吉野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
上千本エリアは、中千本よりも2~3日程遅れて見頃を迎え、急勾配の難所が増えますが、高台から桜の絶景を俯瞰できるスポットです。中でも標高600mの花矢倉展望台からの眺望は吉野山屈指の眺めと称され、下~中千本の桜群や蔵王堂が眼下に望めます。特に花矢倉展望台周辺の「滝桜」と呼ばれる桜群は、滝のごとく花がたぎり落ちるように淡紅色に煙る姿が美しく、吉野桜の絶景のひとつに数えられています。まるで桜色の波間を船上から見渡していると錯覚するかのようです。また、遠方には、金剛山や二上山、葛城山などの雄大なパノラマも併せて愉しむことができます。<br />更には、上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」の古色蒼然とした社殿は、箱庭を彷彿とさせる不思議と心鎮まる素敵な空間でした。<br />http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html<br />散策マップ<br />http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf<br />http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

芳葩爛漫 吉野山逍遥③上千本

650いいね!

2017/04/14 - 2017/04/14

4位(同エリア842件中)

0

32

montsaintmichel

montsaintmichelさん

上千本エリアは、中千本よりも2~3日程遅れて見頃を迎え、急勾配の難所が増えますが、高台から桜の絶景を俯瞰できるスポットです。中でも標高600mの花矢倉展望台からの眺望は吉野山屈指の眺めと称され、下~中千本の桜群や蔵王堂が眼下に望めます。特に花矢倉展望台周辺の「滝桜」と呼ばれる桜群は、滝のごとく花がたぎり落ちるように淡紅色に煙る姿が美しく、吉野桜の絶景のひとつに数えられています。まるで桜色の波間を船上から見渡していると錯覚するかのようです。また、遠方には、金剛山や二上山、葛城山などの雄大なパノラマも併せて愉しむことができます。
更には、上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」の古色蒼然とした社殿は、箱庭を彷彿とさせる不思議と心鎮まる素敵な空間でした。
http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html
散策マップ
http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf
http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
私鉄
  • 中千本と別れを告げるといきなり深山幽谷の世界に引き込まれます。

    中千本と別れを告げるといきなり深山幽谷の世界に引き込まれます。

  • 純白の八重桜が蒼空に映えます。

    純白の八重桜が蒼空に映えます。

  • 途中から林道を登っていきます。<br />道路脇にはびっしりと桜木が植えられており、見通しが利く場所は限られています。桜も中千本の満開から、徐々に咲き始めに遷移していきます。

    途中から林道を登っていきます。
    道路脇にはびっしりと桜木が植えられており、見通しが利く場所は限られています。桜も中千本の満開から、徐々に咲き始めに遷移していきます。

  • このような滝桜の一部を垣間見ながら、ひたすら寡黙に登って行きます。<br />奥千本から下ってくる車の数珠繋がりに閉口しながら、要所で写真を撮りながら休憩を兼ねます。<br />桜林の右上部には、中千本にある如意輪寺の多宝塔がちらりと見えています。

    このような滝桜の一部を垣間見ながら、ひたすら寡黙に登って行きます。
    奥千本から下ってくる車の数珠繋がりに閉口しながら、要所で写真を撮りながら休憩を兼ねます。
    桜林の右上部には、中千本にある如意輪寺の多宝塔がちらりと見えています。

  • 花矢倉展望台の手前辺りから、このように広く見通しが利く場所が所々に現れます。<br /><br />下千本から中千本、上千本と吉野山を登り詰め、視界の開けた所から振り返ると、遥か彼方にたおやかに建つ蔵王堂の姿が見下ろせます。どっしりとしたその佇まいは我が子の旅立ちを優しく見送る母親の姿に重なり、その姿を目にするとホットした気分になります。<br />修験者たちが遥かなる大峰山系の奥深くに分け入って勤めを終え、再び吉野の地に足を踏み入れ、樹海の彼方に蔵王堂の姿を捉えた刹那、どんな思いがこみ上げてきたことでしょう。「おかえりやす。首尾よう生まれ変われたか?」。そんな囁きが木の葉のざわめきの中から洩れ聞こえてきたかもしれません。

    花矢倉展望台の手前辺りから、このように広く見通しが利く場所が所々に現れます。

    下千本から中千本、上千本と吉野山を登り詰め、視界の開けた所から振り返ると、遥か彼方にたおやかに建つ蔵王堂の姿が見下ろせます。どっしりとしたその佇まいは我が子の旅立ちを優しく見送る母親の姿に重なり、その姿を目にするとホットした気分になります。
    修験者たちが遥かなる大峰山系の奥深くに分け入って勤めを終え、再び吉野の地に足を踏み入れ、樹海の彼方に蔵王堂の姿を捉えた刹那、どんな思いがこみ上げてきたことでしょう。「おかえりやす。首尾よう生まれ変われたか?」。そんな囁きが木の葉のざわめきの中から洩れ聞こえてきたかもしれません。

  • 蔵王堂の周辺をズームアップしてみます。<br />中央右端にある黒っぽいスペースが吉水神社の「一目千本」になります。<br />あそこから滝桜を眺めていたことになります。

    蔵王堂の周辺をズームアップしてみます。
    中央右端にある黒っぽいスペースが吉水神社の「一目千本」になります。
    あそこから滝桜を眺めていたことになります。

  • 旧花矢倉展望台<br />吉野水分神社がある子守の集落への登り坂を獅子尾坂といい、登り詰めた所にある右側の小さな丘が花矢倉です。吉野山の代表的景観として、観光パンフレットなどで使われるのがここからの眺めです。吉野山屈指の展望台であり、吉野山の町並みを眼下に、龍門山塊や葛城、金剛の山並みが大パノラマのように望めます。桜のシーズンには、蔵王堂はじめ多くの寺院や宿坊が淡い桜色の中に花霞む景色が俯瞰できます。<br />また、義経伝説を基に源氏と平氏の人間模様を描いた人気演目歌舞伎『義経千本桜』の舞台ともなり、義経の奥州以来の忠臣 佐藤忠信が追い迫る吉野の僧兵 横川覚範らに矢を雨のように浴びせかけた場所でもあります。<br />かつては展望台になっていたようですが、老朽化のために安全に配慮して現在は立ち入ることができません。<br />

    旧花矢倉展望台
    吉野水分神社がある子守の集落への登り坂を獅子尾坂といい、登り詰めた所にある右側の小さな丘が花矢倉です。吉野山の代表的景観として、観光パンフレットなどで使われるのがここからの眺めです。吉野山屈指の展望台であり、吉野山の町並みを眼下に、龍門山塊や葛城、金剛の山並みが大パノラマのように望めます。桜のシーズンには、蔵王堂はじめ多くの寺院や宿坊が淡い桜色の中に花霞む景色が俯瞰できます。
    また、義経伝説を基に源氏と平氏の人間模様を描いた人気演目歌舞伎『義経千本桜』の舞台ともなり、義経の奥州以来の忠臣 佐藤忠信が追い迫る吉野の僧兵 横川覚範らに矢を雨のように浴びせかけた場所でもあります。
    かつては展望台になっていたようですが、老朽化のために安全に配慮して現在は立ち入ることができません。

  • 旧花矢倉展望台花矢倉<br />歌舞伎『義経千本桜』の舞台として有名な花矢倉です。史実では季節は冬ですが、物語では春に変えられています。吉野には桜の季節が似合うからでしょうね!<br />源義経の身代りとなって主従を落ち延びさせるため、佐藤四郎兵衛忠信が一人でここに踏み留まり、追いすがる敵を防いだ古戦場です。<br />義経の家来で弓の名手だった忠信が、追手を次から次へと矢を放って防いだ場所です。妙覚院の豪僧 横川覚範は世を偲ぶ仮の姿であり、実は彼も源平の戦いで入水した平教経だったというのが『義経千本桜』の落ちです。<br />能『忠信』にも、忠信の防ぎ矢で義経が山を落ち延びるという場面があります。この花矢倉から、下方にいた追手の覚範に向かって矢を雨霰と浴びせかけ、深い雪中で血刀をふるって戦い、首を取りました。<br />尚、忠信は奥州信夫(福島市)の庄司 佐藤元治の子で、義経が金売吉次に伴われて平泉の藤原秀衡の元に身を寄せた際、兄の継信と共に義経の家来になった侍で、弁慶と並んで義経の片腕として大いに活躍し、ここから京都へ落ち延びました。しかしその後、かつて主従で暮らした堀川館跡にて追手に囲まれ、凄絶な自害を遂げています。屋島で九郎をかばって死んだ兄の継信同様、忠信もまた奥州の地を再び踏むことなく主のために若い命を散らしたのでした。

    旧花矢倉展望台花矢倉
    歌舞伎『義経千本桜』の舞台として有名な花矢倉です。史実では季節は冬ですが、物語では春に変えられています。吉野には桜の季節が似合うからでしょうね!
    源義経の身代りとなって主従を落ち延びさせるため、佐藤四郎兵衛忠信が一人でここに踏み留まり、追いすがる敵を防いだ古戦場です。
    義経の家来で弓の名手だった忠信が、追手を次から次へと矢を放って防いだ場所です。妙覚院の豪僧 横川覚範は世を偲ぶ仮の姿であり、実は彼も源平の戦いで入水した平教経だったというのが『義経千本桜』の落ちです。
    能『忠信』にも、忠信の防ぎ矢で義経が山を落ち延びるという場面があります。この花矢倉から、下方にいた追手の覚範に向かって矢を雨霰と浴びせかけ、深い雪中で血刀をふるって戦い、首を取りました。
    尚、忠信は奥州信夫(福島市)の庄司 佐藤元治の子で、義経が金売吉次に伴われて平泉の藤原秀衡の元に身を寄せた際、兄の継信と共に義経の家来になった侍で、弁慶と並んで義経の片腕として大いに活躍し、ここから京都へ落ち延びました。しかしその後、かつて主従で暮らした堀川館跡にて追手に囲まれ、凄絶な自害を遂げています。屋島で九郎をかばって死んだ兄の継信同様、忠信もまた奥州の地を再び踏むことなく主のために若い命を散らしたのでした。

  • 花矢倉展望台<br />旧展望台をやり過ごすと、右手に花矢倉展望台への道標が現れます。その先の広いスペースが新しい展望台です。<br />旧花矢倉展望台の脇から階段で下にある展望スペースに降りることができますが、景観は花矢倉展望台の方が優れています。<br />ここが3つ目の絶景ポイントです。ここからの眺めは中千本と下千本を180度のパノラマで俯瞰でき、薄紅色に染め上げた山桜に囲まれた花霞の中に蔵王堂がたおやかに鎮座する姿は格別です。この辺りの桜を「雲井の桜」と言い、遙か下に蔵王堂が望めます。<br />上千本エリアの開花が遅かったため、手前の辺りが寂しい感じになっているのが残念です。

    花矢倉展望台
    旧展望台をやり過ごすと、右手に花矢倉展望台への道標が現れます。その先の広いスペースが新しい展望台です。
    旧花矢倉展望台の脇から階段で下にある展望スペースに降りることができますが、景観は花矢倉展望台の方が優れています。
    ここが3つ目の絶景ポイントです。ここからの眺めは中千本と下千本を180度のパノラマで俯瞰でき、薄紅色に染め上げた山桜に囲まれた花霞の中に蔵王堂がたおやかに鎮座する姿は格別です。この辺りの桜を「雲井の桜」と言い、遙か下に蔵王堂が望めます。
    上千本エリアの開花が遅かったため、手前の辺りが寂しい感じになっているのが残念です。

  • 花矢倉展望台<br />蔵王堂を基点に尾根伝いに宿坊などが桜花に包まれながらひしめき合っています。

    花矢倉展望台
    蔵王堂を基点に尾根伝いに宿坊などが桜花に包まれながらひしめき合っています。

  • 吉野水分(みくまり)神社<br />上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」です。<br />青根ヶ峰は吉野を潤す水系の分水嶺で、その山容を万葉人は「神さぶる岩根こごしみ芳野の、水分山を見ればかなしも」と詠みました。この山からは東西南北に音無川、秋野川、丹生川、象川(喜佐川)が流れ出し、その源流の「水分=水配り」の神として建立された神社です。水の配分を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とし、高皇産霊神、玉依姫命、他全7柱を合祀し、延喜式神名帳にも名を連ねた古社であり、大和でも有数の水分社のひとつです。<br />創建は不詳ですが、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)には「芳野水分峰神に馬を奉り祈雨した」と記されていることから、飛鳥時代には既に存在したとみられています。元々は、吉野町、黒滝町、川上村の境に位置する青根ヶ峰に鎮座していましたが、806(大同元)年頃に現在地へ遷座されたと考えられています。

    吉野水分(みくまり)神社
    上千本に鎮まる静寂境「吉野水分神社」です。
    青根ヶ峰は吉野を潤す水系の分水嶺で、その山容を万葉人は「神さぶる岩根こごしみ芳野の、水分山を見ればかなしも」と詠みました。この山からは東西南北に音無川、秋野川、丹生川、象川(喜佐川)が流れ出し、その源流の「水分=水配り」の神として建立された神社です。水の配分を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とし、高皇産霊神、玉依姫命、他全7柱を合祀し、延喜式神名帳にも名を連ねた古社であり、大和でも有数の水分社のひとつです。
    創建は不詳ですが、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)には「芳野水分峰神に馬を奉り祈雨した」と記されていることから、飛鳥時代には既に存在したとみられています。元々は、吉野町、黒滝町、川上村の境に位置する青根ヶ峰に鎮座していましたが、806(大同元)年頃に現在地へ遷座されたと考えられています。

  • 吉野水分神社<br />鳥居と楼門の鮮やかな丹塗りの朱色と古色蒼然とした社殿は見事なコントラストになり、日本人の琴線に触れるものがあります。<br />

    吉野水分神社
    鳥居と楼門の鮮やかな丹塗りの朱色と古色蒼然とした社殿は見事なコントラストになり、日本人の琴線に触れるものがあります。

  • 吉野水分神社 楼門<br />蟇股には龍の彫刻があります。

    吉野水分神社 楼門
    蟇股には龍の彫刻があります。

  • 吉野水分神社 楼門<br />境内側は山鳥でしょうか?<br />頭が小さいので、一見、頭がなくなったのかと思うほどです。

    吉野水分神社 楼門
    境内側は山鳥でしょうか?
    頭が小さいので、一見、頭がなくなったのかと思うほどです。

  • 吉野水分神社 楼門<br />楼門の右脇に立つ、由来不明のフクロウも見応えがあります。杉の年輪を巧みに活かしたアーティスティックな作品です。<br />神の遣いでもあるフクロウは、知恵の象徴だったりします。また、「フクロウ=フクウルオウ=福潤う」とも!<br />

    吉野水分神社 楼門
    楼門の右脇に立つ、由来不明のフクロウも見応えがあります。杉の年輪を巧みに活かしたアーティスティックな作品です。
    神の遣いでもあるフクロウは、知恵の象徴だったりします。また、「フクロウ=フクウルオウ=福潤う」とも!

  • 吉野水分神社 楼門<br />赤錆びた湯釜が楼門の右脇、フクロウの彫刻の奥に無造作に置かれています。これは「往昔御湯」と言い、禊祓に使用したもので、秀吉が慶長9年に寄贈したもののひとつです。

    吉野水分神社 楼門
    赤錆びた湯釜が楼門の右脇、フクロウの彫刻の奥に無造作に置かれています。これは「往昔御湯」と言い、禊祓に使用したもので、秀吉が慶長9年に寄贈したもののひとつです。

  • 吉野水分神社 <br />青みがかった佇まいは、万葉人が「神さぶる」と形容した趣を湛えています。<br />「神さぶる岩根こごしみ吉野の 水分山を見れば悲しも」(作者未詳)。<br />楼門を潜ると、中庭を囲むように左手に拝殿、正面に幣殿、右手に本殿という珍しい配置をしています。ご神体の吉野山を背にして本殿を建てるには、土地が狭いためにこの配置が自然だそうです。<br />俗に「子守の社」と呼ばれ、吉野八社明神のひとつで子守明神とも言われています。元々は雨乞いの神でしたが、平安時代中期には「水分(みくまり)」が「身籠り(みこもり)」、「御子守り」と訛り、子守明神と呼ばれて子授けの神としても信仰を集め、『枕草子』にもその名が記されています。<br />豊臣秀吉の子 秀頼や本居宣長は、ここに子授けを祈願し、そのご利益で生まれたと伝わっています。<br />また、宣長も何度も参詣し、数首の歌を残しています。自身を水分神社の申し子と称し、感謝の意味を込めてこの地を訪れた際の紀行文が『菅笠日記』です。「みくまりの神誓いのなかりせば これのあが身は生まれこめやも 」、「ちちははの昔想へば袖ぬれね みくまり山に雨はふらねど」と詠んでいます。<br />現在も健康な子供の妊娠を願う「子授けの神」としても信仰を集めており、カップルや夫婦の参拝が絶えない社です。

    吉野水分神社
    青みがかった佇まいは、万葉人が「神さぶる」と形容した趣を湛えています。
    「神さぶる岩根こごしみ吉野の 水分山を見れば悲しも」(作者未詳)。
    楼門を潜ると、中庭を囲むように左手に拝殿、正面に幣殿、右手に本殿という珍しい配置をしています。ご神体の吉野山を背にして本殿を建てるには、土地が狭いためにこの配置が自然だそうです。
    俗に「子守の社」と呼ばれ、吉野八社明神のひとつで子守明神とも言われています。元々は雨乞いの神でしたが、平安時代中期には「水分(みくまり)」が「身籠り(みこもり)」、「御子守り」と訛り、子守明神と呼ばれて子授けの神としても信仰を集め、『枕草子』にもその名が記されています。
    豊臣秀吉の子 秀頼や本居宣長は、ここに子授けを祈願し、そのご利益で生まれたと伝わっています。
    また、宣長も何度も参詣し、数首の歌を残しています。自身を水分神社の申し子と称し、感謝の意味を込めてこの地を訪れた際の紀行文が『菅笠日記』です。「みくまりの神誓いのなかりせば これのあが身は生まれこめやも 」、「ちちははの昔想へば袖ぬれね みくまり山に雨はふらねど」と詠んでいます。
    現在も健康な子供の妊娠を願う「子授けの神」としても信仰を集めており、カップルや夫婦の参拝が絶えない社です。

  • 吉野水分神社 本殿(重文)<br />現在の本殿は、1605(慶長10)年に秀頼が再建した桃山時代有数の美しい神社建築です。『延喜式』には大社に列する格式として、『新・平家物語』には子守ノ宮として記されています。<br />秀吉が1594(文禄3)年に吉野で花見を催した折、ここに参詣して秀頼を授かり、そのお礼として秀吉が1598(慶長3)年に再建を竣工し、その後秀頼が秀吉の遺志を継いで建部内匠頭光重を奉行として完成させたものと伝えられています。<br />流麗な本殿の造りは、中央が一間社春日造、左右の2殿は三間社流造で三殿が流造の形式をとり、正面に千鳥破風を3つ並べた三社一棟造の珍しい様式です。ですから、現在も社殿毎に別々の茅負、木負、軒付を持たせています。組物、虹梁、長押などには極彩色が施され、蟇股、木鼻などに桃山時代の特徴をよく残しています。

    吉野水分神社 本殿(重文)
    現在の本殿は、1605(慶長10)年に秀頼が再建した桃山時代有数の美しい神社建築です。『延喜式』には大社に列する格式として、『新・平家物語』には子守ノ宮として記されています。
    秀吉が1594(文禄3)年に吉野で花見を催した折、ここに参詣して秀頼を授かり、そのお礼として秀吉が1598(慶長3)年に再建を竣工し、その後秀頼が秀吉の遺志を継いで建部内匠頭光重を奉行として完成させたものと伝えられています。
    流麗な本殿の造りは、中央が一間社春日造、左右の2殿は三間社流造で三殿が流造の形式をとり、正面に千鳥破風を3つ並べた三社一棟造の珍しい様式です。ですから、現在も社殿毎に別々の茅負、木負、軒付を持たせています。組物、虹梁、長押などには極彩色が施され、蟇股、木鼻などに桃山時代の特徴をよく残しています。

  • 吉野水分神社 本殿<br />境内は広くはありませんが、整然とまとまっており、「箱庭風」と書かれていた説明は言い得て妙です。広々とした感じの神社が多い中、ここは不思議と心鎮まる空間が造られ、時が止まっているかのようです。<br />右殿:天津彦火瓊瓊杵命・玉依姫命・天萬栲幡千幡比メ命<br />正殿:天之水分大神<br />左殿:高皇産霊神・少名彦神・御子神

    吉野水分神社 本殿
    境内は広くはありませんが、整然とまとまっており、「箱庭風」と書かれていた説明は言い得て妙です。広々とした感じの神社が多い中、ここは不思議と心鎮まる空間が造られ、時が止まっているかのようです。
    右殿:天津彦火瓊瓊杵命・玉依姫命・天萬栲幡千幡比メ命
    正殿:天之水分大神
    左殿:高皇産霊神・少名彦神・御子神

  • 吉野水分神社 本殿<br />七神像のうち本殿内に安置されている玉依姫命坐像(国宝・非公開)は特に知られています。艶やかな十二単衣を纏った鎌倉時代の神像彫刻で、高貴な美しさを放っているそうです。<br />2座の女神を左右に従えていることから「子守3女神」とも呼ばれ、玉依姫には「建長三年(1251年)」の胎内墨書銘があります。檜寄木造、極彩色、左右に流れる衣文、あるかなきかの微笑をふくむ慈愛柔かな容貌だそうです。像高83cmは、日本人女性の平均的な座高に近く、等身大の像と言えます。<br />平安時代の姫をモデルにしたとされるこの像は、愛児に呼びかけているような笑窪がとても愛らしく、穏やかな表情をしておられます。残念ながら社宝のため非公開ですが、写真は幾つかの書籍に載せられています。<br />Wikipediaにある玉依姫命坐像です。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E6%B0%B4%E5%88%86%E7%A5%9E%E7%A4%BE

    吉野水分神社 本殿
    七神像のうち本殿内に安置されている玉依姫命坐像(国宝・非公開)は特に知られています。艶やかな十二単衣を纏った鎌倉時代の神像彫刻で、高貴な美しさを放っているそうです。
    2座の女神を左右に従えていることから「子守3女神」とも呼ばれ、玉依姫には「建長三年(1251年)」の胎内墨書銘があります。檜寄木造、極彩色、左右に流れる衣文、あるかなきかの微笑をふくむ慈愛柔かな容貌だそうです。像高83cmは、日本人女性の平均的な座高に近く、等身大の像と言えます。
    平安時代の姫をモデルにしたとされるこの像は、愛児に呼びかけているような笑窪がとても愛らしく、穏やかな表情をしておられます。残念ながら社宝のため非公開ですが、写真は幾つかの書籍に載せられています。
    Wikipediaにある玉依姫命坐像です。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E6%B0%B4%E5%88%86%E7%A5%9E%E7%A4%BE

  • 吉野水分神社 拝殿(重文)<br />白木に紙垂をわたらせ、寝殿造の蔀戸(しとみど)が跳ね上げられています。また、左脇には、子守に因んでおっぱいを象ったお供えものも置かれています。<br /><br />玉依姫は、天皇の祖 神武天皇の母に当たる人物と伝わります。この姫は、『記紀』の海幸彦、山幸彦伝承に登場し、要約すると次のようになります。 <br />山で狩りをして暮らす山幸彦が海で漁をして暮らす兄の海幸彦から釣針を借りて釣りをしますが、釣針を無くしてしまいます。怒った兄がそれを許さないことから、山幸彦は途方に暮れます。その様子を見ていた神が山幸彦を海中に案内し、そこで暫く暮らします。その間、山幸彦は海中に住む豊玉姫と結婚し仲良く暮らしますが、ある時、山幸彦のなくした釣針が魚の喉から見つかります。山幸彦はそれを持って豊玉姫と共に故郷に帰ることになります。<br />その後、豊玉姫は、山幸彦の子供を産むことになりますが、ワニの姿に戻って子を産む姿を山幸彦に見られてしまいます。豊玉姫は、そのことを恥じ入り、海に帰ることにしますが、産まれた子の行く末を案じて養育係として自分の妹 玉依姫を山幸彦の傍に置くことにします。話はさらに続き、玉依姫は、自ら育てた子と結婚し、子供を産むことになります。そして産まれた子供が神武天皇です。

    吉野水分神社 拝殿(重文)
    白木に紙垂をわたらせ、寝殿造の蔀戸(しとみど)が跳ね上げられています。また、左脇には、子守に因んでおっぱいを象ったお供えものも置かれています。

    玉依姫は、天皇の祖 神武天皇の母に当たる人物と伝わります。この姫は、『記紀』の海幸彦、山幸彦伝承に登場し、要約すると次のようになります。 
    山で狩りをして暮らす山幸彦が海で漁をして暮らす兄の海幸彦から釣針を借りて釣りをしますが、釣針を無くしてしまいます。怒った兄がそれを許さないことから、山幸彦は途方に暮れます。その様子を見ていた神が山幸彦を海中に案内し、そこで暫く暮らします。その間、山幸彦は海中に住む豊玉姫と結婚し仲良く暮らしますが、ある時、山幸彦のなくした釣針が魚の喉から見つかります。山幸彦はそれを持って豊玉姫と共に故郷に帰ることになります。
    その後、豊玉姫は、山幸彦の子供を産むことになりますが、ワニの姿に戻って子を産む姿を山幸彦に見られてしまいます。豊玉姫は、そのことを恥じ入り、海に帰ることにしますが、産まれた子の行く末を案じて養育係として自分の妹 玉依姫を山幸彦の傍に置くことにします。話はさらに続き、玉依姫は、自ら育てた子と結婚し、子供を産むことになります。そして産まれた子供が神武天皇です。

  • 吉野水分神社 拝殿<br />右奥には、春に行われる御田植神事に使われる太鼓や農機具などが置かれています。<br /><br />伝承では、秀吉がここに祈願して秀頼を授かったとされていますが、時系列を考察すると食い違いが見られます。秀頼は文禄2年8月3日生まれですので、秀吉が水分神社に参詣した時には既に生まれていたことになります。<br />秀吉は側室南殿との間に石松丸、側室淀殿との間に鶴松を授かりましたが、いずれも早逝したため、三男 拾丸(秀頼)が早逝しないよう、子宝の神の水分神社に参詣したというのが真相なのかもしれません。

    吉野水分神社 拝殿
    右奥には、春に行われる御田植神事に使われる太鼓や農機具などが置かれています。

    伝承では、秀吉がここに祈願して秀頼を授かったとされていますが、時系列を考察すると食い違いが見られます。秀頼は文禄2年8月3日生まれですので、秀吉が水分神社に参詣した時には既に生まれていたことになります。
    秀吉は側室南殿との間に石松丸、側室淀殿との間に鶴松を授かりましたが、いずれも早逝したため、三男 拾丸(秀頼)が早逝しないよう、子宝の神の水分神社に参詣したというのが真相なのかもしれません。

  • 吉野水分神社 拝殿<br />桜愛好家だった本居宣長は、43歳の時に吉野を訪ね、『菅笠日記』を書き上げています。「春立てる日より、六十五日にあたるころほひなん」と記し、観桜にも几帳面さが表れています。因みに生前に設計し山桜を傍らに植えるように指示した自らの墓は、吉野の方角に向かって建っているそうです。<br />また、宣長は『古事記』を研究した人物として知られていますが、昔を今に引き寄せて調べるのではなく、その時代にタイムスリップし、当時の人の心でその書物を読むというスタンツを貫いています。それが宣長の歴史学です。

    吉野水分神社 拝殿
    桜愛好家だった本居宣長は、43歳の時に吉野を訪ね、『菅笠日記』を書き上げています。「春立てる日より、六十五日にあたるころほひなん」と記し、観桜にも几帳面さが表れています。因みに生前に設計し山桜を傍らに植えるように指示した自らの墓は、吉野の方角に向かって建っているそうです。
    また、宣長は『古事記』を研究した人物として知られていますが、昔を今に引き寄せて調べるのではなく、その時代にタイムスリップし、当時の人の心でその書物を読むというスタンツを貫いています。それが宣長の歴史学です。

  • 吉野水分神社 幣殿(重文)<br />弊殿には「子守明神」が祀られています。<br />黒漆金銅装神輿は、本殿と同時代の八角八ツ棟造であり、秀吉が寄贈したものです。神輿には慶長九年九月の墨書銘があります。(奈良県指定有形文化財)<br />神輿は風化が進み傷んでいますが、かつての敬虔さが透けて見えるような気がします。<br /><br />桜の何処に美しさを感じるかは人それぞれですが、「花は桜木、人は武士」と称され、武士の潔さは死に際にあり、桜もまた散り際が見事だから美しいとするのが通説です。また、桜を讃えた歌の白眉には、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」が祭り上げられています。大和心=大和魂(武士道)と曲解され、日露戦争中には税収増を企んだ政府がこの歌の言葉から「敷島・大和・朝日・山桜」という官製煙草を販売し、また、大戦中の神風特別攻撃隊「敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊」の由来にもなりました。井上淡星「特別攻撃隊を讃える歌」に通じるところもあり、宣長の歌は国のために強いられて散った、若者たちを悼むものと解釈されてきました。<br />しかし実際には自画自賛像に賛として書かれた一説であり、「自画像でお前の姿形は判ったが、では心について尋ねたい」との質問に応えたものです。「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知り、その麗しさに感動する、そのような心です」と解釈できます。更に、「大和心」の起源は平安朝の女性にあり、男性が重んじた「才(ざえ=学問)」に対し、より「身近な知恵」を「大和心」と言いました。その知恵をわきまえるのが「もののあわれを知る」ことでした。しかしやがて「大和心」は死語となり、正しい意味で復活させたのが宣長だと小林秀雄氏は『学生との対話』の中で語っています。<br />実際、宣長は『玉勝間』の中で「花はさくら。桜は山桜の葉赤くてりてほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」と記し、散り際には触れていません。朝日に照り映えて咲き誇る満開の山桜の美しさこそ、日本人の心だと言っています。花は咲いてこそ花であり、その美しさを表現することができるのです。ところがこの歌の解釈は、その後上述したように政治的に歪められ、悲惨な歴史を残すことになったのです。

    吉野水分神社 幣殿(重文)
    弊殿には「子守明神」が祀られています。
    黒漆金銅装神輿は、本殿と同時代の八角八ツ棟造であり、秀吉が寄贈したものです。神輿には慶長九年九月の墨書銘があります。(奈良県指定有形文化財)
    神輿は風化が進み傷んでいますが、かつての敬虔さが透けて見えるような気がします。

    桜の何処に美しさを感じるかは人それぞれですが、「花は桜木、人は武士」と称され、武士の潔さは死に際にあり、桜もまた散り際が見事だから美しいとするのが通説です。また、桜を讃えた歌の白眉には、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」が祭り上げられています。大和心=大和魂(武士道)と曲解され、日露戦争中には税収増を企んだ政府がこの歌の言葉から「敷島・大和・朝日・山桜」という官製煙草を販売し、また、大戦中の神風特別攻撃隊「敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊」の由来にもなりました。井上淡星「特別攻撃隊を讃える歌」に通じるところもあり、宣長の歌は国のために強いられて散った、若者たちを悼むものと解釈されてきました。
    しかし実際には自画自賛像に賛として書かれた一説であり、「自画像でお前の姿形は判ったが、では心について尋ねたい」との質問に応えたものです。「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知り、その麗しさに感動する、そのような心です」と解釈できます。更に、「大和心」の起源は平安朝の女性にあり、男性が重んじた「才(ざえ=学問)」に対し、より「身近な知恵」を「大和心」と言いました。その知恵をわきまえるのが「もののあわれを知る」ことでした。しかしやがて「大和心」は死語となり、正しい意味で復活させたのが宣長だと小林秀雄氏は『学生との対話』の中で語っています。
    実際、宣長は『玉勝間』の中で「花はさくら。桜は山桜の葉赤くてりてほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」と記し、散り際には触れていません。朝日に照り映えて咲き誇る満開の山桜の美しさこそ、日本人の心だと言っています。花は咲いてこそ花であり、その美しさを表現することができるのです。ところがこの歌の解釈は、その後上述したように政治的に歪められ、悲惨な歴史を残すことになったのです。

  • 吉野水分神社 楼門(重文)<br />潜ってきた楼門は、三間一戸楼門、入母屋造、栩葺です。<br /><br />白州正子著『葛城から吉野へ』には、次のように記されています。<br />「この神社には、有名な玉依姫の命の神像が祀ってあるが、水分というからには、吉野山ではもっとも古い霊場の一つであろう。女人禁制の山に、蔵王権現と並 んで、美しい女神が在すのはおもしろいことで、行者にいわせれば、それこそ陰陽合する所に万物は生ず、と説くかも知れない」。<br />

    吉野水分神社 楼門(重文)
    潜ってきた楼門は、三間一戸楼門、入母屋造、栩葺です。

    白州正子著『葛城から吉野へ』には、次のように記されています。
    「この神社には、有名な玉依姫の命の神像が祀ってあるが、水分というからには、吉野山ではもっとも古い霊場の一つであろう。女人禁制の山に、蔵王権現と並 んで、美しい女神が在すのはおもしろいことで、行者にいわせれば、それこそ陰陽合する所に万物は生ず、と説くかも知れない」。

  • 吉野水分神社<br />庭にある枝垂桜の古木は、圧倒的な存在感を誇示しています。荘厳な社殿と中庭の桜が織りなすコントラストが素晴らしく、咲きはじめの楚々とした風情を湛えて絵になります。10日近くも花を付けている「散らない桜」としても知られています。<br />桜が終わり5月を迎えると、この庭は可憐なスズランの花で覆われるそうです。四方を囲まれて閉鎖的な空間になっていますが、まるで「秘密の花園」のようです。

    吉野水分神社
    庭にある枝垂桜の古木は、圧倒的な存在感を誇示しています。荘厳な社殿と中庭の桜が織りなすコントラストが素晴らしく、咲きはじめの楚々とした風情を湛えて絵になります。10日近くも花を付けている「散らない桜」としても知られています。
    桜が終わり5月を迎えると、この庭は可憐なスズランの花で覆われるそうです。四方を囲まれて閉鎖的な空間になっていますが、まるで「秘密の花園」のようです。

  • 吉野水分神社 拝殿<br />拝殿の左端に西行法師座像が安置されています。この神社所縁のものではなく、元々は西行庵にあったもののようです。1785(天明5)年に益田慶運によって彫られた檜の一木造りの像ですが、管理が行き届かないためにこの吉野水分神社に移されたと記されています。江戸の大井八衛門が願主になって奉納したものだそうです。<br />天明年間の像を見てもさほど古さを感じないほど、周りに歴史あるものが溢れているため、時間軸の感覚が麻痺しています。<br />西行は、高野山をはじめ伊勢神宮、そしてここ吉野にも隠棲していました。桜と月をこよなく愛した彼にとり、吉野は憧れの地だったのかもしれません。左膝を立て、やや上目づかいの表情は、境内の枝垂桜を眺めているようにも窺えます。

    吉野水分神社 拝殿
    拝殿の左端に西行法師座像が安置されています。この神社所縁のものではなく、元々は西行庵にあったもののようです。1785(天明5)年に益田慶運によって彫られた檜の一木造りの像ですが、管理が行き届かないためにこの吉野水分神社に移されたと記されています。江戸の大井八衛門が願主になって奉納したものだそうです。
    天明年間の像を見てもさほど古さを感じないほど、周りに歴史あるものが溢れているため、時間軸の感覚が麻痺しています。
    西行は、高野山をはじめ伊勢神宮、そしてここ吉野にも隠棲していました。桜と月をこよなく愛した彼にとり、吉野は憧れの地だったのかもしれません。左膝を立て、やや上目づかいの表情は、境内の枝垂桜を眺めているようにも窺えます。

  • 吉野水分神社 回廊(重文)<br />楼門の左右には、単層切妻、栃葺の白木の回廊が繋がっています。

    吉野水分神社 回廊(重文)
    楼門の左右には、単層切妻、栃葺の白木の回廊が繋がっています。

  • 吉野水分神社 拝殿<br />拝殿はこのように崖の上に建てられています。こうした崖造りの建築様式を「吉野建て」と言い、吉野の建物は地形的に皆こうして建てられています。<br />

    吉野水分神社 拝殿
    拝殿はこのように崖の上に建てられています。こうした崖造りの建築様式を「吉野建て」と言い、吉野の建物は地形的に皆こうして建てられています。

  • 高城山展望台 <br />標高680mに位置する展望台で、「ツツジが城」とも摺鉢を伏せたような形から「伏山」とも呼ばれていました。北面に眺望が開け、高取山などの連なりの向こうに金剛山や葛城山、二上山を眺められます。何故ここが城と言われる理由は、鎌倉時代後期に後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王が吉野山にたてこもって北条方5万の軍勢を相手に戦闘を繰り広げた際、ここが砦のひとつだったからです。<br />ここでは静かな雰囲気の中で眼下に桜を望むことができます。

    高城山展望台 
    標高680mに位置する展望台で、「ツツジが城」とも摺鉢を伏せたような形から「伏山」とも呼ばれていました。北面に眺望が開け、高取山などの連なりの向こうに金剛山や葛城山、二上山を眺められます。何故ここが城と言われる理由は、鎌倉時代後期に後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王が吉野山にたてこもって北条方5万の軍勢を相手に戦闘を繰り広げた際、ここが砦のひとつだったからです。
    ここでは静かな雰囲気の中で眼下に桜を望むことができます。

  • 高城山展望台<br />春が遅いため、この辺りの桜はまだ固い蕾です。<br />遠く霞む山々は、左が金剛山、その右が葛城山です。<br />金峯神社への参道から外れて結構急勾配な坂を登って来ましたが、同じ道を戻らずに南側に向かう道を進むと参道に合流します。Uターンするよりショートカットになり、足への負担も軽減できます。

    高城山展望台
    春が遅いため、この辺りの桜はまだ固い蕾です。
    遠く霞む山々は、左が金剛山、その右が葛城山です。
    金峯神社への参道から外れて結構急勾配な坂を登って来ましたが、同じ道を戻らずに南側に向かう道を進むと参道に合流します。Uターンするよりショートカットになり、足への負担も軽減できます。

  • 暫くこうした鬱蒼とした杉林を進むと、奥千本エリアの入口となる金峯神社に至ります。<br /><br />この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥④奥千本・如意輪寺(エピローグ)でお届けいたします。

    暫くこうした鬱蒼とした杉林を進むと、奥千本エリアの入口となる金峯神社に至ります。

    この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥④奥千本・如意輪寺(エピローグ)でお届けいたします。

この旅行記のタグ

650いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP