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現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。<br />各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。<br />その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。<br />今回は信濃国(長野県)の諏訪大社を訪ねました。<br />諏訪大社は上社と下社に分かれ、さらにそれぞれが前宮と本宮、春宮と秋宮に分かれています。<br />諏訪大社への巡礼、次は下社春宮です。<br /><br />【諏訪大社[すわたいしゃ] 下社春宮[しもしゃはるみや]】<br />[御祭神] <br />建御名方神(たけみなかたのかみ)<br />八坂刀売神(やさかとめのかみ)<br />[鎮座地] 長野県諏訪郡下諏訪町5828<br />[創建]不詳

諸国一之宮“公共交通”巡礼記[信濃国]諏訪大社 下社春宮

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2016/12/12 - 2016/12/12

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45

経堂薫

経堂薫さん

現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
今回は信濃国(長野県)の諏訪大社を訪ねました。
諏訪大社は上社と下社に分かれ、さらにそれぞれが前宮と本宮、春宮と秋宮に分かれています。
諏訪大社への巡礼、次は下社春宮です。

【諏訪大社[すわたいしゃ] 下社春宮[しもしゃはるみや]】
[御祭神]
建御名方神(たけみなかたのかみ)
八坂刀売神(やさかとめのかみ)
[鎮座地] 長野県諏訪郡下諏訪町5828
[創建]不詳

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
3.0
グルメ
4.0
ショッピング
3.5
交通
4.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 下諏訪の駅舎を改めて眺める。<br />駅前に立つ御柱は長野冬季五輪の開会式で用いられたものだそう。<br />平成10(1998)年2月7日に“日本演劇界のドン”浅利慶太総合プロデュースのもと、長野オリンピックスタジアムで日本で2度目となる冬季五輪の開会式は行われた。<br />雪が降りしきる中を4本の御柱が曳かれて入場し、フィールドの中でキリリと聳立した。<br />そのうちの1本が今ここに保存されているわけだ。

    下諏訪の駅舎を改めて眺める。
    駅前に立つ御柱は長野冬季五輪の開会式で用いられたものだそう。
    平成10(1998)年2月7日に“日本演劇界のドン”浅利慶太総合プロデュースのもと、長野オリンピックスタジアムで日本で2度目となる冬季五輪の開会式は行われた。
    雪が降りしきる中を4本の御柱が曳かれて入場し、フィールドの中でキリリと聳立した。
    そのうちの1本が今ここに保存されているわけだ。

    下諏訪駅

  • 下諏訪駅の前に大きなビルが聳えている。<br />下社秋宮で紹介したオルゴール記念館「すわのね」の日本電産サンキョー本社。<br />その手前の道を左に折れ、線路に沿って東に向かう。<br />その日本電産サンキョー、現在ではオルゴールよりもスケート部のほうが有名。<br />まだ三協精機だった時代は、あの清水宏保選手も所属していた。<br />折しも地元開催となった長野五輪で、清水はスピードスケート男子500mで五輪新記録を樹立し、日本スピードスケート史上初の金メダルを獲得。<br />続く1000mでも銅メダルを獲得する快挙を達成している。

    下諏訪駅の前に大きなビルが聳えている。
    下社秋宮で紹介したオルゴール記念館「すわのね」の日本電産サンキョー本社。
    その手前の道を左に折れ、線路に沿って東に向かう。
    その日本電産サンキョー、現在ではオルゴールよりもスケート部のほうが有名。
    まだ三協精機だった時代は、あの清水宏保選手も所属していた。
    折しも地元開催となった長野五輪で、清水はスピードスケート男子500mで五輪新記録を樹立し、日本スピードスケート史上初の金メダルを獲得。
    続く1000mでも銅メダルを獲得する快挙を達成している。

    下諏訪駅

  • 県道185号線との交差点の脇に道祖神が祀られている。<br />諏訪では街角の小さな道祖神にまで、キチンと御柱が祀られている。<br />この御柱もトラックで運んできて適当に据えているわけではない。<br />「御木曳」という神事に基づき丁寧に立てられているのだ。<br />

    県道185号線との交差点の脇に道祖神が祀られている。
    諏訪では街角の小さな道祖神にまで、キチンと御柱が祀られている。
    この御柱もトラックで運んできて適当に据えているわけではない。
    「御木曳」という神事に基づき丁寧に立てられているのだ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 県道184号線、通称「大門通り」に出た。<br />社頭から一直線に伸びる表参道で、その長さは約800mあるそう。<br />遠くに大きな鳥居が望め、いかにも大神社の門前町といった風情が漂う。

    県道184号線、通称「大門通り」に出た。
    社頭から一直線に伸びる表参道で、その長さは約800mあるそう。
    遠くに大きな鳥居が望め、いかにも大神社の門前町といった風情が漂う。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 交差点の脇に立つ石灯籠を眺めていると、見知らぬおじさんが話しかけてきた。<br />「これは何ですかね?」<br />「諏訪大社の石灯篭です」<br />「近くに住んでますけど、じっくり見る機会がなくて」<br />すぐそこのスーパーへ競馬新聞を買いに行くんだと言い残し、おじさんは去って行った。

    交差点の脇に立つ石灯籠を眺めていると、見知らぬおじさんが話しかけてきた。
    「これは何ですかね?」
    「諏訪大社の石灯篭です」
    「近くに住んでますけど、じっくり見る機会がなくて」
    すぐそこのスーパーへ競馬新聞を買いに行くんだと言い残し、おじさんは去って行った。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 大門通りと中山道の春宮大門交差点に巨大な鳥居が聳立している。<br />扁額や装飾の類は一切なく、全体が薄緑色に覆われている。<br />鳥居の全てが青銅製なのか、表面だけ青銅張りなのか、それは分からない。<br />

    大門通りと中山道の春宮大門交差点に巨大な鳥居が聳立している。
    扁額や装飾の類は一切なく、全体が薄緑色に覆われている。
    鳥居の全てが青銅製なのか、表面だけ青銅張りなのか、それは分からない。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • かつての「大門通り」は春宮の専用道路だった。<br />下社の大祝金刺一族をはじめ多くの武将たちが流鏑馬を競った馬場だったという。<br />かつては道路の両脇に「さわら並木」と呼ばれた大木が並び、昼でも薄暗いほど鬱蒼としていたそう。<br />しかし枯死、風倒、舗装のための伐採などで並木は次第に失われ、昭和39(1964)年に最後の1本が枯死したことで往時の面影は失われてしまった。

    かつての「大門通り」は春宮の専用道路だった。
    下社の大祝金刺一族をはじめ多くの武将たちが流鏑馬を競った馬場だったという。
    かつては道路の両脇に「さわら並木」と呼ばれた大木が並び、昼でも薄暗いほど鬱蒼としていたそう。
    しかし枯死、風倒、舗装のための伐採などで並木は次第に失われ、昭和39(1964)年に最後の1本が枯死したことで往時の面影は失われてしまった。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 大門通りの右側に巨石が並ぶ一角がある。<br />これらは「力石」と呼ばれ、昔から村の集会場の庭に置かれていた。<br />昭和の初期ごろまで、若者たちの力比べに使われていたそう。<br />重いもので約60kgあり、民俗的にも貴重な資料とのこと。

    大門通りの右側に巨石が並ぶ一角がある。
    これらは「力石」と呼ばれ、昔から村の集会場の庭に置かれていた。
    昭和の初期ごろまで、若者たちの力比べに使われていたそう。
    重いもので約60kgあり、民俗的にも貴重な資料とのこと。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 大門通りの真ん中に古風な建物がドンと立っている。<br />「下馬橋」といって、ここで下乗下馬。<br />駕籠や馬から下り、御手洗川の水で身を清める場所だ。<br />御手洗川に掛けられていて、その形状から太鼓橋と言われている。<br />建立は室町時代と伝わるが、鎌倉時代の建築様式をもって建てられている。<br />簡素な中にも力強さと美しさを兼ね備えたデザインが特徴。<br />元文年間の1730年代に修築したものだが、下社では最も古い建物だ。<br />今も遷座祭の折に、神輿はこの橋を渡る。<br />建物の左側御手洗川の上流側には溝蓋もしてないが、清めの場所で、御柱の曳航の際も柱を清める為そこを渡すのを例としている

    大門通りの真ん中に古風な建物がドンと立っている。
    「下馬橋」といって、ここで下乗下馬。
    駕籠や馬から下り、御手洗川の水で身を清める場所だ。
    御手洗川に掛けられていて、その形状から太鼓橋と言われている。
    建立は室町時代と伝わるが、鎌倉時代の建築様式をもって建てられている。
    簡素な中にも力強さと美しさを兼ね備えたデザインが特徴。
    元文年間の1730年代に修築したものだが、下社では最も古い建物だ。
    今も遷座祭の折に、神輿はこの橋を渡る。
    建物の左側御手洗川の上流側には溝蓋もしてないが、清めの場所で、御柱の曳航の際も柱を清める為そこを渡すのを例としている

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 正面に石鳥居と社号標、左手に手水舍が見えてきた。<br />それにしても、秋宮に比べると門前はかなり窮屈だ。

    正面に石鳥居と社号標、左手に手水舍が見えてきた。
    それにしても、秋宮に比べると門前はかなり窮屈だ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 普通なら境内にある手水舍も、県道に面して立っている。<br />もともと春宮の境内だった土地が区画整理で一般の市街地になったのだろうか?

    普通なら境内にある手水舍も、県道に面して立っている。
    もともと春宮の境内だった土地が区画整理で一般の市街地になったのだろうか?

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 石鳥居は御影石製で建立は万治2(1659)年と推定。<br />施工した石工の名は伝わっていない。<br />高さは8m20cm。<br />建てる際、片付け賃を入れた土俵を積み上げ、その上で鳥居を組み立てたそう。<br />工事後、土俵は工夫らがアッという間に持ち去りキレイに片付いたそうだ。

    石鳥居は御影石製で建立は万治2(1659)年と推定。
    施工した石工の名は伝わっていない。
    高さは8m20cm。
    建てる際、片付け賃を入れた土俵を積み上げ、その上で鳥居を組み立てたそう。
    工事後、土俵は工夫らがアッという間に持ち去りキレイに片付いたそうだ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 諏訪大社下社の祭神が秋宮春宮とも建御名方神と八坂刀売神の夫婦神、それに兄神の八重事代主神が配祀されていることは秋宮で触れた。<br />では下社の秋宮と春宮それぞれに祀られているかというと、そうでもない。<br />実は半年ごとに祭神は両宮を行ったり来たりしているのだ。<br />

    諏訪大社下社の祭神が秋宮春宮とも建御名方神と八坂刀売神の夫婦神、それに兄神の八重事代主神が配祀されていることは秋宮で触れた。
    では下社の秋宮と春宮それぞれに祀られているかというと、そうでもない。
    実は半年ごとに祭神は両宮を行ったり来たりしているのだ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 毎年2月1日には御霊代[みたましろ]を秋宮から春宮へ遷座する「遷座祭」が行われる。<br />その半年後の8月1日、今度は春宮から秋宮へ遷座する「下社例大祭」が行われる。<br />夏の例大祭は別名「お舟祭」とも呼ばれている。<br />遷座の神幸行列に続き、青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、氏子数百人の手で曳行されることが名の由来だ。

    毎年2月1日には御霊代[みたましろ]を秋宮から春宮へ遷座する「遷座祭」が行われる。
    その半年後の8月1日、今度は春宮から秋宮へ遷座する「下社例大祭」が行われる。
    夏の例大祭は別名「お舟祭」とも呼ばれている。
    遷座の神幸行列に続き、青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、氏子数百人の手で曳行されることが名の由来だ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 柴船が秋宮へ曳航?されると神楽殿を三巡、神事の相撲三番が行われて式は終了、翁媼人形は焼却される。<br />明治初頭までは柴舟を裸の若者たちが担ぎ街を練り歩いたので「裸祭り」とも呼ばれているそう。<br />ただ、遷座祭で奉献される玉串は榊ではなく、なぜか楊柳(川柳)とか。<br />諏訪大社独特の風習なのだろう。

    柴船が秋宮へ曳航?されると神楽殿を三巡、神事の相撲三番が行われて式は終了、翁媼人形は焼却される。
    明治初頭までは柴舟を裸の若者たちが担ぎ街を練り歩いたので「裸祭り」とも呼ばれているそう。
    ただ、遷座祭で奉献される玉串は榊ではなく、なぜか楊柳(川柳)とか。
    諏訪大社独特の風習なのだろう。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 緩やかな勾配を登っていくと正面に神楽殿が待ち構えていた。<br />秋宮と同様、軒先には巨大な注連縄が張られている。

    緩やかな勾配を登っていくと正面に神楽殿が待ち構えていた。
    秋宮と同様、軒先には巨大な注連縄が張られている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 春宮の神楽殿は数ある大社の建物の中で最も修改築が多い建物。<br />天和年間1680年代のものに最近では昭和11年に大改修が施されている。

    春宮の神楽殿は数ある大社の建物の中で最も修改築が多い建物。
    天和年間1680年代のものに最近では昭和11年に大改修が施されている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 神楽殿の右脇に巨大な杉の木が立っている。<br />先端が二股に分かれているが根本で一つになっていることから「縁結びの杉」と呼ばれているそうだ。

    神楽殿の右脇に巨大な杉の木が立っている。
    先端が二股に分かれているが根本で一つになっていることから「縁結びの杉」と呼ばれているそうだ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 「縁結びの杉」の先に、なぜか「上諏訪社」が祀られている。<br />諏訪大社は上下社四宮でひとつの神社のはず。<br />ちなみに上社の祭神は本宮が建御名方神で前宮が八坂刀売神。<br />いずれも下社でも祭神であり、建御名方神が重複していることになる。<br />小さな摂社ではあるが、その存在の陰に諏訪大社の謎が隠されている気がする。

    「縁結びの杉」の先に、なぜか「上諏訪社」が祀られている。
    諏訪大社は上下社四宮でひとつの神社のはず。
    ちなみに上社の祭神は本宮が建御名方神で前宮が八坂刀売神。
    いずれも下社でも祭神であり、建御名方神が重複していることになる。
    小さな摂社ではあるが、その存在の陰に諏訪大社の謎が隠されている気がする。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 中央に幣拝殿、左右に片拝殿という配置は秋宮と同様。<br />だが片拝殿は幅が短く、屋根が片切りになっている点が異なる。<br />秋宮のところでも触れたが、春宮は芝宮長左衛門が請負い、安永9(1780)年に竣工させている。<br />また、秋宮を担当した初代立川和四郎富棟との間には、人間模様を彩る様々な言い伝えが残されている。

    中央に幣拝殿、左右に片拝殿という配置は秋宮と同様。
    だが片拝殿は幅が短く、屋根が片切りになっている点が異なる。
    秋宮のところでも触れたが、春宮は芝宮長左衛門が請負い、安永9(1780)年に竣工させている。
    また、秋宮を担当した初代立川和四郎富棟との間には、人間模様を彩る様々な言い伝えが残されている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 春宮側の人足が秋宮への仕事の邪魔にと夜間に乗じて柱を切りに行くと、それを見越していた和四郎は長めに刻んでいたため、翌日切られた柱は寸法通りスッポリ目的の場所にハマったといわれている。<br />また、先に仕上がった春宮を見に行った和四郎が、正面蘭間の竜を見て「死んだ竜が刻んである」と貶したところ、長左衛門が「悟りを開くと動物でも腹を出して休むのを知らんのか?」と笑い飛ばしたいう。<br />少し遅れて秋宮の竣工の時、長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下にあるのは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑ったという。

    春宮側の人足が秋宮への仕事の邪魔にと夜間に乗じて柱を切りに行くと、それを見越していた和四郎は長めに刻んでいたため、翌日切られた柱は寸法通りスッポリ目的の場所にハマったといわれている。
    また、先に仕上がった春宮を見に行った和四郎が、正面蘭間の竜を見て「死んだ竜が刻んである」と貶したところ、長左衛門が「悟りを開くと動物でも腹を出して休むのを知らんのか?」と笑い飛ばしたいう。
    少し遅れて秋宮の竣工の時、長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下にあるのは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑ったという。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 諏訪高島藩は大隅流の宮大工として当初、村田と伊藤の2家を召し抱えていた。<br />芝宮長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継いだ。<br />最初は村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に芝宮家の養子となり、兄と協力して多くの建築に当たっている。<br />安永6年に下社の建て替えが決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金80両と扶持米80俵で請け負った。<br />それに対し長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと特に願い出て、35両扶持米なしで春宮を引き受け、不足額は自前で工面し、秋宮より一足先に落成させた。<br />さらに、兄の仕事の邪魔になるといって自ら信州を離れ、上州方面に出て仕事をしたという。

    諏訪高島藩は大隅流の宮大工として当初、村田と伊藤の2家を召し抱えていた。
    芝宮長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継いだ。
    最初は村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に芝宮家の養子となり、兄と協力して多くの建築に当たっている。
    安永6年に下社の建て替えが決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金80両と扶持米80俵で請け負った。
    それに対し長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと特に願い出て、35両扶持米なしで春宮を引き受け、不足額は自前で工面し、秋宮より一足先に落成させた。
    さらに、兄の仕事の邪魔になるといって自ら信州を離れ、上州方面に出て仕事をしたという。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 下社の主祭神、建御名方神は良く知られた存在だが、妃神の八坂刀売神についてはよく分からない。<br />もともと建御名方神は日本書紀に登場しないが、八坂刀売神は古事記にすら登場しない。<br />諏訪地方土着の神なのかも知れない。

    下社の主祭神、建御名方神は良く知られた存在だが、妃神の八坂刀売神についてはよく分からない。
    もともと建御名方神は日本書紀に登場しないが、八坂刀売神は古事記にすら登場しない。
    諏訪地方土着の神なのかも知れない。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 諏訪大社は4宮とも本殿が存在しない。<br />その本殿が本来あるであろうという下社で最も重要な場所、御神座とも相殿ともいわれる場所には御神木が立っている。<br />秋宮の一位の木に対して春宮は杉の木。<br />平素山上におられると考えられた神々を、この御神木にお招きし、その神々にお供えする御神宝を祀っていたのが宝殿であり、後に神々に平素お鎮まりを願うために御本殿を作り、今日の一般のお祭りの形式に変化していったものと考えられている。

    諏訪大社は4宮とも本殿が存在しない。
    その本殿が本来あるであろうという下社で最も重要な場所、御神座とも相殿ともいわれる場所には御神木が立っている。
    秋宮の一位の木に対して春宮は杉の木。
    平素山上におられると考えられた神々を、この御神木にお招きし、その神々にお供えする御神宝を祀っていたのが宝殿であり、後に神々に平素お鎮まりを願うために御本殿を作り、今日の一般のお祭りの形式に変化していったものと考えられている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 諏訪大社の象徴ともいえる「御柱[おんばしら]」。<br />四宮すべてに4本づつ聳立している。<br />御神域を囲む四角形の四隅に配置される形状も共通だ。

    諏訪大社の象徴ともいえる「御柱[おんばしら]」。
    四宮すべてに4本づつ聳立している。
    御神域を囲む四角形の四隅に配置される形状も共通だ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 御柱に用いられるのは樹齢150年を優に超えるモミの大木。<br />長さ約17m、直径1m余、重さ約10トンにも及ぶ。

    御柱に用いられるのは樹齢150年を優に超えるモミの大木。
    長さ約17m、直径1m余、重さ約10トンにも及ぶ。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 御神木を中央に挟む形で、左右に御宝殿が立っている。<br />伊勢神宮では遷宮の後に旧殿を取り払うが、諏訪大社では上下社とも旧殿と新殿が平素から並んで立っている。<br />室町時代の記録によると新築後7年間は風雨に晒し清めてから遷座し、旧殿を解体新築して更に7年を経てから御遷座という形式だったよう。<br />だが、江戸時代に入ってからは新築の建物へ直ちに遷座するよう形式が変わり、現在に至っている。

    御神木を中央に挟む形で、左右に御宝殿が立っている。
    伊勢神宮では遷宮の後に旧殿を取り払うが、諏訪大社では上下社とも旧殿と新殿が平素から並んで立っている。
    室町時代の記録によると新築後7年間は風雨に晒し清めてから遷座し、旧殿を解体新築して更に7年を経てから御遷座という形式だったよう。
    だが、江戸時代に入ってからは新築の建物へ直ちに遷座するよう形式が変わり、現在に至っている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 神楽殿を左に回り込むと「筒粥殿」という小さな御社が鎮座している。<br />毎年正月14日夜から15日朝にかけて筒粥神事を執行するための神粥炊き上げ用の社殿<br />土間の中央にある石の円形の囲炉裏は江戸時代初期のものといわれている。<br />大釜の中に米と小豆と葦の筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態によって、その年の豊凶を占うもの。<br />時代によっては作物の種類と品数は異なるが、現在は43種の作物と世の中全般を1本、計44本の筒が使われる。<br />その占いの正確なこと、神占正に誤りなしと七不思議の一つに挙げられている。

    神楽殿を左に回り込むと「筒粥殿」という小さな御社が鎮座している。
    毎年正月14日夜から15日朝にかけて筒粥神事を執行するための神粥炊き上げ用の社殿
    土間の中央にある石の円形の囲炉裏は江戸時代初期のものといわれている。
    大釜の中に米と小豆と葦の筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態によって、その年の豊凶を占うもの。
    時代によっては作物の種類と品数は異なるが、現在は43種の作物と世の中全般を1本、計44本の筒が使われる。
    その占いの正確なこと、神占正に誤りなしと七不思議の一つに挙げられている。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 境内の西側に「万治の石仏」への案内板が立っている。<br />矢印の方向へ向かって下り坂をユルユル歩いていく。

    境内の西側に「万治の石仏」への案内板が立っている。
    矢印の方向へ向かって下り坂をユルユル歩いていく。

    諏訪大社下社春宮 寺・神社・教会

  • 坂の先に川が流れている。<br />社殿の西方、境内の脇を流れる清流「砥川」。<br />向こう側に渡ろうと川岸を歩いていると「おんばしら館よいさ」という建物が見えた。<br />平成28(2016)年4月25日にオープンしたばかりの新しい施設。 <br />御柱祭の模様を映像で紹介するほか、おんべ(御幣)や長持など実際に用いられた衣装や道具を展示。<br />御柱がたどる経路のうち「伐採」「山出し」「里曳き」のポイントを模型で紹介。<br />FRP製の模擬御柱に乗って、華乗(柱に乗る人)目線で木落し坂を下る躍動感を体験できる装置もある。<br />ちなみに次回の御柱祭は平成34(2022)壬寅年に開催される。

    坂の先に川が流れている。
    社殿の西方、境内の脇を流れる清流「砥川」。
    向こう側に渡ろうと川岸を歩いていると「おんばしら館よいさ」という建物が見えた。
    平成28(2016)年4月25日にオープンしたばかりの新しい施設。 
    御柱祭の模様を映像で紹介するほか、おんべ(御幣)や長持など実際に用いられた衣装や道具を展示。
    御柱がたどる経路のうち「伐採」「山出し」「里曳き」のポイントを模型で紹介。
    FRP製の模擬御柱に乗って、華乗(柱に乗る人)目線で木落し坂を下る躍動感を体験できる装置もある。
    ちなみに次回の御柱祭は平成34(2022)壬寅年に開催される。

    おんばしら館 よいさ 名所・史跡

  • 諏訪大社といえば「御柱祭」…正式名称は「式年造営御柱大祭」。<br />日本三大奇祭の1つに数えられているが、世に奇妙な祭りは結構あり果たして3つに収まるかどうかは微妙だ。<br />御柱祭は7年ごとの寅と申の年、山中で選りすぐられた16本が里へ曳き出され、四宮の社殿の四隅に立てられる。<br />テレビでは「御木曳」や御柱を建てる場面だけ切り取られて報道されるので、奇妙な祭りに映るのかも知れないが、実際は御宝殿の造り替えも含めて「御柱祭」なのだ。<br />室町時代の文献「諏訪大明神画詞」には、平安初期の桓武天皇時代に「寅、申の干支に当社造営あり」との記録が残されているそう。<br />なお、起源については諸説あり定まっていないそうだ。

    諏訪大社といえば「御柱祭」…正式名称は「式年造営御柱大祭」。
    日本三大奇祭の1つに数えられているが、世に奇妙な祭りは結構あり果たして3つに収まるかどうかは微妙だ。
    御柱祭は7年ごとの寅と申の年、山中で選りすぐられた16本が里へ曳き出され、四宮の社殿の四隅に立てられる。
    テレビでは「御木曳」や御柱を建てる場面だけ切り取られて報道されるので、奇妙な祭りに映るのかも知れないが、実際は御宝殿の造り替えも含めて「御柱祭」なのだ。
    室町時代の文献「諏訪大明神画詞」には、平安初期の桓武天皇時代に「寅、申の干支に当社造営あり」との記録が残されているそう。
    なお、起源については諸説あり定まっていないそうだ。

    おんばしら館 よいさ 名所・史跡

  • 社殿の西方境内の脇を流れる清流「砥川」に「浮島」という中洲がある。<br />そんなに大水が出ても流れず下社の不思議の一つになっているそう。

    社殿の西方境内の脇を流れる清流「砥川」に「浮島」という中洲がある。
    そんなに大水が出ても流れず下社の不思議の一つになっているそう。

    浮島神社 寺・神社・教会

  • 浮島に鎮座する御社は「浮島社」といい、清め祓いの神様が祀られている。<br />今でも6月30日の「夏越の祓」は、ここで行われている。

    浮島に鎮座する御社は「浮島社」といい、清め祓いの神様が祀られている。
    今でも6月30日の「夏越の祓」は、ここで行われている。

    浮島神社 寺・神社・教会

  • 砥川に沿って歩いていくと、清流に面した扇状地の一角に巨大な石仏がポツンと佇んでいるのが見えた。<br />石仏の形状が露わになるにつれ、そのユニークな姿に心が躍る。<br />

    砥川に沿って歩いていくと、清流に面した扇状地の一角に巨大な石仏がポツンと佇んでいるのが見えた。
    石仏の形状が露わになるにつれ、そのユニークな姿に心が躍る。

    万治の石仏 名所・史跡

  • 明暦3(1657)年、諏訪高島三代藩主忠晴が春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした折。<br />命を受けた石工が、この地にあった大きな石にノミを打ち入れた時、その石から血が流れ出た。<br />驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、この不思議な石に改めて阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立された。<br />それが「万治の石仏」誕生の由来という。<br />左袖に「南無阿弥陀仏」と刻まれていることから、建立の願主は浄土宗の僧侶と推測される。<br />万治の石仏[マンジノセキブツ]という呼称の「万治」は、願主が刻字した万治3(1660)年に由来する。

    明暦3(1657)年、諏訪高島三代藩主忠晴が春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとした折。
    命を受けた石工が、この地にあった大きな石にノミを打ち入れた時、その石から血が流れ出た。
    驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、この不思議な石に改めて阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立された。
    それが「万治の石仏」誕生の由来という。
    左袖に「南無阿弥陀仏」と刻まれていることから、建立の願主は浄土宗の僧侶と推測される。
    万治の石仏[マンジノセキブツ]という呼称の「万治」は、願主が刻字した万治3(1660)年に由来する。

    万治の石仏 名所・史跡

  • 万治の石仏は安山岩で造られている。<br />高さは2m60cm、横は3m80cm、奥行きは3m70cm。<br />想像している以上に大きく、見た目以上に威圧感がある。<br />胴体の上に乗ってる頭部は縦の長さ65cm、顔周りは1m38cmもある。<br />石仏の胴体部分と頭部に統一感がなくバラバラに見えるのは、造営が一部未完成だったことがから察せられたものと思われる。<br />この違いについては未だに解明されず謎となっている。

    万治の石仏は安山岩で造られている。
    高さは2m60cm、横は3m80cm、奥行きは3m70cm。
    想像している以上に大きく、見た目以上に威圧感がある。
    胴体の上に乗ってる頭部は縦の長さ65cm、顔周りは1m38cmもある。
    石仏の胴体部分と頭部に統一感がなくバラバラに見えるのは、造営が一部未完成だったことがから察せられたものと思われる。
    この違いについては未だに解明されず謎となっている。

    万治の石仏 名所・史跡

  • 万治の石仏が知られるようになったのは、20年近く前に御柱祭を見学に来た岡本太郎や新田次郎らが偶然この石像を見て感嘆し、講演や雑誌の記事などで世間に広く紹介したのがきっかけ。<br />石碑に刻まれた揮毫は岡本太郎画伯によるものだ。

    万治の石仏が知られるようになったのは、20年近く前に御柱祭を見学に来た岡本太郎や新田次郎らが偶然この石像を見て感嘆し、講演や雑誌の記事などで世間に広く紹介したのがきっかけ。
    石碑に刻まれた揮毫は岡本太郎画伯によるものだ。

    万治の石仏 名所・史跡

  • 再び石鳥居の前に戻り、手水舍の前から秋宮へと繋がる細い横道へ。<br />少し行くと不思議な三叉路があり、道案内の石碑が立っている。<br />「左 諏方宮 右 中山道」<br />右の坂を登っていくと中山道に出る。<br />だが、それは国道142号線、つまり新道であり。<br />この古びた細い道こそ、本来の旧中山道である。<br />

    再び石鳥居の前に戻り、手水舍の前から秋宮へと繋がる細い横道へ。
    少し行くと不思議な三叉路があり、道案内の石碑が立っている。
    「左 諏方宮 右 中山道」
    右の坂を登っていくと中山道に出る。
    だが、それは国道142号線、つまり新道であり。
    この古びた細い道こそ、本来の旧中山道である。

    甲州街道 中山道合流の地碑 名所・史跡

  • 三叉路の少し先に石碑が立ち並ぶ一角があった。<br />「白華山慈雲寺」の寺号標が立ち、奥に参道が続いている。<br />石塚の中に龍の形状をした水口がある。<br />江戸時代中期、慈雲寺への参拝者のために作られたもの。<br />同時に、中山道を往来する旅人の喉も潤していたそうだ。

    三叉路の少し先に石碑が立ち並ぶ一角があった。
    「白華山慈雲寺」の寺号標が立ち、奥に参道が続いている。
    石塚の中に龍の形状をした水口がある。
    江戸時代中期、慈雲寺への参拝者のために作られたもの。
    同時に、中山道を往来する旅人の喉も潤していたそうだ。

  • 龍の口を過ぎたその少し先に、木造二階建ての古い日本建築が見えた。<br />伏見屋邸という旧商家で建てられたのは1864(元治元)年と推定。<br />これを復元、修理して観光客の休憩や住民の交流の場として無料開放している。

    龍の口を過ぎたその少し先に、木造二階建ての古い日本建築が見えた。
    伏見屋邸という旧商家で建てられたのは1864(元治元)年と推定。
    これを復元、修理して観光客の休憩や住民の交流の場として無料開放している。

    伏見屋邸 名所・史跡

  • とはいえ旧中山道沿いには神社仏閣を除けば、これといってクラシックな建物は見当たらない。<br />近代的な住宅が立ち並ぶごく普通の一般道。<br />やがて道の両脇に再び古風な建物が姿を現し始めた。<br />下諏訪の温泉街に入ったようだ。<br />ここには「旦過の湯」という有名な公衆浴場がある。<br />八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れてしまい、外れた箍[たが]が転がってきた場所が「タンガ」と呼ばれるようになったというのがその名の由来。<br />また、龍の口のところで登場した慈雲寺の寮「旦過寮」がこの辺りにあり、そこから「旦過の湯」と呼ばれるようになった…とも伝わっている。

    とはいえ旧中山道沿いには神社仏閣を除けば、これといってクラシックな建物は見当たらない。
    近代的な住宅が立ち並ぶごく普通の一般道。
    やがて道の両脇に再び古風な建物が姿を現し始めた。
    下諏訪の温泉街に入ったようだ。
    ここには「旦過の湯」という有名な公衆浴場がある。
    八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れてしまい、外れた箍[たが]が転がってきた場所が「タンガ」と呼ばれるようになったというのがその名の由来。
    また、龍の口のところで登場した慈雲寺の寮「旦過寮」がこの辺りにあり、そこから「旦過の湯」と呼ばれるようになった…とも伝わっている。

    旦過の湯 温泉

  • やがて旧道は国道142号線と合流して一本の中山道になり、秋宮へ続く。<br />その途中「甲州街道 中山道合流之地碑」がある。<br />下諏訪は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町。<br />と同時に甲州街道の終点でもある。

    やがて旧道は国道142号線と合流して一本の中山道になり、秋宮へ続く。
    その途中「甲州街道 中山道合流之地碑」がある。
    下諏訪は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町。
    と同時に甲州街道の終点でもある。

    甲州街道 中山道合流の地碑 名所・史跡

  • この碑の奥には「綿の湯」がある。<br />八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。<br />ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここに着く頃には一滴もなくなっていた。<br />しかし漏れた温泉のおかげか諏訪湖中から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。<br />一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これでは化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。<br />それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそうだ。<br />なお「綿の湯」は公衆浴場ではなく、現在はその跡だけが大切に保存されている。<br />「綿の湯」の隣には下諏訪宿の旧本陣が今も残り、ここが中心部であったことを物語っているようだ。

    この碑の奥には「綿の湯」がある。
    八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。
    ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここに着く頃には一滴もなくなっていた。
    しかし漏れた温泉のおかげか諏訪湖中から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。
    一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これでは化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。
    それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそうだ。
    なお「綿の湯」は公衆浴場ではなく、現在はその跡だけが大切に保存されている。
    「綿の湯」の隣には下諏訪宿の旧本陣が今も残り、ここが中心部であったことを物語っているようだ。

    下諏訪温泉 温泉

  • 両街道合流の地から駅に向かって伸びる細い下り坂をダラダラと歩く。<br />道の両側には歴史民俗資料館や儀象堂など小さくはない博物館が立ち、下諏訪という町の懐の深さが味わえる。

    両街道合流の地から駅に向かって伸びる細い下り坂をダラダラと歩く。
    道の両側には歴史民俗資料館や儀象堂など小さくはない博物館が立ち、下諏訪という町の懐の深さが味わえる。

    時計工房 儀象堂 美術館・博物館

  • 朝に出立した下諏訪駅に再び戻ってきた。<br />ホームに出ると御柱祭で実際に用いられた御柱が横たわっている。<br />その横には巨魁の綱。<br />御柱を曳く際に用いる曳綱の予備として作られたもので、荒縄を幾重にも縒って作られている。<br />とはいえ、これで諏訪大社の全てに触れたわけではない。<br />いや、むしろ謎は深まるばかり。<br />上諏訪へ向かう電車に乗り、謎の深淵に分け入ることにしよう。<br />

    朝に出立した下諏訪駅に再び戻ってきた。
    ホームに出ると御柱祭で実際に用いられた御柱が横たわっている。
    その横には巨魁の綱。
    御柱を曳く際に用いる曳綱の予備として作られたもので、荒縄を幾重にも縒って作られている。
    とはいえ、これで諏訪大社の全てに触れたわけではない。
    いや、むしろ謎は深まるばかり。
    上諏訪へ向かう電車に乗り、謎の深淵に分け入ることにしよう。

    下諏訪駅

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