2017/03/29 - 2017/03/31
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旅人のくまさんさん
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九州西北部のお城巡りです。最初に見学した福岡城の紹介の締め括りです。歴史的に著名な軍師の一人、黒田官兵衛(如水)と、その嫡男の長政にはじまり、明治維新まで続いた黒田家の居城です。
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牡丹と芍薬の花はよく似ていますが、芍薬は草本、牡丹は木本の落葉低木です。牡丹か芍薬の新芽どきの光景のようです。赤味を帯びた新芽が花壇一面に広がっていました。直感では、草本の新芽の芍薬のようでしたが、自信はありません。芍薬はボタン科ボタン属の植物、牡丹も同様です。(ウィキペディア)
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ズームアップした、芍薬らしい新芽の光景です。英語名の牡丹は、『tree piony』、芍薬が『chinese piony』です。『木の芍薬』の牡丹に対し、『中国芍薬』になるようです。別の違いは、牡丹の葉には艶があり、花の時期も4月頃からなのに対して、芍薬は艶がない葉で花は5月が見頃になります。(同上)
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一斉に芽吹き始めた芍薬の光景です。『芍薬(シャクヤク)』は、中国北部、シベリア南東部、朝鮮半島などに自生し、中国では古くから栽培されていました。薬用植物としても知られ、花から根まで余すことなく使用され、江戸時代からは「茶花」として観賞用としても親しまれてきました。(ラブグリーン)』、とも紹介されていました。(同上)
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左側が『黒田如水公御鷹屋敷跡』の文字が刻まれた石標、右側が『黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)跡』の説明パネルです。『黒田官兵衛孝高(如水):1546~1604年』は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされます。はじめ赤松氏の一族で、当時姫路の小寺氏に仕えましたが、のちに羽柴秀吉に従い,竹中半兵衛(1544~1579年)とともに秀吉の軍師として重きをなしました』(同上)
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『黒田如水隠居地(三の丸御鷹屋敷)跡』の説明パネルのズームアップ光景です。『黒田官兵衛は、中国、四国及び九州の平定の後は、その軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築きました』、現在地が、縄張り図の左上付近に赤く記されていました。三の丸のエリアになります。(同上)
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イチオシ
『黒田如水公御鷹屋敷跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な『貝原益軒(1630~1714年)』の書、『筑前国続風土記(ちくぜんのくに・ぞくふどき)』の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある『三ノ丸御鷹(おたか)屋敷』は、現在のここ「ボタン・シャクヤク園」になります。(同上)
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イチオシ
黒田如水公の隠居屋敷の『御鷹屋敷』の光景です。こじんまりとした二階建てですが、晩年の如水公に相応しい造りのようにも思えます。また、如水像は複数ありますが、どれも脇息にもたれかかり、片膝を立ててくつろいだ姿です。これは足が不自由だからとする説明が多いようですが、柿本人麻呂像を始めとする歌人の肖像によく見られる様式です。歌人としての如水の像もこれに倣っているようです。(同上)
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偉大な如水公を父に持った『黒田長政公(1568~1623年)』も才能豊かで、歴史に残る活躍をした人です。豊臣時代、九州平定、文禄・慶長の役で名を残しました。特に関ヶ原の戦いでは、東軍に付いて大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となりました。(同上)
*写真は、開花前の枝垂れ桜園の光景です。 -
黒田孝高は、中央の織田信長に伺候し、織田氏家臣の羽柴秀吉に従っていましたが、天正5年(1577年)10月、孝高は秀吉に対して起請文を提出し、松寿丸(後の長政)を人質として秀吉に預けました。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたもので、主君の小寺政職の嫡子・氏職が病弱であるための身代りでした。(同上)
*写真は、『舞鶴公園・牡丹・芍薬園』の40種ほどの品種名一覧の説明パネルです。 -
松寿丸は、秀吉の居城・近江長浜城では、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたといいます。この頃、別所重棟の娘と婚約していますが、のちに破談となりました。天正6年(1578年)、信長に一度降伏した『荒木村重(1535~1586年)』が反旗を翻した『有岡城の戦い』が起きました。(同上)
*写真は、開花前の枝垂れ桜園の光景です。 -
父の孝高は、懇意だった荒木村重を翻意させるために、有岡城へ乗り込みますが、説得に失敗し、逆に拘束されました。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見做した信長からの命令で、松寿丸は処刑されることになりました。ところが、父の同僚・竹中重治(半兵衛)が、密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城に引き取って、家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸に匿いました。(同上)
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竹中半兵衛は、信長には処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせました。身代りとして松寿丸の遊び相手の首を差し出すことにより松寿丸自身の命は助かりました。この身代りの親に対し、如水親子は後に扶持を与えています。この信長に対する処刑確認、いわゆる首実検の際、身代りの首を信長の前に届ける使者となったのも不破矢足でした。(同上)
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有岡城の陥落後、父の官兵衛が救出され、疑念が晴らされたため姫路へ帰郷しました。この出来事で、信長は松寿丸の処刑を命じたことを悔やんだと伝えられ、また、松寿丸が生きていたことを知らされ安堵したと伝わります。のちに長政は、不破矢足を召し抱えようとしますが、矢足自身はこれを固辞し、矢足の長男が福岡藩士となりました。それにしても、竹中半兵衛、黒田官兵衛ともにすごい人です。(同上)
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福岡県指定文化財の『旧母里太兵衛邸長屋門』の説明看板の光景です。昭和53年(1978年)3月に設置された、福岡市教育委員会名の立派な看板でした。この地に収まるまで、いくつかの変遷を経たようでした。(同上)、母里太兵衛は、ほかの場所でも紹介しましたが、天下の名槍を福島正則から呑み取った酒豪で、槍遣いの豪傑です。(同上)
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『三の丸スクエア』の案内標識です。『母里太兵衛』についての紹介の続きです。黒田家中での正式な読みは『ぼり』ですが、『ほり』と読まれることが多いようです。江戸幕府の文書などに『毛利』と誤記され、実際に一時期『毛利』と改姓したため『毛利但馬』、『毛利太兵衛』と表記されることも多いようです。(同上)
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三つの観光案内が一緒になった看板の紹介です。左上が『平和台鴻臚館跡・福岡城跡と舞鶴公園』、右上が『舞鶴公園』の観光スポット紹介、下部が『三の丸スクエア』でした。『三の丸スクエア』が、福岡城と鴻臚館の総合案内所のようでした。(同上)
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紹介文には、『豪傑母里太兵衛の邸宅に構えられたもので、武家屋敷長屋門として代表的な江戸時代の優れた建造物である。なお、現在の天神二丁目の野村證券福岡支店の地は、母里太兵衛の当時の屋敷跡で、この長屋門はそこにあったが、昭和27年證券ビル建築のため取り除かれ、昭和40年現在地に復元されたものである』、最終的には、平成27年(2015年)4月に補修工事がされています。(同上)
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イチオシ
『名島城城門』です。名島(なじま)城は、天正15年(1587年)に『小早川隆景(1533~1597年)』が築いた城です。隆景は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、竹原小早川家第14代当主でした。関ヶ原の戦い後、黒田長政の居城になりました。長政が福岡城に居城を移す際、家臣にさげ渡された門が移築現存しています。(同上)
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『名島城』についての補足です。名島城は、博多湾に突き出した標高50mの丘陵に築かれ、三方を海に囲まれた東西300m×南北100mの土地に、北に本丸、その区画の外に南丸、南に二の丸(区画内の一部を三の丸)の二つの郭で構成されていました。黒田長政公が慶長6年(1601年)に福岡城築城により、名島城は廃城となりました。石壁楼等ことごとく福岡城に移され、同時に小さな城下町も福岡へ移りました。(同上)
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『名島城城門』の紹介の続きです。現在は福岡市の指定文化財になっています。名島城解体の際、功臣林掃部に名島城脇門がさげ渡され、邸宅の門として使用されていました。明治の中頃、長崎の商人が買い取って長崎に移築しそうになったのを、平岡浩太郎氏が買い戻し、福岡天神の自宅に残したものです。戦後、富士ビルの建築に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)により、福岡城址に移築されました。(同上)
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福岡城見学の後の再集合場所は、自由見学の後に、時刻を決めて、最初に観光バスを降りた駐車場になりました。その駐車場に向かう途中の光景です。三の丸のエリアですが、広場のような、随分と広い通り道でした。縄張り図を確認していませんが、三の丸ですから、かつては武家屋敷が並んでいた一角かも知れません。(同上)
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少し高い場所から眺めた、三の丸の一角の光景です。『舞鶴中学校跡地』の庭園光景になるようです。城址の跡地学校な公共施設施設の敷地として転用されているのを沢山目にしましたが、現在はその公共施設の移転もよく目にするようになりました。少子化の影響が大きいようです。(同上)
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右手に見えているのは、土塁跡のようにも見えましたが、はっきりとは確認していません。周りの樹木の成長具合からみて、出来たばかりの土塁ではないようです。(同上)
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桜の古木の傍らには『電電桜並木』の文字が入った石標がありました。寄贈した会社の名前に因むようでした。今は地域分割された『NTT』の前身の会社のようです。(同上)
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先ほどの石標に記してあった『電電桜並木』の光景です。一直線に道路が伸びていました。蕾が色付いていましたが、見頃になるなるのは、この後のようです。福岡城址の桜の見所の一つのようでした。(同上)
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見覚えがある石垣が見えてきました。駐車場の入口付近だったようです。三の丸のエリアの遺跡の石垣のようでした。左手方面は『野面積』ですが、右手の角は『算木積』でした。(同上)
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『舞鶴中学校跡地』の光景です。門柱には、『福岡城・鴻臚館案内処』らしい表札が掛かっていました。ネット検索しましたら、『三の丸スクエア』とも呼ばれているようでした。平成26年(2014年)6月、福岡市名で『国史跡福岡城跡整備基本計画』が纏められましたので、その計画の中で整備される一帯のようです。(同上)
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右から読んで、『『自主・勤勉・友愛』の金色の六文字が刻まれていた石碑の光景です。『旧舞鶴中学校』の『校訓』でした。2014年(平成26年?4月に福岡市立大名小学校、福岡市立簀子小学校、福岡市立舞鶴小学校、福岡市立舞鶴中学校が統合され『福岡市立舞鶴小学校』と『福岡市立舞鶴中学校』の二つになりました。校訓は新中学校に引き継がれているようでした。(同上)
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『校訓の碑』と同じように、『旧舞鶴中学校』のシンボルだったフェニックスのようです。古い記憶ですが、私が通った中学校の玄関に前にあったのも同じフェニックスで、品種が『カナリエンシス』だったようです。ソテツ(蘇鉄)にも似たヤシ類の樹です。小学校だったか、中学校だったかを想い出すのにも苦労するほど昔の話です。(同上)
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推測部分も入りますが、現在は『福岡城・鴻臚館案内処』として利用されている、『旧舞鶴中学校』の校舎のようです。公式サイトでは『福岡城・鴻臚館案内処「三の丸スクエア」は、時の重なりを表現した展示で、鴻臚館、福岡城の時代の流れを感じることができます。着物のレンタルも行っております』、と紹介されていました。(同上)
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