、修験道の修行の場でもあり、決して甘く見てはなりません。

  • 幣掛桜<br />鳥居の傍には、「幣掛桜」があります。本来の名は「御車返し」ですが、神社の名を冠して「幣掛桜」と呼んでいます。<br />別名「ヒトエヤエ(一重八重)」と言い、大輪の一重と花弁6~8枚の花が混じって咲く珍しい桜です。江戸時代に後水尾天皇が、牛車をわざわざ引き返して御覧になったという故事から、学名「御車返し」の名があります。京都御所にもある御車返しは園芸種として品種改良された桜ですが、淡い紅紫の花はやや大きく華やかで目を惹き付けます。ここから延々と500m続く七曲り坂の起点に咲く桜です。

    幣掛桜
    鳥居の傍には、「幣掛桜」があります。本来の名は「御車返し」ですが、神社の名を冠して「幣掛桜」と呼んでいます。
    別名「ヒトエヤエ(一重八重)」と言い、大輪の一重と花弁6~8枚の花が混じって咲く珍しい桜です。江戸時代に後水尾天皇が、牛車をわざわざ引き返して御覧になったという故事から、学名「御車返し」の名があります。京都御所にもある御車返しは園芸種として品種改良された桜ですが、淡い紅紫の花はやや大きく華やかで目を惹き付けます。ここから延々と500m続く七曲り坂の起点に咲く桜です。

  • 幣掛桜<br />ズームアップすると大輪の花弁5枚のものと八重の桜花が混じっているのが判ると思います。

    幣掛桜
    ズームアップすると大輪の花弁5枚のものと八重の桜花が混じっているのが判ると思います。

  • 幣掛神社 <br />ご神水ですが、現在の基準では飲料には適さないそうです。<br />吉野の聖性を高めているのは、その豊かな水量です。奥千本に近い所に山頂を持つ標高858mの青根ヶ峰は、幾つもの川を生み出す分水嶺であり、古来より「水分(みまくり)の山」と称され、水を司る神の依りつく山として崇められてきました。今も中腹には吉野水分神社が鎮まっています。<br />吉野八社明神とは、幣掛神社、威徳天神、井光明神(佐抛とされる)、勝手明神(式内吉野山口神社)、夢違観音堂(竜王社:御幸の芝明神)、子守明神(式内吉野水分神社)、牛頭天王社、金精明神(式内金峯神社)を指します。

    幣掛神社
    ご神水ですが、現在の基準では飲料には適さないそうです。
    吉野の聖性を高めているのは、その豊かな水量です。奥千本に近い所に山頂を持つ標高858mの青根ヶ峰は、幾つもの川を生み出す分水嶺であり、古来より「水分(みまくり)の山」と称され、水を司る神の依りつく山として崇められてきました。今も中腹には吉野水分神社が鎮まっています。
    吉野八社明神とは、幣掛神社、威徳天神、井光明神(佐抛とされる)、勝手明神(式内吉野山口神社)、夢違観音堂(竜王社:御幸の芝明神)、子守明神(式内吉野水分神社)、牛頭天王社、金精明神(式内金峯神社)を指します。

  • 七曲り坂<br />ここの坂は九十九折りになっており、緩やかな坂道ですので登るのに苦労はしません。20分程でこの坂道ともお別れです。<br />この山道を七曲り坂と言い、貝原益軒も『和州巡覧記』で「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売り、唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所也」と記しています。かつて吉野山に分け入った人たちは、ここの桜は蔵王権現に供えるためのものと考えていたようです。また、地元の方たちも桜苗を大切に育てていたことが窺えます。

    七曲り坂
    ここの坂は九十九折りになっており、緩やかな坂道ですので登るのに苦労はしません。20分程でこの坂道ともお別れです。
    この山道を七曲り坂と言い、貝原益軒も『和州巡覧記』で「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売り、唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所也」と記しています。かつて吉野山に分け入った人たちは、ここの桜は蔵王権現に供えるためのものと考えていたようです。また、地元の方たちも桜苗を大切に育てていたことが窺えます。

  • 七曲り坂<br />対面にある美しい桜林の色彩の妙を愛でながら徐々に高度を上げていきます。こうした桜の群生が吉野の桜の見所のひとつです。最終的にはこの坂で標高差100m程を登ります。<br />

    七曲り坂
    対面にある美しい桜林の色彩の妙を愛でながら徐々に高度を上げていきます。こうした桜の群生が吉野の桜の見所のひとつです。最終的にはこの坂で標高差100m程を登ります。

  • 七曲り坂<br />「吉野の桜」はその地名から「ソメイヨシノ」を連想されるかもしれませんが、ソメイヨシノは東京の染井村の植木屋がヤマザクラを原種に品種改良したものです。最初は吉野に因んで「吉野桜」と命名したそうですが、吉野山には山桜が多く、それと混同しないように「ソメイヨシノ」に改められました。しかし怪我の功名か、誰もが知るソメイヨシノの名で「吉野の桜」の知名度が向上したことは疑う余地がありません。因みにソメイヨシノの寿命は60年とされますが、山桜の寿命は80~100年とされ、時に樹高30mを超える大木になるものもあります。<br />ヤマザクラの種は、3種に区別されています。シロヤマザクラは、宮城・ 新潟県以南の本州、四国、九州の屋久島、朝鮮半島南部に分布しています。オオヤマザクラ(エゾヤマザクラ、ベニヤマザクラ)は北海道、本州北中部、 南千島、樺太、朝鮮半島の寒冷地帯に分布します。また、カスミザクラ(オクヤマザクラ)は北海道から九州、朝鮮半島に広く分布します。

    七曲り坂
    「吉野の桜」はその地名から「ソメイヨシノ」を連想されるかもしれませんが、ソメイヨシノは東京の染井村の植木屋がヤマザクラを原種に品種改良したものです。最初は吉野に因んで「吉野桜」と命名したそうですが、吉野山には山桜が多く、それと混同しないように「ソメイヨシノ」に改められました。しかし怪我の功名か、誰もが知るソメイヨシノの名で「吉野の桜」の知名度が向上したことは疑う余地がありません。因みにソメイヨシノの寿命は60年とされますが、山桜の寿命は80~100年とされ、時に樹高30mを超える大木になるものもあります。
    ヤマザクラの種は、3種に区別されています。シロヤマザクラは、宮城・ 新潟県以南の本州、四国、九州の屋久島、朝鮮半島南部に分布しています。オオヤマザクラ(エゾヤマザクラ、ベニヤマザクラ)は北海道、本州北中部、 南千島、樺太、朝鮮半島の寒冷地帯に分布します。また、カスミザクラ(オクヤマザクラ)は北海道から九州、朝鮮半島に広く分布します。

  • 七曲り坂<br />初めて吉野を訪れる方は、桜鑑賞のポイントを探すのに悩まれるかもしれません。「一目千本」の美しさを愛でるには、少し開けた場所の方が適しています。お勧めの3つのポイントは、「下千本七曲り」、「吉水神社」、「花矢倉展望台」です。車での移動ができないため、ひたすら山道を歩くことになりますが、その分、ゆっくりと道中の桜を堪能することができます。<br />まずは七曲り坂を登り切った所にある絶景ポイント「昭憲皇太后 御野立跡」を目指します。

    七曲り坂
    初めて吉野を訪れる方は、桜鑑賞のポイントを探すのに悩まれるかもしれません。「一目千本」の美しさを愛でるには、少し開けた場所の方が適しています。お勧めの3つのポイントは、「下千本七曲り」、「吉水神社」、「花矢倉展望台」です。車での移動ができないため、ひたすら山道を歩くことになりますが、その分、ゆっくりと道中の桜を堪能することができます。
    まずは七曲り坂を登り切った所にある絶景ポイント「昭憲皇太后 御野立跡」を目指します。

  • 七曲り坂<br />沿道にシロヤマザクラがびっしりと植えられているため、なかなか見通しのよいポイントが見つかりません。

    七曲り坂
    沿道にシロヤマザクラがびっしりと植えられているため、なかなか見通しのよいポイントが見つかりません。

  • 七曲り坂<br />吉野山には日本古来のシロヤマザクラが多く植えられています。山桜は、ソメイヨシノのように満開を過ぎてから葉芽が出るのではなく、開花と同時に赤茶けた若葉が芽生えるのが特徴です。葉芽と花が同居するのがソメイヨシノとの最大の違いですので、これを知らないと「満開になる前に葉桜になっていた」と勘違いされるかもしれません。ソメイヨシノが桜色一色なのに対し、山桜は花と葉で織りなす風情を味わえます。つまり、葉っぱがチャームポイントなのです。<br />個々の枝や木をクローズアップして見るとソメイヨシノに比べ物足りなく感じるかもしれませんが、少し引いて森あるいは山全体を見渡すと醍醐味が伝わります。つまり吉野の桜は、個よりも群の美しさを希求する趣向のものであり、千本もの密集したたおやかな桜花を遠くから花霞のごとく愛でるのがお勧めです。

    七曲り坂
    吉野山には日本古来のシロヤマザクラが多く植えられています。山桜は、ソメイヨシノのように満開を過ぎてから葉芽が出るのではなく、開花と同時に赤茶けた若葉が芽生えるのが特徴です。葉芽と花が同居するのがソメイヨシノとの最大の違いですので、これを知らないと「満開になる前に葉桜になっていた」と勘違いされるかもしれません。ソメイヨシノが桜色一色なのに対し、山桜は花と葉で織りなす風情を味わえます。つまり、葉っぱがチャームポイントなのです。
    個々の枝や木をクローズアップして見るとソメイヨシノに比べ物足りなく感じるかもしれませんが、少し引いて森あるいは山全体を見渡すと醍醐味が伝わります。つまり吉野の桜は、個よりも群の美しさを希求する趣向のものであり、千本もの密集したたおやかな桜花を遠くから花霞のごとく愛でるのがお勧めです。

  • 七曲り坂<br />対面の桜林を見下ろせる高さまで登ってきました。

    七曲り坂
    対面の桜林を見下ろせる高さまで登ってきました。

  • 七曲り坂<br />左側にあるピンク色が鮮やかな枝垂れ桜が見えてきたら9合目です。

    七曲り坂
    左側にあるピンク色が鮮やかな枝垂れ桜が見えてきたら9合目です。

  • 七曲り坂<br />シロヤマザクラが多い中、アクセントを添えている枝垂れ桜です。

    七曲り坂
    シロヤマザクラが多い中、アクセントを添えている枝垂れ桜です。

  • 七曲り坂<br />枝垂れ桜のズームアップです。

    七曲り坂
    枝垂れ桜のズームアップです。

  • 七曲り坂<br />吉野山は、奈良の都から遥か熊野の地まで青々と伸びる紀伊山地の入口に当たり、神々の棲む聖域でした。『記紀』によると、神武天皇は 高千穂から天下を治めるのに相応しい場所を求めて大和へ入る際、八咫烏の導きで熊野から吉野川に至りました。下流では川魚を捕る「国つ神 贄持之子(にえもつのこ)」に出会い、その先では光る井戸の中から尾の生えた「国つ神 井氷鹿(ゐひか)」に会い、さらに山に分け入ると「国つ神 石押分之子(いわおしわくのこ)」が岩を押し分けて現れました。「国つ神」とは元々この地に棲む神を指し、光る井戸とは水銀抗の比喩とされ、石押分之子は洞窟生活者もしくは鉱山師と考えられます尾があるというのは、木こりや鉱山師が付けていた動物の皮を使った尻当てを言います。だとすれば、吉野山は単なる神の棲む聖域ではなく、豊かな鉱脈を持つ山として古くから特別視されていたと窺えます。そして国つ神たちは、戦うことなく、よそ者の神武天皇を迎え入れたのです。

    七曲り坂
    吉野山は、奈良の都から遥か熊野の地まで青々と伸びる紀伊山地の入口に当たり、神々の棲む聖域でした。『記紀』によると、神武天皇は 高千穂から天下を治めるのに相応しい場所を求めて大和へ入る際、八咫烏の導きで熊野から吉野川に至りました。下流では川魚を捕る「国つ神 贄持之子(にえもつのこ)」に出会い、その先では光る井戸の中から尾の生えた「国つ神 井氷鹿(ゐひか)」に会い、さらに山に分け入ると「国つ神 石押分之子(いわおしわくのこ)」が岩を押し分けて現れました。「国つ神」とは元々この地に棲む神を指し、光る井戸とは水銀抗の比喩とされ、石押分之子は洞窟生活者もしくは鉱山師と考えられます尾があるというのは、木こりや鉱山師が付けていた動物の皮を使った尻当てを言います。だとすれば、吉野山は単なる神の棲む聖域ではなく、豊かな鉱脈を持つ山として古くから特別視されていたと窺えます。そして国つ神たちは、戦うことなく、よそ者の神武天皇を迎え入れたのです。

  • 七曲り坂<br />漸く七曲り坂を征服しました。

    七曲り坂
    漸く七曲り坂を征服しました。

  • 七曲り坂<br />ピンク色のの枝垂れ桜も入れてみました。

    七曲り坂
    ピンク色のの枝垂れ桜も入れてみました。

  • 昭憲皇太后 御野立跡<br />七曲り坂を登り切ったことで気を緩めてはなりません。左手に伸びる平坦な順路に歩を進めたくなるのも無理はありませんが、ここは敢えて右手の駐車場へ向かう坂道を登ってみましょう。3分も歩くと、吉野山のスタート地点になる下千本エリアの「一目千本」ビュースポットに到着です。<br />ここからの展望は下千本随一と称され、下千本の七曲り坂の桜を眼下に一望できます。<br />明治天皇の皇后 昭憲皇太后が、ここから「一目千本」されたことからこの名があります。また、高名な俳人 安原貞室が、「これはこれはとばかり 花の吉野山」と詠んだのがこの辺りからの下千本の桜です。

    昭憲皇太后 御野立跡
    七曲り坂を登り切ったことで気を緩めてはなりません。左手に伸びる平坦な順路に歩を進めたくなるのも無理はありませんが、ここは敢えて右手の駐車場へ向かう坂道を登ってみましょう。3分も歩くと、吉野山のスタート地点になる下千本エリアの「一目千本」ビュースポットに到着です。
    ここからの展望は下千本随一と称され、下千本の七曲り坂の桜を眼下に一望できます。
    明治天皇の皇后 昭憲皇太后が、ここから「一目千本」されたことからこの名があります。また、高名な俳人 安原貞室が、「これはこれはとばかり 花の吉野山」と詠んだのがこの辺りからの下千本の桜です。

  • 昭憲皇太后 御野立跡<br />大峰山系の北端の高城山から奥千本辺りまで延々8kmに及ぶ馬の背状の尾根を総称したのが万葉集にも詠まれた吉野山です。一般的には高城山(690m)を吉野山と呼び、最高峰は青根ヶ峰(858m)になります。この尾根の奥が大峰山の領域に至り、かつては「女人結界」の標石が置かれていました。吉野山は桜の名所で知られる一方、役行者を開祖とする修験道の聖地でもあり、室町時代初期の南北朝時代に南朝の皇居が置かれた場所でもあり、数々の歴史的なドラマが刻み込まれた感慨深い山です。<br />また、吉野山は、同じ紀伊半島にある高野山や熊野三山と共に「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年世界遺産に認定されています。他にも「金峯山寺蔵王堂」「吉水神社」「吉野水分神社」「金峰神社」と言った史跡も世界遺産に認定され、吉野山を含めて5つの世界遺巡りができます。この先の尾根道沿いには金峯山寺をはじめ、修験道の寺院、後醍醐天皇や源義経に所縁の深い吉水神社、静御前の伝説が残される勝手神社、水の神様を祀る吉野水分神社、吉野の地主神を祀る金峯神社などが山の奥に誘うように絶妙に配され、四季折々の美しさを魅せます。

    昭憲皇太后 御野立跡
    大峰山系の北端の高城山から奥千本辺りまで延々8kmに及ぶ馬の背状の尾根を総称したのが万葉集にも詠まれた吉野山です。一般的には高城山(690m)を吉野山と呼び、最高峰は青根ヶ峰(858m)になります。この尾根の奥が大峰山の領域に至り、かつては「女人結界」の標石が置かれていました。吉野山は桜の名所で知られる一方、役行者を開祖とする修験道の聖地でもあり、室町時代初期の南北朝時代に南朝の皇居が置かれた場所でもあり、数々の歴史的なドラマが刻み込まれた感慨深い山です。
    また、吉野山は、同じ紀伊半島にある高野山や熊野三山と共に「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年世界遺産に認定されています。他にも「金峯山寺蔵王堂」「吉水神社」「吉野水分神社」「金峰神社」と言った史跡も世界遺産に認定され、吉野山を含めて5つの世界遺巡りができます。この先の尾根道沿いには金峯山寺をはじめ、修験道の寺院、後醍醐天皇や源義経に所縁の深い吉水神社、静御前の伝説が残される勝手神社、水の神様を祀る吉野水分神社、吉野の地主神を祀る金峯神社などが山の奥に誘うように絶妙に配され、四季折々の美しさを魅せます。

  • 昭憲皇太后 御野立跡<br />吉野山は、日本全国でも屈指の花見スポットです。これだけのスケールで迫ってくる桜は、全国広しと言えども吉野山だけではないでしょうか?<br />吉野の桜は3大桜の名所に数えられ、桜の本数を比べると、吉野山(3万本)、弘前公園(2600本)、高遠城址公園(1500本)と桁外れに他の追随を許しません。ですから、毎年30万人以上の観光客が桜のシーズンに集中するというのも頷けます。<br />古来より「千本桜」や「一目千本」と表現される吉野の桜は、ここでしか見ることのできない絶景です。

    昭憲皇太后 御野立跡
    吉野山は、日本全国でも屈指の花見スポットです。これだけのスケールで迫ってくる桜は、全国広しと言えども吉野山だけではないでしょうか?
    吉野の桜は3大桜の名所に数えられ、桜の本数を比べると、吉野山(3万本)、弘前公園(2600本)、高遠城址公園(1500本)と桁外れに他の追随を許しません。ですから、毎年30万人以上の観光客が桜のシーズンに集中するというのも頷けます。
    古来より「千本桜」や「一目千本」と表現される吉野の桜は、ここでしか見ることのできない絶景です。

  • 旅館「歌藤(かとう)」<br />七曲り坂の終点を左に参道を進むとその先に赤い橋が見えてきます。<br />その手前の右手にあるのが旅館「歌藤」です。<br />歌藤の名字は、吉野を山城として南朝を樹立した後醍醐天皇に仕え、歌を教えた先祖が天皇から直接与えられたとされます。<br />和風の本館の他、ログハウス風の新館があります。新館は、吉野の杉とヒノキをふんだんに使い、家族総出で手作りで建てられたそうです。また、吉野銘石露天風呂がリニューアルオープンしています。お風呂のお湯は、古来「薬の石」と呼ばれる麦飯石を通して多くのミネラル分を溶出させたもので、弱アルカリ性で肌にやさしい湯質です。<br />ロープウェイ山上駅から徒歩2分の地の利もあり、「世界最大の旅行口コミサイト」を謳うトリップアドバイザーの評価では「吉野町の旅館」16軒中、堂々の1位に輝いています。特に外国人の評価が高いようです。

    旅館「歌藤(かとう)」
    七曲り坂の終点を左に参道を進むとその先に赤い橋が見えてきます。
    その手前の右手にあるのが旅館「歌藤」です。
    歌藤の名字は、吉野を山城として南朝を樹立した後醍醐天皇に仕え、歌を教えた先祖が天皇から直接与えられたとされます。
    和風の本館の他、ログハウス風の新館があります。新館は、吉野の杉とヒノキをふんだんに使い、家族総出で手作りで建てられたそうです。また、吉野銘石露天風呂がリニューアルオープンしています。お風呂のお湯は、古来「薬の石」と呼ばれる麦飯石を通して多くのミネラル分を溶出させたもので、弱アルカリ性で肌にやさしい湯質です。
    ロープウェイ山上駅から徒歩2分の地の利もあり、「世界最大の旅行口コミサイト」を謳うトリップアドバイザーの評価では「吉野町の旅館」16軒中、堂々の1位に輝いています。特に外国人の評価が高いようです。

  • 大橋展望台<br />吉野の桜は、遠目には今までと変わらない美しさを魅せていますが、実は今、絶滅の危機に瀕しています。3万本の桜のうち半数が菌類や害虫などの病気を罹って生育不良の状態にあり、このままの状態が続けば10年程で全滅すると危惧されています。<br />実際、下千本の桜はほとんどがウメノキゴケに覆われています。通常ウメノキゴケは枯木に着くのですが、朽ちてもいない樹に何故着くかと言うと、内部がナラタケ属菌に侵されて空洞化しているためです。更に追い討ちを掛けるように、弱った樹にヤドリギが大量に寄生しています。これが徐々に中千本にも広がりつつあるそうです。<br />原因は、ゴミの放置等による微生物繁殖の助長、人口減少やライフスタイルの変化に伴う桜の管理不足、桜自体の高齢化や地球温暖化、家庭排水による汚染などが挙げられていますが、こんなにも美しい風景を我々の世代で消滅させてしまうのは忍びないことです。<br />勿論、絶滅しないように対策は講じられており、その主体は微生物の攻撃に抵抗しうる活力あるヤマザクラを植栽して育成することにあります。しかし3万本の桜を維持するには、仮に寿命100年とすれば単純計算で年間300本の植樹が必要です。吉野に限られたことではありませんが、長年親しまれてきた桜景色を守るため、ひとり一人が今できる事を考え、それを実践しなくてはなりません。

    大橋展望台
    吉野の桜は、遠目には今までと変わらない美しさを魅せていますが、実は今、絶滅の危機に瀕しています。3万本の桜のうち半数が菌類や害虫などの病気を罹って生育不良の状態にあり、このままの状態が続けば10年程で全滅すると危惧されています。
    実際、下千本の桜はほとんどがウメノキゴケに覆われています。通常ウメノキゴケは枯木に着くのですが、朽ちてもいない樹に何故着くかと言うと、内部がナラタケ属菌に侵されて空洞化しているためです。更に追い討ちを掛けるように、弱った樹にヤドリギが大量に寄生しています。これが徐々に中千本にも広がりつつあるそうです。
    原因は、ゴミの放置等による微生物繁殖の助長、人口減少やライフスタイルの変化に伴う桜の管理不足、桜自体の高齢化や地球温暖化、家庭排水による汚染などが挙げられていますが、こんなにも美しい風景を我々の世代で消滅させてしまうのは忍びないことです。
    勿論、絶滅しないように対策は講じられており、その主体は微生物の攻撃に抵抗しうる活力あるヤマザクラを植栽して育成することにあります。しかし3万本の桜を維持するには、仮に寿命100年とすれば単純計算で年間300本の植樹が必要です。吉野に限られたことではありませんが、長年親しまれてきた桜景色を守るため、ひとり一人が今できる事を考え、それを実践しなくてはなりません。

  • 大橋<br />一見何の変哲もない橋ですが、その生い立ちに特徴があります。橋の下を流れる水がないだけでなく、地形的にも高所にあり、両側が谷になっています。今では想像すらできませんが、七曲りの道と吉野神宮からの道が出合った所を「攻めが辻」と言い、大塔宮方と北条幕府軍が激しい合戦を繰り広げた場所です。<br />1333(元弘3)年に大塔宮 護良(もりなが)親王が北条幕府軍を防いで吉野城に篭城した際、空掘に架けられた戦略上の橋がこの大橋です。大塔宮はその後、征夷大将軍となりますが、父 後醍醐天皇に疎まれて謀反の疑いで足利軍に捕えられ、鎌倉で幽閉されます。最期は鎌倉で惨殺され、28歳の若さでこの世を去りました。<br />別名「一の橋」とも言い、竹林院前の「天王橋」、かつて吉野水分神社前にあったとされる「城之橋」と共に吉野三橋のひとつに数えられます。欄干の擬宝珠には、慶長9年(1604年)建立の銘があります。<br />自動車の通行が激しくなるにつれ木橋の傷みがひどくなり、下の空間を埋めて鉄筋コンクリート造りに代えられ、橋の反りによって往時のよすがを偲ぶに過ぎなくなっているのは寂しい限りです。

    大橋
    一見何の変哲もない橋ですが、その生い立ちに特徴があります。橋の下を流れる水がないだけでなく、地形的にも高所にあり、両側が谷になっています。今では想像すらできませんが、七曲りの道と吉野神宮からの道が出合った所を「攻めが辻」と言い、大塔宮方と北条幕府軍が激しい合戦を繰り広げた場所です。
    1333(元弘3)年に大塔宮 護良(もりなが)親王が北条幕府軍を防いで吉野城に篭城した際、空掘に架けられた戦略上の橋がこの大橋です。大塔宮はその後、征夷大将軍となりますが、父 後醍醐天皇に疎まれて謀反の疑いで足利軍に捕えられ、鎌倉で幽閉されます。最期は鎌倉で惨殺され、28歳の若さでこの世を去りました。
    別名「一の橋」とも言い、竹林院前の「天王橋」、かつて吉野水分神社前にあったとされる「城之橋」と共に吉野三橋のひとつに数えられます。欄干の擬宝珠には、慶長9年(1604年)建立の銘があります。
    自動車の通行が激しくなるにつれ木橋の傷みがひどくなり、下の空間を埋めて鉄筋コンクリート造りに代えられ、橋の反りによって往時のよすがを偲ぶに過ぎなくなっているのは寂しい限りです。

  • 参道<br />大橋を渡ると参道の両脇に食事処やお土産屋、旅館などが軒を連ね、温泉街を彷彿とさせます。

    参道
    大橋を渡ると参道の両脇に食事処やお土産屋、旅館などが軒を連ね、温泉街を彷彿とさせます。

  • ロープウェイ山上駅<br />ロープウェイを降りてきて最初に目にするのがこの光景です。

    ロープウェイ山上駅
    ロープウェイを降りてきて最初に目にするのがこの光景です。

  • ロープウェイ山上駅<br />圧倒されるような巨大な桜です。<br /><br /><br />

    ロープウェイ山上駅
    圧倒されるような巨大な桜です。


  • 関屋桜跡の碑<br />昭和初年頃までは、ここに老桜があったそうです。大阪平野の豪商 末吉勘兵衛が植えた桜と言われています。この付近の坂道はかつて黒門の所に関所があったために関屋坂と呼ばれ、ロープウェイ山上駅から黒門付近に至るまでの桜は関谷の桜と呼ばれ、薄紅がかった一重のシロヤマザクラが風雅です。<br /><br />吉野は『万葉集』をはじめ数多の和歌に詠まれましたが、意外なことに平安時代中期までは「雪」と共に詠まれ、『百人一首』の坂上是則の歌はその代表です。「あさぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の山に降れる白雪」。しかし平安時代後期、突如、吉野のシンボルが「桜」に代わり、『新古今和歌集』には桜を詠むものが多くなります。「み吉野の高嶺の桜散りにけり 嵐も白き春のあけぼの」(後鳥羽院)。<br />吉野が「桜」の名所になったのは、宗教的なきっかけが始まりです。白鳳時代、葛城山で修験した山岳信仰の祖 役小角は、民衆救済のために大峰山に籠りました。その修行は、命がけで罪と穢れを贖うものでした。一度死んだ身にして穢れない命として生まれ変わる「擬死再生」を行い、即身成仏の域に達した時に出現したのが蔵王権現でした。役小角は、山桜の木にその姿を彫り、金峯山寺に祀りました。ここに吉野と「桜」の縁が結ばれ、金峯山寺の建材にも桜を使い、護摩木も桜に拘り、いつしか山桜は神木と崇められ、蔵王権現の参詣には桜の苗を寄付するのが習わしになりました。金峯山寺は一時衰退するも、里人と桜の縁は途絶えることなく、信者たちの献木は続けられました。神木の桜は厳しく管理され、「一枝折れば一指失い、一本切れば一命を落とす」と言われ、過って薪にすれば災難を被ると信じられていました。その後、文禄3年の豊臣秀吉による花見の折には1千本の桜の木が寄進され、江戸時代には末吉勘兵衛が1万本を下千本に植林し、やがて吉野の桜は山を覆い尽くすほどになったのです。

    関屋桜跡の碑
    昭和初年頃までは、ここに老桜があったそうです。大阪平野の豪商 末吉勘兵衛が植えた桜と言われています。この付近の坂道はかつて黒門の所に関所があったために関屋坂と呼ばれ、ロープウェイ山上駅から黒門付近に至るまでの桜は関谷の桜と呼ばれ、薄紅がかった一重のシロヤマザクラが風雅です。

    吉野は『万葉集』をはじめ数多の和歌に詠まれましたが、意外なことに平安時代中期までは「雪」と共に詠まれ、『百人一首』の坂上是則の歌はその代表です。「あさぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の山に降れる白雪」。 しかし平安時代後期、突如、吉野のシンボルが「桜」に代わり、『新古今和歌集』には桜を詠むものが多くなります。「み吉野の高嶺の桜散りにけり 嵐も白き春のあけぼの」(後鳥羽院)。
    吉野が「桜」の名所になったのは、宗教的なきっかけが始まりです。白鳳時代、葛城山で修験した山岳信仰の祖 役小角は、民衆救済のために大峰山に籠りました。その修行は、命がけで罪と穢れを贖うものでした。一度死んだ身にして穢れない命として生まれ変わる「擬死再生」を行い、即身成仏の域に達した時に出現したのが蔵王権現でした。役小角は、山桜の木にその姿を彫り、金峯山寺に祀りました。ここに吉野と「桜」の縁が結ばれ、金峯山寺の建材にも桜を使い、護摩木も桜に拘り、いつしか山桜は神木と崇められ、蔵王権現の参詣には桜の苗を寄付するのが習わしになりました。金峯山寺は一時衰退するも、里人と桜の縁は途絶えることなく、信者たちの献木は続けられました。神木の桜は厳しく管理され、「一枝折れば一指失い、一本切れば一命を落とす」と言われ、過って薪にすれば災難を被ると信じられていました。 その後、文禄3年の豊臣秀吉による花見の折には1千本の桜の木が寄進され、江戸時代には末吉勘兵衛が1万本を下千本に植林し、やがて吉野の桜は山を覆い尽くすほどになったのです。

  • 黒門<br />金峯山寺の総門に当たり、かつては吉野山の関所であり、吉野山全体の総門でもありました。金峰山は吉野山~大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていました。それらの総門がこの黒門でした。千社札が沢山貼られ、瓦葺、高麗門様式と言う、城郭でよく見られる黒塗りの重厚な門です。現在の黒門は1985年、金峯山寺蔵王堂の大屋根大修理に合わせて改築されたものです。

    黒門
    金峯山寺の総門に当たり、かつては吉野山の関所であり、吉野山全体の総門でもありました。金峰山は吉野山~大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていました。それらの総門がこの黒門でした。千社札が沢山貼られ、瓦葺、高麗門様式と言う、城郭でよく見られる黒塗りの重厚な門です。現在の黒門は1985年、金峯山寺蔵王堂の大屋根大修理に合わせて改築されたものです。

  • 黒門<br />往時、この門を潜るには公家は駕籠から降り、大名は槍を伏せ、下馬しなくてはならない格式を誇りました。背筋が自然に伸びるような、そんな気配を感じます。しかし自動車が何の躊躇もせずに通り過ぎていくのは、何なんだろう。京都の西本願寺でもこうした光景を目の当たりにしましたが…。<br />かつて役行者をはじめ空海や西行、芭蕉、義経、静御前、後醍醐天皇、秀吉…も、吉野山を目指した全ての人がこの道を通ったかと思うと不思議な気持ちにさせられます。 

    黒門
    往時、この門を潜るには公家は駕籠から降り、大名は槍を伏せ、下馬しなくてはならない格式を誇りました。背筋が自然に伸びるような、そんな気配を感じます。しかし自動車が何の躊躇もせずに通り過ぎていくのは、何なんだろう。京都の西本願寺でもこうした光景を目の当たりにしましたが…。
    かつて役行者をはじめ空海や西行、芭蕉、義経、静御前、後醍醐天皇、秀吉…も、吉野山を目指した全ての人がこの道を通ったかと思うと不思議な気持ちにさせられます。 

  • 黒門<br />南側から見ると、扉を収納できる高麗門様式であることが判ります。高麗門は、近世以降(1590年代~)にできた様式であり、現在でも城郭や寺院などでよく見られ、特に珍しいものではありません。

    黒門
    南側から見ると、扉を収納できる高麗門様式であることが判ります。高麗門は、近世以降(1590年代~)にできた様式であり、現在でも城郭や寺院などでよく見られ、特に珍しいものではありません。

  • 金峰山寺 銅鳥居(きんぷせんじ かねのとりい)<br />土産屋が軒を連ねる緩い坂道を登っていくと、石段の上に銅製の鳥居が佇んでいます。鳥居=神社と条件反射してしまうのですが、明治時代の神仏分離令以前は神も仏も同居していました。<br />金峯山入峰の第1門に当たり、山上ヶ岳への修験道には合計4つの門(他は、「修行」、「等覚」、「妙覚」)があり、行者たちはここから先を冥土と見做し、ひとつ門を潜る毎に俗界を離れて修行する決意を強めていったそうです。<br />高さ8.1m、柱間隔7.4m、柱周り3.3mあり、宮島の朱丹の大鳥居と大阪四天王子の石鳥居と並んで日本三大鳥居のひとつに数えられています。<br />因みに、この鳥居も世界遺産に登録されています。

    金峰山寺 銅鳥居(きんぷせんじ かねのとりい)
    土産屋が軒を連ねる緩い坂道を登っていくと、石段の上に銅製の鳥居が佇んでいます。鳥居=神社と条件反射してしまうのですが、明治時代の神仏分離令以前は神も仏も同居していました。
    金峯山入峰の第1門に当たり、山上ヶ岳への修験道には合計4つの門(他は、「修行」、「等覚」、「妙覚」)があり、行者たちはここから先を冥土と見做し、ひとつ門を潜る毎に俗界を離れて修行する決意を強めていったそうです。
    高さ8.1m、柱間隔7.4m、柱周り3.3mあり、宮島の朱丹の大鳥居と大阪四天王子の石鳥居と並んで日本三大鳥居のひとつに数えられています。
    因みに、この鳥居も世界遺産に登録されています。

  • 金峰山寺 銅鳥居<br />逆光かつ独特の文字のために読み難いのですが、扁額には「発心門(ほっしんもん)」とあります。「仏道修行を発心するところ、菩提心をおこすところ」と言う意味があります。<br />修験者はこの鳥居に手を掛けて回りながら、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて 弥陀の浄土に入るぞうれしき」と3回唱えて入山していくそうです。<br />

    金峰山寺 銅鳥居
    逆光かつ独特の文字のために読み難いのですが、扁額には「発心門(ほっしんもん)」とあります。「仏道修行を発心するところ、菩提心をおこすところ」と言う意味があります。
    修験者はこの鳥居に手を掛けて回りながら、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて 弥陀の浄土に入るぞうれしき」と3回唱えて入山していくそうです。

  • 金峰山寺 銅鳥居<br />神仏習合の証拠に、鳥居の両柱の柱底には珠文帯と蓮弁を鋳出し、寺院への入口であることを示しています。

    金峰山寺 銅鳥居
    神仏習合の証拠に、鳥居の両柱の柱底には珠文帯と蓮弁を鋳出し、寺院への入口であることを示しています。

  • 金峰山寺 銅鳥居<br />創立年代は不詳ですが、聖武天皇の時代に東大寺盧舎那仏像鋳造の際に余った銅を使って造立されたとの伝えがあります。『太平記』には、1348年に高師直の兵火により類焼し、1711(正徳元)年に再興されたとあります。室町時代に再興されたものですが、銅製鳥居としては現存する最古の鳥居だそうです。<br />

    金峰山寺 銅鳥居
    創立年代は不詳ですが、聖武天皇の時代に東大寺盧舎那仏像鋳造の際に余った銅を使って造立されたとの伝えがあります。『太平記』には、1348年に高師直の兵火により類焼し、1711(正徳元)年に再興されたとあります。室町時代に再興されたものですが、銅製鳥居としては現存する最古の鳥居だそうです。

  • さこや<br />かつてはここに女人結界があり、地名の「藤尾」は「不浄」から転訛したそうです。静御前は雪道を彷徨い、亥の刻(21~23時頃)、蔵王堂の灯りを頼りにこの坂を上っていく途中で捕まったそうです。<br />本居宣長をはじめ頼山陽など多くの文人墨客、伊藤博文や高橋是清ら政財界の大物に愛されてきた創業300年吉野山の老舗宿「さこや」の「静の湯」に入られる方は、どうかその歴史にも馳せていただけたらと思います。<br />因みに、扁額は頼山陽の直筆だそうです。

    さこや
    かつてはここに女人結界があり、地名の「藤尾」は「不浄」から転訛したそうです。静御前は雪道を彷徨い、亥の刻(21~23時頃)、蔵王堂の灯りを頼りにこの坂を上っていく途中で捕まったそうです。
    本居宣長をはじめ頼山陽など多くの文人墨客、伊藤博文や高橋是清ら政財界の大物に愛されてきた創業300年吉野山の老舗宿「さこや」の「静の湯」に入られる方は、どうかその歴史にも馳せていただけたらと思います。
    因みに、扁額は頼山陽の直筆だそうです。

  • 金峯山寺(きんぷせんじ)仁王門(国宝)<br />メインストリートを歩いていくとやがて仁王門が見えてきます。残念ながら現在は、老朽化に伴い屋根瓦落下の危険があるため防護柵や網で覆われています。2年後の2019年に大修理が着工する予定です。<br />「金峯山」と書かれた扁額を掲げる巨大な仁王門を潜れば、熊野まで続く大峰山系の大自然の胎内に潜り込んだことになります。7世紀後期に役小角が創建した金峯山寺は、修験の寺として発展しました。修験は大自然に神仏を感じ、大自然を経典としてその内部に入り込む自然崇拝であり、そもそも仏教や神道といった区分けはなかったそうです。

    金峯山寺(きんぷせんじ)仁王門(国宝)
    メインストリートを歩いていくとやがて仁王門が見えてきます。残念ながら現在は、老朽化に伴い屋根瓦落下の危険があるため防護柵や網で覆われています。2年後の2019年に大修理が着工する予定です。
    「金峯山」と書かれた扁額を掲げる巨大な仁王門を潜れば、熊野まで続く大峰山系の大自然の胎内に潜り込んだことになります。7世紀後期に役小角が創建した金峯山寺は、修験の寺として発展しました。修験は大自然に神仏を感じ、大自然を経典としてその内部に入り込む自然崇拝であり、そもそも仏教や神道といった区分けはなかったそうです。

  • 金峯山寺 仁王門<br />創立年代は不詳です。現在の門は、かつて軒先に吊られていた風鐸や建物内に安置されている金剛力士像体内銘などにより、下層は南北朝時代の延元年間(1336~40年)、上層は康正年間(1455~57年)に建造されたと考えられています。その後、1950(昭和25)年に大修理が施されています。高さ20.3m、桁行13.4m、梁間8.1mの重層入母屋造、本瓦葺の木造建築で、修験道の中心寺院である金峯山寺の正門として相応しい威容を誇っています。<br />仁王門は、北面の玄関口の役割を果たし、村上義光が最期を遂げた二天門(焼失)が南門でした。南門が焼失したが故に仁王門と蔵王堂が背中合わせとなる伽藍配置となり違和感を覚えますが、かつては大阪や京都から逆峯入りする信者を仁王門が迎え、山上ヶ岳から巡礼してきた信者を南門が迎えていました。

    金峯山寺 仁王門
    創立年代は不詳です。現在の門は、かつて軒先に吊られていた風鐸や建物内に安置されている金剛力士像体内銘などにより、下層は南北朝時代の延元年間(1336~40年)、上層は康正年間(1455~57年)に建造されたと考えられています。その後、1950(昭和25)年に大修理が施されています。 高さ20.3m、桁行13.4m、梁間8.1mの重層入母屋造、本瓦葺の木造建築で、修験道の中心寺院である金峯山寺の正門として相応しい威容を誇っています。
    仁王門は、北面の玄関口の役割を果たし、村上義光が最期を遂げた二天門(焼失)が南門でした。南門が焼失したが故に仁王門と蔵王堂が背中合わせとなる伽藍配置となり違和感を覚えますが、かつては大阪や京都から逆峯入りする信者を仁王門が迎え、山上ヶ岳から巡礼してきた信者を南門が迎えていました。

  • 金峯山寺 仁王門<br />蔵王堂の北側にある、仁王門の階段の下に咲く桜も、見事な風情を醸しています。<br />

    金峯山寺 仁王門
    蔵王堂の北側にある、仁王門の階段の下に咲く桜も、見事な風情を醸しています。

  • 金峯山寺 仁王門<br />門内に安置された金剛力士像は、阿形(右側)、吽形(左側)とも総高5.28mの巨像であり、南北朝時代、興福寺大仏師の庚成の作と伝わり、檜材寄木造で重文に指定されています。<br />像内の銘文により、阿形像(右)は1338(延元3)年、吽形像はその翌年造られたことが判っています。仁王像完成直後、吉野に潜行されていた後醍醐天皇は崩御されたことになります。<br />どちらも正面を睨んでおらず、門の通路を行きかう人を睨み続けています。

    金峯山寺 仁王門
    門内に安置された金剛力士像は、阿形(右側)、吽形(左側)とも総高5.28mの巨像であり、南北朝時代、興福寺大仏師の庚成の作と伝わり、檜材寄木造で重文に指定されています。
    像内の銘文により、阿形像(右)は1338(延元3)年、吽形像はその翌年造られたことが判っています。仁王像完成直後、吉野に潜行されていた後醍醐天皇は崩御されたことになります。
    どちらも正面を睨んでおらず、門の通路を行きかう人を睨み続けています。

  • 金峯山寺 仁王門<br />「金峯山」とは吉野山から山上ヶ岳(大峰山)をも含んだ山脈の総称であり、万葉集には「御金の岳」の名で登場する古来の霊山であり、修験道発祥の地でもあります。その名を戴く金峯山寺はまさしく吉野山のランドマークであり、修験道の総本山でもあります。修験道の開祖 役小角が山中での修行の末、金剛蔵王権現の姿を桜の木に刻み、これを祀ったのが金峯山寺のはじまりです。<br />それ以降、桜木は吉野山においては神木と崇められ、植樹され続けてきたため、今のような桜の絶景が愉しめる山になっています。

    金峯山寺 仁王門
    「金峯山」とは吉野山から山上ヶ岳(大峰山)をも含んだ山脈の総称であり、万葉集には「御金の岳」の名で登場する古来の霊山であり、修験道発祥の地でもあります。その名を戴く金峯山寺はまさしく吉野山のランドマークであり、修験道の総本山でもあります。修験道の開祖 役小角が山中での修行の末、金剛蔵王権現の姿を桜の木に刻み、これを祀ったのが金峯山寺のはじまりです。
    それ以降、桜木は吉野山においては神木と崇められ、植樹され続けてきたため、今のような桜の絶景が愉しめる山になっています。

  • 金峯山寺 蔵王堂(国宝)<br />吉野山の中腹、海抜364mの地に蔵王堂は建造されています。創立年代は不詳ですが、寺伝によると白鳳年間(7世紀後期)に修験道の開祖 役行者が創建したと伝わります。金峯山寺は、平安時代には修験道の隆盛により天皇家をはじめ公家や武家からの手厚い帰依を受け、多数の末葉寺院や広大な寺領を誇ったと伝えられています。<br />本堂は、山上ヶ岳頂上にある山上蔵王堂(大峯山寺)に対して山下蔵王堂と呼ばれ、修験道の霊場「吉野・大峰」の中心伽藍として信仰を集めてきました。文献によると、1103(康和5)年に存在が確認されていますが、幾度も焼失と復興を繰り返し、現在の建物は1592(天正20)年に豊臣秀吉・秀長の援助によって再建されたもので、その規模は東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇り、国宝ならびに世界遺産に指定されています。<br />『太平記』には、1348(正平3)年に高師直の軍勢により兵火に見舞われた時のすさまじい様子が描写されています。

    金峯山寺 蔵王堂(国宝)
    吉野山の中腹、海抜364mの地に蔵王堂は建造されています。創立年代は不詳ですが、寺伝によると白鳳年間(7世紀後期)に修験道の開祖 役行者が創建したと伝わります。金峯山寺は、平安時代には修験道の隆盛により天皇家をはじめ公家や武家からの手厚い帰依を受け、多数の末葉寺院や広大な寺領を誇ったと伝えられています。
    本堂は、山上ヶ岳頂上にある山上蔵王堂(大峯山寺)に対して山下蔵王堂と呼ばれ、修験道の霊場「吉野・大峰」の中心伽藍として信仰を集めてきました。文献によると、1103(康和5)年に存在が確認されていますが、幾度も焼失と復興を繰り返し、現在の建物は1592(天正20)年に豊臣秀吉・秀長の援助によって再建されたもので、その規模は東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇り、国宝ならびに世界遺産に指定されています。
    『太平記』には、1348(正平3)年に高師直の軍勢により兵火に見舞われた時のすさまじい様子が描写されています。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />高さ33.9m、桁行7間25.8m、梁間8間27.3m、2階建てに見えますが一重裳階(もこし)付入母屋造様式の檜皮葺の木造建築で、修験道の中心寺院に相応しい威容を誇ります。檜皮葺の屋根と色彩の乏しい建材ゆえに派手さこそありませんが、高さがあり、見上げるとその勇壮さと桃山建築らしい厳かな佇まいに圧倒されます。<br />ここでは、本尊に桜花を供えて人々の罪科を懺悔する「花供懺法会(花供会式)」や、神仏を侮ったために蛙の姿に変えられた男が懺悔して僧侶の法力によって人の姿に戻されたという伝説に基づいた「蓮華会蛙とび行事」などの伝統行事が毎年盛大に行われています。

    金峯山寺 蔵王堂
    高さ33.9m、桁行7間25.8m、梁間8間27.3m、2階建てに見えますが一重裳階(もこし)付入母屋造様式の檜皮葺の木造建築で、修験道の中心寺院に相応しい威容を誇ります。檜皮葺の屋根と色彩の乏しい建材ゆえに派手さこそありませんが、高さがあり、見上げるとその勇壮さと桃山建築らしい厳かな佇まいに圧倒されます。
    ここでは、本尊に桜花を供えて人々の罪科を懺悔する「花供懺法会(花供会式)」や、神仏を侮ったために蛙の姿に変えられた男が懺悔して僧侶の法力によって人の姿に戻されたという伝説に基づいた「蓮華会蛙とび行事」などの伝統行事が毎年盛大に行われています。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />山岳信仰者の役小角が蔵王権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで山上山下の蔵王堂に祀ったのが金峯山寺の始まりです。この2つの蔵王堂は神仏分離令で切り離され、大峰山系の山上ヶ岳の蔵王堂が大峯山寺となり、山下の蔵王堂は金峯山寺の本堂として現在に至っています。平安時代、貴族の間で「金の御岳(かねのみたけ=金峯山)」へ参詣する「御嶽詣」が大流行しました。『枕草子』や『源氏物語』には、御嶽詣の前に身を浄める御嶽精進について記されています。どんな偉人でも、金峯山に参詣するには短くて21日、長くて百日は世俗的な交わりを退け、肉食と酒を断ち、写経や看経(かんきん=黙読)を行ない、聖なる山に詣でるに相応しい清らかな心身をつくったとあります。鴨長明著『発心集』には、「御嶽精進を途中で怠れば厳罰が下る」とあります。蔵王権現の霊威はそれほど厳格なもので、それ故に霊験あらたかであると信じられていました。<br />1007(寛弘4)年、時の権力者 藤原道長は、百日の潔斎を経て山上ヶ岳に登り、経筒を地中に埋めました。するとその年に一条天皇に嫁いで以来8年間子宝に恵まれなかった娘 彰子が懐妊し、翌年に男子が生まれました。やがて後一条天皇として即位し、道長の権力が確固たるものになっていったのです。この彰子の懐妊を『栄花物語』は、「御嶽詣での御利益」と称賛しています。

    金峯山寺 蔵王堂
    山岳信仰者の役小角が蔵王権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで山上山下の蔵王堂に祀ったのが金峯山寺の始まりです。この2つの蔵王堂は神仏分離令で切り離され、大峰山系の山上ヶ岳の蔵王堂が大峯山寺となり、山下の蔵王堂は金峯山寺の本堂として現在に至っています。 平安時代、貴族の間で「金の御岳(かねのみたけ=金峯山)」へ参詣する「御嶽詣」が大流行しました。『枕草子』や『源氏物語』には、御嶽詣の前に身を浄める御嶽精進について記されています。どんな偉人でも、金峯山に参詣するには短くて21日、長くて百日は世俗的な交わりを退け、肉食と酒を断ち、写経や看経(かんきん=黙読)を行ない、聖なる山に詣でるに相応しい清らかな心身をつくったとあります。鴨長明著『発心集』には、「御嶽精進を途中で怠れば厳罰が下る」とあります。蔵王権現の霊威はそれほど厳格なもので、それ故に霊験あらたかであると信じられていました。
    1007(寛弘4)年、時の権力者 藤原道長は、百日の潔斎を経て山上ヶ岳に登り、経筒を地中に埋めました。するとその年に一条天皇に嫁いで以来8年間子宝に恵まれなかった娘 彰子が懐妊し、翌年に男子が生まれました。やがて後一条天皇として即位し、道長の権力が確固たるものになっていったのです。この彰子の懐妊を『栄花物語』は、「御嶽詣での御利益」と称賛しています。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />罰当たりなことに、今年の4月1日に正面扉板などに謎の液体がまかれた跡が見つかっています。尚、2年前にも蔵王権現立像に油のような液体がまかれた被害があり、ご開帳の時期を狙った同一犯ではないかと思います。<br />内部は古代の杜を彷彿とさせる佇まいです。本尊の鎮まる厨子の回りには68本もの柱が樹立し、最も太い柱は周囲3.9mもあります。復興を急いだためか用いた木材には統一性がなく、杉や檜、松、 欅、つつじ、梨など柱の太さも異なり、歪んだ木もそのまま用いられているのがかえって趣を醸すのに奏功しています。<br />蔵王堂を幾度も復興した先人たちは、例えどんな立派なものを造ったとしても、それは吉野の大自然の中ではちっぽけなものに過ぎないことを悟っていたのでしょう。故に、華美に走らず、自然のなすがままに大自然の威力をありのままに表現したのではないでしょうか。

    金峯山寺 蔵王堂
    罰当たりなことに、今年の4月1日に正面扉板などに謎の液体がまかれた跡が見つかっています。尚、2年前にも蔵王権現立像に油のような液体がまかれた被害があり、ご開帳の時期を狙った同一犯ではないかと思います。
    内部は古代の杜を彷彿とさせる佇まいです。本尊の鎮まる厨子の回りには68本もの柱が樹立し、最も太い柱は周囲3.9mもあります。復興を急いだためか用いた木材には統一性がなく、杉や檜、松、 欅、つつじ、梨など柱の太さも異なり、歪んだ木もそのまま用いられているのがかえって趣を醸すのに奏功しています。
    蔵王堂を幾度も復興した先人たちは、例えどんな立派なものを造ったとしても、それは吉野の大自然の中ではちっぽけなものに過ぎないことを悟っていたのでしょう。故に、華美に走らず、自然のなすがままに大自然の威力をありのままに表現したのではないでしょうか。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />白州正子著『かくれ里(葛城から吉野へ)』には次のような記述があります。<br />「すると、にわかに天地が震動して、恐ろしい荒神が大地から湧出した。『大忿怒大勇猛』の蔵王権現で、これこそ彼が長年求めた新しい神であった。それは自然の猛威を秘めた山岳の表徴であるとともに、古代の山の神の生まれ変わった姿でもあった」。<br />

    金峯山寺 蔵王堂
    白州正子著『かくれ里(葛城から吉野へ)』には次のような記述があります。
    「すると、にわかに天地が震動して、恐ろしい荒神が大地から湧出した。『大忿怒大勇猛』の蔵王権現で、これこそ彼が長年求めた新しい神であった。それは自然の猛威を秘めた山岳の表徴であるとともに、古代の山の神の生まれ変わった姿でもあった」。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />4月1日~5月8日まで特別に御開帳される、重要文化財「秘仏本尊金剛蔵王権現」も見逃せません。<br />金峯山寺蔵王堂の本尊 蔵王権現立像は秘仏のため、巨大な厨子の内に鎮まっています。中尊は7.28m、向かって右が6.15m、 左が5.92mの巨大な仏像です。厨子が閉じられていても、蔵王堂から遠く見渡される大峰山系の奥までその霊気が響き渡るかのような迫力です。<br />3体の仏像の衣は強風に吹き上げられ、怒りに赤い髪を逆立たせ、燃え盛る紅蓮の炎を背負っています。高く振り上げた足の親指を力強く反らせ、見えない何かに果敢に立ち向かう一瞬を切り取っています。牙を鼻袋まで伸ばし、金色の眼を煌々と光らせ、真っ赤な口内から気炎を吐く3体の異形は、忿怒の形相を呈した、ひたすら厳しい表情の仏です。<br />この写真は、JR東海HPから引用させていただきました。<br />http://nara.jr-central.co.jp/campaign/kimpsenji/special/

    金峯山寺 蔵王堂
    4月1日~5月8日まで特別に御開帳される、重要文化財「秘仏本尊金剛蔵王権現」も見逃せません。
    金峯山寺蔵王堂の本尊 蔵王権現立像は秘仏のため、巨大な厨子の内に鎮まっています。中尊は7.28m、向かって右が6.15m、 左が5.92mの巨大な仏像です。厨子が閉じられていても、蔵王堂から遠く見渡される大峰山系の奥までその霊気が響き渡るかのような迫力です。
    3体の仏像の衣は強風に吹き上げられ、怒りに赤い髪を逆立たせ、燃え盛る紅蓮の炎を背負っています。高く振り上げた足の親指を力強く反らせ、見えない何かに果敢に立ち向かう一瞬を切り取っています。牙を鼻袋まで伸ばし、金色の眼を煌々と光らせ、真っ赤な口内から気炎を吐く3体の異形は、忿怒の形相を呈した、ひたすら厳しい表情の仏です。
    この写真は、JR東海HPから引用させていただきました。
    http://nara.jr-central.co.jp/campaign/kimpsenji/special/

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />多くの仏像はインド・中国を経て届けられた『経典』に記され、その姿も『経典』に基づいて形造られています。しかしこの蔵王権現は日本独自の仏であり、その形も日本で編み出されたユニークなものです。<br />役小角は大峰山で千日の修行をし、衆生を救う仏の出現を祈りました。すると初めに釈迦如来が現れました。しかし小角は、その姿では乱世の猛々しい人々に 響かないと訴えました。次に現れたのは千手観音でした。観音は様々な姿に身を変えて救ってくださるが、やはり乱世に相応しくないと言いました。次に現れた 弥勒菩薩にさえ首を縦に振らず、「世に満ちた悪を打ち払うような強い仏を!」と望んだ刹那、地が揺れ、雷鳴が轟き、岩を割って現れたのが忿怒の形相をした蔵王権現でした。ただ優しいだけの仏ではなく、魔を叩き割る怖い仏。そんな仏を求めたのでした。<br />この写真は、奈良新聞HPから引用させていただきました。<br />http://www.nara-np.co.jp/20091218110525.html

    金峯山寺 蔵王堂
    多くの仏像はインド・中国を経て届けられた『経典』に記され、その姿も『経典』に基づいて形造られています。しかしこの蔵王権現は日本独自の仏であり、その形も日本で編み出されたユニークなものです。
    役小角は大峰山で千日の修行をし、衆生を救う仏の出現を祈りました。すると初めに釈迦如来が現れました。しかし小角は、その姿では乱世の猛々しい人々に 響かないと訴えました。次に現れたのは千手観音でした。観音は様々な姿に身を変えて救ってくださるが、やはり乱世に相応しくないと言いました。次に現れた 弥勒菩薩にさえ首を縦に振らず、「世に満ちた悪を打ち払うような強い仏を!」と望んだ刹那、地が揺れ、雷鳴が轟き、岩を割って現れたのが忿怒の形相をした蔵王権現でした。ただ優しいだけの仏ではなく、魔を叩き割る怖い仏。そんな仏を求めたのでした。
    この写真は、奈良新聞HPから引用させていただきました。
    http://www.nara-np.co.jp/20091218110525.html

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />実はこの3体の本尊の正体は、先に出現した釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の別の姿です。蔵王権現は、乱世に相応しい仮の姿であり、本来は柔和で優しい仏なのです。釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩は、それぞれ過去、現在、未来を表します。釈迦は、紀元前6~5世紀インドに生まれ仏教を開いたため、「過去」を表します。観音菩薩は、「音を観る」すなわち衆生の声を聞く仏として現世の願いを叶えてくれるため、「現在」を表します。弥勒菩薩は、釈迦の滅後56億7千年後にこの世に現れて衆生を救うため、「未来」仏とされます。<br />金剛蔵王権現の「金剛」とは、何よりも固くて壊れることのないことを意味します。右手に持つ三鈷杵は、密教の法具のひとつで、魔を打ち砕きます。外の魔は勿論、心の中の魔にも容赦しません。中尊の左手は握り拳ですが、多くの蔵王権現像の左手は2本の指を伸ばした「刀印」を結び、情欲や煩悩を断ち切る意があります。高く上げられた足は、 魔を踏み砕くためです。そして蔵王権現の身体の青は、蔵王権現の大慈悲を表しています。中央の蔵王権現の衣には龍の姿が描かれています。伝承では蔵王権現が山頂の岩を割って出現し、初めに降り立った場所は、山上ヶ岳の大峯山寺の内々陣「龍の口」と言われています。それは龍穴という龍の棲みかと考えられ、そこから生まれた蔵王権現は水と豊穣の神「龍神」と言われています。吉野から山上ヶ岳に至る金峯山が龍そのものと言われることと深い係わりがあるようです。<br />この写真は、写真家 南川三治郎氏のブログから引用させていただきました。<br /> http://sanjirou.exblog.jp/7387365/

    金峯山寺 蔵王堂
    実はこの3体の本尊の正体は、先に出現した釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の別の姿です。蔵王権現は、乱世に相応しい仮の姿であり、本来は柔和で優しい仏なのです。釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩は、それぞれ過去、現在、未来を表します。釈迦は、紀元前6~5世紀インドに生まれ仏教を開いたため、「過去」を表します。観音菩薩は、「音を観る」すなわち衆生の声を聞く仏として現世の願いを叶えてくれるため、「現在」を表します。弥勒菩薩は、釈迦の滅後56億7千年後にこの世に現れて衆生を救うため、「未来」仏とされます。
    金剛蔵王権現の「金剛」とは、何よりも固くて壊れることのないことを意味します。右手に持つ三鈷杵は、密教の法具のひとつで、魔を打ち砕きます。外の魔は勿論、心の中の魔にも容赦しません。中尊の左手は握り拳ですが、多くの蔵王権現像の左手は2本の指を伸ばした「刀印」を結び、情欲や煩悩を断ち切る意があります。高く上げられた足は、 魔を踏み砕くためです。 そして蔵王権現の身体の青は、蔵王権現の大慈悲を表しています。中央の蔵王権現の衣には龍の姿が描かれています。伝承では蔵王権現が山頂の岩を割って出現し、初めに降り立った場所は、山上ヶ岳の大峯山寺の内々陣「龍の口」と言われています。それは龍穴という龍の棲みかと考えられ、そこから生まれた蔵王権現は水と豊穣の神「龍神」と言われています。吉野から山上ヶ岳に至る金峯山が龍そのものと言われることと深い係わりがあるようです。
    この写真は、写真家 南川三治郎氏のブログから引用させていただきました。
    http://sanjirou.exblog.jp/7387365/

  • 金峯山寺 大塔宮陣地跡<br />南側入口の一角にある石柱に囲まれた「四本桜」は、4本それぞれ品種が異なります。1333(元弘3)年に大塔宮護良親王(後醍醐天皇の第2皇子)が6万余騎の北条幕府軍に攻められ、吉野山に立て籠った時、ここを本陣としました。吉野城の落城に際し、現在四本桜のある前庭が最後の酒宴を催したと伝わる所です。後世ここに桜を植え、大塔宮御陣地として記念されています。<br />また、南側から蔵王堂境内への石段を上がり切った左の石柱には、「村上義光(よしてる)公忠死之所」と刻まれています。かつてここには「二天門」が建てられていました。<br />1333(元弘3)年3月3日、酒宴も終わり、いざ決戦という時、大塔宮の家来 村上彦四郎義光が宮の大塔鎧兜を身に付け、宮の身代わりになって二天門へ駆け上がり、腹を一文字にかき切って壮烈な最期を遂げた場所です。尚、大塔宮はその隙に勝手神社横の谷を抜け、無事高野山へ落ち延びることができたようです。<br />村上義光の墓は不動坂を登った丘の上にあり、人違いとして捨て置かれた首を里人が丁重に葬ったと伝えられています。

    金峯山寺 大塔宮陣地跡
    南側入口の一角にある石柱に囲まれた「四本桜」は、4本それぞれ品種が異なります。1333(元弘3)年に大塔宮護良親王(後醍醐天皇の第2皇子)が6万余騎の北条幕府軍に攻められ、吉野山に立て籠った時、ここを本陣としました。吉野城の落城に際し、現在四本桜のある前庭が最後の酒宴を催したと伝わる所です。後世ここに桜を植え、大塔宮御陣地として記念されています。
    また、南側から蔵王堂境内への石段を上がり切った左の石柱には、「村上義光(よしてる)公忠死之所」と刻まれています。かつてここには「二天門」が建てられていました。
    1333(元弘3)年3月3日、酒宴も終わり、いざ決戦という時、大塔宮の家来 村上彦四郎義光が宮の大塔鎧兜を身に付け、宮の身代わりになって二天門へ駆け上がり、腹を一文字にかき切って壮烈な最期を遂げた場所です。尚、大塔宮はその隙に勝手神社横の谷を抜け、無事高野山へ落ち延びることができたようです。
    村上義光の墓は不動坂を登った丘の上にあり、人違いとして捨て置かれた首を里人が丁重に葬ったと伝えられています。

  • 金峯山寺 大塔宮陣地跡 銅燈籠<br />柵の中にある青銅の灯篭は、1471(文明3)年の銘が入っており、妙久禅尼が寄進したもので、室町時代の秀作として重要文化財に指定されています。<br />保存状態も良く、意匠も凝っているように見受けられます。<br /><br />

    金峯山寺 大塔宮陣地跡 銅燈籠
    柵の中にある青銅の灯篭は、1471(文明3)年の銘が入っており、妙久禅尼が寄進したもので、室町時代の秀作として重要文化財に指定されています。
    保存状態も良く、意匠も凝っているように見受けられます。

  • 金峯山寺 鐘楼堂<br />蔵王堂すぐ左手にあるのが鐘楼堂です。<br />毎年、大晦日にはここで除夜の鐘を撞くことができます。<br />海外TV局の撮影なのでしょうか?

    金峯山寺 鐘楼堂
    蔵王堂すぐ左手にあるのが鐘楼堂です。
    毎年、大晦日にはここで除夜の鐘を撞くことができます。
    海外TV局の撮影なのでしょうか?

  • 吉野朝宮跡(実城寺)<br />蔵王堂の境内から西の方を眺めると、桜の木の間に後醍醐天皇(南朝天皇)が御所とした吉野朝宮跡の塔が見られます。<br />足利尊氏に幽門されていた京都 花山院を抜け出して吉野へ入った後醍醐天皇は、初めは吉水院を朝宮とするも、そこが手狭になったため、蔵王堂の西下にあった金峯山寺の塔頭 実城寺を「金輪王寺」と改名して朝宮と定めました。往時はこの辺りに20近くの寺院が存在し、その中で実城寺が一番広かっため、朝宮に選ばれたようです。<br />その3年後、後醍醐天皇はこの朝宮で後村上天皇に譲位した直後に病で生涯を閉じています。1348年には高師直率いる室町幕府軍が吉野侵入に成功して行宮を焼き払い、後村上天皇は賀名生朝宮に移り、その後、南朝3代の歴史が続きますが、最後の4代後亀山天皇が1393年に北朝を擁護する 足利義満の講和を受け入れ、57年間続いた南北朝の分裂が終焉しました。<br />『新葉集』後醍醐天皇「ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに」。<br />因みに後醍醐天皇が命名した「金輪王寺」なる寺号は、徳川家康に命じられた天海によって没収され、金輪王寺を元の実城寺に戻し、金輪王寺を下野国の日光へ移して輪王寺として吉野山をその管理下に置きました。また、実城寺は、明治時代の廃仏毀釈運動により廃寺となっています。現在は南朝妙法殿が建ち皇居跡公園として整備されています。

    吉野朝宮跡(実城寺)
    蔵王堂の境内から西の方を眺めると、桜の木の間に後醍醐天皇(南朝天皇)が御所とした吉野朝宮跡の塔が見られます。
    足利尊氏に幽門されていた京都 花山院を抜け出して吉野へ入った後醍醐天皇は、初めは吉水院を朝宮とするも、そこが手狭になったため、蔵王堂の西下にあった金峯山寺の塔頭 実城寺を「金輪王寺」と改名して朝宮と定めました。往時はこの辺りに20近くの寺院が存在し、その中で実城寺が一番広かっため、朝宮に選ばれたようです。
    その3年後、後醍醐天皇はこの朝宮で後村上天皇に譲位した直後に病で生涯を閉じています。1348年には高師直率いる室町幕府軍が吉野侵入に成功して行宮を焼き払い、後村上天皇は賀名生朝宮に移り、その後、南朝3代の歴史が続きますが、最後の4代後亀山天皇が1393年に北朝を擁護する 足利義満の講和を受け入れ、57年間続いた南北朝の分裂が終焉しました。
    『新葉集』後醍醐天皇「ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに」。
    因みに後醍醐天皇が命名した「金輪王寺」なる寺号は、徳川家康に命じられた天海によって没収され、金輪王寺を元の実城寺に戻し、金輪王寺を下野国の日光へ移して輪王寺として吉野山をその管理下に置きました。また、実城寺は、明治時代の廃仏毀釈運動により廃寺となっています。現在は南朝妙法殿が建ち皇居跡公園として整備されています。

  • 吉野朝宮跡 妙法殿八角三重塔<br />南朝妙法殿は、南朝四帝と南北朝時代以後の戦乱によって亡くなった多くの霊を祀るため、1957(昭和32)年に創建されました。桟瓦葺、一辺3.32mあります。<br />元々は実城寺の本尊であった木造釈迦如来座像(重文)と普建、文殊の両菩薩を主尊としています。この釈迦如来像は、数多い金峰山寺の仏たちの中でも最古の仏像であり、檜の一木から彫られているそうです。<br />南朝妙法殿は、蔵王堂に向かって左端から見下ろすようなアングルでの撮影ができます。歴史はともかく、桜に包まれた八角形の屋根が浮世離れしており、不思議な感覚に捉われます。

    吉野朝宮跡 妙法殿八角三重塔
    南朝妙法殿は、南朝四帝と南北朝時代以後の戦乱によって亡くなった多くの霊を祀るため、1957(昭和32)年に創建されました。桟瓦葺、一辺3.32mあります。
    元々は実城寺の本尊であった木造釈迦如来座像(重文)と普建、文殊の両菩薩を主尊としています。この釈迦如来像は、数多い金峰山寺の仏たちの中でも最古の仏像であり、檜の一木から彫られているそうです。
    南朝妙法殿は、蔵王堂に向かって左端から見下ろすようなアングルでの撮影ができます。歴史はともかく、桜に包まれた八角形の屋根が浮世離れしており、不思議な感覚に捉われます。

  • 後醍醐天皇導之稲荷社<br />金峯山寺の二天門跡(南側)の階段を下りた直ぐ左横に鎮座しています。<br />道に迷われた後醍醐天皇を吉野まで無事に導いた稲荷を勧請したのが、この稲荷と伝わります。

    後醍醐天皇導之稲荷社
    金峯山寺の二天門跡(南側)の階段を下りた直ぐ左横に鎮座しています。
    道に迷われた後醍醐天皇を吉野まで無事に導いた稲荷を勧請したのが、この稲荷と伝わります。

  • 後醍醐天皇導之稲荷社<br />『吉野拾遺』には、次のような記述があります。<br />北朝方との対立が激しくなり、足利尊氏により京に幽閉されていた後醍醐天皇は、密かに京都の花山院を脱出し、延元元年に吉野山の行宮に入られました。途中夜道で迷われた時、とある稲荷社の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり 我にかさなむ三つのともし火」とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れ、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せた。<br /><br />この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥②中千本でお届けいたします。

    後醍醐天皇導之稲荷社
    『吉野拾遺』には、次のような記述があります。
    北朝方との対立が激しくなり、足利尊氏により京に幽閉されていた後醍醐天皇は、密かに京都の花山院を脱出し、延元元年に吉野山の行宮に入られました。途中夜道で迷われた時、とある稲荷社の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり 我にかさなむ三つのともし火」とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れ、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せた。

    この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥②中千本でお届けいたします。

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