2016/12/11 - 2016/12/12
354位(同エリア1043件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
今回は信濃国(長野県)の諏訪大社を訪ねました。
諏訪大社は上社と下社に分かれ、さらにそれぞれが前宮と本宮、春宮と秋宮に分かれています。
その諏訪大社への巡礼、まずは下社秋宮からスタートです。
【諏訪大社[すわたいしゃ] 下社秋宮[しもしゃあきみや]】
[御祭神]
建御名方神(たけみなかたのかみ)
八坂刀売神(やさかとめのかみ)
[鎮座地] 長野県諏訪郡下諏訪町5828
[創建]不詳
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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12時50分、松本行きの特急バスは高山バスセンターを出発した。
都市部を抜けて山間の深部へ進むにつれ、薄曇りの空は鉛色の濃度を深めていく。
山襞が折り重なる隙間を通るように道が走り、バスのエンジンが唸りを上げて坂を登っていった。アルピコハイランドバス (松本~高山線) 乗り物
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1時間弱ほどでバスは平湯温泉の停留所に到着した。
ここで10分間の休憩。
「アルプス街道平湯」という観光施設になっている。
館内に温泉や食堂、売店を備えた、大きなスパ施設。
時間があればゆったり寛げそう。
とはいえ、たった10分の休憩時間では寛ぐどころの話ではない。アルプス街道平湯 名所・史跡
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しかし、中に入らずとも寛げる場所がある。
それは…足湯。
館外にあるので、サッと入ることができる。
けど、それでも時間が足らなかったので、パッと眺めて終わり。
売店で唐揚げとサラミ、ビールを購ってバスへ戻った。アルプス街道平湯 名所・史跡
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バスは松本へ向けて再び走り出す。
平湯温泉から新たに乗ってきた客が何人かいた。
ここで下車して「アルプス街道平湯」の温泉や食堂で寛ぐ。
そして高山から来る後続の松本行きに乗れば良かったわけか。アルプス街道平湯 名所・史跡
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15時30分前、バスは松本バスターミナルに到着。
約2時間半のバス旅は鉄道旅行とは一味も二味も違う、山岳ドライブの醍醐味を味わえた。
松本駅の上には青空が広がっている。
鉛色の雲が低く垂れ込めた高山とは、まるで別世界だ。松本駅 駅
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松本駅構内の跨線橋から0番線ホームに向かって降りると、階段の影に1軒の立ち食い蕎麦屋がある。
店の名は「山野草」。
店内は程よい狭さで、どこにでもある駅蕎麦のよう。
だが、その正体は知る人ぞ知る名店。
ここは通常の立ち食い蕎麦と、特上の2種類ある。
特上は生麺から茹でるため、予め茹でてある通常バージョンより時間がかかり、しかも高い。
それでも客の注文を見ていると、ほとんどが特上を注文している様子。
もりそばでも40円程度の差額しかないので、たとえ待たされても特上のほうがお得感はある。
ここで「特上きのこ山菜そば」を注文。
蕎麦粉もキノコも山菜も地元信州産かどうか分からないが、そこは気分というもの。
それに蕎麦そのものも普遍的な立ち食い蕎麦より明らかに美味い。
手頃な価格で信州気分を満喫できたのだから野暮は言いっこなし。
旅の合間に心の隙間を満たされた思いで跨線橋の階段を登った。山野草 グルメ・レストラン
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松本駅5番線から15時55分発の小淵沢行1536M列車に乗車する。
下諏訪駅まで30分余り、運賃ジャスト500円の鉄旅だ。
座席はロングシート、車窓も単調な郊外の風景が続き、なかなか旅情に乏しい。
塩尻駅で篠ノ井線と分かれ中央本線へ。
ここから東京駅に至るJR東日本管轄の部分を、正式名称ではないが「中央東線」と呼称することも。
名古屋駅までのJR東海管轄部分は、もちろん「中央西線」という。下諏訪駅 駅
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16時29分、下諏訪駅に到着。
改札前で「万治の石仏」に出迎えられた。
もちろんレプリカ。
本物には追って会いに行くことにしよう。下諏訪駅 駅
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駅前から伸びる商店街を歩く。
沿道の店々は古ぼけた表情を見せ、あまり繁盛している活気が感じられない。
鉄道が下諏訪へのアクセス手段としての役割を終えている証なのだろうか。
日が傾く中、中山道の宿場町は宵闇に溶け込むかのように刻一刻と表情を変えていく。
4~5分ほど歩くと大社通りという広い道に突き当る。
そこを右折して直進した突き当たりが諏訪大社下社秋宮だ。下諏訪駅 駅
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今宵の宿は下社秋宮の裏手にある「山王閣」というホテル。
昭和40(1965)年12月に県の第三セクターによる国民宿舎として、下社秋宮の境内地内に開業。
昭和62(1987)年に町の第三セクターへ移管され、平成3(2005)年に有限会社化され民間企業となった。
間口の広い玄関を通ると眼前には広々としたロビー。
その一番奥は一面のガラス張りで、諏訪湖を一望できる。
何がしかの宴会でもあったのか、ロビーでは正装した人たちが談笑しながら行き交っている。
創業から50年以上も経つが、まだまだ下諏訪町の社交場として現役のようだ。ホテル山王閣 宿・ホテル
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チェックインする際、フロントマンに訊いてみた。
「来年で営業を終了するって話を耳にしたんですが」
「ええ、そうです。来年3月一杯です」
フロントマンはあっさり肯定した。
「すべて建物を取り壊し、更地にして諏訪大社さんにお返しします」
閑古鳥が鳴いてガラガラだというのならともかく。
眼前の結構な賑わいぶりを見ると閉館は勿体ない気がする。
予約しておいた部屋は格安の四畳半「訳あり和室」。
なぜ訳ありかというと「アウトバス」、つまり風呂も便所もない部屋。
室内の造作も確かに古びており、閉館も止むなしという気もする。ホテル山王閣 宿・ホテル
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夕食を求めて街に出る。
しかし、下諏訪温泉は旅館が多く、食事だけという店が少ない。
町中探し回ったものの、これといった食事処を見つけることができず。
止む無く、駅前の「養老の滝」に入った。
止む無く…とは無礼な言い方かも知れない。
だが「養老の滝」は日本中にある大手の居酒屋チェーン店だけに。
自宅最寄りの駅前にもあるので目新しさはない。
それでも小半時ほど、楽しい時間を過ごすことができた。 -
翌朝、ロビーへ降りてみると壁一面に広がる大きな窓から、朝日を浴びてキラキラ輝く諏訪湖が遠くに見えた。
ドアを開けて前庭へ出てみると、冷んやりとした空気に身躯が包み込まれ、一瞬にして目が覚めた。
ここ諏訪湖には「湖底に武田信玄の墓がある」という伝説がある。
信玄は元亀4(1573)年4月12日、信州伊那谷(いなだに)の駒場(こまんば)で病没。
遺言で死を3年間隠蔽するよう指示し、天正4(1576)年4月に甲州恵林寺(えりんじ)に葬られた。
このあたりの経緯は過去に小説や映画、ドラマなどで幾度も描かれているので、お馴染みの史実。
ただ、隠蔽期間が3年間もあったため遺骨が散逸し、恵林寺以外にも墓所が高野山など幾つか存在している。
そのうちのひとつが、ここ諏訪湖。
しかも湖底にあるそうだ。
武田家の戦功や武略などを記した軍学所『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』にも「亡骸は甲冑を付けて諏訪湖に沈めよ」という記述がある。
同年4月12日の夜中、家臣たちが掲げる松明の赤い炎に照らされ、石棺が赤い泡を吹きながら静かに湖底へ沈んでいった…と伝承されているそう。
本当かどうかは分からないが、一代の英雄武田信玄の存在を誇張するため、多少は大げさに記述されている面もあるのだろう。諏訪湖(長野県諏訪市) 自然・景勝地
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ところが昭和62(1987)年、国土地理院が水中ソナーで湖底の地形を調査した時のこと。
人工的に作られた、一辺が25mもある巨大な菱形の窪みと思われる影が映し出された。
東西20m弱、南北20m強、四つの角は東西南北を指しているという。
菱形は武田家の家紋であり、これは『甲陽軍鑑』に記された信玄の墓では?
世間が大きくザワつき、その後も88年から90年まで5回調査行われた。
窪みの内部には3~4m大の穴があり、墓らしき痕跡を示す品が出土したそう。
だが、湖底に泥やヘドロが分厚く堆積し調査は難航。
結局、窪みの正体を突き止めるまでには至らなかった。
今から400年以上も前、湖底に大穴を掘るような土木技術を武田家が持っていたのか?
遺骸を湖に沈めることは可能でも、湖底に墓を築く作業までは不可能な気がするのだが。
そんな歴史ミステリーの存在など我関せずとでも言いたげに、諏訪湖の湖面はキラキラと輝いていた。諏訪湖(長野県諏訪市) 自然・景勝地
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山王閣が立つ場所は山王台と呼ばれている。
手塚別当金刺光盛の館である神殿に付随した居城「霞ヶ城」があった場所だ。
その手塚光盛の銅像が前庭に立っている。
光盛は平安時代後期の武将で、源“木曾”義仲に付き従い、寿永2(1183)年に倶利伽羅峠の合戦に源氏方として参戦.
加賀国篠原の戦いでは敗走する平氏勢の中で踏みとどまった武将の斎藤別当実盛(さねもり)と一騎打ちになり,見事に首級を挙げた.
その実盛,実は「駒王丸」こと幼き日の義仲の命を救った恩人であり,死に際しては義仲が号泣したという.
古式に則った一騎打ちは武士道の鏡とされ,能「実盛」の題材となって現在まで伝わっている.
光盛は後に源頼朝の軍と戦い,寿永3年1月に近江国で敗死した。ホテル山王閣 宿・ホテル
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山王閣の前庭を出て、下社秋宮へ向かう。
通勤通学の時間帯ということもあってか、ひっきりなしに行き交う車。
その間隙を縫うように歩いていくと、下社秋宮の正面に出た。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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向かって右側には「諏訪大社」と大きく刻まれた巨石の社号標が聳立している。
ここは全国各地に約2万5000社あるという、社名に「諏訪」を冠する神社の総本社。
「諏訪」という地名の由来には諸説あるが、沢[さわ]が転訛して「すわ」になったという説が有力なのだとか。
ちなみに「すわ一大事!」の「すわ」とは関係なさそうである。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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参道の左側に石灯籠を模していながら神社とは不釣り合いな不思議な塔が立っている。
下諏訪の地でオルゴールを作り続けてきた三協精機(現・日本電産サンキョー)が建立した「オルゴール塔」。
1時間3回、30弁のオルゴールが音色を奏でるという。
塔の真ん中には御柱祭の「木落し」をイメージしたからくりが装置があり、オルゴールの奏鳴に合わせて動き出すそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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オルゴール塔の隣には手水舎。
その後背に池が広がっている。
「千尋池」といって、水源は御手洗川の清流だ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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この「千尋池」は底が遠江国浜松近辺の海までつながっている…そんな言い伝えがあるそう。
それが「千尋」という名の由来。
社伝によると、火災の際この池の底から宝物が灰に塗れて発掘された。
それが国重要文化財の「売神祝印[メガミホウリノイン]」。
奈良時代に平城天皇から賜ったと伝わる社宝なのだそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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太鼓橋を渡って境内へ。
右手に「下社秋宮」と墨書された看板が掲げられている。
諏訪大社には上社と下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。
つまり四つの神社から一つの大社が構成される珍しい一宮だ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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諏訪大社の祭神は主祭神の建御名方神と妃神の八坂刀売神。
ただ、下社と上社では微妙に異なる。
下社は秋宮春宮ともに建御名方神と八坂刀売神、さらに兄神の八重事代主神が配祀されている。
一方の上社は本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神と分かれている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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鳥居をくぐって境内へ歩を進める。
外側に鳥居は他に見当たらない。
これが一の鳥居に当たるようだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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緩やかな坂道になっている表参道は中央に石畳、その両脇に石段。
例えれば自転車も通れる歩道橋のようになっている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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坂を登り切ると眼前に一本の巨大な杉が聳立している。
「ネイリの杉」と呼ばれる、樹齢600~700年と伝わる御神木。
名の由来は、挿し木に根が生えた杉なので「根入りの杉」…なのだが。
丑三つ時(超ド深夜)になると枝先が垂れ下がり寝入った姿に見え、しかもイビキまで聞こえてくるので「寝入りの杉」だという説もある。
どちらが本当かは知る由もないが、この木の小枝を煎じて子供に飲ませると夜泣きが止む…と伝承されている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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ネイリの杉の先には神楽殿が待ち構えている。
三方切妻造りで、軒先には巨大な注連縄が吊るされている。
諏訪立川流二代目和四郎富昌の設計で、完成は天保6(1835)年。
富昌54歳の棟梁で、渋めな意匠は初代である父の立川和四郎富棟が建てた幣拝殿の華麗さと対照的だ。
だが、その地味なデザインが幣拝殿を際立たせているかのようだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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諏訪立川流は神社仏閣など楼閣建築を装飾する伝統彫刻「宮彫[みやぼり]」の代表的流派。
二代目である富昌は持って生まれた天賦の才能に加え、父から授かった技能と異常ともいえる努力をミクスチャーし、宮彫の最高峰を極めた。
寛政の改革で有名な徳川幕府の老中松平定信は富昌を特に高く評価。
「内匠[たくみ]」の称号を許された富昌は幕府御用達となり、日本一の宮彫師となった。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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神楽殿の前には狛犬。
高さが1m70cmもあり、青銅製では日本一とも言われている。
芸術院会員だった清水多嘉示が昭和5(1930)年に奉納したものが初代。
第二次大戦時に供出され、昭和35(1960)年に再び清水の手で復元されたのが現在の二代目だ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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神楽殿に張られた巨大な注連縄は氏子有志による大〆縄奉献会が出雲から職人を呼んで作らせたという逸品。
大国主神の息子である建御名方神が祭神だけあって、出雲大社の注連縄と形状が良く似ている。
重さは推定500kgほどあり、全長13mは出雲大社型の注連縄では日本一の長さを誇るそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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神楽殿を過ぎると正面には拝殿がデンと待ち構えている。
二重楼門造りで両側に片拝殿を従えている珍しい構造。
江戸中期の絵図面によると、中央の拝殿は帝屋(御門戸屋)、片拝殿は回廊と記されているそうだ。
幣拝殿は昭和58(1983)年に神楽殿とともに国の重要文化財に指定されている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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向かって左側の片拝殿を見る。
現在の建物は初代立川和四郎富棟の施工で、安永10(1781)年の春に建立された。
一方の春宮は芝宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後に着工したものの、1年早い安永9(1780)年に竣工させている。
春宮と秋宮は同じ絵図面が与えられたようで、大きさこそ違うものの構造は同じ。
立川と芝宮それぞれの彫刻の技量により、両社の建築は競われている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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次は右側の片拝殿へ。
手前の珍しい木は幹の色から「白松」と呼ばれる三葉の松。
原産地は中国大陸で、初めて日本に入ったのは明治の中ごろ。
諏訪大社の白松は大正8(1919)年、京城(現・韓国ソウル)在住の諏訪出身者から寄贈されたもの。
昭和39(1964)年5月12日、天皇皇后両陛下が行幸啓の際に親しくご覧頂いたという。
昭和天皇還暦のお祝いの折、皇居にも植樹されたそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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再び中央の拝殿へ向かい、中を覗き込む。
諏訪大社は四宮すべてに本殿がない。
その代わりというか、他の神社では本殿が鎮座している場所に「御宝殿」が立ち、その奥にある御神木を御神体としている。
秋宮の御神木は飛騨一宮水無神社の項でも登場した一位[いちい]の木、春宮は杉の木だ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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諏訪神社といえば「御柱祭」。
「みはしらまつり」とも「おんばしらまつり」とも呼ばれる「日本三大奇祭」のひとつ。
ただし、どの祭りを以って「三」というのか諸説あり、定まっていないようだ。
御神木を御神体として崇める形態は、巨岩や大木といった神籬[ひもろぎ]に神が宿るという太古の自然信仰が今に受け継がれているともいえる。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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拝殿から奥へグルリと回り込み、塀越しに御宝殿を見る。
茅葺屋根で神明造りの建物が左右に二棟並んでおり、新しい方を神殿、古い方を権殿という。
御宝殿は七年に一度、御柱祭が行われる寅年と申年に建て替えられる。
その際は御遷座祭が行われ、寅年から申年までは向かって右側、申年から寅年までは向かって左側で行われるそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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祀られているのは建御名方神と八坂刀売神の御霊。
本殿ではないとはいえ、社殿には千木もあれば鰹木も乗っている。
実質的に本殿の役割を果たしているかのようだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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境内には摂末社が幾つか鎮座している。
幣拝殿の向かって右側、一の御柱の奥には稲荷社、若宮社(建御名方神の御子神)、皇大神宮社が並んでいる。
一方の左側、二の御柱の手前には奥から八坂社、賀茂上下社、子安社、そして鹿島社が並んでいる。
鹿島社といえば祭神は建御雷神[たけみかずちのかみ]、つまり建御名方神を出雲から諏訪へと追い詰めた神。
その“仇敵”すら一緒に祀るのは調和を尊ぶ「和の心」の為せる技なのだろうか?諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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鹿島社の隣に奉納された菰樽が整列している。
看板に「諏訪の銘酒」とあるように諏訪は酒どころだ。
中でも特に有名なのが「諏訪五蔵」(舞姫/麗人/本金/横笛/真澄)。
これら五つの酒蔵が鎬を削ってきた。
とはいえ「諏訪五蔵」は全て上諏訪の蔵元。
地元下諏訪町の蔵元は一番左側の「御湖鶴」、菱友醸造のみである。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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菰樽と土俵の左隣に立砂が祀られている。
看板に「神宮遥拝所」とあるように、伊勢神宮との間を行き交うホットラインの入り口なのだろうか。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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寝入りの松の方へ歩いていくと階段があり、下った先に宝物殿が立っている。
ここには国の重要文化財「売神祝之印[めがみほうりのいん]」が収められている。
これは平安時代の大同年間(806~810)に平城天皇より御下賜されたと伝わる銅製の大和古印[やまとこいん]。
大和古印とは大宝律令のもと日本で独自に作られた官印のこと。
下社では明治初年まで神印として実際に使われてきたそうだ。
他にも武田信玄や松平忠輝の奉納品といった資料が展示されている。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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境内を後にしようとネイリの杉の前を回り込むと冠木門があり、その奥から湯気がモウモウと立ち上がっている。
近づいて見ると手水舍。
ただし、温泉が掛け流しの「御神湯」だった。
湯口は竜神伝説に因んでか竜の形に象られている。
掛け流しの温泉は「長寿湯」と呼ぶそうだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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鳥居を出て太鼓橋を渡ると、左側にこんもりとした森がある。
案内地図を見ると「八幡山」とある。
石段を進んでいくと鳥居が2つ。
その奥に小さな御社が2つ、横に並んでいる。
左側が八幡社、右側が恵比寿社。
どちらも秋宮の摂社のようだ。諏訪大社下社秋宮 寺・神社・教会
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八幡山から山王閣へ長生橋という陸橋が架かっている。
橋の袂に山王閣の日帰り入浴の案内が立っていた。
諏訪湖を一望できる展望台もあり、秋宮参拝の際は気軽に利用できる便利な施設なのだが。
閉館となれば秋宮を取り巻く環境の魅力が少し削がれることになるだろう。ホテル山王閣 宿・ホテル
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再び秋宮の正面に出、下諏訪駅の方を眺める。
一直線に伸びる広い道路は一見、表参道のように見えるが。
実は五街道のひとつ中山道であり、今は国道142号線でもある。下諏訪温泉 温泉
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その左手に瀟洒な洋館が立っている。
この「すわのね」という名の建物は、下社秋宮の「オルゴール塔」で紹介した三協精機…現・日本電産サンキョーが運営するオルゴールの記念館だ。
三協精機は昭和23(1948)年にオルゴール試作1号機を完成させ、同25(1950)年に量産体制を確立。
その後も規模の拡大が続き、一時はオルゴールを動かす「ムーブメント」のシェアが世界の90%を占めるまでになった。
現在、同社自身はオルゴール事業から撤退し、生産を子会社に移管している。
ちなみに「オルゴール」という言葉はオランダ語の「オルゲル」が転じた和製蘭語、日本でしか通じないそうだ。日本電産サンキョーオルゴール記念館 すわのね 美術館・博物館
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緩やかな坂を下っていくと、途中に高札場があった。
高札場とは江戸時代に「高札」を掲げた場所。
高札には法度[はっと]や禁令、罪人の罪状などが記されていた。
世間に広く知らしめるため、人通りの多い街道の入り口などに設けられることが多かった。下諏訪温泉 温泉
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下諏訪駅前に出た。
駅前には御柱と曳綱のモニュメントが設置されている。
昨日は暗いうえに急いでいたので気付かなかった。
さて、ここ下諏訪駅から今度は下社春宮へ向かおう。下諏訪駅 駅
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