2016/12/12 - 2016/12/13
507位(同エリア1079件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
今回は信濃国(長野県)の諏訪大社を訪ねました。
諏訪大社は上社と下社に分かれ、さらにそれぞれが前宮と本宮、春宮と秋宮に分かれています。
3社目は上諏訪にある上社、まずは本宮からです。
【諏訪大社[すわたいしゃ] 上社本宮[かみしゃほんみや]】
[御祭神] 建御名方神(たけみなかたのかみ)
[鎮座地] 長野県諏訪市中洲宮山1
[創建]不詳
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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下諏訪駅から一駅、乗車時間約5分で上諏訪駅に到着。
上諏訪駅 駅
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かつては駅のホームに露天風呂があった。
しかし、やはり無理があったのだろうか?
現在は足湯となっている。上諏訪駅 駅
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駅前に出てみる。
上諏訪駅 駅
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駅舎と道を挟んだ向かい側に広大な空き地が広がっている。
ここには昔「まるみつ百貨店」というデパートが立っていた。
館内には日本の百貨店で唯一の天然温泉浴場があった。
しかし、2011年2月20日に惜しまれつつ閉館となった。上諏訪駅 駅
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蕎麦屋の店前で「信州みそ天丼」と記された幟を見かけた。
ごく普通の天丼だが天つゆがかかっておらず、小鉢に入った味噌ダレが添えられている。
みそ天丼は天つゆではなく信州特産の味噌を用いた味噌ダレをかけるのが特色だ。秋月そば 本店 グルメ・レストラン
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駅前からバスに乗って上社本宮へ。
約1時間後、上社本宮最寄りの停留所に着いたのは陽が傾きかけた頃だった。
目の前にある諏訪市博物館周辺には平日の夕方のせいか人影は疎ら。
県道16号を次々に走り去る車の群れだけが師走の忙しなさを映し出している。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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県道の16号と183号が交わる「神宮寺交差点」を渡り、上社本宮へ向かう。
ただ、この近辺に「神宮寺」というお寺は存在しない。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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交差点を渡った先に大きな石鳥居が聳立している。
何の飾りも塗装もされていないシンプルな明神鳥居。
柱には文化2(1805)年建立と刻まれている。
幕末へと差し掛かる化政文化が花開き始めた頃だ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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ちなみに県道183号は神宮寺交差点から北東の四賀桑原交差点まで続いている。
その手前、上川の岸辺に巨大な鳥居が聳立し、傍に「官幣大社諏訪神社参道」と刻まれた石標が立っているそう。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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県道から続く細くて緩やかな坂道を登っていくと、右側前方に境内が見えた。
諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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坂を突き当たると、そこで道は一風変わった四つ辻となる。
右側は青銅製の大鳥居が聳立し、上社本宮の境内へ続く道だ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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鳥居を抜けたところにあるのが入口御門。
文政12(1829)年の建立で地元の宮大工、原五左衛門が棟梁。
その彫刻は見事な出来栄えと称されている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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入口御門から右側を向くと「駒形屋」がある。
御神馬の屋形で「神馬舎」とも呼ばれている。
諏訪湖に御神渡りが出来た朝、御神馬の身体中が汗で濡れていた。
これを見た付近の住人は「御諏訪様は御神馬で湖上を渡られるのか!」と驚き慴[おそ]れたと、中世の記録に残っているそう。
生きた馬ではなく、現在のように木馬を祀るようになったのは明治時代以降。
明治27(1894)年7月、大風で倒れた欅の大木が神馬舎を直撃、倒壊してしまった。
しかし御神馬は10mほど前に跳ね飛び出たため全くの無傷。
時あたかも日清戦争の真っ只中だったので「御諏訪様は御神馬に乗って出陣された」と地元では伝承されているという。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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入口御門の先に長い廊下が伸びている。
長さは三十八間というから約70mほどか。
明治維新までは上社の大祝のみ通った所。
その時に布を敷いたことから布橋[ぬのばし]という名称が付いている。
現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人たちが自分の手で織り上げた布を持参。
神様(神輿)の通る道筋に敷いているそうだ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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布橋に入ってすぐ左側に数多くの絵馬が掲げられた建物。
絵馬堂とも額殿とも呼ばれている。
建立は文政年間で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬が納められている。
戦前までは布橋の上にも無数に掲げられていたそうだが、今では整理され1枚もない。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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絵馬堂の隣に細長い建物が並んで立っている。
摂末社遥拝所で、これも文政年間の造営。
上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、中の十三所、下の十三所で合計三十九社の御名を掲げてあり、昔は十三所遥拝所とも呼ばれていた。
現在大社の摂末社は上社関係が42社、下社関係が27社あり、明治以降独立した関係摂末社まで合わせるとその数は95社に及ぶ。
上下四社の境内をはじめ郡下に点在しているが、その摂末社を朝夕ここから遥拝している。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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その隣に小さな御社。
ここには建御名方命の父、大国主命が祀られている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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大国主社の隣に同じデザインの小さな建物が二つ、左右に並んで立っている。
ここが本宮で最も重要な御宝殿[ごほうでん]。
中には御神輿が奉納されている。
他の神社であれば本殿に相当する社殿である。
左側が東御宝殿、右側を西御宝殿。
これは古いほうの東御宝殿だ。
伊勢神宮も遷宮ごとに本殿を建て替えるが、古い本殿は取り壊される。
それに対し諏訪大社では古い御宝殿も残している。
それで御殿が二つ並び立っているわけだ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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こちらは先日の御柱祭で新築された西御宝殿。
諏訪大社に本殿と呼ばれる建物は存在しない。
代りに上社では御山を御神体として祀っている。
大和一宮大神神社と同様、古神道の信仰形態を今に伝えているのだ。
茅葺の屋根からは、どんなに干天の時でも水滴が最低3粒は滴り落ちる…という伝説がある。
「宝殿の天滴」といって諏訪七不思議のひとつ。
諏訪大社が水の守護神として崇敬される理由にもなっている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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二つの御宝殿の間に小さな建物が立っている。
「勅使門」とも「四脚門」とも呼ばれる、こじんまりとした門。
布橋を挟んだ反対側には石段があり、その先には神楽殿、さらに先には境内の外へ出る石段。
ここを通ると遠回りせず最短距離で拝殿にアクセスできる。
昔は偉い人が参拝された際、この門を利用して参拝したのだろう。
天正10(1582)年に兵火で焼失したが、慶長13(1608)年に再建。
徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家安泰を祈願し造営寄進したという。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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ようやく布橋の出口。
諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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その先に門があるも、柵が立てられ中に入れない。
これは塀重門といって文政12(1829)年の建立だ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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その更に先で、ようやく口を開けた門に行き当たる。
こちらの名は入口門という。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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入口門を入ると正面に宝物殿。
奈良の正倉院を模した建物で、代々伝わる宝物を保管、展示している建物だ。
館内には名刀「梨割の太刀[なしわりのたち]」や、武田信玄が戦の折りに鳴らしたと伝わる宝鈴[ほうれい]が展示されている。
宝鈴とは鉄鐸[てったく]6個を一組にした神鈴で別名サナギの鈴、御宝鈴とも。
本来は神のものという考えから神と人との間を結ぶ特別な時、つまり祭事にしか鳴らさなかったという。
このほか、江戸時代の御柱[おんばしら]の模様を描いた全長32mもある絵巻があり、その部分が見られるように展示してあるという。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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左隣にある建物が勅願殿。
元禄3(1690)年、諏訪高島潘によって建てられた。
昔は行事殿とも御祈祷所とも呼ばれていた。
調停や諸侯の祈願などを行った建物とも伝わっている。
現在の建物は安政年間に修理したものだ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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勅願殿の手前にある桑科の植物は、諏訪大社の御神紋の原木である梶の木。
御神紋は葉が3枚出ていることから3本梶とも呼ばれる。
上社は4本、下社は5本と、足の数で上下社を区別している。
全国に散在する分社の大半は一本梶、つまり葉の部分のみで1本足の社紋が使われている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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上社本宮では拝殿の前にもうひとつ、参拝所が立っている。
この奥に拝殿と幣殿が続くが、その先に本殿はない。
参拝客の多い日には扉が開放されて拝殿まで近づけるのだろうが、正月前の今日は閉ざされている。
上社本宮の社殿は守屋山の山麓で中部地方唯一ともいわれる原生林、約500種類の植物が群生する10万坪の社叢の中で包まれるように鎮座している。
本宮の建物は諏訪造りの代表的存在で、一種独特の形式を備えている。
昔は極彩色で結構ずくめの社殿だったが、天正10(1838)年に織田信長の軍勢が放った兵火により灰燼に帰した。
天正12(1584)年に諏訪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が建てられ、元和3(1617)年に諏訪頼水が地元の宮大工に命じて再建させた。
この建物は嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移され、現在では桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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参拝所の隙間から奥の拝殿を見る。
左側を右片拝殿、右側を左片拝殿、更に右側の山を背にした建物が脇片拝殿。
現在の建物は江戸時代の末期、天保2年から9(1838)年まで8年の歳月を要し、二代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工、原五左衛門と共に建立したもの。
立川流の代表的建築物として知られ、とりわけ片拝殿の彫刻「粟穂と鶉[うずら]」「笹に鶏」は富昌の代表作として近代彫刻史に光彩を放つと評価されている。
拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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ここで諏訪立川流、立川和四郎親子について触れておきたい。
初代和四郎は諏訪高島藩に仕えていた桶職人、塚原泰義の長男。
13歳の時に江戸へ出、本郷竪川(立川)町に住む幕府の御用大工、立川小兵衛富房に弟子入り。
後に立川姓を許され、親方から“富”の一字を貰い、和四郎富棟を名乗ることに。
21歳の時に諏訪へ一度帰るも、彫刻を学ぶため再び江戸へ。
中沢五右衛門の下で宮彫りを修得し、30歳の頃に帰国。
上諏訪で「中沢屋」という屋号の建築請負業をスタート。
富棟は下社秋宮の竣工後、上社本宮の造営に終生の心血を注ごうと京都へ。
上賀茂神社などの社殿を研究して歩いたが、不慮の事故に遭い生涯を閉じた。
享年64。
上社は二代目和四郎富昌が造営。
富昌の代になると立川和四郎の名声は全国に聞こえるようになり、関東から近畿にかけて数多くの仕事を残している。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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塀重門から先には石段が伸びている。
降りると右側には一の御柱。
長さが55尺もある。
その真後ろに巨大な岩が横たわっている。
「御沓石」といって諏訪七石の一つ。
真ん中の凹んだところが、諏訪大神の沓んだ足跡とも神馬の足跡とも伝わっている。
その奥、ちょうど玉垣の角ところに一本の石柱が立っている。
天保6(1835)年、国学者の宮坂恒由が建立した「天の逆鉾」だ。
恒由翁の本業は諏訪の酒蔵「酒ぬのや本金」の三代目当主。
諏訪地方の名産品、蜆の稚貝を諏訪湖に初めて放流した人物としても知られる。
石柱には翁自身の字で、こう刻まれている。
「神力残石上」
「たまちはふ 神のみくつの あととめて このとこいわの いくよへぬらむ」
特に酒の宣伝をしているわけでもなく、何を目的に建てたのか今ひとつよく分からない。
天の逆鉾の上に多数の小石が載っている。
運勢を占うために投げられたものだとか。
一度で石が乗れば大吉、願い事が叶うそうだ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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一のオン柱と石段を挟んで反対には交通安全祈祷書。
建てられたのは昭和47(1972)年と、つい最近だ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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祈祷所の隣に鎮座しているのは高島神社。
その社号は、もちろん諏訪高島藩に由来。
祭神は江戸時代の初期に高島藩を再興させた藩主三代。
藩祖の諏訪頼忠公、初代藩主の頼水公、二代目藩主の忠恒公を祀っている。
諏訪氏は諏訪大神の子孫で、上社最高の祀職である大祝[おおほうり]を務めた。
後に藩主として諏訪地方を治めている。
こうした祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴といえる。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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高島神社から西へ進むと社務所があり、ここで御朱印を賜る。
社務所と蓮池に挟まれた西参道を進むと木製の巨大な両部鳥居があり、ここで境内が尽きた。
「波除鳥居」といって諏訪大社唯一の木造鳥居。
昭和15(1940)年、皇紀2600年祭の折に建て替えられた。
平成21(2009)年、全面解体修理を行い再建立された。
かつては神仏混淆の「諏訪大明神」として崇められてきた諏訪大社。
明治政府の廃仏毀釈で仏教的な要素が一掃された今となっては、この波除鳥居だけが明神時代の名残と言えるかも知れない。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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波除鳥居を抜てすぐの左手に細い坂。
登っていくと質素な石段と鳥居、その上に小さな祠が鎮座している。
この末社もまた、大国主命社である。
なぜ境内外に一つずつ鎮座しているのか、その理由は分からない。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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西参道から境内の外側をグルリと回り込んで北参道側の正面に出る。
社号標には「諏訪大社本宮」の文字。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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上社本宮もまた、手水社は温泉だ。
「明神湯」といって昔から諏訪明神と所縁があり、また諏訪温泉郷の源泉とも伝えられている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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手水社の裏側に戦前の社号標が立っていた。
明治政府の近代社格制度で諏訪大明神は官幣大社諏訪神社となった。
現在では神社本庁の別表神社に列せられている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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旧社号標の隣に「清祓池」が広がっている。
毎年6月30日に夏越の祓をし、半年間の罪穢を祓い清め、後半の無事息災を祈った池。
真ん中で鶴が口から水を噴き出している島は「宮嶋」という。
池の手前側に柵で囲われた小さな丸い穴が空いている。
「五穀の種池」という小さな石の池で、毎春になると種籾を浸し、その浮き沈みによって豊凶を占う。
現在でも近郷農家の人々に親しまれているそうだ。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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旧社号標と清祓池の間に堂々とした力士像が立っている。
信州が生んだ江戸中期の強豪大関、雷電為右衛門[らいでんためえもん]の像。
諏訪大神に正対して拝礼の誠を捧げている姿を描いている。
茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫氏が文部大臣賞受賞を記念し、昭和41(1966)年10月に奉納したもので、モデルは横綱柏戸。
日本人が総じて小柄だった江戸時代、雷電は6尺6寸(197cm),45貫(169kg)という飛び抜けた巨漢だった。
その怪力ゆえに張り手、鉄砲(突っ張り)、かんぬきの3手を禁じられたという伝説が残っている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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諏訪大神の起源が建甕槌命と建御名方命の国譲りを巡るガチンコ対決にあるせいか、昔から力の強い神様として信仰を集めてきた。
とりわけ相撲との関係が深く、毎年相撲神事が行われ、多くの力士に参拝している。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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神楽殿は文政10(1827)年の建立、上社では一番大きな建物だ。
往時は太々神楽や湯立神事が毎日行われていた記録が残っている。
だが、その神楽は残念ながら現在は伝わっていない。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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中に納めてある大太鼓は江戸時代のもの。
直径が1m80cmもあり当国随一の大きさ。
現在は元日の朝にのみ打たれている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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神楽殿と土俵の間にある入口。
立っているのは鳥居ではなく冠木門。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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神楽殿の前、勅使門の下に鎮座する「天流水舎」。
屋根に煙突のようなものが付いた建物で、俗に「御天水」とも呼ばれる。
どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒から天滴と共に中の井戸に溜まると伝わっている。
雨乞いの折この御天水を青竹に入れて持ち帰り、神事に用いると必ず雨が降ると言い伝えられ、今なお近郷近県から祈願がある。
この時、途中で休むとそこで雨が降るので、昔は若者たちがリレー式に運んだそうだ。
また、この御天水は天竜川の水源だとも言われている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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天流水舎の横にある上社の「筒粥殿」跡。
小正月に白米・小豆・葦の筒束を大釜で炊き、筒に入った粥の状態により世の中と農作物の豊作を占った。
現在は下社春宮の筒粥殿で行われている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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日も暮れてきたので、このあたりで今日の参拝はおしまい。
諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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北参道の先にある「宮町通り 社乃風[やしろのかぜ]」。
門前町なのだが、人工的に造営された商店街。
信州の物産を中心としたお土産品や食事処が立ち並んでいる。 -
諏訪市の中心街に戻ってきたのは、とっくに日も暮れた頃。
頭上では月が煌々と輝き、諏訪高島城を照らし出している。
諏訪高島城は慶長3(1598)年、豊臣秀吉の家臣である日根野織部高吉[ひねのおりべたかよし]により築城された。
当時この場所は諏訪湖に突き出た島状になっており「浮島」という地名だった。
高吉は往時ここで漁業を営んでいた村落を丸ごと移転させ、城を築いたという。
完成当時、城の周囲は湖水と湿地に囲まれ、諏訪湖面に浮かぶように見えたことから別名「諏訪の浮城[うきじろ]」と称されていた。
ちなみに諏訪高島城は松江城、膳所城とともに「日本三大湖城」のひとつに数えられている。高島城 名所・史跡
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翌朝、再び諏訪高島城を訪れた。
諏訪藩の領主は諏訪氏なのに、なぜ高島城は日根野高吉が築城したのか?
天正18(1590)年、領主だった諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に伴い武蔵国へ。
後釜に豊臣秀吉の家臣だった高吉が転封し、2万7千石を以って諏訪の領主に。
高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。
転封の翌年、天正19(1591)年には既に城地の見立てと設計を終えていたそう。
文禄元年(1592)に着工し、慶長3(1598)年まで7年ほどかけて築城したという。高島城 名所・史跡
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高吉は本丸に三層三階の望楼型天守を建造した。
天守をはじめ主要建造物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことのが特徴。
湖畔のため地盤が軟弱で重い瓦が使えなかった、寒冷地の諏訪で瓦は凍って割れてしまうから…などと言われているがハッキリした理由は不明の由。
その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は慶長6(1601)年、家康の恩恵で旧領の諏訪へ再転封となり諏訪氏が藩主に返り咲く。
以後、諏訪氏は10代藩主忠礼に至るまで270年間にわたり諏訪の領主に君臨した。
明治4(1871)年、新政府の意向により諏訪高島城の破却が決定。
同8(1875)年に撤去が完了し、翌9(1876)年に本丸跡が高島公園として一般に開放されている。高島城 名所・史跡
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天守閣は昭和45(1970)年5月に再建された復興天守で、屋根は瓦でも柿でもない銅板葺き。
城内はコンクリ天守によくある資料館。
1階は「郷土資料室」と「企画展示室」。
2階は「築城」「藩主」「藩士」「藩政」とテーマごとに遺品や資料を展示する「高島城資料室」。
3階も「高島城資料室」と、外側が展望台になっている。高島城 名所・史跡
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3階の展望台から諏訪の街を俯瞰する。
高島城は北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並んだ「連郭式」と呼ばれる形式。
諏訪湖と幾つかの川に囲まれ、水を防御の盾とする難攻不落の水城として名を馳せた。
城の北側に甲州街道の上諏訪宿を兼ねた城下町が置かれたが、城までは「縄手」という一本の道しかなかった。
この縄手は現在「並木通り」と名を変えつつも、往時と変わらぬ道筋を通っている。高島城 名所・史跡
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前宮へ向かうため、再び上社本宮へ。
諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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大国主命社と布橋を挟んで反対側にある高低二つの建物、勅使殿と五間廊。
低い方が五間廊、高い方が勅使殿。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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五間廊は安永2(1773)年に建てられ、後に改築されている。
神長官以下の神職が着座した場所だと伝えられている。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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勅使殿は元和年間(1620年)頃に建てられ、こちらも後に改築された。
中世の記録には「御門戸屋」「帝屋」と記されている。
朝廷からの勅使が着座した場所だったことが名称の由来と推測される。
ここで様々な神事が執り行われたのだろう。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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諏訪大社上社本宮の巡礼を終え、再び東参道へ。
正面に伸びる鎌倉西街道を進めば上社前宮にたどり着くだろう。
だが、その前に右へと続く緩やかな坂を登る。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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すぐ目の前に小さな祠があり、その前に看板が立っている。
吉良上野介義央養嗣子(孫)
吉良左兵衛義周公ここに眠る。
吉良町
吉良上野介といえば「忠臣蔵」の仇役としておなじみ、日本史上指折りの悪役。
その孫、義周[よしちか]がここに葬られている。
しかも吉良家発祥の地、愛知県吉良町(現・西尾市)の建立。
だが、実際の墓地はここではない。
もっと山の上、奥深いところに義周は眠っている。
だが、なぜ郷里から遠く離れたここに葬られているのか?
その理由は追い追い触れていくことにしよう。法華寺 寺・神社・教会
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祠の横には大きな案内図。
かつて現在地から東南一帯には神宮寺の伽藍と塔頭が林立していた。
しかし明治維新直後の神仏分離令により仏教的要素は“毀釈”。
現在では法華寺だけがひっそりと佇んでいるのみ。法華寺 寺・神社・教会
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往時はこのあたりに上りの仁王門が立っていたという。
坂をユルユル登っていくと、奥に朱塗りの山門が姿を現した。法華寺 寺・神社・教会
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法華寺といいながら宗派は日蓮宗ではなく禅宗。
正式名称は「臨済宗鷲峯山法華禅寺」という。
創建は弘仁6(815)年、かの伝教大師最澄が開山した由。
最澄といえば比叡山延暦寺の開祖。
最初は法華系である天台宗の寺院だったことから「法華寺」と命名されたものと思われる(なんせ1200年も前の話だけに推測)。
時は下って鎌倉時代、宋僧の蘭渓道隆が執権北条時頼の帰依を得て禅宗が大流行。
諏訪社の大祝[おおほうり]を退位し、鎌倉幕府に武士として仕えた諏方盛重が道隆を招き、法華寺を禅宗に改めたそうだ。法華寺 寺・神社・教会
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現在の山門は昭和6(1931)年の建造。
その前は平門で明治18(1885)年に極楽寺へ売却。
市内豊田にある同寺に今も現存している。
山門を下から見上げてみる。
仁王門や隋神門と違い両袖に像がない。
その代わりというか、楼上に観音菩薩像が安置されているそうだ。法華寺 寺・神社・教会
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山門をくぐって境内へ。
何の変哲もない、どこにでもあるような本堂が立っている。
明和2(1765)~4(1767)年、高島藩御用宮大工の伊藤儀左衛門によって建てられた大隅流の代表的建築。
伊藤儀左衛門といえば諏訪大社下社春宮の幣拝殿と左右片拝殿を、弟の村田長左衛門矩重[ともしげ]とともに建立したことでも知られる。
扇垂木の一重軒で内陣は格天井(ごうてんじょう)、その下は見事な鏡板になっていたという。
しかし平成11(1999)年7月27日未明、放火により本堂と庫裏が残念ながら消失してしまった。
平成17(2005)年5月、本堂と庫裏ともに再建なり現在の姿となっている。法華寺 寺・神社・教会
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本堂の前に立ち、賽銭を投じ手を合わせる。
かつて、ここで日本史を揺るがすような事件があったことを匂わせる縁など微塵もない。
創建から更に時代を下ること約750年後の天正10(1582)年3月。
長篠の戦いに敗れて勢力が衰えた武田家を追討すべく、織田家が信濃国に侵攻。
信長の嫡男信忠が諏訪に入り、武田家の拠点となっていた諏訪大明神を焼き討ちし、唯一焼け残った法華寺に本陣を置いた。
追って諏訪入りした信長は3月19日から4月2日まで14日間滞在し、武田家滅亡に対する論功行賞を実施。
その宴席で「我々も苦労した甲斐がありましたな」と洩らした明智光秀に、信長は「貴様如きに何の働きがあったか!」と激怒。
「このキンカ頭めが!」
そう叫びながら信長は光秀の頭を寺の欄干に何度も何度も打ちすえたという。法華寺 寺・神社・教会
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その仕打ちを深く恨んだ光秀は2ヶ月後の6月2日払暁、突如反旗を翻し京都本能寺にて信長を謀殺…というのが歴史上の定説になっている。
(そうか、あの出来事はここで起こったことだったのか…)
過去に映画やドラマで幾度となく演じられてきただけに場面そのものは有名。
だが、ここ諏訪に来るまでてっきり安土城か京都で起こった出来事だとばかり思い込んでいた。
しかし光秀の末裔を称する明智憲三郎氏によると、このエピソードは本能寺の変から40年後に豊臣秀吉の家臣の家臣に過ぎない川角(かわすみ)三郎右衛門が又聞きや覚書をもとに記した『川角太閤記』にあり、真贋の程は定かではないという。
確かに事件の当事者たる信長も光秀も既に亡く、その場にいなかった秀吉の陪臣が40年も過ぎてから、しかも伝聞を集めて書き記したエピソード。
そこには真実を後世に残そうという意識より、史実を読み物として面白おかしく脚色しようとする意識が優先しても不思議ではない。法華寺 寺・神社・教会
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本堂の横から裏手へグルリと回り込む。
現代でもノンフィクションを色々と脚色してフィクションに仕立て上げる手法はあるが、それを〝捏造〟とはいわない、あくまでも〝作り話〟だから。
たとえ信長が光秀の頭を寺の欄干に打ちすえた話が事実であったとしても、それを光秀が逆恨みして本能寺の信長を襲撃したという部分は川角三郎右衛門の創作ではないか?
なぜなら川角はもちろん他の誰も光秀の本意を確認していない、専門的に言えば「裏を取っていない」からだ。
今から500年近くも前の話だし、それをフィクションだノンフィクションだと騒いだところで詮無い話。
問題は、史実とフィクションをゴチャ混ぜにして区別できていない日本史の状況にある。
ドラマや映画などで「川角フィクション」を幾度も再現することで、見る側にフィクションが史実として刷り込まれ、いつしか歴史的事実になっていく。
幸い昨今では、この川角〝怨恨説〟を作り話だとする認識が広まっているようだ。法華寺 寺・神社・教会
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本堂の裏手には吉良義周[よしちか]公の墓が佇んでいる。
吉良左兵衛義周は米沢藩上杉綱憲の次男。
祖父の吉良上野介義央の養子となり、元禄14(1701)年に吉良家を継いだ。
元禄15(1702)年12月14日に赤穂浪士の吉良邸討ち入り、俗に言う「忠臣蔵」に遭遇。
吉良上野介義央は成敗されたものの、幸いにも義周は手傷を負うに止まった。
翌年、評定所から呼び出された義周に待っていたのは、領地没収と身分剥奪。
生き残ったのは赤穂浪士との戦いの最中に負傷し、気絶したおかげ。
ところが大目付は、義周が「死んだふり」をして義央を守らなかったとして「仕方不届」を咎めたのだ。
「赤穂浪士アッパレ!」という風潮の中、幕府も義周をお咎めなしのまま見過ごせなかったのかも知れない。
義周は高島藩四代藩主の諏訪安芸守忠虎へお預けの身となり、高島藩が江戸幕府からの罪人を預かる高島城南之丸に幽閉された。
諏訪藩の義周に対する処遇は丁寧かつ儀礼を尽くしたものだったと伝わっている。
しかし配流から3年後の宝永3(1706)年1月20日、義周は22歳の若さで病死。
幕府による検死の後、同年2月4日に法華寺の裏手、この場所に埋葬された。
家来たちは供養料として金3両を同寺に託して諏訪を去ったという。
赤穂浪士への怨嗟か? 大目付への恨み節か? 諏訪藩への感謝か?
諏訪湖を一望する高台に立つ自然石の墓碑は黙して何も語らない。法華寺 寺・神社・教会
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坂を下り、法華寺と反対側へ続く道を進む。
この奥には神宮寺の跡が広がっている。
まず最初に広がるのは五重塔が立っていた跡地。
8世紀ごろ、全国各地の神社に宮寺として神護寺や神宮寺が創建された。
その創建理論は「救われない神の世界を仏法により救済する」こと。
つまり天皇を頂点とする神道が仏教に救いを求めたことに由来するわけだ。
建立されたのは延慶元(1308)年、下伊那に勢力を持つ知久敦信の手によるもの。
礎石からの高さが十六間一尺四分五寸(29.53m)あったという。
明治政府の廃仏毀釈により五重塔をはじめ神宮寺の伽藍は悉く破却された。法華寺 寺・神社・教会
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五重塔跡の先に鐘楼跡の広場。
この鐘楼もまた知久敦信が寄進したもの。
大梵鐘には永仁5(1297)年9月の銘があった。
鐘楼の高さは1.5m、周囲4m、口径1.27m、厚さ15cm。
上野国の住人江上入道の作で、その音は遠く塩尻峠まで聞こえたという。法華寺 寺・神社・教会
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高台な空間の傍に「人力手石」なる石が佇んでいる。
石の上に手形があり「弘法様の手つき石」とも言われている。
弘法様とは弘法大使空海のことだろう。
法華寺を建立したのは伝教大師最澄なのに、なぜここに空海?法華寺 寺・神社・教会
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鐘楼跡に隣接して広がる普賢堂の跡。
諏訪大社上社本宮の神宮寺には本地仏である普賢菩薩が祀られていた。
その中心に立つ普賢堂は本地堂、御堂と呼ばれ、弘法大師空海の建立と伝わっている。
それで空海の手形が残る「人力手石」があったわけだ。
諏訪氏の支族で下伊那郡神之峯城主の知久敦幸が正応五(1292)年に再建。
東大寺の工匠、藤原肥前守の手による九間×六間半(16m×12m)の単層の建築物だったそう。
ここもまた明治政府の廃仏毀釈で破却されたが、本尊は諏訪市内の仏法寺に現存している。法華寺 寺・神社・教会
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普賢堂跡に苔むした六角形の石がある。
これは、かつてここに立っていた銅灯篭の礎石なのだそうだ。法華寺 寺・神社・教会
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普賢堂跡の南側に杉が4本、一列になって並んでいる。
諏訪市の天然記念物「五本杉」。
この木の下に弘法大師が宝を埋めたという伝説があるそう。
五本あった杉のうち一本は落雷により損傷したのだそうだ。法華寺 寺・神社・教会
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五本杉の間をすり抜けると、山上に向かい細い道が続いている。
先には「信玄公墓碑」の看板があり、その横に風雨で削られた小さな石碑が幾つか並んでいた。
右側が「武田信玄碑」、左側が「坂上田村麻呂碑」と読める。
武田信玄は諏訪大明神への帰依が篤く、その亡骸は諏訪湖の底に沈められたとの伝説があるほど。
神宮寺に墓碑があっても、なんら不思議ではない。
ただ、吉良義周公のそれとは異なり、あくまでも「墓碑」なのだろうか?
それとも分骨されて諏訪神宮寺に納められたのだろうか?法華寺 寺・神社・教会
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墓碑を後にし、東参道へ向かって伸びる階段を下る。
途中、庚申塚と石灯籠が立ち、その裏手に空き地が広がっている。
この場所には、かつて上社神宮寺の伽藍が広がっていた。法華寺 寺・神社・教会
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社伝によると神宮寺は空海が創建したと云われている。
先出の法華寺に加え、大坊(神宮寺大坊)、上ノ坊(如法院)、下ノ坊(蓮池院)の上社四ケ寺と数多くの坊が軒を連ね、それらを総括するものとして大坊が重きをなしていたという。
大坊は諏訪藩主が上社を参詣する際に必ず立ち寄る場所として、本堂も庫裏も最も大きかった。
御柱祭の折には藩主のために、最も見通しのよい大坊前の石垣上に畳敷の桟敷を設営したという。
その際は見苦しくないよう、向かい側の民家をサワラ垣で隠したそうだ。法華寺 寺・神社・教会
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かつて、このあたりに下り仁王門があった。
仁王門に向かって左側に執行坊、その左隣に大坊が立っていたという。
神宮寺は明治政府の神仏分離令により悉く破却。
法華寺も廃寺となったが、建物は明治5(1872)年に神宮寺学校の校舎として活用。
大正5(1916)年に統合中洲小学校が開校するまで、約50年にわたって初等教育の務めを果たしていた。
法華寺だけが破却されず現存しているのは、こうした歴史があったわけだ。法華寺 寺・神社・教会
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入り口近辺に「神苑 周辺案内図」の看板が立っている。
平成14(2002)年、諏訪市の「おらほのまちづくり事業」で、一帯が「神宮寺神苑」として整備された。
しかし、整備されたのは階段に向かって右側部分だけで、神宮寺本坊などが立っていた左側部分には及んでいない。
諏訪神宮寺が明治維新で破却されるまでの往時の姿が分かるような、そんな整備も期待したいと思う。法華寺 寺・神社・教会
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再び東参道へ戻ってきた。
前宮へ続く道の先に上社本宮の大鳥居が立っている。
この先に待つ上社前宮へ向かうとしよう。諏訪大社上社本宮 寺・神社・教会
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