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吉野は万葉時代から歴代天皇の行幸の地として歌に詠まれ、「川の吉野」から「花の吉野山」へと焦点が移っていきました。多くの万葉歌人が秀歌をとどめ、「みよしの」といった歌枕があります。<br />「みよしのの高嶺の桜散りにけり 嵐も白き春のあけぼの」新古今集 後鳥羽院<br />吉野の桜は、麓から順番に開花するため、3週間ほどに亘ってお花見が愉しめます。しかし吉野ならではの桜の絶景を愛でるには、タイミングを外さないことが肝心です。一般的には、中千本が満開の時期が最高だと言われています。例年であれば4月10日前後が目安になりますが、今年は少し遅れており、訪れた日に漸く満開を迎えました。<br />下千本より2~3日遅れて開花する中千本エリアは、土産物屋や食事処、旅館が参道の両脇に軒を連ね、数多の社寺仏閣が点在する最も賑やかなエリアです。中千本とは、吉野山の尾根と谷を挟んで向かいにある如意輪寺との間に広がる桜の群落エリアを指します。吉水神社の境内からの「中千本」の眺めは絶景の呼び声の高い名所であり、ここを見ずして吉野の桜は語れません。千本の桜が一目で見渡せることから、「一目千本」とも称されています。淡い桜の彩りと樹々の深い緑が織りなす光景は、幻想的でどこか浮世離れした桃源郷を彷彿とさせます。この景色には、さすがの豊臣秀吉も感動を顕わにしたそうです。<br />http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html<br />散策マップ<br />http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf<br />http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

芳葩爛漫 吉野山逍遥②中千本

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2017/04/14 - 2017/04/14

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

吉野は万葉時代から歴代天皇の行幸の地として歌に詠まれ、「川の吉野」から「花の吉野山」へと焦点が移っていきました。多くの万葉歌人が秀歌をとどめ、「みよしの」といった歌枕があります。
「みよしのの高嶺の桜散りにけり 嵐も白き春のあけぼの」新古今集 後鳥羽院
吉野の桜は、麓から順番に開花するため、3週間ほどに亘ってお花見が愉しめます。しかし吉野ならではの桜の絶景を愛でるには、タイミングを外さないことが肝心です。一般的には、中千本が満開の時期が最高だと言われています。例年であれば4月10日前後が目安になりますが、今年は少し遅れており、訪れた日に漸く満開を迎えました。
下千本より2~3日遅れて開花する中千本エリアは、土産物屋や食事処、旅館が参道の両脇に軒を連ね、数多の社寺仏閣が点在する最も賑やかなエリアです。中千本とは、吉野山の尾根と谷を挟んで向かいにある如意輪寺との間に広がる桜の群落エリアを指します。吉水神社の境内からの「中千本」の眺めは絶景の呼び声の高い名所であり、ここを見ずして吉野の桜は語れません。千本の桜が一目で見渡せることから、「一目千本」とも称されています。淡い桜の彩りと樹々の深い緑が織りなす光景は、幻想的でどこか浮世離れした桃源郷を彷彿とさせます。この景色には、さすがの豊臣秀吉も感動を顕わにしたそうです。
http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/index.html
散策マップ
http://www.yoshinoyama-sakura.jp/pdf/map_yoshino.pdf
http://www.yukawaya.com/pdf/map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
私鉄
  • 東南院 多宝塔<br />金峯山寺から間もなく右手に寺院らしき門構えが見えてきます。<br />山門を潜ると、多宝塔に寄り添うように咲く枝垂れ桜が優美です。<br />金峯山寺蔵王堂を開く際、東南の方角に建てられた塔頭だったことから 「東南院」と称とされています。日本の霊地では、古来大伽藍を形成するに当たり、その地を守護する役割を果たすものとして巽(東南)の方角に小堂を設けて一山の安泰と隆興を祈念しました。<br />大峯山護寺院でもあり、山号は大峯山、開山は役行者とされ、1300年の歴史を持つ寺院です。宿坊としても歴史が古く、1092(寛治6)年に白河上皇が金峯山寺に参詣された折、当院を宿坊としました。本堂・多宝塔・庫裡・客殿からなり、鎌倉期の作と伝えられる大日如来・毘沙門天・不動明王などを祀っています。唐へ修行に行った日円上人を中興開祖とし、聳え立つ多宝塔が荘厳な中にもある種の華やかさを感じさせます。この多宝塔は、松長定一氏の寄進により和歌山県海南市の野上八幡宮の境内にあったものを1937(昭和12)年に移築したと伝えられています。塔正面の鰐口には1564(永禄7)年の銘が見られますが、多宝塔の建造は江戸時代初期と言われています。<br />1684年に俳人松尾芭蕉が『野晒紀行』の旅の途中、この宿坊に停泊したと伝えられ、境内にはその際に詠んだ句碑が建てられています。<br />「ある坊に一夜をかりて - 砧(きぬた)打ちて我にきかせよ坊が妻 」<br />恐らく、明日行く西行庵のことを思うとワクワクして眠れず、この宿坊の女将に砧で布を打ってもらい、それを子守歌代わりにしたいと思ったことを詠んだのでしょう。

    東南院 多宝塔
    金峯山寺から間もなく右手に寺院らしき門構えが見えてきます。
    山門を潜ると、多宝塔に寄り添うように咲く枝垂れ桜が優美です。
    金峯山寺蔵王堂を開く際、東南の方角に建てられた塔頭だったことから 「東南院」と称とされています。日本の霊地では、古来大伽藍を形成するに当たり、その地を守護する役割を果たすものとして巽(東南)の方角に小堂を設けて一山の安泰と隆興を祈念しました。
    大峯山護寺院でもあり、山号は大峯山、開山は役行者とされ、1300年の歴史を持つ寺院です。宿坊としても歴史が古く、1092(寛治6)年に白河上皇が金峯山寺に参詣された折、当院を宿坊としました。本堂・多宝塔・庫裡・客殿からなり、鎌倉期の作と伝えられる大日如来・毘沙門天・不動明王などを祀っています。唐へ修行に行った日円上人を中興開祖とし、聳え立つ多宝塔が荘厳な中にもある種の華やかさを感じさせます。この多宝塔は、松長定一氏の寄進により和歌山県海南市の野上八幡宮の境内にあったものを1937(昭和12)年に移築したと伝えられています。塔正面の鰐口には1564(永禄7)年の銘が見られますが、多宝塔の建造は江戸時代初期と言われています。
    1684年に俳人松尾芭蕉が『野晒紀行』の旅の途中、この宿坊に停泊したと伝えられ、境内にはその際に詠んだ句碑が建てられています。
    「ある坊に一夜をかりて - 砧(きぬた)打ちて我にきかせよ坊が妻 」
    恐らく、明日行く西行庵のことを思うとワクワクして眠れず、この宿坊の女将に砧で布を打ってもらい、それを子守歌代わりにしたいと思ったことを詠んだのでしょう。

  • 吉水神社 鳥居<br />東南院の先の左手に鳥居があり、ここから先が吉水神社への参道となります。<br /><br />1185年、源義経が兄 源頼朝の圧迫から逃れて静御前、弁慶らと共に一時身を隠し、その後静御前と別れ奥州へ落ちて行った悲恋の場所でもあります。<br />16歳の愛妾の白拍子 静御前は、深い雪の中を這うようにして義経に添い遂げたい一心で吉野の山奥まで辿りつきました。しかし、この先は大峰山という女人禁制の山が阻みます。この吉水神社で5日間を過ごせば、次の日はお別れ。静は泣き明かし、「もう2度と会えないかもしれませんね」と小声でつぶやきました。義経はその不安を拭うかのように「生きていれば、また会える。例えこの世で会えなくとも、あの世で会えるではないか」となだめます。静は、最後の舞を義経のために舞います。舞いが今まさに終わろうとする時、静は扇子を落とし、その場に泣き崩れました。「泣くな」と言いながら義経も袖で涙を隠しました。義経は、静を強く抱きしめ、命の次に大事にしている鏡を取り出し、手に握らせました。次の日、静は、一目千本で義経を見送り、姿が見えなくなるまで千切れんばかりに手を振り続けました。<br />再会後、僅か5日後に2人は別れる運命にありました。何たる非情な運命を背負わされた2人でしよう。吉野の吉水院で、一時の安住を得た2人は、永遠にこの幸せが続くことを願いながら、この場に佇んでいたのです。<br />源義経との惜別の時、静御前が舞を踊った舞台跡には、背の高い桜の木があり、毎年春になると美しく咲き誇ったそうです。散る桜花は、まるで2人が流した泪のようだったとのこと。

    吉水神社 鳥居
    東南院の先の左手に鳥居があり、ここから先が吉水神社への参道となります。

    1185年、源義経が兄 源頼朝の圧迫から逃れて静御前、弁慶らと共に一時身を隠し、その後静御前と別れ奥州へ落ちて行った悲恋の場所でもあります。
    16歳の愛妾の白拍子 静御前は、深い雪の中を這うようにして義経に添い遂げたい一心で吉野の山奥まで辿りつきました。しかし、この先は大峰山という女人禁制の山が阻みます。この吉水神社で5日間を過ごせば、次の日はお別れ。静は泣き明かし、「もう2度と会えないかもしれませんね」と小声でつぶやきました。義経はその不安を拭うかのように「生きていれば、また会える。例えこの世で会えなくとも、あの世で会えるではないか」となだめます。静は、最後の舞を義経のために舞います。舞いが今まさに終わろうとする時、静は扇子を落とし、その場に泣き崩れました。「泣くな」と言いながら義経も袖で涙を隠しました。義経は、静を強く抱きしめ、命の次に大事にしている鏡を取り出し、手に握らせました。次の日、静は、一目千本で義経を見送り、姿が見えなくなるまで千切れんばかりに手を振り続けました。
    再会後、僅か5日後に2人は別れる運命にありました。何たる非情な運命を背負わされた2人でしよう。吉野の吉水院で、一時の安住を得た2人は、永遠にこの幸せが続くことを願いながら、この場に佇んでいたのです。
    源義経との惜別の時、静御前が舞を踊った舞台跡には、背の高い桜の木があり、毎年春になると美しく咲き誇ったそうです。散る桜花は、まるで2人が流した泪のようだったとのこと。

  • 金峯山寺 蔵王堂 <br />鳥居を潜ると直ぐ左側にオープンカフェのようなスペースがあり、そこからは淡い桜色に包まれた蔵王堂の姿が見られます。<br /><br />静御前は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。母親は磯禅師と言う白拍子(女性が男装をして舞を舞う、いわゆる高級娼婦)の祖となる人物であり、静御前も白拍子でした。因みに、薙刀の名手でもあったそうです。<br />ある時、雨が降らず日照りが続きました。そこで後白河法皇は百人の美女の白拍子に舞わせ雨を祈らせました。99人まで効果がありませんでしたが、百人目の静御前が舞うとたちまち雨雲が現れ、3日3晩、雨が降り続いたと伝わっています。そうしたことから静御前は法皇から「日本一」の言葉を賜り、その時、源義経が見染めて愛妾にしたそうです。

    金峯山寺 蔵王堂
    鳥居を潜ると直ぐ左側にオープンカフェのようなスペースがあり、そこからは淡い桜色に包まれた蔵王堂の姿が見られます。

    静御前は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。母親は磯禅師と言う白拍子(女性が男装をして舞を舞う、いわゆる高級娼婦)の祖となる人物であり、静御前も白拍子でした。因みに、薙刀の名手でもあったそうです。
    ある時、雨が降らず日照りが続きました。そこで後白河法皇は百人の美女の白拍子に舞わせ雨を祈らせました。99人まで効果がありませんでしたが、百人目の静御前が舞うとたちまち雨雲が現れ、3日3晩、雨が降り続いたと伝わっています。そうしたことから静御前は法皇から「日本一」の言葉を賜り、その時、源義経が見染めて愛妾にしたそうです。

  • 金峯山寺 蔵王堂<br />敵の頼朝を前にして、義経との別離を静御前が詠んだ和歌が残されています。<br />「吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」<br />人の跡というのは義経を指しており、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台だったのです。<br />さて、その後の静に触れてみましょう。<br />義経と別れて都に戻ろうとした静は、従者に裏切られ、頼朝勢に捕らえられました。鎌倉に送られ、義経の逃亡先を尋問されますが、彼女は何も知りませんでした。ならばと、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じられます。静は頼朝のために舞うなど恥辱の限りと、体調不良など難癖をつけて固辞するも、頼朝に強要され、とうとう舞うことになります。ただし、静は頼朝のためではなく、堂々と義経を慕う心を歌い舞いました。居並ぶ鎌倉武士が身を乗り出して聴き入る中、「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」、「しづやしづ 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」。<br />女の矜持を見せ付けた命がけの抵抗でした。一同は感動し袖を濡らしましたが、頼朝は立腹し、「反逆者を慕い、別れの歌を舞うとはもってのほか」と暴言を吐きました。しかし妻の政子は、「気持はよく分かります。愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を誉めるべきです」。そして政子は自分が着ていた衣を褒美として与えました。妻に諭されて頼朝の勘気は収まるも、静はまだ自由の身になれませんでした。子を宿していたため、鎌倉で産むよう命じられたのです。頼朝は「女子なら見逃すが男子の場合は諦めよ」と覚悟するよう伝えましたが、生まれてきたのは男子でした。泣き叫ぶ静の腕から赤子は無惨にも取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められ、静は半狂乱になりました。やがて半年間の鎌倉幽閉を経て、静は自由の身となり京都へ帰りました。静が鎌倉を去る時、政子や大姫たち女性陣は、彼女に同情して沢山の物を贈ったそうです。

    金峯山寺 蔵王堂
    敵の頼朝を前にして、義経との別離を静御前が詠んだ和歌が残されています。
    「吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
    人の跡というのは義経を指しており、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台だったのです。
    さて、その後の静に触れてみましょう。
    義経と別れて都に戻ろうとした静は、従者に裏切られ、頼朝勢に捕らえられました。鎌倉に送られ、義経の逃亡先を尋問されますが、彼女は何も知りませんでした。ならばと、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じられます。静は頼朝のために舞うなど恥辱の限りと、体調不良など難癖をつけて固辞するも、頼朝に強要され、とうとう舞うことになります。ただし、静は頼朝のためではなく、堂々と義経を慕う心を歌い舞いました。居並ぶ鎌倉武士が身を乗り出して聴き入る中、 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」、「しづやしづ 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」。
    女の矜持を見せ付けた命がけの抵抗でした。一同は感動し袖を濡らしましたが、頼朝は立腹し、「反逆者を慕い、別れの歌を舞うとはもってのほか」と暴言を吐きました。しかし妻の政子は、「気持はよく分かります。愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を誉めるべきです」。そして政子は自分が着ていた衣を褒美として与えました。 妻に諭されて頼朝の勘気は収まるも、静はまだ自由の身になれませんでした。子を宿していたため、鎌倉で産むよう命じられたのです。頼朝は「女子なら見逃すが男子の場合は諦めよ」と覚悟するよう伝えましたが、生まれてきたのは男子でした。泣き叫ぶ静の腕から赤子は無惨にも取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められ、静は半狂乱になりました。やがて半年間の鎌倉幽閉を経て、静は自由の身となり京都へ帰りました。静が鎌倉を去る時、政子や大姫たち女性陣は、彼女に同情して沢山の物を贈ったそうです。

  • 吉水神社 <br />一方、吉野を逃れた義経は興福寺や延暦寺など寺社を転々としていましたが、やがて少年時代に6年間を過ごした奥州平泉の藤原氏を最後の頼みとして山伏姿に変装して北上しました。藤原秀衡は、義経が朝敵となっているのを知りながら、我が子同然に迎え入れてくれました。そんな中、秀衡が病没し、遺言により息子 泰衡がかくまうことになりました。奮い立った義経は再起を喫して西国の武将に決起を促す使者を送りましたが、使者が捕まり、逆に奥州潜伏が知れてしまいました。泰衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられましたが、頑なにこれを拒否して義経を守りました。しかし、頼朝に泰衡に対して大軍を送ると脅迫され、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈しました。泰衡が500騎で義経の住む衣川の館を襲撃すると、弁慶ら側近は最期の抵抗をしたものの、義経は「もはやこれまで」と堂宇に入って法華経を読み、共に死ぬと願う郷御前(正室)と4歳の愛娘を斬った後、館に火をかけて自刃しました。享年30歳。

    吉水神社
    一方、吉野を逃れた義経は興福寺や延暦寺など寺社を転々としていましたが、やがて少年時代に6年間を過ごした奥州平泉の藤原氏を最後の頼みとして山伏姿に変装して北上しました。 藤原秀衡は、義経が朝敵となっているのを知りながら、我が子同然に迎え入れてくれました。そんな中、秀衡が病没し、遺言により息子 泰衡がかくまうことになりました。奮い立った義経は再起を喫して西国の武将に決起を促す使者を送りましたが、使者が捕まり、逆に奥州潜伏が知れてしまいました。泰衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられましたが、頑なにこれを拒否して義経を守りました。しかし、頼朝に泰衡に対して大軍を送ると脅迫され、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈しました。泰衡が500騎で義経の住む衣川の館を襲撃すると、弁慶ら側近は最期の抵抗をしたものの、義経は「もはやこれまで」と堂宇に入って法華経を読み、共に死ぬと願う郷御前(正室)と4歳の愛娘を斬った後、館に火をかけて自刃しました。享年30歳。

  • 吉水神社<br />1192年、天下統一を果たした頼朝は鎌倉幕府を開くも、その僅か7年後に落馬とされる要因で亡くなっています。死亡原因が不明確なのは、鎌倉時代の公式史書『吾妻鏡』には「ある日落馬し、これが原因で数ヶ月後に死去した」としか記されていないため、説得力のある定説がないからです。それ故、北条家による暗殺説も根強いものがあります。また、頼朝の死から5年後に長男 頼家が、その15年後に次男 実朝が暗殺されています。平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か18年で滅亡しましたが、頼朝もまた開幕後27年、僅か3代でその血は途絶えています。<br />暗殺説を要約すると次のようになります。<br />頼朝には義経のような武功は聞かれないものの、武家の棟梁の家に生まれ、不遇の時代に危難を乗り越えていることから、武術の心得はあったと推察されます。故に落馬が原因で命を落とすのは不自然であり、しかも落馬で死去した武将は類を見ません。<br />また、もし事故死や自然死であれば、『吾妻鏡』」に明記されているはずであり、表に出せない何か重大な事件が隠されていると考えるのが自然であり、暗殺が濃厚になります。<br />次に、頼朝死後の幕府は、将軍職は頼朝の子 頼家が後を継ぎましたが、実権は母 北条政子の父である執権 北条時政が握りました。犯人探しの第一の鉄則は、「その犯罪によって一番利益を得たものを疑え」と言います。従って、暗殺説で有力視されている犯人は北条時政になります。<br />全体を眺めると、北条家が短期間で頼朝の直孫を皆殺しにした構図が浮かび上がってきます。北条時政・政子父娘は、当初から自家による開幕のため、一時的に頼朝を利用したと言うことです。鎌倉幕府は源氏による幕府とされていますが、源氏はその名を「錦の御旗」として利用されただけで、事実上は平家の一部族「北条家」による幕府と言えなくもありません。 <br />詰まるところ、頼朝と義経の仲たがいも、北条家の陰謀の一部だったのかもしれません。まず、頼朝より手ごわい義経を葬りたかったのでしょう。

    吉水神社
    1192年、天下統一を果たした頼朝は鎌倉幕府を開くも、その僅か7年後に落馬とされる要因で亡くなっています。死亡原因が不明確なのは、鎌倉時代の公式史書『吾妻鏡』には「ある日落馬し、これが原因で数ヶ月後に死去した」としか記されていないため、説得力のある定説がないからです。それ故、北条家による暗殺説も根強いものがあります。また、頼朝の死から5年後に長男 頼家が、その15年後に次男 実朝が暗殺されています。平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か18年で滅亡しましたが、頼朝もまた開幕後27年、僅か3代でその血は途絶えています。
    暗殺説を要約すると次のようになります。
    頼朝には義経のような武功は聞かれないものの、武家の棟梁の家に生まれ、不遇の時代に危難を乗り越えていることから、武術の心得はあったと推察されます。故に落馬が原因で命を落とすのは不自然であり、しかも落馬で死去した武将は類を見ません。
    また、もし事故死や自然死であれば、『吾妻鏡』」に明記されているはずであり、表に出せない何か重大な事件が隠されていると考えるのが自然であり、暗殺が濃厚になります。
    次に、頼朝死後の幕府は、将軍職は頼朝の子 頼家が後を継ぎましたが、実権は母 北条政子の父である執権 北条時政が握りました。犯人探しの第一の鉄則は、「その犯罪によって一番利益を得たものを疑え」と言います。従って、暗殺説で有力視されている犯人は北条時政になります。
    全体を眺めると、北条家が短期間で頼朝の直孫を皆殺しにした構図が浮かび上がってきます。北条時政・政子父娘は、当初から自家による開幕のため、一時的に頼朝を利用したと言うことです。鎌倉幕府は源氏による幕府とされていますが、源氏はその名を「錦の御旗」として利用されただけで、事実上は平家の一部族「北条家」による幕府と言えなくもありません。
    詰まるところ、頼朝と義経の仲たがいも、北条家の陰謀の一部だったのかもしれません。まず、頼朝より手ごわい義経を葬りたかったのでしょう。

  • 吉水神社 神門<br />『太平記』でも有名な児島高徳の忠節「天莫空勾践 時非無范蠡」が南朝皇居であった吉水神社の神門の右横に掲げられています。元弘の変に敗れて隠岐に流される途中、桜の木に刻んだ十文字の詩を後醍醐天皇へ手向けたそうです。<br />天、勾践(こうせん)を空しうするなかれ。時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず。(天は姑蘇城に幽閉された古代中国の越王 勾践のような囚われの後醍醐天皇を空しく殺し奉ってはならぬ。時に越王を助けて会稽の恥を雪いだ范蠡のような忠臣が後醍醐天皇の前に現れないこともない。 )

    吉水神社 神門
    『太平記』でも有名な児島高徳の忠節「天莫空勾践 時非無范蠡」が南朝皇居であった吉水神社の神門の右横に掲げられています。元弘の変に敗れて隠岐に流される途中、桜の木に刻んだ十文字の詩を後醍醐天皇へ手向けたそうです。
    天、勾践(こうせん)を空しうするなかれ。時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず。(天は姑蘇城に幽閉された古代中国の越王 勾践のような囚われの後醍醐天皇を空しく殺し奉ってはならぬ。時に越王を助けて会稽の恥を雪いだ范蠡のような忠臣が後醍醐天皇の前に現れないこともない。 )

  • 吉水神社 一目千本<br />神門を潜り、手水舎で浄めたら、まずは右手にある高台を望むスペースに直行しましょう。ここからの眺めが、「21世紀に残したい日本の風景」で花部門の第1位に輝いた「一目千本」と称される絶景です。丁度、樹木の間にぽっかりと口を開けたようなスペースがあり、何にも邪魔されることなく広く見通しが利きます。<br />谷から尾根に掛けて山一帯が中千本、上千本に当たり、桜の最盛期にはシロヤマザクラの花がパッチワークのように山を染め上げる絶景が愉しめます。<br />こうした上千本から中千本まで桜花が滝が流れ下るように見える様を「滝桜」と称しています。

    吉水神社 一目千本
    神門を潜り、手水舎で浄めたら、まずは右手にある高台を望むスペースに直行しましょう。ここからの眺めが、「21世紀に残したい日本の風景」で花部門の第1位に輝いた「一目千本」と称される絶景です。丁度、樹木の間にぽっかりと口を開けたようなスペースがあり、何にも邪魔されることなく広く見通しが利きます。
    谷から尾根に掛けて山一帯が中千本、上千本に当たり、桜の最盛期にはシロヤマザクラの花がパッチワークのように山を染め上げる絶景が愉しめます。
    こうした上千本から中千本まで桜花が滝が流れ下るように見える様を「滝桜」と称しています。

  • 吉水神社 一目千本<br />中千本のビュースポットの鉄板です。まず、左端から青根ヶ峰から流れ下る「滝桜」を堪能することにします。<br />豊臣秀吉が1594(文禄3)年に5千人の家来を招いて花見の本陣を敷いた場所です。この場所を選んだのは、ここから眺める吉野の桜は「一目千本」と呼ばれ、文字通り吉野山の桜を一望できるからです。遥か遠くへ霞ながら脈々と連らなる山桜を見渡す醍醐味は、ここ吉野でしか味わえません。山頂から流れ下るように咲き乱れる桃源郷を彷彿とさせる淡紅色の山景色「滝桜」は圧巻です。まさに吉野の桜のハイライトと言えます。

    吉水神社 一目千本
    中千本のビュースポットの鉄板です。まず、左端から青根ヶ峰から流れ下る「滝桜」を堪能することにします。
    豊臣秀吉が1594(文禄3)年に5千人の家来を招いて花見の本陣を敷いた場所です。この場所を選んだのは、ここから眺める吉野の桜は「一目千本」と呼ばれ、文字通り吉野山の桜を一望できるからです。遥か遠くへ霞ながら脈々と連らなる山桜を見渡す醍醐味は、ここ吉野でしか味わえません。山頂から流れ下るように咲き乱れる桃源郷を彷彿とさせる淡紅色の山景色「滝桜」は圧巻です。まさに吉野の桜のハイライトと言えます。

  • 吉水神社 一目千本<br />ここでの花見の宴が日本の花見のルーツとされており、秀吉はさぞや優雅に「一目千本」の眺めを堪能したのだろうと思いきや、生憎前日まではずっと雨だったそうです。しかし当日は晴れ渡り、一目千本の桜に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と大声を上げ、まるで子供のようにはしゃぎ回ったと伝えられています。<br />

    吉水神社 一目千本
    ここでの花見の宴が日本の花見のルーツとされており、秀吉はさぞや優雅に「一目千本」の眺めを堪能したのだろうと思いきや、生憎前日まではずっと雨だったそうです。しかし当日は晴れ渡り、一目千本の桜に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と大声を上げ、まるで子供のようにはしゃぎ回ったと伝えられています。

  • 吉水神社 一目千本<br />上千本が満開であれば、もう少し青根ヶ峰のピークに向けて滝桜が広がります。<br /><br />秀吉は、「とし月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」と詠んでいます。戦に明け暮れて漸く天下を手にし、夢にまで見た吉野山の桜を我が世の春を謳歌しながら愛でることができたと喜こんでいます。これに対し、徳川家康は「君が代は千年の春も吉野山 花にちぎりの限りあらじな」と返し、豊臣家への忠誠心が永遠であるとさりげなくアピールしています。

    吉水神社 一目千本
    上千本が満開であれば、もう少し青根ヶ峰のピークに向けて滝桜が広がります。

    秀吉は、「とし月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」と詠んでいます。戦に明け暮れて漸く天下を手にし、夢にまで見た吉野山の桜を我が世の春を謳歌しながら愛でることができたと喜こんでいます。これに対し、徳川家康は「君が代は千年の春も吉野山 花にちぎりの限りあらじな」と返し、豊臣家への忠誠心が永遠であるとさりげなくアピールしています。

  • 吉水神社 一目千本<br />霞んだように見えるのは、丁度逆光になるためです。ですから露光を調整して撮らないと、真っ暗な写真になるかもしれません。ここで記念撮影をされる方もおられますが、顔が真っ黒になり見れたものではありませんのでご注意ください。<br />撮影した時刻は10時頃ですが、午後の方が多少太陽の位置がずれるので鮮やかに撮れるかもしれません。<br />ここだけでなく、<下千本編>でレポした、昭憲皇太后 御野立跡も逆行になり、写真写りが悪いのが残念です。3つの一目千本スポットにおいて唯一順光で撮影できるのは、上千本の花見矢倉になります。

    吉水神社 一目千本
    霞んだように見えるのは、丁度逆光になるためです。ですから露光を調整して撮らないと、真っ暗な写真になるかもしれません。ここで記念撮影をされる方もおられますが、顔が真っ黒になり見れたものではありませんのでご注意ください。
    撮影した時刻は10時頃ですが、午後の方が多少太陽の位置がずれるので鮮やかに撮れるかもしれません。
    ここだけでなく、<下千本編>でレポした、昭憲皇太后 御野立跡も逆行になり、写真写りが悪いのが残念です。3つの一目千本スポットにおいて唯一順光で撮影できるのは、上千本の花見矢倉になります。

  • 吉水神社 一目千本<br />このように吉野山の桜が色とりどりなのは、それなりの理由があります。花見の前年、吉野へ視察にやってきた秀吉は、山桜中心の山に彩りを添えるため、大坂から取り寄せた千本の枝垂桜を植樹しています。ですから現在の吉野山の桜には秀吉の功績が残されているとも言えます。<br />

    吉水神社 一目千本
    このように吉野山の桜が色とりどりなのは、それなりの理由があります。花見の前年、吉野へ視察にやってきた秀吉は、山桜中心の山に彩りを添えるため、大坂から取り寄せた千本の枝垂桜を植樹しています。ですから現在の吉野山の桜には秀吉の功績が残されているとも言えます。

  • 吉水神社 一目千本<br />三角形をした吉野山観光車道周辺の桜景色です。<br />これだけ山が桜で埋まっている風景は、今まで見たことがありません。これを見られただけでも吉野に来た甲斐があったと思います。

    吉水神社 一目千本
    三角形をした吉野山観光車道周辺の桜景色です。
    これだけ山が桜で埋まっている風景は、今まで見たことがありません。これを見られただけでも吉野に来た甲斐があったと思います。

  • 吉水神社 一目千本<br />ソメイヨシノの華やかさも魅力ですが、山桜ならではの素朴な味わいもいいですね!

    吉水神社 一目千本
    ソメイヨシノの華やかさも魅力ですが、山桜ならではの素朴な味わいもいいですね!

  • 吉水神社 一目千本<br />場所を少し移動し、今度は中央から左手の桜林を愛でます。<br />上千本が満開でない時期は、ここからの眺めの方がよさそうです。

    吉水神社 一目千本
    場所を少し移動し、今度は中央から左手の桜林を愛でます。
    上千本が満開でない時期は、ここからの眺めの方がよさそうです。

  • 吉水神社 一目千本<br />滝のように流れ下る桜の迫力が伝わるでしょうか?

    吉水神社 一目千本
    滝のように流れ下る桜の迫力が伝わるでしょうか?

  • 吉水神社 一目千本<br />散り初めの頃、谷から吹き上げる風に乗り、桜吹雪が舞い上がる光景もここだけのものです。<br />花の移り行く時期それぞれに味わい方があるようです。<br />

    吉水神社 一目千本
    散り初めの頃、谷から吹き上げる風に乗り、桜吹雪が舞い上がる光景もここだけのものです。
    花の移り行く時期それぞれに味わい方があるようです。

  • 吉水神社 一目千本<br />「一目千本」の看板に偽りなしです!<br />名残は尽きませんが、写真の順番待ちもあり、このあたりで打ち止めにします。

    吉水神社 一目千本
    「一目千本」の看板に偽りなしです!
    名残は尽きませんが、写真の順番待ちもあり、このあたりで打ち止めにします。

  • 吉水神社<br />後醍醐天皇を祭神とし、忠臣 楠木正成および宗信法印(吉水院住職 )を合祀しています。吉野山で唯一戦火を免れた神社であり、古社の姿が昔のまま遺されています。<br />1185(文治元)年に源頼朝に追われた源義経が、静御前や弁慶らと共に身を隠した悲恋物語の舞台としても知られ、南北朝時代の1336(延元元)年には南朝の後醍醐天皇が最初に行宮(仮の皇居)とし、血涙の歴史を記した神社です。<br />

    吉水神社
    後醍醐天皇を祭神とし、忠臣 楠木正成および宗信法印(吉水院住職 )を合祀しています。吉野山で唯一戦火を免れた神社であり、古社の姿が昔のまま遺されています。
    1185(文治元)年に源頼朝に追われた源義経が、静御前や弁慶らと共に身を隠した悲恋物語の舞台としても知られ、南北朝時代の1336(延元元)年には南朝の後醍醐天皇が最初に行宮(仮の皇居)とし、血涙の歴史を記した神社です。

  • 吉水神社 本殿<br />今から1300年前の白鳳年間に役小角が創立したと伝わる吉野修験金峯山寺修験宗の僧坊「吉水院(きっすいいん)」がルーツです。<br />南北朝の時代には、京の花山院から逃れた後醍醐天皇の南朝皇居となり、その後明治時代初期まで修験道の勢力と共に発展してきました。<br />このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院でしたが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺の憂き目に遭います。しかし1874(明治7)年、この場所で建武中興の理想が成就されたことを顕彰して明治天皇より「後醍醐天皇社」という名で創立が許され、その翌年に「吉水神社」に名を改めて現在に至っています。つまり、明治天皇の息のかかった神社なのです。

    吉水神社 本殿
    今から1300年前の白鳳年間に役小角が創立したと伝わる吉野修験金峯山寺修験宗の僧坊「吉水院(きっすいいん)」がルーツです。
    南北朝の時代には、京の花山院から逃れた後醍醐天皇の南朝皇居となり、その後明治時代初期まで修験道の勢力と共に発展してきました。
    このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院でしたが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺の憂き目に遭います。しかし1874(明治7)年、この場所で建武中興の理想が成就されたことを顕彰して明治天皇より「後醍醐天皇社」という名で創立が許され、その翌年に「吉水神社」に名を改めて現在に至っています。つまり、明治天皇の息のかかった神社なのです。

  • 吉水神社 弁慶力釘の石<br />本殿の右側にあるパワースポットです。<br />この石に差し込まれた釘は、弁慶が剛力を誇示するために2本の釘を親指で押し込んだものと伝えられています。<br />義経が吉水院で潜伏していることを知られ、頼朝の追手に囲まれた時、弁慶が傍にあった5寸釘を2本抜いて表に飛び出し、追手の真ん中にあった岩に全身全霊の力を振り絞って親指で釘2本を押し込んだと伝わります。<br />確かに石の表面には、押し込まれた釘の頭部が確認できます。弁慶の鬼気迫るパワーと形相に、追手が蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったのは言うまでもありません。

    吉水神社 弁慶力釘の石
    本殿の右側にあるパワースポットです。
    この石に差し込まれた釘は、弁慶が剛力を誇示するために2本の釘を親指で押し込んだものと伝えられています。
    義経が吉水院で潜伏していることを知られ、頼朝の追手に囲まれた時、弁慶が傍にあった5寸釘を2本抜いて表に飛び出し、追手の真ん中にあった岩に全身全霊の力を振り絞って親指で釘2本を押し込んだと伝わります。
    確かに石の表面には、押し込まれた釘の頭部が確認できます。弁慶の鬼気迫るパワーと形相に、追手が蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったのは言うまでもありません。

  • 吉水神社 弁慶力釘の石<br />常識では考えられないことですが、夢のある遺産です。弁慶の存在を否定したり、義経は小柄でブ男だったなどと夢の無い話をするよりも、弁慶は2mを超す大男でとんでもない力持ちだったとか、義経は美男だったと思う方が断然愉快です。「弁慶力釘はあり得ない」と思う人は、棺桶に片足を突っ込んでいるかもしれません。夢がなく、感動もできない哀れな老いぼれです。しかし肉体的にではなく、気持ちが老けているということです。サムエル・ウルマンの「青春とは心の若さである」を見習いたいですね!若い心を持っていれば、「これがかの有名な弁慶の釘か!触ってパワーを貰おう!!」と思うはずです。命がけで義経や静御前を守るとは、何と勇気のある人物かと感激するはずです。<br />「吉水院」は花見の際に秀吉とねねの宿泊所となり、最初に秀吉がこの弁慶力釘に興味を示し、ねねに笑いながら「弁慶の力釘から力を貰~らぉ」とおどけながら、この釘を撫で回したそうです。さすがに天下人は、肉体は老いても心は若かったようです。<br />ところで、何故全国津々浦々にこうした弁慶にまつわる武勇伝が数多あるのでしょうか?義経を守るために命を賭した弁慶の忠義を後世に伝えたかった証とは言えないでしょうか?<br />しかしこの力釘の存在を知らないのか、あるいは現実的なのか、誰も近くで見ようともしません。日本の未来はいったいどうなるのやら…。

    吉水神社 弁慶力釘の石
    常識では考えられないことですが、夢のある遺産です。弁慶の存在を否定したり、義経は小柄でブ男だったなどと夢の無い話をするよりも、弁慶は2mを超す大男でとんでもない力持ちだったとか、義経は美男だったと思う方が断然愉快です。 「弁慶力釘はあり得ない」と思う人は、棺桶に片足を突っ込んでいるかもしれません。夢がなく、感動もできない哀れな老いぼれです。しかし肉体的にではなく、気持ちが老けているということです。サムエル・ウルマンの「青春とは心の若さである」を見習いたいですね!若い心を持っていれば、「これがかの有名な弁慶の釘か!触ってパワーを貰おう!!」と思うはずです。命がけで義経や静御前を守るとは、何と勇気のある人物かと感激するはずです。
    「吉水院」は花見の際に秀吉とねねの宿泊所となり、最初に秀吉がこの弁慶力釘に興味を示し、ねねに笑いながら「弁慶の力釘から力を貰~らぉ」とおどけながら、この釘を撫で回したそうです。さすがに天下人は、肉体は老いても心は若かったようです。
    ところで、何故全国津々浦々にこうした弁慶にまつわる武勇伝が数多あるのでしょうか?義経を守るために命を賭した弁慶の忠義を後世に伝えたかった証とは言えないでしょうか?
    しかしこの力釘の存在を知らないのか、あるいは現実的なのか、誰も近くで見ようともしません。日本の未来はいったいどうなるのやら…。

  • 吉水神社 、「南朝皇居」の石碑<br />明治天皇は、近代日本の繁栄の礎は明治維新にあり、その源流は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にあるとの思いから、「南朝こそ正統」と宣言されました。<br />明治維新は、倒幕して王政復古を実現させることだけが目的ではありませんでした。実は北朝天皇家には、足利義満以来、天皇の血脈が流れていません。故に天皇家の血脈を持つ南朝に天皇の座を戻すため、薩長土肥の勤皇の志士たちが決起して「明治維新は南朝の確立」と位置付けたのです。<br />真偽のほどは不明ですが、南朝の末裔 後醍醐天皇の末裔に当たる大室虎之祐を伊藤博文や桂小五郎らが天皇の血脈に戻す計略があったと伝えられています。北畠親房の「尊皇思想」に目覚めた勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛の本家の菊池家が南朝側にあったことから、薩摩と長州が同盟を結び、大政奉還に繋げ、かくして明治維新の際に北朝 睦仁親王を殺めて南朝 虎之助と入れ替えて即位させたというストーリーです。明治維新の真の目的が南朝天皇の即位だったというショッキングな話ですが、これは自称明治天皇の孫であり国際政治評論家 中丸薫女史の著書『真実のともし火を消してはならない』のエピローグに吐露されています。果たして、明治天皇の入れ替えは首尾よくなされたのでしょうか?南朝を重んじ、楠木正成を主祭神とする湊川神社を別格官幣社に列格するなど数多の明治天皇の勅命を鑑みれば、「YES」と言えなくもありません。

    吉水神社 、「南朝皇居」の石碑
    明治天皇は、近代日本の繁栄の礎は明治維新にあり、その源流は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にあるとの思いから、「南朝こそ正統」と宣言されました。
    明治維新は、倒幕して王政復古を実現させることだけが目的ではありませんでした。実は北朝天皇家には、足利義満以来、天皇の血脈が流れていません。故に天皇家の血脈を持つ南朝に天皇の座を戻すため、薩長土肥の勤皇の志士たちが決起して「明治維新は南朝の確立」と位置付けたのです。
    真偽のほどは不明ですが、南朝の末裔 後醍醐天皇の末裔に当たる大室虎之祐を伊藤博文や桂小五郎らが天皇の血脈に戻す計略があったと伝えられています。北畠親房の「尊皇思想」に目覚めた勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛の本家の菊池家が南朝側にあったことから、薩摩と長州が同盟を結び、大政奉還に繋げ、かくして明治維新の際に北朝 睦仁親王を殺めて南朝 虎之助と入れ替えて即位させたというストーリーです。明治維新の真の目的が南朝天皇の即位だったというショッキングな話ですが、これは自称明治天皇の孫であり国際政治評論家 中丸薫女史の著書『真実のともし火を消してはならない』のエピローグに吐露されています。果たして、明治天皇の入れ替えは首尾よくなされたのでしょうか?南朝を重んじ、楠木正成を主祭神とする湊川神社を別格官幣社に列格するなど数多の明治天皇の勅命を鑑みれば、「YES」と言えなくもありません。

  • 吉水神社 書院 吉水院庭園<br />ここから先は有料エリアになります。<br />秀吉の花見に際し、秀吉が自ら基本設計を行なったとされる神仙思想に基づく鶴亀蓬莱の庭園です。<br />

    吉水神社 書院 吉水院庭園
    ここから先は有料エリアになります。
    秀吉の花見に際し、秀吉が自ら基本設計を行なったとされる神仙思想に基づく鶴亀蓬莱の庭園です。

  • 吉水神社 書院<br />日本住宅建築史上最古の書院として世界遺産にも登録されており、現在の日本住宅の源流をなす様々な手法が見られる貴重な建造物とされています。 <br />後醍醐天皇の玉座が置かれた部屋などが保存されています。天皇が家臣との謁見に使用したと思しき部屋なのですが、一見して往時を偲ばせるものではありません。恐らく豊臣秀吉が吉野の大花見を催した際に大改修を命じたものと思われ、桃山時代の特徴を色濃く残しています。

    吉水神社 書院
    日本住宅建築史上最古の書院として世界遺産にも登録されており、現在の日本住宅の源流をなす様々な手法が見られる貴重な建造物とされています。
    後醍醐天皇の玉座が置かれた部屋などが保存されています。天皇が家臣との謁見に使用したと思しき部屋なのですが、一見して往時を偲ばせるものではありません。恐らく豊臣秀吉が吉野の大花見を催した際に大改修を命じたものと思われ、桃山時代の特徴を色濃く残しています。

  • 吉水神社 書院<br />狭い境内にこれほどの規模の書院を造るのは難儀したようで、このように崖造りになっています。<br /><br />後醍醐天皇の「建武の新政」により、1334年に乾坤通宝(けんこんつうほう)という金貨の発行詔書が発行されています。何故「建武通宝」とせずに「乾坤」と名付けたのかは、真言立川流との関係があり、立川流の呪術的な意味を込めたものとされています。しかし乾坤通宝は鋳造されたのは確実ですが、未だに一枚も発見されていない幻の通貨です。吉水院は後醍醐天皇の皇居でもあり、南朝の埋蔵金貨「乾坤通宝」が密かに運び込まれ、吉野宮の何処かに隠されたという黄金伝説も語り継がれています。<br />伝説では、後醍醐天皇が懐良(かねなが)親王や宗良親王など各皇子に軍資金として持たせ、各地に下向させたそうです。しかし実際に貨幣として通用したのは、曲がりなりにも一時九州を統一した懐良親王の征西府政権だけだったようです。いつの世も貨幣が通用するには信用が第一と言うことわりでしょう。

    吉水神社 書院
    狭い境内にこれほどの規模の書院を造るのは難儀したようで、このように崖造りになっています。

    後醍醐天皇の「建武の新政」により、1334年に乾坤通宝(けんこんつうほう)という金貨の発行詔書が発行されています。何故「建武通宝」とせずに「乾坤」と名付けたのかは、真言立川流との関係があり、立川流の呪術的な意味を込めたものとされています。しかし乾坤通宝は鋳造されたのは確実ですが、未だに一枚も発見されていない幻の通貨です。吉水院は後醍醐天皇の皇居でもあり、南朝の埋蔵金貨「乾坤通宝」が密かに運び込まれ、吉野宮の何処かに隠されたという黄金伝説も語り継がれています。
    伝説では、後醍醐天皇が懐良(かねなが)親王や宗良親王など各皇子に軍資金として持たせ、各地に下向させたそうです。しかし実際に貨幣として通用したのは、曲がりなりにも一時九州を統一した懐良親王の征西府政権だけだったようです。いつの世も貨幣が通用するには信用が第一と言うことわりでしょう。

  • 吉水神社 北闕門(ほっけつもん)<br />庭の北側には北闕門が建てられています。<br />吉水院は元々霊峰 大峯山への入山許可を発行する場所でもあり、この門は昔から修験者の祈りの場とされ、ここから大峯山に入山するに当たり、修験者が平穏無事に下山できるよう祈った聖地でした。<br />「北闕」とは京都を意味し、朝夕、後醍醐天皇がいつか京の都に凱旋する日に思いを馳せ、都の空を仰ぎ見ながら「九字真法」の印を切り結んで祈ったと伝えられるスーパー・パワースポットです。

    吉水神社 北闕門(ほっけつもん)
    庭の北側には北闕門が建てられています。
    吉水院は元々霊峰 大峯山への入山許可を発行する場所でもあり、この門は昔から修験者の祈りの場とされ、ここから大峯山に入山するに当たり、修験者が平穏無事に下山できるよう祈った聖地でした。
    「北闕」とは京都を意味し、朝夕、後醍醐天皇がいつか京の都に凱旋する日に思いを馳せ、都の空を仰ぎ見ながら「九字真法」の印を切り結んで祈ったと伝えられるスーパー・パワースポットです。

  • 吉水神社 北闕門<br />ある日、後醍醐天皇は吉水院住職 宗信法印と並んでこの門に立ち、歌を詠みました。その歌が門の柱に掲げられています。 「みよし野の山の山守こととはん 今いくかありて花やさきなん」これに対し、宗信法印は「花さかん頃はいつとも白雲の いるを知るべにみよし野の山」と返歌しました。<br />天皇は京に戻る日を花に例え、花はいつ咲くのだろかと宗信法印に問います。花の咲く時期は判りませんが、必ず素晴らしい花が咲きますよと天皇の苦衷を慰めています。

    吉水神社 北闕門
    ある日、後醍醐天皇は吉水院住職 宗信法印と並んでこの門に立ち、歌を詠みました。その歌が門の柱に掲げられています。 「みよし野の山の山守こととはん 今いくかありて花やさきなん」 これに対し、宗信法印は「花さかん頃はいつとも白雲の いるを知るべにみよし野の山」と返歌しました。
    天皇は京に戻る日を花に例え、花はいつ咲くのだろかと宗信法印に問います。花の咲く時期は判りませんが、必ず素晴らしい花が咲きますよと天皇の苦衷を慰めています。

  • 吉水神社 書院 <br />後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間がある日本最古の書院造りなど、120数点にのぼる重要文化財や秘宝を展示しており、中でも南朝の資料に関しては全国随一で、重文の宝庫とも称され、2004年に世界遺産に登録されています。<br />秀吉の花見の際、境内の庭では各種の宴が催され、この日のために狩野派の有名な絵師が襖絵や障壁画を描き、建具も取り替えられたと伝えられています。こうしたことからも、如何にこの花見が盛大なものであったかが窺えます。

    吉水神社 書院
    後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間がある日本最古の書院造りなど、120数点にのぼる重要文化財や秘宝を展示しており、中でも南朝の資料に関しては全国随一で、重文の宝庫とも称され、2004年に世界遺産に登録されています。
    秀吉の花見の際、境内の庭では各種の宴が催され、この日のために狩野派の有名な絵師が襖絵や障壁画を描き、建具も取り替えられたと伝えられています。こうしたことからも、如何にこの花見が盛大なものであったかが窺えます。

  • 吉水神社 書院 鶴の間<br />出迎えてくれるのは、狩野山雪筆の襖絵「群鶴」です。さり気なく展示されているのですが、こんなに間近で、まじまじと観られるのは凄いことです。<br />

    吉水神社 書院 鶴の間
    出迎えてくれるのは、狩野山雪筆の襖絵「群鶴」です。さり気なく展示されているのですが、こんなに間近で、まじまじと観られるのは凄いことです。

  • 吉水神社 書院 鶴の間<br />繊細な筆緻に固唾を呑んで見入ります。

    吉水神社 書院 鶴の間
    繊細な筆緻に固唾を呑んで見入ります。

  • 吉水神社 書院 源義経潜居の間<br />兄 頼朝に追われた義経が、愛妾 静御前や弁慶と共に、ここに身を隠していたそうです。<br />掛け軸は、誰の筆になるのか不明ですが、「三賢人」(孔子、老子、荘子)です。孔子の言う「思いやり」、孟子のいう「勇気」、そして荘子のいう「調和」で人の値打ちが決まるという「三人の訓」を説いた絵です。<br />右側にある着物は、奥の着衣が静御前のものとされ、手前は秀吉が観桜を催した際に用いられた能衣装です。

    吉水神社 書院 源義経潜居の間
    兄 頼朝に追われた義経が、愛妾 静御前や弁慶と共に、ここに身を隠していたそうです。
    掛け軸は、誰の筆になるのか不明ですが、「三賢人」(孔子、老子、荘子)です。孔子の言う「思いやり」、孟子のいう「勇気」、そして荘子のいう「調和」で人の値打ちが決まるという「三人の訓」を説いた絵です。
    右側にある着物は、奥の着衣が静御前のものとされ、手前は秀吉が観桜を催した際に用いられた能衣装です。

  • 吉水神社 書院 弁慶思案の間<br />源義経潜居の間の手前右端の畳一畳ほどのスペースが「弁慶思案の間」です。ここで弁慶が寝起きしていたわけではありません。<br />ここで義経たちを守りながら逃亡計画を練っていたのかと想像を逞しくするだけでワクワクしてきます。しかし大柄な弁慶には少し手狭なような気がします。思案する際には狭所を好んだということでしょうか?

    吉水神社 書院 弁慶思案の間
    源義経潜居の間の手前右端の畳一畳ほどのスペースが「弁慶思案の間」です。ここで弁慶が寝起きしていたわけではありません。
    ここで義経たちを守りながら逃亡計画を練っていたのかと想像を逞しくするだけでワクワクしてきます。しかし大柄な弁慶には少し手狭なような気がします。思案する際には狭所を好んだということでしょうか?

  • 吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座<br />書院のハイライトは、後醍醐天皇の玉座です。<br />書院内で最も高貴な部屋であり、違い棚や床の間、付け書院など、現代の住宅の源流でとなる要素を備えています。ただし内装は豪華絢爛であり、玉座の片鱗を窺わせます。京の都から遠く離れざるを得なかった帝を慰めようとしたことが手に取るように判ります。<br />この間なら秀吉もさぞ歓喜したに違いないと思いきや、秀吉は天皇に遠慮して花見の最中に滞在した時もこの玉座にはなかなか座らなかったそうです。こうした話を聞くと、秀吉の隠れた一面を見た気がします。

    吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座
    書院のハイライトは、後醍醐天皇の玉座です。
    書院内で最も高貴な部屋であり、違い棚や床の間、付け書院など、現代の住宅の源流でとなる要素を備えています。ただし内装は豪華絢爛であり、玉座の片鱗を窺わせます。京の都から遠く離れざるを得なかった帝を慰めようとしたことが手に取るように判ります。
    この間なら秀吉もさぞ歓喜したに違いないと思いきや、秀吉は天皇に遠慮して花見の最中に滞在した時もこの玉座にはなかなか座らなかったそうです。こうした話を聞くと、秀吉の隠れた一面を見た気がします。

  • 吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座<br />珍しい朝顔をあしらった金屏風です。<br />後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れてかくまうことに反対する者も多かったそうですが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある」、「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら恥は千載に残す」、「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したそうです。

    吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座
    珍しい朝顔をあしらった金屏風です。
    後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れてかくまうことに反対する者も多かったそうですが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある」、「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら恥は千載に残す」、「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したそうです。

  • 吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座<br />後醍醐天皇は、悲願を叶えることなく、1339(延元4)年に夏風邪をこじらせて肺炎を併発し、宗信法印らの看病の甲斐なく崩御しました。<br />「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まむと思ふ」という辞世の句が残され、玉骨は天皇の肉体、魂魄は魂、南山は吉野山、北闕は京都を指します。後醍醐天皇は、この地に逗留しながらも、いつかは京都に戻ることを夢見ていたのです。<br />後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山を焼き払いましたが、その後、宗信法印らが後村上天皇を支え、やがて吉野は復興していきました。

    吉水神社 書院 後醍醐天皇玉座
    後醍醐天皇は、悲願を叶えることなく、1339(延元4)年に夏風邪をこじらせて肺炎を併発し、宗信法印らの看病の甲斐なく崩御しました。
    「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まむと思ふ」という辞世の句が残され、玉骨は天皇の肉体、魂魄は魂、南山は吉野山、北闕は京都を指します。後醍醐天皇は、この地に逗留しながらも、いつかは京都に戻ることを夢見ていたのです。
    後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山を焼き払いましたが、その後、宗信法印らが後村上天皇を支え、やがて吉野は復興していきました。

  • 吉水神社 書院 文化財・宝物展の間<br />京都と滋賀の間にある「逢坂の関」を詠った百人一首でお馴染みの蝉丸が使っていた琵琶(後醍醐天皇所持)や秀吉が寄進した銅鐸なども展示されています。<br />その他、水戸光圀公の書や一休和尚の書など、歴史ファンならずとも是非見ておきたい品々が惜しみなく展示されています。<br />

    吉水神社 書院 文化財・宝物展の間
    京都と滋賀の間にある「逢坂の関」を詠った百人一首でお馴染みの蝉丸が使っていた琵琶(後醍醐天皇所持)や秀吉が寄進した銅鐸なども展示されています。
    その他、水戸光圀公の書や一休和尚の書など、歴史ファンならずとも是非見ておきたい品々が惜しみなく展示されています。

  • 吉水神社 書院 文化財・宝物展の間 伝義経の鎧(重文)<br />伝・義経着用の鎧「色々威腹巻(いろいろおどしのはらまき)」です。時代を経ても見劣りしない見事な細工にはうっとりさせられますが、どこか違和感が…。義経の身が小柄だったとはいえ、子供用サイズではありませんか!?イメージしていたよりも更に小柄な人物だったようです。<br /><br />

    吉水神社 書院 文化財・宝物展の間 伝義経の鎧(重文)
    伝・義経着用の鎧「色々威腹巻(いろいろおどしのはらまき)」です。時代を経ても見劣りしない見事な細工にはうっとりさせられますが、どこか違和感が…。義経の身が小柄だったとはいえ、子供用サイズではありませんか!?イメージしていたよりも更に小柄な人物だったようです。

  • 吉水神社 書院 文化財・宝物展の間<br />佐藤忠信の兜、静御前の鐙などもあり、まさに博物館の趣です。

    吉水神社 書院 文化財・宝物展の間
    佐藤忠信の兜、静御前の鐙などもあり、まさに博物館の趣です。

  • 吉水神社 書院 役行者像<br />左が武器を持っているので前鬼(雄)、右が容器を持っているので後鬼(雌)です。<br />想像すらできませんが、この鬼たちは夫婦なのだそうです。<br />面白いのは、厨子の中に納まっているのは役行者だけということです。鬼たちは後から付け足されたものなのかもしれません。

    吉水神社 書院 役行者像
    左が武器を持っているので前鬼(雄)、右が容器を持っているので後鬼(雌)です。
    想像すらできませんが、この鬼たちは夫婦なのだそうです。
    面白いのは、厨子の中に納まっているのは役行者だけということです。鬼たちは後から付け足されたものなのかもしれません。

  • 吉水神社 書院 <br />秀吉が愛用した2対の金屏風が立てられています。<br />こちらの「竹の図」は、桃山時代後期の狩野山雪の作品です。<br />狩野永徳の亡くなった年に狩野山雪は生まれており、山雪は永徳の孫弟子に当たるようです。<br /><br /><br />

    吉水神社 書院
    秀吉が愛用した2対の金屏風が立てられています。
    こちらの「竹の図」は、桃山時代後期の狩野山雪の作品です。
    狩野永徳の亡くなった年に狩野山雪は生まれており、山雪は永徳の孫弟子に当たるようです。


  • 吉水神社 書院 <br />金屏風「桜の図」は、桃山時代前期の狩野永徳の作品です。<br />保存状態が悪く一部は金箔が剥がれていますが、狩野派の礎を築いた巨匠の作品をこれほど真近で観られるとは思いもしませんでした。

    吉水神社 書院
    金屏風「桜の図」は、桃山時代前期の狩野永徳の作品です。
    保存状態が悪く一部は金箔が剥がれていますが、狩野派の礎を築いた巨匠の作品をこれほど真近で観られるとは思いもしませんでした。

  • 吉水神社 書院 豊公吉野花見図屏風(複製)<br />秀吉の花見と言えば最晩年の1598(慶長3)年に醍醐寺 三宝院裏の山麓において1300人を招待した「醍醐の花見」が有名ですが、1594(文禄3)年2月27日には吉野で盛大な花見の宴を張っています。旧暦2月27日は新暦では4月17日、まさに花の盛りでしたが、文禄の役の真っただ中でもありました。<br />吉野の花見に同行したのは徳川家康や宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人や連歌師総勢5千人。その華やかな宴の様子は、『豊公吉野花見図屏風』(細見美術館所蔵)にも描かれています。<br />人数もさることながら滞在期間も5日間と長く、「歌の会」や「茶の会」、「能の会」などが開かれ、まさに宴尽くしだったようです。その規模から綿密に準備されたのでしょうが、秀吉の到着から3日間雨が降り続いたそうです。苛立った秀吉は、同行の聖護院の僧 道澄に「雨が止まねば吉野山に火をかけて即刻下山する」と無茶振りし、道澄は大慌てで吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐あってか、翌日には無事雨が止み、さすがの秀吉も吉野山の神仏の霊験に感じ入ったと伝えられています。秀吉は、「年月を心にかけし吉野山 花の盛りをけふ見つけるかな」と詠んでおり、猿顔をくしゃくしゃにした得意満面な姿が目に浮かぶようです。この花見に際し、秀吉は大坂から桜を千本移植させたそうです。<br />こうして信仰の対象ともいえる吉野の桜が、「宴を催して花を愛でる」習慣に変貌を遂げていったのです。一般庶民にも娯楽を与えた秀吉は、天下人としての器だったのでしょう。どこかの国の大統領や首相とは大違いです。こんなことを書くと証人喚問に呼び出されるのかも…。とんでもない世の中になったことです。くわばら、くわばら…。

    吉水神社 書院 豊公吉野花見図屏風(複製)
    秀吉の花見と言えば最晩年の1598(慶長3)年に醍醐寺 三宝院裏の山麓において1300人を招待した「醍醐の花見」が有名ですが、1594(文禄3)年2月27日には吉野で盛大な花見の宴を張っています。旧暦2月27日は新暦では4月17日、まさに花の盛りでしたが、文禄の役の真っただ中でもありました。
    吉野の花見に同行したのは徳川家康や宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人や連歌師総勢5千人。その華やかな宴の様子は、『豊公吉野花見図屏風』(細見美術館所蔵)にも描かれています。
    人数もさることながら滞在期間も5日間と長く、「歌の会」や「茶の会」、「能の会」などが開かれ、まさに宴尽くしだったようです。その規模から綿密に準備されたのでしょうが、秀吉の到着から3日間雨が降り続いたそうです。苛立った秀吉は、同行の聖護院の僧 道澄に「雨が止まねば吉野山に火をかけて即刻下山する」と無茶振りし、道澄は大慌てで吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐あってか、翌日には無事雨が止み、さすがの秀吉も吉野山の神仏の霊験に感じ入ったと伝えられています。秀吉は、「年月を心にかけし吉野山 花の盛りをけふ見つけるかな」と詠んでおり、猿顔をくしゃくしゃにした得意満面な姿が目に浮かぶようです。この花見に際し、秀吉は大坂から桜を千本移植させたそうです。
    こうして信仰の対象ともいえる吉野の桜が、「宴を催して花を愛でる」習慣に変貌を遂げていったのです。一般庶民にも娯楽を与えた秀吉は、天下人としての器だったのでしょう。どこかの国の大統領や首相とは大違いです。こんなことを書くと証人喚問に呼び出されるのかも…。とんでもない世の中になったことです。くわばら、くわばら…。

  • 吉水神社 書院 豊公吉野花見図屏風(複製)<br />伊達政宗の家臣が書いた『木村宇右衛門覚書』には、奇想天外なエピソードが綴られています。吉野の花見の趣向は「自分より身分が低い者に仮装すること」だったようで、秀吉は「茶店の下男」に扮装したそうです。因みに伊達政宗とお伴の片倉小十郎は、「山伏」でした。<br />そこで繰り広げられたのが「戦国コスプレ・コント」でした。山伏一行が茶屋に差し掛かると徳川家康や前田利家などが休憩中でした。<br />山伏一行の政宗「どこで休もうか…」。<br />茶店下男の秀吉「こちらでお休みくださいませ。私はこの茶屋の下男です。お代次第でお茶でもなんでもご提供いたします」。<br />政宗「我らはとても疲れておる。茶よりも酒を所望したい」。<br />そして法螺貝を吹きながら、「斎料を所望致す(お布施をくれ)」と秀吉に向かって言い放ち、大爆笑を得たとか…。<br />しかしウィットに富んだ秀吉の愉し気な趣向の宴の裏では、大名たちが秀吉の後継者について密談を繰り広げていました。通常、戦国時代のドラマでは、「茶」があるところには「密談」があり、茶室が出てくると誰かが殺害されたり、切腹させられたり、もしくは左遷させられたりします。時代劇を見る際には「茶」は一種の暗号ですので、見逃しは禁物です。

    吉水神社 書院 豊公吉野花見図屏風(複製)
    伊達政宗の家臣が書いた『木村宇右衛門覚書』には、奇想天外なエピソードが綴られています。吉野の花見の趣向は「自分より身分が低い者に仮装すること」だったようで、秀吉は「茶店の下男」に扮装したそうです。因みに伊達政宗とお伴の片倉小十郎は、「山伏」でした。
    そこで繰り広げられたのが「戦国コスプレ・コント」でした。山伏一行が茶屋に差し掛かると徳川家康や前田利家などが休憩中でした。
    山伏一行の政宗「どこで休もうか…」。
    茶店下男の秀吉「こちらでお休みくださいませ。私はこの茶屋の下男です。お代次第でお茶でもなんでもご提供いたします」。
    政宗「我らはとても疲れておる。茶よりも酒を所望したい」。
    そして法螺貝を吹きながら、「斎料を所望致す(お布施をくれ)」と秀吉に向かって言い放ち、大爆笑を得たとか…。
    しかしウィットに富んだ秀吉の愉し気な趣向の宴の裏では、大名たちが秀吉の後継者について密談を繰り広げていました。通常、戦国時代のドラマでは、「茶」があるところには「密談」があり、茶室が出てくると誰かが殺害されたり、切腹させられたり、もしくは左遷させられたりします。時代劇を見る際には「茶」は一種の暗号ですので、見逃しは禁物です。

  • 吉水神社 書院 鷹の間<br />狩野山雪筆の襖絵「鷹」です。<br />鷹たちはそれぞれ違うポーズをとり、静かな構図ですが活き活きと描かれています。<br />

    吉水神社 書院 鷹の間
    狩野山雪筆の襖絵「鷹」です。
    鷹たちはそれぞれ違うポーズをとり、静かな構図ですが活き活きと描かれています。

  • 吉水神社 書院 鷹の間<br />繊細な筆緻が印象的です。

    吉水神社 書院 鷹の間
    繊細な筆緻が印象的です。

  • 勝手神社<br />メインストリートまで戻ると直ぐに右手に鳥居が見えてきます。<br />流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本社は県の有形文化財でしたが、2001年9月27日、不審火により全焼しています。再建のための寄付金が吉水神社などで募られていますが、まだ目途が立っていないようです。<br /><br />ここで大海人皇子(天武天皇)が戦勝を祈りつつ琴を奏でていると、背後の山からにわかに五色の雲が湧き立ち、天女が現れ、衣の袖を振って舞ったということから、その山を袖振山と名付けたそうです。<br />また、源義経の愛妾 静御前ゆかりの謡曲『吉野静』、『二人静』の舞台ともなった場所ですので、早く再建されることを祈りたいと思います。

    勝手神社
    メインストリートまで戻ると直ぐに右手に鳥居が見えてきます。
    流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本社は県の有形文化財でしたが、2001年9月27日、不審火により全焼しています。再建のための寄付金が吉水神社などで募られていますが、まだ目途が立っていないようです。

    ここで大海人皇子(天武天皇)が戦勝を祈りつつ琴を奏でていると、背後の山からにわかに五色の雲が湧き立ち、天女が現れ、衣の袖を振って舞ったということから、その山を袖振山と名付けたそうです。
    また、源義経の愛妾 静御前ゆかりの謡曲『吉野静』、『二人静』の舞台ともなった場所ですので、早く再建されることを祈りたいと思います。

  • 勝手神社<br />境内には「義経公静旧跡 舞塚」の石碑がひっそりと佇んでいます。<br />義経が吉野の衆徒から逃れる際、佐藤忠信と図り、衆徒を欺くために静御前は舞を舞い、その間に義経を落ち延びさせるというのが『吉野静』のあらましです。<br />『二人静』のあらましは次のようです。吉野勝手明神に供えるために里に下り、菜摘みをしていた菜摘女の前に見知らぬ女が現れ、「私の罪の深さを憐れんで弔って下さるよう神職に伝えて欲しい」と言って消え去りました。菜摘女がこの出来事を神職に伝えると、たちまち菜摘女の言葉と顔付きが変貌しました。神職が何者かと尋ねると、「判官殿に仕えた者」と答え、自分は静であると言います。静御前ならば舞の名手のはずという神職の問いかけにより、舞を舞います。するといつの間にか静御前の霊が現れ、二人の静御前が寸分の狂いもなく息の合った舞を舞ったのでした。

    勝手神社
    境内には「義経公静旧跡 舞塚」の石碑がひっそりと佇んでいます。
    義経が吉野の衆徒から逃れる際、佐藤忠信と図り、衆徒を欺くために静御前は舞を舞い、その間に義経を落ち延びさせるというのが『吉野静』のあらましです。
    『二人静』のあらましは次のようです。吉野勝手明神に供えるために里に下り、菜摘みをしていた菜摘女の前に見知らぬ女が現れ、「私の罪の深さを憐れんで弔って下さるよう神職に伝えて欲しい」と言って消え去りました。菜摘女がこの出来事を神職に伝えると、たちまち菜摘女の言葉と顔付きが変貌しました。神職が何者かと尋ねると、「判官殿に仕えた者」と答え、自分は静であると言います。静御前ならば舞の名手のはずという神職の問いかけにより、舞を舞います。するといつの間にか静御前の霊が現れ、二人の静御前が寸分の狂いもなく息の合った舞を舞ったのでした。

  • 華麗な桜ばかり見ていると、こうした楚々とした梅花の気品にドキッとさせられます。<br />勝手神社の先で道は二股に分岐します。<br />どちらを通っても上千本には行けますが、櫻本坊や竹林院に寄りたい場合は右側の道を進みます。

    華麗な桜ばかり見ていると、こうした楚々とした梅花の気品にドキッとさせられます。
    勝手神社の先で道は二股に分岐します。
    どちらを通っても上千本には行けますが、櫻本坊や竹林院に寄りたい場合は右側の道を進みます。

  • 櫻本坊(さくらもとぼう)<br />金峯山修験本宗別格本山、大峯山寺の護持院五箇院のひとつに数えられ、大海人皇子の勅願寺でもあります。本尊は役行者神変大菩薩像を祀ります。修験道場として開山され、山伏文化の殿堂と称されるほど多くの文化財が残されています。<br />元々は金峯山寺の蔵王堂の前にあり、密乗院と称していましたが、神仏分離の際に「櫻本坊」と改称し、現在は宿坊も営んでいます。<br />秀吉が催した花見の際には、関白 秀次の宿舎、また徳川家康の本陣となりました。それ以来、徳川家の菩提所と尊ばれ、家康をはじめとする歴代将軍の位牌を祀っています。

    櫻本坊(さくらもとぼう)
    金峯山修験本宗別格本山、大峯山寺の護持院五箇院のひとつに数えられ、大海人皇子の勅願寺でもあります。本尊は役行者神変大菩薩像を祀ります。修験道場として開山され、山伏文化の殿堂と称されるほど多くの文化財が残されています。
    元々は金峯山寺の蔵王堂の前にあり、密乗院と称していましたが、神仏分離の際に「櫻本坊」と改称し、現在は宿坊も営んでいます。
    秀吉が催した花見の際には、関白 秀次の宿舎、また徳川家康の本陣となりました。それ以来、徳川家の菩提所と尊ばれ、家康をはじめとする歴代将軍の位牌を祀っています。

  • 櫻本坊<br />山門では優しい名前の割には厳つい形相の真っ赤な仁王像が出迎え、吃驚させられます。<br />白州正子著『葛城から吉野へ』の一説には、次のように記されています。<br />「文化は発達しすぎると、柔弱に流れる。人間は自然から遠ざかると、病的になる。多分に野蛮なところはあるけれども、そういう危機からいつも救ったのは、山岳信仰の野生とエネルギーであった」。

    櫻本坊
    山門では優しい名前の割には厳つい形相の真っ赤な仁王像が出迎え、吃驚させられます。
    白州正子著『葛城から吉野へ』の一説には、次のように記されています。
    「文化は発達しすぎると、柔弱に流れる。人間は自然から遠ざかると、病的になる。多分に野蛮なところはあるけれども、そういう危機からいつも救ったのは、山岳信仰の野生とエネルギーであった」。

  • 櫻本坊<br />境内に入ると、正面には本堂、その左手に3つの堂宇が並び、本堂前の不思議な石塔と弁財天の朱塗りの鳥居が目立つ他は、意外にひっそりしています。4月の観桜シーズンには白鳳時代に造られた個性的な「釈迦如来坐像(重文)」(推古時代)、11月の紅葉シーズンには「天武天皇秘像」が特別開帳されます。<br />また、庫裡の拝観受付横には樹齢約350年を経た「ギンモクセイ」の巨木があり、県指定の天然記念物として保護されています。

    櫻本坊
    境内に入ると、正面には本堂、その左手に3つの堂宇が並び、本堂前の不思議な石塔と弁財天の朱塗りの鳥居が目立つ他は、意外にひっそりしています。4月の観桜シーズンには白鳳時代に造られた個性的な「釈迦如来坐像(重文)」(推古時代)、11月の紅葉シーズンには「天武天皇秘像」が特別開帳されます。
    また、庫裡の拝観受付横には樹齢約350年を経た「ギンモクセイ」の巨木があり、県指定の天然記念物として保護されています。

  • 櫻本坊<br />誰もいないのかと思いきや、右手の枝垂桜の周囲に人影があります。<br />吉野は、大和の奥座敷として古代から大海人皇子(天武天皇)、源義経、後醍醐天皇等が一時退避した言わば隠れ家的存在でした。つまり、復権を目論む権威を象徴する場所でもありました。<br />その第一人者とも言える大海人皇子が、吉野の山中にて庭の桜が満開に咲く夢を見て天下を治めたことから、吉野の桜は霊木であると崇められ、それ以降、桜の愛護がさらに高まったと伝えられています。<br />古来、日本人には故人に花を手向ける習慣がありました。古今和歌集など多くの詩に謳われたのもその心の表現であり、また秀吉がこの吉野で花の饗宴を開いたのも、それによって人心を掴もうとする権力者としての手段だったと言われています。<br />因みに、天武天皇が吉野を絶賛したという、笑ってしまうような歌が『万葉集』にあります。<br />「よき人のよしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よよき人よく見つ」。<br />(昔のよき人が、良い所だとよく見て「良し」と言ったこの吉野をよく見なさい。良き人はよく見たものだ。)

    櫻本坊
    誰もいないのかと思いきや、右手の枝垂桜の周囲に人影があります。
    吉野は、大和の奥座敷として古代から大海人皇子(天武天皇)、源義経、後醍醐天皇等が一時退避した言わば隠れ家的存在でした。つまり、復権を目論む権威を象徴する場所でもありました。
    その第一人者とも言える大海人皇子が、吉野の山中にて庭の桜が満開に咲く夢を見て天下を治めたことから、吉野の桜は霊木であると崇められ、それ以降、桜の愛護がさらに高まったと伝えられています。
    古来、日本人には故人に花を手向ける習慣がありました。古今和歌集など多くの詩に謳われたのもその心の表現であり、また秀吉がこの吉野で花の饗宴を開いたのも、それによって人心を掴もうとする権力者としての手段だったと言われています。
    因みに、天武天皇が吉野を絶賛したという、笑ってしまうような歌が『万葉集』にあります。
    「よき人のよしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よよき人よく見つ」。
    (昔のよき人が、良い所だとよく見て「良し」と言ったこの吉野をよく見なさい。良き人はよく見たものだ。)

  • 櫻本坊<br />「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の におうがごとく今さかりなり」。<br />聖武天皇の時代、小野老(おののおゆ)が太宰府着任の歓迎の宴で奈良の都を思って詠んだ歌です。往時、聖武天皇に初の皇子が誕生し、都全体が祝賀ムードにあることを詠みました。しかし残念なことに皇子は誕生の翌年に逝去し、女帝 孝謙天皇が位に就くことになりました。<br />「あをに(青丹)よし」は奈良の枕詞で、連子窓等を彩る緑青「青」と柱梁を染める本朱「丹」の素材となる石が奈良でよく採れたことが由来です。青と赤に彩られた煌びやかさや大和の青垣と建物の朱色が調和した美しさなど、奈良の建物の情景を表しています。<br />「薫(にお)ふ」は、香るだけではなく、「美しく色が照り映え、輝いている」との意味もあります。花が盛りで生命力に溢れた様子を都のイメージに重ねています。作者の脳裏に浮かんでいた花は、「梅」か「桜」であろうと推定されますが、限定はできないようです。

    櫻本坊
    「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の におうがごとく今さかりなり」。
    聖武天皇の時代、小野老(おののおゆ)が太宰府着任の歓迎の宴で奈良の都を思って詠んだ歌です。往時、聖武天皇に初の皇子が誕生し、都全体が祝賀ムードにあることを詠みました。しかし残念なことに皇子は誕生の翌年に逝去し、女帝 孝謙天皇が位に就くことになりました。
    「あをに(青丹)よし」は奈良の枕詞で、連子窓等を彩る緑青「青」と柱梁を染める本朱「丹」の素材となる石が奈良でよく採れたことが由来です。青と赤に彩られた煌びやかさや大和の青垣と建物の朱色が調和した美しさなど、奈良の建物の情景を表しています。
    「薫(にお)ふ」は、香るだけではなく、「美しく色が照り映え、輝いている」との意味もあります。花が盛りで生命力に溢れた様子を都のイメージに重ねています。作者の脳裏に浮かんでいた花は、「梅」か「桜」であろうと推定されますが、限定はできないようです。

  • 櫻本坊 夢見桜<br />大海人皇子(天武天皇)が夢に見た枝垂桜「夢見桜」で知られており、大きく枝を広げて咲き誇る妖艶な姿は圧巻です。これが天武天皇の見た桜であれば樹齢1300年を下りませんが、そのクローンということなのでしょう。例年の開花時期は比較的早く、中千本の桜が見頃になる頃には終わっているようですが、今年は何とか見ることができました。<br />伝承によると、672年の壬申の乱の前年、櫻本坊の前身となる日雄(ひのお)離宮に逗留していた大海人皇子は、山中に満開の桜が見事に咲き誇る夢を見ました。翌朝、前方の山を見上げると、冬だというのに夢そのままに一本の桜が美しく堂々と咲いていたのです。役行者の高弟 日雄角乗に夢判断を命じたところ、「桜は花の王であり、これは皇子が天皇になるという吉夢」と答えました。翌年その言葉通り、皇子は壬申の乱に勝利して天武天皇に即位しました。こうした所縁により、夢で見た桜木のあった場所に寺院を建立し、勅願寺としてその名を「櫻本坊」としたと伝えられる古刹です。

    櫻本坊 夢見桜
    大海人皇子(天武天皇)が夢に見た枝垂桜「夢見桜」で知られており、大きく枝を広げて咲き誇る妖艶な姿は圧巻です。これが天武天皇の見た桜であれば樹齢1300年を下りませんが、そのクローンということなのでしょう。例年の開花時期は比較的早く、中千本の桜が見頃になる頃には終わっているようですが、今年は何とか見ることができました。
    伝承によると、672年の壬申の乱の前年、櫻本坊の前身となる日雄(ひのお)離宮に逗留していた大海人皇子は、山中に満開の桜が見事に咲き誇る夢を見ました。翌朝、前方の山を見上げると、冬だというのに夢そのままに一本の桜が美しく堂々と咲いていたのです。役行者の高弟 日雄角乗に夢判断を命じたところ、「桜は花の王であり、これは皇子が天皇になるという吉夢」と答えました。翌年その言葉通り、皇子は壬申の乱に勝利して天武天皇に即位しました。こうした所縁により、夢で見た桜木のあった場所に寺院を建立し、勅願寺としてその名を「櫻本坊」としたと伝えられる古刹です。

  • 常楽山竹林院<br />聖徳太子が開創して椿山寺と号し、天下国家の護持寺に備えたと伝わり、これを創建としています。その後空海が818年に入峯した際に常楽寺椿山と称し、1385年に後小松天皇の勅命を受けて竹林院と改称し、大峯修行の拠点や修験者達の宿坊として護持され、往時は金峯山寺4律院に数えられていました。<br />その後、神仏分離に伴い廃寺となりましたが、やがて天台宗の寺院として復興し、1948(昭和23)に現在の修験道系統の単立寺院となり、大峯山寺を護持する護持院のひとつになっています。<br />因みに戦国時代の竹林院第23世 尊祐は、弓術をよくしたといい、弓道竹林派という一派を立てるなどしています。

    常楽山竹林院
    聖徳太子が開創して椿山寺と号し、天下国家の護持寺に備えたと伝わり、これを創建としています。その後空海が818年に入峯した際に常楽寺椿山と称し、1385年に後小松天皇の勅命を受けて竹林院と改称し、大峯修行の拠点や修験者達の宿坊として護持され、往時は金峯山寺4律院に数えられていました。
    その後、神仏分離に伴い廃寺となりましたが、やがて天台宗の寺院として復興し、1948(昭和23)に現在の修験道系統の単立寺院となり、大峯山寺を護持する護持院のひとつになっています。
    因みに戦国時代の竹林院第23世 尊祐は、弓術をよくしたといい、弓道竹林派という一派を立てるなどしています。

  • 常楽山竹林院<br />山門には龍の彫刻があります。<br />裏手は獅子になっています。

    常楽山竹林院
    山門には龍の彫刻があります。
    裏手は獅子になっています。

  • 常楽山竹林院<br />扁額「竹林院」が掲げられたかつての車寄せには、狩野派の筆を彷彿とさせる衝立や襖絵、障壁画があります。この寺院は、宿坊も兼ねているため宿泊客や食事を摂る観光客の出入が多く、寺院というよりは老舗旅館といったイメージです。近代では与謝野晶子や谷崎潤一郎をはじめ数多の文人墨客が逗留した宿として知られ、1981年に昭和天皇・皇后両陛下が宿泊された宿坊としても有名です。<br />因みに、ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2013に掲載されています。尚、宿坊のロビーには、ガラス張りで厳重に管理されている狩野派の絵画様式の確立者とされる狩野元信の屏風があります。秀吉の花見の際に寄進されたものだそうですが、鑑定によると1億円は下らない代物だそうです。宿泊される方は、見逃さないようにしてください。

    常楽山竹林院
    扁額「竹林院」が掲げられたかつての車寄せには、狩野派の筆を彷彿とさせる衝立や襖絵、障壁画があります。この寺院は、宿坊も兼ねているため宿泊客や食事を摂る観光客の出入が多く、寺院というよりは老舗旅館といったイメージです。近代では与謝野晶子や谷崎潤一郎をはじめ数多の文人墨客が逗留した宿として知られ、1981年に昭和天皇・皇后両陛下が宿泊された宿坊としても有名です。
    因みに、ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2013に掲載されています。尚、宿坊のロビーには、ガラス張りで厳重に管理されている狩野派の絵画様式の確立者とされる狩野元信の屏風があります。秀吉の花見の際に寄進されたものだそうですが、鑑定によると1億円は下らない代物だそうです。宿泊される方は、見逃さないようにしてください。

  • 常楽山竹林院<br />唐破風にある彫刻もいい味を出しています。<br />上から順に、鳳凰、力士、虎の組み合わせのようです。

    常楽山竹林院
    唐破風にある彫刻もいい味を出しています。
    上から順に、鳳凰、力士、虎の組み合わせのようです。

  • 常楽山竹林院<br />扁額の文字は、どことなく艶っぽさを感じさせます。<br />

    常楽山竹林院
    扁額の文字は、どことなく艶っぽさを感じさせます。

  • 常楽山竹林院<br />与謝野晶子はお忍びの際にはここを定宿にしていたそうで、逗留時に愛用した文机や硯が残されています。<br />夫の寛と一緒の時には、何の躊躇もなく上座に座ったそうです。

    常楽山竹林院
    与謝野晶子はお忍びの際にはここを定宿にしていたそうで、逗留時に愛用した文机や硯が残されています。
    夫の寛と一緒の時には、何の躊躇もなく上座に座ったそうです。

  • 常楽山竹林院 護摩堂<br />ここから先は有料エリアになります。<br />通常、護摩堂は護摩を焚くための堂宇を指しますが、ここでは護摩堂=本堂という扱いのように思われます。何故なら堂宇の中には、「本尊の木造彩色不動明王像を中心に、同じ造りの役行者像、蔵王権現の3尊と南北朝時代に彫られた聖徳太子坐像が祀られているからです。<br />扁額には「慈救殿」とあり、その扁額の上には烏天狗の彫り物が飾られています。もっとも烏天狗の装束は、修験道の修験者そのものですから驚くには値しませんが…。

    常楽山竹林院 護摩堂
    ここから先は有料エリアになります。
    通常、護摩堂は護摩を焚くための堂宇を指しますが、ここでは護摩堂=本堂という扱いのように思われます。何故なら堂宇の中には、「本尊の木造彩色不動明王像を中心に、同じ造りの役行者像、蔵王権現の3尊と南北朝時代に彫られた聖徳太子坐像が祀られているからです。
    扁額には「慈救殿」とあり、その扁額の上には烏天狗の彫り物が飾られています。もっとも烏天狗の装束は、修験道の修験者そのものですから驚くには値しませんが…。

  • 常楽山竹林院<br />渡り廊下の先に佇む、樹高のある大枝垂桜です。<br />仰ぎ見るとピンクのパラソルのようです。<br /><br />

    常楽山竹林院
    渡り廊下の先に佇む、樹高のある大枝垂桜です。
    仰ぎ見るとピンクのパラソルのようです。

  • 常楽山竹林院<br />宿坊の屋根にかかる大枝垂桜が可憐な乙女の髪飾りを彷彿とさせます。

    常楽山竹林院
    宿坊の屋根にかかる大枝垂桜が可憐な乙女の髪飾りを彷彿とさせます。

  • 常楽山竹林院 群芳園<br />境内には、室町時代末期、竹林院第21世 祐尊が大峯山上の景観を庭園に移して築造し、1594(文禄3)年に千利休が秀吉の吉野山観桜に合わせて手を加えて桃山風の池泉回遊式庭園に修築したと伝わる、1000平方m(320坪)ある借景庭園があります。一説には細川幽斎が改修したとも言われています。この「群芳園」は、大和郡山「慈光院」、葛城の當麻寺中の坊「香藕園」と並んで大和三庭園のひとつに数えられています。<br />出島や滝が造られ、二重集団二重護岸の石組などに室町時代を偲べますが、桃山時代の作風になる蓬莱石組が中心になっています。<br />因みに与謝野晶子は、この庭を次のように詠んでいます。<br />「山の島 竹林院の竹泉を 楽しむ朝になりにけるかな」<br />確かに深い緑と淡紅色の桜のバランスが絶妙で、暫く黙して眺めていたくなる景色です。

    常楽山竹林院 群芳園
    境内には、室町時代末期、竹林院第21世 祐尊が大峯山上の景観を庭園に移して築造し、1594(文禄3)年に千利休が秀吉の吉野山観桜に合わせて手を加えて桃山風の池泉回遊式庭園に修築したと伝わる、1000平方m(320坪)ある借景庭園があります。一説には細川幽斎が改修したとも言われています。この「群芳園」は、大和郡山「慈光院」、葛城の當麻寺中の坊「香藕園」と並んで大和三庭園のひとつに数えられています。
    出島や滝が造られ、二重集団二重護岸の石組などに室町時代を偲べますが、桃山時代の作風になる蓬莱石組が中心になっています。
    因みに与謝野晶子は、この庭を次のように詠んでいます。
    「山の島 竹林院の竹泉を 楽しむ朝になりにけるかな」
    確かに深い緑と淡紅色の桜のバランスが絶妙で、暫く黙して眺めていたくなる景色です。

  • 常楽山竹林院 群芳園 天人桜<br />池畔には「天人桜」と呼ばれる淡紅色の枝垂れ彼岸桜があり、吉野山内では最も長寿の老木と言われ、横張りが見事です。<br />通常はシロヤマザクラより1週間ほど早く満開になるそうですが、今年はほぼ同じタイミングで満開になっています。<br />

    常楽山竹林院 群芳園 天人桜
    池畔には「天人桜」と呼ばれる淡紅色の枝垂れ彼岸桜があり、吉野山内では最も長寿の老木と言われ、横張りが見事です。
    通常はシロヤマザクラより1週間ほど早く満開になるそうですが、今年はほぼ同じタイミングで満開になっています。

  • 常楽山竹林院 群芳園 <br />苔生した深い緑に桜花が映えます。<br />

    常楽山竹林院 群芳園
    苔生した深い緑に桜花が映えます。

  • 常楽山竹林院 群芳園 天人桜<br />元々は、太閤秀吉が花見で立ち寄った際に植えられた枝垂桜と伝わります。現在のものは推定樹齢300年とされ、背丈はさほどありませんが、横張りがあり池を覆うかのように咲き乱れ、幹(桜の場合、正式には枝と言うそうですが…)が太いのが特徴です。<br />幽玄な美しさは息を呑むほどです。

    常楽山竹林院 群芳園 天人桜
    元々は、太閤秀吉が花見で立ち寄った際に植えられた枝垂桜と伝わります。現在のものは推定樹齢300年とされ、背丈はさほどありませんが、横張りがあり池を覆うかのように咲き乱れ、幹(桜の場合、正式には枝と言うそうですが…)が太いのが特徴です。
    幽玄な美しさは息を呑むほどです。

  • 常楽山竹林院 群芳園 <br />群芳園は、大花見の際に秀吉が総勢1500人を引き連れて観桜を行なったと伝えられています。また、2011年には、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にも登録されており、折り紙つきの四季折々の花が愛でられます。<br />目に鮮やかな赤紫のミツバツツジのその先には薄桃色の枝垂桜、山景色を借景にした緑の樹林…。暫し浮世を忘れさせる絶景です。そしてアクセントには、中央やや左の遥か彼方には蔵王堂が顔を覗かせるという完成度です。<br />この丘には、西行法師が詠んだ「吉野山こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねむ」の碑があります。

    常楽山竹林院 群芳園
    群芳園は、大花見の際に秀吉が総勢1500人を引き連れて観桜を行なったと伝えられています。また、2011年には、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にも登録されており、折り紙つきの四季折々の花が愛でられます。
    目に鮮やかな赤紫のミツバツツジのその先には薄桃色の枝垂桜、山景色を借景にした緑の樹林…。暫し浮世を忘れさせる絶景です。そしてアクセントには、中央やや左の遥か彼方には蔵王堂が顔を覗かせるという完成度です。
    この丘には、西行法師が詠んだ「吉野山こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねむ」の碑があります。

  • 常楽山竹林院 群芳園 <br />小高い丘を周遊するコース設定になっており、そこから宿坊を一望できます。<br />50年毎に葺き替えられる茅葺きの大屋根と、その上にちょこんと頭を出している煙出しがとても印象的です。<br />

    常楽山竹林院 群芳園
    小高い丘を周遊するコース設定になっており、そこから宿坊を一望できます。
    50年毎に葺き替えられる茅葺きの大屋根と、その上にちょこんと頭を出している煙出しがとても印象的です。

  • 常楽山竹林院 群芳園 <br />大枝垂桜は端整なお椀のような形をしており、こうして丘の上から見下ろすと一段と迫力があります。<br />屋根瓦は紅葉を撮る際のアクセントになりますが、桜でも使えますね!<br />もう少し黒ければ申し分ないのですが…。

    常楽山竹林院 群芳園
    大枝垂桜は端整なお椀のような形をしており、こうして丘の上から見下ろすと一段と迫力があります。
    屋根瓦は紅葉を撮る際のアクセントになりますが、桜でも使えますね!
    もう少し黒ければ申し分ないのですが…。

  • 中千本公園<br />道を挟んで竹林院の反対側には、こんもりした丘のような中千本公園が広がっています。<br />その相叶(おおか)の丘から見上げる上千本の滝桜も圧巻だそうです。<br />

    中千本公園
    道を挟んで竹林院の反対側には、こんもりした丘のような中千本公園が広がっています。
    その相叶(おおか)の丘から見上げる上千本の滝桜も圧巻だそうです。

  • 滝桜を構成する一部の桜林です。<br />その間を吉野山観光車道が走っています。

    滝桜を構成する一部の桜林です。
    その間を吉野山観光車道が走っています。

  • ズームアップすると、個々の桜木が繊細な綿毛を纏っているような儚げな表情をしています。日本人の琴線に触れるような情景です。<br /><br />この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥③上千本でお届けいたします。

    ズームアップすると、個々の桜木が繊細な綿毛を纏っているような儚げな表情をしています。日本人の琴線に触れるような情景です。

    この続きは、芳葩爛漫 吉野山逍遥③上千本でお届けいたします。

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